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宗族的メシヤ
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第二節 真の父母

P54
一 メシヤ

1 聖書の核心 ―― 真の父母

 堕落した人間は、どこから本然の真の愛の基盤を探し求めていくのでしょうか? これが問題なのです。どこから? 真の神様、真の御父母様から、真の神様を中心として人間たちが互いに調和をなす、そこから始まるのです。

 それで聖書は何を教えているのでしょうか? 神様のみ旨を成すことのできるキーポイントを、新・旧約六十六巻を通じて教えているというのです。聖書は何を教えていなければならないのでしょうか? 神様の願いのキーポイント、人間の願いのキーポイント、愛の理想世界、天国に直行する道を教えていなければならないのです。そのキーポイントとは何でしょうか? 神様は既におられますが、真の父母はいませんから、真の父母を探し求めるのです。平面的に愛の原型的基準を結合させ得る新郎新婦、プラス、マイナスが本然の基準で一致することによって自然に縦的な愛に入ってきて、輝かしい愛の色を宇宙に充満するようにして統一化させ得る、強い真の愛の基準を立てなければならないのです。それが神様のみ旨であり、キリスト教の伝統的事実であり、宗教の伝統的事実だというのです。これをはっきりと教える内容をもたなければ、神様のみ旨を解放することができる宗教になれないのです。

 キリスト教にこのような内容があるという事実は驚くべきことです。全世界の宗教を中心とした摂理の決定権がここにあることを知り、それを中心としたのでイエス様は、新郎として新婦を探し求めてきたということにキーポイント、結論をおいたというのです。それで、新郎新婦として聖書に結論づけたというのです。その話とは何かといえば、復帰して本然の愛の園を探し求めて入っていくという話です。

 創世記を見れば、エデンの園には二つの木があったのですが、一つは生命の木であり、もう一つは善悪を知る木だといいました。その木とは何でしょうか? 神様が探し求めなければならない真に満ちた男と女なのです。ところが堕落によって真に満ちた父と母になれなかったので、それは真に満ちた父、母を象徴した言葉だというのです。全部、そのように教えたのです。

 イスラエル民族を荒野で引導するとき、火の柱と雲の柱があったのですが、昼に引導するのが雲の柱であり、夜に引導するのが火の柱でした。それは何かといえば、男、女を代表して終わりの日に父母が来るとき、イスラエル民族が侍ることを象徴的に見せたのです。この火の柱と雲の柱の引導に従わない人は、みな滅亡するのです。

 また、イスラエル民族が荒野に出ていって四十年間流浪生活をし、方向を定めることができないので、滅亡することを心配してモーセをシナイ山に呼び、四十日断食させて与えた二枚の石板があるのですが、それは何でしょうか? アダム・エバ、真の父母を象徴したというのです。契約の箱の中に二つの石板を、なぜ入れたのでしょうか? 二つの石板は、神様のみ旨を終結させ得る中心本部として、アダム・エバを象徴したものなのです。それで契約の箱の中に入れたのです。

 それでは、アロンの芽の出た杖とマナとは何でしょうか? これは、相対的なのです。相対的な面において、生命の根源になる万物なのです。これが一つにならなければならないというのです。相対性を備えた相対として、また、別の相対圏を形成し、人間と万物を一つにつくって神様と一致させるための相対的存在だったのです。ですから、そこに神様が臨まれて直接運行したというのです。全部、新郎新婦、真の父母を中心として、万物と統一圏理念を中心としてしたので、契約の箱を中心として責任を果たせない時には、全部頓死したのです。マナと杖は、万物を象徴するのです。人間と万物が一つにならなければならないことをいうのです。

 イスラエル民族が四十年間メシヤに侍るための地上天国と、神様の理想世界を実現するために、真の父母として来られるメシヤに侍る道を案内するのがカナン復帰路程なのです。ところが、その民族が荒野でみな倒れるので、象徴的にメシヤの代わりに与えたのが契約の箱の中に入っている二つの石板であり、マナとうずらだったのです。これに絶対的に侍ることによって、来られるメシヤに絶対侍ることができるというのです。そうすることによって天の国の建国が始まり得るということを見せてくださったのです。それで、象徴的なメシヤを立て、訓練させたのが聖なる幕屋理念なのです。メシヤが来ることのできる象徴的準備だったのです。(一九八五・四・七、ベルベディア修練所)

2 イエス様と真の父母

 今後、私たちが知らなければならないことは何でしょうか? 終わりの日にはどのようになるのでしょうか?天地がひっくり返るというのです。天道が転換されるというのです。天地が転換されるということは何も天が分かれ、丸い地が平らになるのではありません。天道が転換するというのは、み旨的に見るとき、あとに出てくる人が祖先であり、先に出てきた人が子孫だということです。人類の始祖が六〇〇〇年ぶりに来ますから、その父母の血肉を受けてこそ本来の正常な軌道になるのです。逆さまになるのです。

 それでイエス様が、「私は、アブラハムより先にいた」と語ったのです。アブラハムより先にいたということはどういうことなのでしょうか? イエス様は父母として来たのですが、父母は二人いることができません。一人なのです。一人。人類の祖先は、二人いることはできません。祖先格、人類の真の父母格として来たので、み旨を中心として神様側から見るならば、アブラハムよりも先だというのです。初めて出てきたので、先なのですね。その次に出てきたものは全部、天のプログラム圏内では認めないというのです。

                                   (一九六六・五・二五、全州教会)

3 メシヤは真の父母

 それではメシヤとは何でしょうか? メシヤとは、神様の愛をもち、体と心が一つになった本然の理想的な男性型を備えて、初めて堕落性を超越した方です。そのような方が来て、一つの中心になって、世界の人をそのようにつくって天国に入れるようにするのです。

 そのメシヤは、何を探し求めなければならないのでしょうか? 新郎は、新婦を探し求めなければなりません。新婦は誰なのかといえば、エバです。エバを失ってしまったのです。それで、この地上に来てエバを探し求めなければなりません。それゆえに私たち統一教会で初めて「真の父母」という言葉を中心として、歴史上に「父母の日」が、神様の本然の愛を中心とした男性と女性がこのような関係で夫婦を成す「父母の日」が設定されたというのです。(一九八三・六・一一、世界宣教本部)

 統一教会の信徒たちは、自分たちはキリスト教と関係がないと考えますが、それは絶対に違うというのです。なぜでしょうか? 旧約時代も結局は、復帰のためのものなのですが、アダム、エバ、真の父母復帰のためのものなのです。新約時代も真の父母復帰のためのものであり、成約時代も同じなのです。真の父母復帰というその内容は、同じだというのです。そのような概念をもたなければならないのです。それで、メシヤとは何かといえば、真の父母なのです。ですから、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、統一教会であれ、その内容、目的は同じなのです。

 さあそれでは、違うこととは何でしょうか? ユダヤ教は、国家的次元でメシヤを迎えようとしました。メシヤは、真の父母なのです。真の父母。国家的次元で真の父母を迎えて、世界へ拡大させることが目的だったのです。キリスト教とは何でしょうか? イエス様が来て亡くなったのちに、世界的な基盤でメシヤ、真の父母を迎えるためのものなのです。それでは成約時代とは何でしょうか? これは、天宙史的なのです。霊界まで真の父母を迎えるようにしようというのです。その次元が違うというのです。それをはっきり区別しなければならないのです。(一九八四・四・二九、イースト・ガーデン)

 メシヤがこの地に来て代行しなけばならない位置が真の父母の位置なのです。真の父母の位置。それでは、真の父母とは何ですか? 縦的な真の父の代身として、横的な真の愛を中心とした横的な父母なのです。キリスト教では、メシヤが神様であり、神様がメシヤだというのですが、それは間違いです。神様は縦的な真の父なのです。これは、一人しかいません。他の道へ行けません。メシヤは横的な真の父母だというのです。(一九八九・一・二四、一和龍仁工場)













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