真の御父母様の生涯路程 1
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真のお父様の誕生と内的準備

第五節 日本東京留学時代
         一九四一・四〜一九四三・九

一 涙で出発した留学の道

留学手続き

 私は小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守たちを前にして、「日本人はふろしきをまとめて出ていけ」と言いながら、激しく攻撃しました。小学生の時からそうしたのです。そのために捕らわれていき、警察署長に談判した人なのです。「これこれこのようなことが正しくないのに、そのような場合に黙っていられますか」というように。その時からレッテルを貼られたのです。

 そのようにして、私が日本に行くために校長先生の推薦を受け、渡航証を出して手続きしなければならないために警察署長に会いに行くと、「あっ、これは要注意人物だ」と言うのです。それで争ったことがありました。署長と激しく言い争ったのです。そうでなければならないのです。そのような何かがなければなりません。


京釜本線列車「ひかり号」(一九四一・三・三一)

 先生が一九四一年度に日本に留学するために、釜山に向けてソウル駅をたつ時、ソウル市内を眺めながら、かわいそうなこの民族に誰が責任を負うかを考えながら、たくさん涙を流しました。その当時、日本に行く鉄道に、ひかり号という列車がありました。ソウル駅でその列車に乗りながら、「私は敗者の愚かな男として流れていくのではない。国を救うための熱い心を抱いていく男の道は天が保護する。私が帰ってくる時は、お前は希望にあふれんぱかりであろう」と思いました。それゆえに、第二次世界大戦の時、韓国は一度も爆撃を受けなかったのです。

 ソウルから釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放して、育っていく私たちの二世たちが希望に満ちて前進的出世をすることができる道を、自主的独立国家を備えて出世できる道を私が開いてあげなければならない」と思ったのです。このようにして龍山駅をたって、昔の漢江橋を過ぎながら、手すりをつかんで涙を落としたことが、とめどなく涙を流したことが、今も思い出されます。

 孤児のようなこの民族をおいて出ていく時、外套を引っかぶって、ソウルから釜山まで痛哭しながら行きました。そのとき日本人のおばさんが、汽車の中で泣いている私を見て、「若い人、お父さん、お母さんが亡くなられましたか。そのような悲しみは、人間ならば誰でも遭うことではないですか」と言いました。しかし私の悲しみは、ただ国を愛する心でぎっしり詰まっていたのです。

 涙が止まらず、目がはれ、鼻と口がはれるくらいに泣いたことが、今でも忘れられません。その涙、天を愛さずにはいられなかったその事情、この民族に植えつけたかった若いころのその哀切な訴えが、この民族の前に必ず残る、ということを先生は知っていました。それが統一を願う若者一人ひとりの胸に、統一を願う男一人ひとりの胸に残ってくれと、先生が願っていたということを皆さんは知らなければなりません。


関釜連絡船「昌慶丸」
   (一九四一・四・一、午前二時四十分発)


 この民族のためにどれほど涙を流したかといえば、先生はどの愛国者よりももっと多くの涙を流しました。先生が日本留学に出発した一九四一年四月一日早朝二時に、釜山の埠頭で、韓国を眺めながら祈祷したことが忘れられません。「私は、今祖国を離れるけれども、祖国であるお前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流そう」と約束したのです。

 釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、釜山から連絡船に乗りながらとめどもなく涙を流したことが、きのうのことのようです。その時は日帝時代です。かわいそうなこの民族を、誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私は夜を明かして星を眺めながら、この民族の解放の一日のために精誠を込め涙を流しながら、この民族のために神様の前に、「私は今旅立ちますが、帰ってくる時まで、神様、この民族を守っていてください」と祈祷しました。早朝二時四十分に出発しましたが、その時の心情を、私は忘れることができません。

 涙と共に行く道に、愛国があるのです。涙と共に行くところに、孝子がいるのです。忠臣も同じです。聖人が行く道も同じです。涙と共に生涯を経ていくところに聖人の道があるのです。世界を動かすことができる歴史、伝統を残して、受け継ぐことができる歴史があるならば、涙と共に残してあげた歴史です。その伝統の歴史は世界を支配するのです。統一教会は、世界を治めることのできる涙とともに、伝統を受け継いでいくという姿勢を忘れてはなりません。


二 早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科修学
     (一九四一・四・初〜一九四三・九・三〇)

悲壮な志

 私が怨讐の国に行って足を踏み入れたその時から、私は涙まで収めたのです。そこから私の行く道を定めました。私は、日本の名勝地に一度も行ってみることができませんでした。国のない民が、そのような看板の付いた所には行かないというのです。私が日本に行っている時、家からお金を送ってくれなくてお金がなかったのでもありません。日本人が見ているところで、その怨讐の前で、自分の威信と体面を立てようとはしなかったのです。目立とうとはしなかったのです。

 日本に行って、良い所を見物して回るということはしませんでした。ですから、富士山にも行かず、熱海、箱根、日光にも行きませんでした。神様が願われる美しい地にも、神様が御覧になって喜ばれ、「あそこは良い所だから行ってみよう」とおっしゃられたあとでこそ、行きます。そうでなければ、絶対行きませんでした。これが先生の主義です。

 早稲田大学の高田馬場の道を、一日に二度ずつ歩きました。よく歩きました。皆さんがそのような心で、早稲田の戸塚町を高田馬場から歩くことを願います。そこにある曲がった道、そこにある電信柱など、皆さんが記憶できる所には、先生の涙が染み込んでいると考えても間違いありません。

 世の中の地獄を自ら進んで訪ねていかない人は、新しい世界をつくって神様の前に捧げることはできない、という結論が出てくるのです。若い青春時代は、一時です。青春時代は一時だというのです。レバレンド・ムーンは、最も貴い時を正しく越えた人なのです。

 どちらがプラスになりますか。若い時に、遊びたいように遊び、デートでもして踊りを踊り、無益なことに流されるよりも、迫害を受けて嘲弄され、真なるものを本質化するための道を行くべきです。先生の路程は、過去もそうであり、未来もそうなのです。この道は、いつでも同じなのです。


電気工学専攻

 「私はどんなことをする」という、そのような「観」がなくてはならないのです。二十歳にもなったなら、一つの「観」をもって、「私は何々をするのだ」と、ぴたっと決めて、一生の間、闘っていってこそ、その人は歴史的な人物になるか、何かを残すというのです。人目を気にしながら、環境に適当に拍子を合わせて生きることに神経を使う人は、流れていってしまうのです。

 びしっと決めてからは、その目的のためにはどのような困難があったとしても、闘争していくことのできる勇猛心がなければなりません。それを嫌だと言わずに、すべてを消化することのできる度胸がなければなりません。

 一番重要な時が数えの十八、十九、二十、二十1、二十二、二十三、二十四歳までの期間です。二十四歳までには完全に、自分の全人生を懸ける目標を定めなければなりません。それは、皆さんが修養をして精誠を込めれば分かるようになっているのです。

 先生は、電気、科学を勉強したのです。科学を勉強しましたが、私の行く道を知っていました。私が科学の勉強をし、電気方面に手をつけたのはなぜでしょうか。大事をしようとするならば、数学的な計算が早くなければなりません。鑑定力が早くなければならないのです。

 それは見えないものを管理することなので、宗教と通じるということができます。すべての現象世界では、運動するすべてのものに電気現象が発見されるのです。

 今や、現代の科学文明を全部知らずには、今後の新しい宗教理念を立てることができないために、そのような面で勉強したのです。その勉強したことが、相当に助けになりました。

 先生は頭が数理的です。学生時代に、帽子工場に二度も行って注文したのに、それでも小さくて半分ぐらいは破ってからかぶりました。そのように頭が大きいのです。それゆえに脳細胞がたくさん入っています。それで、なんでも一つのことに集中すれば、普通の人が十年かかることを三年以内にしてしまいます。


命を懸けた深刻な勉強

 先生は勉強するのもそのような気持ちでします。勉強をする時に、なぜ疲れを感じるのでしょうか。自分のために勉強をするから疲れを感じるのです。しかし三千万の生死の問題が、この一ページにかかっており、この一つの文にかかっていると考えてみてください。一つの単語を加えることにより三千万が生き、一つの単語を減らすことにより三千万が滅びるという心で、より一層精誠を込めてその一つの単語を覚えようとする、深刻な心で勉強してみなさい。頭が悪いといいますが、なぜ悪いのですか。皆さん、深刻な立場で起きたことを忘れることができますか。命を懸けてしなさいというのです。

 私が勉強するのも、世界のためです。私は自分のために勉強はしませんでした。世界を活かすためにという考えをもって勉強したのです。それで、先生は大学を立てようとしているのです。

 私がしていることはすべて、自分のためではなく、国のため、世界のために、神様のためにすると思わなければなりません。勉強する時も同じです。先生は、本の一ページを何カ月も研究し、一つの題目をもって何カ月も深刻に打ち込んだこともあるのです。重要な人生の根本問題、実存問題をおいてそのようにしたのです。

 そのような問題は、命をすべて懸けて立ち向かわなければなりません。それが解決すれば、私個人だけでなく、万民を解放することができ、天地の解怨成就を成すことができるということを考えながら、命を懸けてするのです。


執拗な質問

 私は、電気工学を学んだ人なのですが、学校に行って、学校の先生に質問すると先生たちがみな困るのです。私の顔さえ見れば、「こいつはまた、どんな質問をするか」と思うのです。ひっきりなしに質問するので、自分の手に負えないのです。

 学生時代に、私は先生を理論的にコーナーに追い込んで、いつもひどい目に遭わせました。ですから、先生は講義しながら、私がいつ立ち上がるかと、ちらちら見ていたのです。普段は話をしません。しかし、先生に一度質問し始めると、答えることができなくなるまで質問するのです。私が一度立ち上がって質問を始めれば、先生の顔が真っ赤になるまで質問するのです。特に理論や弁論のような時には、先生くらいは問題になりませんでした。友達も相手になりませんでした。

 「これをどのように考えますか」と頻繁に尋ねるので、私を見ると隅の方に行くのです。質問をしないようであれば真ん中にいるけれど、そうでなければ先生が隅の方に行くのです。私を見ないようにして講義をするのです。根本を究明するにしても、最後まで究明しなければならないのです。また物理学を学ぶ時、「この公式を誰が作ったのか。どうして信じることができるか」と、こうだったのです。ですから学校の先生はどんなに苦労したでしょうか。


日本語を早くしゃべる訓練

 先生は頭が悪くないのです。日本に行っている時にも、日本人と競争をしても、先生より早く日本語を話せる人はいなかったのです。ですから、頭が良いのです。記憶力が優れているのです。

 訓練をしました。研究をしたのです。将来、日本の青年まで私の手で消化して、世界のためになる者にしようと誓ったことがあります。普通の日本人以上に、常識のある弁論ができる能力をもたなければならないと、訓練をしたのです。

 日本に来て日本語を学びながら、日本人と一分間に誰がよりたくさん話せるかという競争をしました。負ければ、先生は眠れないのです。

 日本語を話すにおいて、スピードを出すことで一番になりました。争う時も日本語で、他の人の二日に対して、三言を言います。研究したのです。それゆえ、指導者になることは簡単ではありません。


運動能力の錬磨

 先生の学生時代には、日本に双葉山という相撲のチャンピオンがいましたが、今も生きているでしょうか。もし先生が相撲をしたならば、一度競ってみたかったのですが、暇がありませんでした。先生は相撲が上手です。中高生の時代には全校で一番でした。

 高等学校の時、先生は相撲のチャンピオンでした。高跳びとか、どんな運動でもできないものがありません。ボクシングまでしました。悪い人は、とんと押せば、すっと転がっていくのです。そのような訓練までしたのです。なぜそうしたのでしょうか。けんかをするためではありません。偉大な革命をしなければならない、世の中を正して、天理に合う平和の世界をつくってみようという所信をもった以上、それには体が健康でなくてはならないのです。大きなことができません。

 皆さんに、自己保身法も教えてあげなければなりません。忙しければ、瞬時にたぐり寄せて転ばせるのです。そのような訓練をすべてしたのです。それはなぜですか。自分がたくさん食べて豊かに暮らすためですか。国を活かすために、世界を活かすためにです。怨讐が、悪党がもし道をふさげば、脇腹をけってでも行かなければなりません。行くべき道が決められていたなら、絶対に行かなければなりません。


下宿生活

 先生が日本の地で下宿を探す時、門前払いに遭ったことが多かったのです。それを思うと、「日本」という言葉だけ聞いても、頭が痛いほどです。けれどもサタンの子を、神様の理想的な子女より、もっと愛さなければなりません。それが神様の心情です。そのように考えながら、一人で何千回も忠告しながら、ここまできたのです。それは本当なのです。

 先生は以前、先生が下宿したいろいろな所を思い出しながら、その中の一つの下宿屋を訪ねました。そして下宿屋のおばさんに会ってきました。

 その時の百円というのは大きいお金です。その時代に下宿代がいくらだったか知っていますか。一ヵ月に十一円でした。

 先生は留学時代に下宿で過ごしましたが、今も忘れられないことがあります。下宿のおじさんが毎日酒を飲んで遅く帰ってきて、夫人をやたらに殴るのです。そしてその夫人も、性格や気質がそんなに従順な方ではありませんでした。そうなれば夫人も神経質になって「ああ!」と叫べば、町内全体が騒がしいのです。先生も寝ていて、そのために目覚めたことが何度もありました。

 それでおばさんを呼んで、「なぜ殴られながら暮らしますか。故郷に帰るとかしたらどうですか」と言うと、けんかをしたあと、わびて愛するのは、結婚してみない人には分からないとか言いました。それはそうだというのです。けんかしてからは、愛そうとしてひたすらに謝るのです。一、二発殴られることは恐ろしいけれども、習慣だからと考えればいいし、そのあと何日も愛してくれるのがおもしろい、というのです。その味で暮らすというのです。


三 原理究明と思想定立

原理究明と体系化

 文総裁はこの原理を探すために、満身瘡痍になって、一日に十二時間も十四時間も祈祷したことが何年も続きました。その悲惨な姿を、皆さんは知っていますか。原理の本には血と汗と涙が絡み合っています。一ページごとににじんだ先生の血と涙が、皆さんのような若者たちに訴えているということを知らなければなりません。先生が、青春を犠牲にして投入したのです。血と涙が皆さんに訴えているというのです。

 先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです。「創世記が堕落の章ならば、黙示録は復帰の章だ。生命の木がこのようになったならば、生命の木に復帰されることだ。それが合わなければ聖書は間違いだ」と考えました。なぜでしょうか。種から出たものは、種に返るのです。これが合わなければなりません。種から出てくる芽が同じでなければならないし、それが上に伸びていかなけれぱならないのであって、横に伸びていってはならないのです。

 そのような観点から見る時、今日の原理の教えは、推理的方法を通して摂理史観に一致するというのです。宗教の中の主流宗教はキリスト教であらざるを得ないということを知ったがゆえに、私のように賢い人は「キリスト教のてっぺんを引き抜いてみよう。根を引き抜いてみよう」と考えたのです。そうしてそれを引き抜いてみたところ、天地創造がどうで、神様が何をして、神様がなぜ愛を好むかということが明らかになったのです。

 最初から、聖書という冠をかぶり、聖書を標本としていたなら、このような道を開拓できなかったでしょう。妥当な理論を中心として、私たちの心情世界に関係する内容を中心として、最高に深い谷になることのできるものが何かということを探り出してみる時、そのとどまることのできる錨の中の最高の錨になるのが、まさに心情なのです。

 誰かが私に教えてくれたわけでもないのに、一人でこのようなことを体得して体系をつくって、ぎゅっとつかんで袋に詰め込んだのです。夢のような話です。神様は、私には愛する神様ではありません。無情な神様であり、無慈悲な神様です。同情してくれません。同情すれば、サタンが讒訴するからです。死の場においても、自ら開拓するようになっているのです。教えてくれないのです。

 そのように難しいことです。それを全部掘り下げ、体系をつくらなければならないのです。私のような人は、ものすごい人なので、そのような体系をつくったのです。その世界がどんなに膨大であるか、とても手を付けることができないのです。

 数多くの哲学者がいて、数多くの聖賢がいたけれど、このような問題を解決できませんでした。霊界の具体的な内容を知って、昔の道人たち、教祖たちにみな会って、討論しながら、天上世界のすべてのことを体験して、天法によって善悪をすべて明らかにし、彼らを屈服させなければなりません。そうして、最後には神様の所にまで行って、定義に立脚して弁論し天上世界の印を受けなくては、地上で統一できません。


宇宙の根本は父子の関係

 先生は、神秘的な境地に入って、「宇宙の根本は何か」について調べた時がありました。神様からの返事は、「父子の関係だ。父と息子だ」でした。結論がそれなのです。

 「神様はいらっしゃるのか」と考えていた、昔の記憶を振り返ってたどってみると、真剣になるのです。神様を考えるためには、まず自分自身を考えなければなりません。「自分はどこから来たのか。母親から来た。それでは母親はどこから来たのか。母親の母親から……。どこまでさかのぼっていくのだろうか。人間のいちばん初めはどのようになっていたのだろうか。本当に神様が造られたのだろうか。数多くの人種が生きているが、私はどの系統なのだろうか。人々とは、どのような関係になっているのだろうか」。このようなことは、すべて吟味しなければならない問題なのです。一から十まで、すべてそうなのです。

 それでは、神様と自分はどのような関係を結ぶのでしょうか。歴史的関係だろうか、時代的関係でしょうか、未来の関係でしょうか、どのような関係なのでしょうか。人間と神様の関係、その関係は何を中心としており、何をキー・ポイントとしているのでしょうか、それが問題です。

 神様を知れば、自分の位置と価値を知るようになります。また関係をはっきりと確認することができるのです。神様がいらっしゃるなら、神様とは何でしょうか。神様の希望とは何でしょうか。神様の願いとは何でしょうか。私たちの生活のように、神様にも事情があるはずですが、神様の事情とは何でしょうか。神様が喜ばれる心情の世界は、何を中心としているのでしょうか。神様の目的とは何でしょうか。この希望や心情などの問題をすべて総合して結論を下せば、「人間」というものになるのです。

 それでは、人間と神様の関係は、何によって連結されているのでしょうか。それは、心情基準を通過しなければ分かりません。奥深い所に入っていって祈祷してみなさい。祈祷して尋ねてみなさい。宇宙の根本とは何でしょうか。「父子である。父母と子女。最初の基準として、人間と神様が父子の関係である。天的心情、天的血統を中心とした父子の関係が宇宙の根本である」と答えるのです。

 「天のお父様!」と叫べば、宇宙のすべてのものが、そこに集まるのです。「お父様」という言葉は、全体に対する一つの定義です。すべての存在の表象の中心語として感じてくるのです。そのような立場にまで入っていかなければなりません。自分の心にどのような思いがわき出ても、神様が自分の父母であるということを否定することはできません。そして、神様も自分に対して「そうだ」と言われるのです。そこに至って、疑うことのできない父子関係を結んでいくのです。

 そのように宇宙の根本は父子関係なのです。万物は子女のための庭園です。神様をはっきりと知れば、創造原理が自然に出てくるのです。「私の心と体はこのような関係になっている。神様を中心として相対基準を造成して四位基台を維持することができる。それを連続的に維持するためには授受作用をしなければならない」。そのように神様をはっきりと知れば、創造原理を自然に悟るようになるのです。

 それで、先生は没頭したのです。宇宙の根本は何かという問題に対して、九年間も身もだえして解決しました。知ってみるとどんなに簡単であるか、「やあ、このように簡単なことが分からなかった。みなもっていたのに分からなかった」と思いました。


相応相補作用の原理

 学者たちは、宇宙は相応相反作用でできていると言いますが、そうではありません。相応相反作用ではなく、相応相補作用をしているというのです。これは革命的な言葉なので、「盲言」といえば、そういうこともできます。

 電気の原理を見ると、プラスとマイナスは互いに一つになりますが、プラスとプラス、マイナスとマイナス同士では反発するでしょう。暗雲が押し寄せてにわか雨が降る時、ピカピカと稲妻が光り、ゴロゴロと鳴るのは、数億ボルトの陽電気と陰電気がぶつかるのです。その時、数億ボルトのプラスの電気とマイナスの電気が一度に現れるのですか。それをどのように説明するのですか。それが、私が博士になるために書こうとした論文内容です。

 数億ボルトのプラスと数値ボルトのマイナスが一度に出てきて、バーンとぶつかるのですか。プラスとプラス、マイナスとマイナスが合わさらずに一度に現れるという、そのような論理はあり得ません。プラスとプラスの電気が互いに合わさり、マイナスとマイナスの電気が互いに合わさって、それからぶつかるのです。そのような論理を立てなければ、解説の法がないのです。

 それでは、電気の理論でいうプラスとプラスは反発し、マイナスとマイナスは反発するという理論は、どのようになるのでしょうか。電気の理論から見れば、合わさるという論理は矛盾のようですが、そうではないというのです。定義が違います。

 プラスとマイナスが完全に相対を決定した時は、保護しなければならないのです。それを破壊すれば、宇宙の公約を侵犯するのです。それゆえに、保護しなければなりません。保護しようとするので、一つの完全な主体と対象の前に他のプラスが来たり他のマイナスが来たりすれば、それをけ飛ばしてしまうのです。

 それゆえここから出る結論とは何でしょうか。宇宙公約の中で主体と対象を中心として絶対的に一つになれば、それを保護するためにプラスとプラス、マイナスとマイナスは互いに反発するけれど、反発するその作用は反作用でなく、保護の作用だというのです。


思想定立と理論闘争

 先生は人々に、先生がどんな思想をもっているか全く話しませんでした。友達も知らないのです。先生は聖書の研究をしたり、宗教関係の書籍や普通の人たちが読まない哲学書を持ってきて読みました。

 早稲田大学の政経科に通っている友達がいましたが、その友達は共産主義を勉強していて、その友達と激論を繰り広げたことがありました。また路傍で大声で演説したこともありました。桜の花が満開になり、多くの人が集まった時、そこでもしました。その時代に対する批判をしました。「あすの青年は、このように行かなければならない」と叫びました。その時予言したことが、今みな当たっています。その時に友達が、ぶらぶらと見物に来て、「どういう若者があのように熱烈に訴えているのだろう、いったい誰だ」と、頭を突き出して見てみると、「おい、彼じゃないか!」とびっくりしたのです。しかし、先生は教室では話さないのです。話さないので、誰も先生のことを知ることができませんでした。

 私は共産主義をよく知っている人です。皆さんのような二十代から闘争した人です。共産党の親分たち、北に入って官僚になった者たちの中には、私の友人もいます。日帝時代に、「学生時代には、お前と私は共に闘争するけれど、未来には決裂するのだ、こいつめ」と思ったことが実感されるのです。私が今日このように共産主義をたたきのめす魁首になるとは、彼らは考えもしなかったのです。しかし私は既に知っていました。


進化論問題

 チャールズ・ダーウィンが書いた『種の起源』を見れば、彼は進化論に基づいて弱肉強食という論理を提唱して、力をもって世界を制覇し、新しい文化圏を形成することを正当化しようとしたのです。

 では、種の起源とは何かというのです。根本問題に入っていくのです。それを考えるとき、神はいるかいないかという問題、今日の哲学的な観点からは、意識が先か物質が先かということが大きな問題として台頭しているのです。人間の根本とは何ですか。狼から始まったのでしょうか、また他の何かの種の起源があるのでしょうか。このような根本問題を解決しなければなりません。

 この目は物質で構成されています。しかし、目はどのようにして生じたかというとき、ただ理由もなく、生まれたかったので生まれたと考える人は、狂った人なのです。鼻はじっとしているのに、目はなぜ動くのですか。「目はなぜ動くのか」と言うときに、「動きたいから、動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。目の目的は見ることです。見るということに目的があるので、動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻はほこりがついてもじっとしているのに、目はなぜ、このようにしきりにぱちぱちするのかというのです。なぜそうなのですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水分をまいてあげるためにそのようにするのです。まぶたはなぜできたのですか。ほこりを防ぐためにできたのです。まぶたに「なぜ、そのようになっているのか」と聞くとき、そのようになりたくてなったのだ……(笑い)。それは、そのように簡単ではありません。

 ですから、太陽があり、空気があり、ほこりがあり、水分が蒸発するという天文学的、博物学的知識の基盤の上で、目は存在し始めたという事実を、私たちは否定することができません。理論的に否定することができません。それゆえに、物質が先か意識が先かというとき、どちらが先ですか。

 人間の根本がどこから出てきたのかという問題を考えるとき、人間の意識というものは、それ自体の発展によってそのようになったのではありません。必ず、根本的な作用があり、方向性があり、目的観があったということを認めなければなりません。そのように見るとき、人間やすべての万物は、自分勝手に進化発展したのではなく、必ず作用がこうでなければならなず、方向がこうでなければならず、目的がこうでなければならないという意識の決定的な目的実体として存在し始めたということを、私たちは論理的に否定することができません。

 そのような内容をもって、先生は学生時代から共産党と闘ったのです。「おい、こいつ! 進化論が何だ? チャールズ・ダーウィンの種の起源が何だ? この狂ったやつ!」と、その時から闘ってきたのです。


愛の哲学者

 先生は、今までどのようにしてきたでしょうか。先生はこの道を開拓してきながら、慕うものがあるとすれば、神様以外にはなかったのです。

 神様を慕い、公義の主人になることのできるこの国の主人を慕い、世界の主人になることのできる聖賢たちを慕い、尊重しました。神様を無限に尊重すると同時に、歴史を支えることのできる中心的な思想の主人公がいれば、その主人公を尊重しました。尊重することのできる対象を探すことに、あくせくしていたというのです。そのようにしている中で探し出したのが、イエス様でした。したがって、神様を愛し、イエス様を愛し、神様とイエス様が愛したいと願われる万民を愛しなさいというのです。

 どの程度まで愛さなければならないのでしょうか。自分の意識がもうろうとするまで、愛しなさいというのです。その愛に狂ってみなさいというのです。そのようにして滅べば、神様はいないのです。極にまで行ってみなさい。再び帰ってくるようになっているのです。

 レバレンド・ムーンといえば、愛の哲学者になっているのです。レバレンド・ムーンの哲学は愛の哲学です。愛の哲学はレバレンド・ムーンに尋ねてみなければならないのです。それでは愛の哲学を作り出したのでしょうか、発見したのでしょうか。作り出したのではありません。発見したのです。

 先生は、愛の哲学者です。天地愛の哲学者です。初めて先生の時代に来て、愛を中心としてすべて家庭から氏族、世界まで解いていったのです。

 私が知っているのは、これしかありません。どんなに霊界を探して、世の中の歴史をみな探してみても、これしかなかったというのです。またこのようにすれば悪魔が退いて神様が歓迎するので、これを誰かが知らせてあげなければならないでしょう。それを知らせてあげるようになるまで、四十余年かかりました。


四 抗日地下学生運動

将来に備えた調査活動

 私は二十代のころに、神様の前に「この民族を救おう」と誓いました。日本国民が天皇のことを思う心よりも、私が韓国の三千万を代表した立場で神様を愛する心が、もっと強いと信じました。それゆえに、日帝は滅びると信じました。

 日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。偽りが真を打てば、残る法がありません。ですから私は心の中で、「打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろう」と思いました。

 先生が東京で勉強している時に、先生は東京をたくさん歩き回りました。行ってみない所がありませんでした。将来の計画があったためです。「今から数年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と考えながらです。

 学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当し得る期間になれば、滅びなけれぱならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、「私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を」と語りかけ、木を眺めても、「怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう」と語りかけて歩いたのです。

 神様の息子が一線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになっていたのです。それゆえに、先生は知らないことがありません。学校に行くようになれば、事務所の責任者に会って、学校の秘密を調査しました。日本がどうだということをみな知って、どこまでもつだろうか、ということを占っていました。

 それから、大学総長から高位層の大臣の家庭の仕事までしました。私が字を上手に書いたので、それが可能だったのです。それで日本の背後の黒幕だとか、腐敗した内容をよく知っているのです。


韓国人留学生会地下活動

 皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。

 私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。その時、「何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい」と言いました。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、「死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい」と言ったのです。

 文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに八時間から九時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。

 日本の帝国主義をどのように克服するか。そのためにいろいろな工作も行い、地下運動もして、最高の実力者たちにも連結して、そうした道を開拓したのです。きのうのことのように、忘れられません。先生の心全体を投入したために、忘れられないのです。

 私は、学生時代には共産主義者とも友達でした。日本の帝国主義を打倒するために、闘争するところにおいて、共同目標のもと、共同戦線を広げていきました。その時は彼らが友達の中の友達であり、なくてはならない同志の中の同志でした。ところで、今はなぜ分かれたのでしょうか。彼らと私たちが行く方向と目的が相反するために、分かれたのです。


要注意人物

 先生の後ろには、いつも刑事たちが付いて回りました。私が韓国に来るようになれば、彼らが前もって電話をして、「なにがしが今韓国のどこに行く」と連絡をします。そのようにして、先生が駅の改札口を出れば、願わない人々が来て、今来られたか」と言います。

 先生は学生であっても、要注意人物でした。しかし普通の人は、先生をよく知りませんでした。先生は何度も留置場に引っ張られました。東京にいる時には、一ヵ月に一度は警察署に呼ばれました。その警察署は、早稲田通りをはさんで早稲田大学の反対側にありました。

 二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。


愛国愛天

 国を愛することのできない人々が、天を愛することができますか。私は今や全部再審査をしようと思います。国を愛することができない人は、絶対に天を愛することはできません。

 日帝時代には、憲兵と警察が付いて回ったのです。北韓に行っては、共産党と戦ったために共産党が付いて回ったのです。南に来ては、大韓民国がそうだったのです。先生の運命がそうなっているようです。私が、垣根を越えて略奪行為をしたのでしょうか。誰よりもこの国、この民族を愛し、誰よりも大韓民国のために祈ったのです。私がこの国のために流した涙は、瓶にいっぱいになるのです゜いかなる愛国者と呼ばれている人も、私はうらやましくありません。

 国の問題を念頭においたときは、堂々と愛国者にならなければなりません。そうすれば、それを越えて忠臣の中心になるのです。そして忠臣の峠を越えて、聖人、聖子になるのです。国のために命を捧げることのできない人は、忠臣になることはできません。聖人になることはできません。先生をよく理解しなさい。日本のことが分からない男だと思っては、大間違いです。


五 自己主管修行

一日二食で腹が減った日々

 先生は、三十歳まで空腹でなかった日はありませんでした。ですから腹が減った切なさが私には本当によく分かります。なぜそうしたのでしょうか。天の前に誓い、天が下さって受けた使命があるのに、そのような責任を担っていく男として、誓ったその基準をある基盤まで築くことのできない私が、天の前に責任を果たすことのできない私が、どうして御飯を食べることができますか。御飯を見れば、御飯が「こいつ」と怒鳴るのです。そのような世界が分かりますか。御飯が怒鳴りつけるのです。ですから死なない程度に腹をすかすのです。それゆえ、三十歳までおなかのすかなかった日はなかったのです。

 御飯を食べるのも自分のために食べるのではないのです。私がおなかをすかしているのはなぜなのかということを、問いただしてみるのです。公的なことのために血と汗を流したので、おなかがすいているというのなら、どれほど真なる意味で血と汗を流したのか。自分のためだったのか、公的なことのためだったのか。そのように自らを批判してみて、「公的なことをした」ということができなければなりません。そして、食膳に対した時、「よし、お前を食べて、きのうの朝に食べた御飯よりも、もっと輝く公的なことをしてやるよ」と思えば、御飯が笑うというのです。御飯が大声を出して喜ぶというのです。そうなのかどうか、皆さんは分からないでしょう。御飯が早く早くそのような日が来ることを願うのです。そうなのです。御飯を食べる時間は、とても神秘的な時間なのです。

 良いものをもつために、良いものを食べるためにやっているのではないため、食堂も高級食堂には行きませんでした。食堂に行っても、一番末席に座るというのです。お金がなくてそうなのではありません。どんな立場の誰よりも、神様の前に誇ることのできる条件をどのようにして立てるかと考えつつ、そのようなことをしてきたのです。

 その時は、米が不足していたころなのですが、若い人たちが行って食べれば限りがありません。私が何皿まで食べたのかというと、十一皿まで食べたのです。そのように食べたのです。茶碗のようなもので食べ始めれば、十一皿もあっという間なのです。

 ある日、「どれくらい食べることができるのか、試験してみよう」と思い、やってみました。戦争時代のその時には、食券というものがありました。その食券があったので、「何杯くらい食べられるか、よし、一度食べてみよう」と友達を連れて食堂に行きました。高田馬場をずーっと下りていけば寺がありますが、そこから食堂がずーっと立ち並んでいます。そこで先生は、親子丼を七杯も食べました。七杯も食べてたので首が回りませんでした。それは、腹が減ることよりももっと苦痛でした。動くこともできませんでした。そのようなこともしてみました。しかし、先生が常にそのようにしたと思えば、大きな間違いです。

 先生は常に腹が減っていました。しかし、なぜそのようにしたのでしょうか。自分の腹だけを満たしていれば、自分から民族が遠く逃げてしまうためです。神様も自分から遠く逃げてしまいます。腹が減って食べたいけれど、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと考えました。それが真理であり、先生の信条でした。

 これからおよそ四年間、二食主義を実行しなさい。みなしなさいというのです。先生は三十歳まで、高等学校時代から二食主義です。三食を食べずに暮らしました。それで腹の減らない日がありませんでした。御飯一食を世界のために犠牲にしなさい。それは貴いことです。


古着で地面を見ながら歩く

 先生を見れば、着る服は古着屋で買った安いものでした。その服を見ればテカテカとつやがあります。人々はみな気分を出して、頭にはポマードとか何かをつけます。風が吹いたり台風が吹くと髪の毛が風になびくためだ、と言いながらつけます。しかし先生はそうしませんでした。先生は、どんな春の日や夏の日でもつけませんでした。また歩く時には、下から四五度以上、上を見ませんでした。

 頭につける油も、数えの三十歳までは塗りませんでした。一番最初に髪の毛を上げる時は油を塗りましたが、それからは塗りませんでした。ですから、ひっきりなしに髪の毛が下がってくるのです。できる限り頭を下げて歩きました。地面を見て歩いたのです。行くべき道が残っているがゆえに、成すべき責任があるがゆえに……。

 先生は、数えの三十歳になるまで、皆さんのように新しい服を着てみたことがありません。すべて古物商に行って、古着を買って着たのです。天命の責任を全うできない男が、どうしてずうずうしく備えるものをみな備え、大通りを闊歩しながら歩くことができるかと考えていました。天理の公法の前に、払わなければならない代価を清算できない立場では、そのようにすることはできないというのです。

 そして、電車に乗れば、学生たちの中で、よく着飾った学生たち、見た目にいい女子学生、男子学生たちを眺めながら、比較したのです。「お前たちの笑いの傍らで、お前たちの青春が流れていき、お前たちの一生が流れていくけれど、私の沈うつな考えの中で、私の一生が光輝き、将来の希望の太陽が昇る」と考えたのです。「私には未来が保障されて希望があるけれど、お前たちには未来の希望はない」と考えたのです。

 そのように先生は三十年の生涯の間、一つの服も買って着ませんでした。全く新しい服を買って着ませんでした。なぜでしょうか。潜伏しなければなりません。現れてはならないのです。時があるのに、現れていいかというのです。それゆえに、路地裏の古物商で一番悪い服を買って着て、帽子も一、二箇所破れたものをかぶって歩きました。


不便な寝床

 中学、高校時代には、冷たい部屋で寝ました。その時は、今より寒かったのです。寝る時も、楽に寝てはならないというのです。先生がこの道を築いていく時には、すべてのものが未完成だったので、まっすぐに寝転がって寝ることができず、横になって寝ました。私が父のみ旨を知ってからは、私の体をむやみに見せませんでした。足を伸ばしては寝ませんでした。まだ道を極めることができず、責任も果たしていないのに、足を伸ばして寝ることができますか。先生はそのようにしてきました。

 過ぎし日を回顧してみれば、よく食べて、よく寝たことは記憶に一つも残りません。寒い所で、新聞一枚、かます一枚をかぶって、神様のみ旨を考えながら涙したことが残るようになるのです。自分に財産となるのは、それしかありません。人間は堕落したために、それさえもなければ、あの世に行って差し出すものがありません。差し出すものを積んでおこうとするなら、苦労をしなければならないのです。

 先生は、しょっちゅう哀れな乞食のような生活をしました。寒い時、新聞一枚が絹布団以上の価値があることを、切実に感じました。それは、体験してみなければ分かりません。事実を言うから、事実に通じるのです。それが必要です。私たち、統一の青年たちには、そのような訓練をさせなければなりません。

 先生は、そのような生活をしてみたことがないと思いますか。すべてしてみたのです。布団を一組持っていき、四、五人で仲良く寝るので、本当に良いのです。寝ていると、足が口にかかってもたたく人はいないし、口に足の指が入ると、それを乳首だと思って吸う人がいるのです。情が通えば、それも良いのです。


誘惑克服と情欲主管

 東京を巡回する電車があるでしょう。山手線です。先生は高田馬場から渋谷まで通ったので、それに乗ったのです。乗れば、女の子たちが、くっついて歩くのです。その時は、先生はこざっぱりした格好はしていないのです。頭はこのようにして、見苦しい姿をして、襟もすみずみが垢じみていて、何年着たのか、ひどいにおいがする服を着ていたのです。そのようにしていても、不思議なのです。女性がみな誘惑してくるのです。

 不思議なのは、私が映画館のような所に行ったときのことです。においがする制服を脱いで、きれいに着替えています。制服はにおいがするでしょう。髪の毛は垂らして、口はぎゅっと閉じて色気もないのに、二十代、三十代の女たちが横に座れば、我知らずに先生の手を握ります。「なんですか。あなたの手が私の手を握りませんでしたか!」と言えば、「そうですか。あっ!」と言って、すぐに手を引きます。我知らず、そうするのです。

 若い時には、先生が一度でも目配せをしてあげれば、女性たちはみな好感をもってついてきたのです。どこにでも、立ち食いの寿司屋に行っても、女性が隠れているのです。そして「あなたが来るのを待っていました。あなたが好きで、どうしようもありません」と言うのです。それで「何が好きだ、この女め!」と言ったのです。そのようなことが多くありました。そのようなことを話し始めればきりがありません。

 先生のために、血書を書いた女もいます。有名な財閥の一人娘です。そして学校に行くと、黄海道の一番大金持ちの娘がいて、毎月テーブルの引出しの中に、私がいない時に、お金を入れた封筒を持ってきて、積んでいくのです。

 世の中の男性ならば、「しめた、福のひさごが落ちてきた」と言うでしょうが、使うものではありません。一ヵ月、二カ月、三ヵ月と積んでおくのです。それがそのまま積まれていくのです。それを見ても回収しなければ、六ヵ月後に私が呼んで座らせるのです。そして、真顔で訓戒してあげるのです。母親と父親の立場で、「民族の運命がこのような立場にあるのに、あなたは女性として、このような行動をすることができるのか。愛国の心情をすべて捧げても、この国が蘇生することのできない悲惨な運命の道に立っているのに、この日本に来て差別を受け、卑屈な環境を避けることのできないあなた自身が、どうしてそんなことをすることができるのか」と言ったのです。すると、その女性は、「とても忘れることはできない」、「兄のように侍ります」と言うのです。そのような女性を私が婚約までさせてあげようと努力したのですが、卒業する時期になったので、私は卒業して出てきたのです。そのような歴史が多かったのです。

 女性たちは、私をたぶらかすために、あらゆることをしました。先生が日本にいた時も、女性たちが裸になって、布団の中にこっそり入ってくることが、何度もあったのです。けれども私は、日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした。

 そのようにして、世界のすべての女を任せてもいい男として、使命を果たすことができるようになるのです。そうした正しい伝統を汚す愚かな人にならないようにしなけれぱなりません。そのような基盤を立てるために、先生がどれほど苦労したのか、皆さんは知りません。

 自分の性欲をコントロールしなければなりません。美人たちの間に入っていっても、生殖器が起きてはなりません。コントロールできる者にならねばなりません。そのような道を行くために、どれほど先生が闘っただろうかと考えてみなさい。言葉だけではありません。その道を行ったのです。そのような道が統一教会の根になった、ということを知らなければなりません。善なる父にならなけれぱならないでしょう。私は、息子、娘の前でも、誰の前でも恥ずかしくありません。父として、天地の前に堂々とし、お母様の前にも堂々としているのです。先生は言行の一致しない人ではありません。言ったとおりにする人なのです。それで、統一教会の根が深いということを知って、その根に皆さんが接ぎ木され、育ってこそ、青い園で先生のような木になるのです。


人情を乗り越えて

 先生は数多くの国の人々のために、服も数千、数万着もそろえてあげました。家も買ってあげ、テレビも買ってあげ、車も買ってあげ、あらゆることをしてあげたのです。しかし、私の母と父には……。私の母は、本島に私を愛したのです。私を誰よりも愛した母でしたが、ハンカチ一つも買ってあげていません。今ではもう、みな霊界に行ってしまったことを私は知っています。

 日帝時代、靴がなくてわら草履をはいている時、私は日本に出入りし、靴をいくらでも買うことができる立場でありながらも、わざと靴の一足も買ってあげませんでした。私が孝行することのできる孝の位置は違うのです。

 先生は、日本で勉強していた学生時代にも、絶対に電報を打ちませんでした。駅から生家までおよそ二里あります。風が吹く寒い日、または雨の降る日に家まで歩きながら、静かに祈祷してみると、「本当に、立派なお方が世の中をつくったんだなあ!」との思いがわくのです。

 ところが、駅に父母や兄弟たちが迎えにきて、言葉を交わせば、故郷の味をみな忘れてしまいます。けれども、一人で帰りながら、日が傾いて夜になった時、または白い雪が降った夜の道の追憶は、一生の間忘れられません。小さい贈り物ではあっても、両手で持っていく時、父母がどんな顔で迎えるかと考えればとても感傷的な時間でした。そのように考えると、その学生時代が、どんなに幸福な期間であったか分かりません。


自己主管完成課題

 天と地、宇宙の統一が問題ではないというのです。一番の先決問題が心と体の統一です。私の心と体が闘っているのに、世の中が一つになったとしても、何のかかわりがありますか。そのような私が、どこで使いものになりますか。

 文総裁はそこに、誰よりも血の汗を流した人です。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのが私の標語でした。宇宙主管を願う前に、世の中のすべてのことと関連をもつ前に、自己主管を完成せよというのです。

 私が自分を思いどおりにコントロールすることができれば、私は世界をコントロールすることができるのです。笑っていても、途中で完全にストップすることができるのです。そのような訓練をしなければなりません。「目がパチパチすることにおいても、コントロールしなければならない」と思えば、それも訓練になるのです。普通の人は耳が動かないのですが、「耳も動かなければならない」と思えば、みな動くのです。すべてコントロールすることができるのです。私がこのように手を挙げている時に、誰かがくすぐっても、私は訓練したので笑わず、動くこともないのです。そうであってこそ、不法な愛も主管することができるのです。女性がいて、我知らずに引き込まれていく立場にあっても、それにブレーキをかけることができるのです。食べること、おなかがすくこと、眠らないことも……。いつでも公的でなければなりません。

 その方法は、心を強くして体を弱くするのです。断食して体を打つことは、どんなに難しいでしょうか。ですから心に何倍もの力を加えるのです。精誠を込めなければなりません。そのように力を加えて体を引っ張って歩き回りながら、三年ないし五年間で習慣化しなさいというのです。

 一番難しいことは何でしょうか。眠りを主管することです。その次には腹が減るのを主管することです。その次が性欲問題です。これが三大怨讐です。それゆえに、夜を明かしながら、飢えながら、一人で暮らしながら、修養の過程を立ててきたというのです。

 最初は空腹に耐える訓練、それから眠らない訓練をしなければなりません。それから見たいものを我慢する訓練をしなければなりません。おなかがすくこと、眠ること、それから情的な関係です。「ああ、私の父母は、私をどれほど愛してくれたか、ああ誰が誰が……」という思いを分別する訓練をしなければなりません。そして、何をしなければなりませんか。そのように鍛練されたこの体でもって、闘いが起きたとしても、先鋒の将軍として立つことのできる、責任をもつことのできる人にならなければなりません。そのような人が必要なのです。

 真を求めていくのならば、絶対に心のために生きることのできる体にならなければなりません。一つになって、天地に神様を中心として九〇度で連結されれば、東西南北、上下高低、どこに行っても分かるのです。自動的に霊界に通じるのです。学ばなくても、すべて分かるのです。

 文総裁のような人は、どのようにして天地の秘密を知ったのでしょうか。その境地に入っていくので、すべて分かるのです。真の愛を中心として、心と体が共鳴する境地にさっと入っていけば、すべて見えるというのです。神様も見え、天上世界も見え、歴史が見え、すべて見えるのです。なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結んで理想的な生活をすることのできる環境的与件が、本来の神様の創造理想の原則なので、その境地に入ってみると、通じない所がないのです。霊界の先祖も、呼べばすぐに出てくるので、会って何でも尋ねてみることができるのです。

 それゆえに、統一教会は真の愛の理想をもって、神人と心身を統一する所なのです。統一教会の使命は簡単です。神様と人間を統一し、心と体を統一するのです。


六 最低から最高までの生活体験

全面的な体験と激しい訓練

 ありとあらゆる人間が経ていく、生活の裏面を知ることができなくては、大きいことをすることはできないのです。それで先生は貧民窟の生活から、乞食に至るまで、してみなかったことがありません。そこで神様の心情を体恤することができ、神様が長い間、なぜみ旨を成就しようとされたのか、その事情を悟るようになったのです。そのようにしながら、解放される時まで待ってきました。先生は解放の日が来ることを知っていたのです。

 先生はあらゆることをしてみたというのです。そして人間の苦楽がどんなものかを、みな調べたのです。そして私がなさなければならないこととは、その苦楽を味わいながら生きている人間を解放する責任者になって、彼らを完全に解放してあげることだと考えたのです。

 それで、様々なことをしてみました。人間のごみのような一垂下の立場から、人間の最高の栄光の立場まで、すべて研究してみました。どこに行っても友達ができます。やはり大きいことをするためには、革命をするためには、いろいろな環境にぶつかり、それを切り抜けて目的地まで行かなければなりません。

 先生にはできないことがありません。ですから、いつでも食べることには心配のない人なのです。しかし、仮に私がある仕事場に行って仕事をしたとしても、「ああ、統一教会の先生が御飯を食べるのに困って、こんなことをするのだなあ」と思えば、それは大きな誤解です。私は、すぐにでも、どこに行っても、この体でもって何でもすることができるのです。

 先生も、皆さんに負けないくらい望みが大きかったのです。しかし、数多くの人々を僕の道に追いやらなければならないために、先生自身がまず、僕の体になりました。そうでなくては、皆さんに僕の暮らしをさせる資格者になれないのです。

 統一教会の文先生は、この道に来る時、あなた方のように歩き回り、見物したいものはすべて見物し、食べたいものはすべて食べてきたと思いますか。そうではありません。多くの人々の中で、最も劣った生活をしてきたのです。私はお金がなくて、そうしたのではありません。兄弟がいなくて、そうなのではありません。運命が古物を買うようになっているのです。悲惨だというのです。日の光を見て暮らす人ではありません。頭を下げて、罪人のように生きてきたのです。そのような訓練を受けてきたのです。


品川の貧民街

 日本留学時代に、先生は貧民窟から売春宿に至るまで、行ってみなかった所がありません。かといって、悪い行動をしたというのではありません。

 先生は品川の貧民街を、総なめしたことがあります。そのようなことが先生に、非常に優れた価値観を形成させたのです。記憶に残ることは、貧民窟での生活です。そこでぼろを引っかぶって、しらみを捕まえた記憶が今もとても生々しく残っています。そのように先生は、乞食の巣窟に行って親分の役をして、御飯ももらい食いしたり、ありとあらゆることをしてみた人です。

 栄光の神様だけではありません。悲惨な神様にもなるのです。ですから、そのような神様を知るためには、そのような位置に行かなければなりません。栄光の神様を知ることは易しいのです。しかし、悲惨な神様を知ることは簡単ではありません。

 また、日本の国を知るために、貧民窟から始めたのです。ところが、今回行ってみると、その昔の痕跡はなかったのです。それでも、何箇所か残っていました。日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。この本が終われば、第二巻には日本民族を愛さなければならない道があるというのです。ですから、この本の第一巻において、怨讐だという記録を残すことはできないのです。記録として残すことができず、行動の実績を残すことができない道を、黙々と行かなければならないのです。


新宿の路地裏

 先生は日本にいる時、新宿の路地裏などをずーっと回ったりしました。どこにでも入っていって、女性たちの過去をずーっと尋ねてみます。ビールを持ってこさせるのです。しかし、酒は飲みません。そして、横に座って話をするのです。「なぜ、このような所に来たのか」。ずっと顔を見ながら、「父母がいないようだね」、「母親がいないのではないか」と言えば、だんだんと心を開いて、「そうです」と話し始めるです。そのようにして、ずっと研究しました。

 どこに行っても自分にプラスになるようにするのです。悪い所に行っても、消化することのできるものは消化するのです。先生は、そのような主義です。良い環境を訪ねて回る人ではありません。

 そのような場で、彼女の父母以上に悲しみ、彼女の兄さん以上に痛哭できる心情をどのように誘発させるかを考えました。そのようにしなければならないというのです。

 街頭の女性たちに対して、訪ねていって悪いことをするのではなく、事情を聞いて、そのような女性をどのように解放するかと、涙の同志になることができる道を探してさまよった、そのような男でした。

 また、娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました。ありとあらゆる誤解を受けながらも、そのようなことをしました。このような階層にいる人たちを、先生は心配しなければならないので、そのような複雑な役事がなされたのです。先生は、本当に彼らのために生きたのです。


銀座通りのリヤカー引き

 私のような人は、していないことがありません。家からお金を送ってくれれば、すべて貧しく暮らす人たちに分けてあげたのです。仕事場でリヤカーを引いたこともあるのです。厳徳紋氏は、そのようなことはできないでしょう。(はい)。先生は、してみなかったことはありません。それゆえに、東京の都内はよく知っているのです。

 先生が昔、皆さんのような年齢の時に、東京にいて、二十七の区域をリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。それをするために、運送会社を訪ねたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。そうして運送会社ならば運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ、説得できません。

 先生には、今も忘れられないことがあります。東京には銀座という繁華街があります。その通りは善男善女たちがとてもよく着飾って歩く、日本で一番華やかな所ですが、先生が学生服を脱ぎ捨てて、電信柱を積んだ荷車を引っ張っていきながら、「こいつら、道をあけるか、あけないか見てみよう」という考えで仕事をしたことがありました。

 夏に電信柱を載せてリヤカーを引いていくとき、それが横になると、大変なことになるのです。十字路を越えていくとき横になったので、リヤカーがぐるっと回りました。そのとき、男女の別なく逃げていったことが、ありありと目に浮かびます。そうして、どうのこうのと悪口を言われたりしたことが忘れられません。先日、行ってみると、その昔の姿は一つもありません。追憶の足跡は残っていますが、現状は昔とは違うのです。それを見る時、寂しく思いました。


川崎鉄工所と造船所

 今は、ほかの所に移っているかもしれませんが、川崎の鉄工所とか造船所に行って先生は労働もよくやりました。川崎造船所には、「バージ」という石炭を積んで通うポンポン船があります。その百二十トンになるものを三人が引き受けて、明け方一時までに終えなければなりません。他の人々が三日かかる仕事を、一時までに終えたのです。韓国人の腕前を見せなければなりません。

 それを一日にいくら、と請け負うのです。仕事をする時には、会社の労働者と対決しました。「あなたたちは、これを何時間でするのか」と言うと、「私たちは六時間で終わらせる」と言うのです。そこで若い人たちを集めて、「四時間以内にしよう」と言って、必死にやるのです。「きょう一日やって死んでもよい。彼らに負けてはならない」と、激しく激励して始めるのです。「四時間でやる」と言えば、三時間ですべてやってしまいました。そして帰ってきて、三日間くらいはぐっすり寝るのです。若い時には、そのようなことが必要なのです。

 会社の良い所、悪い所をすべて通過しながら、そこで証明書をもらわなければなりません。自分がもし大きいことをしようとするなら、自分自身が大衆を動かすことができるようにしなければならず、すべての階級の人たちをすぐに指導することができるようにしなければなりません。

 私は、労働者の中の労働者になってみました。労働者の友達です。愛を中心とすれば兄弟です。兄弟ですが、弟の立場で犠牲になり、彼らを慰労するために夜も明かしてみたし、血の汗も流してみたし、労働してこなかった体で労働する現場に行って、一生の間労働してきた人々に負けないように、身もだえしながら働きました。その時、彼らと競争をして、勝って賞金をもらった時のその幸福感! 今も忘れられません。

 休日には、川崎にある会社に頻繁に行きました。そこには硫酸タンクがあり、労働者がその硫酸タンクの中に入って、浄化するために原料を流し込みます。その装置は、数年間使えば使えなくなってしまいます。硫酸が染み込みません。そうすると、装置を交換するために、タンクの中に入ります。その中では十五分以上仕事をすることはできません。そのような所で、戦いながら仕事をしました。

 そうかと思えば、雪の降る日や台風が吹く日には学校に行かないで、下層労務者たちの飯場に行って仕事をしました。そのような時は、本当に気分が良かったです。台風が吹き荒れていた時なので、手が真っ黒になっても、雨に当たってすぐに流れ落ちて、きれいになってしまうのです。そのような中で、汗を流して仕事をします。その気分は、本当に爽快なのです。

 修養するには、必ず静かで森厳荘厳な所や深い山のような所に入っていかなければならない、というのでは話になりません。静かな所でなければ勉強にならないというのは、先生には通じません。工場の数百万馬力のモーターやエンジンが回る所でも勉強します。そのようなことが上手です。いろいろなことをしながら準備するのです。


あらゆる人間生活の現場体験

 労働者の中の労働者にならなくては、労働者の父にならなくては、労働者を救うことができないのです。また農民の父にならなければなりません。農民の父のような愛をもって農作業を愛するのです。漁村に行けば漁夫の中の漁夫です。

 ですから、皆さんが田舎に行って牧童を見れば、先生にも牧童の時代があったことを考えなければならず、農夫や労働者を見れば、先生にも農夫や労働者の時代があったことを考えなくてはなりません。

 人生哲学ではなく、人間哲学を知らなければならないというのです。そうするためには、労働者にもなり、農民にもなってみなければなりません。私は何でもできる人です。仕事場に行って労働もすることができ、大工仕事も上手です。塩田に行けば、塩をすき起こすことも上手なのです。できないことがありません。車も上手に引き、穴を掘っても、上手に掘るのです。すべてやってみたのです。「オンドルを敷け」と言えば、敷くことができ、「壁や塀を建てろ」と言っても建てることができ、「煙突を建てろ」と言っても、すべてできるのです。何をしてでも、決意すれば食べていくことは問題ないというのです。

 山中に入っていって、炭を焼くことまでみな習ったのです。坑道の坑木を組むこともみな習いました。また、のこぎりを持てばなんでも作ります。してみないことがありません。それゆえ、どこに行こうが、背広を脱ぎ捨て、服を着替えれば、何でも手伝うことのできる人になります。

 日本に行っても、行かなかった所がないのです。苦労する所にはどこにでも行って、ありとあらゆることをしてみたのです。大きな会社の小さな仕事から始まって、みなやりました。長官や大臣の秘書までしたのです。言葉が早いために、気に入らない者に会えば、やっつけるのです。有名人の代わりに文字を書く仕事もしました。また外交もしたのです。

 会社に行って仕事をしたり、文字を書いて売ってみることもしました。ある時は会社で、現場監督もしてみました。何でもしろというならば、できないことがありません。甚だしくは四柱を見てやることまでしました。話の上手な人々に会えば、話の上手な人になって、理論家に会えば、理論家になります。学者世界に行っては、学生時代から教授たちを痛い目に遭わせて、お腹がすいた時には教授を訪ねていって、昼食をごちそうしてくれと言ったのです。かといって、無理やりではありません。


心理鑑別訓練

 先生は、このごろはそうでありませんが、昔は人間の鑑別をよくしました。道に出て、過ぎ行く人を見て、どんな感じが来るか調べてみるのです。「あ、あの人は間違いなくこうだ」と思った時、それが本当に合うか合わないか、ついて行きながら打診をしてみるのです。「あなたはこうだったでしょう」と尋ねてみるのです。それは霊界が教えてくれるのではなく、私の心が既に知っているのです。それで、「あなたはこのような人でしょう」と聞いてみれば、「どうして分かるのですか」と驚くのです。間違いなく当たるのです。じっと座って、あの部屋に誰がいるか、善いことをしているか悪いことをしているか、善い人が住んでいるか悪い人が住んでいるか、ということを一遍に知ることができます。皆さんもアンテナをだんだん高めて、そのように発展させなければなりません。

 それゆえに、宇宙のすべての因縁に従って鑑別する鑑別士の生活が、信仰者の生活です。今から人間に対して研究しなさいというのです。あの人はマイナスになり得る人なのか、プラスになり得る人なのか、さっと見れば分かるのです。第一印象で分かるのです。そのような面においては、先生は早いのです。体恤信仰というのは、霊界で協助してすることより、生活圏内で鑑定して発展させていかなければなりません。

 それゆえ、人を見ればすぐにキャッチします。皆さんを見ただけでもすぐに分かります。見るや否や、「あ! この人はどこが足りない」と考えます。鼻がこのようになっているな、肩がこのようになっているな、耳がこのようになっているなと、直ちにキャッチします。そのような訓練をしているのです。

 人に対して研究しなさい。目の博士になろうとすれば、目を見て、その人のすべてのことを評価することができなければなりません。目の種類が何種類くらいになるかというと、何千種類なのです。まぶたを取れば、みな同じようですが、まぶたをつけると、みな違うのです。瞳が行ったり来たりしながら、うれしい時はこのようになり、泣く時はこのようになるではないですか。目を見れば、みな違うのです。目を見て調べることは、簡単ではありません。

 それでは、それがどのようにして分かるのでしょうか。私の隣人の中で、あのような目をもった人はあのような環境をもっているということを考えて、そのような目をもった人を選び出すという方法を身につけるのです。誰々と同じ目をした人を探し出すのです。耳を見ても、鼻を見ても、目を見ても選び出すのです。すべて似ているというのです。そのようなものを見て、十箇所中三箇所が同じならば、その人に対して五〇パーセント以上は分かるのです。顔には目、口、耳、鼻の四つしかないのですが、その中で三つ同じならば、半分以上は当たるというのです。それを見て、悪い人なのか、良い人なのか見分けるのです。そのようにはかりをもって研究をするのです。皆さんも、今先生に研究材料を提供している方たちです。


全人(注・知情意の完全に調和した人格者)的な人格訓練の課題

 私が筆を持って、過ぎ去りし場面を記録するようになれば、今後来るべき二〇〇〇年代の若者たちの胸の中に花を咲かせることができる、新しい思想の麹になるのです。それは素晴らしいのです。そのように見る時、先生は歴史上にない、一番の俳優だというのです。皆さんも、そのように生きなければなりません。

 人生において深刻な立場にぶつかってみてこそ、人生の価値を発見することができるのです。あなたは労働者なのですか、どのような人なのですか。その位置とは、どのような偉大な英雄や偉人が雄弁に説教をしたとしても、その価値を発見することができない素晴らしい位置なのです。力いっぱいに地を踏み締めて立つその一つの足跡には、歴史が祈り目をつけるということが起きるのです。汗を流しなさい。大変でも、より上に行くことのできる道があれば、汗を流して行きなさい。それが生きた哲学なのです。

 そのような立場にいる統一教会の教会員に対する先生の指導方法は、三十歳までは苦労させることです。絶望のるつぼに入ってみなさい。その絶望のるつぽの中で、新しいことを発見して「ひや1」と歓喜の喚声を張り上げながら、「きょうがなかったならば……」と言いつつ、決意を新たにし、喚声を上げる男や女になれば、新しい歴史を創造できるというのです。

一箇所だけを見てはならないのです。上も見ることができ、東西南北すべてを見ることができなければなりません。人生というものは、七十年、八十年、すべて同じなのではありません。一度しかない人生なのですが、その期間を成功するかしないかということは、目がよく見えるか見えないかにかかっているのです。そのためには、経験が多くなければなりません。ですからどんなに難しい環境においても、余裕ある人間味と融通性を有する自主性が絶対必要なのです。

 そして、上がっていけば、また下りていく人格者をつくろうというのです。社会では上がったなら、絶対に下りていこうとしません。しかし、私たちは他の一面の人格をつくらなければなりません。上がったといって、ずっとそのまましていてはなりません。そのような場合は、昔の良かった時を思い出しながら、高い所から自然に低い所に下りていく人格者にならなければなりません。上に上がって下りてきて、また上がる人格者でなければ、天の側では使いません。

 多くの人を指導しようとすれば、そのようなことをすべて消化しなければなりません。若い時期に、すべての経験をしなければなりません。このような事実を知らずに、先生はただ座っていて役職について旅行でもする人だと思うなら、大きな誤算です。先生は、人生哲学の過程において、すべての科目を通過した実績のある人なのです。

 みなしてみなさいというのです。百科事典の一ページから最後のページまであるものをみな経験してみて、「私は今なお生き残った。もうすることがない!」というようになる時は、自分の主観が残るのです。主体性が残るというのです。「全国をみな回ってみて、私をくじく人がなく、私と戦って私にかなう人がいない」という時は、その次には自信のあるものをIつつかんで、一気に押して出るのです、一生の間。そうすれば成功するようになっています。

 み旨のために、苦労哲学の博士、苦労哲学の王になることが、世界を占領することのできる秘法なのです。そのような人が天の国の栄光を独占する人になるのです。


七 怨讐を愛する実践

日本人を愛する

 日本に行けば私が戦うのは日帝であって、日本の民ではありません。神様が戦うのはサタンであって、サタンの指揮下にいる人ではありません。それは確かだというのです。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました。日本は神を知らない国でした。本然の主人、父の愛を教えてあげなければならないと考えました。

 先生は、お金があれば全部友達に与えました。「誰よりも日本を愛する条件を立てよう」と考えました。いろいろな所に行きました。大きな杉の木を抱き締めて、涙を流して泣いたこともありました。

 飢えた友達に会えば、先生は飢えても彼に食べる物をあげたし、飢えた苦学生に会えば、抱き締めて痛哭しました。彼らに食物がない時には、食物をあげるために学生服を脱ぎ、埠頭で労働をし、石炭の運搬をしました。先生は、そのような若い同志たちを愛するために闘ってきたということを、皆さんは知らなければなりません。

 日帝時代にはみな腹が減っていたのです。それで苦学する人々がいれば、「お前たち、腹が減っているだろう? 私の家に来い」と言って、食券が出てくれば、一ヵ月分を全部集めて、「食べろ、食べろ。思いきり食べろ」と言うのです。そうして、だいたい三日もすれば、みななくなってしまいます。

 彼らを私の兄のように、私の母のように愛することができる心をもつことができなければ、神様の心情圏に入っていけないことを知ったがゆえに、そのような修練過程を経るために、民族を越えて日本に行ってそのようなことをしたのです。労働現場に通って金をもうけて、私が学費を出してあげた友人たちがいるのです。

 学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が数カ月間学校を休んで、彼らのお母さん、お父さんの代わりのことまでしました。私には夜も特にありませんでした。明け方二時に起きて、そのようなこともしたのです。


弱者側の代わりにけんか

 すごい連中が弱い者を困らせる時には、彼らをすべて一人でやっつけます。戦うのです。一人でやるのです。それは公のためです。会う時は一人です。殴られる時のその気分、これはすべて人生哲学において必要な問題です。

 時には、他人のことを引き受けて、けんかもしました。自ら進んで「こいつ、なんだ」と、いってやりました。青年時代には、そのような気質も必要です。そのような人をつくりたいのです。

 労働現場には組長がいて、搾取をし、三割を取ります。それで「そのようにさせない」と、強力に抗議しました。先生は恐ろしい者に対しても「そのようにしてはならない」といって、彼らの言葉に従いませんでした。そのようなことをよくやりました。

 先生には、そのような力があるのです。先生が学生の時に、三銃士の友達がいました。その時、日本の組合が留学生や学生から搾取していたのです。それで、「どこどこで搾取している」という話を聞けば、三銃士が走るのです。「私はこのような人だ。あなた方が悪いということは、うわさですべて聞いて知っている」と言うのです。そして、「きょう仕事をしに来るから使ってくれ。使ったとおりに払え!」と言い、「駄目だ」といって、言うことを聞かない時には……。そのようなことをしなくてもよいのですが、先生はそれを知れば、怒りを抑えることができないのです。

 そのような者が、統一教会の教祖になり、聖人になりました。先生は温柔ですが、厳格なのです。足げりも上手なので、話して素直に従ってこなければ、け飛ばすのです。


差別のない人間待遇

 万物を慕いながら歩き回った、歴史的伝統としての先生の精神! 今、万宇宙に向けて叫んでいます。私の相対になる者は、日本の地の、どこにでもいるのです。そうだというのです。人を愛して倒れる立場においても、慕いながら涙を流し、四方八方に歩き回りながら、神様を慰労することのできる、そのような親孝行な息子、娘を探すその姿! 雨が降っても、雪が降っても、風が吹いても関係なく、限りなく日を越え、月を越え、年を越えて生涯を越えていくその姿は、万宇宙万象が尊敬せざるを得ません。そのように思うのです。

 国と世界のために、先生が流した涙は、床をいつもぬらしていたのです。周囲に誰かが、かわいそうな境地にいれば、走っていって父母のように助けてあげ、兄弟や子女に対するようにしてきたのです。

 ところがこの娘たち、このような娘たちが電車やバスに乗って、汗くさく、何かにおいがするこのような労働者が横に来れば、しきりにこのように押しのけるのです。統一教会員たちがそのようなことをするなら頭をたたき割ってしまいましょう。なぜ、そうしなければならないのでしょうか。考えてみなさい。先生も労働者のような生活をしたのです。私の母は、私がそのように生きるのを見る時、どんなに痛哭したことでしょう。この上なく愛する息子、金よ、玉よと育てた息子がそのように生きるのを見る時、どんなに痛哭しただろうかというのです。そのような人々を見れば、「ああ、あの人にもお母さんがいるのであり、父母がいるのだ。その父母があのように生計を切り盛りする息子の立場を見るならば、その父母の心はどんなに痛いだろうか」という気がするのです。

 また、それだけでなく、おじさんをよく見れば、そのおじさんを命懸けで待つ、そのおじさんの妻がいるのです。「夫はなぜ帰ってこないのか」と思いながら、一日に何銭かを稼いでくる、そこに命を懸けて精誠を尽くし、高潔に勝利して一銭でも多く稼いでくることを願っている、そのような妻がいるのです。それだけではありません。幼い息子、娘たちは、彼に対して「お父さん」と言うのであり、お父さんは彼らを「息子、娘」と言うのです。そこにはどのような差があるでしょうか。私たち統一教会の人たちは、それを考えなければなりません。絶対に人を無視してはならないのです。人間を正しく待遇することができなければなりません。着る物は何を着て、まとう物は何をまとったといって、それがどうだというのでしょうか。心掛けにおいて、他の人がもつことのできない心掛けをもっていたなら、その息子、娘は滅びないのです。この時代にはこのように暮らしていても、三代を過ぎて七代のその後孫たちは、必ず堂々と歩ける時が来るというのです。それを体験しなければなりません。


社交力と親密感

 日本にいる時、韓国に行かなければならないのに、お金がなくて、東京駅に行って貴族の夫人に会って説得をしたことがありました。「私は日本に来てこれこれこのようなことをしました。私はお金がいくら必要です。あなたのハンドバッグにいくら以上あるはずですから、三分の一を貸してください」と言ったのです。その話があまりにも真摯だから、そのおばさんはお金を貸してくれたのです。それで汽車の切符を買ってきて、あとからその三倍を私が送ってあげました。そのような歴史が多いのです。

 また、先生が友達と交わろうとするならば、必要ならば一遍に交わるのです。また、どこかに行けば、よく遊ぶのです。「歌を歌え」と言うならば歌い、「踊りを踊れ」と言うならば踊り、「拍子を取れ」と言うならば拍子を取ることもでき、みなできるというのです。それゆえに、これはいい意味で、八方美人なのです。

 日本の友達もたくさんいました。その時は帝政時代だったでしょう。日帝を滅亡させようとあらゆる手段を講じていたそのような事情を抱えながらも、友達に対しては、すきまなく対してあげたのです。そうすると、その友達はいろいろ難しい事情があると、先生に相談しに来たのです。「韓国はどう?」と言いながら、多くの友達が訪ねてきました。

 彼らは先生を友達の中の友達だと言いながら、白分の秘密を告白したりもしました。「この事実をお前にだけは話さずにはいられない」と、ありのままに告げる同志たちを残したことを、皆さんは知らなければなりません。

 どこに行ってもひざを交えて、互いに話しながら交際しなさい。「自分の胸の深い所に、みなを引き込まなければ過ごすことができない」と言える男にならなければなりません。そのようになれば、すべての秘密を私の胸の中に受け入れて、彼らを心安らかにしてあげる男になるのです。














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