真の御父母様の生涯路程 2
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 韓国解放と摂理の出発

第三節 興南監獄の受難
      一九四八・二・二二〜一九五〇一一〇・一四

一 平壌での三ヵ月受難と興南移送(一九四八・二・二二〜五・二○)

「平壌内務署」拘束(一九四八・二・二二、日曜日午前十時)

 先生が教会運動をするとすぐに、食口たちが増えました。しかしその当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。それで先生は、(北韓で)三度目の投獄をされました。その日が、一九四八年二月二十二日でした。

 南韓のスパイとして追い込まれ、李承晩政権の手先だとか何だとか言いながら、ありとあらゆる話、あることないことすべてをかぶせたのです。「北側政権を略奪するためのスパイだ」など、あらゆることを言ったのです。

 先生は監獄に入ったその日、腕に手錠をはめられながら、「これは神様が私を愛されているというラベルを貼られることだ」と考えました。

 結局、世界的な荒野に追われたのです。四千三百年の歴史を、四十三年で再蕩減しなけれぱならない、つらく悔しい事実……。国と世界の版図を、神様が六千年間苦労して残した功績を、すべて失って、興南収容所を訪ねていった先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。天と地の未来の希望としての解放の民族が、私を歓迎しようとしたその群れが、雲の中の地獄に消えていき、暗黒の世界に消えていくのを見ながら、痛哭して、再び会おうと叫んだことが、きのうのことのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を行き、そして、光明なる朝日を抱いて、お前たちを訪ねて行き、再び解放を与えよう!」と宣言したことが、きのうのことのようです。手錠をはめて叫んだその声を忘れません。困難なたびに祈祷したその姿を忘れることができません。


剃髪(一九四八・二・二五)

 既成教団のねたみと共産当局の宗教抹殺政策により、二月二十二日に先生は内務署に拘禁され、二月二十五日には頭を剃られました。

 私の頭を剃りあげた李なにがしという人と、その日を記憶しています。伸ばした頭が剃られて落ちた、その監獄でのことを忘れることができません。

 先生は監獄に入り頭を剃られる時、神様の前に祈祷しました。「私が望んで髪を剃るのではなく、怨讐の手に引かれてきて無理やり頭を剃られるのです」と。その時、先生の目の色がどんなに光ったか分かりません。離れて落ちる髪の毛を見ながら、私が願った幸福を捨てながら、さらに怨讐の前で頭を剃られることが悲しかったのです。復帰の事情をつないでいく路程では、そのすべての逆境が恨めしいのです。


過酷な拷問、取り調べ

 私は血を吐く拷問の場で、何度も倒れながら、意識をすべて失ってしまう場でも、「お父様、私をどうぞ救ってください」とは祈祷しませんでした。「お父様、心配しないでください。まだ死にませんでした。いまだに死にません。あなたに約束した志操が、そして責任をもつべき使命が私にはあります。同情を受ける時ではありません」と、このような祈祷をしたのです。

 私は孝子になって慰労する立場にあるので、血をぬぐい、姿勢を整え、拷問を受けて戻ってきて、監房に月の光がない夜でも、天を慰労した昔の生活を忘れませんでした。

 拷問を受けて倒れるその瞬間が、神様の声を聞ける瞬間であり、今にも息が絶えそうなその場が、神様に会える場なのです。統一教会のこの真理が出てくるまでには、皆さんが知らない深い背後があり、谷があり、トンネルを通ってきたという事実を皆さんは考えもできないでしょう。「レバレンド・ムーンよ、どうやってここまで来たのですか」と、そう言える場であったということを、私は知っているのです。

 私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。

 サタンに対して「こいつ!」と言って、実体のサタン圏に対して「こいつ、打て! 打て!もし時が来れば、私がこの七倍以上をお前たちに浴びせるだろう。その良い材料を収拾する場だ」と言いながら、拷問台に上がっても「打て!」と言うのです。

 服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。「お前、その時に決意したことを、お前が死ぬ時まで命をかけて行くと言ったその誓いを、忘れてしまったのか」と。その傷跡を見るたびに、朝、昼、晩、眺めながら誓うのです。「この傷をもったお前は勝利しなければならない!」、「勝利しろ」と激励するのです。


法廷公判(一九四八・四・七)

 北にいる時、裁判を受ける日が本来は四月三日であったのですが、共産党が教会を弾圧する口実をつくっているうちに期日が遅れ、四月七日になってようやく裁判を受けました。この日が、拘禁されたのち、満四十日になる日でした。

 先生がキリスト教に追われる立場で公判を受ける期間であり、共産党員たちに、宗教がどれほど悪く、阿片的なものであるかということを見せるために、その公判を延期したのでした。

 私が北で公判廷に立つようになった時、北にいる誰、という牧師たちが来て、ありとあらゆる悪口を言いました。そのような、他人が知ることができず、他人が感じることができない衝撃を、今なお忘れられないのです。

 刑務所に行き、法廷に立つその気分、私は生涯その気分を大切にしまっておきます。きょう公判廷に行って、自分の一言で運命が決定するという時は、悲壮なのです。

 共産党までが、あざ笑ったりしたことを、私は話さないのです。私の歴史は、お前たちの難詰などによって消えていくものではないというのです。私は無言で行くけれども、いつか、お前たちが私の手の中で、人類の難詰を受ける時が来るだろうと思ったことが、きのうのことようです。

 それは共産主義に対して、これっぽちの未練ももてないようにするための天の作戦であり、共産圏内にあるキリスト教に対して関心をもてないようにする神様の作戦だったのです。一切を否定させるための作戦でした。


食口たちの見送り

 公判廷で判決を受けて、刑務所に行く道でも、食口たちの前で、手錠の音を鳴らしながら手を振ったのですが、その音が今なお耳に残っているのです。

 手錠をはめて、じゃらじゃらとさせながら、グッドバイしたことが今でも忘れられないのです。じゃらじゃら鳴った音が。そこから歴史的な後代の栄華が生まれ、後代の数多くの若者たちが決意を固められる誓いの基盤として爆発するのです。

 きょうの悲しみよりもあすの希望の歌を歌う声がもっと強いからには、きょうの悔しさよりもあすの希望に満ちあふれるその胸がもっと大きいからには、どんなに暴悪な怨讐が自分の腕に手錠をかけたとしても、その手錠をはめて愛する教会と愛する食口たちに対し、「元気でいなさい」と言ったその時は、歴史に対して審判できる立て札が打ち込まれる瞬間であったのです。男として、もう一度築かなけれぱならないその道を、意気揚々と行かなければならなかったのです。本然の価値としてそのような道を探すことができるという事実を思って行くその男の前に、獄中が何の問題か、死の道が何の問題かというのです。

 その時、平壌に残った食口たちが、手を振りながら見送ったことが忘れられません。私は涙を流さないのに、子供が死んでいくのでもなく、夫が去るのでもないのに、彼らがひたすらすすり上げて涙を流すのを見る時、それがどんなに悲壮ですか。先生はそれを見ながら、「天を求めていく人は不幸な人ではない」と思いました。

 先生が監獄に囚われていく時の悲痛であったその時の声、身もだえしたその情景を、いくら忘れてしまおうとしても忘れてしまうことができません。それが苦痛です。考えれば一面では苦痛です。


平壌刑務所に収監(一九四八・四・七〜五・二〇)

 先生は、四月七日に手錠をはめられて平壌刑務所に行きましたが、希望の中で訪ねていったのです。この過程を経て出る日には、どのようになるだろうかと、本当に気になるのです。

 刑を受けて監獄に行く時は、むしろ希望に満ちた足どりでした。なぜなら、刑務所にも神様が予備しておかれた人がいるはずだからです。

 先生は、「また、私の一つの山を埋めるためのものが、来るべきものが来たな。このあとには何が来るだろうか」ということを考えるのです。その事件よりも、そのあとに何が来るかを考えます。

 先生が監獄のような所に入っていけば、監房長と親しくなることにおいては選手でした。二言言三話せば、すぐに親しくなりました。そして、でんと座って、そこに入ってきた人たち、一人一人の心理を分析して、「この人はこのような顔をしているので、このようになるだろうし、あの人はあのような顔をしているので、あのようになるだろう」と話せば、嫌、ながらも認めます。

 顔を見ながらほんの一週間、いや、三日だけ話をするようになれば、そのまま何の話をしても良いというのです。私が一番隅っこの狭い所に座っていると、しきりに引き上げようとします。監房長が「上がってこい」と言うのです。嫌だと言っても、しきりに引き上げるのです。誰でも友達になり、誰でも同志になるのです。

 獄中に行った話をするようになれば、一年十二ヵ月の間、長編小説をいくらでも編纂して出せるのです。笛の音が聞こえてくれば、その音に私の曲調を合わせると、その環境がすべて共に遊びだすのです。一つの心、一つの意志で精誠を込めて、そのような世界にしっかりと綱を結んでおいて往来すればこそ、天下に自分の名を残す男になるのです。


反対主謀者の面会

 先生が監獄にいる時に、怨讐が謝罪をしに面会に来たことがありました。会ってあげるか、会ってあげないかということは、一つの試験でした。

 先生を監獄にほうり込んだ主謀者がいました。私を監獄に入れるために先頭的役割をした、そいつがぱっと現れたのです。すっと対した時、気分が悪かったのです。ですが、とぽけました。「どなたか私にはよく分かりませんが」と言いました。その人の目を見ると、昔は醜く険しかったのですが、その目が穏やかになって、だいぶ人間らしくなって現れたのです。そうして、「過ぎたことはみな水に流して、訪ねてきたことを悪いように考えるな」と言うのです、自分がした事実があるからです。

 そして出ていく時、食べる物を買ってくれて行きました。ところで、それを食べるか食べないか、それが問題でした。監獄のような所では、食べ物が本当に貴重なのです。それを昼食時にもらって、夕食時まで食べずに深刻に考えた時がありました。愛の原則を発見しなくては、受け取ることができません。それを深刻に考えて、分け合って食べたことが思い出されます。

 その上、彼は共産党の幹部なのです。そこでは保安隊といいますが、看守たちの前で恥をかくことも考えたはずです。その人は、それでも将来性がある人だと、深刻に考えてみたことがあります。怨讐の間柄ですが、その心情的因縁を残した人になる時には、歴史の中で再び会うことができ、再び生きられるということを、今も考えています。先生自身、監獄で、孤独な時がどれほど多かったことでしょうか。孤独な場にいる時、来て、慰労してくれた事実がいつも忘れられません。


興南本宮特別労務者収容所に移送(一九四八・五・二〇、午後三時ごろ)

 今から数十年前の、五月二十日が思い出されます。この日がどんな日かといえば、平壌内務署に捕らえられて行って、裁判を受けて、興南の監獄に移送されて行った日です。

 むちで打たれ、無念さと、悔しさで、泣きかけて、天に、恥ずかしくて顔を覆い、姿勢を正す時がいくらでもあるということを知らなければなりません。それゆえに、私が監獄に行くようになる時は、殺人囚と手錠をかけてくれと言いました。私は殺人囚の友達になりました。

 手錠をはめて、興南に行くのに、十七時間かかったのです。ところで、車中で何を思ったでしょうか。あぜんとするのです。私があぜんとなれば、神様はどれほどかわいそうかというのです。それで、決心して窓辺を眺めながら、すべての山野の景色を眺めながら、どんなに深刻であったでしょうか。私一人で行けば逃げやすいのですが、その時一番悪い強盗と二人で組になって手錠をはめられて行きながら、考えたことがどんなに息が詰まったことでしょうか。

 興南の監獄へ移送されて行く時、山の谷間にさしかかって、谷川の道に沿って歩いたその時が、本当に新たに感じられるのです。くねくねした山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。監獄生活をどのようにしていくのか。難しいけれど、私は行くのです。その時が新しい自我を覚醒できる良い機会になったのです。

 監獄に入っていく時、先生は、サタン世界から神様の世界へ移っていける一つの結果をもってくるためには、このような現象が起こるのだと考えました。そのような所に行っても、正体を明かさず、内外に変わらないと考えました。


二 興南肥料工場での強制労働

興南徳里特別労務者収容所に投獄(一九四八・六・二一〜一九五〇・一〇・一四)

 一九四八年六月二十一日、この日は先生が収容所に入っていった日なのです。

 先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、二年八ヵ月の間、重労働をしました。どんな労働だったかといえば、肥料工場の仕事でした。

 ソビエト革命後、多くのロシア人たちは強制労働に苦しめられました。共産主義の理論では、彼らの前にどのような有産階級や反共産主義分子たちもいてはならないのです。彼らは、心の中ではすべての反対者たちを殺したいと思っているのですが、世界の世論のゆえに、それができません。

 それで共産党は彼らを、強制労働に動員させるのです。そして困難な労働でもって彼らが死ぬ時を待つのです。北韓で監獄にいる時、先生は強制労働収容所に閉じ込められました。金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。


朝の身体検査と一里の道を徒歩で労役に(四:三〇〜九:○○)

 朝、労役に出発する時、監房からみな出てくるのです。広場に出て、不法な所持品がありはしないかと全部点検するのです。身体検査をするのです。こうして、九時に作業が始まるとすれば、一里の道を行くのに一時間ないし一時間二十分かかるのです。それゆえに、御飯を食べてからすれば、二時間以上かかります。ですから労役に出発するには、普通、明け方四時半に起きて、九時に作業に就くようになるのです。それで、出ていって、さっと座ると、頭がぐるぐる回るのです゜頭がぐるぐる回って、立とうとすると立ち上がることができないのです。

 二時間も身体検査を受ける時は、身を切るような寒さに遭いました。むしろ仕事場に出て行って仕事をするほうが、どんなに自由であるか分かりません。

 興南は、海からの風が吹くと貝殻石が飛んでくる所です。射るように入ってくる風がどれほど怨讐なことか。我知らず、「ウオー」と声が出るくらいに震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなるのです。

 先生はその場で、「うむ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ」、と思いながら、それを克服するための戦いをしたのです。

 毎朝、監獄を出発する時、手と手をつないで四列に立たなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちがいます。もし、ゆるんだり、手をつながなかったことが発見されると、脱出しようとする者とみなされて、告発されるのです。自分の頭をまっすぐに上げることはできませんでした。

 また朝食を食べて出かけるのですが、行きながら何度も足が空を踏むのです。四キロメートルを歩いていくのに、足が空を、五、六回、ある時は十回以上も踏むのです。力が出ないのでそうなるのです。その足を引きずっていって仕事をするのです。先生はそのような歴史があるために、困難な時はいつもそれを考えます。そのような時、気が遠くなる時、私は天の人であるという命題を立てておいて、終わりまで越えて行きました。


「朝鮮窒素肥料株式会社 興南工場」強制労働(九:〇〇〜一七:〇〇)

 私たちが仕事をした工場が、興南肥料工場でした。その肥料工場に行けば、アンモニアがコンベヤーを通って降りてきて、山のように積まれます。それは熱いものですが、時間が多く経過すると、溶けて、氷のように固まります。

 コンベヤーを通じて大きな広場の真ん中に積まれるのですが、その姿は正に滝のようです。滝の水が落ちるように、真っ白いものがざーっと落ちるのです。これは、高さが約二十メートルになります。そのような肥料の山があるのですが、それを袋に詰め込むのです。大きな広場に八百人、九百人が出て行いますが、大体、大きな山を二つに分けて置いたようです。

 本当に骨の折れる重労働でした。一組の一日の責任量は千三百かますであって、八時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。

 一組が十人なのですが、十人の責任量として、四十キロ入り、千三百かますをつくらなければなりません。指ぬきをはめるのですが、かますをくくっていると穴が開いて、抜けてしまうのです。

 一日の責任量が一人あたり百三十個としたら、それは重労働です。一般社会の人は、七十個、八十個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。

 そのようにして、それを港で待っているソ連の船に積むのです。数万トンずつ積むのですが、それを毎日計算してしなければなりません。

 体は硫酸で害を受けます。髪の毛が抜け、皮膚を絞ってみれば水が出てきます。六ヵ月が過ぎると、必ず喀血します。大概、肺病だと思って落胆するので、死んでしまいます。せいぜい一年半か二年しか耐えられません。

 肉が全部裂けて、骨が見えるほどになり、血が出るのです。それでも毎日のようにアンモニアの肥料を運んだのです。普通、制服は木綿のようなものだと一週間以内で全部ぼろぼろになります・そのような所で、半年ほど仕事をすれば、細胞がみな死んで、しぽると水が出るのです。

 朝には、血がぽたぽた流れ、皮膚が裂けるのです。

 一日で、昼食時になる前、中間に十五分休み、それから昼食時に一時間休み、それから午後の中間に十五分休みます。こうして一時間半くらい休む時間があるのですが、昼食時になるとすべてを解体して、自分の班同士で御飯を食べます。

 便所はどうかというと、そのような大きい工場では、くぽみにセメントをさっと流して溝を作って、底のほうに廃水が出ていく水路を作っておくのです。それを便所にするのです。

 しかし、現場に行って大便をしたくなれば、仕方なくアンモニアの肥料の山をシャベルで深く掘って、そこに座り込んでするのです。それもやはり肥料になるので、ほうり込んでおくのです。ぱっと座り込んで大砲を射つようにするのです。「プダダダッ!」と。それは瞬間にするのです。


全心全力を投入した作業

 先生は、興南監獄で肥料かますをつくりあげながら、そこが最後の前線だと考えました。

 労働する中でも、労働しているということを意識しません。労働時間が、祈祷の時間でした。

 先生は、そのような仕事をするために生まれたのだと考えました。先生は常に、あたかも復帰摂理をするかのように、すべての心情とすべての誠意を、その仕事に注ぎました。先生は作業する間、いつも、霊界で経験したことを思いながら、後日、先生の後孫たちと、先生に従う人々に見せてあげる映画の中の主人公であると考えました。先生は、休息時間を告げるベルが鳴っても、聞こえませんでした。

「先生は、鉄筋のような男だ」というような言葉をたくさん聞きました。私が手をつける仕事は、本当に楽しくてするのです。誰よりも喜んでするのです。それだけであって、他のことはないのです。

 結局は、乗り切っていったのです。どんなに困難な監獄でも、貫いていかなければなりません。私はここで死んでも、「お前は負けずに勝って死んだ」という、そのような思想を残さなければならないと考えたのです。

 その時の体重は、十九貫三百(七十二キログラム)でした。他の囚人たちはすべてやせ細っていくのですが、先生はやせなかったのです。それで、すべて、研究対象でした。

 先生は監獄に三年近くいながらも、一度だけマラリアを患った以外には、病気というものは知らなかったのです。しかし、先生はどんなに具合が悪くても、薬をのむどころか、断食までしながら仕事をしました。その時、マラリアを二十四日間患いましたが、少しも休まず仕事をしました。骨の折れる仕事を避けようという人はその仕事に耐えられません。


最も困難な仕事を自ら進んで引き受ける

 監獄での生活が、どんなにつらいとしても、他人から情けを受けてはなりません。それが頂点に立ち得る方策です。他人から恵みを受けることは、蕩減の道では許されません。

 それを知っていたがゆえに、監獄に入るや否や、「どこの誰もできない一番困難な仕事に私が責任をもつ」と決めたのべ最初の決意でした。そして「何倍まで責任をもつ」と考えたのです。

 肥料の山をどんどん掘っていくために、遠くからそれを秤のある所まで運んで載せようとすれば、時間内に責任を果たせないのです。約四メートルくらい掘っていき、秤に一度上げようとすると五分以上かかるために、すぐにはできないのです。それゆえに、誰かが入っていって向こう側に投げなけれぱならないのですが、そんな骨の折れることを誰がしますか。それで、先生がそれに責任をもったのです。

 そのうちの三〇パーセントは私がしました。一番困難な仕事をしながら、班員たちを取りまとめて、五時に終わる仕事を、いつでも十二時半に終えてしまうのです。

 千三百かますの責任量に合格さえすれば、その次には遊ぶのです。十二時までに終えて、昼食を食べて休む時の、その快感というものは、やってみなかった人には分かりません。私のような人は、そこにおいてチャンピオンになったので、仕事をする人がみな私の後ろについて回ったのです。

 監獄において救世主になれない者が、平和な時代に「救世主だ」と言えば、彼は偽りの救世主です。「獄中の聖者」だと言って、興南監獄にいた人が私について書いた本(金仁鎬、「ソウルに来る道」)があることを私は知っているのですが、牢獄は私にとっては恐ろしい所ではありません。むちがどんなに恐ろしく、その環境がどんなにむごいとしても、愛を欽慕する心を占領できませんでした。神様の名を呼び、父の名を呼び、神様を思う心をくじくことはできませんでした。その力を中心として私は、縦的な段階を解放できる基盤を強固に築いたのです。


素肌を隠す

 興南監獄に入って肥料工場で仕事をする時、非常に蒸し暑い真夏にも、テニム(注:ズボンの裾を結ぶひも)を結んでしました。すねも出しませんでした。私の体を通して汗を流し、そして神様の前に捧げるべき神聖な道が残っているために、神様のために精誠を尽くすところでは、誰にもこの体を見せたくなかったのです。

 硫酸といえば、知っているでしょうが、窯で蒸したように湯気がぽっぽと立ちのぽります。ですから冬至の月にも服を脱いで、皆パンツ姿で仕事をしなければならない状況です。そのような肥料工場で仕事をしながらも長ズボンをはいてしたのです。

 そのような暑い所でも、私は下半身が見えないようにしました。貞操を守る女性以上の、そのような訓練をしてきました。私が知っている本郷の家に向かって、故郷の伝統に向かって、どれほど監獄暮らしが険しくても、私の行くべき道を遮ることはできません。

 サタン世界で、神様が願うその基準でT身を捧げるのでなければなりません。そしてそれを守っていかなければならない男としての貞操があるのです。女だけに貞操があるのではありません。男にもあるのです。


模範労働者賞を受賞

 私は、責任量を果たせなかったことがないのです。そうして監獄に入った人としては、所長からも特別接待を受けてもみました。話はしませんでしたが、皆が仰ぎ見たのです。

 仕事をする人々は数十名でもない八百名、千名以上であるのに、彼らが私一人を中心として、私を選定し、数百名の実績を上げられる材料としたのです。

 数カ月後、先生は最高の労働者と称されました。班員たちは、脱出の陰謀を企てないように毎日替わりました。班が替わる時、すべての囚人たちは、その最高の労働者がいる所に来ることを願いました。先生の後ろには多くの人たちがいました。

 それで毎年、模範労働者賞をもらいました。労働者としての血筋が別にあるわけではありません。

 その賞は、どうなったか分かりません。そのようなものは持っているのも嫌で、管理もしませんでしたが。

 それは、私が望んでもらったのではないのです。全部彼らがくれたのです。共産世界の監獄に入って、模範労働者として一等になったので、世界のどこに行っても問題がないのです。


三 残酷な飢えとぽろをまとう

御飯を思い描きながら死んでいく囚人たち

 一日にくれる御飯は、小さな茶わんで一・七杯ぐらいです。おかずは何もなくて、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。食べるものが少なくて、大きい口なら三口で終わってしまいます。

 汁として、大根の葉と塩を入れたものをくれます。それがすべてです。

「豚が川を渡って行った水」という言葉がありますが、そのようなものです。ある時は汁が、どんなに塩辛いことか! それを御飯と混ぜて食べると塩辛くて食べられません。それでも、死んでもその汁を拾てたくないのです。

 仕事に出ないと、御飯が半分になります。御飯を半分しかもらえないその悲惨さは、言葉にできません。御飯を半分しかもらえない悲しみと苦痛は避ける道がありません。それで死にそうな人でも、その御飯一握りのゆえに仕事場に引かれて行きます。御飯一握りが欲しくて、引かれて行き、生死の境でさまよって、帰ってきます。

 そうして御飯茶わんを受け取るや否や、無意識のうちに御飯を口の中にほうり込みます。自分が食べたということを忘れてしまい、ほかの人が御飯茶わんを受け取るのを見て、自分の御飯茶碗が空になっているのに気がつきます。それで時々、隣の人とけんかをしたりします。「お前が私の御飯を食べただろう!」と言うのです。

 御飯を自分の口の中にほうり込んだところ、のどが詰まってすぐに死んでしまった人もたくさんいました。一人の囚人が、自分の御飯を全部食べる前に死ぬと、他の人々が、その死んだ人の口から御飯粒を取り出して食べるために争います。

 ある時は人がいるのにもかかわらず、自分の箸が他人の御飯に行くのです。行きかけて、主人がいることを感じる時のその心情が、どんなにあきれたものであるか、皆さんは知ることができないのです。

 つばがガムのように、つーっと伸びます。はったい粉(注:穀物を煎って粉にしたもの)を持ってくれば、それを練って餅を作ります。石に粉がくっつけばもう、争ってそれをはがして食べます。

 肝油に水を注いで飲むのですが、その香ばしいことは、到底言葉では言い尽くせません。また生の豆を食べる時も、どんなに香ばしいか分かりません。

 たまに豆御飯にしてくれる日には、その豆一粒が、この世でいえば黄金の塊になります。むしろ金より貴く感じられます。御飯を食べている途中で豆一粒が落ちれば、横からすぐに拾って食べてしまうのです、あいさつもなく。体面もなく。

 御飯一粒、米一粒が落ちると、互いに拾って食べようとします。はえがつき、うじ虫がついても、そのようなことは考えにもありません。そのような死の谷間です。

 一年も経てば、千名のうち、四〇パーセント以上が死んでいったのです。ですから、毎日葬式を執り行うのです。毎日、裏口から棺が出ていくのを見なければならないのです。

 三年ないし四年たてば、みな死ぬのです。脂気がすべてなくなる時まで、死ぬ時まで、こき使おうと、そのような政策を用いてくるのです。無慈悲にも、冷酷なことにも、限界線があるのです。ところがこれは、限界線を越えに越えていたのです。


名節と鯖の給食

 刑務所は豆御飯がふさわしいのです。その次には、雑穀御飯であるほど良いのです。正月一日とか五月一日とか北側で守る名節がありますが、その時は必ず白い御飯をくれるのです。それで皆が抗議するのですが、それが何かというと、「名節の日も私たちには豆御飯を下さい」と言うのです。豆御飯はそれでも歯ごたえがあってよく、また脂気があって、食べると粘り気があります。白い御飯は食べると、するっと下っていくのです。それで一番嫌な日が名節の日なのです。

 また、名節の日になると豚をつぶして食べるのです。もちろん、「囚人たちのために与える」と言ってつぷすのですが、肉は全部看守たちが食べるのです。それが以前からのしきたりですが、ある日、正月の一日に、雄豚の、睾丸が一つ入っていたのです。それを分け合って食べた思い出が、今も忘れられないのです。その時、それが汁に入っているのを見つけた時の、その喜びは世の中の何ものにも比べられないのです。ですから、どれほどおなかがすき、飢えていたのかということを皆さんは知らなければなりません。

 一年に二回、五月一日と正月一日に果物をくれます。そのりんごを配ってもらうと、普通の人々は、もらうや否や、がつがつと、ほんの一分もせずにすべて食べてしまうのです(笑い)。しかし、先生は「この光はなんと美しいことか、この光を食べよう!」と考えたのです。「光を食べて、その次に味わおう」と、そのような考えをもったのです。

 興南の前の海は、鯖がたくさん取れる所です。一度取れると、山のように取れます。そうすると全部肥料にするのです。鯖の季節は一番安く、干した大根の葉の値段よりもさらに安く、何ものよりも安いので、トラック、台分買って、大きな釜で蒸して、「ええい、食べたければ食べたいだけ食べろ」と言って、バケツをいっぱいにして突きつけるのです。ところで、一年の間、飢えるだけ飢えて、はらわたは細くなるだけ細くなり、脂気が全く抜けたところに、脂気のものをもってきて入れたら消化できますか。消化できないから、そのまま無事通過なのです。そうすると、座った場所があるのですが、なま温かい水がたまり、ある者は「うーん」として、行く所がないから、そのままします。それで言葉ができたのです。「春になれば一度しなければならない」。何をするというのですか。一度垂れなければならないというのです。


御飯についていった牧師たち

 先生が監獄生活をする時、社会的な名士とか、宗教的な代表者だとかいう人たちと一緒に生活してみましたが、その人たちは、みなパンのために生きる人たちです。

 とにかく有名な牧師なのですが、彼が言うには「腹が減ったその場で、いくら神様を探し求めても神様はいる感じがしない。影さえも現れない。神様は降参をしたのか。神様は逃げたのだ」というのです。監獄暮らしをする中で、唯物論者になってしまった牧師がいます。

 ある地方で有名な牧師が、彼の婿と一緒に監獄に入ってきたのですが、その婿がマラリアを患うようになりました。この病気は、毎日ある時間になると高熱が出る病気なのです。そのように重い苦痛を受けている娘婿がいるのに、その牧師は、マラリアの薬を持っていても与えませんでした。その薬を、第三者のはったい粉と交換してしまいました。

 その牧師は、今も生きています。私は名前を明らかにしません。マラリアの薬一つをはったい粉一袋と交換する商売をするのです。それこそ正に御飯牧師でした。この御飯牧師の集団が育てている天の羊を、誰が解放させるのでしょうか。


三週間の半分の食事

 先生がそのような環境の中で、どのように生き残ることができたのでしょうか。先生は精神力の重要性を知りました。先生は精神的に、特別な決心をしました。それで先生は「先生が食べる食事の半分でも生きられる」と、心に確信をもちました。それでその次の日から、先生は他の人たちに先生の食事の半分を与えることを始めました。それを三週間続けました。先生は「半分の食事を食べても、作業量を完遂できる」と確信するようになりました。その時から先生は、先生に分け与えられた食事をすべて食べるようにしました。そして「先生の食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ」と考えました。

 このような訓練をして、それからは、差し入れのようなものがあっても、それを食べないのです。はったい粉のようなものを入れてくれれば、行き詰まって、飢えているので、どんなに食べたいことでしょうか。しかし、それを貪ったらいけないのです。それを欲しがってはいけません。そのようにしたら死ぬのです。そのようなものを食べないで、はっきり決心したその圏内で自分を支える、自分が生きる道を開拓していかなければならないのです。


そば飯(一九四九・一二・一四〜二八)

 御飯を食べていても、それを思い出すとのどが詰まって食べられません。そう、私が記憶している日があります。十二月十四日から二十八日までです。

 そぱがあるでしょう。そのそばは、三分の二も挽いてありませんでした。半分しか挽いてなかったのです。そのようなものを配給され、それで食事をしたのです。それを最初の日に食べると皮膚がむくむのです。腹は減っているのですが、それは食べにくいのです。それで、そのままぐいぐいのみ込んで、皆病気になったのです。先生は、それをあらかじめ知っていたのです。それでその時、そぱを一粒一粒、全部皮をはがして食べたのですが、それが一生忘れられません。

 御飯は捨てられないし、食べなければならず、それで、御飯の食べ方を研究したことが思い出されます。その御飯を食べて消化ができず、下痢をして、苦痛を受けたことが監獄生活において一番忘れられないのです。それゆえに、そば飯を食べたことを思うと、今になっても、すっとお膳を受けると、「いつの時か、そうだった。おかずがないと不平を言うことができるか。これも有り難い」。そのように思うです。


御飯の真価

 ひもじい時の御飯一粒がどれほど貴いものか、今でもはっと我に返ります。御飯一粒が、それほどまで全神経を刺激できるのかということ感じ、それに対する無限の価値を感じることができました。腹が減って、御飯を恋しがりつつも、それを忘れようと努めながら、神様をより一層恋しがろうと、涙を流しました。

 米の御飯ではなく、麦だけの御飯、小麦の御飯も良いのです。また燕麦というものもあるのです。咸鏡道の山奥や山頂で取れるものですが、そのような燕麦で御飯をつくって食べても感謝しなければなりません。そのような御飯を食べることに、王座で米の御飯に豪華な食事をすることよりさらに感謝するならば、その人が逆になるのです。そして、私は今でも、おかずなしで御飯をよく食べます。おかずなしのただの御飯の味を知るところにおいては、統一教会の文先生が「王」です。

 塩の汁を数年の間飲みながらも、涙で感謝しながら生きたのです。

 麦飯に対する時にも、先祖たちがひもじかったことを思いつつ、この御飯は私たちの烈士、先祖たちの血がずっと続いてきて結ばれた結実であって、私がそれを食べていると考えました。その弁当は、木の箱なのです。その御飯を食べようと、枝の箸ですっとこうすれば、かすがこのようにくっついてきます。そのような時、神様のみ旨と神様の威信と体面を知っている私ですが、そうかと言って、それをかき出して食べませんでした。そのあるがままをすべて食べるのです。深刻なのです。麦一粒が、私たちの先烈たちの血の結晶体だというとき、深刻なのです。

 また、監獄にいると、この鼻がどんなに鋭敏になるか知れません。シェパードはここでは、いとこにもなれないのです。一里ほど離れた村で、牛をつぶして牛肉汁を煮て食べているのが、座っていて、すべて分かるのです。

 世間では学べない御飯の価値を教わることができる場所は監獄しかないので、監獄が一番良いのです。

 腹が膨れている時は世界が大きいと思ったのですが、腹が減っている時には、御飯一粒が地球数個よりずっと大きいのです。それは言葉だけ聞いては分かりません。そのような場で、御飯の峠を越えて世界をつかむということは本当に難しいのです。


食べ物を分ける

 自分の家族とか誰かが面会に来る時には、何かを持ってくるので、どんなに愛する妻であっても、恋しいお母さんだとしても、来た人の顔を見上げるより先に、持ってきた物に目が行きます。面会に来て、はったい粉を持ってこなかった時ぐらい悲しいことはありません。

 私が興南監獄にいる時に、一ヵ月に一度ずつ、はったい粉を受け取って食べました。監房に約三十余名いたので、それをたくさん分けてやることはできず、新聞紙の切れ端にIさじずつすくって、皆に分けてあげました。このようにはったい粉を分けてあげる日は、宴会の日です。

 先生は、それが惜しいといって一人では食べませんでした。絶対一人では食べません。このはったい粉を練って、はったい粉餅を作って、新聞紙に包んで、作業場に持って行きます。

 昼食時まで汗を流して仕事をするため、はったい粉に汗がしみ込んでしまうのですが、昼食時、それをちぎって食べさせてあげると、彼らはもらって食べながら、涙を流したのです。そのような生活がどれほど貴い生活ですか。

 そのような場で、私の御飯を分け与えながら、しっかりつかんで、母親の代わり、お兄さんの代わりに友達になってあげたのです。


愛の服

 監獄に入ると、そこはオンドル部屋ではありません。外は日の光がさすので、むしろ冬は監獄の方が寒いのです。監獄という所は、昼も寒く、夜も寒い所です。監獄に住む人は、絹織物のような服は必要としません。そのようなものは全部ほうり投げて、分厚い布袋を、我先につかんで自分のものにしようと争う所が監獄です。布袋でなく、かますの片側でも良いのです。ですから、監獄に行けば何でも価値があるのです。服に対する価値を、本当に知ることができる所が監獄です。

 先生は常に、一番古い服を着ていました。良いものは他人に与え、擦り切れれば竹で針を作って、縫って着ました。

 先生に良い服があれば、例えば、食口たちから良いズボンとかチョゴリを差し入れてもらうと、一番かわいそうな人に持っていって着せてあげます。そこではかますのようなものを縄で括るので、手が切れます。けれども先生はその手でテントの生地を全部ほどくのです。テントの生地をほどいて服を作るのです。ズボンを縫って、面会者の来ない人にあげるのです。それはどんなに手間がかかるでしょうか。そうすると彼らは喜ぶのです。私は風がびゅうびゅう吹く時、服が全部破けて尻が見える服を着て歩いても、監獄にいる人の中にそのような人がいれば、私の服を持っていって彼にあげました。

 それから、パンツのようなものの型を取るのも、私がみな教えてあげたのです。ふろしきが手に入れば、それを丸ごとたたんで、そのまま型を取って、日曜日ならばパンツ十枚も作れるのです。

 私は、食べずに監獄にいる人に食べさせてあげようとし、寒くてぶるぶる震えながらも、着ないで、震える人に着せてあげようとしたのです。彼らの世界にも、愛の綱を結んでおかなければならないからです。そうしてこそ、手綱をつかんで投網のように引き寄せれば一時にみな掛かってくるのです。


針一つの真価

 刑務所で針を配給してくれますか。絶対してくれません。自分自身で解決するのです。

 針がどこかに一つあるというと、交渉をします。それで、どこかの監房で針が一つあるというと、それは話題の種になります。先生もその時、針を見て「これ以上の価値をもったものがどこにあるだろうか」と思ったほどでした。

 必要ならばガラスを割るのです。むちで打たれても、制裁を受けても、手かぎをほうり込むふりをして、斜めに投げれば、あの工場の上にある物が落ちることもあり得るのです。それでひげそりもして、お箸も作ったりしたのです。そこにおいては、私は先生なのです。ワイヤーをさっと曲げて、そのガラスでかさかさかさかさとこすれば、とがります。そうすると、立派な針になるのです。

 先生の前歯にひびが入ったのは、興南監獄にいる時、針を作ろうとして傷めたものです。そのようにして作った針が、どんなに貴いことでしょうか! 神様が探し求めようとする人もそのように貴いということを悟りました。


四 収容所の受刑生活

獄中祈祷

 絶対愛です。それしかないのです。レバレンド・ムーンは、共産党により監獄に入れられ、ありとあらゆることをされても、神様を最後まで愛しました。神様を信じるのですが、絶対的に信じるのです。私が約束すれば、私が約束したことは絶対的です。神様が私に命令すれば、それに対して絶対的に責任をもつのです。難しいとか易しいとか、それは問題になりません。監獄でも、孝子は孝子の本分を全うしなければならないのです。忠臣は忠臣の本分を監獄に入っても全うしなければならないのです。

 雨が降る軒先から滴がぽたぽた落ちて、岩に穴をあけるということを考える時、「私の愛の涙の滴が、神様の胸の中に絡み合った恨の岩に穴をあけることができるならば」と思いつつ、そのような滴を見て痛哭した事情を皆さんは知らないでしょう。

 また、困難になる時は、絶対に祈祷しませんでした。一週間でも一ヵ月でも話をしません。難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を尽くして、最高の精誠を込めて、どのようにこの困難な環境を、神様が私によって溶かし出すことができる道を模索するか」と考えたのです。この困難な心情的動機に関連させて、神様を痛哭させ、悔しさと無念さが深く心にしみ込んだ、強く打つことができる業をどのようにするか。言い換えれば、怨讐の敵陣を撃破させることができる心情の爆発力をどのように刺激するか。そのような面を考えたのです。「ああ、私は早く出なければならない」と、そのようには考えませんでした。

 先生は、興南監獄で三年近い歳月を送りましたが、その中でも何人かの食口たちのための祈祷は、御飯を食べる時から眠る時まで、毎回、してあげなかったことがありませんでした。たとえ離れて出っていった人であっても、彼のために続けて祈祷してあげました。そうすれば、霊的に先生を訪ねてきて、哀れに涙を流しながら、離れて出っていったことを報告するのです。「肉身が弱くて、やむなく先生から去らなければならない」とあいさつをしながら去っていく、その悲惨な情景は、同情するまいと思っても同情せざるを得ないのです。そのように離れて行っても、その人のために継続して祈祷してあげなければなりません。その人が責任を全うできず行ったがゆえに、その継承者が出てくる時まで祈祷してあげなければならないのです。

 監獄に入っていても、三年近く、そのような人々のために、心の中で一日に三度ずつ祈祷してあげました。

 ある時には十二時間、または二十四時間、祈祷しなければならない問題がありました。

 強盗をした者がいたのですが、ある朝、世の中でしていた行動を、そのようなことを監獄に入ってきてもするので、私が道理にかなった話をしました。その不遜なことを、前後を問いただしてめちゃくちゃに攻撃しました。

 ところで、そのようにしてからは祈祷をしても祈祷がつかえて通じないのです。本当に、そのような地獄はないのです。真っ暗な天地に一つしかないろうそくの火まで消えれば、どんなに息が詰まるでしょうか。正にそれです。そうして、一週間ぶりにそれを再び取り戻すようになる時のその喜び、それは天下を得ても、それと換えられないのです。皆さんはそれをしっかりとつかんでいなければいけません。生命の綱! 神様もどうすることもできず、サタンもどうすることもできない、その何かをもっていなけれぱいけません。私だけが守ることができ、私だけが大切にすることができる生命力を皆さんはもたなければばなりません。


便器の隣の席

 先生が暮らしていた部屋には、三十六人が住んでいました。夏には、水が出てきます。私は、そこの一番暑い所、一番においのする、最低の場所で過ごしました。そこで何を思うのでしょうか。寒い冬を思うのです。冬の主人になれる人が、夏を支配できるのであり、夏の主人になれる人が、冬を支配できるのです。

 糞尿桶の隣で寝ても、アダムとエバよりは良いと考えるのです。アダムとエバは地面に糞をしましたが、私は瓶でできた糞尿桶を使っているのでアダムとエバよりましなのです。

 糞尿桶の一番そぱにいると、下痢をしている者たちがみな、尻をもち上げて、ぱぱぱっと振りまきながら垂れるので、糞まみれになりますが仕方ないでしょう。

 それでも、「ちょうど良かった。将来、我が身を輝かせることができる、人類歴史を導くことができる、良い機会が今ではないか」と、考えるのです。


体の管理と寝床の礼法

 どんなに困難な環境であっても、天に仕えるべき責任があるのです。地獄に行っても、そこから天国への道が輝かなければならないのです。獄中で水をくれると、小さな湯飲みに三分の一にしかなりません。それが配当水です。その水を飲まずに、手ぬぐいに浸して、体をふくのです。第一には話をしない、第二には寝ない、寝ても夜明けになれば、人が寝ていようが寝ていまいが、必ず約十五分前に先に起きるのです。見つかると大変なことになります。

 一番苦労することが何かといえば、見つからずに起きることです。見つかった日には、制裁を受けるのです。寝る時間がはっきり決まっているので、いくら起きたくて目を開けていても、起きて座れないのです。このような監房において、約十分ないし十五分前に、一人で起きて、冷水浴をするのです。さらに、運動をしなければなりません。自分の体力を保持するためには運動をしなくてはなりません。それで、先生が考案した運動方法があります。相当に効果があるのです。

 どこかに座る時は、体を汚さないように必ず聖別して座り、立ち上がる時は、必ず聖別して立ち上がったり、そうしたのです。

 一人寝る時も、腕や足を広げて寝ることはしませんでした。上に神様がいらっしゃるのです。寝る場合にも、礼法があるのです。

 土曜日の夕方と日曜日は、それでも自由をくれるので、みなその場で食べて寝るのです。ところで先生は、三年近くいましたが、昼寝を一度もしませんでした。絶対昼寝をしないのです。最初に決心した時間どおりにしました。決めた睡眠、決めた食べ物以外には欲しがりませんでした。

 ですから、「先生が寝ているのを見ることができなかった」という話を残しているのです。

 本当に眠気が来る時は、目がくらくらとして、やたらに疲労が押し寄せてきます。けれども、決心をしたならば、その決心を守らなければなりません。そうした過程を経てくると、さっと伏すや否や、天が抱いてくれる感じがします。どんなに醜悪な監獄でも天は共にいるのです。

 疲れて、服も脱ぐことができずに倒れて寝るのですが、寝ている途中に便所に行く時、目が見えるようになりますか。便所に行こうとすれば、暗くて行けません。ところで、便所に行く道がはっきりと見えるのです。手が明かりになるのです。そのような道があるのです。その世界に接しなければなりません。


看守たちと監獄の囚人たち

 監獄に入って暮らす時も、「ああ、私が間違った道に行くのではないかと案じて、むちを持った天使長が見張っているので感謝だ」と考えました。「エデンの園でアダムとエバを堕落させた天使長よりも、もっと、過ちを犯すのではないかと、棍棒を持って私を見張る天使長がいるのだなあ」と思いながら、見張っている看守たちを、有り難い方々だと思ったのです。

 これくらいの部屋に、三十名から三十五名が入るのです。そこには、殺人者や強盗がいませんか。あらゆる質の悪い囚人がいるのです。そのような人たちと肌をこすり合わせながら、ある時は、二人で抱き合って寝たり、あらゆることをしたのです。

 寝ている途中に、便所に行こうとすれば、足を踏みつけませんか。足を踏んで転びませんか。あらゆるエピソードがあります。それはどれほど階級が平準化されているか知れません。

 御飯を食べている時に、糞尿桶にまたいで座り、びちびち音を出して垂れませんか。それでも文句を言わずに食べなければならず、飲まなければならず、また、出ていって、仕事をしなければならないのです。

 先生が監獄に入るようになると、そこにいる人々を、三日以内に、みな部下にするのです。それは何かと言えば、それは小さいけれど一つの社会と同じで、そうした世界をよく知っているためです。そこに入ってきた人たちの背後をよく知っているためです・そうしながら、そこにおいて、かわいそうな人たちを見ては、彼らをつかんで泣くこともでき、同情することもでき、心情的に自分の家族と同じ立場で彼らに対することができる、そのような訓練が必要なのです。


死刑囚

 獄中生活は私に悲しみを与えませんでした。そこは私にとって、この上ない、一番の道場でした。人間を真心で愛せるか、怨讐を真心で愛せるか、死刑囚と鼻を突き合わすことができ、息を交わすことができるかということを、考えることのできる道場でした。

 そのような人々と共に、腕を枕に寝たりしました。彼らは夜寝ている途中でも、二時、三時になれば、やたらに空想をして「ふうーっ」とため息をつくのです。生命への愛着、生涯への愛着がどんなに強いか分かりません。

 死刑囚たちは自分の名前が呼ばれるだけで、顔が真っ青になります。自分の名前が呼ばれると、ため息をついた、その表情が、形容できないほど悲惨なのを、私は何度も見たのです。名前を呼ばれることが最後かもしれないためです。

 その心の中で、いつも考えることが何かというと、「私がもう一度生まれたら、こうならなかっただろうに」ということです。

 死刑囚たちに助かる道があるとすれば、彼らはできないことがないはずです。生かしてさえくれるならば、「コップに水をいっぱい入れ、額にのせて、ソウルを一周しろ」と言っても、するはずです。

 その人々を慰労してあげ、「私が監獄を去る時に、父母が自分から去ることよりも、もっと切ない心で涙を流す場を彼らに残してあげられなくては、復帰の使命に責任を負うことができない」ということを悟って、そのような心をもって活動してきました。

 私が手をぎゅっと握って、慰労してあげたことが思い出されます。「人はこの生だけが生でなく、永遠の生命というものは、このような道から芽生える」と、話してあげるのです。


懐かしく、うれしいこと

 監獄に行ってみれば、解放の一時間が、どんなに貴いか分からないのです。無期刑を受けた人には、無限の価値です。

 監獄にいる時は、「面会に来た」という言葉が、本当にうれしい知らせです。「誰かが面会に来た」と言えば、目がぱっと見開くのです。先生もそうでした。

 監獄という所は、人が恋しいのです。「ひそひそと話ができること、それがどんなに恋しいことか。そのような時間が私にあれば、どんなに幸せだろうか。どんなにうれしいだろうか」。そのように夢の中で恋しがり、心の中で思慕するということを、皆さんには想像できないでしょう。

 日の光は何かといえば、飴の筋と同じです。蜂蜜の筋というか、何と表現すべきか分かりませんが、いずれにしても良いものなのです。ですから、太陽の価値を本当に知る人は監獄にいるのです。なぜですか。太陽を一番愛することができる人が監獄にいるからです。

 国を失ってしまい、家を追われ、迫害を受ける悲しい立場にいる時、「月よ月よ明るい月よ、半白が遊んだ月よ、あそこ、あそこ、あの月の中に……」というその歌、「青い天の天の川……」という歌が、どんなに懐かしかったことか、分かりますか。夏は、虫の声を聞いて、虫をうらやましがりました。

 刑務所に入り、牢屋の身になれば、はえがうらやましいのです。鉄格子の窓をさーっと飛んで、自由に出入りできるはえが、うらやましいのです。先生はそのような世界をよく知っています。「神様はなぜ、私にこのような道を歩ませるのだろうか。ああ! 私にそのような人の事情を理解させてくださるためにそのようにされたのだなあ」と考えると有り難く思えるのです。

 友達がたくさんいました。何の友達ですか。しらみの友達です。それから、のみの友達、南京虫の友達、蚊の友達、はえの友達です。これらを捕まえておいて、運動させるのです。

 そうしたものたちと対話したこと、そのようなことを全部文章に書こうとすれば、数百巻の本を出せるのです。


読報会

 共産党の組織で一番の核心組織になっているのが、刑務所組織です。監獄に労働者収容所という名称を付けています。そこの所長だという者が、服役者たちが食べて、着て、生活する様子を見張りながら、毎日のように、前に現れては「金日成父母首領が我々を愛してくださり、毎日、御飯を与え、肉の汁を与え、このように豊かに暮らすようにしてくれているのに、それを感謝しているのか」と、問うのです。問われれば、服役者は、「はい、そのとおりです!」と答えるようになります。

 また、そこには「読報会」というものがあり、自己批判をするのです。組織は単一体制ですが、監視は単一体制ではありません。そこに「党」が入っています。「党」が入って、若い者たちを前面に立てながら、保安隊を組織して、すべての行政要員を監視しています。

 そうしながら教えては、その講義に対する各自の感想文を書かせます。彼らはそのような報告書をもって本を作ります。良い感想文を書いた人々を選抜して、囚人たちの前で朗読させました。

 その中で最も難しかったのは、毎日感想文を書けということでした。先生は書きませんでした。しかし、仕事においては、成すべきことはしていたので、問題になりませんでした。いつも白紙で出しました。

 それで一等労働者にならなければならなかったのです。生き残る方法は、それしかありませんでした。

 先生は、誰よりも北朝鮮をよく知っている人です。共産治下の監獄にいながら、先生が研究したことが何かといえば、北朝鮮の実情です。それゆえに共産党の本質がどうであるということをよく知っている人です。


忠母様の面会

 千里の道を訪ねてきた母を面前に置いて、北韓の地の鉄格子の中から秋霜烈日のごとくに怒鳴りつける時、恥ずかしさで「私がお前の母だ」と言って、ただ口をぶるぶる震わせながら、涙を手でぬぐって背を向けた母が、私は忘れられません。

 その時、母に向かって話すのです。「私は金なにがしの息子ではありません。金なにがしの息子である前に、大韓民国の息子であり、大韓民国の息子である前に、世界の息子であり、天と地の息子です。彼らを愛してから母の話を聞き、母を愛すべき道理を知っています。そのような小心者の息子ではないことを知って、その息子にふさわしい母の行いをしてください。これは何ですか」と攻撃をしました。

 咸興に行く道は、ここ龍山を回って行く京元線しかないでしょう。ですから、京義線に乗ってソウルに来て、京元線に乗り換えて来なければならないので、どれほど長くかかりますか。約二十時間も汽車に乗って来なければならないのです。それでも「息子だ」といって忘れられず、共産党治下のその貧しい北側で、はったい粉を作るために、姻戚の八親等の家まで行って、米を一握りずつ借りて、「息子を助けてあげよう」と一生懸命に来たのに、その場で全部広げて分けてあげたのです。面会する場でそうしたのです。ですから、どれほどあきれるでしょうか。

 私が結婚する時に着た絹織りのズボンのようなものを、「着なさい」と持って来てくれると、それを全部分けてあげました。そうして私は、ほとんど擦り切れて足の肌が見える合い着を着ているのです。下着のようなものも、全部そうしました。ですから父母の目から血の涙が出るでしょう。

 ですから母が、どんなにあきれることでしょうか! 文龍基という長老がいるでしょう。母がその家に行っては、両手を広げて、「この子は、父母がこのようにしているのに、そのようなことができるのか」と痛哭したのです。私はそのことを知っています。すべて知っています。


五 獄中での弟子伝道

獄中で共にいらっしゃった神様

 私が監獄にいる時、そのような困難な場でも、私は神様に向かって「私に協助しないでください」と言ったのですが、神様は私に協助したのです。私が困難な場で自信をもって決心することも必要ですが、環境的にまとめてくれる、そのような基盤がなければならないために、それをつくってくださったのが神様であったということを、あまりによく知っているのです。

 監獄でも、またそれよりひどい、深い所に閉じ込められたとしても、そこには無限の神様の慰労があります。孤独で、孤独で、哀れな立場、外的に見れば誰一人として関心ももってくれない立場ですが、無限な霊界と無限な希望の世界のすべての主体の原動力が、自分と共にありたがるということを体験するのです。静かな夜更けにも、あるいは息が詰まる中であっても、最後の息が絶えるその瞬間であっても、神様の救いの手は差し伸べられているのです。その中に、いつも、静かに浮かび上がる神様の指示があるのです。いつも一身の信念にあふれて、我れ知らず涙ぐむ深刻な立場に立ち、何でも聞いて確かめる心情で神様に向かって進めば、いつの間にか、既に解決の限界を越えた自分を発見するようになるのです。

 それで、一言言うようになると、そのとおりになるので、監獄で先生は問題の人物になったのです。最も深刻で困難な場所において、神様に会えるのです。そこは最も隠密な場所です。


雲界の役事で弟子を伝道

 獄中生活において、イエス様が追われ、弟子たちが反対した立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。先生はその監獄生活の中でも、霊界が協助して十二名の弟子たちを伝道したのであり、それによって新しい摂理が出発できるようになったのです。

 霊界は天使長圏であるので、天使長としてその使命を果たすことができなければ、アダムの栄光圏と関係をもてないので、協助せざるを得ません。

 私がひもじい時、天から見て痛ましければ食べる物を持ってきてくれるのです。エリヤにはからすに命じて食べる物を持っていってあげましたが、私の場合は人に命じたのです。見知らぬ人の夢うつつの中に神様が現れて「お前、なにがしが監獄にいるのだが、彼に食べる物を持っていけ!」というのです。「そうしなければいけない」というのです。それで私は御飯も餅もたくさんもらって食べ、物もたくさんもらって使ったのです。

 先生の囚人番号は五九六番、(韓国語の発音で)「オ・グ・リュク」番だったのです。ある見方をすれば、「オグル」な(韓国語でぬれぎぬを着せられて無念だという意味)番号なのです。ある人の夢に先祖が現れて「何号室に五九六番なる方がいらっしゃるのだが、お前がもらったはったい粉を、少しも手を付けずに、その方に持っていって差し上げろ」と命令したのです。それでも「こんな荒唐無稽な夢が何だ」と言って、聞かないので、二度、三度言い、しまいには首を締めながら、「こいつ! やるか、やらないのか」と言ったので、「はい、いたします」というようになったのです。

 そのようになって、先生が話さずにつくった弟子が、数十名になりました。ですから話をして弟子をつくったならば、どんなに多くできたことでしょうか。

 皆さんが知っているように、朴正華とか金元徳とかいう二十四名のメンバ、たちが、獄中で天命によってひそかに結束して、出発したのです。

 私の言うことであれば命を懸ける、「脱獄しよう」と言えば脱獄もできる人々がいました。


出役時間の緊密な目のあいさつ

 そこに家屋が何棟あるかといえば、六つあるのですが、全部連結されています。

 労役に出発する時間になれば、共産党の厳しい監視の中でも、その人たちが先生に会おうとしました。すべての人々が仕事をしにいくために廊下に出てきてひしめいているところで、もちろん、看守たちが銃を持って見張って立っているのですが、その看守が立っている床をはってくるので、分からないのです。天が選んで会わせてくれた人たちは、そのようにはってきてでも先生にまずあいさつしようとしたのです。

 朝、彼らが監房から狭い廊下に出てくる時、四列に並びます。その廊下は狭いのですが、その人たちが先生の所に来て、ウインクをするようにして先生を抱き締めました。それが最も印象的でした。

 見つかった日には、逃走を計画するといって、小銃の台じりでめちゃくちゃに殴られて、独房暮らしを一週間ないし三週間しなければならないのです。三度見つかるようになれば刑が加えられます。そのような中でも、彼らは先生に会ってあいさつしていくことを、一日の栄光と思い、そのようなことをしたのです。

 これが一日や二日ではなく、数ヵ月になるので問題が起き始めたのです。それで私は冷や汗を流したのです。お互いに、立ってあいさつをするのではありません。ひれ伏してするのです。それは物悲しく哀れなことですが、その時のその悲劇的な味は皆さんに説明しても分かりません。いくら説明しても皆さんには分かりません。お互いの眼差しが重なり合う心情的な情というものは、その場にいなくては分かりません。百科事典の千万巻を学んでも、分からないのです。それを神様が御覧になられて「やあ! こいつらを見ろ!」と言いながら、にっこり笑うことのできる場面であるかもしれないのです。


作業場に隠し持ってきたはったい粉餅

 興南刑務所にいる時、私に従っていた食口たちがいたのです。その人たちが、はったい粉を紙に包んで、先生と分けて食べようと思って、汗の臭いのする股のところに入れて、持ってくるのです。それは、どんな豪華な晩餐よりも、もっと印象的です。それが一生残るのです。すべての認識器官がそこに浸っていかなくてはならず、そこで体恤された感触をもって霊界に行くべきなのです。それが祝福です。

 目配せをして「便所に行く」と言って、便所の隅で「先生、これ一人で食べるのが申し訳なくて持ってきました」と言いながら、餅をくれるのです。

 「先生と昼食時に一緒に分けて食べようと、我慢してきたその解放の心を、先生は分かるでしょう」と言えば、「うんうん、私が分かっているし、お前が分かっている」と言うのです。そこで合図するのは通信の中の最高の通信です。愛する人が百年の間別れていて出会う時の合図のように、ちらっと見ればもう、すべてが分かります。そのような世界が分かりますか。我々統一教会の信徒たちの中で、そのような誠意をもって先生に餅一箱でも作ってあげようと考えた人がいれば手を上げてみてください。今でもその世界が懐かしいです。

 本当に、涙ぐんだそのような場で、はったい粉餅を分け合って食べたその印象が、今でも忘れられません。世の中から見ればそれはなんでもないことですが、そこには絡み合った精気、そこにしみ込んでいる力は想像もできないのです。


誕生日にはったい粉を持ってきた人

 私が監獄にいる時、忘れられないことがあります。先生の誕生日でのことでした。監獄は、かなり殺風景が漂う所です。そこに平壌の人がいたのですが、その人が私の誕生日であることを知って、朝、自分が食べ残したはったい粉一杯を、ぶっきらぼうにくれたことが一生の間忘れられません。いつかは何千倍にして返してあげねばならないと思うのです。世話になれば必ず返さねばならないのです。

 私の一生において、過ぎし日の、ある獄中、ある一時に、そのようなことがあったならば、そのことを私は記憶していて、そのすべてのことを、私は忘れたことがないのです。「これは私の一生で返そう」と思ったことで、返せなかったことがないのです。もしその人がいなくなれば、他の人を通して、そのような条件をかけて何倍にして、全部返してきたのです。死んでも、負債を負って死んだという墓を残したくないというのが、先生の生活哲学なのです。人生観なのです。


六 韓国動乱勃発と興南監獄出監(一九五〇・一〇・一四)

韓国動乱勃発(一九五〇・六・二五)

 神様の復帰摂理を見る時に、神様は、終わりの日になれば、西欧文明をアジアに連結させるために、摂理を導いて来たのです。血と肉と体と心と精誠と、すべてのものをもって入ってこなければなりません。ところがそのようになっていなかったので、韓国動乱を中心として、十六カ国にのぽる異国民が、ようやく一九五〇年度にアジアの接戦地である韓国を選んで入ってきたのです。

 メシヤが生まれる場所は祖国なのです。祖国の主権を回復するのために、独立軍として犠牲になった人たちが韓国動乱の参戦勇士たちだったのです。韓国動乱は、神様の摂理から見るとき、祖国の主権回復に血を流すための世界的な動員であったという結論が出るのです。それで、韓国動乱当時にイエス様が空中に現れたというような話も、それを裏づけしてくれる材料です。イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。また、韓国は摂理的重要性をもつ国として、ここに真の父母が現れれば理想的祖国になるために、祖国主権復帰のために、天がすべての民主世界のキリスト教思想をもった国家を動員して犠牲にさせたのです。戦わせたのです。

 もし韓国が統一教会を受け入れていたならば、韓国動乱が起きたでしょうか。起きなかったのです。三年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。そして七年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。一九五〇年の六・二五動乱は、七年の過程で起こった戦いです。キリスト教が支持しないことにより、サタンが浸透して打つことができる基盤ができたためです。それにより二つの怨讐が生じたのです。それらが共産世界とキリスト教です。そのようにして共産世界が世界的に登場するのです。共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもてなかったことでしょう。その時、私の手の中で全部溶けたことでしょう。その時、マッカーサー将軍の言うとおりにしたならば(マッカーサーの中国本土空襲の主張を意味)、一九五二年六月までに終わったのです。解放以後、七年目に終わるのです。韓国動乱でトルーマン大統領が国連軍を投入したことはよくやったのですが、トルーマンが歴史的な失敗をしたのです。


B−29の興南一帯の爆撃(一九五〇・八・一)

 一九五〇年八月一日、百機ほどのB−29機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。先生はこのようになることをあらかじめ知っていただけでなく、直径十二メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。先生はそのような中で、黙って瞑想をしていました。爆撃のようなことは考えませんでした。今後の理想世界について考えていました。このように復帰の使命を果たすような人を霊界に連れていけば、神様には天宙的な損害です。神様はどんな犠牲を払ってでも防備しようとしたし、そうせざるを得なかったのです。

 他の人々はただ口をつぐんで心配しますが、私はそのような考えをするのです。興南工場をひとしきり爆撃する時、他の人々は死ぬといって動揺しているのですが、私はそのような世界に入っていました。死の峠が問題ではないのです。


囚人たちの一線投入

 共産党は、六・二五動乱が起こるや否や、すべての一線に誰を動員させたかというと、収容所にいる囚人を全体動員したのです。その時、興南監獄の千名近いすべての囚人たちに「十二里の道を行軍して集合しろ」という命令が下されたのです。上部で我々を一線に出動させるための集合命令を下し、我々はその命令を受けて出発しました。

 その時、約八百余名が興南から元山、定平まで行きました。もともと、汽車が通っていたのですが、その時は、爆撃を受けてレールが絶たれたため、約十二里ほどを歩いて行かなければなりませんでした。その時、残された服役者たちはいくらにもなりませんでした。約七、八十人しか残さずに、全部連れていったのです。

 その時、先生も引っ張られて行ったのです。夜八時に出発して、夜通し歩いて行って明け方を過ぎるまで、六里か八里ほど行きました。昼は、爆撃のために歩くことができないのです。このようにして、汽車もやはり夜の時間を利用するために、四時前に到着するようにしておきました。ところで、中央から下ってきた汽車に、途中で事故が起きました。それで、仕方なく何日かそこに停車して、とどまるようになったのですが、そこにはかなり支障が多いのです。自分たちはわずか数名しかならず、囚人たちは多いので、問題が生じるのではないかと案じて、引き返してきたのです。引き返してきて三日後に、再び行ったのですが、その八百余名の囚人を全部連れて行き、私一人を置いていったのです。私は別れて、そこに残り、さっと出てきたのです。


国連軍の興南上陸と劇的な出獄(一九五〇・一〇・一四、深夜二時ごろ)

 最後には、どうなるのでしょうか。監獄の門は開かれているのです。監獄の門が開かれて、出ていかなければならないのです。

 国軍は、元山を一番先に奪還しました。平壌には一九五〇年十月十九日に入城しました。ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。

 それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。十月十二日、刑期が七年以上である囚人、およそ七十名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。その当時、先生の刑期は五年であったために、その次の、次の日が私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。十三日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに十月十四日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。

 その日の夜、総攻撃があって、夜中の二時ごろから逃げました。

 私の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではありません。サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。

 先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(アメリカ)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。

 一九五〇年十月十四日です。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。

 国連軍が上陸することによって先生が監獄から出てくることになったこと、それが民主世界が恵沢を受けることができる条件になったのです。言い換えれば、国連軍が上陸して、監獄の門を開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けることのできる因縁が残されたのです。

 十月は、統一教会の解放の月です。十月四日(西大門刑務所出監日)がそうであり、十月十四日(興南収容所出監日)がそうです。それを思うと、とめどなく涙が先立つ月です、私においては。その期間に民族をみな失ってしまいました。私が愛する家庭も失ってしまい、愛する妻子までもみな失ってしまいました。


監獄暮らしの歴史と伝統

 先生が出監した日を、皆さんの家庭で記念していますか。先生が監獄暮らしを通して、どんな苦役を受けたのかということを証しなければなりません。

 先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません。血の代価に代えて献金でもして、後代の人の前に、世界の人の前に、それをまいて食べさせようという考えをもって、準備をしなければならないのです。それが私が知っている天の国の伝統です。

 先生が世界に出て、何かをしたその日を知らず、記念すべき出獄日まで全部忘れてしまって、自分勝手に生きているのです。北に入っていき、共産党の法廷の前に出ていって侮辱を受けた、そのような事実を知っていますか。監獄でどんな生活をしたのか知っていますか。

 小学校の四年生から聖地を参拝させなければなりません。四年生の時に行く聖地を定めて、必ず参拝しなければならず、五生年は五生年の時にいく聖地を定めて、必ず参拝しなければならず、六年生は六年生の時に行く聖地を定めて、必ず参拝しなければなりません。その次に、高校了年生、二年生、三年生ももちろんであり、大学四年生まで、すべて巡礼コースを定めて、参拝しなければならないのです。先生が残した歴史的伝統を、一歩、一歩、通ったという解放感に、驚くべき自身を発見する時、その決意と誓いがどんなに貴いことでしょうか! それで金日成に、「私の故郷を開放しておきなさい」と言ったのです。興南は、私の生まれ育った故郷は、何年か修練を受けながら参観して教育できる場所になるはずだから、差し出しなさいというのです。

 興南監獄は私に不幸をもたらしませんでした。統一教会の教理が広がる世界各地において、統一教会の原理のみ言を聞く若者の胸に、興南の監獄生活を通した先生の生涯路程が、新しい蘇生の爆発力を再発させることができる力をわき立たせる役事をしているのです。

 それで、先生は世界一の刑務所を造ろうと思います。ここで一年八ヵ月くらい、死なない程度に、公式的に一度ずつしてみるといいのです。

 人を再創造することができ、新たに再評価をすることができる場所は、監獄しかありません。それゆえ若い人々を一度ずつほうり込んで、公式的な訓練をさせてこそ、世界を統一できる人々を育てあげることができると先生は考えるのです。

















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