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宗族的メシヤ
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第四章 還故郷と氏族的メシヤ

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第一節 故郷と本郷

一 お父様の故郷回顧のみ言と祈祷

 きょうお話する題目は、「故郷」です。故郷について話をしてみます。

  国を思い、つらい思いをした若いころ

 多分、人間はみな同じであるはずです。年が若い時は、故郷を離れてみたがります。私も今や七十歳になって、昔の幼かった時から物事に分別がつき、考えたこと等、すべての過去のことを考えてみるとき、大韓民国の八道、もちろんその時は十三道でしたけれども、十三道の中で咸鏡道がどのようになっており、平安南道がどのようになっており、黄海道がどのようになっており、その次には、江原道、慶尚南北道、全羅南北道、忠清南北道がどのようになっているのかということが気にかかりました。それは、皆さんもみな同じだったはずです。二十代を前後して全国を回っていたことが思い出されます。

 その時に感じていたすべてのことは、切実に相対的国――自分の国――を見る時にその故郷が、その国が、幸福であり平安であったならば、それほど印象的ではなかったはずです。しかし、貧しく生きる村々を経て、あるいは、山野を巡りながら感じたのは、「このかわいそうな民族」ということでした。そのような思いが今も忘れられません。

 私たち人間は、体をもっているし、心をもっています。皆さんの体の故郷と心の故郷が異なり得るのでしょうか? 同じでなければならないというとき、永遠な私の心の故郷はどこなのかというのです。

 皆さんは故郷を考えますが、私も故郷を離れて、もう数十年になります。あるいは、外地を巡り歩き、あるいは監獄に入ったりもしました。その中で私は監獄暮らしをするとき、監獄の鉄格子から差し込んでくる太陽の光を眺めるたびに考えました。アメリカの刑務所、韓国の刑務所、共産党の刑務所でです。私は、日本の刑務所まで知っている人なのです。その太陽の光は同じ光なのですが、獄中に差してくる太陽の光は、その内容が深刻なのです。そこでは、韓国を涙でもって慕うようになり、その次にはまたアジアを、東洋を、涙で慕うようになるのです。

 日本は昔、私たちの怨讐でしたが、監獄に入って日本人に会うようになるときは、誰よりも近いと感ずることができるというのです。このようなことを見ると、遠い所で困難な目に遭うほど、近い所の怨讐は怨讐でないことを感ずる時があるのです。

 人間が価値問題を論ずるとき、私たちはよく「あの人は立派な人だ」と言います。けれども、その人が自分の故郷でのみ生きては故郷が貴いということが分かりません。また、大韓民国でのみ生きては、大韓民国が貴いことは分かりません。アジアを経、世界を経て、遠く離れれば離れるほど、離れる距離に比例して、また時間に比例して、故国を離れてきた時間が長ければ長いほどそれが消え去るのではなくして、もっと切実になるというのです。

 このようなことを見るとき、人はもちろん、一つ所に定着して生きなければなりませんが、定着した基地を中心として東西南北へ拡大しながら、因縁を保ちながら生きようとすることも人間の生涯を編んでいく群像ではないでしょうか?

  父母は悲しみと喜びの同伴者

 故郷とは、どのような所でしょうか? 故郷はそうです、私が今までずっとこのように過ごしてみると、私の成長するときのこと、韓国人として生まれて学ぶ八〇パーセント以上を教えてくれた教材が残っている所です。

 父、母という言葉は、簡単です。父、母は、誰しもみなもっていますが、その父、母に対する立場によって千差万別の価値基準が設定されるのです。私が悲しい時の父、母は、私にとって慰めの父、母。うれしい時の父、母は、それ以上に刺激させてくれる父、母……息子、娘が喜ぶ姿を見て悲しむ父母はいません。そのようなことを見るとき、悲しい時に同伴者になり、うれしい時に同伴者になって、私が物事の分別がつく時まで、食べて生きることの一切を面倒見てくれる主体者としての、私の同伴者ではなかったのでしょうか?

 私が寂しいならば寂しいことを慰め、困難であれば困難なことを慰め、病気になれば病気になったことを全部心配してくれ、慰めてくれ、私が物事に分別がつく時まで、成長するにあたって、私のすべての心身を中心とした同伴者ではなかったでしょうか? その同伴者が変われば困るというのです。同伴者として永遠まで変わり得ない立場に立ったのが父母なのです。

 ですから、変わらない父母を、良い所があるならばそこにお連れしていきたいのです。ぐるぐる回ってみて、その中に良い所があるならば、父、母と共に、世界至る所、どれだけ遠くに行っていても、その中に良い所があるならば、その良い所を自分だけがもちたいのではなくして、同伴者たる父母と共に分かちたいというのです。

 どうしてそうなのでしょうか? 父母は、私の心と体の変わらない同伴者であるからです。私が寂しい時、寂しさの中にある私を慰めることのできる最大の同伴者が父母であり、私がうれしい時、その喜びを一緒に褒めたたえることのできる友達以上の最大の同伴者が父母だからです。それで、人間は変わらない同伴者がいる所を中心として生きたがるのではないか、とこのような結論も出てきます。

 それでは、故郷には誰がいるのでしょうか? 父母がいます。また、父母の上には、祖父母がいます。おじいさん、おばあさんと、父、母は違います。誰が近いのかと聞くとき、物事に分別がつかない時は、父、母が近いと見ますけれども、長い歴史を経て、私たちの父母は誰の保護を受けたのかと追求してみるとき、私が父、母を中心として変わらない主体者として慕わしさをもつのと同じく、父、母もおじいさん、おばあさんを中心としてそうだというのです。

 このように見るとき、人間の宗之祖上(注:一番もとになる祖先)はどのような方なのでしょうか? 私たちの祖先がいるのですが、その中で一番に立つ者は誰なのかというとき、私たち人間の根本になる祖先ではないでしょうか? その祖先の祖先がいたならば、その祖先が父母として侍ることのできたその方ではないでしょうか? そのような方が人間を創造なさった神様であり、私たちの父であるというとき、私たちの父母の心を永遠に引きつけることができるし、私たちの祖父母の心を永遠に引きつけることができるし、数多くの祖先たちの心を引きつけることができるのみならず、それが結ばれ得るのです。

故郷に対する慕わしさと向心は不可避的なもの

 人は、どれだけ遠くにいても根本を離れることはできません。変わらない心情的、情緒的な根本を離れることができないようになっているのです。これは、根がそこから広がっていったからです。根を乗り越える存在がないので、故郷に対する慕わしさと、そこに心が向かうのは不可避的なものなのです。

 それで、故郷が良いとか悪いとか、きれいだとかそうでないということが問題ではないのです。良いとか悪いとかということを離れて、忘れることができないのです。どこか海外に出ていくとか、遠い世界へ離れれば離れるほど、そこにいるとき、雨が降るといえば、その雨は全く同じです。雨が降る現象は同じですが、その雨に対する自分の心は、故郷との距離に従って違ってくるのです。また、環境の与件に従って違ってくるのです。あるいは、友達と会うとか、誰か愛する人たちと同伴してそこで生きるとしても、故郷を離れたときは、自分の妻も自分と一緒に故郷を慕う心を同伴して、そこに行って感ずることができることを願うのです。

 また、自分の妻のみならず、息子、娘も故郷に連れていって、心深いところにとどめておいた追憶の数々を分けてあげたいのです。このように見るとき、故郷というものは、私の生において重要な教育の材料を八〇パーセント以上供給する所なので、私たち人間から故郷との因縁を切ってしまうことができないのです。

 学校に行くとしても幼稚園時代、小学校時代、その次に中・高等学校時代、その次に大学、その次に社会に出ていって出世して成功した時代と、このようなことを見れば、故郷を離れ、遠くに行けば行くほど故郷と遠くなるようですけれども、忘れられないのです。それでは、皆さんの心の中で一番忘れられないものとは何でしょうか? 幼稚園時代だというのです。父、母の手に導かれて幼稚園に行って先生たちと歌を歌い、踊りを踊っていたことが、小学校に通うときより、物心がついたのちに回想するならばもっと強いというのです。中学校より小学校、高校よりも中学校、大学よりも高校時代の追憶がもっと強いというのです。

 全部思いが家庭を中心として、父、母、兄弟を思うのですが、これが大学を出てだんだん大きくなって、物事に分別がつけばつくほどどこへ行くのかですか? 「私が何にならなければならない」ということを中心として外に出ていこうとするというのです。

 外に出ていこうとするようになるならば、これが一つのセンターを中心として三六〇度から見るようになるとき、この間隔の距離はだんだん遠くなるのです。十里行ったのと一〇〇里行ったのと見てみるならば、最初の一度の差異というものは無限だというのです。このように行っていた人たちをそのままにしておくならば、去ってしまうのです。

 しかし、故郷というものがあるので、そうではなくなるのです。どれだけ出世をしたとしても、博士になって成功したとしても、どこへ行くのでしょうか? 「ああ、私の妻や息子、娘の所に」と思いますか、息子、娘を率いてどこへ行くのでしょうか? 故郷へ行こうとするのです。「錦を飾って故郷に還る」という言葉があるように、離れれば離れるほど寂しいのです。寂しくなるというのです。ですから、故郷へ帰ろうとするというのです。

生涯忘れられない情緒的な教材を残してくれる所が故郷

 人生生活において、皆さんはどんな環境にいるのでしょうか? 私が七十歳を越えてみると、十代がどうであり、二十代がどうであり、とこのような事由が多いのです。故郷でどのようにしたということ、故郷の山河、何の山、何の山、何の山はどうのこうの……。幼かったとき、そこであちこち歩き回りながら過ごしていた、あるいは山に登って野生の花をつみ、あるいは山菜を採り、このようないろいろと感じた事実は抜き捨てることができないのです。

 特に、幼かったとき、自分の家の近くあった木、栗の木があったとか、あるいは、アカシヤの木があったとかということは、忘れることができないのです。

 大概カササギは、アカシヤの木にたくさん巣を作ります。そのカササギは賢い鳥なのです。カササギは一番高い所に巣を作ります。

 カササギが鳴けば、良い消息があるという話があります。朝、グワッグワッグワッと鳴けば、良いというのです。そしてカササギは、天文学について、気候について知っているのです。今年は雨がどこにたくさん降るのかを知っているのです。カササギが門を作るのを見て、「あっ、今年は風がたくさん吹くんだなあ」と知ることができるというのです。ですから、カササギの巣を見て、「あっ、今年、農事は台風が吹くから駄目なのだなあ」と知ることができます。そのようにカササギは、風が吹かない、反対側に穴を開けるのです。

 そのようなカササギの巣のある所に登ってみると、カササギたちがひなを愛するその強い母性愛、父性愛は大変なものです。

 カササギは貞節がある鳥です。一般の鳥を見れば、卵を産むときだけ会う鳥たちがいるのです。それでは、会って何カ月にもならないからといって、その母性愛に差異があるのでしょうか? 差異がないのです。私は鳥がとても好きでした、この韓国にいる鳥たちが。それで観察してみると母性愛というものは、長い間つがいで生きるハトのような鳥であれ何であれ、ひなを愛するのはみな同じでした。

 カササギの巣を見物しに登っていくと、母親のカササギが来てつっつくのです。それで侵入者を防止するために高い所に巣を作るのです。カササギの巣は高い所にあるのですが、これが気になるのですね。それで見ると、木の枝をくわえて、巣を木の上にかけ、その次には、わらくずをもってきて置きました。それを見れば、ひなを愛する心がみなあるのです。どこからか綿みたいなもの、ふわふわしたものをくわえてきて作りました。人間が作った内部屋より素晴らしいのですね。

 このように愛の巣を作っておいて、雌が入って卵を産むのです。そのカササギの卵は実に美しいのです。薄く青みがかかっているのですが、筋があります。

 それに関心があって毎日のように登りました。一番初めカササギたちは、たまらないと大騒ぎしました。けれども、毎日のように登ってきて、去っていっても異常がないのですね。異常がないので、その次には、毎日のように登っていっても、カササギたちが来てグワッグワッとあいさつするのです。「また来ましたね。よく見ていきなさい」とそう言うのです。

 このように登ったり下りたりしながら見ますと、卵を産んでからのちに、卵からひなが出てきて成長するのは鳥は実に速いのです。それを見ていると情が移るのです。そうしてカササギのひながみな、大きくなって出ていくようになるならば、どれだけ寂しいか分かりません。まだ分別がつかないときには、それを見て、「ああ、私も相当に情が深い人だ」ということを感じました。

 そのアカシアの木は、とげが生えていて見た目によくない木ですが、私と因縁があったことを一生忘れられません。ある時は枝までも思い出されます。今もそうです。このような枝があり、このような枝がありました……。ある時は、登っていってはスルスルと下りてきたりするので、母は実に心配なのですね。その高い所に登って下りてきますから。その高さはどのくらいかといえば、約三十メートルになります。そのように高い木なのですが、たちまちのうちに登ったり下りたりするのです。しかし、一度過ると大騒ぎになりますね。ですから、母はそんなことをするなと言われるのですね。そのようなことは、すべて忘れることのできない事実です。

 そのような一つのことを中心としても、鳥であるならば鳥に対して、比較して生態を研究することができるそのような教材が多いのです。

 故郷に行けば、小川があるのです。そこに生きる小魚という小魚は、みな捕まえてみました。ドジョウがいるし、ウナギがいるし、カニがいるし、ありとあらゆるものが、みないます。そのようにいろいろな淡水漁を、みな捕まえたのです。大きいもの、小さいもの、区別なくです。

 その時は、まだ、分別がついていませんでしたから、水を入れる穴を掘って――魚は、水の中ではみな、生きていると思っていました――魚を捕まえて入れておいて、一晩寝たならば、みなひっくり返って死んでいます。それをよしとせず、「精誠を込めてお前を生かしてやろうとしたのに、なぜ死んだのか?」と思うのです。事情も分からずにです。

 それを見れば、先生は情的な人なのです。魚を見ても、「おい、お前の母さんが泣くだろうな」とそう思うのです。その魚を見て泣いたのです。そのようにしながら過ごしたすべてのことが回想されます。このように人が成長するにおいて情緒的な多くの教材を残してくれる所が故郷です。

 山を眺めるときも忘れることのできない、すべての情緒的なものがあります。また、小川を見るときもそうです。小川があるならば、そこにもたくさんの魚族がすんでおり、数多くの虫たちがすんでいます。そのようなことをみな、学びの材料として活用するときは、すべての知識を供給するのに忘れることのできない役割をするのです。

 韓国人として、韓国の故郷の山河にあるすべての動植物や、自然系のことを教材として、自分の内的な人間が成長するにおいての豊富な知識を備えることができます。そのような多くの材料を与える所が故郷だというのです。ですから、故郷の山河が慕わしいのです。

 春になれば春の園に、かげろうが揺らぐ春の園の中で……私は自然を実に好みました。それで山に行って昼寝をするのです。大きい木に寄りかかって自然の中で昼寝をするのです。そうしながら山菜を採り……それ、見れば多いのです。このようなすべてが忘れられません。

 さあ、そのようなことを見るとき、故郷の山河のすべてのことは、自分が人間として、情緒的な人間として成長するための基本的な教材になるのです。

 皆さん、昔、小学校時代に机に穴を開けたことが今も思い出されるでしょう? どこがどのようになってこうで、ということが思い出されるのです。それと同じく、山河のすべての木は同じ木であっても、そこの木の姿や形が自分の印象に残るのです。それが自分のすべての情緒的な面において記憶に残る、一つの教材としての博物館だというのです。

 良いことも悪いことも故郷で学びました。幼かったある時、町内の子供たちと喧嘩をして鼻血を流すようになると、お父さんお母さんを探していきます。お父さんお母さんを探していくのですが、そのお父さんお母さんが、「なぜ喧嘩をして血を流して入ってくるのか?」と、人の事情も分からずに小言を言っていたことを、今考えてみると、いろいろと感慨が新しくなります。

 母としては、男の子が出ていって、喧嘩し、ぶたれて鼻血を出して戻ってくるようでは駄目だというのですね。私が子供を育ててみると、そのような心情を知ることができます。その時は、「お母さんはなぜそうなのだろうか。鼻血が出てこうしているのに洗ってくれもせず、むしろだだをこねると大騒ぎだ」とこう思いましたが、今、分別がついてみると、その時、母にすがって、「お母さん、ありがとう」と言うことができたならば、その母はどう思っただろうかと思われます。極と極なのです。

  機を織りながら足がむくんだ母

 このように見るならば、そのすべての材料の中で一番忘れられない材料とは何でしょうか? それは、情緒的な面なのです。

 私の母は、多くの息子、娘を育てながらも仕事をするのが実に早かったのです。普通の人の二倍以上でした。十縒り――一縒りが二十糸筋だから、十縒りならば、二〇〇糸筋です――のものを織るならば、二日で四十尺を織りました。一反が四十尺なのです。一日に十五尺、二十尺を織るのです。四十尺が一反なのですが、それを二日ぐらいでみな織ったのです。

 普通の人は、この四十尺を織ろうとするならば、一日に五尺ずつ織っても八日かかるはずなのに、母は二日あれば織りました。

 母はそのように多くの機を織るので足がむくみます。それで私のところに来ては見せてくれます。その時、「足痛くないの、お母さん? 一日中したからどれだけ痛いですか!」と言えば、「痛いとは何が痛いの? それをしなければ、どうしますか?」とそう言われるのです。そしてその足を見せてくれて、「さあ、これを見なさい」と言われるので、触ってみていたことが忘れられません。それでも子供たちのためにそれを恨まず、自分の体に克って苦労していたその母の姿が忘れられないのです。そのような父母でした。

 ですから、どこかに行けば行くほど一番恋しいのが、母なのです。母と、その次には、自分と遊んでいた兄弟たち、妹たちです。

 私に姉がいました。すぐ上の姉が。私より二歳上の姉、二歳違いの姉がいたのですが、その姉は私を実に愛しました。誰よりも愛したのです。私が、何かがなくて大騒ぎすれば自分が非常に大事にし、愛している包みをひっくり返すのですね。娘のときは、そうではありませんか? 嫁に行く前には。このぐらいの包みをみな持っているのです。私が必要とするものがあって、「何々が必要だ」と話せば、すぐにその包みの中から探してくれました。何が必要だとえんえん泣き声を立てるからといって、お母さんがそれを準備してくれますか? そうでないので、その姉が包みをひっくり返して私を呼び、「やあやあ、ここにあるよ、ここにあるよ」と言いながらくれました。そうしてくれた姉が思い出されます。

 そのようなすべてのことが、情緒的な面において忘れることができないのです。このごろのことより、幼かった時のすべての印象がいかばかり刺激的か分かりません。

 ですから、すべての人格素養を中心として自分を育てていくにあたって、情緒的な面や生活的な面がとても重要なのです。

 韓国人が韓国人の服について、どこか別の所に行って習うのではありません。故郷でみな学ぶのです。どのように着、何をどのようにするかです。何が良く、何が悪いということを、みな学ぶのです。その次には、生活するすべてのこと、どのように生きるのかを、全部学ぶのです。このようなことを見るとき、そのすべてのことが、情緒的な背景が深くなるすべての因縁をもっており、歴史をもっているので、忘れてしまうことができないのです。

 その時、私がある部屋のどこに座っていて、母の顔がどうでとその感じていたことが今になってみると、みな忘れることができない追憶として残っています。それを見るとき、一般の人々が争う所ではないのです。そこには情が交流しながら自分の一家を思い、子女を思う父母の愛が植えられているのです。ですから、「私の心がその所を離れることのできない因縁をもっているのだ」と思うとき、母がいかばかり恋しいか分からないというのです。

 お母さんは良い方なのです。風采が良かろうが醜かろうが、お母さんは良い方です。もちろん、悪いこともあるのです。このごろは、赤ん坊を捨てるというそのようなこともありますけれど。

 このように見るとき、自分が忘れることができなかったことは、良かったことよりも、打たれたそんなことが追憶として残るのです。

 そして、私の家を中心として隣村との関係です。そこの村の中には、文氏だけが住んでいますか? 別の姓氏の人が入ってきています。李氏も来ていますし、金氏も来ています。そうすると、故郷の大人たちが全部、よそから来た人をないがしろにするのです。村内に、いとこ、おじさんたちがたくさん住んでいるのですが、一人寂しく入ってきて住んでいる金氏であるならば金氏に対して、村内で何がどうのこうのと言いながらよそ者扱いにして、ないがしろにするというのです。自分たちは、姻戚のはとこまで分け合って使いながら、そのようなよそから来た人には貸してやらないのですね。そのような何かがあるというのです。

 それを見ると、私は耐えられないのです。お父さんお母さん、おじいさんが貸してあげなければ、私が背負ってでも持っていってあげるのです。そのようなことは耐えられないのです。その時のその心のパターンが今日、この統一教会を立てていくことのできる教育の一版図であったという思いをしたりします。

 ですから、故郷は、自分の忘れることのできない教材であり、心情の中に残された博物館と同じなのです。それで故郷を忘れることができません。

  故郷は心情的な教材を供給され得る所

 故郷は、自分が成長するにおいて八〇パーセントの原資材を供給する、その人格を中心とした原資材を供給する心情的分野だというのです。心情的な分野を中心として故郷以上、いかなる学校、いかなる有名な大学の学士、博士になろうとも故郷以上に、心情的材料を供給され得る所がありません。なぜかといえば、故郷には、父母がいるし、おじいさんがいるし、姉がいるのですが、彼らの情緒的関係は永遠に従っていこうとするからです。一時的ではないのです。死ぬ時までその心に抱いていくというのです。

 女は、夫が死んだのちにも忘れられないのです。一生の間、その胸に溶けてなくなるほどに抱いていくのです。息子、娘も同じです。自分の一族も同じです。ですから、故郷は情緒的な面で、長い因縁を中心として、誰であっても生かそうとする所なので貴いのです。その貴いということは、情緒的に変わらない愛を中心としていう言葉です。

 皆さんの一生を中心として見るとき、父母をもてなかった人、孤児院で育った人、故郷をもてなかった人はかわいそうではないでしょうか? 違いますか。それは、情緒的な分野なのです。心情的生活は、男であるならば男として、女を迎え結婚して住むところから始まります。そうでなければ、孤児院生活だとか自分の心情の世界で誰かに世話になって育ったこととか、そのようなこと全部が追憶の対象として残るというのです。そのようなすべての情緒的な面に関係づけられていることは、忘れられません。

  自分が居する所に従って変わる故郷

 故郷という言葉を中心として見るとき、自分が生まれ育った故郷から離れ、ソウルに来たならば、ソウルは外地なのです。では、平安道定州の地が故郷の地なのですが、外国に出ていくようになるときはどのようになるのでしょうか? ソウルが故郷になります。ソウルが故郷になるのです。昔は、ソウルの人に会えば、京畿道の輩、京畿道のちゃっかり屋とそう言ったのですが、外国に出ていくようになるならば、京畿道の人であれ、慶尚道の人であれ、全羅道の人であれ関係ないのです。自分の同胞だというのです。同胞というそれ自体、我が国の人だというのです。「我が国」というとき、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、みな入ります。すべての風習も同じであり、生活環境も同じであるのでその時は、延長された兄弟のように思うのです。全羅道の人でも困ったことがあるならば、私が姉に手助けしてあげていた心のように、正にそうなのです。

 もし皆さんが霊界に行ったとすれば、どこを恋しく思いますか? この地球です。この霊界に行くようになるならば、何千年前に生きていた霊人たちに会います。霊界も同じなのです。霊界に行っている人たちが、故郷があるというときは、霊界が故郷でしょうか、地球(この世)が故郷でしょうか? 霊界に住みながらも故郷がどこかと聞くならば、地球だと、地球のどこそこだと話すというのです。これを見るときに、それはなぜそうなのでしょうか? 地球が自分の故郷とどれだけ遠いですか? 部落でいうならば、数百万個の中の一つにしかならないのに、それをみな包括している地球が自分の故郷だというのです。

 なぜでしょうか? 故郷には、自分を永遠に忘れることのできない主体の位置で考える父母がおり、お兄さんがおり、家族がいるからです。

 私もそうです。今まで、私のように兄弟たちの前に責任を果たせなかった人はいません。みな忘れてしまおうと努力しましたから。他の人たちは、覚えていようと努力しますが、私は忘れてしまおうと努力するのです。なぜでしょうか? アベルよりもカイン的な全体を愛してから、アベルを愛さなければならないのが原理の基準だからです。

 今も私が一つ忘れられないのは、監獄にいるとき、私の妹が亡くなったことです。母が多くの家族を率いるのが大変だというので、私の母方のおばが来て、「お姉さんは子供たちも多いことだからどうか私のところに娘を一人下さい。私が育てて嫁にも送ってやりますから」とこう言うので、妹を平壌の私の母方のおばの家に送ったのです。そのおばには、娘がいなかったのです。それは私が一番愛する妹なのです。そうして妹を送り、私が泣いていたことが今も忘れられません。

 それを見れば、兄弟というものはそのように良いものです。そうして、私がソウルに行ったり来たりするとき、そのおばの家に寄って妹に会い、話をしたりしました。会えば、涙をにじませながら話していたことが、今も追憶に残っています。そのように愛していた妹が、私が監獄にいるとき、何の病気か分からないままにだんだんと体が悪くなって死にました。それを獄中では知らなかったのです。ところが、一度はすっと霊的に現れて、白い衣を着てあいさつをするのですね。「私は、このようになりました」と、その時が霊界に行った日だったようです。かわいらしい顔つきだった妹でしたが、それが今も忘れられません。

 情緒的な追憶の内縁というものは、それを克服する力がないのです。ですから、人は愛から生まれ、愛を中心として生きるようになっていると、このような結論を下すことができます。生まれてからのすべての追憶の感性を振り返って考えてみるときに、人は、愛を中心として生きるのが幸福なのです。それゆえに霊界で高い位置に行きたい人は、誰よりも人のために涙をたくさん流す人になりなさい。父母の心のように、父母の体のようにです。

  大宇宙圏の故郷を思う人は、すべてのことを抱擁する

 永遠に安息して生きることができ、幸福の基台を無限なる世界に拡大しては、無限なる世界へ縮小させることのできる力の母体である愛の王宮があるというとき、私はそこに行って住みたいのです。私は、そのような世界で住みたいのです。私は、そのような本郷の地、本郷の故郷をもちたいのです。

 皆さんは、一方向性の世界に行って定着するのか、四方性、立体性の世界の故郷に行って定着するのかという問題が、皆さんの一生の課題なのです。皆さんの心の、本来の心情的度量というものは、無限です。東西南北、前後左右、球形体を拡大して宇宙までも接続することのできる本質をもっています。これが無限に拡大しようとするのですが、これが私なのです。私の拡大した本性であるにもかかわらず、皆さんの拡大した愛の本性をどのくらい協助してやれるのかというのです。深刻な問題です。

 東へ、西へ、南へ、北へ、前後左右へ広がりたい本性の愛の心情圏が私の本性であるにもかかわらず、どれくらい私自身がその力を与えて広がっていくことのできる援助者になっていますか? あるいは、反対者になっているのですか? 援助者になるときは、宇宙全体が私の故郷になるというのです。平安道定州が私の故郷なのです。定州でも徳彦面上思里二二二一番地の一つの家なのですが、これを拡大するならば無限に大きくなります。

故郷を考えるように三千里彊土を考えよう

 それでは、故郷を考えるように三千里彊土(注:領土)を考えてみましたか? 外国に行って外国の監獄に入っていると、その位置を越えることを私は発見しました。「ああ、監獄が不幸な所でないのだなあ」ということを発見しました。外国の監獄に入ってみると、韓国の監獄が懐かしいのです。そのように考えるとき、「監獄生活が不幸なものではないのだなあ。だから、韓国で私を捕らえて監獄に押し込んだ怨讐たちも愛さなければならない」という思いをもちました。この位置に、私がここにいるとき、その怨讐が訪ねてきて、「昔、韓国であなたを監獄に押し込んだこのかわいそうな、許しを受けることのできない怨讐が訪ねてきました」と涙するようになるときは、崇め、褒めたたえたい心が生ずるのです。ですから、「ああ、イエス様が怨讐を愛しなさいと語ったことは、イスラエル圏内で語ったことではないのだなあ。天上世界の道理を知り、大宇宙圏内の故郷を思う心をもってみるときに、これは部落で争い、鼻血を流す、そのようなことを許すのは問題ではないのだなあ」ということを感じました。

 ですから、心情を中心としてたくさんの風雪を体験した人は、不幸な人ではないのです。霊界を知ってみるとそうなのです。貧しいからといって不幸なのではないのです。子供一人に、億万金、大韓民国の地を売り払っても買えない宝の価値があると、子供の一カ月分の月謝を準備する父母の道には、天地が和合するというのです。貧しいことが不幸ではないのです。そのような粘りのある父母たちの子孫を通じて、そのようなお母さんたちの系統を継いだその後代の中から、世界を愛することのできる聖子たちが生まれたというのです。

  心の永遠なる本郷を探し求めていく方法

 私たちは、故郷を探し求めていかなければなりません。肉的な故郷は、私が生まれた定州ですが、霊的な故郷はあの世界、神様の心情がある所です。肉的な故郷は横的な故郷ですが、霊的な故郷は縦的な故郷なのです。横的な故郷を手探りして世界を愛してから、縦的な故郷を愛することができるのです。それゆえにこの地球で生きるのは、横的な愛をなすことのできる訓練なのです。

 肉の故郷は、自分の生まれた所ですが、霊の故郷は、自分が行かなければならない所です。ですから、「霊的故郷は投げ打って、肉的故郷である定州に行こう」と、そう言いません。私をみな忘れてしまい、父母をみな忘れてしまい、私の兄弟をみな忘れてしまい、神様を愛せよというのです。神様が愛する一番の皇族を愛せよと、霊的故郷では訓示するのです。

 心の故郷福地を探し求めていかなければならない人生行路の前で、脱落者にならないために、故郷を越えて、この国を越えて、人類を越えて愛してから、神様とあの世の先祖たちと今後の後孫を抱き、愛していかなければなりません。そのような疲れきった生涯の道を行く人たちは、高い天の故郷において主人に近い位置にとどまるというのが天理原則です。

 私は、そのことが分かったので世界の人から悪口を言われながらも行ったのです。「世界の人よ、打て」と言って行ったのです。私が、この横的な道をまっすぐ行かなければならないのに四方から全部打つので、四方から押して打つので、「ジグザグに行くことができません。ずっとまっすぐに行くための試練なのだなあ」と思ったのです。ですから、万事が解決されたのです。怨讐も問題でないのです。

 それで横的な人生行路を経て、縦的に天上世界の本郷に父を訪ねていって、その永遠な父の家で幸福に満ちる息子、娘になりますように! そのようなことが故郷を訪ねていく人たちの希望の基地ではないでしょうか? それでどのくらい精誠を尽くさなければならないでしょうか? それを考えてみなさい。

  祈祷

 愛するお父様。故郷が慕わしいゆえにその行く歩みをとどめることができない生涯の路程であることを私たちは手探りして推し量りました。

 ここに立ちました息子も、肉を中心とした平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地、私の父母を中心とした兄弟と、その村と、その環境を忘れてしまうことができません。そうできないように、私の本郷の地における永遠なる心の故郷を探し求めていくのに、私が肉的な故郷よりも神様を、肉的な兄弟よりも天の国の皇族を、肉的な国よりも天の国の王国を、民をもっと思います、という生活をした人は、間違いなく天の国の保護を受け、神様の愛を受けることができる位置に立つことができるということを推し量って、み言を語りました。

 お父様。故郷は良い所です。なぜでしょうか? 永遠に変わらない父母の愛が漂う所、兄弟の愛が漂う所、村の愛が漂う所、誰が何と言っても、一〇〇〇年の受難の道がおいかぶさり、またおいかぶさり、またおいかぶさるとしてもそれを越えて出てきて、また、慕わしく思うものが故郷だからです。そのことを考えるとき、愛が偉大であることをもう一度感じました。今日、私たちの生涯において、天の故郷を中心として、行く道の前に迫害が加重され、困難さが加重されてもまた、よみがえる慕わしさの心、永遠なる主体たる神様を中心として故郷の父母に対する心、一生を越え、また越えて永遠に行くことのできる、このような浸透する心情と欽慕の心をもった人は、いつも二つの世界の故郷をもった幸福者であることを、この時間悟るように、お許しくださいますようお願い申し上げます。

 自分が与えたい時に与え、受けたい時に受けることができる、愛を中心としてそのような位置に生きる人たちが幸福な人であることを知りましたので、その世界に向かって自ら生き、自分の一生行路を収拾し、その標準を定めまして厳粛に、本郷に、心深く、大きいその世界に拍子を合わせ、その道に協助することができる体の版図を整えなければなりません。そうでなくして恥ずかしい自分自身を発見するときに、いかばかり悲惨なことであるかを悟ることができますように、それを固く決意しながら、締めていきながら生きることのできる統一教会の信者たちになるよう、お許しくださいますことをお願い申し上げます。

 今や七十歳を迎え、初めて迎える聖日であるこの日に故郷を語りました。私が年を取るにつれて故郷に近づくことを知るようになりながら、自ら整えなければならないすべての準備がまだ尽きないことを感ずれば感ずるほど、今後の十年、あるいは、それ以上の年を前にして、すべての忠誠とすべての努力を加重させなければならない責任を感じながら、きょうみ言を語りました。

 これらの人たちが、このみ言を通じまして心の中に忘れることのできない本郷を、本性の故郷を慕いますので、すべてのことを忘れて乗り越えていくことのできる誇らしく、大胆であり、強い群れになりますようお許しくださいますよう切にお願い申し上げます。

 お許しくださいましたその日、その故郷の地の前に恥ずかしくない、愛され、歓迎されることに堂々とした息子、娘になりますよう祝福してくださいますようお願い申し上げます。すべてのみ言を真の御父母様のみ名により申し上げました。アーメン。(一九八九・二・一二、本部教会)












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