真の御父母様の生涯路程 1
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真のお父様の誕生と内的準備

第四節 ソウル黒石洞中学時代
        一九三八・四〜一九四一一三

一 京城商工実務学校電気科修学
    (一九三八・四・一二入学〜一九四一・三・八卒業)


黙々と率先垂範

 皆さんを見れば、ほとんど数えの二十歳前後、十七歳以上、二十一歳未満です。先生も過去、皆さんのような年齢の時代に、このような道を探していくために、新しい開拓者の立場に立ってもがき苦しんだ、その時代が思い出されます。

 中学校の時、ソウルに来て学校に通いました。ソウルに初めて来てみると、自分の故郷に住んでいたころと、環境がどんなに違うことか。定州は、言うならば田舎です。その環境で生活したのちに都市に来ると、それはどれほど違うことか。一八〇度違います。またどれほど範囲が広いか。そこに拍子を合わせながら過ごした、あらゆることが思い出されます。

 先生が皆さんのような年齢の時には、絶対に話をしませんでした。私が行くべき道を探すにさいし、道理を明らかにできず自分が立っていないのに、何の話をしますか。口を開ける日には天下が私を阻むことができないような自分に育てていかなければなりません。騒いで彷徨する場では、自分を育てることはできません。根がありません。深い根がないのです。

 謙遜な人、自分に実力があっても驕慢に振る舞わない人がいます。そのような人は、むやみに触れられないというのです。何だか分からず、その人から威圧感を感じるというのです。その人には主管性が宿っているのです。先生も昔、そのような何かがありました。先生は、学生時代にはあまり話をしませんでした。学校に行っても、べらべらと話したりはしなかったのです。一日中話をしない日もありました。それで同級生たちが私に、本当に気兼ねをしたのです。学校の先生より、もっと気兼ねをしました。かといって私は、彼らを恐喝したり脅迫をしたこともなく、げんこつを振るったこともありません。それでも彼らは、私にむやみに接することができませんでした。

 その上、どんなことまであったかというと、学校の手洗いで友達が小便をしようと待っていても、私が行けば、場を明け渡してくれるのです。また悩みがあれば、すべて私の所に来て相談しました。謙遜にすれば、彼らの心をすべて占領できる位置に立つようになるのです。

 そして中学校時代には、清掃を私がみなしました。全学校を私が先頭に立って愛したい心があるために、全学校を代表して私が掃除をしようと考えたのです。そのような時は、他人が助けてくれるのは嫌だというのです。一人でやりたいのです。ですから、他の人がしたことを、再びするようになるというのです。そのように何度かしてみると、友達がみな、「じゃあ、お前一人でやれ」と言うのです。「俺たちはこのようにやりたいのに、お前が一人で何度もそのようにするから、お前一人でやれ」と言うのです。それで、自然に一人でするようになるのです。

 その時間は、心と楽しむ時間なのです。世の中から見れば、孤独な立場のようですが、心と友達になる時間なのです。なすべきことをして、座って瞑想でもしてみなさい。深い祈祷の境地に入っていくのです。他人の分からない深い世界に入っていくのです。そのようなことが必要なのです。

 話をしないけれど、彼らの近い友達になりました。あらゆる難しいことは、私を訪ねてきて相談するのです。また家からお金がたくさん送られてきて、それを保管できなければ先生の所に持ってくるのです。私に任せておいて「盗まれてしまってもいいから預かってくれ。そうすると安心だ」と言うのです。世の中のどこにそのような道理がありますか。「なぜそのようなことをするのか。こいつめ。面倒くさい」と言うと、「だめ、だめ」と言うのです。これはどういうことですか。私に預けておけば、それを泥棒が盗もうとしても、その人の手が震えてできないだろうと、そのように思うというのです。それは、人間世界にはない新しい周波、新しい周期で環境を連結させていくということです。新しい舞台を開拓して生きることができる、そのような力が真なる愛にあるということを知らなければなりません。


執拗な探求力

 私の学生時代に、私の質問に返答できなくて逃げていった先生が、どんなに多いか知っていますか。私はしきりに質問するのです、「物理学に出てくる公式や定義を誰が決めたのですか。私は信じられない。私に分かるように説明してください」と。そのような人なのです。

 自分が検証する前には、どんなことも信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれれば、それを中心として、先生をやり込めた人なのです。誰がこのような公式を作ったのか、というのです。私が作る前に作ったので気分が悪いのです。私が作るべきなのに、と(笑い)。暴いては追い詰め、暴いては追い詰め、追求し、また追求するというようなことをしたのです。適当にではありません。

 そのように私は中学校時代から先生をやり込めた人なのです。激しくかみついたのです。そうして答弁ができなければ、私が図書館に行ってすべて勉強して、「こうでなければなりません」と言ったのです。

 勉強をしても、試験の前日にぱっと見れば、それが間違いなく的中します。先生が講義したものの中で、最も試験に出る確率が高いもの、二番目に高いもの、三番目に高いものをずーっと取り出して、ほかは見ません。それだけに丸をつけるのです。私が講義をするならこのようにするだろうと、心理的に分析して準備すれば、間違いなく七〇パーセント以上は合うのです。一、二、三、四、五、六……という先生の暗号があります。普通の人は、見ても分かりません。試験の時は、一枚の答案用紙に数字だけをさっさっと書いておけば、寝ながら書いても、七十点以上取れます。熱心に勉強したとしても、全部は頭に残らないのです。全部そのまま流れていくのが普通でしょう。


自己準備の精誠

 祈祷をすると、なぜ良いのですか。精神力を集中すると、観察するのが早いというのです。学校の先生が講義をすると、既に試験に出る問題が分かるのです。試験に出すか、出さないか、先生の心のうちが分かるのです。なぜそうなのかというと、それはアンテナを高く上げているのと同じだからです。アンテナを一段高くして聞けば、小さい音も聞こえるのです。それと同じで、精誠を尽くす人は、必ず未来の世界が連結されるのです。それで、啓示や預言は、すべて精誠を尽くす人から出てくるのです。

 そして、試験勉強のために精誠を尽くし、勉強して点数を取ることは、今後の発展のためだと思い、人類のために、神様のために、全体のために勉強しようとすれば、その試験にはすべての善なる霊たちが、その分野の専門的な善なる霊たちが来るのです。間違いなく来るのです。

 ですから、精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入れば、文章を書いてみなさい。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いても良いのです。自分の手だけで絵を描くのではなく、「この手に一人の偉大な画家が来て私を協助している」と考えて、精誠を尽くして描けば、感嘆の声が上がるのです。そうして良い作品を貼りつけておくのです。そのようなことが起きるというのです。

 精誠を尽くさなければなりません。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は、一度尽くして使ってしまうものではありません。刀は、いつも磨いていなければなりません。刀を一度使って磨かなければ、どのようになりますか。ですから、磨かなければならないのです。心も一度激しく怒ったなら、よく磨いておかなければなりません。それが問題なのです。静かに心の位置をつかんでおかなければなりません。

 そうすれば、皆さんがしなければならないことが、すべて分かるのです。それをしなければなりません。役に立たないことを考えて、若い女性のおしりについていき、どうしたこうしたと、よこしまなことをしていてはいけないのです。皆さんは、方向感覚をつかんで、それを中心としてそこに行かなければなりません。方向は細くとがって、一つしかありません。

 皆さんは、万全の準備をしなければなりません。毎日のように、押し進めていかなければなりません。自ら押し進めていくことのできる、推進力をつくらなければなりません。それは、自分一人だけではできないのです。数えの十八歳になれば、自分はどのような人間なのか、すべて分かるというのです。白分だけの力をもってしてはできません。ですから、いらだちやすいのです。友達の力や、師の力や、神様の力が必要になるのです。

 御飯を食べるのなら、「この御飯よ、私が準備する肥料になっておくれ。消耗する頭脳に、消耗するすべての細胞に、力を補給しておくれ。悪に対して判断し得る正義の力になっておくれ」と、そのようにしなさいというのです。一度間違えば、天地が滅びるのです。準備しなさいというのです。


体力鍛練

 世界にないこのような一大革命を私が夢見て、神様から「お前が健康でなければこのみ旨を、この偉業を完遂できない」という天命を受けたその日から、激しい訓練をした人なのです。

 私には力があります。一人、二人くらいは軽く相手にする能力もある人です。また、私がしてみなかったスポーツはありません。数えの二十二歳の時まで、夜昼なく体のために運動をしました。

 ボクシングもしました。昔の日本の家のようなものは力を込めて打てば、一発で壊れるのです。今でもそうです。道を歩いていて、悪い者がいれば転がしてしまうのです。男は自分の保護術を学ばなければなりません。今、太っていても、駆けていって跳び上がり、塀を越えるのです。そのような訓練をしたために、先生がこのすべてのジェスチャーをしても、白然でしょう。

 相撲をしても負けません。サッカーでも有名です。このような体格をしていても速いのです。昔、若い時には鉄棒もして、いろいろな運動で鍛練をしておいたのです。今でも、他の人々が知らない運動をするのです。いろいろな運動を先生が開発しました。それを教えてあげましょうか。

 体の訓練をすれば、精神的世界の土台が既に位置を占めるようになるために、流れていかない男になるのです。そのような武術を考案して、外的にそれを準備しておかなければなりません。君たちみな、力がなくて追い出されてもいいですか。正当防衛、三度だけ打て! 私の手が出るのです。長子の権限をもって凛々しくしなさいというのです。


言語訓練

 先生は、言葉を早くしゃべれば、皆さんが一言いう間に、十言いいます。そのようなチャンピオンになるための訓練をした人です。平安道の人は、「赤ちゃん1」と言ってから、何を話すか十回は考えます。次の言葉が出るまで「赤ちゃんやー」と言ったきり、次の言葉を考えているのです。ソウルに来てみると、私の下宿屋の主人のおばさんは、唇がこのように薄っぺらで、小さい目を鷹の目のようにぎらぎらさせながら、ぺらぺらと町内の説明するのですが、息もつかないのです。やあ、私はあのおばさんにも勝たなければならないといって、そのための訓練をして勝ったのです。発音の一番難しいのは「ティ」の発音です。それでカル、ナル、タル、ラル、このように全部ハングルで書いておき、朝夕にぺらぺらと訓練をしたのです。

 そのように話を早くする訓練もした人です。なぜでしょうか。話し始めれば、言いたいことを、あっという間に浴びせるためです。頭の先からつま先まで、みな浴びせるのです。それで六ヵ月間、小さな部屋に入って「キオク、ニウン、カ、ギャ、コ、ギョ」から、全部発音練習をやり直しました。発音が全部できるまで訓練をしました。それで言葉が早くなったのです。話し方も矯正できるのです。

 先生は、膨大なみ言を限られた時間内に伝えなければならないので、威厳をもって話すことができません。そのようにすれば、言うべきことをすべて言うことができません。それゆえに、先生が一時間話したことは、他の人が五時間話したことと同じです。忙しい時にはたたみかけるのです。しっかりしろというのです。そのようにしたので、今まで復帰の前線が滅びずにきたでしょう。そのようにしてきたので、先生が滅びずに復帰摂理を引っ張ってきたのです。


音楽に心酔

 先生は、青少年時代には音楽が本当に好きでした。私が下宿していた家の主人は、y車を運転していた人ですが、江原道のある豊かな家の長男なのです。その当時は、運転手であれば、とても優れた人なのです。その人は、韓国の山河で行かなかった所がありません。彼は民謡ならば知らないものがなく、数百枚のレコードをもっていました。それで、その主人の奥さんに、私の願いをかなえてもらうための作戦を練ったのです。

 毎日のように、主人とあいさつして、夕方には食膳も運んであげました。主人の奥さんが何かを頼めば、してあげ、言うとおりに、みなしてあげるのです。このような作戦をするのです。それを計画どおりにしたところ、数日以内に、主人の奥さんが私を娘婿にできればよいと思うほどに、ほれ込んでしまったのです。

 そうすると、そのレコードを私にみな持ってきてくれたのです。それで、そのレコード盤を全部聞くのです。主人が来て見ても、ばれないのです。盤を数枚ずつ持ってきて、それを聞いてしまうと他のものと取り替えて、全部聞きました。そして奥さんに、「あなたの御主人は、あのレコード盤を何枚くらい聞いてみましたか。すべて聞きましたか、聞いていませんか」と尋ねました。主人よりももっと良く聞かなければならないではないですか。私は数日以内にみな聞こうと、二十四時間、ずっとかけて過ごしました。夜も聞きながら寝たのです。

 歌を上手に歌えば本当にいいのです。孝子は、お母さんの背中をたたいてあげながら歌い、青春の男女が愛し合っている心情を歌おうとすれば、その境地に入っていくのです。復帰の責任を負って先頭に立って行く者として、所願成就をいかにしてもやり遂げなければならないのではないでしょうか。これが道なのです、道の境地です。寝る時はどのようにするかというと、初めから小さい音で、布団をかぶって聞いたのです。私は、そのように積極的なのです。私は、何かをしようとすれば、誰にも負けないようにするのです。歌も習っておきなさい。


熟練したワンマンショー

 神様は、本当に熟練された方です。悪口も上手です。「こいつ! ずうずうしくできているな」と、悪口も言われるのです。いたずらも、とてもお上手です。ユーモアの大王が神様です。悪口が上手なことにおいても大王です。私もそれに似て、ユーモアも上手で、機転がきくのです。

 私は、中高等学校時代にはワンマンショーのチャンピオンでした。学芸会の時は、私が出るというと学生の父兄たちが、「あのなんとかという青年出てくるか」と言って、出てくるとなれば、ぞろぞろ集まったのです。そのような何かがあるために、今まで統一教会の教祖をするのであって、その教祖が易しいと思いますか(笑い)。

 統一教会の人々は、外に出れば悪口を言われるけれど、教会内に入ってくればおもしろいでしょう、私がワンマンショーが上手だから。ワンマンショーでなく、「実際の人」の「実マン」ショー、「実マン」劇をするのです。


ソウルの学生時代の追憶

 先生は昔、漢江の穏やかな波の上に石を投げる遊びをたくさんしましたが、朝よりは夕方のほうが味わいがあります。夕焼けが出るころならば、人々が船に乗って帰っていく光景と、一日の太陽が静寂な波の中にまさに沈まんとするのを見れば、とても美しいのです。そのような時、平べったく丸い石ころを水平に投げれば、石ころがさーと飛んで行って、水面に触れるたびに弾むのです。石が大きすぎてもいけないのです。その石が飛んでいって、一回、二回、三回……。そのように弾んでいって、終わりにはそのまま水に乗って進むのです。そのような気分、感じられますか。

 学生時代の夏に、友達と漢江の川辺に行き、水面に石を投げてはじかせる遊びをしたのですが、友達は十回くらい弾かせました。うまくやるためには、様々な条件がよく合わなければなりません。石もいい形でなければならず、投げるのも本当にうまく投げなければなりません。角度を少しでも違えば、一度もはじかせることができずに水中に入ってしまいます。先生はうまく投げようと角度を合わせて力いっぱい投げたのですが、指先を岩にぶつけていまいました。そうなれば、水遊びができるでしょうか。気分が悪くて、血が流れる指先を、約四十分くらいずーっと川の水で洗っていました。そのようにしていると、唇がはれたときのように、どんどん指がはれていきました。それで、ワイシャツを破ってふき取りました。夏だったので、三時間か四時間過ぎると乾いてくっつき、何日かするときれいに治りました。

 ところで、意欲の中には、すべての探求心が存在しています。「漢江にはどのような鳥がすんでいるのか。ああ、ここは夏になると暑いが、あの山の頂上はどれほど涼しいだろうか。どれくらい涼しいか、登っていって風に当たってみよう。やあ! そこで首都のソウルを見れば、どうだろうか」。そのような心に染み込んだ意欲が多ければ多いほど、置かれたすべての環境を克服することは問題ありません。

 私の故郷には柿の木がありません。柿の実は見たけれど、その親は見たことがありませんでした。柿の親は何ですか。木ではありませんか。木は種から生まれるのです。私は熟した柿を本当によく食べたのです。先生が食べ始めると、‘一つで終わることはありません。それが家にあれば、全部なくなるまで食べたのです。食べるのが趣味です。

 ところでソウルに上京してみると、柿の木があったのです。見ると下ががっちりしていて、本当にすてきなのです。その木を触ってみると、とても堅いのです。しかし大きくはありません。あの紫霞門の外に、友達がいたので行ったのですが、柿がとても赤くなっていました。赤くなって本当においしそうです。それで彼とこっそりそこに入りました。「やあ、これはおいしそうだ」と言って、取るなりひたすらに食べたのです(笑い)。

 そして、私がソウルに来て、ついていなかったことがありました。ソウルのパラムトク(注・風餅:こねた米の粉を薄く伸ばし、あずきや豆などをあんにして入れ、半月形に作った餅)を見て、「ああ、こんなきれいな姿の餅を初めて見た」と言いながら、餅の好きな私がIつつまみ、二つつまんでこのようにぎゅっと握ると、これがべたりと空気が抜けてつぶれるのです。「ああ、ソウルの人々は、まさにこうなんだな。それで『ちゃっかり者』という言葉ができたんだな」と思いました。


二 自ら堪え忍ばれた苦行

自炊生活

 先生は、七年間自炊生活しました。お金がなくて、したのではありません。女性たちのすることを調べようとして、そうしたのです。絶対にお湯は使わないのです。ひたすらに釣瓶で井戸から冷たい水をくんでするのです。そうすると冷たい釣瓶の鎖に手がぺたぺたくっつきます。そのようにして米をといだり、いろいろなことをたくさんしてみました。

 ソウルに来た時は寒かったのです。平均して零下十七度から二十一度まで上がったり下がったりしたのです。私たちの若い時はそうだったのです。自炊しながらも、豊かに暮らす人のようにはしませんでした。一番貧しい人から始めました。冬の寒い部屋で暮らして、食事を作るのですが、冷たい水で作るのです。今でも、そのことが忘れられません。山の尾根に掘った井戸なので、十歩分以上掘ってあるのです。この井戸の水が本当に良いのです。釣瓶の綱は切れやすいので、鎖でつくってあるのです。それをつかんだ時、手にくっつくので「フーフー」と暖めたことが、きのうのことのようです。そのようにして、すべての家事をしてみました。女性たちが何をしているのかということも、すべて知っています。

 多くのおかずは必要ありません。いつも簡単で、おいしくて、実質的で、実用的なものが一つあればいいのです。いつも一食に一つのおかずなのです。おいしいおかずが一つあればいいのです。それゆえに、最近、食卓におかずがたくさん置いてあるのを見ると、本当に面倒だというのです。

 また、包丁を使うのを見れば、その人が新米なのかどうかみな分かるのです。私は、まな板の上で包丁を使うのも上手です。トントン、トントン(笑い)。おかずを作るのを見れば、腕前がいいのか悪いのか、すぐに分かるのです。夫人たちが御飯を炊いたり、おかずを作るのをさっと見れば、御飯の水はどれほど注ぎ、ほうれんそうのお浸しにはどんな薬味が入り、もやしのお浸しにはどんな薬味が入ったかということがみな分かります。何のおかずはどのように和えたものか、みな分かるのです。


一日二食と誕生日の断食

 先生がソウルでの学生時代に、皆さんのような年齢の時には、昼食を食べずに暮らしました。御飯がなくてそうなのではありません。腹のすいていた父母の歴史があれば、腹のすいていた父母の事情を知らなければなりません。腹のすいた立場で、その父母に孝行することができなかった自身をとがめ、腹のすいたその時代に孝子になることができる自らを準備しなければならないのです。

 空腹でなければ、神様が分からないのです。私はそのように考えたのです。腹のすいた時間が一番神様に近いのです。そのような時は、過ぎ行く人があれば、もしやあの人が私のお母さんではないだろうか、あの人がお姉さんではないだろうか、そのように考えられるのです。私を助けてくれる人ではないだろうか。そのように考えられるのです。そのようになれば、千万人を慰め、千万人を迎えてあげることができる心が生じるのです。゜

 さらに、国もないのに、御飯を三食も求めて食べる資格があるかと思って、そうしたのです。御飯が慕わしい生活を、本当にたくさんしました。御飯を恋しがると同時に、民族を恋しがる道を行ったのです。「御飯より民族をもっと愛さなければ、国をもっと愛さなければ」と思い、故郷を離れソウルに来ていながら、昼食を食べませんでした。ポケットにお金がなくて、そうなのではないのです。お金があれば、かわいそうな人々に分けてあげたのです。ですから断食を頻繁にしました。三十歳まで、昼食を食べませんでした。一番腹のすいた時です。家を離れて、ずっと二食主義でした。

 一番大変なこととは何かというと、同窓生と同じ部屋にいたのですが、この友達が昼食を持ってきて、しきりに「食べよう」と言うことでした。それに打ち勝ったことが、今思い出されるのです。「私にはなすべきことがある。宿題が多い。これを清算しなければならないから……」と言って、食べなかったのです。

 私のように腹をすかせてみた人はいないのです。腹をすかせて救いの手を願う、飢えながら解放を願う人々のうめき声が聞こえてきます。そうすると、御飯を食べられないのです。修養する者たちは、一生を通して、平素から修養しておかなければならないのです。

 誕生日には、断食するのが常でした。自分の個人的勝利の基準も越えることができず、家庭的勝利の基準も越えることができず、民族、国家、世界の勝利の基準も越えることができない者が、誕生日を祝いますか。誕生日をどのように祝いますか。踊りを踊って、ダンスをすることができますか。できないというのです。天の前に天命を受けた責任を果たしたのちに、そのようなものをするべきなのです。先生は、そのような生活をしたのです。皆さんは、先生が敷いておいた道を進んでいるので、本当に楽なのです。皆さんは、先生がそのようにしたので、先生がしたとおりに従っていくのですが、実際は、先生がしたとおりにまだ誕生日を祝うようにはなっていません。


孤独な時に訪れた温情の手

 先生がどこに行こうと、涙を流して祈祷するそのような立場にあったために、その事情が何か分からないながらも同情する人が多くいました。また、皆さんが先生に対するように、行く所々で、そのように対してくれる人々が多かったのです。下宿屋のおばさんが、名節(注・韓国固有の盆や正月)のような時に、夜を明かしながら準備したその食膳を、あるいは夫のために準備したその食膳を、先生の部屋に持ってこなくては奥の間に入ることができない場合もありました。そのまま奥の間に入るようになれば突然目の前が暗くなる、というのです。自分たちにも、なぜそうなのか分からないのです。神様は、婦人たちの精誠を込めたその食べ物を先生に食べさせるために、彼らの心を動かしたのです。そのような役事が多かったのです。それゆえに先生は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。

 私が今ソウルに来てみると、忘れられない夫人が一人います。宋さんという貧しい夫人です。その時、貸間で娘一人を連れて暮らしていましたが、夫がいるのでもありません。小さい雑貨屋をして、やっと娘一人と食べて暮らしていたのです。私は学生時代に下宿をしていたので、下宿屋でも朝飯をくれ、昼飯をくれ、夕飯をくれればそれで終わりではないですか。でも、学生たちはそれだけでは、おなかがすくのです。それで、この宋さんというおばさんはとても貧しいのに、それが分かるので、自分が何かを売ってお金が残れば、食べさせようともってきます。なぜですかと聞くと、私くらいの自分の弟がいたそうです。その弟が思い出されるというのです。それで私がここにいるのが他人のようではないというのです。たぶん霊的に何かがあったのかもしれません。こうして、何かあれば自分の口に入っていくべきなのに、その手がこっちに行くというのです。

 一度、二つの教会が漢江のほとりで合同礼拝を捧げたことがあります。その砂浜は今はなくなりましたが、西氷庫前でした。昼になると、みな昼食を食べるのに、その中で一人座っていて堪えられるでしょうか。それで一人さっと後ろに抜け出て、石が積み重ねてある所に行って、考える時間をもちました。昼食を食べずに、砂利を積んでおいた石の小山の後ろにいたのですが、その時に、宋夫人がアイスクリーム二つと、パン二つを持ってきてくれたのです。そのことが、いまだに忘れられません。一つが一銭したのです。それをすべて合わせても、四銭ですが、そのパンとアイスクリームを持ってきてくれたことが、永遠に忘れられないというのです。ですから、その時その場が、どんなに深刻だったかというのです。

 そのように世話になったことは、永遠に忘れられません。「いつどうで、いつどうして……」と、私のために苦労し、私のために施してくれた恩徳は、永遠に忘れないというのです。その忘れられないということは、誰のためですか。それは、自分のためではなく、世界のためなので、世界の人のためにそれを返そうと思うのです。神様が返すことはできないのです。

 恩徳を返そうとしても、いつその人に再び出会うでしょうか。その人を探す気持ちはもたなければなりません。しかし、世話になったその人に出会うことができないので、その心をもって、「いついつ私が受けた恩徳を、この人に与えますので、代わりに返す条件として、神様、受けてくださり、代わりに返すことのできる立場においてくだされば良いと思います」と言わなければなりません。そのような懇切な心をもたなければなりません。言い換えれば、恩人に出会って与えるのと同じ気持ちをもって与えれば、その恩人の心はどうでしょうか。このような雰囲気の生活体制を成そうと思うのです。

 それゆえに、孤独な時に訪問することが、どんなに貴いかということを知ったのです。好きなことのできる人同士が愛するのは、みな流れていきます。しかし、難しくて耐えることができない場に訪ねていって慰めることが、どんなに貴いかということ、それをそこで習いました。その宋のおばさんは、顔も悪く、おしりや腰も曲がっていて、見た目に、苦労したように見えるのです。その顔で何かを運ぶのを見ると、憎めないのです。そのような情緒的な面に関係しているすべてのことは、忘れることができません。


真冬の冷たい部屋の生活

 私が二十代を前後したその時は、ソウルも寒かったのです。普通零下一七度です。漢江が凍らない時がありませんでした。そのような時、部屋で火をたかないで暮らすのです。このようにして、支那緞子(注・絹織物の一種)のねんねこを敷いて、寝て起きれば、ぺたぺたと型が写るのです。そうすると、その写された型が、いつまでも消えないのです。これが六ヵ月も残ったりします。それが印象的です。それがみな記憶に残ります。

 あまりにも寒くて、電球をつけて火鉢のように抱き抱え、布団を引っかぶって眠っていて、電球の熱でやけどして薄皮がむけたこと、そのようなことがみな印象的です。それで、「ソウル」と言えば、そのたびに、私はそのようなことを思い出します。今も風呂に入って洗うときになれば、「ああ、あの時代……」と思い出します。

 そのように罪人のように、人と共に行こうとしても行くことのできない苦労をしたのです。歴史的な師たちが生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流してはいけないのです。私の心の深い愛の場所に入れ、あの世に行って会ったならば首を抱いて、「あなたが悲しかった事情をみな知って、私もその度数に合わせて生きようとしたけれど、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙ぐんで、痛哭する心が先立つようになる時は、神様をつかんで痛哭しても、神様も共に泣いてつかんでくださるのです。そのような日がなくては解放がない、と考えながら生活してきている人です。

 そのように冷たい部屋に住みながらも、孝子は孝子の役割を果たさなければなりません。冷たい部屋にお迎えする父母の悲しい心情を察しながら、天地をかけて愛することができない、その不忠を悔い改めることができる心をもたなければなりません。そのような心をもってこそ、天に到達できる道に近いという事実を知らなければなりません。


古着を着て自立訓練

 先生は三十代まで、皆さんが着ているそのような服を着たことがありません。日帝時代はすべての人がそうだったでしょう。古物商に行って、垢が真っ黒にこびり付いて、てかてかした、においのする、そのようなものを買って着ました。

 ぱりっと着こなして歩けば、とても騒々しくて耐えることができないのです。そうすれば、いろいろな若い女たちが毎日付きまといます。それゆえに、そのようなことを避けるために、わざとぽうぽう頭の独身の男として、目立たない道を通いました。男として生まれて、ある誓いをしたならば、誓った目標を達成できる基盤を築かなくてはなりません。

 私は編物が本当に上手です。セーターもみな作って着ました。足袋のようなものもよく作りました。パンツや股引も一人でよく作りました。私は、女性がいなくても一人で生きると、すべてのことを研究した人なのです。一生の間独身生活をしても、このみ旨を私の終生の事業として決めて出発した人なので、できないことがないのです。私が帽子をさっと編めば、とてもかわいく編んでかぶることができます。手袋を編んでも、本当に早く編んだのです。

 そうしながら、私が女性の服を着て、ソウル市内で通ってみなかった所がありません。いかしています。そして、つきまとってくる男を「こいつ!」といって、路地に入って殴り付けるのです。「こいつ、女だと思ったのか。この悪いやつ!」。私がさっとかぶって、こうすれば、姿は悪くありません(笑い)。雨が降れば、傘を持ってさっとさすのです。なぜでしょうか。世の中の暮らしを知ろうとしてです。暗行御史(注・朝鮮王朝時代に地方行政や民情を探るため潜行して回った勅使)にならなければなりません。世の中を調べようとするなら、くまなくしなければなりません。そのような歴史が多いのです。


初めての夏休みに故郷に帰らず

 故郷を離れて、ソウルに来て迎えた学校の最初の夏休みには、家に帰りませんでした。他の人々は、先を争って切符を買っていましたが、私はひっそりと一人でいました。再び帰ってくる日を待つ母と父には、私にはこのような事情があって行くことができないと通告したのです。なぜ、そうしたのでしょうか。サタン世界と違う道を行かなければならないためです。

 学生たちは全部ふろしきを包んで家に帰ったのに、私は「懐かしい父母に会いたいけれど、それよりも父母を生かしてくれる天が慕わしい」と涙したのです。その慕わしさを抱いて、国のために、私の行く道のために精誠を込めたのです。

 すると、知り合いたちが騒いだのです。「帰ってこい」と大騒ぎになったのです。「家に重大なことがあるから帰ってこい」と言うのです。けれども行きませんでした。友達が、行って帰ってきて、「どうしたんだ」と言うのです。先生は、彼らをつかんで「千年の歴史を編んできた貴い時代を、遊び騒いで、ふらふらして生きるとは何だ。こいつ!」と叱りつけました。先生はそのように生きたのです。


映画館前を避けて行く

 私は青少年時には、どんなに映画館に行ってみたかったことか。私たちのような人が映画を見れば、どんなに衝撃的だったか分からないのです。おもしろくて叫んでしまう気質をもっていたのです。しかし、私は絶対行かなかったのです。

 先生は、それも初めから絶対に行かなかったのではなく、ひっきりなしに毎日行って、一日に映画を五回も見たのです。それは、行かなければいいのではなく、一番多く行ってみて、二重相克になり得る体験をしたので、それからは行かないのです。体験もできなくて行かないならば価値がないのです。それで一日に五回ずつ通った後では、きっぱり切ってしまったのです。「こいつ、行かない」と言うのです。

 先生が皆さんのような年齢の時に、うらやましいことがなかったでしょうか。皆さんは映画観賞をしようと映画館にもよく行くでしょう。先生は映画を見ることもせず、映画館の前にも行かなかった時があったということを知らなければなりません。それはなぜでしょうか。私が、映画館とかこのような所にどんなに通っても、そこに引っ掛からず、行って寝て住んでも、そこで犯罪をし得ない線を越えてしまわなければならないためです。このごろ私が「映画館に行きなさい」と言うのも、行って染まることのない立場で行きなさいというのです。その次には、それを越えれば、完全開放なのです。

 皆さんが映画館に行って映画を見る時にも、深刻な立場に立ち、それが他人事ではなく、自分のことにように感じなければなりません。映画に信仰の道を行くにおいて、障害となる怨讐のような悪なる群れが出てくる時には、捕まえて片付けるという心をもって映画館に行けば、罪にならないのです。そのような心をもって行けば、映画館ではなく、それよりももっとすごい所に行っても大丈夫です。

 悪党が住む巣窟に行っても、詐欺のようなことをしてでも、彼らを引っ張ってくることができるという確信をもって行けば、また怨讐を 一刀のもとに片付けるという決意をもって行けば、神様の勇者として立てられるのです。そのような人は、天下のどこに行っても話題の人物になるのです。


路地裏の調査

 昔は鍾路三街のような所は全部遊郭でした。それを私が調べなければならないと思ったのです。なぜきれいな女たちが、あの行いをしなければならないかというのです。あれがもし自分の姉妹ならばどうしますか。自分の娘ならばどうするのですか。父や兄さんになればどうするのですか。問題が深刻なのです。そのような若い女たちに対して、夜を明かして話してあげたことが思い出されるのです。そのようなことをすべて経ていかなければなりません。国を愛さなればなりません。人を愛さなければなりません。この世の世情を、はっきりと知らなければなりません。

 先生はそのような世界をよく知る人なのです。知らずして、どのようにその世界を救いますか。その深層分野に隠された、哀訴に浸ったそのすべての事情を知って、彼らを救ってあげなければなりません。

 けれども根がなく、葉だけになっていいのかというのです。その場に出る時は、私がどのようなことをしても引っ掛かり得ない内的な決定を受けて現れるのです。統一教会に入った人々もそうですか。そのような修養過程を経なければならないのです。修養過程がなければならないのです。

 今はそうではありませんが、昔は私のもものつけ根を見た人はいません。友達にも見せずに暮らしました。志操を守って新郎を迎えなければならない乙女のように、自分の一身を大切に守ったのです。私が十字架を背負うようになっても、傷のない体で背負う、歴史時代に初めて純情の花が咲く、そのような立場で十字架を背負おうと思って過ごしました。


電車費を節約し困った人を助ける

 私が黒石洞にいる時、市内に行こうとすれば、電車賃が五銭でした。五銭出せば電車に乗って市内に行けるのです。けれども市内まで歩いていきました。和信(百貨店)まで四十五分あれば行きました。早いのです。早く歩く人です。普通の人は一時間半かかります。夏の日、学生服を着て汗を流しながら歩いたのです。そのお金でどうしたかというと、かわいそうな人にあげたのです。「千万金でも与えたいし、皆さんに福地をつくってあげたい心は切実ですが、今民族に代わってあげるのだから、これを受けてぜひ福の種にしてください」と言ったのです。

 私はその時、鷺梁津にしばらくいましたが、そこから学校まで五銭あれば電車に乗れるのに、電車に乗らず、その五銭を入れて歩いてきて、降りる所あたりで積善して、帰りは鷺梁津で積善して、そのようにして通いました。そのように歩きながら、「私がこの国を復帰して大声で叫ぶ時まで、よく育ちなさい。死なずに私と共に大きくなろう」と言いながら、木をたたきながら歩いたことが思い出されます。その時の、そのプラタナスの木がみななくなっていました。

 皆さんは、先生が少年時代に、真夏の最も暑い時期にも、汗をだらだら流しながら歩き回ったことを考えてみてください。電車やバスあるいはタクシーに乗って楽に来たとしても、過ぎし日に先生が歩いて通った基準を考えて、先生がこの国、この民族の恨みを晴らしてあげ、この国、この民族が神様に抱かれることのできるその日を切なく待った、そのような心を抱いていかなければなりません。


漢江の橋の下の貧民街

 先生も昔、貧民窟に入っていって、ぼろの服を着て生活してみました。しらみが行列をつくって、明け方から陣をつくるのです。そのような経験もあります。

 先生はこの道を、高官たちを中心として出発したのではありません。道端を歩く人や乞食たちを中心として出発したのです。貧民窟が先生の活動の最初の舞台でした。彼らには涙が多いのです。しかし、高い権威をもった人々には涙は少ないのです。貧民窟の人たちの中には、先生が一言話しただけでも涙を流して激しく痛哭する人が多いのですが、高い権威のある人たちは十回話しても、百回話しても痛哭する人はいないのです。復帰路程は、痛哭することなしには行くことのできない道なのです。ゆえに、どちらの人がより近いかというと、貧民窟にいる人たちがより近いのです。

 先生は、乞食が暮らしている所に何度も行ってみました。そこにはありとあらゆる人がいるのです。彼らは、昼間に御飯をもらってくるのですが、お互いにもらってきた食べ物を聞き合います。中には、「私は祝宴をしている家で豚肉をもらってきた」と言って踊る人もいます。そのような環境では、それがまた誇りになるのです。数十名が御飯をもらいに行ってきても、一人が少しでも基準が上なら、それをもって大騒ぎするのです。

 「真の父母」ならば、貧民窟に行けばその人たちの前で、はえがついたものでも食べなければなりません。そのようにしなければなりません。はしでなく、ただ手でです。便所に行ってきても手を洗いません。そこにいる人たちが触れば指の跡がつくのです。垢がついているからです。そのような手で持ってきてくれたなら、精誠を尽くしてくれるのに、「食べない」と片付けてしまわなければなりませんか。もらって食べなければならないというのです。


かわいそうな隣人を助ける

 そして、四月上旬に家から学費が送られてくれば、五月にはその学費を、みな使ってしまいます。みな、かわいそうな人に分けてあげるのです。エピソードが多いのです。そのようにしては何をするのでしょうか。新聞配達をしたり、ありとあらゆることをするのです。商売もするのです。そのようなことをよく覚えています。

 また、先生は、故郷から送ってきた1ヵ月分の学費を持って、学校に登校する途中で、道端で死にそうな患者に出会い、その患者に全部お金をあげて、入院させ、治療してから送り返した、そのようなこともしたのです。そうして学費を出せなくて督促を受けたその思い、そしてその時、友達が同情してくれたことなどは、一生の間忘れられないのです。そのような一時のことが、先生の一生にどんなに大きな影響を及ぼしたのか、私は知っているのです。

 それは三月の終わりごろでした。新学期が始まり、学費を持ってきた時でしたが、よく聞いてみると、その人は息子もいないかわいそうな人でした。天安に自分の娘の家があるといっていました。学費をありったけはたいて、旅費もあげ、病気を治療できるようにしてあげました。それを見ると、その人の先祖は悪い人ではないのです。その時、私の足が離れないのです。背を向けることができなかったのです。

 そのような人に出会うように天がさせたのなら、天が同情してあげなさいという以上に同情してあげたとしても、絶対に損害を受けることはないのです。天が十助けてあげなさいというのに、百助けてあげれば、九十は天の前に公的なものとして扱われるようになるのです。天が十を助けてあげることを願っているのに、五だけ助けてあげてはならないというのです。

 皆さんもそうです。天が十助けてあげることを願う時には、十以上助けてあげなければならないのであって、十以下しか助けてあげなければ、皆さんの恩恵の道がふさがれるのです。それが原則なのです。公式がそのようになっているのです。私は、財布にあるお金をすべてはたきました。本を買うお金、学費をすべてはたき、それを持たせて送り出したのです。そこから約三キロメートルくらい背負っていったことが、きのうのことのようです。

 そのようなことをしてきたということは、先生の生活的心情の背景だということでしょうか。そのような生活をしてきたので、天が必ずそのような人を必要としたようですね。そのような人は滅びないというのです。


三 体恤信仰の深化

徹した涙の祈祷

 祈祷をする時には、背が曲がって、ひざにたこができるほどにしなければなりません。先生のひざには、昔祈祷しながらできたたこが、いまだに残っています。祈祷は床の上でしなければならないのです。涙も流さなければなりません。先生は祈祷しながら流した涙のあとが乾かないほどに、涙を流す峠を何度も越えた人です。

 人生の行く道を解決することができなくて、死んでいく人々が多いことを知って、それを解決するために、目を赤くしながら、いつも祈祷したのです。祈祷しながら涙をあまりにたくさん流したので、日の光を見ることができないほどになりました。そのようなことをしながらこの道を探してきたのです。

 先生は絶頂期には、ひれ伏して、十八時間、十七時間、普通は十二時間祈祷しました。昼食を食べません。そうして痛哭するのです。そうでなければ生きることができません。四方が完全にふさがって、出口がありません。祈祷をしてこそ、針の穴が見えるのです。そのような試練の過程を経て、原理を探し出したのです。皆さん、原理の本をつかんで泣きましたか。一生は重要なのです。一度過ぎれば、二度と来ないのです。

 「念入りに築き上げた塔が崩れようか(注・真心を込めてしたことが無駄に終わるようなことは決してない)」という言葉があるでしょう。神様のために真心を込めなければならないのです。神様が恋しくて狂わんほどに徹した境地にまで入っていかなければならないのです。神様のいらっしゃる所が地上ならば、一日に千回も行き来したい気持ちがありますが、地上でないために仕方なく先生を送ったのです。
 そのような何かがあるために、皆さんが先生を愛さなくてはならないようになっているのです。そのように情が行きますか。涙を流して祈祷する時に、真冬に綿のパジ・チョゴリ全部を涙で濡らすような時があったのです。どんなにすさまじいか考えてみてください。刀を立てておいて談判祈祷する時が、一度や二度ではなかったのです。


民族解放のための祈願

 日帝時代、私が国のために流した涙は、愛国者に負けないのです。今も黒石洞の道が思い出されます。今は龍山まで道ができていますが、惜しい感じがします。その時は、ポプラもプラタナスもあったのにと、その時の印象が残っているのです。あそこ、あの明水台、ノドゥル河などが懐かしいのです。その時は日帝時代です。その時、涙を流して国のためにたくさんの祈祷をしたのです。

 その漢江を渡っていくと、中島というものがあります。そこで漢江の水を見て嘆息したことが生き生きとよみがえります。「お前は千年万年流れているけれど、どんなに熱い心をもってこの国、この民族を抱くために流れるのか。命綱になることができるのが水なのに、この肥沃な韓国の山河を美しく飾ることのできる泉、お母さんの乳のような漢江の水になるべきなのに……。お前はできなくても、私はすることだろう」と言ったことが、今でも生き生きとよみがえります。その時は、橋が一つしかなかったのです。そこを渡りながら、そうしたことが思い出されます。

 勉強している若い学生たち! 昔先生が勉強する時には、一ページを読んで涙を流しました。一ページ一ページごとに、民族の運命を左右することができる秘密が合まれているのではないか、と勉強をしたのです。祈祷もそのようにするのです。

 こぶしを握ってみなさい。昔、先生は祈祷する時にあまりに握って、あとで広げれば手が痛かったのです。どんなに力を入れれば、そうなるのでしょうか。汗が出ても、ぎゅっと握って、誓いをしたのです。


明水台イエス教会と西氷庫教会

 昔は西氷庫前に砂浜がありました。今は、そこをみな掘ってしまい、砂浜がないので残念です。皆さんはそうでありませんか。ビルディングを建てることはいいけれど、砂浜のなくなったことが、この上なく残念です。思い出の多い所なのにです。

 皆さん、明水台(黒石洞)に行けば明水台教会がありますが、その教会は、先生と何人かの同志たちで建てた教会です。一度その砂浜で、西氷庫教会と明水台教会が合同礼拝をしましたが、その時のことが思い出されます。

 そこは、風が吹けば、ほこりが舞ってとてもやりにくいのです。ですから日曜日になれば、砂利石の山の間の砂場に行って、全員が集まり、座って礼拝を行いました。


幼年日曜学校の教師

 その時、学校に通いながら、日曜学校の学生たちを指導したのです。黒石洞教会でもそのようにし、西氷庫教会でもそうしました。その時は漢江が凍りました。夜は、寒いから川が凍って、氷の割れる音が、「パン、ジジジジジ」とするのです。そうすると、一人でいると怖いのです。そのような漢江を渡って通いながら、西氷庫にいる日曜学校の学生たちを教えました。

 私は、日曜学校の学生たちをよく教えたのです。今は話をおもしろくできませんが、その時はおもしろくしたようです。私が涙を流して話せば、毎回、全員わんわんわんわん泣いて大騒ぎです。一度泣けば嫌がって、もう泣かせないようにと願うはずなのに、「またしてほしい」と言うのです。付きまといながらです。そのように話してあげたりしました。

 先生は、学生たちを私自身の希望の相手だと思って、幼年日曜学校を指導した名指導要員なのです。彼らを誰より愛しました。その子供たちが先生に、むちゃくちゃに夢中になったのです。学校にも行かずに、先生のあとを付きまとおうとしました。

 それは、そのようなブームが起きて当然なのです。「学校も何も全部嫌だ」と言って、先生について回るのです。今、ソウルに、昔私が指導した若い男女がいるのです。私が以南に来てその若い男女に、「おい、来なさい」と言えば、みな来て先頭に立って走ることのできる人たちです。しかし、その人たちを連れてきて統一教会の重要なメンバーにはしませんでした。それはなぜでしょうか。カインを愛する歴史を開拓するということが先生の使命だからです。


校友たちとの親交

 先生は、今までそのようにしてきたのです。幼な子にも侍り、小学校の生徒にも侍り、中高生にも侍り、中年にも侍ったのです。彼らに対して私が一番愛する人のように侍ったのです。お母さん、お父さんのためにするよりも、もっと侍ったのです。食べるものがあれば、彼らにあげようと包んで行ったのです。

 また、年のいったおばあさんたち、腰の曲がったおばあさんたちが、楽しそうにくっついてきました。自分の夫よりももっと面白く話をするので、「ああ、私の夫よりも良い」と言いながら、行くなといって、ついてくるのです。

 どのような環境でも、心をよく合わせてあげるのです。おばあさんと友達になり、おばさんと友達になり、子供と遊んで友達になります。みなにそうするのです。遊ぶ時は幼稚園の先生のようになって、誰よりも愛する心をもてば、誰も忘れることができません。今もそうです。

 私はイエス教の朴在奉牧師とか、李浩彬牧師とかいう人々の背後をよく知っています。その人々の背後に対してよく知っていますが、今まで私の口からその人たちの欠点について一言も話したことはありません。彼らにも従う人があります。彼らと彼らに従う人々とは因縁があって出会ったのです。神様が百ぐらいの因縁を中心として出会うようにしてくれたのに、それを五十くらいの因縁に引き下ろせば、引き下ろした人が責任を負わなければならないというのです。いったんその畑に植えたものは、その畑で取り入れなければならないのです。


伝道活動

 先生が皆さんのような年齢の時は、帽子をかぶって歩いたのですが、ズボンの後ろのポケットに本を入れて、公園のような所に行って演説をよくしたのです。「私の話をちょっと聞きなさい」と言ってです。それが訓練です。将来、多くの人を指導するための訓練なのです。たくさんしてみなければなりません。たくさん質問してみて、たくさん答弁してみなければならないのです。それは、みな経験なのです。

 ある時には、こういうこともありました。昌慶苑の花見の時のことです。そこには多くの人々がいました。そこで伝道をするのです。服を脱いで、反り返って、このようにしてです。私が大衆の前に現れてそのようにしたけれど、それが私であるとは、誰も気づかないのです。教室では話もしないので、そうだろうと誰が分かるでしょうか。「ヒャー、あれ文なにがしのようだけれど、あのようにできるか」と言うのです。朝、学校に行って会ったのに、私を見分けられないのです。昌慶院に行ってきた人々を、私は伝道しながら見たので、私は知っています。しかし、学校に行っても、彼らはそれが私であることを知らずにいるのです。話もしなかった人が、大衆の前でそうするとは、思いも寄らなかったのです。

 私は黒石洞で住みましたが、上道洞との境に松が茂っていて、その向こう側には草花を栽培する日本式の家がありました。そしてずーっと回れば田んぼがあり、その向こう側には村があったのですが、そこに開拓伝道に通った家がありました。


学生時代の日記帳

 日記を書いたのですが、ある日、三十枚つづりのノートを一冊使いました。その時の心情を、すべての悲壮な事実をもって書いたのです。しかし、日帝時代に事件が起こり、それが全部資料になりました。その記録の中にあった名前の人、兄弟たちやかかわっていた人が、全部連累者になり、芋づる式に連行された経験があるために、その時から日記を書かないのです。それで今まで手帳も持たずに歩いたのです。重要なことは、すべて頭に記憶するのです。

 その時代に私が毎日書いた日記があれば、宝になったことでしょう。金銀財宝を出しても買うことができないのです。山をたどりながら、村々をたどりながら、その育った時代の心情世界を描いた材料を、日本の刑事たちに引っ張り回されるので、みな燃やしてしまったのです。そのようにいろいろな事情が多いのですが、その事実が、結局は自分という人間をある目的に引っ張っていくための、その過去において残された遺物だったのです。

 全部、私の手で燃やしながら涙を流しました。「今後この道を行くようになる時に必要な歴史的な資料が、塗炭の苦しみの中で呻吟する若者たちに解放の道を照らすことのできる記録が、ここにあるのに、これを焼こう」といって、のどを詰まらせた記憶が今も生々しく残っています。文先生は、青春時代にひもじさを克服し、民族の求道と世界の求道と神様の求道のために努力した人です。


四 ソウル黒石洞聖地

懐かしい黒石洞の昔の面影

 先生は数えの十九歳の時に故郷を離れ、今まで故郷を失ったまま、サタン世界を収拾するために一生を経てきたのです。故郷から離れてソウルに来れば、ソウルは外地です。そうすれば平安道定州が故郷の地になります。では、外国に出るようになる時は、どのようになりますか。ソウルが故郷になるのです。

 私は、ソウルの黒石洞にいましたが、昔の考えをもって何度か行ってみました。ところで、ソウルはどんなに変わったことでしょうか。黒石洞に来れば自然の風景もあって、追憶の中に印象づけられています。しかし行ってみて落胆したのです。やあ、発展するのもいいけれど、こうであっていいのかと思ったのです。昔をたどることのできる、基礎になることのできるものが、一つもありません。

 高い山に上がって見てみると、想像もできませんでした。どれくらい掘り返して家々を建てたのか。昔はその山の谷間が深かったのに、どのようにみな埋めて家を建てたのか、寂しさを感じました。それでも、その中で昔あった家を探してみました。黙って、そしてあれこれ見ていると思い出したのです。

 昔住んだ黒石洞の家を、当時の姿そのままに、どこかに模型でも作って置けば、どんなにうれしいでしょうか。それゆえに、忘れられない、意味ある物は追憶として残そうとするのが、人間の本性の要求だということを知ることができます。なぜそうなのかといえば、情緒的な因縁をもって生きる人間においては、そのような追憶の資料によって、再度刺激を感じながら、より一層発展するためです。それゆえに博物館が必要なのです。それと同じように、皆さんもそのようなものを、皆さんの家門ならば家門に残すべきだというのです。


光明の基盤として白石洞になるべき

 私は自ら、天が行くことのできる道を築いてきた人なのです。それゆえに今でもここ黒石洞に行き、そのような時に黒石洞の山において座って涙した岩があるのを目にすれば、懐かしいのです。その木は、みななくなったそうです。

 私が七十歳になりつつあるので、昔学生時代に住んだ家を何年か前から探そうとしたのですが、探すことができない家があります。それで、今回黒石洞に行って、その家をずーっと探してみてから、統一教会がどこかと見ると、統一教会は一番小さな家です。

 それでも、ここ統一教会の歴史を尋ね聞いた人が、この黒石洞を探してくるようになるでしょう。ですから、黒石洞が白石洞になるべきだというのです。そのように考えます。黒い岩の谷間のここ、私が昔住んだここが、世界万民に光明の陽光を照らしてくれる伝統の基地にならなければならないと考えるのです。

 「ノドゥルの川辺」もそこにあったのです。しかし、昔の姿は一つもありません。教会がないというので教会も買ってあげたのですが、なぜ買ってあげたのでしょうか。それは、統一教会の教会員が多いから買ってあげたのではありません。黒石洞に住んでいた昔、その時代に住んでいた人には会うことができないけれど、数的に見る時、後孫たちが多いというのです。そうすればその後孫たち、父母が先生と関係のあったその息子、娘に会えば、どんなに感激的でしょうか。そこから歴史が復活するのです。

 昔を話しながら歴史を復活させて、時代を花開くようにするのです。そのようなことが起こるために歴史を学ばなければならず、偉人を尊敬しなければならないのです。高く貴い宝物は、宝物を買った主人以外には分かりません。














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