真の御父母様の生涯路程 10
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真のお母様と世界女性時代

第二節 真のお母様の選定と聖婚

一 新婦候補者競争

真の愛の春風

 私のこの小さな目が、世界の母となり得る人をいい加減に選んだりするでしょうか。統一教会のお母様の選択時代において、女性という女性がみな「お母様になる」と言って、女性の勢いが非常に盛んな一時がありました。一九五七年から七年の間、愛の春風が吹いたのです。

 この統一教会の女性たちの世界において競争が起きるのです。おばあさんも「自分が宇宙の母だ」と言い、おばさんも、また夫と生き別れた女性もそのように言い、若い娘までがみな「自分が宇宙の母だ」と言うのです。先生が独りで暮らしているので「私が先生の妻にならなければならない」といって風が吹きました。この世でもこのような風が吹くことを何と言いますか。「恋煩いをする」と言うでしょう? 恋煩いでも最高の恋煩いをするのです。

 エバが堕落する時、三種類の心情圏を犯しました。父母の心情圏と兄の心情圏と夫の心情圏を一度に犯してしまったのです。それをいかに蕩減復帰するのでしょうか。蕩減復帰しなくては戻ってくる道はありません。兄の情を破壊し、兄を滅ぼしてしまったのが女性です。それから自分の夫を滅ぼし、その次には父を滅ぼしてしまったのです。三代の恨を抱いているのです。三代滅亡の条件を蓄えているのです。そのように三大心情を蹂躙したエバなので、再臨時代が来なくては女性を解放する道がありません。

 女性が三大心情を蹂躙したので、先生に出会うとお兄さんのように感じるのです。「ああ、お兄さんのようだ! 本当にこのような男性は初めてだ! 私のお兄さん! 一番だ!」と言いながら、先生のところに来て、無性に抱擁してもらいたいと思うのです。

 兄と一緒に成長したのちには何になるのですか。新婦になるのでしょう? それゆえに、兄と一緒に育って、先生と結婚式を挙げる夢の啓示を実にたくさん受けるのではありませんか。女性はみな先生と結婚式を挙げるのです。指輪をはめてもらい、エデンの園の花畑を一緒に歩きます。そのようにして、間違いなく先生を夫だと思うのです。

 そのようにして心情を誘発させるのです。アダムは兄の情を失ってしまい、夫の情を失ってしまいました。それから何ですか。父の情を失ってしまいました。これは何としても許すことはできません。ですから、このようにして三時代の心情を一人の男性に感じなければならず、数多くの国を代表するような女性たちが、女性として先生をそのように恋い慕い、身もだえしなければなりません。それで、先生に会いたくて夜も寝ることができなくなるのです。

 それゆえに、祈祷して霊的に見るようになれば、約婚の指輪もはめてもらい、裏山でデートもするようなことを見せられるのです。そのようにしながら、ある一時のある場所を中心として、失ってしまった三大愛を蕩減復帰することができる心情的復帰圏ができなくては、女性が本然の世界に入っていく出発をなすことはできません。統一教会において、初めてそのような出発をなすことができる根が生まれたのであり、そこからすべて枝のように大きくなっていったので、今までそのような作動を行ってきたその原則に従っていきながら、すべて入っていくことができる道が生じるのです。


家庭内の三代の女性たちによる競争

 それはすべて過ぎ去った話ですが、お母様をお迎えするようになる時のことです。「ああ、先生は私たちの中からお母様をお迎えになるのだ。先生がお母様をお迎えする年になってきた」と言ったのです。先生が四十歳になったので、四十数ということが分かるのです。四十歳になってきたので、三年前の三十八歳の時から騒々しくなったのです。親戚の中に美しい娘、優れた娘がいれば、すべて手帳に書き込んで連れてきて「あー、先生はもうこれこれこうなので、うまくすればお前が先生を夫としてお迎えするのだ」などと言いながら、ありとあらゆる妖しい事件が起きたのです。

 統一教会の中では、おばあさんから母親と娘までの三代が精誠を尽くすのです。「我が家から先生の相対が出てこなければならない」と言って精誠を尽くせば、すべて教えてくれるというのです。すべて啓示を受けて間違いないと信じたのです。そのような人々が大勢いました。また、今まで先生が復帰歴史を歩んでくる中で重要な仕事をさせたおばあさんたちも、みな霊界を通じて「先生の結婚相手には自分たちが選ばれなければならない」と思っていたのです。(笑われる)

 それでは、そのような環境だったので、何かのうわさが立たないでしょうか。先生が誰かと少しぽかり近く接しただけで「先生はどこどこの家の娘と結婚するだろう。これこれこのようになるだろう!」と言い、また霊通する人々は、祈祷する中で「誰々がなるだろう!」という啓示を受けて話し、様々なうわさが飛び交う状況でした。お金があり、勉強をして、大学を出て、その上、立派な家門をもった多くの女性たちは、大変な自信をもちながら、そのように考えていたのです。その時、先生は四十歳だったので、二十五歳以上、二十八歳、三十歳を中心として、その前後の女性たちは本当に大きな夢を描いていたのです。その時、先生は結婚をしていなかったので、そのような女性たちがたくさんいました。

 それで、心の中でお互いに競争しているということを、お互いが知るようになったのです。そして、経験のない十代の少女が入ってきたとしても、この統一教会で耐えることができないはずであり、また分別していくこともできないと思ったのです。ですから、その環境において、どれほど神経戦が行われたことか、考えてみてください。銃弾が飛び交うことはありませんでしたが、どれほどその心情弾が交差しただろうかということを考えてみてください。

 三代を動員して先生をお迎えしようと、家族全体、氏族全体が準備をするのです。布団を準備し、服を準備して、結婚する準備をするのです。霊界がさせます。すべて手抜かりなく教えてあげます。三代を通して教えてあげるのです。先生がデパートのような所にでも行けば、三人が同時に先生のいる場所に訪ねてきます。おばあさん、お母さん、そして娘が、約束でもしたかのように訪ねてくるのです。「今、先生はどこどこに行っているので早く行きなさい! 何時までに行かなければ大変だ」という啓示を、霊界から三人が同時に受けるのです。三人がみな嫉妬する立場です。

 三代が一つにならなくては縦的な基準ができません。また、横的に見れば三族です。叔父、それから父、それから叔母です。この三代、六親等まで一つにならなければなりません。これが一つにならなくては、統一的基盤ができません。

 堕落はどこでなされたのでしょうか。すべてエバから分かれてきました。それゆえに、エバのような群れが出てきてアダムを四方に引っ張っていこうとするのです。そのような邪悪なエバをすべて捕まえて、すべてにおいて理論的に屈服させなければなりません。秩序を正してあげなければなりません。おばあさんならばおばあさんの位置、嫁ならば嫁の位置、孫娘ならば孫娘の位置を正しく直してあげなければなりません。「原理」を知らなければ、これはすべて砕け散っていくのです。


歴史上の最高記録

 統一教会が始まってから、統一教会の女性という女性はすべて先生に対して夢を思い描きました。そのような夢を抱かなかった人はいないということを知らなければなりません。それゆえに、霊界からの啓示は、すべて自分が「先生の相対だ」という内容です。七十歳の老人から、六十、五十、四十、三十、二十、十代まですべてです。それは、そのようにならざるを得ません。そのようにならざるを得ないのは、霊界は、すべての縦的役事を代表しているからであり、代表的な女性を立てて証するのです。

 それで、百年の歳月というものは一万年の歳月に匹敵し、十万年、千万年の歳月に匹敵するのです。それゆえに、女性という女性はすべて入ってくるのです。それは何かというと、女性たちが神様のために精誠を尽くしたものをすべて合わせ、一つの結実として実を結ばせるのです。

 七十歳になる老人から少女まで、すべての女性が「先生と命を懸けて結婚したい」と思ったことは歴史上の記録です。多くの女性たちが精誠を尽くし、命を懸けて相対になろうと思うことが記録にならなければなりません。サタン世界のいかなる女性よりも、彼女たちが記録にならなければなりません。そして、そのような男性にならなければなりません。一人の男性が登場したのですが、数多くの女性が登場し、その相対になるためにすべての女性たちが動員されたということは、歴史的に初めてのことだというのです。いかなる王を中心としてみても、そのような男性はいません。


二 真のお母様の選定

十七歳の少女

 み旨がなかったならば、先生はお母様と出会うことはできませんでした。お母様になる人は二十歳を越えてはいけません。本来は、十八歳を越えてはいけません。満で十八歳を一日でも過ぎてはいけないのです。エバが十六歳で堕落したので、三年を経て十九歳まで連結されるのです。

 二十歳は二十数なので、蘇生、長成、完成を代表します。それゆえに、二千年歴史とは、完成の峠を越えて完成することができる段階を意味しているのです。ですから、二十歳前でなければなりません。お母様の因縁をもった人は、絶対に二十歳を越えてはいけません。父となることができる人がこの地上に生まれ、母を選択する際に立てる条件は、その人が絶対に二十歳を越えてはいけないということです。

 お母様は、できるだけ年齢が若いほど良いのです。なぜでしょうか。堕落圏を見れば十代が問題ですが、韓国的な立場から見るとき、年齢が低いほど地上の女性世界の純潔基盤に近いのです。

 年齢は四十になったとして「天のために若い妻子を迎えて、一度忠臣的夫になってみよう」ということが念願でした。また、「齢四十にして、自分勝手に生きてきた女性を引き連れて暮らしながら、いかにしてその年の多い妻から一生褒めたたえてもらうことができる真なる夫になることができるだろうか」と思い、そのような意味で年齢が若いお母様を迎えたのです。

 お母様と私を比べれば、私はお母様よりも二十三歳年上でしょう? この世から見れば、私は父親のような年齢です。自分の娘のような女性と結婚する男性がどこにいますか。しかし、真の愛は年輪を越えるのです。真の愛には、億万歳になるおじいさんにとって、億万歳だという考えがそこには及びません。記憶できません。ただそのまま新しく感じられます。ただそのまま良いのです。ただそのまま和合です。ただそのまま統一です。ですから、真の愛は悪くないというのです。お母様と私は年齢の差が大きいですが、真の愛の世界に行けば「おい、二十三年してから来なさい」と言うでしょうか。それは問題にならないというのです。

 さらに、四十歳以下の人の心情圏を何によって連結しますか。お母様を代わりに立て、下りていってお母様と共に上がってくる基準を中心として、家庭的心情圏を連結させるのです。そのようにすれば、思春期以下の男性、女性は、同じケースとしてすべて連結され得るのです。

 しかも、先生は二十年間で十二人の息子、娘を生まなければなりません。そのようにしてこそ二千年を蕩減することができるのです。おしりが丈夫で、腰の力があって、毎年次から次へと産んだとしても産めるかどうかだというのに、年を取った人では大変なことになります。ですから、仕方なく、できるだけ年が若く、十六歳以下でも良いと考えたのです。そのように考えていたところ、そこに合致した、雲の上に飛んでいくものを私がさっと捕まえて手に入れたのです。それがお母様です。(笑い、拍手)


絶対従順の相対者

 先生は四十歳になって十七歳になる娘と結婚しました。この非常に大きい団体を動かさなければならない責任を担った先生には内助者が必要だったので、大学を出た人もいましたが、お母様を選択しました。行く道がこのような道なので、自分を主張することなく、いかなる死の峠であっても夫のために生命を身代わりすることができる人が必要でした。それゆえに、首を横に振る人の娘は絶対に選びませんでした。

 最も底辺において黙って犠牲となり、「また行かなければならない」と心に誓いながら行く人の娘が選ばれました。教会で献身生活をしていたおばさんの娘、高校二年になる娘を選んだのです。摂理的プログラムがそのようになっていたからです。妻を迎えるにしても、私の欲望を中心としては選ばなかったのです。

 お母様の母親は、ここに来て家政婦暮らしをしたでしょう? 末端から忠誠を尽くしなさいというのです。その母親は監獄生活をする運命にありましたが、それはすべて福なのです。統一教会は、監獄生活をして、苦労してそこから出てきたとしても恨むことなく、すべて自分が悪かったのだと思って、天の前により一層忠誠を尽くそうとします。そのような面から見れば、すべて復帰原則によって分別してきたのです。

 お母様自身も、愛を中心として羊のように従順でなければなりません。すべての面において絶対従順することができる条件を復帰しなければなりません。ですから、夫のために全面的に犠牲とならなければなりません。夫を愛するのに絶対的でなければならないのです。そのようにすることができる条件を備えなければなりません。お母様が、家庭も良く、誇ることができる条件を備えていれば驕慢になります。すべての面において服従しなくてはなりません。ですから、お母様が「私の父親よりも劣る。私のお兄さんよりも劣る」と言って比較の基準をおいてはいけません。世の中のいかなる男性よりも、先生よりも、おじいさんよりも、誰よりも、私の夫はもっと優れていると思わなければなりません。

 なぜかというと、エデンの圏において、エバは、男性というものを見ることができませんでした。男性に対して考える余地がありませんでした。エデンの園において、アダムは、エバの父親になり、それからお兄さんになります。その次には夫になるのです。それが復帰です。神様を取り戻さなければならないので、真なる父を取り戻し、真なる兄を取り戻し、そののちに真なる夫を取り戻さなければならないというのがエバの立場です。それで、そのような女性を選ぼうとしたので、何も分からない、そのような幼い娘を選ばざるを得なかったというのです。

 先生自身もそのように思っていました。先生は勉強もして、すべてをしましたが、最も良い相対は小学校を出た人だと思っていました。お金持ちの娘ではなく、農村の何も知らない純真な人を思っていたのです。そのように思っていたので、神様があのように美しいお母様を迎えさせたのです。

 み旨のためにはただうれしく、先生のために一〇〇パーセント歓迎する人であれば、最も劣った人でも良いと思っていました。ですから、最も優れたお母様を迎えたのです。(拍手、歓呼)お母様も「自分もどのようになったのか分からず、このように先生のところにお嫁に来るようになった」と言っていました。それは、避けようとしても避けることができないようになっていたのです。何かに流されてきたというのです。


八段階の女性心情圏の伝授

 結婚はしましたが、条件が立てられる前にお母様を迎えれば大変なことになります。殴り殺したり、薬を飲ませて殺したりという、ありとあらゆることが起きるのです。自分の孫娘が来られる主の新婦となり、自分の家が皇族になるという啓示を受けていたのに、突然どこからかほかの新婦が来たので、じっとしていることができますか。ですから、八十代から七十代、六十代、五十代、四十代、三十代、二十代、十代まで収拾し、これを引き受けてあげなければなりません。そのようにして、お母様に譲り渡してあげなければならないのです。

 サタンである偽りの父親から生まれたので、霊的にでも本然の完成したアダムの位置を探して入っていかなければなりません。それで、女性を代表した人々が先生の新婦候補者となって、先生が結婚する前におなかの中に入っていき……。この十代から八十代までの七十年に及ぶ女性たちのすべてのものをお母様が引き継がなければなりません。引き継ぐことができるようにするためには、それらをすべて収拾しなければなりません。ですから、先生が収拾して、お母様を選び、お母様が再び引き受けて産んであげなければなりません。このように、蕩減復帰、実体復帰が難しいのです。

 そのような時局に、「お母様だ」と言って、小さな、青い、まだ熟してもいない人を連れてきたので、どれほどのけ者扱いにするでしょうか。それゆえに三年間完全に隔離して、一段階、一段階、八段階を経て越えてきたのです。八十段階のおばあさん、七十段階のおばあさん、それから六十段階のおばあさん、五十段階のおばあさん、四十段階のおばさん、三十段階のおばさん、二十段階の女性、十段階の若い娘まで、すべて経てきたのです。

 神様が御覧になるとき、全世界の女性は一人です。一人として見るのです。堕落する時、アダムとエバが堕落したので、全世界を代表したアダムの前に、全世界の女性はエバの立場に立っているのです。ですから、年齢が高かろうと低かろうとすべてエバです。ゆえに、八十代のおばあさんの時代から橋を架けなければなりません。花の橋、愛の橋を架けなければなりません。ですから、彼女たちをみ言で導き、自分の娘のように育て、率いていきながら、東西南北のすべてのものを収拾し、橋を架けなければならないのです。

 そのためには、数多くの女性たちのそのような事態を踏んで上がってこなければなりません。踏んで上がってきながら、エキスを抜いて愛のひもをすべて奪ってこなければなりません。そのようにして、天の前に立つことができる本然的姿勢を備えたという勝利の印を受けなければなりません。解放を受けなければならないのです。

 垂直線は、サタンが審判することはできません。ですから、真の愛を中心としてこれをすべて連結してあげなければなりません。それゆえに、八十歳になるおばあさんの愛を七十代に譲り渡し、七十代の天の愛は六十代に譲り渡し、六十代の天の愛は五十代に譲り渡し、五十代の天の愛は四十代に譲り渡し、四十代は三十代、三十代は二十代まで譲り渡してこそ、連結されるのです。


洪順愛大母様との一体圏

 僕である天使長がエバを堕落させてひっくり返してしまいました。それで、それと同じように僕の生活をするのです。復帰の道では僕の生活が展開していきます。なぜならば、エバの主人であるサタンよりも大きな愛をもつことなくしては新婦を取り戻してくることができないからです。エバが神様の真なる愛を中心として、自分のすべてを否定して「私は死んだとしても、あなたのおそばに行きます」と言って、その夫に屈服することができる基盤を造成してこそ、初めて取り戻してくることができるのです。それがこの道です。もしそのようにすることができなければ、欺いてでも奪ってこなければなりません。

 それでは、ここで相手は女性ですが、女性を中心として見るとき、どのような女性でしょうか。女性の中で新婦となることができる女性です。女性の中においても、母の立場の女性がいて、娘の立場の女性がいます。それはレアとラケルを象徴しています。これは、来られる新郎の本意ではありませんが、天理原則によってそのような役事が展開するのです。

 ところで、その母は、僕の立場で自分の娘のような人を大切に育てなければなりません。母が僕ならば、娘は何になりますか。僕の娘になります。そのようにして、まさしくその僕の娘を神様の娘として入籍する相続式を行わなければなりません。その式を行うことによって初めて新郎として来られた主の前に新婦が策定されたとして、新しい時代の前に宣布式をすることができるのです。その時代は統一教会で言えば、一九六〇年度に相当します。

 ここにいるお母様を中心として、そのように役事しました。皆さんが知らない中でそのような役事を行ったのです。洪順愛氏というお母様の母親がいます。母と娘はいつも心が一致しているので、二人で共にひそひそと話すのです。

 サタン世界の版図を中心としてエバ圏のカイン、アベルを失ってしまったので、二人の母が必要なのです。その次にはカイン的息子、アベル的息子が必要です。そのような位置の基準を身代わりして立てなければならない人がお母様になるのです。

 なぜそうなのかというと、母というものは縦的です。先日、洪氏おばあさんに対して「大母」という言葉を使ったのもそのためです。「大母」という言葉です! しかし、この母から直系になっていないのです。それで、このようなすべてのことを蕩減条件に連結させて基盤を築かなければなりません。それゆえに、先生を中心として見ても、二人目のお母様です。最初のお母様が代を継ぐことは難しいのです。レアとラケルが一つにならなければなりません。ここで心情圏の分裂が起きてはいけないのです。ここで一体圏を成さなければなりません。レアとラケルが双子のようになった立場で、アベル的夫人とカイン的夫人のような立場で、これを完全に取り替えても一つになることができる心情圏をつくらなければなりません。兄が弟になっても喜び、弟が兄になっても喜ぶことができる内的基盤の一体圏をつくっておかなければなりません。そのような過程を経てお母様を迎えるようになったのが一九六〇年度でした。


お母様の四位基台

 誰もがお母様になることができるのではありません。すべての摂理は、エバの役事を中心とした歴史時代におけるすべての摂理と連結させた因縁を中心として出てくるのです。それゆえに、金聖道の代を許孝彬が継ぎ、許孝彬の娘が主を迎えるように準備がなされたのです。それで、十二弟子のような、そのような準備をしたことを見れば、本当に不思議なほどです。

 そのようにすべての内外を合わせて主が来られ、三人の女性の協助を受けて結婚式を行うようになるのですが、その時、三人の女性は何かというと、蘇生、長成、完成です。おばあさん、母、娘の三代が一つになったということは、旧約時代、新約時代、成約時代が連結されたということです。そのようになることによって、初めて父母が定着することができる時代に入ってくるのです。

 それゆえに、今日、統一教会においても、お母様を中心とした三位基台があるのです。縦的にあった三位基台が横的に展開されるのです。それではどこが中心でしょうか。お母様が中心です。

 崔元福氏もそうなのです。しかし崔先生が中心ではありません。お母様が中心です。女性といえば、堕落した女性と堕落していない女性に分けられます。堕落したエバの直系の子孫、それと希望の女性です。希望の女性はイエス様の前に新婦となります。堕落した女性は、イエス様の前における裏切り者です。その裏切り者を導いて許してあげ、カインとしてアベルに仕えさせるのです。それゆえに、崔元福氏も、お母様の行く道を切り開いていかなければなりません。

 堕落した母の立場で復帰することができる個人的十字架、家庭的十字架など、すべての十字架を背負って、エバがお父様の前に失敗したすべてのことを蕩減するにおいて、主導的役割をしてあげなければならない万人の女性がいなければならなかったのです。

 エバは、愛が何であり、夫が何であるかも知らない時に堕落しました。ですから、それを教育して、天国の王妃として、后として育てていくのです。そのようにしてサタン世界を生かしてあげようとするので、お母様の三位基台を中心とした基準があると同時に、お母様の母親の三位基台がなければなりません。お母様の母親の三位基台であるおばあさん三人をおいて回っていかなければならないのです。

 それで老人たち、池承道老人、玉世賢老人、それから李奇完氏、この人たちが一つの家で生活しなければなりません。この三人はどのような人たちかというと、お母様の三位基台に対して基盤となる人たちです。崔元福氏の三位基台に対して象徴的基盤となるのですが、これが一つにならなければ、統一教会のすべての伝統的歴史を汚してしまう立場の代表者となるのです。それゆえに、一つにならなければなりません。

 このように、おばあさんたちを三位基台で一つに結び、母子協助することができるサタン世界の三人の息子、娘を立ててきたのです。そのおばあさんたちはみな、先生が呼んだのではありません。霊界で出会わせてくれた人たちです。


三 「父母の日」の設定

真の御父母様の約婚

 一九六〇年三月二十七日(陰暦三・一)午前四時、ソウル市龍山区青坡洞一街七一−三の前本部教会において、文鮮明先生と韓鶴子女史の約婚式が挙行された。翌年の第二回「真の御父母様約婚記念日」において、真のお父様は、この日を「父母の日」として公式宣布された。その後、毎年陰暦三月一日を「父母の日」として記念してきたが、一九九四年、第三十五回「父母の日」記念礼拝を期して、その名称が「真の父母の日」と改められ、記念されるようになった。

 先生は、何も知らないお母様に十四歳の時に一度会い、それから、嫁に来るまでに二度会いました。正式に会ったのは十四歳の時です。その時、私が呼んでおいて、今後資格があるかどうか試験したのです。

 その時、お母様は高校に通っている娘でした。それで、「おいおい、文総裁があなたを呼んでいる」と言われ、「なぜ。知らないのにどうして」と言って来てみると、「あすの朝、結婚式をするそうだ」と言われたので「そうですか」と、こうだったのです。反対するすべを知らなかったのです。

 私が試験をしました。絵を描いたのですが、なかなか上手な絵を描くのです。そして、絵を描くと、開いて見せることも恥ずかしくしていました。心の姿勢が絵よりも素晴らしいのです。その時、お母様は本当に美しい娘でした。素晴らしかったのです。

 また、私がお母様と結婚する時、「神様、私は結婚する時になったので結婚します」と言って結婚したのではありません。神様が「時になったのでしなさい」とおっしゃられて結婚したのです。それが原理です。お母様も、私と結婚するということは考えもせずに来たところ、どうしてかそのようになったのです。


《祈祷》

 この時間、悲しみの時間ではなく、こみ上げてくる切なる心情に幼いこの心を抑えることができず、喜びにあふれて号泣しながら訴えざるを得ない時間なので、お父様、四十年の生涯を導いてこられたお父様の大変な労苦をこの時間解いてください。誰よりもあなたが孤独なことを私が知り、誰よりもあなたの無念さを私が知っていたので、真の父母の名を掲げてきたすべてのことが天のためだったということを、あなたが知ってくださるようお願いいたします。ここにいる、あなたのみ旨を心配するあなたの息子、娘も、今、み旨を成し遂げるために残された余生をすべて捧げ、死のうと生きようと、絶対に天の前に傷を残す息子、娘となることがないようにしてくださることを懇切にお願い申し上げます。

 行けば行くほど孤独な道がお父様の行かれる道だったのであり、知ってからまた再び心配しなければならない、そのような歩みをされたのがお父様の歩みだったということを知りました。お父様、六千年間探しに探されたその日を探し出され、この日を歴史に立てられ、お父様の新しいみ業を全天宙の前に立てる日となるように許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。

 この日、立てられた娘を受けてくださり、勝利の月柱冠をかぶせられ、積もり積もった恨を解くことができる娘となるように許諾してください。この日から、この勝利の栄光だけが父の前にあり、食口たちが進んでいくすべての道の上にお父様が共にあってくださることを懇切に願いながら、送ってくださったところの名によって申し上げました。


真のお母様のみ言

 私は、北韓ではお父様にお会いすることができず、南韓へ渡ってきたのちに、ソウルで初めてお会いしました。その時は、私が満十三歳の時(一九五六)であり、ちょうど小学校を卒業したあとでした。当時は母と一緒に入教してからいくらもたっていない時であり、その間、数多くの困難な道を歩んできたので、未来に対する確信をもつこともできませんでした。特に一九六〇年に何か起こるかということは知るはずもありませんでした。

 初めてお父様とお会いした時、お父様は私を見た瞬間、目を閉じられ、瞑想されたのち、心の中でささやかれるように「名を何というか」とおっしゃいました。それで、「はい、私は韓鶴子と申します」と答えました。すると「あー、神様! 韓鶴子というこのように素晴らしい女性をこの韓国に送ってくださったのですね。ありがとうございます」と言われました。お父様は、その瞬間瞑想され、ほとんど独り言のように言われたのですが、私にはそのように聞こえました。

 その時は、統一教会の教主であられるお父様が私の将来に関して特別な啓示を受けていらっしゃるような感じを受けたので、多少不思議には思いました。その当時、私は江原道の香川に住んでおり、お父様はソウルの本部教会にいらっしゃったので、春川とソウルという距離をおいて遠く離れていました。

 私は、お父様と出会ったのち、教会に通いながら中学校を卒業し、高校に入学しました。

 今日、私たちが記念している聖婚式が挙行されたのは、一九六〇年四月十一日、陰暦三月十六日でした。聖婚日のT刀月前にお父様が夢に現れ、神様からの特別な啓示がありました。

 「その日が近づいたので準備しなさい」という啓示が下りました。天が求婚をしたと言うよりは、言ってみれば、その時から天の訓令が下りてきたのです。訓令がある時、私は完全に自我を離れた立場に置かれました。天の摂理でなくては、私はその時、そのような大きなことを判断することができる能力がなかったので、無我になる以外にありませんでした。そして、祈祷せざるを得ませんでした。「今までも私はみ旨のとおりに生きてきました。今、神様のみ旨が何であろうと、神様の摂理の目的が何であろうと、私はあなたの僕として、どのようなことでも、命令されるがままに従っていきます」。啓示に対して、私の心をそのように応答して示しました。それは、私が満十七歳の時の春である、二月のころでした。

 私は完全に無我の境地になって準備していたので、その事情を分析したいとは思いませんでした。神様のみ旨のままに、全面的に体を捧げることを、ただひたすら願っていたのです。

 小学校の時、大母様に従って青坡洞に行った時、初めてお父様にお目にかかりました。その時、お父様がおっしゃったみ言があります。学生服を着た私を見られたのちに、じっと目を閉じられ、「大韓民国に韓鶴子が生まれたのだなあ」と言って感嘆されたのです。そのことが、今も記憶にはっきりと残っています。

 すべてのことは天が準備された、ということを常に感じます。私の性格から見ても、また生きてきた背景から見てもです。イサクがアブラハムと一緒に祭壇を築くために上がっていく時、アブラハムに祭物がどこにあるのか尋ねてみるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」と言いながら何の回答もしませんでした。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。それと同じように、私においても、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼いころからしていました。再臨主の相対として準備された自分であるということを、それとなく感じていたと思います。

 私は、生まれながらにして、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついていました。ほかの女性であれば、ふろしき包みを何度包んでも余りある立場でしたが、そのような考えですべてのことを克服してきました。



「父母の日」の意義

 私たちの先祖であるアダムとエバが堕落していなければ、私たちは既に「父母の日」を迎えていたはずです。しかし、アダムとエバが堕落したので、「父母の日」を迎えるためには、まずこの地上に真の父母が来なければなりません。そのようにして初めて「父母の日」を迎えることができるのであり、その日を基準として真の父母による子女をもったのちにおいてこそ、「子女の日」を迎えることができるようになるのです。そのようになれば、万物を主管することができる日も迎えることができるようになります。

 神様は、六千年歴史の中で、三段階を経て救援する摂理を行ってこられました。僕の時代である旧約時代と、養子の時代である新約時代を経て成約時代を迎えたのです。成約時代には、子女が現れて父母の位置を整え、父母を迎えなければなりません。今まで、神様はそのような復帰歴史をなしてこられたのです。

 したがって、「六千年の復帰摂理歴史は、真の父母を探すための歴史であった」と言っても過言ではありません。真の父母は、六千年摂理史全体を代表されるお方です。ですから、その真の父母を探すことができなかったことが、人類全体の悲しみを表し、全体の苦痛を表し、全体の悲哀を表しているということを、私たちは知らなければなりません。

 イエス様は、地上で新婦を探し出して真なる父母の因縁を立て、世の中と神様の前に「父母の日」を立てなければなりませんでした。しかし、そのみ旨を成し遂げることができずにこの世を去られたイエス様の心情とは、どのようなものであったでしょうか。私たちはそれを知らなければなりません。

 人類を生かすことが願いであり、目的であったので、そのみ旨を成し遂げることができずに十字架で亡くなられたイエス様は、再臨されなければなりません。それでは、イエス様が再臨される時、まず何をなさなければならないでしょうか。それは、弟子たちに出会うことではありません。新婦を探し出さなくてはならないのです。

 その日が来なくては、天宙の恨を解くことはできません。この日が来ることなくしては、神様のみ旨を奉じることはできません。この日が立てられることなくしては、サタン世界であるこの地上に神様の勝利の土台を築くことはできないのです。神様の勝利の日を決定する日もこの日であり、聖徒たちが解放されることができる日も、まさしくこの日です。天宙間の願いと理念が一つになる日もこの日であり、天地が開闢する日もこの日であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 ところで、統一教会において初めて「真の父母」という言葉を中心として、歴史上に「父母の日」が設定されました。神様の本然の愛を中心とした男性と女性がこのような関係で夫婦を成す「父母の日」が設定された、という事実を知らなければなりません。そのようになることによって、神様を中心として、男性の心と体と女性の心と体が完全に水平線となり、神様が願われた理想的完成圏を出発するのです。

 その時は、一九六〇年三月二十七日でした。今正に、初めて歴史上に゛父母の日」が生まれたのです。失われた神様の栄光を身代わりし、人類の勝利を褒めたたえ、悪に対して公義の法度で審判の権限を行使することができる私たちの父母が生まれたのです。これは、この地上における福音の中の福音です。それを宣布したのが「父母の日」であり、その日がまさしく陰暦の三月一日だったです。


四 真の御父母様の聖婚式

解放後十四年、長成期完成級の復帰

 一九六〇年四月十一日(陰暦三・一六)午前十時、ソウル市龍山区青坡洞一街の前本部教会において、全国の各教会から選抜された七百人以上の男女の聖徒が参席する中で、文鮮明先生と韓鶴子女史の聖婚式が挙行された。この聖婚式は、「蕩減復帰の父母の式」である第一次式と、「栄光の父母の式」である第二次式に分けて進行された。

 皆さんも知っているように、お母様を迎えたのは解放後十四年たったあとのことです。一九六〇年度です。なぜ十四年なのでしょうか。人間始祖が長成期完成級で堕落したからです。第二次七年路程を経る位置、すなわち第三次七年路程を前にした第二次七年路程の終結時代に堕落したからです。それで、蕩減復帰原則によって十四年の迫害の路程で韓国に着陸し、統】教会という祭壇を築いて既成教会と闘い、大韓民国―すべて怨讐です―と闘いながら、お母様を選び立てたのです。そのお母様を選び立てたところから初めて地上に着陸するのです。

 お母様を選び立てるために、摂理史的に問題となった人物たちの蕩減条件を立てました。アダム時代からノア時代、そしてアブラハム以後、歴史的に問題となった人物たちの蕩減条件を立てたのです。イスラエルの国とイスラエル民族を設定して進んでくる際の歴史的なすべての問題をキリスト教文化圏が引き継ぎ、それを霊的にではありましたが二千年間蕩減してきたすべてのことが崩れたのです。イスラエルの先祖たちが蕩減することができなかった条件と、蕩減条件を立てたが失敗したキリスト教の条件を再びよみがえらせ、蕩減復帰の基盤を経てきながら、統一教会は、四十年間前進的発展をしてきたという話です。

 それで、十四年たったあとにお母様を選ぶ時は、イエス様が十字架で亡くなられたその時と同じ立場です。言い換えれば、大韓民国がユダヤの国と同じだということです。今日のキリスト教はユダヤ教と同じ立場であり、統一教会は、その時のイエス様とキリスト教と同じ立場です。国と教会から迫害を受けて十字架を背負われたので、それと全く同じ環境で闘って勝利しなければなりません。蕩減復帰しなければなりません。

 一九六〇年に家庭を立てたのは何のためでしょうか。アダムとエバが神様の心情を知らずに堕落したのですが、その堕落する直前にもっていた心情基準以上の心情をもって、そこに真の父母の因縁を立てて連結させるためでした。それを連結させなくては、この堕落した圏内の心情基準の人々は復帰することができません。言い換えれば、アダムとエバが父母の因縁をもって歩んできたその心情の基準まで連結させることができる真の父母の因縁を立てなくては、この地上で落ちた人間たちを再び復帰する道がないのです。

 言い換えれば、アダムとエバが愛の因縁を結んでいない立場で、内情的な父母の因縁をもって歩んでくる途中で堕落したので、そこまで上がってきた基準があるというのです。したがって、真の父母が来て、そこで神様の心情を知ることができなかったこと、偽りの父母が失敗したことを除去してしまい、真の父母の因縁を、言い換えれば、長成期完成級で堕落したその基準を越えた完成級の出発基準をもつことができる父母の心情基盤をこの地上に準備したのが、一九六〇年度の聖婚式でした。


激しい迫害の状況

 一九六〇年に行った聖婚式の背後には、アダム以降イエス様の時までの四千年と、イエス様から今日に至るまでの二千年の歴史過程において引っ掛かっていたすべてのことを、蕩減条件を立てて解決しなければならない内容がありました。その行事は世界的であり、天宙的な意味をもっていたにもかかわらず、現実的には少数の人々によって成されたのであり、それに対する迫害は想像できないほど大きなものでした。

 それを準備するための一九五三年から一九六〇年までの期間は、迫害の時期でした。その期間において、少なくとも三百六十万人以上の人々から迫害を受けたのであり、三つ以上の教派と国家から迫害を受けました。それでも、そのような中で勝利圏内に蕩減条件を立てたのが一九六〇年における先生の聖婚式でした。その日は、統一教会の運命を決定した最初の日でした。

 イスラエルの国とユダヤ教とイスカリオテのユダが一つになってイエス様を殺したのと全く同じ運命に追い込まれたのです。その時が、まさしく一九六〇年四月でした。その時は、反対の絶頂期でした。一歩前に進むことができるか否か、死ぬか生きるか、ここで新しく出発することができるか否かという境界線に到達したのです。

 イエス様の十二弟子が反対したのと同じように、裁判所において十二弟子が一緒になって統一教会をなくさなければならないと訴えたので、その裁判所の調査を受けながら聖婚式を行ったのです。それは誰も知らないことです。そのような意味では、劉孝元協会長の功労が大きいのです。その時、朴マリヤ一族を中心として、政府がいかにして統一教会をなくそうとしましたか。五大長官を動員して完全に捕まえて殺そうとしたのです。

 お母様を迎える前日まで内務部で調書を作成しながら、お母様まで呼び込んで闘わなければなりませんでした。イエス様は法廷で死んだので、法廷で復帰してこなければなりません。蕩減復帰です。十一時に法廷で殴られながら、翌朝三時に結婚式を始めました。そのような闘争のまっただ中で基準をつくったのは、万人の平安と喜びの幸福の基台をつくってあげるためでした。

 そのような時局において、一九六〇年四月十一日を中心として聖婚式が行われることによって、一つの峠を踏み上がるのです。そこから、サタンとその配下たちが敗れ始めていくのです。


三次目に探し出した家庭の型

 来られる主の家庭とは、どのような家庭でしょうか。悲惨と言えば、それ以上に悲惨な家庭がないほどに悲惨な家庭です。言い換えれば、その家庭においては、今までの歴史過程を通してすべての男女が引き起こした悲惨な出来事が一瞬でもかすめていくのです。そのようにしなくては、蕩減することはできません。

 それゆえに、その新婦が流さなければならない涙の種があるとすれば、それは、歴史上の数多くの女性を代表した涙の種にならなければなりません。また、耐え忍ぶことがあるとすれば、それもやはり、歴史上の数多くの女性たちを代表した忍耐にならなければなりません。そして、男性としてなさなければならないことは、心情世界において無念に犠牲となって愛の道を行った男性たちがいるはずであり、また悔しく恨めしい愛の道を行った男性たちもいるはずであり、「死んでもそのような道を行くことはできない」と言った男性もいるはずですが、彼らのそのような運命の道に責任を負っていかなければなりません。そのようにしなくては、歴史上に絡まった悪の根を根こそぎ抜き取ってしまうことはできないのです。

 一九六〇年に聖婚式をすることによって、初めて家庭の型をもつようになりました。聖進の母親が反対したので、歴史的な蘇生の過程を経るようになったのです。最初にうまくいかなければ、蘇生、長成、完成の三段階を経なければなりません。聖進の母親はエバの立場であり、喜進の母親はマリヤの立場です。マリヤがイエス様を連れてエジプトに行ったように、喜進の母親も喜進を連れて日本に行かなければならなかったのです。皆さんが知らない中で、蕩減復帰歴史はこのように回りました。

 それで、イエス様も耐えることができなかった心情の十字架を先生が背負ったということを、皆さんは知らなければなりません。国を失ってしまった悲しみや、教会を失ってしまった悲しみも悲しみでしたが、そのことよりも、家庭的な基盤をもつことができなかったイエス様の恨を解くために立てた家庭的な基盤、六千年の恨を解くためのその家庭的基盤を再び失ってしまう立場だったので、そのことがより悲しく悔しかったのです。これを再度編成して家庭的基盤を再び立てたのが現在の家庭です。一九六〇年に聖婚式を挙げることによって、初めて家庭の型をもつようになりました。

 このようにして初めて縦的な歴史を横的に蕩減するようになりました。六千年歴史におけるアダム、イエス様、再臨主時代までの蕩減がなされるようになりました。エバに相当するのが聖進の母親であり、マリヤに相当するのが喜進の母親であり、再臨時代の母に相当するのが現在のお母様です。そのようなお母様が現れたので、初めて四位基台が築かれたのです。


三家庭の復帰基台

 真の御父母様の主礼により、一九六〇年四月十六日(陰暦三・二一)午前十時、前本部教会において、金元弼氏・鄭達玉氏、劉孝元氏・史吉子氏、金榮輝氏・鄭大和氏の三双が、永遠の契りを結ぶ祝福の礼式を挙げた。

 聖婚式を行うためには、先生は、聖婚式の前にイエス様の三弟子、反逆したその弟子を復帰しなければならない立場にいました。そこにおいては、三弟子の約婚という問題を中心として解決しなければなりません。

 霊界においては三人の天使長、地上においては服従することができなかったカインの代表が、旧約、新約、成約の過程において縦的な歴史観をつくってきた再臨主によって一時に屈服するのです。アダムの身代わりとしてはイエス様であり、イエス様の身代わりとしては再臨主です。その再臨主も、完全に服従する三人の霊の子女をもたなければ真の父母の立場に立つことができないということが公式になっています。自らの生死の境地を越えて、迫害のまっただ中でも従っていき孝行することができる三人の弟子をもたなければなりません。先生は、そのような三弟子を一九六〇年四月に立てました。

 復帰路程は反対に復帰して上がってくるので、祝福は、子女の立場にいる者が先に受けるのです。家庭圏はヤコブの家庭なので、十二数の基準を基盤として行わなければなりません。三人の弟子、三人の子供を中心として、そのような基準を通過しなければなりません。

 アダム家庭のカイン、アベル、セツの三人の復活体として相対基準を成し、その基台の上で約婚の立場を越えて実体的な父母の立場を決定したのが一九六〇年の聖婚式でした。神様の恨となっているアダム家庭における三人の子供と父母が一体になった立場を築いたということ、そして、それがこの地上において、歴史始まって以来初めて韓国において成就されたということは、世界的な事件であり、この時から韓国の新しい歴史の運勢が回り始めたということができます。

 一九六〇年に先生は、聖婚式を挙げる前に三十六家庭のうちの三家庭を約婚させ、先生が聖婚式を挙げたのちにこの三家庭を祝福(一九六〇・四・一六、陰暦三・二一)しました。


真の御父母様の聖婚の意義

 黙示録に出てくる小羊の婚宴とは何かというと、堕落によって私たち人類が神様の愛を受ける真の父母を失い、堕落した偽りの父母をもつようになったので、神様が人類歴史の終末時代に真の父母を探し立て、神様を中心として人間の先祖として結婚式をしてあげることです。創世記はアルファです。人間がアルファで落ちたので、黙示録であるオメガに行って合わせるのです。

 それでは今日、どうして父と母が私たちに再度必要なのでしょうか。私たち人間は堕落によって誤って生まれてきたので、再び生まれなければならないからです。それで「重生」、すなわち再び生まれるという言葉があるのです。皆さんは、生まれはしましたが、父母もなく生まれたのと同じ立場です。それゆえに、母のおなかの中に入っていってから再び出てこなければなりません。これが今までの救援歴史だったのです。

 一九六〇年に家庭という基盤をもったので、これは滅びることがありません。家庭基盤をもつことができなければ、滅びるようになるのです。一九六〇年のこの聖婚式は、いかに歴史的な事件だったでしょうか。今までの六千年間の摂理歴史時代で、アダム一人を取り戻すために苦労されたその基盤の上に、アダムが地上に基準を築き、エバを完成したエバとして迎え入れることができるということは、霊界と肉界に引き裂かれていたものが初めて地上世界で連結されるということです。男性は天を身代わりし、女性は地を身代わりしています。引き裂かれた霊界と肉界が連結されるのです。アダムとエバが怨讐となったその群が崩れるのです。アダムとエバと神様が会うことができなかったその群が崩れるのです。サタンが脱け出ていくのです。


















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