真の御父母様の生涯路程 1
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真のお父様の誕生と内的準備

第一節 真のお父様の誕生とその背景
      一九二〇年・陰暦一月六日

一 平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地

失郷民になった人類

 本来、神様が人類に許した故郷は一箇所です。そこが、アダム家庭の住む所でした。そして、その故郷の主人は、神様です。また、神様を中心とした、その時の真の父母です。アダム・エバは、堕落しなければ、その時代に真の父母になり、神様と一つになったのです。そして、真の父母の愛の圏が生まれ、その愛を中心とした出発の基地が、人類の故郷になったのです。

 そうなったならば、お父さん、お母さんが一つになり、神様と完全に一つになり、息子、娘が完全に一つになったのです。ところが、これが反対になってしまったのです。堕落することによってエバがアダムを引きずり込み、二人とも死の道に引き出され、またカインが弟であるアベルを殺して、そこを戦場に変えてしまったのです。ですから、偽りの父母から出発したのです。偽りの故郷から出発したというのです。偽りの国ができてしまったのです。偽りの世界ができてしまったというのです。

 そのようにサタンが支配する世界になってしまったので、故郷を復帰しようという善なる人々の天の役軍が来れば、すべて捕まえて殺してしまったのです。それゆえに、宗教は迫害されるということが当たり前になったのです。そして今日まで、荒野でさまよいながら苦労したアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス、イスラエル民族、そしてキリスト教まで、すべてが放浪者になったのです。自分の祖国がないので。殺され、追われて犠牲になったのです。

 知ってみると、サタンの愛によって失郷民(注・故郷を失い異郷で暮らす人々)になっていたのです。サタンの愛によって、サタンの生命を受けるようになったため、神様の前にいることができなくなり、神様は彼らを追い出したのです。それで失郷民になったのです。神様の生命を受けなければならないのに、悪魔の生命を受けたのです。父母の愛によって受け継いだ生命なのに、それが、まぎれもなく悪魔の生命になっているために、追放されたのです。その次は何でしょうか。悪魔の血によって汚されました。悪魔の血統を受け継いだために、追放されて失郷民になったのです。

 それでは、神様の恨とは何でしょうか。故郷! イエスの恨とは何でしょうか。故郷! 数多くの義人の願いとは何でしょうか。故郷! その次には、祖国を探すことです。これを知らなければならないのです。これは人類の希望であり、宗教人の希望であることを、皆さんは知らなければなりません。


人類の本郷として定めた村里

 エデンを受け継ぐ人とは誰かというと、真の父母なのです。その真の父母が生まれた所がエデンですが、堕落によって故郷の地を失ってしまったので、代わりに二番目の真の父母として生まれたお方が、エデンの園の主人になるのです。それゆえに、真の父母の生まれた所が人類の故郷になるのです。人類の後孫として生まれた皆さんにとって、ご父母様の生まれた所が故郷にならざるを得ません。

 先生が生まれた所が、摂理からいえば皆さんの本郷です。神聖な所であり、本郷だというのです。それゆえに、本郷の地には本然の心情を植えるべきです。本然の心情を本郷の地に植えよう! 本然の心情を植えることができる本郷とはどこですか。(定州です)。なぜ定州ですか。定州がなぜ本郷の地になり、定州を抱えている大韓民国が、なぜ本郷の国にならなければならないのですか。そこに神様のみ意があり、終局的なすべての世界を収拾して帰ろうとするためです。

 心情の出発点も一つであり、帰結点も一つです。過程も均衡的に通じるようになっていて、偏頗的、偏向的には通じないのです。定州、名前がいいでしょう。定めた村里。誰が定めましたか。神様が定めました。先生が定めたのではありません。韓国の人々が定めたのでもありません。神様が定めた村里、それゆえ、そこが故郷の地に一番近い道であることに間違いないというのです。

 定州という言葉は、本当にいい言葉なのです。すべての人の故郷になることができる、そのような内容があると言うことができるのです。


平安北道定州郡


 平安道の人々は「猛虎出林」(猛虎が林から出てくる)のような性格です。ソ連や中国など、国境をよく出入りして、どこでも歩き回ります。平安道の人々は外交が上手で、やり方がうまいのです。国境を出入りする人々です。

 平安道の人に、なぜ官職をさせないか知っていますか。それは、完全に総なめにするからです。ですから、平安道の人を見くびらないでください。今日、韓国で経済の実権を握っているのは北韓出身の人たちですが、ほとんどが平安南道、平安北道の人です。もちろん慶尚道の人や、江原道の人も何人かいることはいるでしょう。しかし、それは神様が保護してくださり、すべて等しく分けてあげなければならないからであって、例えてみれば、彼らは魚のしっぽをもらって食べている立場なのです。

 平安道の人は、頭がさえていました。なぜさえていたかというと、ここが韓国のキリスト教の本拠地であり、西欧文明を先に吸収したからです。考えが早いのです。

 人材は、平安北道の定州から、たくさん出てきました。定州郡は有名です。独立運動を主導した所はソウルではありません。キリスト教の背景を中心として、共産主義と闘争したというのです。闘争する境界線には、力のある将軍が集まるのです。それと同じです。それゆえに、平安南道、平安北道から人材がたくさん出ました。多分、今も定州郡には人材が多いでしょう。定州郡だけ動けば、平安北道を動かすことができ、平安北道を動かすようになれば、北韓全体を動かすことができるのです。それゆえに金日成が、平安南道にある平壌において全部を動かしてしまうのです。


徳彦面上思里

 平安北道定州郡に徳彦面という所があります。先生が生まれた面(注・地方行政単位の一つで、郡と里の間)です。その徳彦面に住んでいた人々の中で、六百世帯が避難してきた人たちです。六百世帯ならば、三千名くらいになります。その徳彦面という所は、五山学校を中心としていたために、インテリが多いのです。そのため、避難民ですが水準が高いのです。

 ところで、彼らは、ここで面民会をつくりました。その面民たちが団結して、徳彦面に避難してきた人の中で、貧しい生活をしている人がいれば助けてあげようと、学資金を準備したのです。しかし、誰かの家に訪ねていって、「あなたがこのように貧しい状況にあるので、面が学資金を用意して手助けしようと思います」と言えば、その貧しい生活をしている人も、「なぜ私たちが面の助けを受けるのですか。私たちには必要ありません。私たちは絶対他人の助けを受けずに、私たちなりにやっていきます」と言います。

 また、米をかますごと、貧しい人に与えても、絶対受け取らないというのです。「なぜ、私が面の後援を受けるのか」と言うのです。このようにして、米のかますが余り、学資金が余るというのです。それを私は有り難く思ったのです。その徳彦面という所は、私が生まれたからそうなのでしょうか。徳彦面から博士が十二人輩出し、事業家も多いのです。

 ところで、統一教会の文先生は、昔はそのように思わなかったけれども、今では世界的な偉人になったといううわさが立ったのです。それで面民たちが、面民会の名簿集を作って、その郡で最も有名な人、われこそはという人はすべて載せて、私たちはこのように誇り得る面に生まれたという宣伝をしようと考えたのです。それで、私は「世界に宣伝しなければならないのであって、面だけに宣伝するようにはなっていない」と言いながら、「載せるのはやめなさい」と言いました。

 この面民たちは、団結して「他人の世話にはならない」と言う人たちです。ですから今後、その面民たちに「統一思想」さえ入れば、現在の統一教会の教会員たちは面目を失うのではないかと思います。私はそれを見て、また、その定州の人の、徳彦面の人の、人となりが良いというので、感動しました。

 本来私が生まれた所は、平安北道定州郡徳達面徳星洞です。定州郡の地方のある村で徳が達し、その次に徳星洞、徳が星のように輝くというのです。これがのちにどのようになったかといえば、徳彦面、士人を表す彦の字です。士人の彦の字は、知識を表すのです。上思里、上を考える里に変わったというのです。徳がある星とはどういうことですか。それは主を象徴することではありませんか。それが徳彦面、上思里になったのです。全部発展してきたのです。それでは今後、どのようになるでしょうか。定州郡、それから統達面にならなければならないのです。それから何の里ですか。統一里です。そうしてこそ、心情圏がそこに連結されるのです。

 私の村は上思里といいますが、この部落は南韓の部落だといううわさが立ったのです。やれということは皆一番よくやるけれど、一固まりとなって共産党を嫌うのです。それは私に似てそうなのです。上思は「上」を「思う」ということです。上を思うから神様を考えなければなりません。地名がそうです。上思部落ですから南韓の部落にならなければならないのです。私のような人もそこで生まれたので、上を思う人にならなければならないのです。自分であれ誰であれ、家を思わず全体を思うのだなあと、そんな話も通じる言葉なのです。


生家二二二一番地

 故郷という題目を中心として、永遠に安息して暮らすことができ、幸福の基台を無限の世界に拡大させて、再び無限な世界に縮小させることのできる、力の母胎である愛の王宮があると言うならば、私はそこに行って暮らしたいと思うのです。私は、そのような世界で暮らしたいし、そのような本郷の地、本郷の故郷をもちたいのです。

 皆さんは、一方向性の世界に行って定着しようと思いますか、四方性、立体性の世界の故郷に行って定着しようと思うのですか。それが、皆さんの人生に残された課題なのです。皆さんの心の、本来の心情的度量というものは無限なのです。東西南北、前後左右、球形体を拡大して宇宙までも接触することのできる本性をもっているのです。それが無限に拡大しようとするのですが、それがまさに私であり、私の本性なのです。それにもかかわらず、皆さん自身が愛の本性の拡大にどれくらい協助したのかというのです。深刻な問題なのです。

 東に、西に、南に、北に、前後左右に広がっていこうとする本性の愛の心情圏が私の本性であるにもかかわらず、どのくらい私自身が力を与えてあげ、広がっていくことのできる援助者になっているのか、あるいは反対者になっているのか、どちらですか。援助者になる時は、宇宙全体が私の故郷になるというのです。それが制限されたのです。平安北道の定州が私の故郷です。定州でも徳彦面上思里二二二一番地の一点ですが、これを拡大すれば無限に大きくなります。


真のご父母様に侍って本郷の地に

 人はどんなに遠くにいても、根本を離れることはできません。変わらない心情的、情緒的な根本から、離れられないようになっているのです。これは、根がそこから広がっていったためです。根を越える存在がないために、故郷に対して懐かしく思ったり、心が向かうのは不可避なのです。このように見る時、故郷というものは、私の人生において重要な教育の材料を八〇パーセント以上供給する所なので、人間から故郷の因縁を切ってしまうことはできないのです。皆さん、そうではありませんか。

 先生が祖国を訪ねれば、どうでしょうか。金浦空港に降りるや否や、どこへ行きたいでしょうか。ここは祖国ですが、金浦空港を訪れたのではないのです。ではどこを訪ねていきますか。韓国の中心地はソウルですが、ソウルを訪ねていくのではなく、ソウルを過ぎ、中心地を過ぎ、あの田舎の平安北道の定州の山と海辺にある家、そこを訪ねていこうとするのです。そうするようになっています。それはなぜでしょうか。そこから出発したので、そこに行って会わなければならないと、帰っていくのです。何を中心としてでしょうか。情緒的な基準を中心として、帰っていくのです。

 ですから、文総裁はどこへ行く人ですか。何をする人ですか。故郷を訪ねていく人です。簡単です。「どこへ行く人ですか」と尋ねるならば、故郷を訪ねていく人だというのです。どんな故郷でしょうか。偽りの故郷でなく、真の故郷です。故郷を訪ねていくのです。

 そうして先生が生まれた故郷の地、昔私が育ったその庭、私が遊んだその村で、それらを実際の教材にして教育したいのです。その山河で跳ね回ったその時、その時代を、皆さんが死ぬ前に、直接先生を通して説明を聞くようになる時に、先生の歴史をはっきりと知る皆さんになるということを知らなければなりません。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしくなるのです。今後「統一思想」を身につけた人々は、そこをイスラム教のメッカのように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるのです。

 それで、「初めから私は真の父母に侍った。出発から侍って、あとにも侍った」と言うことができてこそ、天国の民になって、天国の皇族が生じることができるのです。ですから父母様に侍って、出発した所へ帰るのです。

 これは、人類歴史上、一度しかないことです。先生と一緒に、先生の故郷に行くことができ、人類の本郷の地に行くことができる立場に立てるのは、一時代しかありません。これをほめたたえなければなりません。先生を中心として、行くべきか行かざるべきかといえば、死ぬことがあっても行かなければならないという、決定的価値の内容が宿っているという事実を知らなければなりません。

 統一教会において、先生が生まれた故郷は、それこそ聖地です。その聖地を奪還しなければなりません。南北統一をすることと同時に、本郷の地に足を踏み入れ、その先祖の基台の上に心情圏を築いて、そこに一つの摂理の因縁を結んで、自分が宣誓をして新しい決意をすることができなければならないのです。


「故郷無情」と「大韓八景」

 歌を一つ歌いましょう。私が三十八度線を越えてくる時、天の前に祈祷したことがあります。私は三十八度線以南に行きますが、南韓に行って必ず体制を整えて世界的な反共戦線を結び、この三十八度線を再び越えてきて、この北韓にいる共産党を追放しなければならないという、そのような祈祷をしたのです。

 その一念をもって、今まで闘っているのです。きょうもそうであり、残った余生も、その目的を完成する時まで前進しなければならないのが、一つの使命だと思っています。今は緩衝地帯であるということを思うたびに、いつそこを過ぎていくのかと思うのです。韓国の歌の中にそのような歌があるので、その歌を一度歌ってみます。

一、雲も泣いて越える、泣いて越えるあの山の麓
  その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
  今は、どこの誰が暮らしているのか
  今は、どこの誰が暮らしているのか
  谷間の水が乾いて
  瑞々しい肥えた田に雑草が生えているなあ

二、鳥も家を探す、家を探すあの山の麓
  その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
  今は、どこの誰が暮らしているのか
  今は、どこの誰が暮らしているのか
  海には船だけが浮かんで
  漁師たちの歌声が消えて随分たつなあ

 もう一度歌いましょうか。(アンコール)。「大韓八景」の歌を一度歌ってみます。私は、世界の多くの所に行ってみました。名のある所にはみな行ってみました。世界を回ってみましたが、韓国のように美しい国はありません。

 神様がいらっしゃるならば、地球星を眺めてみる時、自然が最も美しい所は韓国だと考えられるのではないかといつも思っています。その韓国の山河、素晴らしい山河の中で暮らしているということを、皆さんは幸せだと感じてください。

一、えヘー、金剛山一万二千 峰ごとに奇岩であり、
  漢拏山 高く高い 名勝のこの山河よ
  えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
  名勝のこの山河よ 誇りだなあ

二、えヘー、石窟庵 朝に見れなければ恨になり
  海運台の夜の月は 見るほど有情だ
  えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
  名勝のこの山河よ 誇りだなあ

三、えヘー、白頭山天池淵は 仙女の夢が深く
  鴨緑江の夏の季節には 筏が景概だ
  えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
  名勝のこの山河よ 誇りだなあ


二 南平文氏の家門の伝統と家庭環境

南平文氏の起源と伝統的性格

 統一教会の文先生は、どこの産ですか。どこの産かといえば、平安道産でしょう。それでは平安道文氏の根本先祖はどこですか。全羅道の人です。南平文氏です。羅州の横の、南平という所が本郷です。このように本郷を探求してみれば、私も全羅道の人です。全羅道の人々の恨を一度解いてあげなければならないので、私がこのような話をしたならば、「南平郡が本郷の文総裁は私たちの側であるので、慶尚道に行ってそのような話をしたとしても、それは気分が悪いことではない」。そう言うのではありませんか。

 私が文氏の先祖(文多省公)を注意深く見てみると、文氏は私生児から出発しているのです。族譜を明かしてみると、新羅時代の慈悲王が啓示によって、「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探せ」という命を受けて、南平にある文巌という岩で泣いているのを探し出して、そこから出発したというのです。花郎道(注・儒仏仙の三教、三徳の精神を尊び、五戒を信条とする花郎の道理)思想の発想者が誰かというならば、文氏です。今はそれを知らずにいます。そのような複雑なことがらが絡み合っているというのです。

 文洪権(七十二家庭)が来て話すには、李太祖の二番目の息子がそう言ったというのです。文氏は忠臣が多いのです。それゆえに、「文氏宗族は今後、絶対奴婢として使うな」という勅命を下したといいます。そのような文献があるというのです。李朝時代に、文氏を奴婢として使わなかったというのです。「摂理的に見れば、その話も妙に一理ある」と思って聞いたのです。

 また、文氏を見ると、賢いから、重要機関にみな入っていたのです。文氏は、頭がいいのです。また頑固さも並大抵ではありません。どんなに貧しくても、片意地を張るのです。全羅道に行っても変わらず、満州に行っても変わらないのです。そのような執念があるのです。文氏は本当に両班なのです。李朝時代には、官職につきませんでした。官職につけなかったのでなく、つかなかったというのです。わざと科挙試験も受けませんでした。それを見れば、骨のある一族でしょう。気概がある人たちなのです。

 そのように、文氏は良心的です。不義とは妥協しない、恐ろしい頑固さがあります。そのような何かがあるのです。そのような文氏の宗族が、今はおよそ四十万になりますが、その宗族の血統をもって私が生まれたのです。

 文洪権、孔子は文氏の家門から何が出てくると言ったのですか。(聖人が出てくると言いました)。では一度話をしてみなさい。私は、それが孔子の話なのか、何なのか分かりません。(はい、文氏の遺跡がたくさんあるのですが、その遺跡ごとに伝えられてきた不思議な伝説があります。南平でもそうですし、公州(忠清南道)の中始祖忠粛公(文克謙)の墓がある所でもそうですし、山清(慶尚南道)の文益漸おじいさんの墓がある所でもそうです。門中から聖人たちが出てくるという、このような話が伝えられています)。


お客さんと乞食接待の家風

 先生の家門の伝統、代々伝わる伝統は、「腹が減った人を絶対手ぶらで送り返すな」というものです。お客さんが訪ねてくる時は、絶対そのまま送り返さないのです。宴会の日でも送り返すなというのです。そうした家訓があるのです。

 韓国全道のたくさんの人々に、御飯を食べさせたのです。日帝時代には、日本人が搾取するので貧しくなり、韓国全道の多くの人が満州に避難して行ったのです。我が家はその道筋にあるので、私の母は、その人々に御飯をたくさん出して食べさせたのです。お母さんが毎日、三十、四十名に御飯を出して食べさせるのです。一生の間そうしながらも、不平を一言も言わなかったのです。

 牛馬に引かせて穀物をひく臼の置かれた小屋があるのですが、そこに砕けた米が出ていかないように、穴を一つ開けておいて防ぐ所があるのです。冬には、炭火を入れた小さいものを一つ入れておけば、そこはオンドルの部屋よりももっと暖かくなるのです。その小屋にいつも一人二人居候するのです。世の中をいくら歩き回ってみても、この家ぐらい御飯を与える所はないから、乞食たちが仕方なく来るというのです。それで私は乞食と親しかったのです。

 私のおじいさんもそうです。伝統がそうなのです。冬に乞食が御飯をくれと言えば、御飯を食べかけていても、台所からお母さんとか嫁が素早く出る準備をしていなかったならば、自分の食膳を持って出るのです。御飯を食べることができません。乞食に御飯を与えて、自分は食べられなくてもいいというのです。

 韓国全道の人に御飯を食べさせたその家門は、滅びません。韓国全道で歓迎を受けることができる後裔が生まれるというのです。それでレバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。私もそうなのです。私も世界中の人に御飯を食べさせる者です。御飯を食べているとき、食べていない人がいれば、私のスプーンが動きません。ストップするのです。

 先生一代において買ってあげた服だけでも、数万着になるでしょう。御飯を食べさせてあげたことは言うまでもないのです。なぜ、そのようなことをしたのでしょうか。愛の平準化、生活の平準化をいつも考えなければならないためです。


曽祖父文禎?先生(一八四一・陰一一・三〜一九一八・一一・二六)

 先生を中心として見る時、先生の歴史、先生の先祖の長い間の歴史がありますが、特に先生の四代上の先祖である曾祖父の話をしないわけにいきません。

 そのおじいさんの時代から先生まで、四代を中心として見れば、私の曾祖父の時に、今の上思里に新しく引っ越してきました。夫婦が故郷を離れ、引っ越してきて、本当に難しい環境で出発したのですが、天が祝福してくださり、その当代に成功し基盤を築いたのです。

 その方に、三人の息子がいました。その三人の息子の中で、私のおじいさん(文致國氏)が長男でした。その次には文社長のおじいさん(文信國氏)、その次には城州のおじいさん(文潤國氏)がいました。我が家が本家でしたが、曾祖父の時には本当に豊かに暮らしたといいます。天から多くの財産を祝福されたために、その近隣地域では有名な家門でした。


祖父文致國先生(一八七〇・陰九・二〜?)

 私のおじいさんについて言うならば、おじいさんは一字無識(注・文字を一字も知らないこと)です。学校も行かず、書堂にも行かなかったのに、『三国志』を、一番最初のページから最後のページまで全部、一度誰かが話してくれれば、それをそのまま繰り返すことができる能力をもった人でした。一度聞けば、そこまでできるのです。

 我が家は国道の横にありましたが、全部「どこどこ村の文氏おじいさんの家に行ってみろ」と言うので、ある時は客間におよそ三十人が集まったこともあります。私のお母さんは強い性格なのに、舅に侍って、一生の間食事の仕度をして、汗を流しながらも不平を一言も言えなかったのです。

 また、おじいさんがいるので、みな酒やたばこをたしなまないのです。おばあさんも年を取って、一人で暮らしていて寂しいために、たばこを吸い始めましたが、もともとは吸いませんでした。なぜでしょうか。それをたしなむお金があれば、それで一杯でも人に施そうというのです。


従祖父文潤國牧師(一八七七・陰一・三〇〜一九五八・陰一・二)

 私のおじいさんの代を見れば、三兄弟がいましたが、末っ子のおじいさんは牧師でした。このおじいさんは、三・一独立運動の平安北道の総責任者として、全国の責任者たちと内密に計画をしてきました。そして、五山学校の職員と生徒および教会信徒、五山住民たちを率いて、万歳示威運動を繰り広げました。この時、主謀者として日本の憲兵に逮捕されることによって、獄中で苦しい生活を二年間されました。獄中の苦しみから放免されてからも、故郷で楽に暮らすことができず、一生の間他郷暮らしをされました。日本の警察の迫害から身を避けながら、江原道旌善で生涯を終えられたのです。

 すべての財産が、おじいさん(文致國氏)に相続されたのですが、そのおじいさんの牧師だった弟(文潤國氏)が、その財産を担保に取られ、すべて使ってしまったので破産してしまいました。それこそ、私の家は一瞬にして破産してしまったのです。そのことによって、私の家の人々は、苦労をたくさんしました。

 そのあとには、そのおじいさんの弟が他人の鉱山まで売ってしまったといううわさが立ちました。その当時、信徒の中に鉱山をもっていた人がいたのですが、その信徒の鉱山まで売ってしまい、なんの音さたもなく消えてしまったというのです。

 ですから、おじいさんも甥たちもそのように思っていたし、文家全体、村全体、近くの村までも、そのように思っていたのです。ところが、そのおじいさんの弟がもっていたお金がどこに行ったのかというと、上海臨時政府に行ったのです。

 その時のお金で七万円ならば、相当に大きいお金ですが、そのお金を全部上海臨時政府に送ったのです。そのようなことをしながら、結局外地で世を去りました。そのようなことをしたので、天が愛することのできる立場に立つことができたのです。それこそ自分のすべてを犠牲にし、信徒を犠牲にし、門中を犠牲にする立場に立って、国のために一生、放浪者として過ごしたのです。

 先生が韓国に下ってきた時、親戚といえば、その方しかいませんでした。夢に、その方が血族の従弟(文龍基長老)に現れて、どのようにして亡くなられたのか、一部始終を説明して住所を知らせてくれたので、その住所をもって従弟の龍基がそこを訪ねていきました。訪ねていったところ、その時は既に従祖父は亡くなられていて、すべてのことが夢に現れたそのままで、間違いないとのことでした。

 私の従祖父は、死んで旌善の谷間に埋められたのですが、それがどのようにして分かるのでしょうか。多くの試練の中でも国を愛し、監獄に行ってもどこに行っても、国を愛する一念を中心として、国の相対的基盤を備えるための教育をしました。そのような基盤があるので、いつ来ても活動できるのです。ですから、直接来て教えてあげることができるのです。そして、文龍基長老も啓示を受けて、従祖父が暮らしていた住所を教えてくれたので、探し出して城州に迎えたのです。

 私が幼い時のことです。数えの七歳か八歳くらいの時でした。従祖父が日本人たちに捕まえられて、二年近く監獄生活をして出てきました。従祖父が監獄生活をしているので、独立軍の軍資金の調達に支障が生じ、どれほど困難に遭遇したのか、従祖父が出てきたという消息を聞いて、独立軍たちが夜中の一時、二時にも人目を避けて訪ねてきました。

 母と父は、私たちのような子供は布団をかぶせて見ることができないようにし、そばを煮込み鶏を料理して彼らを接待しました。そのようなことがきのうのことのように、目にはっきりと浮かびます。その時、私が考えたことは「あのように立派な従祖父が、国のために生きてきたのに、なぜ監獄に行かなければならないのか。日本よりも韓国がもっと強かったら、このような姿に、このようなことにはなっていないはずなのに、力がないのでそうなのだなあ」と結論を出したのです。


父親文慶裕先生(一八九三・陰七・一一〜一九五四・一〇・一一)

 私の父について言うならば、父は法律がなくても生きられる方でした。もし、父がどこからか急に借金をしてきた場合、その借金を返すのに約束した日に利子まで返してあげなくては耐えられない方でした。どんなことがあっても、その約束を履行する人なのです。約束を遂行することにおいては模範的な方でした。法律がなくても正しく生きる人なのです。

 世の中が利口だという人は、そこから下りていくのであり、世間ずれしていなくて善良な人は、そこから後孫を通して上がっていくのです。そのような意味では、私の父のような人は代表的な人物なのです。誰かにお金を貸してあげれば、踏み倒されることはできても、無理やり取り戻すことはできないというのです。また、誰かからお金を借りてきたら、絶対に利子を一文もまけてもらおうとはしないというのです。何日にお金を返してあげると約束すれば、その日にもしお金がなければ、牛も売り、牛だけでなく家の柱でも抜いて、それを売って返すというのです。ですから、お金のやり取りをするなら誰々、またお金を借りるなら誰々、そのように名前が通ったのです。世の中が見る時、他人が見る時、人があまりにも良いのでそうなのだという、そのような家中から私のような人が生まれたのです。

 私が幼い時、父がした話をします。親戚の中のことですが、親戚の中に頭が良くてこざかしい人がいて、その人が私たちの財産を自分の名義にしようとしたことがあったというのです。大きい問題が起きるところで……。そのとき父が言ったのは「浅知恵では、すべての真理は動かない。真理というものは浅知恵の支配を受けない。大義による支配を受けるのである。そのようなことは何年もたたずに明らかになる」というものでした。そのように考えていたのです。

 父は四百ページある賛美歌を持っていますが、これを一度さっと見ておいて、教会に行く時は持っていきません。「お父さん、なぜ持っていかないのですか」と尋ねれば、「それを持って歩けば煩わしいのに、なんで持って歩く? 失ってしまったりするだろうから置いていこう!」と言うのです。「ではどのように賛美歌を歌いますか」と言えば、「どう歌うかだって? ほかの人が歌う時、ついて歌えばいいし、分からない時は、前に立っている人のものを見て歌えばいいだろう」。そのように言いながら、賛美歌を一人で頭にみな入れてしまいました。

 先生は体も太っていて、力も強いのです。父は、稲を入れた俵一つを、このように持って、階段を上がったのです。そのような良い血族に生まれたので、七十を越えた今でも、びくともしないではないですか。

 私の母は活動的で、父は学者タイプでした。根本的に違うのです。何をするにしても、考えてするのです。ですから合わないのです。そのような中で先生は生まれたので、高い所と低い所をすべて測定できるのです。同じならば、高い所しか分かりません。高いものと低いものの間には、通じない所がありません。これを調和させて、すべて消化させることができるのでレバレンド・ムーンになったのです。


金慶継忠母様(一八八八・陰一〇・一五〜一九六八・一・七)

 私の母について言うならば、女傑なのです。大活躍をしたのです。活躍という言葉はちょっと悪いですけど。私はお母さんに似ました。前後がふっくらして、横から見れば、平べったくないのです。そして力があります。力持ちです。

 母は、性格の強い人です。むちで打って降参しなければ、死ぬまで打つ性格です。私もその母に似て、とても強情なのです。一度始めれば、相手が降参するまでは後退しようとはしないのです。そうなのです。

 我が家について言えば、娘が六人で、息子が二人です。兄さんが一人いました。母は十三人を産んだのです。それを見れば、子供をたくさん生む血筋だということです。死んだ兄弟も多いけれど、十三人の中で八人(大きいお姉さん、小さいお姉さん、龍壽、孝淳、龍明、孝心、孝壽、孝善氏)が残りました。娘六人を嫁がせるのに、母がどんなにつらい目に遭ったでしょうか。嫁に行く日になれば、行かざるを得ないから行きますが、父母が苦労し、一家門中が苦労するのを見ると、娘に生まれたことが、本当に恨めしいようでした。

 私の母は、仕事をたくさんしました。子供たちが多くて、その子供たちを結婚させるためには、木綿を織らなければならないのです。木綿を織るためには、綿の木から綿を取って、そこから毛を抜いて糸車に入れて、糸を伸ばさなければなりません。それを平安道の言葉では、「トッケンイ」というのです。このようなものを十反、十一反、十二反……。二十の縫い目を一反とするのです。十二反ならば、一反が二十丈ですから、二百四十丈でしょう。それが本当に、粗織りの木綿のようにきれいなのです。

 ここのことは知りませんが、婚礼をする時、その家柄を評価するのは、平安道では礼緞(注・進物として送る絹織物)だと言いました。婚礼に必要な品物、服などをいろいろと送ります。昔、平安道では、最高の高級木綿を誰が何反くらい持っていくか、それを自慢します。それによって、その家の家門がどれほど自立、自足できるかを評価しました。食べて暮らすには、着ることが重要だからです。その時にナイロンの服がありましたか。服というものは、全部婦女子たちが綿を摘んで糸を作り、機を織らなければならなかったのです。

 そのようなことにおいては、私の母はチャンピオンでした。お母さんの力は強いのです。一日に十本縒りならば、二日で二十丈を織ってしまうのです。普通の女性が三丈、四丈織るのに、二十丈を織るのです。私の姉が嫁に行く時、最も忙しい時には一日に一反を越えました。忙しいから、いつ休む間がありますか。ばたばたとしてしまうのです。私もそのような性格に生まれついて、ぱたばたと上手です(笑い)

 故郷の母が、私を本当に愛しました。すべてのお母さんが子供を愛するでしょうが、特別に母は私を愛しました。それをしばらくの間話せば、涙を流す場面が多いのです。


文龍壽大兄様(一九一五・陰三・五〜?)

 兄の信仰は徹底していました。兄は六・二五事変が起きることもあらかじめ知っていたし、私たちの民族が解放されることもあらかじめ知っていました。すべての難しい問題を、霊界の指示を通して解決する信仰の態度をもっていました。兄には持病がありましたが、それはどうすることもできないものでした。しかし、兄は薬を使って治すという心は、夢にももちませんでした。ただ祈祷で、信仰で病気を克服していきました。そのような信仰基準で、その病気を治したのです。

 私の兄は弟の私に対して、他のことは知らなくても、歴史上には数多くの兄弟がいたけれど、自分の弟は歴史的な弟だと知っていました。それゆえに私が何か言えば、絶対的に従順でした。その頼みがどんなに難しいことでも、そのことを行うのに躊躇しない兄でした。

 このような兄と、別れるようになりました。南北が分かれたのです。間違いなく、兄は北傀の手で殺されたのです。私が韓国の地に出てきて、このようなことをしているために、北韓の地に残っている私の一家、親戚は、言いようのない受難と逆境の中で亡くなったか、今もそのように生きていることでしょう。歴史的過程を中心として見る時、必ずそのような過程をたどらなければならないのです。


天が準備した長孫(直系の子女)の血統

 私は種子がちょっと違います。大韓民国の種子とちょっと違うと思うのです。私はそのように考えます。私の先祖がちょっと違うのです。ちょっと残念でしょう。ここにいる文家、手を挙げてみなさい。文氏、手を挙げてみなさい。

 祝福家庭の子女だといって、先生の前で「なぜ私たちをぞんざいに扱いますか」このようには言えません! 先生は、天が生まれるようにする時に、そのような皆さんの条件を越えて生まれました。天が私を生まれるようにする時に、既に血統を通して準備したのです。その基準は、皆さんが祝福を受けた父母から生まれたことよりも、優れた位置だというのです。

 その先生が、すべての未知の世界を暴くために、皆さんが想像できない受難の道をたどり、苦痛の道まで行きました。そのような恵みを、なんの価値もなく相続できません。そのような道理はありません。その家門の息子として生まれたならば、その家門を代表した父母ならば父母、王ならば王を誰よりも愛して、その愛する標的が、永遠万代にほめたたえられる立場に立ってこそ、その代を継ぐことができるのです。これが相続伝授の原則であって、適当にしてはいけないというのです。

 したがって、先生の一族を愛さなければならない時が来るというのです。文氏を尊重視しなければならない時が来るというのです。皆さんと共に、先生に同じ立場で侍りながら、天の側に立って、天に祈祷できる伝統的基準を立てなければならないのです。天国の長孫(注・直系の子女)がいなければならないというのです。長孫! 世界を連結させようとするなら、文氏が国家版図において、国家的基準が開かれていなければならないのではありませんか。長孫たちが、上の人々が祭司長の立場に立って、世界の郷里に祭司長を代表して、韓国の宗氏(注・同姓で親戚でない人)が行って、文氏の宗義(注・親族)が祭司長の業を一日でもして行かなければならないというのです。このようにして全部連結させて、伝授しなければならないというのです。

 より「ため」に生きる人が何になるのですか。中心存在になるのです。大韓民国において、公的な面を中心として、より「ため」に生きる文氏一族になれば、文氏一族が天運を受け継ぐことのできる時が目前に来るのです! 宗族の長と共に、私はそのように生きてみるという人、両手を挙げて誓ってみましょう。


三 歴史的な大混乱時代と真のお父様の誕生

第一次世界大戦三年後

 皆さんは、近世史において、第一次大戦以後から今までは混乱の世界、戦争の時代が連続していることを知っています。歴史的路程というのは偶然に成されるのではなく、人類史という巨大な歴史をおいて、蕩減を払って行く道だということを、皆さんは原理で習いました。

 世界のすべての知性人たちは、今は急変する世界だと言っています。このように急変してどこに行くのですか。一般の人々は、このように急変すれば絶望の世界に到達する危険性が大きいと思っています。希望の世界に到達すると思っている人は、とても少ないということを知っています。近代文明を指導してきた西洋文明は、既に没落しただけでなく、もう夜の世界に入り込んでいると言う人もいます。西洋文明を指導するにおいて、精神的な支柱であったキリスト教はもちろんのこと、キリスト教を中心とした家庭であるとか、社会であるとか、国家が傾くだけ傾いたというのです。

 さあ、それではこれからの世界は、どのようになるのでしょうか。世界の若い人々の中で未来を考える人たちは、なおさら、とても暗澹とした立場で悩まざるを得ないという時代に来ています。このような実状の中で、もし神様がいらっしゃるならば、神様はそのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これを整備し対処させて、新しい次元の世界に、希望の場に連結させる道を考えざるを得ないという結論に到達するのです。

 そのような観点から見る時、神様は必ずこのような歴史的な終末、この混乱時代に、新しい歴史を創建するための準備をせざるを得ないというのは自然な結論です。それゆえに第一次大戦を中心として、世界的な問題が展開されると同時に、その後の歴史で、世界人類がだんだん興亡を分ける方向に行くということを、私たちは予測せざるを得ないのです。

 そのようなことを考えてみるとき、西洋社会が没落に向かうならば、西洋思想が傾く道に向かうならば、神様は必ずその反対の東洋を起点として、傾くことのない道を模索するのです。地球が丸くて、太陽が朝昇って夕方沈んで、それを繰り返して回っていくように、歴史も回るのです。このような道理をもって考えてみるとき、西洋社会が滅亡に向かうのならば、神様は必ずアジア社会を中心として新しい朝に向かうことのできる道を模索するのです。このように見るとき、今日、西洋社会が求めているのはアジア文明であるというのです。

 そのような立場から見るとき、東洋において神様は、いつからそのような準備を始めたのでしょうか。第一次大戦を中心として始めました。戦いが始まったそののちから、このことが始められたというのです。

 大概大きい事件が起きたのち、三年以内にすべてのことが現れるようになるのです。そのような立場から見るとき、レバレンド・ムーンが一九二〇年に生まれたという事実を考えてみまし

 これが三年、三数。一九一七年から三年後の一九二〇年を中心として、レバレンド・ムーンという人が出てきたというのです。今はレバレンド・ムーンですが、その時にはレバレンド・ムーンではなかったのです。何でもなかったのです。


民族の試練と三・一独立運動

 その時韓国という国は、日本の占領下にありました。ですから、日本を通して生まれたことと同じになったのです。韓国は四十年間、日本の統治下にありました。すなわち、韓国は日本の支配を受けていたということです。ですから、結局先生は日本治下から出てきました。韓国から今後アダムが現れるということを中心として、日本が韓国にあらゆる圧迫を加えたのです。

 先生が生まれるその時、一九二〇年代の韓国は、三年の凶年になって、この上なく難しい時でした。そうした三年期間を中心として見るとき、一九一九年に三・一運動が起きて、日本に対して反旗を翻し、新しく闘争が始まったのです。そのような刹那、二番目の年、一九二〇年に先生は生まれました。そのような試練の過程で、先生一家が独立万歳事件を中心として、試練を経験したその基盤の上で、先生が生まれるようになりました。

 三・一運動をリードした人々は宗教人です。プロテスタントと天道教を中心としたメンバーが、これをリードしてきました。このようして、新しい方向に、日本帝国主義の方向ではなく、アメリカの方向に! アメリカについていくようになります。このような方向を経ていくことにより、キリスト教文化圏が急進的な発展をしたのです。

 十六歳で殉国した柳寛順烈士は、堕落しないエバと同じ立場にありました。アダム国家におけるエバと同じだというのです。そのエバの立場にあった柳寛順烈士の体を、サタンが六片に分けてしまいました。六数はサタン数です。柳寛順烈士は、国家に忠誠を尽くしながら、一身を犠牲にしながらも解放運動をしたのです。

 独立運動が最盛期だった一九一九年に、先生は母の腹中にいました。独立しない地で、そのまま生まれることはできなかったので、先生の生命を中心として、そのような戦いがあったのです。その時から十ヵ月後の一九二〇年に、先生が生まれたのです。堕落したエバの罪を蕩減するために、天の側の心情圏をもって、この地上のすべての女性を代表して、韓国の地を守りながら死んでいった人が柳寛順です。

 摂理史で見る時、条件的に国の基盤を中心として、日本から独立するために天は摂理をしたのです。


家門に迫った憂患

 私が母の腹の中にいる時、母は松の木のソンギ(注・松の内皮)をむいて食べて過ごしたという話も聞きました。これを今日見れば、神様が文先生を愛しているようなのに、生まれる時は、なぜそのように歴史的に追いつめて、一番の患難、谷間にもっていって責めつけたのでしょうか。また私が生まれる時は、我が家門にいろいろなことがあったのです。そのようなことがみな摂理歴史なのです。私が蕩減法を知っているために、そのようなことをみな理解するのであって、そうでなければ、みなうそだということになります。

 我が家門、従兄弟から七親等まで、全部が蕩減を受けるのです。事が起こり始めれば、一回りするまでいいことはなく、全部打って過ぎていくのです。それで我が家は、私一人生まれることにより廃虚になったのです。私が数えの十五歳になる前まで、そうした災難が家庭から離れませんでした。こっちで苦しめられ、あっちで苦しめられて、むちゃくちゃに責め立てられたのです。


天の玉のような男の子(文龍明)誕生(一九二〇・二・二五、陰一・六、子の刻)

 五色人種が集まって、レバレンド・ムーンの誕生日を祝っているのを見る時、神様が嫉妬しますか、しませんか。なぜ神様が喜びますか。レバレンド・ムーンは神様の息子だからです。それで神様は、レバレンド・ムーンを祝うのを嫉妬せず、愛するのです。世の中で父母が子供の誕生日を祝い、誕生日が来れば準備して喜びますが、神様も同じだというのです。世の中に数多くの存在と、数多くの歴史的人物が生まれては逝きましたが、私の誕生の祝賀が世界に及んで一つになる時には、神様の誕生日を祝賀してあげようと、レバレンド・ムーンが考えているので、神様は喜ばれるというのです。

 産児制限して産まなかった息子、娘が、歴代の先祖を代表して、二国の天運を代表して代行できる息子、娘になると誰が分かりますか。私の母と父が産児制限したならば、文総裁が生まれたでしょうか。私の母は、子供を十三人生みました。

 文総裁の骨相を見ることのできる人は、ちょっと見てください。二国の大統領の相ではありません。目がこのように小さいために、宗教指導者の素質があるのです。カメラの絞りを絞ってこそ、遠くが見えるでしょう。また鼻を見なさい。誰かの話を聞くようになっていますか。

 私は、私たちの村では、「五山の家の小さな目」で通っていました。目が小さいためです。村で「五山の家の小さい目」と言えば、私だと分かります。目がどんなに小さいか、母が私を生んで、目がないと言ってしばらくの間見入ったとか。それで開いてみると、ぱちぱちしたというのです。それで安心したそうです。そのような目が必要なのです。

 私が幼かったときは、顔が本当に良かったようです。私をおぶって汽車に乗ると、私の顔が見えれば、人々がのぞきに来て、抱きたがったというのです。そのように何時間かしていて、汽車から降りたという、そのような話をしていました。

 昔は田舎に病院がなかったので、汽車に乗って行かなければなりませんでした。定州から宮川という所に行くのですが、そこにはキリスト教理念で建てた病院があるのです。親切だと言われている病院です。そこに、具合の悪い赤ん坊の私を抱いて行くと、その横に座った人が赤ん坊を見るや、「このように器量の良い赤ん坊を一度抱いてみたい、恵みを受けて我が家が良くなるはずだ」と言ったというのです。多分、赤ん坊を産めない、息子を待ち焦がれる女性なのか知りませんが、そう言ったというのです。

 今でも、これくらいならば、どこに行っても利用するのです。アジア世界でももちろんそうですが、西洋世界でも私が劣ることはないのです。力でいってもそうなのです。先生は、よく育った野菜の中でも一等品目、まんまるの大根、先生を見ればそうでしょう。

 そうなのです。そして、東洋の人のように足が短くないのです。そのように育ったのです。さっと見れば、東洋の人ではありません。東西に通じる共通の祭物として適格者だというのです。東洋人と西洋人の祭物を選ぶとすれば、私のような男性を選ぶだろうというのです。


真のお父様のお名前「文鮮明」の意味

 私のまた従弟に、文昇龍がいます。本来私の名前の真ん中の字は「龍」の字だったのですが、それを捨てたところ、拾って昇均が昇龍に化けたのです。

 先生の名前は文鮮明です。「文」は何かというならば、真理です。「鮮」は、きれいに、はっきり現れて、照らすのです。はっきり現れるのです。「鮮」の字は陸地と海、その次に「明」の字は何ですか。日と月、これは相対的です。これを真理で一つにしなければなりません。真理で日と月を一つにし、真理で海と陸地を一つにし、一つの世界をつくるのです。名前も、それで「鮮明」なのです。

 鮮明という言葉は、澄んで、きれいで、傷がなくて、秩序的だという意味です。内外のすべてにおいて、規範に従い、それを評することができない清潔な内容をもったものが、鮮明なものだというのです。

 では、真の父とは何ですか。世界人類の父です。皆さんは人類の父を愛することにより、何になるというのですか。人類の父の相続を受けるというのです。その次に先生は何ですか。お父さんであると同時に何ですか。世界王圏をもって来ませんでしたか。大韓民国の天下を号令できる王圏が成立されてこそ、世界王圏がなされるのです。

 先生が「真の父母」という名前を宣布する時まで、神様がどれほど苦労し、宗教がどれほど血を流したのか知っていますか。きのう、『格菴遺録』というものを見ました。この本は『鄭鑑録』よりあとに出てきたものですが、それを見ると、既にその時から文総裁の名前が予言されて出ているのです。














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