真の御父母様の生涯路程 1
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真のお父様の誕生と内的準備

第六節 解放直前の最終準備
        一九四三一一〇〜一九四五一八

一 早期卒業と帰国

早稲田高等工学校卒業
  (一九四三・九・三〇、電気工学科二十五回)


 私は東京に行って学校を卒業しましたが、その時は学徒兵に出ていくために半年短縮して卒業しました。

 日帝の末期において、私たちが卒業する時は、工科系の学生たちは、六ヵ月先に卒業したのです。

 先生の卒業当時は大東亜戦争中だったので、兵役問題もあって六ヵ月短縮し、九月に卒業しました。関釜連絡船で帰り、何時に到着すると電報を打っておきました。しかし、事情によって、切符を取り消して行くことができなくなりました。


関釜連絡船「崑崙丸」撃沈事件(一九四三・一〇・五)

 学校を卒業して、私が下関を経て韓国のソウルまでのチケットを買いましたが、その時、乗らなければならなかったのが崑崙丸です。

 崑崙丸という船が沈没しました。まさにその船に私が乗るようになっていました。その時が十月四日だったと思いますが、その船に乗るはずだったのです。

 何時に船に乗ると電報を打ったので、その船に乗るようになっていたのです。ところが、駅に行って汽車に乗ろうとするのに、足が動かないのです。その船に乗ったならば逝くのでしょう。それで、天が先生に行かせないようにするのです。それがよく分かる人なのです。心が、あとに戻れというのです。それで、すぐには行くことができないという連絡をせずに、帰ってきて、友達と登山に行きました。その時が秋でしたから、富士山に行こうといって、登山に行きました。私が登山に行ったために、数日が過ぎました。一週間いて帰ってきたのですが、それから電報を打つでしょうか。そのため、故郷では大騒ぎになったのです。


本家の騒動と母情の極致

 故郷では大変なことになったのです。息子がその船に乗って、何日何時に来るというのに来なかったから、大変なことになったのです。大騒ぎになったのです。母親はどれほど子供を愛するでしょうか。母は気がおかしくなりそうでした。平安北道の定州で、警察署に二日間も、ひたすら出たり入ったりしたのです。婦人がチマもはかずに下着一枚で走っていけば、それはもうすっかり狂ってしまったということではないですか。正気ではなかったのです。ですから、裸足だとかチマを脱いだとか、それを考える余裕がどこにあるでしょうか。

 先生の故郷の村から定州の中心地までは二里です。母はその二里の道を素足で走ったのです。そして釜山まで行ってきたのですが、履き物であれ服であれ何であれ、考える気持ちがあったでしょうか。私の息子が死んだと裸足で走り出たまま、釜山の水上警察署で調査をしても名簿にはなくて、どうにも確認できないのです。母は間違いなく息子が死んだと、そのように思い詰めた心をもったので、裸足で走る時、その足の裏にアカシアのとげが刺さったことが分からなかったのです。刺さったとげが、うんで張り裂ける時まで分からなかったというのです。それから私が半月後だったか、とにかく十日間くらい過ぎたのちに帰ってきました。帰ってきてそのような話を聞いた時、「ああ! 私がやり過ぎたなあ」という気がしました。そのような母でした。

 定州からソウルはどんなに遠いですか。汽車では十時間はかかるのです。そして釜山まで来ようとするから、どんなに気が気でない思いをしたでしょうか。

 ですから偉大な父母だというのです。そうした母に対して、先生は孝行をすることができませんでした。先生は、誰よりも息子を愛する母をもった人なのです。その母に孝行をすることができなかったのです。なぜそうだったのでしょうか。あなた方を愛そうとしたからです。


帰国(一九四三・一〇・中旬)

 先生は、日本の皇居を通り過ぎていく時に、国を失い、民族を失った恨を抱いた孤独な男として、その皇居を見つめながら、今から二十年後には、天が韓民族を中心として勝利の旗を掲げる日が来るということをあらかじめ知って、神様に祈祷しました。「今は、日本が私たちの民族を迫害していますが、今後は反対に私が命令すれば、日本の若者が先生のために、世界のために立ち上がる日が来ます」と、そのように誓ったのです。それが二十年後の一九六五年に成し遂げられました。

 先生は日本を出発しながら考えました。「二十年後には私が間違いなく帰ってくるから、その時再び会おう。今は日帝に恨みを晴らせず、我が民族の恨みを晴らすことができずに行くけれども、今度はこの国の青年男女たちが世界に役立つように私が教育する時が来るであろう。その時再び会おう」。そのように考えました。

 その後、先生は二十年ぶりに日本に行きました。行くや否や一香気になったのは何かというと、我が教会に青年男女がどのくらいいるかということでした。若い男女がおよそ五百名集まりましたが、彼らは全部金持ちの家の子女たちでした。彼らに話したのは、「日本は私たち韓国の怨讐だが、私はあなた方を生かすために資金まで出して、特使を送ってあげたのだ」ということでした。そして、そこに集まった若者たちに、「あなたの国の罪は何か知っているのか」と尋ねると、「知っています」と言うのです。そして、「統一教会とは何か知っているのか」と尋ねると、「知っています」と言うのです。

 彼らに「それでは今後どのようにしなければならないか」と尋ねたら、みな「先生の言われるようにします」と言うのです。それはどんなに素晴らしいことですか。「統一教会と統一教会の文先生が勝利することを願います」と言うのです。


二 ソウルでの就職と家庭出発

定州郡郭山の崔氏新婦

 先生がみ旨を知ってから、聖進のお母さんと結婚したのも、私の好きなようにしたのではありません。霊界から指示があってしたことです。霊界の指示のもとで会ったのです。その人の名前が崔先吉です。

 名前が男のようですが、どうして崔先吉としたのでしょうか。霊界から教えてくれたのです。先に吉というのです。女として先に吉という言葉は、神様の摂理の中で誰よりも祝福を受ける女性になることができるということです。そのような名前なのです。

 聖進のお母さんは賢い女なのです。とてもまっすぐで、家門もいいのです。崔氏の門中といえば、定州郡では有名な門中なのです。そこの本家の娘なのです。また、とてもつましい女なのです。へこたれない女です。これっぽっちも世話になりたがりません。

 彼女は、小学校出の、七年ないし八年の過程の学歴しかない人なのです。それで天のみ旨の中で会った人なのです。まず世の中から見る時、夫は自分の夫しかいないという人でなければなりません。すべての面において自分が不足なので、夫がすることに順応できる与件が大きくなければならないのです。また、自分は大きなみ旨を抱いて行く夫の道において、どんな苦労でも有り難く受けなければならないというのです。個人的にいろいろ見る時、そのようなけた違いな差があればあるほど、それがみ旨の前に助けになるゆえに、先生は小学校しか出ていない聖進のお母さんを選びました。

 彼女は、キリスト教信仰が篤くて、信仰的代表だというのです。そのような観点から見れば、全世界を代表すると同時に国家を代表して、男の洗礼ヨハネの立場でなく、女として洗礼ヨハネの使命を果たさなければならない立場にいた人が、聖進のお母さんでした。キリスト教の使命とは何かというと、新婦を提示して、新婦を天の前に連結させることですから、そのような観点から見る時、そのような意義があるというのです。その時、聖進のお母さんは、神社参拝の問題を中心として監獄暮らしまでした経歴をもっていました。そのような女性を探したのです。そのような乙女を探したのです。

 仲人が言うには、私が二十四番目だそうです。新郎を見つけるために、新義州からどこどこ何十里内外から、優れた男をみな探したのです。聖進のお母さんの家も祈祷して、みな霊通する人たちなので、先生の写真を見て祈祷すると、霊界から教えてくれたというのです。本当に霊界から教えをたくさん受けました。

 東西の方向から二つの大きい鏡が現れて、天の真ん中に来て一つになったとか、その中に太陽が昇って世界を照らすのに、天地の東西南北の星と月がずーっと囲んでいたというのです。その月の光がさして、万国が花畑になったとかです。彼らは、夢のような、そのような啓示をたくさん受けたというのです。

 祈祷をしてみるとそのようになるから、その女性が他の男性に心が行くでしょうか。死んでも「私の愛する人」と言うようになっているのです。


見合いをしに夜道を七里

 母方の叔母だから何親等になるでしょうか。七親等です。親等で見れば一段階下がらなくてはなりません。その叔母が、ひょっこり現れたのです。この方は、仲人としては有名な方です。それで、「この甥の仲介は自分がする」と言うのです。私はいたずらも好きですからね。その叔母さんを、からかうのが本当におもしろいのです。夜に腹が減れば、うどんも買って運んで、「仲介が上手ならば一度してごらんなさい」と言ったのです。

 私はその後、故郷を離れました。そうして、行ったり来たりしていて一年八ヵ月が過ぎて、再び故郷に行ったのです。私もそのことに関心がなかったし、その間に、その娘が嫁に行っても当然だったのです。ところが行くや否や、叔母にあたる人が、ぎゃあぎゃあ大声を出しながら、「大変なことになった」と言うのです。独り身の乙女をお前が放っておいたので、その娘は「死んでも他のところに嫁に行かない」と頑張っているから、大変なことになったというのです。家に来るや否や「行ってみよう」といって、叔母が先に行くのです。その次には、うちの村で私は話題の種ですから、叔父など五人が出発したのです。夜を明かして歩いたのです。

 夜にソウル駅に着き、夜道の七里を寝ずに歩きました。小さい砂利石を埋めただけの、舗装しない道だったのです。靴を履いて七里の道を行ったことを考えれば、今もぞっとします。夜が明けて、少し離れた所の人を見ることができるくらいに明るくなると、茶屋が見えたのです。そこに行って、「ここのなにがしの家はどこか」と尋ねると、「すぐ前の家だ」と言うので、見ると、良い瓦屋根の家だったのです。その村で一番大きい瓦屋根の家でした。

 「通り過ぎの客が大変失礼します」ときっちりと礼儀をわきまえて……。全く、そのように失礼なことがどこにありますか。けれども夜通し歩いたから仕方なく「部屋を一つ貸してください。私は三日三晩眠ることができませんでした」と言ったのです。それで母と母方の叔母は離れの部屋で寝て、叔父は別の所の広間で寝て、私は新郎であるから一人部屋をくれなければならないでしょう。

 ところで、朝御飯を準備したけれど、これが十二時になっても目を覚まさない! このようにして、一時半か一時四十分ごろに起きました。その次に顔を洗いますが、人の家で不便な所に来たのでござを広げ、洗面器に水と塩を注いでいて、見ると二時半になりました。そうすると、御飯を食べずにいられますか。果たして御飯が整えてありました。あっという間に、一つも残さないで、みな食べてしまったのです。そして、反応がどうなのかを見てみたのです。水まで「もっとくれ」と言って、その次には「果物はないか」と言ったのです。ないものを探して言ったのです。

 そして「新郎が見合いをしに来た」と言って、うわさが村中に広まったのです。その村は、およそ百五十軒からなる大きな村です。その復氏の村に、数分の間にうわさされたのです。まあ、どのように寝たとか、どうのこうのとうわさが立つのです。

 それで、この家にどんな肝っ玉があるか見ようと、私は「鶏を捕まえろ」と言ったのです。それだから鶏を捕まえないわけにはいきません。そこにいる鶏を全部捕まえました。姻戚関係の八親等の家の鶏まで合わせて何羽になるか、およそ五十羽捕まえたのです。捕まえて、「お前も食べていけ、お前も食べていけ」というのです。

 それから夕食を食べたのですが、娘との見合いをしに来た人なのに、娘と見合いをするという話は一つもしません! (笑い)。おもしろい話だけを続けるのです。東京がどうで、日本人の暮らしがどうでこうでと話すのです。二時まで話したのです、夜の二時までです。


見合い後に婚約(一九四三・一二)

 そうこうするうちに、見ると三時を過ぎたのです。それで「では、このように遅くても、あなた方の娘さんがどうか一度見ましょう」と言ったのです。夜三時に見合いをするという花婿候補は私くらいで、歴史的なことです。それで、呼んで座らせておいて、「みな出ていくな」と言うのです。「出ていくな」と言って、一つ一つ面白く押し進めるのです。学校はどうでこうでと。

 そうしてから、「ではあす会おう」と言って、その翌日、本格的な試験をするのです。その次に三日目です。見合いをしに来て、三日間も留まっていけば悪口を言われるのです。それでその翌日、私が統一教会のこのような道を行くことを話しながら、全部条目ごとに尋ねてみたのです。

 そうしながら、少なくとも五年間、七年になるかもしれないが、結婚しても一人で生きる覚悟をしなければならないことなど、その時にみな話をしたのです。「くれ」と言うとおりに、代価をみな支払うようになっているでしょう。彼女は「何でも、そうします」と言いました。このようにして婚約をしたのです。そして婚約式をきっぱりして、家に帰ってきました。

 そのようにして十二月に婚約をしたのです。二十歳を越えていない、十八歳未満、韓国の年齢でいえば十九歳にならない人でなければなりません。聖進のお母さんも数えの十九歳で婚約したのです。


「満州電業」行きの変更と郭山訪問(一九四四・二・初旬)

 ハルピンの北にハイラルという所があります。日本から帰ってくる時、満州電業という電気会社に就職して、そこへ行って住もうとしたのです。そこに行こうとしたのは何のためだったのでしょうか。ソ連の言葉を習い、中国の言葉を習い、蒙古の言葉を習おうとしたのです。アジアにおける大陸基地のことを考えて、三年間、言葉を習うために行こうとしたのです。

 満州の安東に満州電業がありました。その後、その支店に行こうとして、よく見ると、情勢が不安定なのです。満州に行ってはならないのです。それで安東に、就職したすべてのことを取り消しに行きました。行きもせずに辞表まで添付して、費用までみな持って安東に行き、支店長に会って清算して出てきたのです。

 郭山は定州の次です。定州と宣川の中間です。その時は二月だったと思います。結婚式の日を決めるために立ち寄ったのですが、汽車の時間が合わないために夕方になりました。郭山に降りると六時くらいでした。日がまさに沈まんとする時です。そこからが一・五里の道です。その時が二月の初めですから、雪が降っていました。平安道では三月まで雪が降ります。雪が降り始めたのです。ですから、下りて探して、行くのです。婿が、婚約した嫁の所にです。

 ところでどのようなことが起きたかといえば、妻の一番上の兄が出てきて、「私たち崔氏の門中では、結婚する前に新郎自身が訪ねてきてこのようにする法はない」と言うのです。「だから自分の門中では迎え入れることができない」と言うのです。「帰れ」と言うのです。それを見れば、良い家門でしょう。いくら何であっても、伝統的な基準を中心としてしたことだからです。それで七里の道を再び帰らなければなりませんでした。ぼたん雪が降って、とても詩的な場面が展開されたのです。

 私が去ったのちに、妻の母が帰ってきて大変な騒ぎが起こりました。妻の母が来て見ると、問題が大きいからです。「このままでは婚約破棄になる」と言って、息子を叱りました。なぜそんなことをしたのかと問い詰めたのです。そうして聖進のお母さんがそれを知りました。本家にいて、その話を聞き、すぐさま身なりを整えて出たのです。普通の女性ではありません。

 私に追いついて、「どうして帰ってしまいますか」と言いながら、「自分の家へ帰ろう」と言うのです。「家のすべての問題は自分が責任を負うから帰ろう」と言うのです。その時私は、聖進のお母さんの性格を知りました。とても肝っ玉が大きくて、この女は普通の女ではないな、とです。しかしそのような立場で、どんな顔で妻の家に再び入りますか。それで「行かない」と言いました。「行かない」と言うから、五里の道をついてきたのです。定州まで五里の道を、夜を明かしながらついてくるのです。そうしながら、自分の事情をずーっと話すのです。

 定州邑に私の叔父がいました。そこに行って、「朝食の仕度をしてくれ」と言って食べさせて、汽車の時間に合わせて送ろうとしたのに、「絶対帰らない」と言うのです。それで叔父のお母さんに、「証人になって、どうか本家に連れていってください」と言いました。仕方なく叔父のお母さんが連れていって、私の家に一週間いて、帰りました。

 さて、一週間過ごす間、母と父がじっと見ていると、愛想が良くて、太っ腹で物事の筋道もわきまえています。ですから、母、父、姉、妹たちが手放しでほれ込んだのです。そのように作戦をしたのです。


鹿島組京城支店電気部就職(一九四四年三月ごろ)

 その時、あの鹿島という会社があったのです。日本に行けば、その本社は大きい電気会社でした。私は昔、鹿島組の電気部に勤務していました。

 先生は職場に行くにも、一番早く行って、一番遅くまで仕事をしたのです。そのような訓練をしたのです。一番にならなければ気分が悪いのです。あとには、一番貴い者になるのです。その人が引き継ぎ者、その人が主人になるのです。同じなのです。天のみ旨に対して朝早くから起きて、一生をそのようにする人が主人になるのです。天の国の主人になるのです。


成婚と家庭出発(一九四四・五・四、戸籍上一九四五・四・二八)

 先生が結婚式をしたのは解放前です。それは天の命令によってしたのです。皆さんも知っていますが、その人が聖進のお母さんなのです。

 結婚を突然するために、母と父が二カ月以内に木綿を十余反作らなければならないのです。そのようなことをするので、エピソードが本当に多かったのです。先生の一生は全部開拓でした。結婚までも、私が全部開拓したのです。馬を用意することまでもしたのです。その時は、タクシーがなかったのです。七里離れた娘の家で結婚するためには、馬に乗って行かなければならないのに、日帝時代には禁止されていました。歩いていけないので、馬を求めることから先生がみなしました。

 結婚する日時を決めたのに、結婚する一週間前に妻の父が亡くなりました。四月十七日は復活節であるため、やり過ごしました。五月四日、嫁が来る日は雨がどしゃ降りだったのです。そのように、すべてのことに困難が多かったのです。蕩減の道です。曲折が多かったのです。

 イエス教の李浩彬牧師、韓俊明、朴在奉牧師など、幹部たちを私はよく知っています。このような人々が、先生と本当に近かったのです。それゆえに、聖進のお母さんと結婚する時、新イエス教に行って、その李浩彬牧師を私が引っ張ってきたのです。それほど近いのです。なぜ近いかといえば、平壌の新イエス教の日曜学校の学生が千名近くいましたが、私が立ち寄ることができれば、いつでも日曜学校の教育をしていたからです。私はその学生たちの間でうわさになっていたのです。そのように牧師たちと親しかったために、李浩彬牧師ともよく知る間柄になったのです。それで聖進のお母さんと結婚する時、李浩彬牧師が主礼をしたのです。


三 京畿道警察部での受難(一九四四・一○〜一九四五・二)

日警の苛酷な拷問

 先生は学生の時にも、監獄の出入りを当たり前のようにした人です。また日帝の拷問台の前で、図太く振る舞った人です。そのような歴史が多い人です。日本人たちに、たくさん拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。若者たちを捕まえて、焼きごてを当てたりしながら拷問をすれば、服のままで大便をしながら、自分がしていないことまでも、「した」と言ってしまうというのです。

 日本人が悪いことをしたということを、すべてよく知っているのです。私は、監獄暮らしもしました。日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされた人です。

 全四肢に死亡の血が回るほど、また血が何杯もあふれ出るほど、むちでたくさん打たれました。日帝時代には、軍靴を履いた足で腹を蹴られる拷問も受けました。二人が左右から手をつかみ、二人が上から踏むというのです。そうすれば腹の皮がどのようになりますか。破れますか、張り裂けますか。それで便所に行って、一度座ってから立ってみなさい。それは、どんなにつらいことでしょうか。

 先生は日帝を滅ぽすと言ったために監獄に入れられて拷問を受けましたが、一番つらいことは何かといえば……。一度やってみなさい。角材を持ってきてここに置いて……。日帝時代には軍隊で履く革靴があったのです。鋲を打ってカツカツと音がするその革靴で踏むのです。それは、やられてみない人には分からないのです。

 日帝時代に、先生はどんなに監獄に入れられて、飛行機の拷問をされ、電気の拷問をされても、びくともしませんでした。「打て、こいつら! 打て! お前の棒が強いか、私の決心が強いか、ためしてみよう」と、そのような闘いをしてきたのです。監獄に入っていき、一日中たたかれ拷問される立場にあっても、板の破片に縛りつけられ、ねじ曲げて絞られる時にも、「こいつら、やってみろ、こいつら」と思いながら、耐えたのです。

 血を吐く場で、十本の指から血を出す場でも、これが十個の国家の血に代わり、十個の民族の血に代わる祭物として捧げることができるならば、どんなに栄光だろうかと祈祷しました。

 日帝時代、私が十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れることができない拷問も受けました。それを十二時間も受けながら、奇跡的に生きて出てきました。殴られて後ろにばたっと倒れ、死ぬほど血が流れ出ても、「打ってみろ! その棒が折れるか、私の骨が折れるか」と、耐えたのです。

 一度は十四時間も取り調べを受け、拷問をされ、はって二十メートルも行くことができないほどになって、何度も気を失っては覚める、そうした過程がくり返されても、私は口を開きませんでした。


拷問を受ける心情と祈祷

 日帝時代に監獄に行って、血と涙が入り乱れる拷問を受けながら出した悲鳴は、人類への神様のみ旨が成され得る頂上の場を追求しながら出した声でした。その悲鳴の頂上に上がることができなくては、不平を言うことができないのです。

 父と本音を吐露できる立場で「父よ!」と呼びながら、「神様! 私の血は昔の先祖たちの血とは違います。裏切りの心情を抱いて、神様を恨む中で血を吐いて倒れ死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家と世界人類に同情してください! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげられるようにしてください! 私を先に立たせて、彼らの生きる道を開いてください!」と、血を吐きながら祈祷してきたのが先生の道でした。

 「ぶん殴れ、私が大韓民国を愛する愛国心が大きいか、お前が日本を愛する愛国心が大きいか」、そのようにしながら、とても意義深い戦いをしたのです。先生が監獄に入った時は、日本の帝国主義時代でした。それで、その時、先生は国を裏切る逆賊の立場に立たずに、かえって監獄に入ったことを感謝しましが)゜私が救いを受けるより、私一人が死んで国の恨みが解け、国が解放されるならばどんなにいいだろうかと考えたのです。これが統一教会の伝統的思想です。

 日本の監獄に入ったゆえに、私は韓民族の悲惨さを知りました。日帝がどんなに悪いかということを監獄に入って知りました。監獄に入って拷問を受けて、血を流す過程で同志たちと共にありながら、初めて韓国の悲惨な姿を知るようになったのです。このような民族を誰かが解放しなければならないという義務を感じたことも、監獄に入ってからです。監獄は、先生にとって偉大な先生になりました。復帰摂理路程において、誰も触れることのできない基礎を築くことのできる一時だったというのです。


命を懸けた黙秘権

 先生は血を吐いて、生死の境を何度も行き来しました。しかし監獄では、共に仕事をした同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私一人で戦った」と言いました。殺すと威嚇されても口を割らなかったのです。話さないといえば話さないのです。

 百余名の命が私一人にかかり、生死の問題がかかっているので、舌を切るならば切ったのであって、話すことができますか。話さないのです。「話さないぞ。打ってみろ。お前は打つけれど、私は殴られることにおいてお前に勝たなければならない。それが私の責任だ」と考えたのです。机の足四つが全部こなごなに折れていくように殴られて、全身に真っ黒い血のあざができても、二日も白状しなかったのです。「こいつは死ぬまで話さない」と言うくらい話しませんでした。いくら拷問されても、一言も話さないのです。責任者としての自分の秘密を守るのです。

 角材で身の毛がよだつような拷問をされた時も、話しませんでした。義理を守ることができなければならないのです。一度約束をしたならば、自分が滅びても守らなければなりません。そのように拷問をされて、一夜過ぎれば、その日は悲しい日であると同時に、忘れられない日として残るのです。

 今でも、名前を覚えているのです。道警察局の拷問担当者がいくら拷問しても、白状しないのです。「白状しない」、それで終わりです。三百六十五日、いくらでもしてみろというのです。何度、気絶して起きても、「なぜ起こすのか。少し寝かせてくれ」と冗談を言うのです。「もう少し寝ようと思っているのに、どうして起こすのか、こいつ」と言うので、拷問しても友達になったのです。誰が来ても、私は「おいおい、そうするから痛くない。痛いようにしろ、痛いようにしろ」と言ったのです。それでも解決しないことは明らかなのです、一こと言えば済むのですが…。「お前たちは無理やり印鑑を押したが、裁判所に行けば私は真実を話す」と言ったのです。男ならば、自分の思いどおりにしなければならないでしょう。先生はそのような男なのです。

 先生が取り調べ官ならば、一番の取り調べ官です。日帝時代に多くの熟練した検事、判事の前でただの愚か者のようなふりをして、みなのみ込んでしまったのです。調書を作成する時に、愚か者のふりをしたのです。それで、「いやー、あのような者が、一介の責任者になることができるのか。幼稚園の子供のようだ」と言われました。そのようにすれば、重要なことは隠して越えていけるのです。そして、調書を作成して印鑑を押せば、何でもないというのです。そのような作戦をしました。愚か者のふりも、時にはしなければなりません。そのように先生は熟練した男なのです。


怨讐の許しと祝福

 私を監獄に閉じ込めても、私の心と私の理念は閉じ込められません。私を打てというのです。打てば今まで私が神様の前に歩いてきた道と、神様が築いてこられた道とが連結されるというのです。ですから、怨讐を愛することのできる心がどんなに強いか鑑定しろというのです。打つならば打て! 私がお前を憎むか、憎まないか。むちで打たれて血を吐きながらも、「ああ! よく打たれた。歴史的なすべての怨恨の人類に代わって殴られた。私は殴られても忘れよう。記憶しないようにしよう」と思いながら、「神様! 彼らを許してください」と祈ったならば、それはどんなにすてきですか。その立場を越えなければならないのです。そのためには、私自らを殺す立場に立てなければなりません。そうすれば簡単だというのです。

 昔、日帝時代、監獄で私をひたすらに踏んでは殴った人がいました。その時私が考えたことは、怨讐を愛せというけれど、踏んで殴られると、私の性格ならばすぐに足でけり返してしまうはずなのに、「こいつ、さあ、お前やってみろ。耐えてやろう。死ぬ境地に行っても耐えてやろう」と、そのように考えたのです。

 私は彼らに怨讐のようには対しませんでした。彼らに福を祈ってあげるべき責任が私に残っているために、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを研究しました。監房で悩みながら研究したのです。しかし人には良心があるので、朝、人々がみな出たあとに、誰にも分からないように私に謝罪するのです。それが人なのです。それを見れば、人間は誰でも同じだというのです。彼らも良心は欺けないというのです。


危険防止策

 拷問される場に出ていっても死にません。拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。水を飲ませて拷問するのです。そして腹でもどこでも、ぎゅうぎゅう踏みます。それゆえに、それに耐えるためには浣腸をしなければなりません。おしっこの代わりに、おしりからみな抜き出さなければならないのです。血を出さなければなりません。血を出せば破壊が起こらないのです。爆発しません。破れないのです。それゆえに、神様がどんなに知恵の王であるか分かりません。

 皆さん、とても疲れると鼻血が出るでしょう。鼻血が出なければ脳出血になるのです。鼻血が出るのは、その防止策です。疲れてだるくなる時、血圧が高くなるので、切れて出てくるのです。それと同じように、拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。ですから、唇をかむとか舌をかむとかして血を流して、穴を開けなければなりません。そのようなことを私が教えてあげて、多くの人々を救いました。私のような人の生涯路程は、平安なものではなく、易しい道ではありません。今まで、数多くの死の道がありましたが、その峠をすべて越えてきたのです。


監房の中の寒さ

 先生は監獄生活をたくさんしたために、いろいろな経験をたくさんしました。監獄は寒いのです。日帝時代には、本当に寒かったのです。火をたいてくれないのです。火鉢がないのです。十年そこに住むようになれば、十年間服を着て暮らさなければ生きられません。ですから、いつも暖かいわきの下は何の停留所なのか知っていますか。何の安息所なのか知っていますか。しらみ、しらみです。ここには縫い目があるのです。ここから、さーっとやって、ここから下りていく縫い目をこうして押すと、真っ赤になるのです。寒い所でこれを捕まえて放っておくと、二十匹くらいいると、お互いに口をぶつけ合いながら集まってきて、それが丸くなるのです。一度やってみてください(笑い)。私はその専門家です。私の話が信じられなければ、やってみてください。

 それは、そうなるのではないですか。寒いのですから。皆さんも、寒ければ身を縮めるでしょう。同じことです。彼らも口が外に出るのを嫌がるのです。みなおしりだけ出すのです。おしりは丸くなっているので、寒さをあまり感じないのではないですか。

 しらみの足や□が出れば、どんなに寒いか。ですから、しらみたちが潜り込み、しきりに中に入ろうとするのです。栗の実のようになるのです。それを一度口に入れてジャキジャキ……(笑い)。性悪な人は、どうなるか知りませんが、それまでも食べることができます。


母親の涙

 ないお金を集めて外国まで送って勉強させたのに、監獄に引かれていくのです、監獄へ。日帝時代から、母が監獄に訪ねてきて涙を流すとき、母のことを考えれば、そのようなことをしなければよいのですが、母は何も言うことができなかったのです。母は何も言えなかったというのです。

 「私は母の息子として間違ったことはしていません。文なにがしの家門に生まれて、その家門を汚すようなことはありません。大韓民国固有の伝統的思想を中心としてみる時、良心の呵責はありません。私は、たとえ獄苦を味わう身になったとしても、息子がかわいそうだと涙を流すような母を願いません。ここで忠告をし、激励して、『あすの希望のために行きなさい』と言うことのできる母が、私には必要です」と言いました。

 親不孝です、親不孝。そのような親不孝がありません。日帝時代にひたすらに監獄暮らしをしたのです。日本から帰ってくれば、警察署が、すぐに私を呼び出すのです。私を恐れるのです。かといって私が拳骨を振るうのではないのです。父母が来て涙を流すようになれば、私は青天の霹靂のように号令するのです。「あなたの息子である文なにがしという人は気の小さい男ではありません。私の目にこびりつくものは、お母さんのためよりも世界と神様です。その悲しみを解くためです」。それで、この道に来ていると言いました。


釈放(一九四五・二)

 出る時は、彼らに親切にして出てこなければなりません。およそ五、六時間ひどく拷問を受けて気絶して、ばたりと仰向けに倒れる時、その時むしろ彼らから同情の気持ちがわいてくるのです。その時の気持ちが本物なのです。彼らは「ああ! あの時の、なにがしはどこにいるか」と思い出すのです。享楽を追求する人には、このようなことをどんなに説明をしても、絶対通じません。

 皆さんのように、若い時は本当に良い時なのです。苦労しても、苦労した跡が残りません。私がよく知っています。先生が皆さんぐらいの時、拷問もたくさん受けてみました。いくらむちで打たれ、水で拷問をされて体が張り裂けたとしても、死にません。およそ二週間過ぎると、すべて元通りになりました! 二週間よく食べると、以前と変わらなくなったのです。ですから、苦労は老いてするのではなくて、赤ちゃんを生む前にしなければなりません。

 ここに立っている文なにがしは、一生の間、数回監獄を往来しましたが、滅びませんでした。漢江のほとりに立って、私が痛哭したことを誰も知りませんが、私は知っています。


四 解放直前の内的な準備の仕上げ

日帝治下で内的な準備

 韓国は、四十年間日本の支配を受けなければなりませんでした。日本は、サタン側の女性国家でした。四十年期間に日本は韓国のすべての文化的伝統、そして甚だしくは韓国の言語までなくそうとしました。先生自身も、その期間に日本人たちによって投獄されました。そのように日本政府によって投獄され、抑圧を受けた韓国人たちがたくさんいました。神様によって召命されるために、その人々は愛国者、孝子、または社会に献身する人々にならなければなりませんでした。愛国者たちは、国のために彼ら自身を捧げると決心した人々です。神様の摂理のためにも、そのような人々が必要でした。神様が摂理のための基台を探して広められる時は、常にサタンの反対の下で役事されます。その時先生は、一人の青年として、迫りくる公生涯のために自らを準備したのです。

 一九二〇年代を中心として神様は既に準備されました。先生が生まれて人生問題に呻吟しながら、道理、天理を明らかにして、宗教問題、愛の問題を明らかにするための歩みをしながら、解放の時代まで越えてきたのです。解放の時代、その時、私は何歳だったのでしょうか。数えの二十六歳でした。

 先生においては、個人の患難時代がありました。私自身に対する患難です。そのような患難の瞬間がありました。深刻な瞬間でした。み旨の道を行くことができるのかできないのかという問題がありました。未知の世界を開拓しなければならないのですが、幾重にも泰山峻嶺によってふさがれている所を越えて、また越えてその世界を明らかにすることができるのか。歴史時代にそのように身もだえしながらも通り過ぎていった人は、どれほど多いだろうか。そのようなことを考える時、深刻なのです。その時、間違って決定していれば、今日の統一教会はなかったのです。自分のことを考える一念が、少しでもあったとしたら行くことができなかったのです。そのようにしながら、未知の世界を開拓してきたのです。

 その時先生は、皆さんが今習っている原理のどんなことも決して話すことができませんでした。なぜなら、先生が韓国の解放直後にこの仕事を始めることを神様に約束したために、その時には話すことができませんでした。神様のみ旨は、一人によってのみ成就されることはありません。共に働くことのできる対象がいなければなりません。


解放前夜の祈祷

 ソウルを中心として高い山の頂きに行き、悲壮な涙を流して痛哭した時がありました。この大韓民国は、どこに行くのか。「ため」に生きる天理の大主宰であられる神様の懐を離れて、どこに行くのか。また、私は、解放前に北岳山から始めて全部歩いた人なのです。それで、「大韓民国よ! 悲しむな。世の中は滅びても、お前は滅びないだろう」と、頭を下げて祈祷しました。私がいる限り滅びません。我が国の先祖たちの怨恨が多く、神様の怨恨が多いのです。

 ソウルに来るようになれば、私が三角山に行ってそのように歩き回りながら祈祷した、その時が忘れられません。皆さんには、そのような何かがありますか。世の中は分からないけれど、愛の道、愛の塔は高く積まなければならないのです。

 解放前の最後の日を送りながら、国のために神様の前に懇々と身もだえしながら祈祷した事情や、世界に対して身もだえして祈祷した事情を、みな打ち明けたい心が切実であるけれども、言うに言えない胸痛い内容があるというのです。


全国の神霊集団を踏査

 私がこの道を出発するようになる時、韓国の有名な牧師たちにみな会ってみました。熟したか、熟していないか、みな調べてみたのです。誰が何点で、誰は何点か、点をつけて出発した人です。その人々は私を知りません。うわべだけで見れば、私は若者であり、頭もぼうぼうなので、過ぎ行く旅人としか考えなかったでしょうが、私は彼らの中身を見抜いて、すぐに天の報告書に記録して出発したのです。報告して出発をしたのです。

 先生は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつき始めた時から、聖書の内容を中心して深く探求していくと、神様の摂理はこうだということがすべて分かるようになったのです。そして、二十五歳で、解放とともに新しく出発するようになったのです。

 先生はまず、地下教会を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳から、地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。

 既に二十代の前に、あらゆる有名な復興師たちを訪ねてみました。「堕落はどのようにして起こったと思いますか」と、堕落論を見て尋ねるのです。誰も彼もすべて訪ねてみました。また日本に行き、優れているというものはすべて目を通してみたのです。その結果、「お前たちは天の秘密を知らない。将来、私の手帳の中にある秘密の記録が出る時、お前たちはひざをついて降伏しなければならない」と、そのように考えたのです。天の秘密はこうだということを、私はよく知っていたので、すべて訪問したのです。鶏龍山やあらゆる所の人々を訪問したのです。優れているという者たち、何人かは全くの無知で、「鄭道令になる」と言っていたのです。

 真なる信仰団体は、みな地下に入っていました。その時先生は、たとえ年齢は幼かったとしても、地下運動していた信仰団体だとか、すべての韓国の実情をよく知っていました。


解放の時を予知

 文先生は賢い人なのです。文なにがしという人は、そのように未熟な人ではないのです。あらかじめ千里を見通して生きる人なのです。既に十代に、少年時代に、国がどのようになるかを知っていた人です。きのうも、私の従弟(文龍基氏)が話していました。「なんと! 一九四五年になれば四月にはドイツが滅びて、八月には日本が滅びると話していたことがみな当たって、自分が思うに、大学さえ出ればあのように天下をみな知って、未来まではっきりと分かるんだな」と考えたというのです。

 先生が今日語っている原理は、二十代にすべて準備していたものなのです。見てください。五十年前に語ったことが、今日すべて成就しているというのです。今になって話しているのではありません。その時は、韓国という国もなかったのです。そのような歴史を見れば、恨が多いというのです。


2004.6.26













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