統一教会と食口たち
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第五節 統一教会員の生活

一 生活の意味と目標

1 私たちの生活がもつ意味

 今日皆さんの生活は、ただ皆さん個人に局限した生活ではありません。全体を代身する生活なのです。(一九五七・一一・一、前本部教会)

 皆さんの生活は時代的な生活であると同時に世界的な生活です。それで救いも個人的な救いではなく、個人を越え、家庭を越え、民族を越え、世界を越え、天宙的な救いでなければなりません。(一九六一・二一一・五、前本部教会)


2 生活統一

 統一教会は生活統一を成さなければなりません。(一九六五・一・二七、前本部教会)

 生活の統一をしなければなりません。生活は戦時態勢のようにしなければならないのです。(一九六三・陰三・一、前本部教会)

 皆さん、私たちの教会はどんな教会ですか?(統一教会です)統一教会でしょう? (はい)それでは統一教会ですが統一ができましたか?(できませんでした)私たち統一教会が今まで主張してきたことは何ですか? 何、理念統一とか、何の行動統一とか、心情統一とか、その次に何ですか?(生活統一)生活統一。こんな統一的な理念を目標にして進んでいるのに今見るなら、すべての私たち食口自体もそうだし、み旨の前において私たち全体に対して見るとき、果たして統一された群れだと見ることができるかというとき、それは疑問です。そうではないですか?

 そうであるなら、統一教会、すなわち統一の道を主張して行く私たちにおいてはまず目的が同じだというのです。この目的が一つの目的です。本来、私たちは、生まれるのはそれぞれ生まれたけれど、その因縁の幹には一つの目的を中心にして同等だというのです。同じ因縁を持っています。その因縁は父子の因縁と同じなのです。本来、天と地を中心にして、私たちが本然の基準から見るとき、父子の因縁を持って生まれなければならなかったのに、それを人間が堕落することによって失ってしまったのです。(一九六五・一・二八、前本部教会)

 すでに皆さんは神様の心情と通ずることのできる心、神様の法度に通ずることのできる自分の体を持たなければなりません。そうなればここにはどんな間違いも摩擦も起こりえません。ただここには神様を中心とした理念統一、行動統一、生活統一だけがあるのです。同じくそうなるとき、神様がこの地上に臨在され、永遠の安息所を訪ね、人間と一緒に永遠に楽しまれるのです。(一九五八・一・一二、前本部教会)


二 真なる生活

1 統一教会員の生活観

 統一教会員たちは、かわいそうな孤児のような立場にいるこの民族と世界人類を、心から同情しながら愛さなければなりません。兄の立場で、姉の立場で、さらに父母の立場で愛そうというのが統一信徒たちの聖なる思想であり、生活観であることを知らなければなりません。のみならず、神様が頭を下げ同感し、神様の慈悲と栄光が宿ることができ、無限な価値と無限な尊さが宿ることのできる、たった一つしかない願い、統一教会が主張するたった一つ願いは何か? それは、失った真の父母を探そうということです。真の父母を探し、父母と出逢い、孤児の身を免れる喜びがあるなら、父母に会うその場には自分の権威のようなものは問題にならないのです。同じく、父母に会えるその国がどの国であれ、それが問題にならないのです。世界の何であれ問題にならないのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 では、今まで皆さんの生活観はどうだったでしょうか? 自己を中心とする生活観、自己のための生活観だったでしょう。「あー、大変なのに私が話して何をするのか、何、他の人がするならして、お前たちしたいようにしろ」と言い、自己の責任をだれに譲れるのですか? 「私は朝食を食べなくてもいい。あなたが私の代わりに朝食を食べてくれ」としたら死ぬのです。絶対的な責任があるのです。自己が一生に守っていかなければならない責任、これは絶対不可侵権です。個性真理体に付与された特権です。(一九七二・八・一八、清平修練所)

 私たちの生活権はこうならなければなりません。お金が生ずればそれを何のために使わなければならないでしょうか? その国のため、その世界のため使わなければなりません。お金を稼ぐのもその国のため、その世界のために稼がなければならないのです。目的がそこにあるべきです。

 全部世界のみ旨、神様のみ旨のため生活しなければならないのです。神様は、ある民族を中心にして、この世界を統一しようとするのではありません。善なる人を中心に世界を統一しようとするのです。

 苦難と対決する姿勢を中心にし、彼らと私たちを見るなら、彼らと私たちとの価値は違います。彼らはこの道を逃避しようとしますが、私たちは受けながら行きます。ここから主人と僕が分けられるのです。(一九六九・一二・一四、前本部教会)

 私たち人間において、生活と生涯がありますが、生活と生涯は違います。生活は、毎日を描いていくことですが、生涯というのは、少年、青年、老年の時代を経てゆくのです。ところが、生活の目的と生涯の目的がぶつかる生活をする人は不幸な人です。なぜそうなのですか? 今日の生活は永遠を結ぶための一つの細胞と同じだからです。(一九八八・三・一三、本部教会)


2 生活の法度

 皆さんは、皆さんの父母が好きで必要とします。いつでも父母に会いたがり、共にいたがります。それはなぜでしょうか? 何ゆえですか? 年齢から見ても差があり、また、秩序的段階を見ても、これは上下の関係があるからです。それで、そこには礼を備えなければならないのです。複雑な礼を備え尊敬し、孝行をしなければなりません、このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において一つは主体であり、一つは相対の位置に立たなければなりません。ここには、ある面で親孝行者になろうとすれば、従順とか服従という内容を介在させ、私が会いたがらなければならないのです。これが父子関係です。(一九八一・四・一九、本部教会)

 今、皆さんは生活の中に法度を守るすべを知らなければなりません。皆さんは、天が要求される、天国建設のための天国の法度を守るすべを知らなければなりません。また、天国法度を守るすべを知ると同時に、天国生活をするすべを知らなければなりません。そして天国生活をするすべを知ると同時に、天国の愛で一つにならなければなりません。

 では、神様が天国を復帰するために今まで役事してきたのに、私たちは何を中心にして天国の法度を守らなければならないのでしょうか? イエス様を通じ私たちに伝えてくれた聖書のみ言を中心にして、天国の法度を守らなければなりません。み言が即ち天国の法度であり、み言を中心に生きなければなりません。ここに皆さんの道があります。特に皆さんは聖書のみ言を通じ、内的な事実を証す原理のみ言を中心にし、天国法度を守り生きなければなりません。(一九五六・一二・三〇、前本部教会)

 私たちは超民族的な超国家的な伝統を立てて行かなければなりません。その伝統を立てるのには、私たちの勝手にするのではなく、神様が望むように、伝統の相対的基盤をならしていかなければなりません。ですから、皆さんたちの習慣性であるとか、過去の風習であるとか、現在盛行する流行であるとかいうことに歩調を合わせるのではありません。違うのです。完全に違うということを、皆さんは知らなければならないというのです。そうですか、そうではないですか?(そうです)

 そのような観点から見るならば、皆さんが振舞うことであるとか、座ることであるとか、すべてのことが法条化されなければならないのです。先生に対するときの挨拶法のようなものは、法条化されなければならないのです。先生に対するときの挨拶法のようなものもすべて・・・。すごいのです。それはすべてあることではないですか? そうではないですか? 一軍隊もそんな法がすべてあるのに、そうではありませんか? そうではありませんか? 皆さんは、勝手にこうして座って、あるときはこうして机の上に脚をばんとのせて・・・。それ、どうやって座るのか考えてみるべきだというのです。アメリカの風習を見るなら、テーブルのようなところに足もこうして上げて座るのです。こうして座って・・・。(笑い)それ、すべて通ずると思いますか? それ、すべてどうなることなのか考えてみなさいというのです。

 その世界を見るなら、すべてがハーモニーになるようになっているのです。ぎこちないところがないように自然らしくありながらも、全部和合するのに一つの刺激的な動機になりうるようになっているのであり、そのように見たくないのに注目するようにはなっていないのです。

 例を上げて言えば、私がここで話すとき、皆さんが来てさっと座るときは、自分の角度が先生との間に何度になるかを測定しなければならないのです。測定して対する法があるというのです。こうして対するには(身振りで説明されながら)体をこうしてするか・・・それで体をこうして・・・。これはいけないのです。すべて法があるのです。何度なのか見てからその角度に合わせるようになっているのです。

 そのような何かがあるのではないですか? 何か基準があるのではないですか? 堕落する習慣に対するすべてのことを是正するための新しい法が、私たちの前にはたくさんの法的過程が待っていることを皆さんは知らなければなりません。それを越えて行かなければならないのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)


3 真なる生活

 数多くの人たちが神様のみ旨を賛美しますが、私たちは神様が苦労された功を賛美しなければなりません。同じく、私の一切を忘れてしまい、神様による私の感情と生活全体にならなければなりません。どうすれば一時的でない永遠な因縁で残れるのかという問題を中心に、自己の生活を秤りにかけながら生きなければならないということを忘れてはいけません。

 真なる生活は真なる一日から始まり、真なる一日は真なる瞬間から始まります。それにより、真なる瞬間のような一日、真なる瞬間のような一年、真なる瞬間のような一生をどのように継続していくのか、ということが皆さんの生涯に残された課業です。

 ある者は自分勝手に「こうして生きるのが私の一生だ」といいながら、一時しかない青春時代をむなしく流し送ってしまいます。そのような生活は大変ありふれた生活です。そのような人はサタンも嫌います。サタンも嫌うことを神様が好む訳がありますか? サタンもうらやましがり、神様もうらやましがる生活をするなら残ります。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 それゆえ、真なる生涯を残さずには従っていけません。霊界に行けば、自分の一生がありのままに明されるようになっています。私が小さいときはどうであり、育ったときはどうしたかという内容がスイッチさえ押せば全部現れるのです。このようなことを見るとき、天上世界の人や、今後数多くの後孫たちもうらやむことができ、涙を流しながら自慢しないではいられない尊い生涯を残して行く人は、偉大な勝利者というのです。そんな勝利者になるために、真なる生涯を残そうと覚悟して行く皆さんにならなければなりません。分かりますか?

 一瞬、一瞬、死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで訪ねこられたこの一時を、無意味に失ってしまう人になってはいけません。これは千年史を置いても変えられない価値を持っているので、これを逃せば大変です。この世すべて失ってしまい、探したものをすべて逃しても、これだけは絶対逃さないと誓う皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行こうと、もう一度誓いながら、あらゆる精誠をすべて尽くしながら行かなければなりません。

 皆さんには、ただ一度だけしかない七、八十年の生涯ということを知らなければなりません。私たちの生涯にあって苦労の路程がいくら長いといっても、永遠に比べれば、ひと息つく時間にもならないという瞬間なのです。そうでしょう? (一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 それでは、金某なら金某、朴某なら朴某は、いつから真なる生活を始めるのですか? 生活はまさに一日一日を中心に生きて行くのです。一日一日の生活の中で、真なる生活をいつも連続させなければ、真なる生涯にならないのです。真なる生活を通じ、無限な生の価値をたたえ、無限な勝利を誓えない人は、生涯の真なる価値と、生涯の真なる勝利を誓えないのです。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)


4 生活の基準と基盤

 皆さんたちの個人の生活も、先生の生活基準に基づき測定されるべきです。先生の生活が自己を中心とする生活ではありません。皆さん個々人、金某個人としての男、金某個人としての女が、全部自分の利益を追求してはいけません。天上世界に行ってみろというのです。(一九八七・六・七、本部教会)

 神様は、私たちの体を認めません。なぜならば、堕落の後孫であり、堕落の血統を持って生まれた私たちの体だからです。また、神様は、皆さんが今まで持っている良心をある程度は受け入れられますが、全体的には受け入れられません。皆さんの良心は、環境の支配を受けています。神様が立てた本然の良心の基準は、今皆さんが持っている良心が基準ではありません。神様の良心が基準です。また、体も皆さんの体が基準ではなく神様の体が基準です。また、生活も皆さんの生活が基準ではなく神様の生活が基準です。この生活を通じた環境があり、環境を通じた理念の世界があるのです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日皆さんは皆さんの回りに起きている、すべての事実を鑑別するすべを知らなければなりません。農夫が収穫期を迎え、穀物とエノコロ草、稗と穀物を分別するすべを知らなければならないように、皆さんも神様とサタンの行為を分別し、その結果を鑑別するすべを知らなければならないのです。

 今、皆さんはどんな人にならなければなりませんか? 収穫の喜びを味わう人にならなければなりません。皆さん自身が父の前に潔く立てられる人にならなければなりません。エノコロ草の実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければならないのです。それゆえ、今日皆さんは、真の穀物として育つことのできる天の恩賜を正しく受けられなければならないのです。

 そして皆さんは、天が恩賜を下さるその時を知らなければなりません。神様が堕落した人間を救援するための新しい摂理の時がどの時なのかを知らなければならないのです。皆さんは、神様の新しい摂理の時を迎え、エノコロ草のような立場にならず、真の穀物の実として実るため、すべてを正しく分別できなければなりません。

 ところで、人間は六千年の歴史の中で、まだ真と偽りを正しく分別できません。人類歴史を代表し、真の穀物として実を結ぶ者がまだ一人もいないのです。歴史以来、たくさんの人間たちが一様に願った実を結ぶ人がいないのです。唯それを取り入れるため生きられた方がいるなら、その方がまさにイエスキリストだったことを皆さんは知らなければなりません。

 今日皆さんは、人間がどのみち結ばなければならない実がどんな形で結ばれるのかを心配し、渇望する心で、生命の道を目指して行くべきです。それで自身が生命の道にさしかかり、新しい第二の生命を誕生させられる姿にならなければならないのです。

 皆さんの心には常に真のものだけがあるのではありません。皆さんの心という畑には、真の穀物が植えられもし、エノコロ草が植えられもするのです。単純に皆さんが留まるその環境にだけエノコロ草が植えられているのではなく、皆さんの心の材料に堕落の要素が残っているのです。それを除去させ、自身の心をならすため、犠牲の道を行かれた方がだれだったかといえば、まさにイエスキリストだったということを、今日皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それでは、皆さんの生活はどうですか? 皆さんが一日一日の生活の中で一度動けば、その行動が真でなければ偽り、二つのうち一つになります。皆さんが見、聞き、言い、感ずるすべてのことが真でなければ偽りだというのです。このように皆さんは自身を中心に起きる、一つひとつのすべての事実が真と偽りとして分別される別れ道に置かれていることを感じなければなりません。

 今日皆さんの心には、カイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にエノコロ草と真の穀物があるのです。それで皆さんがある行動をすれば、常にそれがカイン的だったのか、でなければアベル的だったのかを反省するようになるのです。

 このように、すべてのことはカインとアベルの立場、または縦横の四方性を備え存在しているのです。それゆえ、今日皆さんはどこに行こうともアベルのものはアベルのものとして、カインのものはカインのものとして探し立て、分別できなければなりません。下等動物も自分が食べる草が毒草なのかそうでないのかを分別するのに、万物の霊長である人間が自身にぶつけられるすべての事実を正しく分別するすべを知らずにはいけないのです。だれがカインでだれがアベルなのかをはっきり分別しなければならないのです。(一九五七・一一・一、前本部教会)

 統一教会の食口たちの中には、偽の物差しを持つ人が多いです。もしここに物差しがあるとすれば、実際一メートルはこのぐらいなのに自分勝手に物尺しを作って「このぐらいが一メートルだ」と計ってはいけません。自分勝手に計ってはいけないのです。物差しは必ずメートルの原器を中心にして製作されたものでなければなりません。それで計らなければなりません。言い換えれば、中心を置いて比較した位置で評価しなければならないのです。それでこのような話をしたとしてもそれを中心に計らなければなりません。行動したとしてもそれに合わせてしなければなりません。そうすれば平和の基盤がつくられるのです。統一の圏が開かれるのです。

 統一教会の食口だといいながら、自分勝手に物差しを作って計るのです。それゆえ、皆さんは一日に何度ずつでも中央に来て間違えなかったか比較してみなければなりません。一度計ってみて鑑定し、二度計ってみて鑑定しなければなりません。計りは相対がだんだん変わるのです。

 それゆえ、終わりの日になればなるほど「集まりに力をつくせ」「合わせることに力をつくせ」と言いました。集まり、何をするのですか? 食べて遊ぶのですか? その中心とどのぐらい基準が合い入るのか、平面的だけでなく立体的に一体になっていくのかということを計って見なければなりません。いつも中心との垂直関係を中心にして比較してみなければなりません。その基準を皆さんの生活舞台や活動の基盤のために、一つの中心モデルとして立て、そこに基準を置き、一切を決定していかなければならないのです。万事をすべてそうしなければなりません。

 それゆえ、み旨をはずれた考えは間違いなのです。み旨を脱した行動は間違いなのです。大概、人間世界において、寝て、起きて、来て、行って、良くて、悪くて、この六つの種類に世の万事がすべて入ります。そんな一切の動きをこれを母体にしなければなりません。自分勝手にできないのです。

 皆さんがそんな核心的な基準を中心にして一体化された立場に立ち、世界どこにでも、あるいは高かろうと低かろうと、悪かろうと良かろうと、その心情に適応できる不変体になるときには、永遠な神様の息子であり、神様の娘になるのです。そんな家庭になるときには、永遠な神様の家庭であり、そんな氏族になるときには永遠な神様の氏族であり、そんな国になるときには永遠な神様の国になるのです。(一九七一・一一・一、南山聖地)

 それゆえ世界に散らばっている私たち統一教会の信徒たちが生活するその生活は、別個の生活ではありません。行動的な一致であり、心情的な一致であり、理念的な一致の位置にいるので、これを中心にして生活しなければならないのです。その生活圏内にあって、統一されたこのような過程を経て行かなければならないのです。良くても共に良く、悲しんでも共に悲しみ、泣いても共に泣き、十字架を負っても共に負う、こんな立場に立てなければなりません。(一九六五・一二・七、春川教会)


5 神様と共に生きなければ

 私たちは神様と共に、世界と共に、この宇宙人類と共に存在しようとするのです。私は、私の個体のために存在しようとしないのです。私は韓国人として存在しようとしないのです。統一教会を指導する人として所属されようとするのです。それ正しいですか、正しくないですか?(正しいです)

 そんな存在意識と様式は、初めに愛を持って同じところに向かって犠牲を投入するのです。このような生活様式をもたなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)

 皆さんは涙の谷間で、父を呼ぶとき応答を受けられる息子・娘にならなければなりません。涙する立場で「父よ」というとき「よし、私がここにいるから耐えなさい」、血と汗を流す苦痛がしみ通る立場で「父よ」というとき「私が耐えたのでお前も耐えなさい」、死が迫るその瞬間にも「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞ける皆さんにならなければなりません。そんな立場でどれだけ父に侍り、どれだけ父と共に相談し、どれだけ父と共に暮らしたかというのが問題になるのであり、永遠の立場では父をどんなに呼んだとしても問題にならないのです。なぜなら、今だに父は永遠の日を見られないからです。(一九六一・二・一二、前本部教会)


6 一日の生活の重要性

 私たちの生涯というのは一生を置いて言うことで、生活は一日一日を置いて言うことです。それでは真なる生涯を残すためにはどうしなければならないのか? 真なる一日一日の生活をしなければならないのです。もし一日の生活が失敗に終われば、一生失敗の要因を持つことになるのです。それにより私たちが生きていく一日一日の生活がどれだけ緊張する生活でなければならず、どれだけ多くの決判の闘いをしなければならない生活なのかを、私たちは知らなければなりません。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 私たちが一日一日生活するときにおいて、その瞬間を置いて見てもその瞬間は現在でだけ連結されていないのです。現在と言うとき、この現在を切って見れば必ず過去が現在の尖端まで連結されていることを知ることができます。今、私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去が連結されているのです。また、この瞬間には未来、今私が考えている未来が連結されているのです。

 こうして考えれば、真正な現在の基点はどこでしょうか? このとき私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない観念的な境地までの現在を考えずにはいられません。このような現在、ないならなく、あるならあるような現在の一点が、現在の一線が今日私たちの日常生活の方向を左右しているのは、恐ろしくも驚く事実であらざるをえないのです。

 一日を置いて見れば、そこには昨日があり、明日があるのです。ひと月を中心にして見れば、先月があり来月が来るのです。一年を中心にして見れば、去年があり来年が来るのです。青年時代を置いて見れば少年時代があり、未来の壮年時代があるのです。こうして、現時代を中心にして見れば、過去時代があると同時に、未来時代が連結されるという事実を私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というのは、過ぎ行く過程にあるとも見ることができると同時に、これから考えない未来を迎える瞬間点にあるとも私たちは考えられるのです。過去と現在と未来というのは一点で動いているのです。それゆえ、その現在は過去を否定する現在になりえず、未来を否定する現在になりえないのです。

 それでは、現在に輝く価値の基準はどのようなものでしょうか? 輝く過去を受け継ぐ位置であり、輝く未来を立てられる位置でその方向を正しく指示することのできる位置です。そのような位置にならずには、輝く現在の位置を占めることができないのです。(一九七三・八・一、前本部教会)

 私たち人間の一生も幼年時代があれば、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代があります。小さかろうが大きかろうが、ともかくその形態においてはそのような過程を経由しているのです。

 生涯だとするならば一生をいいます。生涯というのは長いことをいいます。生まれ、少年時代を経て、青年時代を経、壮年時代を経、老年時代まで、即ち生まれてから死ぬまでの過程を言うのです。その過程が生活を通じ、連結されるのです。その生活というのは、私たちが一日一日を生きて行くことをいうのです。

 それゆえ、生活が誤るときには、生涯も誤った結果をもたらすのです。いくら立派な生涯を残そうとしても、一日一日の生活が誤るときには、その生涯が必ず誤った結果に到達することはどうすることもできない結論なのです。

 これを置いて見るとき、信仰者として一番重要視しなければならないことは何でしょうか? 自己の一生を中心にして神様のために捧げようと誓っても、その誓うことが問題ではなく、どれだけ正しく捧げる一日一日の生活だったのかが問題なのです。その基盤を引き続けられる一日の生活を生涯のどんな価値より、より重要視せずには、甲斐ある生涯が現れないのは言うまでもないのです。

 こう見るときに、私たちは一日を何気なく始めますが、この一日は私たちが望む永遠なみ旨の目的と方向が行き違って行くのか、正しく行くのかということを決定する一日だということを常に考えなければならないのです。考えもしない不意の行動により、永遠なみ旨の道の前に反逆者になりうることも一日の生活の中で起こるのです。これをもっと細分して見れば、一時間圏内にもそのようなことの境界線が左右されるのです。その一時間、あるいは一分、一秒が問題なのです。その一分一秒が間違えば、この方向が永遠に行き違うこともありうるのです。こんな重大な問題が、今日一日よりは一時間、更には一分にあり、一瞬に左右される事実を考えるときに、今日一日を重要視することより一時間を重要視しなければならず、一時間を重要視することより一分、一秒を重要視しなければならないのです。こんな問題が私たちにかけられているのを考えなければなりません。

 私たちが永遠な世界に行き、永遠に神様のみ旨の中で生活するようになるときに、盲目的であり、無秩序で、無方向である立場でするのではなく、永遠なあるみ旨を中心とする生活から永遠な生涯が始められるのではないかというのです。このような問題を考えるとき、私たちが生きている一日の生活というのがどれだけ深刻な生活なのかというのです。死ぬ事も一瞬間に決定するのです、生まれるのも一瞬間に決定するのです。私たち人間が生まれ、死ぬのが、一瞬間に起こり、私たち人生の運命が一時間、一分、一秒、一瞬に左右されるとするとき、私たちが生きる一日の生活自体が最も重要だということを知らなければなりません。

 私が悲しむのもこの瞬間から始められるのです。一日を計画し、その計画どおり悲しむのではありません。もちろん悲しみの動機はあるでしょうが、悲しいという事実は瞬間に結論づけられるのです。嬉しいというのも、やはり朝のように、昼のように、夕のように、夜のように過程を経るでしょうが、その喜びというのが終点を見ることのできる視点は、瞬間ではないのかというのです。このような問題を置いて見るとき、私たちが一回呼吸をし、一回動作するのもみ旨と共に一致させられるようにしなければいけないのです。

 事実、私たちの一生をグラフで描いて見るなら、ありとあらゆる絵が描かれるのです。皆さんの一日をグラフで描いて見るとします。どんな事をしたのでしょうか? ある時には友達と会い、ある時にはだれかと会い、どこでだれと喧嘩をし、こんなことをグラフで描いたらそれこそ万物相を描きながら生きるのではないでしょうか。また、見て聞く一日のすべての感じと行動する全部が違うのではないでしょうか。それを総合して見るとき、その方向がどこに向かっているのでしょうか? その方向が決定される生活をしているということを、私たち人間は忘れやすいのです。「左側にどの位来たから、右側に行こうとすれば何度の角度で来たから何度の角度で折り返し帰らなければならない」ということを今日の人間たちは考えるでしょうか? 考えません。私は当然に正しい方向に一致した位置で出発し、今も進んでいるという習慣的な観念にとらわれていることが私たち人間の生活ではないのでしょうか。それが弊害です。

 羅針盤のように、どの位角度が違ったかということを知り、これを自然に操縦できる作用をすれば分かりませんが、操縦できなくなるときには、私が故意にその作用をして方向を合わせることをしなければならないのではないのでしょうか。これがこの世界の人間の中で、彼らとは違う生活をしている信仰者の生活ではないのかというのです。(一九七二・六・四、前本部教会)

 皆さんのひと足跡、ひと足跡にもサタンの道があり、天の道があるのです。二股です。見るもの、聞くもの、万事が二つに分けられているのです。それで、皆さんたちが入ったり出たりするのです。では、そんなに入ったり出たりすれば前進しますか、後退しますか?(後退します)(一九七九・一・一七、ベルベディア修練所)


三 生活方法

1 どのようなことが豊かに暮らすことか

 今の皆さんは前後関係がなく、行く道が広く果てしないのです。生きる方法を知りません。話し方も知りません。習うことはすべてサタンから習うのです。

 人々は世の中を悲観します。それは、どのように生きていかなければならないかを学べなかったからです。堕落し、父母を知らなかったからです。それで今、天地の父母、上下前後を教えられる父母の因縁を知らなければなりません。(一九六二・一〇・一九、前本部教会)

 皆さんは、今、統一教会を信じ、豊かに暮らさなければなりませんが、どんなことが豊かに暮らすことですか? 何、車でも乗り回し、何、御飯やら食べれば、豊かに暮らすのではありません。神様が皆さんを見たとしても恥じることがないようでなければいけません。(一九八七・四・一八、漢南洞公館)


2 中心を探し生活しなければ

 それでは、統一教会員はどういう生活をしなければならないのでしょうか? 統一教会で生きる方法は何でしょうか? 何によりどういう生活をしなければならないのでしょうか? 原理生活ですが、愛を中心とした原理生活なのです。ご覧なさい。神様、アダムとエバ、三段階ですが、この三段階が横的に展開されなければならなかったのに、それがなされなかったのです。アダムとエバは縦的になり、天使長は横的基準で、平面的基準を所有できる位置に立とうとしたのです。ところが堕落したゆえに・・・。それが縦的にいこうとしたために裏返しされたのです。そこから故障したのです。

 軸がいつでも南北に立っていなければならないのに、この軸が位置をとれず南北にもなり西北にもなって、全部・・・。軸がないのです、軸が。軸がなく回るのは破壊されるのです。宇宙から除去されるのです。

 それですべての生物やすべての存在は、元素世界も必ず軸を中心にして、軸と浮体を中心にして、球形的軸と、球形を従えられる横的な基盤を連結させうる軸の位置を中心として回っているのです。一つの垂直線、水平線をきっかりと合わせ、回っているのです。微生物も、そうなっているのです。このようにして宇宙は、一つの理想的愛の縦横の和動できる理想圏に存続するようになっているのです。それが全部堕落により方向をつかめずにいるのです。この軸が人間と神様と連結されないのです。(一九八八・八・二二、漢南洞公館)

 ところで今日、この世界を見るなら、この世界には中心がありません。世界人類が行くべき中心になるところがどこなのか、ということを知らずにいます。どんなことが善なのか、どんなことが悪なのかを見分けられずにいるのです。個人が行くべき善の位置がどんなところで、家庭が行くべき善の位置がどんな位置で、民族と国家が行くべき善の位置、世界が行くべき善の位置がどんなものなのかを知らずにいるのです。(一九七二・五・二九、中央修練院)

 皆さんは、中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言えば堕落の応報だと言えます。くやしく恨めしい堕落の報いです。(一九六〇・一二・一一、前本部教会)

 私たち人間の願いが何ですって?(中心を捜すことです)堕落で中心を失ったために中心を捜すことが願いではないですか。もちろんそれは個人完成、家庭完成がすべて願いですが、世界史的な塔を築くのにおいては中心、基点を捜し戻すことが願いではないですか。その基点は世界の基点になるのであり、国の基点と通じることができるのです。その次には民族の基点になるのであり、氏族の基点になるのであり、家庭の基点になるのであり、天の基点になり、妻の基点になるのです。

 ところで皆さんは、必ず毎日のようにその基点と共に「私は何度出た。今何メーター出た」という過程で生きているということを知らなければならないのです。それゆえ、これを知らずに生きる人は中心を持てない人です。統一教会を中心にして見れば、統一教会の中心存在がだれかというとき、憎かろうとやさしかろうと先生だというのです。それでは先生がどこにいるのですか? アメリカに行っているときは、アメリカに向かい、統一教会の教会員たちは全部回らなければなりません。

 先生を中心にして見れば、先生はアメリカにいても、青坡洞を中心にして、今何キロメーター出たのかと考えます。また、清平へ行けば何キロメーター行ったのか、南側なら南側、北側なら北側にどれだけ出たのか、いつでもその中心に侍り、中心と上がるのか、下がるのかを考えなければなりません。毎日のように中心を考えなくてはならないのです。だからといって、先生を考えなさいというのではありません。先生を考えるなら考え、考えないなら考えず、それはいいですが、神様のみ旨とすべての事例においては、中心がなければなりません。

 十回回ったとするのは何を中心に言うのかというと、出発基点から中心を中心にして、その中心が十回転回れば端も十回転回るのです。回り始めるとき、何が初めに回らなければならないのですか? 表面が初めに回るのではなく、中心が初めに回り始めれば、一つになるのです。こまが中心を取らない状態で回ったなら、それは千回まわるとしても一回まわったとみなせないのです。中心を取ってひと回りでも回ればこそ、一回りと言えます。こうなるのです。分かりますか、何の話しか?(はい)

 世界は中心がありません。キリスト教で見れば、キリスト教の中心であるイエスからみな離脱したでしょう? アメリカがキリスト教を中心にして回る時は栄えました。中心がなければ壊れるのです。人が中心なのですか? 人を見なさい。人の心は朝夕に変わり、山の色は昔も今も同じだというように、人の心は朝夕に変わるのです。一日に十二回も変わるのです。そうでしょう? 皆さんの心を皆さんは信じられますか? そう、人の主張を信じられるのかというのです。それゆえ、どんな学説でも時代に伴い変わりうるのです、真理が決定される前には。

 地には中心がないではないですか? それゆえ、そのような中心を天は送ってあげなければならない責任があります。そうでなければ天はないのです。だからそんな時を迎え、中心の前に相対できる私として準備しなければ、その中心に会ったとしても関係を結ぶことができないのではないのでしょうか。私たち人類の願いは何ですか? 中心と会うことです。人類が中心と一つになれば、人類は家庭も捜すことができ、氏族も、民族も国家も全部捜すことができるのです。(一九七二・一一・一、前本部教会)

 神様の生命と神様の愛を押し出せるのは、この地の上に何もありません。そして、私たちが真理に近ければ近いほど、真理に心酔するほどその真理は一層だれも奪って行けない中心になるのです。千万回混乱する地といえども、宇宙が不意に破壊されるとしても、そんな中心を心に確実に立てた人は決して変わらず、動揺もしないのです。(一九五七・三・一七、前本部教会)


3 為にする生活をしなければ

 先生の理論の中で一番重要なのが、「為に」です。愛を中心にしては神様も為にするために自己のすべてのものを投入します。完全に投入するなら、ここは完全真空になりそこは完全に高気圧になり、くるっと回って行くのです。分かりますか? 高気圧圏が完全に投入するなら、低気圧になるでしょう? 高気圧が完全に与えれば、ここは低気圧になるでしょう? そこは高気圧になるというのです。それではどうなりますか? 回って行くのです。それは完全に与えようとするときはすべてのものを占有する、そういうことです。(一九八七・一〇・三一、漢南洞公館)

 成功しようとする人は、相対世界を成功させなければなりません。分かりますか? それゆえ、このような観点で統一教会では「為に生きろ!」そういうのです。為に生きるために生まれました。創造は神様自身全体の投入で、神様も愛を中心にして、愛のために創造したというのです、ために。世界が今まで「私のために生きよ」としてきました。それが罪です。堕落です。出発から誤ったのです。為に生まれたのです。全部そう考えるのです。私の生は父母のために生まれたのです。全部そう考えるのです。私の生は父母のために受け継ぎ、夫は妻のために受け継ぎ、兄弟のために受け継ぎ、この国のために受け継いだのです。為に生まれたのです、世界のために。

 それゆえ、レバレンド・ムーンの思想が、今後、今から二十世紀をすぎ、二十一世紀において主体思想として登場できるのは、今まで「自分のためにしろ」という世界で反対に「為に生きる」という世界を発見したからです。論理的観においてその反対の世界が顕現するみこみがある不可避な結論です。それゆえ、希望は統一教会しかないのです。自己のために生きようとする世界でなく、為に生きようとするこの群れの後を二十一世紀以後の数千、数万年世界はついて行くのです。為にしろという世界はついていきません。嫌だというのです。(一九八七・一〇・二五、本部教会)

 統一教会の主流思想は何ですか? 為にしようというのです。神様が為に存在するのと同じように、私たちも為に存在する日には、民族が反対しても、世界の為に生きることができるのであり、世界が反対しても神様の手に救われて生きられることが分かったので、今日統一教会は今までこうして出てきたのです。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 神様はなぜ、どうして為にするという原則を立てざるをえなかったのでしょうか? その内容的要件を私がいくつか話してみましょう。なぜ為に生きる原則を立てなければならなかったか。これが問題です。ご覧なさい。私が皆さんに一つ尋ねます。心から自分の生命を掛けて皆さんに世話をした人がいるとします。それで、皆さん自身が百パーセントの世話を受けたなら、その恩を返すのに、五十パーセントくらいは取って自分のポケットに入れ、五十パーセントだけ返したいですか、それとも百パーセント以上返したいですか? 皆さんの本性はどうですか? それはいうまでもなく、百パーセント以上返したい本心があるゆえ、今日私たちはその本心に従って、救いを受けられる見込みがあるのです。

 もし、このミスター・ムーンという人が、ある李氏なら李氏、金氏なら金氏に、心から生命を尽くし恩を与えたとするとき、その李氏や金氏が私に返すときは百パーセント以上返すというのです。それでプラスになり増えるのです。彼が本心で、百パーセント以上を私に返せば、私ももっとそこにプラスして百二十パーセントを返してあげたいのです。

 このような観点で見るとき、与え受けるなら与え受けるほど減退するのではなく、ますます加重することによって、ここから永遠という概念が設定されるというのです。永遠というのがここから帰結されるのです。自己のためにする立場で百パーセントを返したとすれば、与え受ければ与え受けるほど、七十パーセント、四十パーセント下がり、のちにはすべてなくなってしまいます。

 それゆえ、知恵の王であられる神様は、為に生きる原則を立てずにはいられなかったという事実を私たちはここで知らなければなりません。為に生きるときは、永生するだけでなく、そこに繁盛がおこるのです。そこから発展するのです。ここの若い青年たちは知ってみれば簡単なのに、これを知らなかったというのです。皆さんそうでしょう? 世話をかけたら、恩を返すのに適当に返すはずがありません。心から生命をかけて、それ以上返したい本心を持っているというのです。そのような心があるゆえに、天国に行けるということを知らなければなりません。

 また、為に存在する原則に立てずにはいられない二番目の要因は何ですか? 例を挙げて言えば、皆さんの家庭に、ある八人家族があるとしましょう。お父さんとお母さんを中心にして兄、姉、弟妹合わせて八人家族が住んでいるのですが、その八人家族の中で最も幼い弟が家庭の為にするのにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりもその家庭をより一層為にするようになるときにはどんな位置になるのでしょうか? ますます尊敬を受け、中心的存在として登場するというのです。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 皆さんは霊界の事実に対して知らないでしょう。このレバレンド・ムーンは、霊界に対しては専門家なので、あの霊界がどうなるのか・・・。霊界の組織、原則がどうなっているのかというと、為に存在する人だけが行くというのです。それが、その世界の本質だということを、根本であることを皆さんは知らなければなりません。

 私たちが生きているこの世において、私たちは旅人ゆえ、本郷の道を訪ねていかなければなりません。本郷に行くなら本郷の法度を習っていかなければなりません。それゆえ、その法度に一致する秘法を、神様は教えないわけにいきません。ですから、それを教えてくれる宗教を通じて、歴史を開拓してこられたのです。

 どんな高次的な宗教も為に生きろと、犠牲になれと、奉仕しろと教えてくれるのは、その原則の世界に帰るための訓練として、そのようなことだという事実を置いて見るとき、歴史過程で、神様が摂理し、神様が原則を適用させたという事実を置いて見るとき、歴史過程に、神様がいたという事実を認定しないわけにはいきません。

 では、そのような観点から見るとき、皆さんは一生において自己のための生活が多かったか、他のための生活が多かったかという比例に従って、かの国での位置が決定されるということを、私は確実に知っています。(一九七四・一二・七、米・ペアモントホテル)


4 愛の中心は犠牲

 それでは、宗教をご覧なさい。キリスト教を見ても漠然と愛を唱えました。キリスト教で「神様の愛!」といいますが、神様の愛がいったい何ですか、それ? 愛が何かというのです。愛は愛じゃないか・・・。(笑い)キリスト教ももちろん、仏教も慈悲を語り、全部愛を語るのです。どんな宗教でも愛を中心にしなければ宗教の部類に入れないのです。世界的宗教になれないのです。

 それでは、愛を中心にして信仰生活して行く宗教は、この愛の道を成すために、より大きな愛のために何を強調するのかというと、犠牲を強調するのです。愛の道をより輝かせ、愛の因縁をより表すためには犠牲になる道を行かなければならないことを知らなければなりません。それはなぜそうなのか? なぜ犠牲を強調しなければならないのかというのです。なぜ、どうして犠牲を強調しなければならないのかです。それは色々です。なぜそうなのかという問題を置いて見るとき、矛盾した私たちの体の中においての・・・。二つとも矛盾だというのです。心と体を置いて見るときどちらがより矛盾するのですか? ここには差があることを知らなければなりません。この「ボディ(体)」は、この体は何かというと絶対犠牲を嫌い、温柔謙遜を絶対嫌うのです。絶対服従するのを嫌うのです。そうですか?(はい)

 それゆえ、この中の一つを叩きつぶさなければならないのです。無力にしてしまわなければならないのです。それでこれを弱化させればどうなりますか? 心と体が一つになれる材料が大きくなるのです。分かりますか?(はい)どんな宗教でも犠牲を強調し、温柔謙遜を強調することはなぜですか? 信愛の世界に接近できる一つの方便としてそうするのに、そうすることによって体と心が一つになることが可能な基準が起こり、その可能なほどの神の愛が、真なる愛が宿ることができるのです。このような理論的な根拠を捜せるというのです。(一九七七・一〇・九、ベルベディア修練所)

 統一教会の中心はだれですか?(御父母様です)父母様の中心は何ですか?(神様です)神様の中心は何ですか? 神様の中心は愛です。愛の中心はだれですか? 愛は犠牲と共に対をなすものです。こうなっています。犠牲がないところに愛がありますか? 愛があれば犠牲になるようになっています。それゆえ、統一教会の中心は先生です。先生の中心は神様です。神様の中心は何ですか? 愛です。愛の中心は何ですか? 犠牲です。犠牲がない愛は愛ではありません。(一九七二・五・一八、大邱教会)

 それでは、歴史的な伝統として残せる実績は何ですか? 犠牲精神による実績のみが今日の堕落した世界に残されてきました。見なさい。そうかそうでないか。そうでしょう? そのような人たちが聖人として、歴史的な義人として、あるいは忠臣として残されました。そのような犠牲精神の底からのみ、功績が残されるのです。ですから、犠牲になることは、そのようなことを残すためのものだということを皆さんは知らなければなりません。

 必ず犠牲になることによって・・・。もはや他のために与え・・・。与えることは何ですか? 再創造するにおいて、神様が創造時に自体を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私を作るためのものであるから、神様が創造するとき、自身を投入されたのと同じです。再創造歴史が蕩減復帰路程であるから、蕩減は再創造歴史を通じてするので、自身を投入するところでのみ、再創造が起こるので、犠牲になるのは不可避だということは理論的な結論です。(一九七六・陰一・一、前本部教会)

 それゆえ、歴史に世界的な使命を負ってきた預言者たちは、その時代に犠牲にならない人はなく、迫害を受けない人はいません。これは歴史的な実証だというのです。なぜそうなのですか? 堕落した世界だからです。堕落した世界はだれが主人なのかというと、善の主人なる神様が主人ではなく、善の怨讐、神様の怨讐なるサタン、悪魔が主人です。善なる人が来るのは、サタン悪魔の世界を処理するために来るので、サタン世界は彼を百万、怨讐視し、その首を切ってしまおうとしないわけはないのです。これが悪なる世界の主権が行使する道ゆえ、数多くの宗教者たちは、悪なるサタン世界の主管圏内にあって多くの犠牲を受けました。様々な悲惨な死の道を行ったことを私たちは知っています。

 それでは、死ねばそれで終わるのですか? そうではないのです。神様がいる限り、損害賠償請求法があるというのです。一人の人を犠牲にすれば、三人から七人あるいは百二十名、千二百名を奪う蕩減法があるのです。その死ぬ悲惨な状態に従って賠償するときも差が起こるのです。こうなるのです。それゆえ、犠牲になるのであって、悲惨に犠牲になるほど賠償の高さが高いですか、低いですか?(高いです)少ないですか、多いですか?(多いです)統一教会では、犠牲というその言葉を便宜上、蕩減という言葉で代置するのです。

 それゆえ、善なる道を行く人たちは、常に犠牲になるようになっています。それで私たちは犠牲になれと教えるのです。「他のためにしろ」というのが商い屋の言葉で犠牲ですか、利益を得るのですか? 犠牲です。自己投入です。投入するのはどの程度までですか? 極端に達することができるその基準まで投入しろというのです。生命までも捧げろというのです。(一九七五・五・四、水澤里)


5 福は苦労から

 天国に行く公式は簡単です。天と地を愛したという条件さえあればいいのです。このために苦労しなければなりません。いまだに本当の意味で働いた人は一人もいません。(?)

 真なる宗教は、人間世界を引っ繰り返して作るのです。それで断食をしなさい・・・。皆さん、断食するのが好きですか? 断食するのが好きな人は手を上げてみなさい! 私たち統一教会では苦労しろ、苦労しろ・・・。統一教会に入ってくれば、博士号か何かでも取るための苦労をさせるようにします。入ってくれば苦労させようとします。

 なぜそうなのですか? 皆さん、蛇が殻を脱ごうとすれば、ただそのまま殻が脱げますか? 石の隙間に頭が入らなければ、ただ尾だけでも入ってさかさまに、はっ、こうしなくてはなりません。(身振りで表現される)それと同じだというのです。殻を脱がなければならないのです。(一九七六・二・一、前本部教会)

 苦労しなさい! これが皆さんたちが持つべき最初の条件です。苦労をするが、自己の目的で苦労をするのではなく、天と地と神様のために苦労しなければなりません。骨のある人にならなければなりません。「私が今父の恨みを解いてさしあげられなければ、死んでも解いてさしあげる」という精神で闘わなければなりません。(一九六三・三・一六、前本部教会)

 福はどこから?(苦労するところから)福を受ける人も与えられず苦労をしなければなりません。(?)

 これをした後に、統一教会に万物祝福時代が来るだろうと先生は知っています。その前にはぎゃあぎゃあ苦労しなければなりません。ぎゃあぎゃあ苦労しなければならないのです。(一九六三・五・一五、前本部教会)

 それで統一教会は他人が好きなことをしないのです。では何をするのですか? 「あー、死ぬ。私はできない」といえる程度のものでなければなりません。私が倒れるくらいするというのです。み旨があってするならできないことがありません。

 それで統一教会は「苦労しなさい。とてもひどく苦労しなさい」というのです。脊髄が飛び出し、せむしになり、脊髄からうみが出ても追い立てるのです。「死ぬとしても何歩かもっと進んで死になさい」これです。そのように進んで死ぬのを神様が来てご覧になるとき、だれが一等ですか? 一歩でももっと行き、一寸でももっと進んで死ぬ人が一等です。統一教会員が死ぬときは一歩でも、もっと進んで死ななければならず、退いて死ぬなというのです。(一九七〇・九・六、前本部教会)

 私たち統一教会は、良く食べ、豊かに暮らしながら行こうというのですか、食べられず、苦労しながら行こうというのですか? どちらですか?(食べられず苦労しようというのです)だれのためにですか? 統一教会の文先生のためにですか? だれのためにですか? 神様のためにです。神様を溶かし出す方法はそれしかありません。(一九七一・二・一九、西大門教会)



2004.04.30

















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