真の御父母様の生涯路程 2
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 韓国解放と摂理の出発

第四節 興南から釜山まで自由南下
       一九五〇一一〇・一四〜一九五一・一・二七

一 平壌帰還十日(一九五〇・一〇・一四〜二四)

再出発の決意

 三十歳といえば、相当に若い時です。その当時、先生も今と比較すると相当に青年時代でしたが、その時、監獄から出てきながら再び決心したことが何かというと、再出発だったのです、再出発です。いかなる困難が北韓の地であったとしても、そこであったすべての困難を忘れ、その困難であった事実が、私が行く道に損害をもたらすのではなく、私をして第二の出発をする際の、一つの刺激剤として、歴史路程に残ることを思いつつ、再出発したのです。

 私はいかなる道を通っても、み旨の道を完成しなければならない責任感を感じたがゆえに、監獄から出てきた三十代の若者の体の中には、新たに出発するという決意が強くあったのです。

 先生が獄中から出たのちは、実体で復活した立場と同じなので、原理をそのまま発表するようになりました。


四名の獄中弟子と文正彬氏

 私が監獄を出てくる時、私をつかんで痛哭する人々をたくさん見ました。そして私が北韓から監獄を出てくる時に、四名の人が、自分の父母と妻子を捨てて、私についてくることも起きたのです。

 その中に文氏が一人いました。それで、文氏の中にカインが一人生じたことになったのです。

 この人(文正彬)は、咸興道庁で課長をしていた人です。道課長をしていて、その部下が間違いを起こしたので、引っ掛かって監獄に入れられたのです。彼は私と同じ監房にいたのですが、霊界から教えを受けて先生と因縁をもったのです。興南から平壌へ出てくる時、私の後について出てきたのです。

 その人は、自分の妻もあり息子も二人いたのですが、私が監獄にいる時から面会に来て、私が出てくることを願っていました。それで、私が出てきて平壌に行かなければならないのですが、急いだ道を行く途中、その家の前を通ることになったので、その家に入ってあいさつでもして行こうと、入って別れのあいさつを告げて出てくると、彼が飛び出してきて私についてくるのです。それで、「なぜ来たのか」と言うと、「自分が行くべき道は妻と子と共に暮らすことではなく、先生に従って行くことです」と言いながらついてくるのです。


ぼろぼろの囚人服

 私は興南監獄に約三年いたのですが、その時労働しながら着ていた服があります。ワイシャツ、ランニングシャツ、パンツなど、すべて綿でできていました。硫酸アンモニアの肥料工場で仕事をしたので、綿に硫酸やアンモニア酸がつきます。すると綿は酸に弱いので、引っ張ると破れてしまいます。長く着ていると腐って穴が開きます。それは乞食の中の乞食の姿です。それはにおいがしてどうしようもなく、引っ張って、もむと粉になってしまうのです。しかし捨てられないので、全部布団の中にぎゅうぎゅう突っ込んだのです。そして寝る時、それをぱっと敷いて寝るのです。そのようなぼろ布を、布団のわたを抜き取って、代わりに全部突っ込んだのです。

 出てくる時、持ち出す財産が何かありますか。咸興から平壌まで十日間、それを背負って行ったのです。そうして、それをある食口に預けて、「あなたの絹織物のチョゴリ、スカート、高級絹織物の布団を全部捨たとしても、これだけは間違いなく私のところに持ってきてくれなければなりません」と言ったのに、それを先に捨てて自分たちのものを持っていったのです。大切なものをなくしてしまったのです。もし今、その材料があれば、先生が説明をする必要はありません。天下をもらっても換えられない、貴い材料なのです。雄弁をして感動をさせることより、もっと偉大な材料をなくしてしまったのです。今も、考えればあきれ返るのです。どこに行って捜しますか。買うことができますか。できないのです。

 それと同じように、皆さんがみ旨を中心として公的な生活をする時、一枚の紙切れ、ただの新聞の切れ端も大切にして、それを全部とじておくのです。食べ物がなくて干した大根の葉っぱの切れ端を食べながらも、それを写真に撮って残しておくのです。そうすれば息子、娘に骨髄的な伝統を黙って教育できるのです。


北朝鮮の戦争準備確認

 興南監獄から出て、歩いて来ながら、北韓の実情をよく調べました。私はそのような分野に関心をたくさんもっているのです。橋をどのように渡してあるかというと、最初から二車線くらいに拡幅できるようにして、橋を渡してあったのです。高速道路のように、軍事道路が造ってありました。北韓はセメントが多いので、コンクリートで厚くしてありました。関心があって調べてみると、戦車が通り過ぎても壊れないようになっていたのです。

 三十トンの戦車が移動してもびくともしないように橋が渡してあったのです。興南から出る道は、東海岸では重要な幹線になり得る道路ですが、既に軍事道路としてそのように準備をしたのでしょう。それを見て、これは韓国侵攻のために計画したことだと思いました。ソ連の極東政策によって、背後でKGBがそそのかしてそのようにしたと見るのです。

 そのため、興南で産出する肥料をすべてどこに持っていくかと言えば、ソ連に持っていくのです。そこで肥料と武器を取り替えるのです。その武器はソ連では十年から二十年過ぎた安いものです。それと肥料を取り替えて来るのです。そうして、三十八度線に配置して、韓国の侵攻のための訓練をするときに消耗されます。高級な重装備は必要ないのです。そのため、安い軍事重装備を準備してきたのです。そのように興南肥料工場の肥料をすべてソ連に送るのです。一日に何台かの車に載せて運びます。それがすべて武器になってきて、三十八度線に配置されたのです。それを私はすべて知っていたのです。彼らは、大移動できる軍事道路を拡張しなければならなかったのです。

 そのように興南から平壌まで、セメントコンクリートで橋を架け、道路工事を全部完了しておいたのです。そして、いつでも拡張できる計画がすべてできていたのです。


二 平壌滞在四十日(一九五〇・一〇・二四〜一二・四)

故郷を顧みず食口収拾

 先生は東海岸にある興南から西海岸地域の平壌まで歩いて帰ってきました。先生はかつて先生に従ったすべての人たちに、先生が帰ってきたということを知らせる人たちを送ったのですが、大部分の人は来ませんでした。けれども先生は何人かの人を集めることができました。

 平壌に出てきて、四十日間いたのですが、そこから二十八里も行けば私の故郷です。二日もあれば故郷に行って来れました。しかし、故郷にいる父母や兄弟たちを訪ねていかず、み旨に対した人たちは、一人も残さず訪ねていきました。天を抱いて誓った人々に会うために、歩き回ったのです。

 その時、故郷に行けなかったのは、私が監獄に入る前に従っていた食口たちが、どこに散らぱっているのか心配で、記憶している人々に会い、その人たちを収拾して、みなに伝えてから故郷に行くべきであると思ったからでした。それが、天に従っていく正道なのです。

 先生が監獄に入る前に「先生を信じます」と誓っていて、「離れます」と報告もせず、知らせもしなかったのですが、師たる責任が私にはあるのです。その人に直接会ってみて、その人が迫害する時は、天もやはり彼を放棄するのですが、それまでは師として誓った責任を負わなければなりません。それゆえに、散らばったすべての食口を探しました。私が直接行けなければ、金元弼に命じて行かせました。そうしていれば、故郷に行く暇がありますか。ある人は、一週間さまよっても捜せませんでした。

 その人自体は背いたとしても、その後孫は救わなければならないために、裏切り者たちを見分けても清算できないのです。そのようにしていたら、四十日が過ぎてしまいました。


神様が背を向けろと言われる時まで

 私が興南監獄に入っている時、毎月訪ねてきては泣きわめいていた母を北韓に残したまま、訪ねて行くことができませんでした。平壌で従っていた食口を探さなければならなかったからです。八十歳以上になる老人まで訪ねて行き、「死んだ」という知らせを知ってこそ行こうとするので、遅れたのです。

 み旨の中で結ばれた同志、食口たちを糾合し、取り戻すために、老いた人から若い人々に至るまで、思いつくすべての人々を訪問しました。

 訪ねて行って、一度門前で裏切られ、二度門前で裏切られても、三度まで行くのです。十二月二日の日が沈むころまで人を送りました。私としては神様が「背を向けろ」という指示をする時まで、最高の精誠を込めなければならないのです。捨てられないのです。そのようにして、私が成すべき責任を全うしたのです。心情の理念をもって踏み出し、心情に傷を受けた私の胸の中に植えられた傷をすべて取り除いて、新たな心情を神様の前に連結させられるという自身を取り戻して初めて、そこから出てきたのです。

 そうして、その日の夜、平壌を発ったのです。指導者は、そのように慎重に責任を負うのです。死の境地でも、神様から任せられた責任分野を締めくくってから行かなれけば、行く道がふさがってしまうのです。そのため、その時に因縁を結んだ人との関係をすべて解決しておいて、私が天と地の前に、彼らの先祖や後孫や、現世や来世において彼らの先祖も同情し、彼らの後孫も同情することができる位置に立たなければならないのです。そんなことを考えたので、そのような位置を築いておいて出てきたのです。それゆえに、私が過去を振り返っても、少しも良心に引っ掛かりません。


腹中教訪問

 私が北韓から出て来るときに、その許孝彬氏の母親に会いました。そのおばあさんが教団すべてを指導していたので、私も一度訪ねて行き、初めて会ったのです。私が行くと、既に「景昌里にいる先生を粗末にもてなしてはならない」という啓示を受けていて、従っていた人々がみな白い服を着て迎えてくれたのです。その時でも、彼らが完全に私が言ったとおりしていたならば、先生は苦労をしません。その神霊団体は大きかったのです。

 その人たちは、既に長年の間準備をしてきていたので、主が来て何をされるかを心得ていて、一気に駆け出すことができるのです。聖主教から、腹中教、新イエス教は一つの系統なのです。これらが私を歓迎したならば、問題なく一つになるのです。なぜかといえば、原理があるためです。しかしその人々は、ばらばらになっているので分かりません。どんな意味なのか解釈できないのです。


反対した牧師たちの結末

 先生が北韓の共産世界に入っていった時、既成教会の牧師八十余名がみな「統一教会の文なにがしを捕らえて殺そう」と、署名、捺印をしました。そうしたのち、「やっと文先生が死ぬようになってすっきりした」と言っていたのですが、先生が死ぬですって、どうして死にますか。結局は、先生を殺そうと謀議した人々は、全部死んで、いなくなってしまったのです。共産党が、すべて殺したのです。殺そうとして監獄に押し込んだ人は生きて出て、生きようとして私を殺そうとした人々は死んだのです。

 あまりにも冷酷な結果です。一人一人をつかまえて事情を解き、その怨讐を自ら愛したと誇れる一つの道を模索しようと調べてみたら、すべて跡形もなく死んで、いなかったのです。

 平壌で、私を監獄にほうり込んだ人が南という牧師ですが、その牧師の子供たちまで、すべて死にました。そのような業を見ました。それは、天がみな清算したのです。

 そうかと言って、「お前は罰を受けろ」と、そのように考えてはいけないのです。その後孫が残ったならば、「天よ! ぜひ今は手を引いて、これからはこの残りの後孫にも私によって福を引き継がせてください」と言わなければなりません。それが義人たちが行く道であり、それが神様が行く歩みだということを、皆さんは知らなければなりません。


み旨に背いた食口たち

 先生が今までみ旨の道を歩んでくる過程で、多くの人々が先生を否定しました。平壌から現在まで歩んでくる中で、天の前に誓いながら離れて出ていった人々を、私は指を折って数えることができます。現在、彼らが何をしているか、私はすべて知っています。過去に誰がどのような誓いをなし、その人が今はどのようにしているかということも全部知っています。

 私が興南監獄に入っていく時には、従う女性たちもたくさんいたのです。先生のためには、「天上で死んだならば、再び再臨復活し、よみがえって、数代を生きてでも、先生のために所願成就をする女性であって、花ならばゆりの花、バラの花であって、かぼちゃの花ではない」と言って、どんなに誓ったことでしょう。

 ある人は、「白頭山の天池の磐石を耕して、じゃがいもを植え、先生を養い奉ることがあったとしても、私は先生を裏切りません」と言っていたのに、どうしたことか、「死の道を行かなければならない」という時には、「えっ、もうちょっと考えてからにしましょう」と言うのです。信じられないのが人間です。

 先生の前には、裏切った女性たちがたくさんいます。神様の前に裏切った人が、どんなに多いかというのです。アダムとエバも裏切り、天使も裏切り、今まで裏切りの歴史をつづってきたのですが、絶対的愛をもってきたために、神様は怨讐に恨みを晴らすことができないのです。「神様はなぜそんなに待っているのですか」と尋ねれば、「そのようにはできない」というのです。

 絶対的に愛したので怨讐に恨みを晴らせず待っているのです。そして首を長くして「このまま見守らなければならない。私は待ちながら行く」というのです。絶対的愛をもって待つのです。そのような天がどんなに哀れで、どんなに悲惨かということを、私たちは知らなければなりません。どれほど耐えて、どれほど悲惨だったかというのです。


平壌時代を代表する四人の食□

 先生は、北韓で女性三人(池承道、玉世賢、鄭達玉)と男性一人(金元弼)を復帰しました。このような基台がなければ復帰摂理は成し遂げられません。

 神様は、三代の基準にわたって女性を失ってしまいました。それゆえ、その三代圏の女性の型を復帰できなければ、真正なる夫婦を兼ねた子女を、カインとアベルとして一体になった子女を、迎えることができません。そのような蕩減的な女性たちが必要なのです。先生もそうした内容を定めて北韓に行き、行って復帰してきたのです。

 先生が三人の女性を連れてきたのは、三時代の女性たちが誤ったことを蕩減するためです。また、金元弼が二十歳前に先生に侍ったということは、この上なく歴史的な意義があるのです。共産圏のカイン世界を代表したカインの立場であるために、先生に対して絶対服従しなければならないのです。そこには異議がないのです。それで私が監獄に入っていった時も、金元弼が全部世話をしたのです。

 金百文氏の立場にいる一人の人を復帰する条件を立てるには、先生に従っていたメンバ、たちの数は、先生が監獄に行った時と同じように、先生が戻ってきた時も、全く同じくそのまま残っていなければいけませんでした。

 その金氏の役割をした一人の人がいました。それが金元弼でした。またそこに三人の女性もいました。一人の男性と三人の女性をもつことによって、先生が金百文氏集団から復帰することを願った四人の人を、復帰させたことになりました。

 北韓の怨讐圏に行って四位基台を取り戻してきたのです。闘争して得たその基盤を中心として、その息子、娘を中心として、復帰の基盤を広めてきました。原理的観点から見れば、そうでなくては新しい出発ができなかったのです。


獄中の弟子四人を代表した朴正華氏

 それで先生に従う四人の人ができるようになりました。また、先生に監獄から従った四人の人がいましたが、先生が韓国に越えてくる時、彼らの中の一人を連れてきました。先生はそのような数の人を復帰したために、韓国で霊的な業を始めることができました。そこから統一教会が始まりました。それで、その後の摂理は新しいものとなったのです。

 私が監獄から出てくる時、四人を連れて出て、平壌に来てから、「自分の故郷に行って来なさい」と全部送り出しました。「何日の何時までに戻ってくるように」と言ったのですが、ちょっと日を逃すことによって、南へ後退する際に、皆は従ってくることができませんでした。

 それで、結局、どんなことがなったのかと言えば、監獄で共にいて先に出てきた、足の折れた朴正華という人を連れていくことになりました。足が折れていたために、彼の兄弟が南に下っていくとき、置いていかれたのです。その家には、その人と家を守るシェパードしかいませんでした。その家を訪ねていって、足の折れた人を自転車に乗せて下ってきた思い出が、忘れられないのです。

 また私が、平壌に留まったのち、北韓から出てくるとき、母のところに人を送って、「出て来なさい」と言ったのです。結局、お互い別れるようになったのですが、子の道理として、北韓の実情が長久化し得る何かがあったので、人を送って「来なさい」と言ったのですが、行く途中、捕まったか、どうかしてしまったのです。

 それでやむを得ず、文正彬という人を、金元弼のお母さんを連れに行かせたのです。ところが、歩いていっても一日か二日もあれば帰ってこれる距離なのに、帰ってこないのです。事態はだんだん不利になっていき、完全に包囲されるので、やむを得ずその地を発ったのです。そうして、それこそ私のために生命を捧げると言ってついてきたその文氏という人は、出て来れなかったのです。

 その方たち二人が生きていたならば、その夫と二人で暮らしていたとしても、そのような歴史の背後があるために、祝福したものとしてみなしてあげなければならないという考えまでしたのです。


三 平壌からソウルまで(一九五〇・一二・四〜二七)

平壌出発(一九五〇・一二・四)

 平壌の都から、みな避難して行ったのちに私が出発したのです。そうして、足が折れて自分で歩けなくなっている人を私が自転車に乗せて引いてきました。人民軍、八路軍(=国民革命軍)、中共軍を三里後ろにして、一番最後に出てきたのです。私は死んでも神様の前に言うべき言葉があるのです。私は約束したとおりにする人です。

 先生が北朝鮮を出発した時は、一九五〇年の冬でした。一九五一年に、南海岸にある釜山まで下ってきました。

 十二月四日に出発した時、先生は数えの三十一歳でした。

 避難してくる時には、何か着る服がなければならないでしょう。それで、北韓から持ってきた中学高校時代に着ていたオーバーを着ていました。ボタンがずらっと付いています。そのオーバーを着ているのですが、私のこの腕が本当に短ければ良かったのです。寒いのです。それで、袖に腕をこのように入れて、道を歩きました。そうして歩くと、みながじろじろ見ます。それはどんなに素晴らしいことでしょうか。そのような立場にいても「今日、数多くの人たちはこのような塗炭の苦しみの中で天を恨み、自分の一生を恨むでしょうが、私はそのようにはしません」と言ったのです。


平壌から青丹に

 後ろからは中共軍が追ってくるのに、連れて行く人は足が折れています。しかし捨てては行けない事情があり、連れて行こうとするので前途はふさがりました。過ぎ行くトラックは全部軍需物資でいっぱいで、道は二重三重にふさがっていました。私より大きな人を連れて行くのに、背負って行くことができず、自転車に乗せて行こうとするから大変でした。行こうとしても行くことができず、死のうとしても死ぬことができない、というようなことになったのです。それでも、死を覚悟して行きました。先生は避難民の中で一番苦労する人になることを願ったのです。そうすれば、我が国に訪れだ災難の中で、一番苦労した人に神様が福を与えるとすれぱ、統一教会の文先生を除いては福を与えることができないのです。先生は、そのように決心をして行きました。

 道路は軍需物資と車両が後退するのに使われているので、民間人が利用できる道は小道でなければ田んぽなのです。そこを通って行かねばならないのです。その苦労は到底語り尽くせません。それで途中で朴正華が、こうしていては共に死んでしまうので、先生を愛しているからといって、自殺しようとしたのです。それを私に見つけられて気合いを入れられたのです。そのようなこともありました。

 近道を選び、深い山の中の田舎道を通ってきたのです。そのようなところ歩いてきたのです。すべて神様が指導してくださり、守ってくださったのです。


避難の道のりでの炊事

 その時のエピソードがとてもたくさんあります。避難するときの一番の問題が何かといえば、御飯をおいて食べることです。荷物を背負えば、米まで背負って歩けなかったので、やむを得ず、その時は盗みをするのです。みな避難した家の中を探すのです。私たちが探さなくても、中共軍が来て荒らして行くからです。それで、夕方になると近くの家に入るのです。あすの朝の御飯にしようと、米を探すのです。私が米を持ってくるときには「最初に見つけた米を持って来なさい」と言いました。米を選んで回っていては、本物のどろぽうになるのです。また天と地が見る時、「やあ、こいつらは他人の米を持っていって食べたとしても、何かがある者たちだ」と言って同情をするのです。それゆえに、「米のかめを開けて、そこに粟でもとうもろこしでも、最初に見つけたものを持ってきなさい」と言ったのです。それを出しておいて、他のものを持ってきてはいけないといいました。ですから家にぱっと入っていけば「米がめ、米がめ、米がめ」と言いながら探し回るのです。

 御飯を炊こうとすれば、米は十分にあるのですが、なべが一つしかないので、一つしかできないのです。避難暮らしするのに、普通の暮らしをするみたいに、がらがら持って歩けますか。どこに行っても木を折って箸を作ればいいので、なべだけ一つ持って歩くのです。そうして御飯を炊いて、いつでも三人が輪になって座れば、本当に、窮状がとても幸福なのです。恋しくないものがありません。恋しがることができる、その巡り合わせ、それが大変な幸福です。イエス様が、「飢え渇いた者に福がある」と言ったのは、すべて一理がある話です。おなかがぐうぐう鳴るので、その窮状に恋しくないものがないのです。食べる物が麦を蒸した餅であっても、王様の豪華な食事よりも恋しいのです。まずいものがないのです。


御飯のさじを先に置く

 統一教会の文先生の今までの生活哲学は、あとから食べ始めて、先にさじを置くということです。さじを持つ時は最後に持ち、置く時は一番最初に置かなければならないのです。

 また、食べる物があれば、良い物があっても、一番悪い物から先に箸をつけるのです。避難をしている中でも、そうだったのです。従ってくる人々のために、腹が減っていても、いつも私が先にさじを置いたのです。

 先生と三人で避難をする時のことです。避難する人は、誰もが同じく腹が減っているので、御飯を炊けば、そのまま全部食べたいのです。全員が腹が減っているのです。そんな状況で「先生より私が一度先にさじを置かなければならないはずなのだが、御飯を食べ始めると、いつでも先生が先にさじを置くからたまらない」という話を聞いたのです。

 食べていた御飯をそのまま置いて、誰が先にさじを置くか。先にさじを置く人が、その場を主導する人になるのです。さじを先に置く人が、主人になるのです。


龍媒島一・五里の干潟道の往復

 北韓の監獄から出てきて、三十八線を越える時、「間違いなく三十八度線の南側に行かなければならない」と考えました。情勢を見て、静かに霊的に考えてみると、事態が不利になっているのです。心がしきりに韓国に越えて行こうとするのです。皆さんにはそれが分からないでしょうが、先生には何かがあるのです。そうして境界が接する地帯までぴったり来たのですが、オンドルのたき口に近い部屋には見張り隊、警備隊員がいて、私たちはたき口から遠い部屋にいました。

 一日目の夕方に越えて行こうとして越えられず、二日目の夕方にも越えられず、三日目に荷物をまとめて逃げたのです。そのような時には機転が利かなければならず、勘が鋭くなければなりません。そのような時は、荷物をまとめるにも、先にまとめなければなりません。

 そのようにして龍媒島に行き、一番最初に船に乗ったのですが、群衆が押し寄せてきて、大騒ぎになったので、どうなったかといえば、軍隊と警察の家族でない者は引っ張り出されたのです。そのような状況になってしまいました。ですからやむを得ず追い出されたのです、他にすべがありますか。龍媒島に行った第一の旗手が結局、再び戻されることもあったのです。環境に追われてそのようになったのです。間違いなく先頭で南側に出てくるところでした。

 そのように龍媒島を通って韓国に向かう船に乗ろうとしたのですが、その時は警察官たちもみな後退するので普通の人がどうして乗れますか。そうして龍媒島に行ってから船がないので再び引き返してきたのです。そして再び三十八度線を越えて行ったのです。

 龍媒島に行くために、海の中を渡る時、この道を渡っていくことができなければ、天が滅びると考えました。「ここで倒れれば、天の父はどこに行くのか」という考えです。行けない所がどこにありますか!


郷土防衛軍の検問・検索

 避難して来ながら、様々なことがたくさんありました。金元弼は、防寒帽をかぶり、誕生日に着るマゴジャ(チョゴリの上に重ねて着る上着)だったか、寒いのでこのようにぐっと祈り込んで、私の後ろについてくれば、私は見るからに男性ですから、私の妻に見えるのです。顔もそうだし、話すのを聞いても女性の声なのです。その時は、ひげも生えていませんでした。

 どこに行くにも、男の身なりをしたのですが、そのような格好をしているので女だと思われるのです。行く所すべて、調査される時は、いつも金玉を調べられるのです。なぜ笑いますか。そのように言えば実感がわくでしょう。「立って服を脱げ!」というのです。何度もそうだったのです。女性のようなのです。本当に女のようでした。そのようなエピソードがたくさんあります。

 それゆえ、皆さんには分かりませんが、歴史的背後において摂理の内容と合致した点があるために、金元弼を私が今まで伴っているのです。それは霊界だけが知っているのです。


夢の啓示を受けて準備した食事で歓待(一二・一九〜二〇)

 出獄したのちは、何も持たない旅人でした。平壌から韓国までの約三ヵ月間は黙々と乞食をしました。ある時は言葉では表現できないほど食べたい時もありました。そのような放浪の生活をしました。だからと言って「神様、きょう食べるものがありません。何でもいいから下さい」という祈祷は絶対にしませんでした。むしろ神様を慰めて寝たものでした。

 ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道で何かくれるだろう」と、そのように思えば、次の日に、間違いなく思ったとおり、真っ白い服を着た婦人が道端で待っているのです。「実は、昨夜万全の準備をして待てというみ言があって、このように待っていました。どうか召し上がってください」と言うのです。そのようなことが、たくさんありました。そのように援助してくれた部落には、時が来れば恩を返そうと思っています。

 皆さんが、その時の先生の心情を感じるようになるならば、皆さんは涙を禁じ得ないことでしょう。神様もそうであられます。先生と神様が互いに抱き合って泣いた悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かった心情は、計り知ることができません。それを考えるとすべての細胞がしびれてくるほどです。


真夜中に強行軍で臨津江まで(一九五〇・一二・二〇〜二一)

 このように、様々な問題を経ながら避難してきましたが、夕暮れ時になって、共に避難してきた人たちが、歩き疲れているのです。疲れ切ってしまっているのです。それで、村に入って寝ようとしたのです。しかし先生は、夜を明かしてでも臨津江を越えなければならないと感じたのです。他の人々がみな寝るのに、先生が行こうと言うので、「先生は何であんなに意地っ張りなのか!」このように思ったはずです。膨れっ面をしていました。夜、他の人々が全部寝ているのに、私たち三人は自転車を引っ張って臨津江まで出てきたのです。臨津江の川岸に来てから寝ました。午前一時半か二時くらいに到着したのです。

 三十八度線から青丹まで八里の道のりです。その道のりを月夜に歩いた、そのことが忘れられません。どれほど疲れてだるいことか、この人(金元弼)は荷物を担いで歩きながら居眠りしていたです。分からない人はそうなのです。しかし先生にはその一歩が忙しいのです。今晩中に臨津江の先端まで行かなければいけないという、そのような何かがありました。そのような時には、先生は非常作戦、非常措置をするのです。アンテナを最高に立てるのです。

 そこに家が一軒ありましたが、そこから足を一歩動かせば韓国でした。そこには人が住んでなく、いろんなにおいを放っていたのですが、そこが福なる地だと思いました。そのような危急を要した中、あと一歩だけ足を移せば、先生は韓国に行くようになっていました。


臨津江を渡りソウルに(一九五〇・一二・二一〜二七)

 その次の心配が何かと言えば、臨津江を渡っていこうとすれば水が凍らならけれぱなりません。その時、気温が下がって、臨津江が凍ったのです。そうして、明け方早くに起きて出発したのです。臨津江が凍りついていて、結局川が渡れたのですが、私が一番最後に渡っていきました。そのあとはカットされたのです。カットして全部送り返されたのです。このようにして韓国の地に来ました。

 国連軍が撤収すると同時に、私たち一行を最後に、封鎖されてしまいました。そのあとの人々は全部、戻っていったのです。こんな時、一分でもうろうろしていたら、どうなっていたことでしょうか。人の運命は、時間の問題ではありません。すべて滅ぼしてしまうのです。そのようなことは、私たちの人生においてもたくさん起こるのですが、天道をわきまえていく道の前に、それがないだろうかというのでず。どんなに深刻かというのです! それを皆さんは知りません。

 一つの峠だけ越えれば生きる道があるとすれば、わき目も振らず追い立てて行かなければなりません。「行かない」と言えば、ぶん殴らなければなりません。胸ぐらをつかんで、無理やりにでも引っ張っていかなければならないのです゜それが愛です。


三十八度線の祈祷

 私は、三十八度線を越える時に祈祷した言葉を忘れません。「天の父よ! 私は韓国の地に行きます。私は北韓に来てみ旨を成すことができずに敗者のつらさをもったまま、獄中の身を免れることができませんでした。そして今、追われる群れの歩みに従って南に行きます。しかし、またこの地を訪ねてこなければならないことを知っています。たとえ私が、三十八度線の北側に行くことができなくても、私の思想を植えて後孫を行かせます。彼らが行くことができなければ、私に従う弟子を送って行かせます」と、そのような決心をしてきたのです。

 そして十年の歳月を一日のごとく、今まで戦ってきたのです。私が天の前に誓って出発した歩みは皆さんとは違うのです。

 両手で三十八度線の土をすくい、「必ずこの手で共産党を消化し、何年かのちには必ず戻ってくる」と決意しました。

「私のこの手で自由世界を収拾し、糾合して、北韓を解放するぞ」と祈祷したのが、きのうのことのようです。

 三十八度線に両足でまたいで立ち、泣きながら「南北を私の手で統一します」と誓いました。

 目に涙をためて祈祷したことは、一緒に来た人も知らないのです。私が悲しみを残して、私のために精誠を尽くした故郷にいる母と父と兄弟を後ろに残して来ながら、「この親不孝者が再び帰ってくる日を待っていてください、死なずに待っていてください」と念じ、北韓の地を離れてきたことを、私は忘れないでいるのです。


四 ソウルに一週間滞在後、釜山に
     (一九五〇・一二・二七〜一九五一・一・三→一・二七)


兵役招集の身体検査(一九五〇・一二・三一、ソウル秘苑前)

 私が北韓から出てくる時、髪が剃ってありました。ソウルに来ると昌慶苑がありますが、そこに若い軍人たちがいました。今思えば、それは海兵隊でした。若い軍人が、そこに来る人々を選り分けていました。「こっちに行け、あっちに行け」と。「小さい人はこっちに行け、そうでなければあっちに行け」とです。私は、監獄から出てきたばかりでしたが、このように太っていて、やせっぽちにはみえませんでした。

 そうして兵役調査をしたのですが、頭を丸めているので、「どこから来たのか」と聞くのです。髪が剃ってあるということは軍隊にいたはずなのです。軍隊の逃亡兵でないかと疑うのです。それで「どこから来たのか。逃亡兵ではないのか」と聞くのです。最近になってこそ逃亡兵というものが分かるのであって、その時にどうして分かりますか。「どこから来たかって? 北側から来たに決まっているだろう」と答えると、「北側?」と言うのです。その時は大勢の人が避難していた時なので、スパイなのか軍人なのか、紛れ込んでいても分からないのです。それで、スパイではないかと考えたのです。

 スパイを軍隊に入れたら自分の首が飛ぶのです。ですから調査してからどうなったかたというと、丙種(注:軍隊で徴収を免除される等級)です。落第の印鑑をしっかり押してくれたのです。それでそれを持っていれば、どこに行っても万事、都合良く運ぶのです。証明書はそれしかないのです。その票は丙種ですが、どこに行ってもすべて通過できたのです

 数年後のことですが、住民登録をしてから暮らしているうちに、問題が起きて監獄(西大門刑務所)に入りました。「何だ、兵役忌避したな。丙種だって?」と言って、逮捕するために、ありとあらゆることをどれほど調査されたことでしょうか。丙種は、私が盗んでそうしたのですか。丙種にしてくれたのでしょう。ですから、手錠を掛けることができますか。このようにして多くの邪悪なうわさが立ったのですが、三ヵ月後(一九五五・七・四〜一〇・四)には無罪となり、釈放されたのです。


布団を売って餅を作って食べる(慶尚北道店村の農家)

 ある家を見ると、全部避難したようだったので、入って見たら、おばあさんとおばさんが二人で住んでいました。それで「私たちは通りすがりの者です。一月になって寒くなりましたが、私たちは少しくらい寒くても、凍え死ぬような状態でもありません。そこで、布団が荷物になるから売ろうと思います。これは、こんなでも綿も良いもので、掛け布団もいいものです。黒ずんではいますが、元はいいものですから、米と取り換えましょう」と言うと、「米はない」と言うのです。それで「それではもみと取り換えましょう」と言って、もみ二斗と交換しました。

 釜山まで行こうとすれば、布団の包みが荷物になるので、全部売ってもみ一かますと換えたのです。その時、米はどこにありますか。米がないのでもみと交換して、汗をだらだら流しながら足で踏んで脱穀したのです。その時、共に下ってきた人々と、「一度、食べたいだけ食べてみよう」と言ったのです。それをすべて餅にして、三人で座って食べました。一杯ほど残して、主人のおばさんにもあげました。それまで、あまりにも食べることができなかったので、そのようにして思い切り食べたのです。

 そのようにして、三ヵ月近くたったのです。三ヵ月の間、避難生活しながら着てきた、この綿のズボン・チョゴリが、どんなに聖く美しいことでしょうか(笑い)。しかし、仕方がないのです。そこに少しいて、釜山に行きました。


永川で破いた手紙(一九五一・一・一八、慶尚北道永川鉄道の堤防)

 私がアメリカに行くとき、皆さんに「一月十八日が何の日であるかを祈祷して調べてみなさい」と言ったことがあるでしょう? その日は、先生にとって最も悲しかった日です。

 その日が何の日かと言えば、私が精誠を込めて彼らのために、神様に祝福の祈祷をしてあげ、彼らと約束をなした日です。ところが、彼らはみな背いたのです。彼らが先生に背いたとしても、先生は「神様の愛はこうだ」という事実を中心として、万丈の手紙を書いて三度も連絡をしました。ところが、その最後の手紙を持っていってあげたにもかかわらず、それを送り返してきたのです。先生は突き返されたその手紙を持って北韓から出てきました。慶尚北道永川に行ってみると、橋があります。その橋で一月十八日に、その手紙を読みながら破いてしまいました。その永川という言葉はとてもおもしろい言葉です。そのようなことが皆さんは分からないでしょう。

 そこに列車が通っていく堤防がありましたが、その堤防に座って過ぎし日を思い、手紙を破きながら決心をしました。人には、そのような何かがあるべきです。話はしなくても、その目標、その表題を中心として、怨讐を私の手で屈服させることができるその日のために、昼も夜も投入しなければなりません。夜は毎日訪れてくるし、昼も毎日訪れてきますが、勝利の日を迎えることができない時には、彼は敗北者として歴史と共に去っていくのです。

 その手紙を、多分二十枚は書いたはずです。ページがめくられて新しいプログラムに転換された時です。どんなに深刻だったのかを、皆さんには分からないことなのです。そのような未知の事情が、たくさん埋まっていることを知らなければなりません。


あらかじめ準備した食事の歓待(慶尚北道月城乾川)

 私が釜山に下ってきた時、避難民として包みを背負い、平壌から歩いてきました。咸興から歩いてくるのに、およそ五十七日かかりました。御飯ももらって食べ、歩いて行くとき、おもしろいのが、天は本当によく知っているということです。腹が減って本当に疲れるようになると、すっと分かるのです。「あすかあさって、鶏が手に入る」と思うようになると、あるおばさんが出てきて「来られましたか」と言うのです。それで、「どなたですか」と言うと、「実は、昨夜、私の何代目のおじいさんが現れて、きょう尊いお客様が来られるので、鶏をつぶして餅を作っておきなさいと言われたのです。それで、餅を作っておきました」と言うのです。

 また、そのおばさんが「それでは、その方がどのような顔つきか御存じですか」と尋ねると、「外見は、みすぽらしい旅人として来られる」とおじいさんが答えたのですが、見ればそれが「先生の顔に似ている」ということなのです。それが信じられますか。そうして餅ももらって食べ、鶏ももらって食べ、そのようなことがたくさんあります。今もそうです。


南で聞いた最初の歌(慶尚北道慶州)

 その次に、私が韓国の地に来て、「私の前で歌う人が誰か」と、そのようなことを考えました。ところで慶州に来てのことですが、作男が出てきたので、彼に「南の地に来て、一番最初の歌を聞きたい、歌を一つ歌え」と言ったところ、彼が歌ったことが思い出されます。一番最初に聞いた歌を、一度歌いましょうか。

 釜山に行くのに、車道があるでしょう。慶州までくればもう、車が止まる停留所がありました。その時、慶州までは大体二つくらい停留所が残っていました。


貨車に便乗して釜山まで(一九五一・一・二七、慶尚南道蔚山駅)

 ここまで来れば、あとは大したことはないのです。機関車でも客車でも貨物でも、何でも乗ってみるのです。よく見ると貨物があったのです。それで、それに乗るのです。どこに乗るかといえば、一番前の機関車のところに行って乗るのです。そこで運転手とけんかをするのです。そうして、追い出されても、後ろの車両には乗るのです。「さあ、面倒はかけないし、荷物を積む時は私が必要になるはずだから、機関手の隣にちょっと乗せてくれ」というのです。そう言わなければ、ぐずるのです。その次には、機関車の一番前にあるバンパ、のところに上がっていって座るのです。

 そのようにして、約二カ月かかって、慶州を経て釜山に到着しました。

 ここはどこですか。釜山の何洞ですか。(草梁一洞です)。この草梁一洞には、昔、釜山鎮駅があったでしょう。ここは、昔のことが思い出される場所です。一九五一年、その時私がここに到着した日が一月二十七日でした。草梁駅に降りたことが昨日のことのようですが、既に多くの歳月が流れました。その時は、先生が何歳の時でしょうか。二十一です。相当に若かった時です。

















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