真の御父母様の生涯路程 2
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 韓国解放と摂理の出発

第五節 釜山避難時代
       一九五一・一・二七〜一九五三・九・一七

一 哀歓が秘められた避難民生活(一九五一・一・二七〜八月)

釜山到着時のいでたち

 もし、先生が平壌から釜山までまっすぐに下ってきたならば、十日しか、かからなかったことでしょう。先生のその路程は四ヵ月の長い時間がかかりましたが、皆さんは先生のその服がその間にどんなに汚くなったか想像できないでしょう。

 その時は、先生は北韓の監獄から出てきたばかりで、頭も短くひどい姿でした。絹織りのズボンと上着があまりに黒くなり、表ははげてしまったので、カーキ色に染まった内側を表に出して、裏返して着たのです。絹織りの上着は二カ月間着ていたので、すっかりなるようになっていました。体の脂や垢が染み着いて、雨が降れば雨の滴がころころと転がっていくのです。こうしてほとんどみじめな乞食の姿になって、ひどい格好で釜山に到着しました。

 作業靴や運動靴は、くつ底がなくなるまで履きました。御飯をもらって食べる立場なのに、靴を買って履くことができますか。足の指の間に土が入るのですが、それを履いて歩くのです。

 そのようにしながら、避難時代、一着の服で一年間暮らしました。

 しかし、たとえぼろぼろの服を着ていたとしても、そのような時には、「このぼろぼろの服が、将来の希望の日において、千万の人が仰ぎ見るものではないか」と考えるのです。「私が行く道はこうこうこのような道であり、私は歴史的な使命を担っている。そして、この地上にその時代を迎え、それが全体化される環境が整うようになる時には、今日のこのような場面を再現し、演劇を作ることだろう」と、そのように考えるのです。そうすれば、実際の劇の主演になるのです。それで、ぽろぼろの服を着て、さっそうとお出ましして、御飯をもらいに行くのです。歴史を創建する主演者の心情をもって行くのです。それが不幸だとは思わないのです。考え方一つにより、千態万状がみな異なるのです。


ひもじい避難生活

 私が金元弼に会った時、彼はまだ頭がばさぱさの青年で、十九歳でした。それから四年が過ぎて二十三歳になったのですが、何かすることがありますか。それで食堂のボーイもさせたり、あらゆる仕事をさせました。御飯ももらって食べてみて、昼食の代わりに釜の底のお焦げも食べたりしました。そうかと言って私が御飯のためにそうしたのではありません。あらゆる仕事をほとんど経験してみたのです。とても劇的で印象的であり楽しいことでした。

 寒い時は、人々がみな日なたに集まります。そうすると、顔をしかめて行って、「腹が減って御飯を食べなくてはならない。我々をいじめるようなことはしないで、どうか入れてくれ」と言います。「皆さんは朝飯も昼飯も食べたではないか。我々は朝飯も食べられなかったのだから、朝食をする人を冷たくあしらわないでくれ」と言って、日なたにぐるっと輪になって座って御飯を食べたりもしました。そのようにして御飯を食べるととても楽しいのです。そこには、他人の分からない哲学があるのです。人々がみな、私の友人です。感情が通じるのです。

 先生は、乞食稼業もしたのです。御飯をもらってくることにおいては誰も私にかないません。機転が利いてこそ、もらって食べられるのです。人を見るのです。お金をくれなければ、「やい、こいつめ! お前の度量はこれくらいか」と気合いを入れて、「我々のような通りすがりの人を援助してあげると、いいことがあるものだ」と言うのです。それで、私がファンダレイジングの先祖です。


援助してくれた故郷の友達

 釜山の道は、一方にだけに通じた道です。韓国全土の人に、みな会うことができます。一つしかない道なので、一週間も行ったり来たりすれば、みな会うのです。そう、釜山に来て寂しいので、その一つしかない道を歩いていたところ故郷の友達に会いました。

 その名前も忘れません。私の村から遠い所にいて私を知っている人ですが、私に会って、その時のお金で一万ウォンをくれたことが思い出されます。

 それで、私は、「これを何百倍にして返してあげよう、私がいつの日か何百倍、何千倍にもして返してあげよう」と、そのように固く思っていたのに、その何年かのち、その人の妻が、この統一教会を訪ねてきました。訪ねてきて、「いつだか、私たちが文先生をこれくらい援助してあげたのだから、今は私たちを助けてくれるべきでしょう」と言うのです。私はそれを聞いてとても気分が悪かったのです。

 私は、お前たちの息子、娘が食べていけるようにしてあげよう、厚徳をもって報いてあげようという心情で天の前に祈祷し、会うことを願っていたのに、このように妖しげに現れるのかというのです。どんなに気分が悪かったか知れません。

 「その時、一万ウォンもらったから、その利子を計算してすぐにあげて追い出してしまえ」と言いました。「一年でいくらずつの高い利子で計算して払ってあげろ」と言ったのです。私がずっと懐かしく思い出しながら、善良であると褒めたたえていたその基準が、避難時代において一番刺激的な、生涯において記念することができるその目印が、すべてくじかれてしまい、どんなに気分が悪かったか知れないのです。


埠頭労働と草野潜伏

 釜山に下ってくると、そこは黒山の人だかりになっていました。穴のある所はすべて人が入って占められており、どこでも住めるようなところは、軒先まですべて満員なのです。ですからどうしますか。夜は夜の仕事に出て、昼寝るのです。そこで足をどんどんと踏みならしながら、夜に震えた思い出が今も遠くかすかに思い出されます。そのような時でも先生は、「天の父よ心配しないでください。嘆息されながら歩んで行かれた父のみ跡を喜びと希望で、つなぐことができる私になります」と、祈りました。

 夜には出ていってお金を稼ぎ、昼は十時から二時まで寝るのです。その時は日なたの所に行って、雉みたいに場所をとって入って行き、寝ればいいのです。寝て起きて、服をさっと着た時には、金サッカ(注:朝鮮王朝末期の放浪詩人)の歌が思い出されるのです。

 先生は自然的な人です。そのような心をもちながら、庭に行っても庭で寝て、岩に座ってもそこで寝るというような生活を、本当にたくさんしたのです。なぜそうなのでしょうか。私が岩に座っていて、去ろうとすれば、岩が悲しむのが分かるのです。そこで寝ればそれが岩ではないのです。自分の家よりも貴いのです。

 昼は山に登って林の中に寝床を定めて寝たり、一人の時間をもったりもしました。先生は、そのようなことを好んでしました。夜、再び仕事場に行けば、先生は旋風的な姿になりました。すべての人々が、私の周囲に集まりました。先生が興味深い話をしてあげれば、彼らは食べ物を持ってきて、分けて食べるのです。

 それゆえに、皆さんが雪の降る日、あるいはみぞれの降る日に、道端にいる労働者の、その物悲しく哀れな身の上を見るようになれば、その人が先生であることを連想しなければならないのです。「私たちのお父様が、あんな仕事をされた!」というようにです。先生が軒下で夜を明かしたことが、どんなに多かったか知らなければなりません。


あずき粥売りのおばさん

 私が避難してきて、ここ草梁の釜山鎮四埠頭に仕事をしに通ったこと、それからあずき粥を売るおぱさんたち、それから蒸し餅を売るおばさんたちのことが思い出されます。

 仕事をして、お金をもらってくるのですが、どこに行っても寒いのです。ですから、あずき粥を売るおばさんのところに行くのです。草梁駅に行くと、あずき粥の商売をするおばさんたちがたくさんいます。ぽろ布団でくるんで、おけが冷めないようにして来て売りますが、そのあずき粥のおけを抱き抱えるのです。そうしたからと言って、そのおばさんが何か言うのではありません。

 三十分も話せば、「あずき粥を食べなさい」と言うのです。そして、あずき粥売りのおばさんのところに三日か一週間も行けば、あずき粥を売ったお金を、私に任せるようになるのです。

 最近も、それを食べたい時があるのです。その時、どんなにそれがおいしかったことか、その当時は誰もが飢えていたから、世の中で一番おいしい物でした。その垢だらけのおばさん、ただ粥を売るために回生懸命なそのおばさんの顔と姿が懐かしく、その手でよそってくれたお粥がどんなにおいしかったことか、今も忘れられません。そのころ、避難していたころは、防空壕に行って寝たりしました。避難時代に家がありますか。あの山の尾根に登っていき、オーバーを掛けて寝たのが、きのうのことのようです。その時、そのおばさんの家は、小さな家でした。夫と子供たちと住んでいましたが、子供たちを見れば、かわいそうで、わびしくて、そのような環境でしたが、そこに足でも一つ入れて住んだならば、それがどれほど誇りですか。そう、粥を移し換えて釜の底に残ったお焦げでももらっておいしく食べたことが、どんなに思い出されることでしょうか。そのようなこともあったのです。


生活体験と原理原本執筆開始(一九五一・五・一一)

 数人の食口を中心として、死線を越え韓国の地に一九五一年に下ってきて、原理原本を作ったのです。

 草梁に労務者収容所があって、そこの小さな部屋で私が原理原本を書いたのが思い出されるのです。これくらいの部屋で、まっすぐに横になることができません。それゆえ、「く」の字になって横にならなければならないのですが、「く」の字で横になっても壁に足がつきます。そのような部屋で過ごしたのがつい先日のことのようなのに、歳月のたつのは早いものです。

 その期間において、人間として自立して生きるために、経済的問題だとか様々な解決すべきことを自ら解決しなければならないので、あらゆることをしたのです。先生は臨機応変だというのです。臨機応変にその環境に適応できる素質を多くもっているのです。自然に備わった素質よりも、訓練させた素質なのです。自分を訓練して、どんな環境であっても自立できる主体者にならなくては、このような途方もなく大きなみ旨を成就させることができないのです。

 私は、この聖なる人生行路、男児一言(男児一言重千金:男子の一言は千金のごとし)の行路において、人が行くことができなかったそのような曲折の路程を行くことができる、一つの記録を残すという、人間哲学をもっているのです。人生哲学ではありません。人間哲学だから、生活と、すべてのごみの穴も全部掘るのです。生活分野の特別なそのような面で、曲折のすべてのことを解決していく、それはどんなにすてきなことでしょうか。


韓国に避難してきた避難民たちの哀歓

 釜山に来ると、私はいつもチャガルチ市場のことを考えます。避難時代に、そのわびしい時代に、その界隈に何度も通いました。その当時に避難してきて、釜山に集まった人々の願いが何だったでしょうか。故郷に遣ることを願わなかった人がいたでしょうか。

 何の基盤もなくて、基盤をもっている南側の人々のところに来て、そこにくっつきながら自分たちの生計のための基盤を築くには、南側に住んでいるどんな人より困難な立場に身を置かなければいけないのです。それが避難民の生活です。そのようにして、定着しなければならないのです。先生も一人の避難民として、避難生活をしました。その過程の曲折というのは本当に悲惨なのです。どのくらい悲惨か。それは基盤をもったどんな労働者よりも、監獄に入っている人よりも悲惨なのです。

 しかも故郷を離れ、故郷に帰ることができず、その後孫たちの前に故郷を見せてあげることができず、故郷を紹介できない立場に立ったならば、それがどんなに悲惨かというのです。それゆえに北韓から来た人々がこちらに来て経済的基盤ももちましたが、自分が北韓の地の故郷に帰る時には、敗者ではなく勝者のように、成功した人のように、権威を身につけて登場したいのです。

 そうして、故郷に帰って自分の威信を立て、すべての精誠を込めた価値あるものを、その故郷の地に植えることができ、残すことができるならば、避難暮らしの過程がどんなに困難であっても、構うことなく、ひたすらその日を望んで生きているのが、避難してきた同胞たちの事情であることを知らなければなりません。


二 ポムネッコルの土壁の家から再出発準備
     (一九五一・八〜一九五三・一)

土壁の家の建築(一九五一・八)
      釜山市東区凡四洞一五一三番地


 韓国の地でも釜山凡一洞、そこに、それこそ穴を掘って家を建て、一人で第二の出発を準備しました。

 そこは共同墓地の近くで、石だらけの谷のほかには、何もありませんでした。そのような所に、先生は豚小屋のような仮設の建物を建てました。

 凡一洞の谷に、私が荷おけをかついで砂利石を運び、土をこねて家を建てた思い出は歳月が過ぎても、なお鮮やかによみがえるのです。

 釜山で一番外れでした。家を建てるにはシャベルが必要でしょう。シャベルを借りようとしても、相手が貸してくれなければならないでしょう。「避難民たちは金になるものは全部売ってしまうので貸してあげない」というのです。そしてシャベルがあっても貸してくれないのです、台所に持っていって隠してしまうのです。それで、仕方なく十能(注:炭火を盛って運ぶ道具)でしたのです。

 それが、これくらいのものですが、ここがこのように割れて落ちて、ここは取れてしまったのです。そのようなものを使ってしたのです。本来は、つるはしが必要でしょう。しかし、そのようなもの(十能)を使って凡一洞の地をならしたのです。また、れんがを作る機械が必要でしょう。それで米軍の部隊に行くと配給箱があるでしょう。それを持ってきて開いて広げて、土を入れるのです。土がとてもたくさん要るのです。これくらいの土を持ってきて、こねてみてもひと塊にしかなりません。

 誰が土地をくれますか。ですから山すその急斜面を削って、そこを横に切り開いて、土地をつくるのです。雨が降れば、その部屋から泉がわき出ます。ですから、地面を一尺くらい掘って、石を持ってきて水門をつくるのです。水門をつくって、その次に、その上にオンドルを敷きました。そのオンドルの下は水が流れるのです。そのような有名な家です。

 壁と屋根を泥と岩で建てたとてもみすぼらしい住居でした。先生には家を建てるほどの土地が一坪もありませんでした。山すその急斜面に小屋のようなものを建てたのです。使い古しの箱で臨時の屋根を作りました


懐かしい一間の部屋

 小さな部屋でも、そのような小さな部屋はないでしょう。岩の所に家だといって、造っておいたのです。入ってみれば岩が一つあって、それから小さなテーブルが一つあって、それから絵を描くカンバス、その二種類しかないのです。それがなんの宝物ですか。それは悲惨なものです。

 けれども、その中で寝る時も、この地上のいかなる宮中で栄光を享受して生きる人よりも、神様の息子として孝行ができる、一番の道を歩んでいました。そして、誰もまねることのできない、深い内心の基準に到達することが願いでした。

 私は、いくら軒下や穴ぐらの家にいたとしても、「私が神様に侍るのに、まだ精誠が足りない」と考えました。

 また、立冬の季節が訪れてくると、不便なことがたくさんあります。雨が降るし、風は吹くし、風邪ぎみにはなるし、冷たい部屋で鼻水がずるずる出るし、果たすべき責任はたくさんあるし、腹は減るし、着る物はないのです。その時が、一番不便な時なのです。しかし、その時に希望を失うなというのです。この道は、私たちの師が歩んだ道であり、先生がみ旨をつかんで行く道なので、皆さんも、心情の一致点をそのような基準で探し求めていかなければならないのです。

 ある時は、部屋一間がどんなに慕わしかったことか知れません。先生は世界の誰よりも部屋一間を慕わしく思った人なのです。「ほとんど倒れかけの納屋のような部屋の一間であっても、誰より愛することができる部屋として、王宮以上の貴い部屋として私が住むのだ」と思いながら、慕わしく思った人なのです。また、とても小さな土地一かけらでも慕わしく思ったのです。「神様が選んだ私の地で、私は精誠を込めよう。サタン世界の地で精誠を込めるのは嫌だ」と思ったのです。それで、どんなに精誠を込めたか知れません。


土壁の家時代の身なり

 その時まで、そのぼろぼろの服を四ヵ月の間そのまま着ていました。洗濯する所がなかったからです。その時は、しがない存在の中でも一番貧しい存在でした。ズボンは韓服のズボンでした。それは綿を入れてないあわせズボンですが、それさえも大事に着ようとして内側の布と外側の布を別々にして、青く染めて着ました。上は米軍の作業服である青い服を着て、靴は運動靴をはいていました。その運動靴は日本人が持ってきたものです。そのように三カ国の服を着て歩いたのです。そのようにして歩きながらも、「これはみな蕩減復帰だ。蕩減復帰しようとするからアメリカのぽろ服、韓国のぽろ服、日本のぽろ靴を着て歩く」と思いました。それがどれほどかっこいいですか。そのように着て歩きながらも、恥ずかしがるとか、そのようなことはなかったのです。

 その当時は、先生は外見的に見るとなんでもありませんでした。一銭の価値もない人間のようでした。ひげがぽうぽうと生えて、顔は黒くなり放題に黒くなって、服装は東洋服と西洋服を混ぜて着ていました。しかしそのような話は、今日、すごい力を発揮します。大砲よりも原子爆弾よりもその力が強いです。


釜山港を眺めながら

 そう、凡一洞で、私は山に登って祈祷をしましたが、サタンののど首をつかんで、腹を刃物で刺して戦う、このような立場に立ち、霊的に多くの激闘をしました。「この戦いでお前たちが勝てない限り、お前たちはいつか、屈服する日が来るだろう」と言いながら戦ったのです。このようにして出発したのです。

 どうしようもなく哀れなその立場で、血を流し、涙を流し、汗を流しました。その悲痛な歴史的時代に、民族理念が行く場のない恨みのその限界線で、太平洋の海に入るか、入らないか。その防波堤になるという立場で、民族を代表して祈祷するという心情をもって、一人その孤独な道を開拓したという事実があります。

 その多くの船が入ってきて、「ボーッ、私を見上げろ!」と言いながら煙を吐くのを見る時、「私も私の手であのような船を造って、釜山港に還故郷する、錦衣還郷(故郷に錦を飾ること)できる時が来るはずだ」と祈祷したことがきのうのことのようです。

 そのようにして座って、「あの大海を渡り、私が心から期待した心情の因縁をあの国に行って、種を蒔いておかなければならない」と考えました。釜山の海を眺めながら、そのような祈祷をしたのです。

 神様は、いたずらがとても好きな方です。「おい、お前、見ろ。今後世界がこのようになるのだ」と言われながら、大きい商船、天の商船に私を乗せて、数多くの群衆が歓呼するのを見せてくださりながら慰労されたのです。

 釜山のポムネッコル聖地で、先生が岩をつかんで悲痛に祈祷した心情を知らなければなりません。その時、武器を運ぶ貨物船で満杯になった釜山港を眺めながら、どんな祈祷をしたのか分かりますか・それを知らなければなりません゜それがすべて成し遂げられたので判゜


戦時状況を感知

 この凡一洞で起居したことがきのうのことのようですが、その時にしても、六・二五事変が続いていた時です。一九五三年に休戦協定が成されたのです。その時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が列を作って、この港にいっぱい入ってきました。毎朝起きると、先生はそれを数えるのを趣味にしたのです。一、二、三、四……。普通五十隻で、ある時は百隻を超えることもあったのです。そのような時、戦時状況がどのようになるかということを知ることができました。軍需物資を補給する船の数が多くなったのを見る時、「ああ、この戦争は熾烈になるなあ」と考え、船が少なくなると「ああ、この戦争もまあまあどうにかこうにかなるだろう」と考えました。そのようにしたことが、きのうのことのようです。


原理原本の執筆と弟子に対する精誠

 金元弼が、「自分がお金を稼いで来ます」と言うので、先生は「そうか」と言いました。その当時、私は原理原本を書いていたのですが、同志がどんなに貴く、従う一人の人がどんなに貴かったか知れません。それゆえ、金元弼が会社に出かける時は、約一キロメートル以上、必ずついていったりしたのですが、そうすれば気持ちが楽になるのです。また、夕方になり、帰ってくる時分になれば必ず迎えに出たのですが、その会う時の気分は到底言葉では言い尽くせません。

 心情的な基準が問題なのです。心情は恋しさが途切れないのです。先生は金元弼を連れてポムネッコルで生活した時が良かったと思っています。その時が良い時であったのです。

 私がその時、原理原本の草稿を書く時だったのです。それゆえ、その時のその印象は今も忘れません。その金元弼が先生に対して有り難くしてくれたこと、避難してきて孤独で悲しくて、共に月を眺めながら暮らしたこと、その時の印象は除き去ることができないほどに残っているのです。その時、金元弼が会社に行って家に帰ってくることが、自分の恋人が訪ねてくることよりも、もっと楽しかったのです。

 「お前、ちょっと家で休んでいなさい」と言っても、「え! 私は嫌です」と言って、先生にだけつき従ったのです。先生が便所に行き三十分も座っていれば、便所の戸をたたくのです。便所に行って居眠りすることが多かったの」です(笑い)。それだけ心情的に近くなっていたのです。それゆえに、避難してくる時も、自分の母親と家を全部捨てて出てきたのです。「そこにいなさい」と言っても、すべてほうり投げて、先生に従ってきたのです。


米軍たちの肖像画を描く副業

 私が凡一洞で住んでいた家、テーブルはこのくらいで、悲惨なものでした。

 そこで、米軍部隊の兵士たちのために肖像画を描きましいるのです。普通の人でも、専門家の三倍努力すれば、ついていくことができるのです。彼らは早くしますが、私は精誠を込めてゆっくりするのです。

 私は昔、大工仕事しているのを見たことがあるので、見よう見まねでもってするのです。すぐに分かるのです。最初の日に行って、全部するのです。

 建築現場に出掛ければ、家を建て方がどうなっているか、一遍に全部分かるのです。教わってするのではありません。原則を明らかにしてすれば、すべてが通じるようになっているのです。


食□を待つ恋しさ

 先生が釜山の凡一洞で神様と因縁をもった食口たちを恋しく思った時、先生はあらゆる精誠を尽くしながら彼らを待っていました。霊的に見れば、彼らは来るのですが、実際には近くに来てはいませんでした。ですから、時が来るのを待つしかありませんでした。

 すべての人は神様の愛を中心として、その行くべき道を探すのです。しかし、ある期間、仕切りが崩れなかったのです。それが崩れ始めれば、道が開けるのです。そのように、ある蕩減期間が存在するのです。個人の蕩減期間があり、村の蕩減期間があります。

 その時がまだ来ていないがゆえに、待つ時だというのです。白紙一枚で遮られていました。「先生! 先生! お父様! お父様!」と叫ぶ喚声が聞こえるのです。数多くの群衆が叫ぶ声が聞こえるのです。これくらいの穴だけ開けておけば、どっと噴き出てくるようなのに、そこが幕で遮られているのです。それが一年、二年と、年が過ぎればだんだん近づいて来るのです。そのような時、神様が愛することができる息子や娘に会いたいと思う気持ちはどれほどでしょうか。朝起きてちらっと遠くの山を眺めれば、数多くの群衆が行列をなして来るように見えるのです。

 朝、山に登れば夕方まで、昼食を忘れて待つのです。神様が六千年間、失ってしまった堕落した人間を待つ、その心情的体恤が必要なのです。夕暮れになれば「来ないか」、朝になれば、鶏が鳴く前に「来ないか」と、寝ても覚めても忘れられない心情にならなければならないのです。

 今日、皆さんが「先生が恋しい」というのは、そのような動機の起源が天上世界に基盤として残っているからです。皆さんは知りませんが、この三千里半島(韓半島)に、この運気の中にそうした基盤が残っているためです。そして、その運気圏内で生きている人は、先生に会いたがり、先生のことが我知らず思い起こされるのです。思うまいとしても、ふと思い出されるのは、すべてそのような動機の起源を蒔いておいたためなのです。


過去の食□収拾

 南韓の地に再び戻ってきた時、先生を恨んで背いたその群には、まだ天の悲しい歴史の事情が残っているために、その事情を分かち合おうと訪ねていきました。

 ある家を訪ねて、入っていくと、母と娘が二人々先生の目の前で「その道を行くなと止めたのに、行ったので、結局は乞食のようになって訪ねてきた」と、お互い目配せをしながら、せせら笑いました。先生がその家を訪ねていったのは、御飯が欲しくて訪ねていったのではなく、天的な因縁を中心として、共に涙を流し、共に事情を分かち合った天の因縁があったからです。そして、「その因縁を神聖に蒔いたので、蒔いた物は神聖に刈り入れなければならない」という心情で訪ねていったのです。

 また先生には、何よりも忘れられなかった同志がいました。その人は事業を始めて会社を設立し、ソウルで名が知られるようになりました。先生は一週間顔も洗わず、歯も磨いていない惨めな乞食の姿をして、その家に訪ねていきました。その人が先生をどうもてなすか見てみようというのでした。彼もやはり先生に背きました。

 先生はあれこれ、あらゆる曲折の路程を経ながら、まず同志たちを探して回ったのです。他の人であれば、再び南韓の地に訪ねてくれば、妻子を先に探していくのが人情の常でしょうが、先生は同志から探していったのです。近い同志から探し始めて遠い同志まで、また北韓から先生に従ってきた食口をはじめとして、先生と因縁をもった同志たちを探すのに、二年かかりました。この池承道ハルモニはそのことを知っています。彼らをみな探し出したのちに初めて、探しに探して彼らにみな会ったのちに初めて、家に連絡をしました。天はそのように訪ねて来るのです。

 残った人は金元弼、池承道ハルモニ、玉世賢ハルモニです。李奇完氏のような人は南韓にいる時、昔から知っている人です。その人々を中心として、南韓に来て、凡一洞から教会を出発したのです。その時は、すべてが反対です。すべてが反対したことを北韓から南韓まで蕩減条件を立てながら世界的基準まで蕩減できる基盤を築いてきたのです。


『原理原本』脱稿と伝道の開拓(一九五二・五・一〇)

 皆さん、村に原理の本を持って行く時には、過度なくらいに大事にして持って行かなければいけません。仮にこの本が一冊しかないと考えてみてください。ですから、先生がこの本の原稿を起草する時、その原稿の管理をどんなに深刻にしたことか、考えてみてください。もし、それがなくなって、私が死ねばどうなりますか。世界が行ったり来たりするのです。皆さん、そのようなことを考えてみましたか。

 一人で、私が『原理原本』を書いたものを蒔く時、これが世界の霊的な糧となり、万民があがめ奉ることができる原理のみ言であると、誰が知っていたでしょうか。

 先生が最初、釜山でみ旨の道を出発する時、他の人たちとその姿は同じでしたが、内的には大きく異なっていました。

 たとえ、服はぽろぽろで、御飯に飢える境遇ではありましたが、思いだけは「この世界を征服して天の国を必ず成し遂げるのだ」と思って、そうできると、大きなことをどんどん言いました。

 一番最初は、凡一洞に家を建てて、三人で集まり、伝道したり、祈祷したりしました。当時、彼らと話をする時、先生は三人の人を置いて話すとは考えませんでした。「今この人々に話をするが、本当は数億のキリスト教徒と、人類に向かって話をしているのだ」と考えました。

 その洞内に井戸がありましたが、そこに水をくみに来た人々が、「あの家では争いがないと思っていたのに、近ごろはけんかをしている」と、うわさをするのです。その身なりを見ればどうしようもない格好をしており、お化けが出てくるような家に住んでいるのですが、「世界を一手に掌握し、天と地がひっくり返り、韓国が一遍に世界をすべて統一する」という途方もない話をするから、うわさが立ったのです。

 「あの家に行ってみたら、井戸では無口だったあの人が、ものすごかったよ」といううわさが立ち、人々がひっきりなしに集まってくるではありませんか。ある時は、どこかの神学校に通っている人たちが来て、「歴史上に、あなたよりも立派な人がたくさん来て、統一世界を夢見たのに、みな果たすことができなかった。ところが、あなたが統一するですって?」と言うのです。その時、私が話をしながら、よく考えても、本当にわびしかったのです(笑い)。水が流れるように溝を掘り、その上に家を建てたので、オンドルの下ではチョロチョロと水の流れる音がするのですが、そのような家に座って、そのような途方もない話をするので、誰が信じるのかというのです。

 そのころ、「あの山頂にいる美男子は惜しい人だが、狂ってばかになっていく」と、そのようなうわさが立ちました。それでも私が美男子のように見えたみたいです。それで私を見物しに来ようとする人までいたのです。「ある美男子が修道している途中で狂ってしまったそうだが、あの入らしい!」と見にきたのです。


姜賢實伝道師入教

 さて、そのように夢をもって辛抱してことをなす人がいるので、神様が御覧になる時、どんなに同情されることでしょうか。それで「おいこら、お前、レバレンド・ムーンを訪ねていけ!」と、すべての天側に属している人を呼び出し、命令を下して訪ねてこさせるのです。このようなことを見れば、神様は私のことが好きなようです。そのように命令され、人を送るのです。それゆえ、現実は厳しくても、未来の夢をもって、現実を未来のことと思って生きている人は、天の人となります。「神様が記憶する人となる」ということを知るべきなのです。

 この姜賢實が、初めてポムネッコルに訪ねてきた時もそうでした。山に登っていけば、失ってしまった子を恋しがる心があるでしょう。塀を心情で壊したのです。堕落の心情でふさがってしまったものを、天の心情で壊したのです。ですから追い込まれて、入ってくるのです。

 そうして、姜賢實伝道師が入ってきたのです。そのようにして、一人、二人と、み旨に合う人を天が送ってくれ、再び糾合しました。

 姜賢實という、凡一洞の天幕教会の伝道師として責任を負っていた人が、あの山の谷(その当時「凡一洞の山の谷」といえば、その上には寺しかなかったのですが)の、一番外れの家におかしな青年がいるといううわさを聞いて、「伝道しよう」といって訪ねてきたのです。訪ねて来たときの私の格好といえば、このように三層の服を着ていたのです。その時のことがきのうのことのようです。それでその時、み言を話したのですが、神様が役事して毎日毎日訪ねてくるようになったのです。そうこうするうちに、その教会を捨てて、統一教会を信じる決心をしました。

 そのように霊界で伝道するのです。それゆえ、行こうとして足がくっついて行けなくなれば、霊界が働くのです。そのような伝道をしました。統一教会の起源がそうなのです。聖書以上の内容があります。あらゆる奇跡や不思議な道を通って来たのです。


聖進様母子との再会

 私が南韓に来た時、聖進と聖進の母親がどのように暮らしているのかすべて知っていたのです。どこに行けば必ず会える、ということも分かっていましたが、行かなかったのです。私が会うべき人、神様の前に誓い約束した何人かの人に会う時までは、待たなければならないのです。そして、その人々に会うや否や、連絡をしたのです。連絡をすると、すぐに来ました。

 この世的に見れば、私が夫だというのに、子供が七歳になって初めて会ったのです。その時は、食口たちと共に暮らしていた時でした。おばあさんたちを連れていた時でした。ところで、私の息子が来たと私が喜んで迎えては、条件に引っ掛かるのです。アベルはカインを通して紹介してもらい、愛さなければなりません。カインが「そうか! あなたが聖進君か」といって「先生、聖進君が帰ってきました」と抱いて、愛の表示で一つになって迎えなければならないのです。それが原理の法度です。

 聖進と聖進の母親が私のところに来た時、先生は「この子が聖進か」とだけ言って終わりました。そのことが、聖進の母親には一生の間恨みになっているのです。「入ってください」という言葉は、食口たちが言わなければならないのです。私は原理的に生きようと、そのように、今までありとあらゆる悲惨な境地をすべて経験したのです。

 今まで聖進の母親は、先生を「ああ! 木石のように人情を解さない人だ」と言います。それは事実です。み旨を知らないから、そう考えるのです。

 その母親が私に対して、「その間、どんなに苦労をされましたか。人が理解しないこの道、追われる道、み旨のための受難の道を行くのに、どれほど大変だったことでしょうか。その間、私にとって苦労は苦労ではありませんでした。私を迫害する人も多く、妨げる人もたくさんいたのですが、死なずに、追い出されずに生きてこれたので、感謝するだけです」と、そのようにまずあいさつをしたのちに、その母親の口から息子に、「私が教えてあげた、立派なお父さんです。ごあいさつしなさい」と言える妻を願ったのです。そうすることができる息子の姿を願ったのです。

 それを見れば、先生は父母として哀れな人でしょう。夫としては悪い夫でしょう。

 天道が食い違った位置で、神様が悲しむその位置で、子供がいれば何をして、妻がいればどうするというのですか!


反対と迫害の高まり

 ここ、釜山の凡一洞は、語り尽くせないほどの迫害を受けながら、み旨の道を出発した場所なので、恨めしく思えば、恨めしくもある所です。

 私が凡一洞で、どれほど悪口を言われたか知れません。凡一洞といえば、皆さんは何か喜ばしい所だと思っているかもしれませんが、先生にとっては先生の頭の中に、みな記憶できないほどに反対を受けた忘れられない場所です。うれしくて忘れられないのではないのです。

 既成教会が反対するので、聖進の母親が反対するようになっていくのです。その時の話をすれば、歴史になかった迫害を受けたのです。それで私は、口をつぐんでじっと黙っていたのです。会ってから一年にしかなっていません。しかし、原理どおりになるのです。そして、ありとあらゆることをしたのです。「殺してしまわなければならない人だ」とか、ありとあらゆるうわさを流したのです。また、「み旨であれ何であれ、私があなたを一番愛しているし、あなたが仕事をしなくても私が全部食べさせてあげる」と言うのです。

 また、先に入ってきたおばあさんたちに、「あのおばあさんたちが私の夫を奪った」と言いながら、おばあさんたちを殴りつけたり、ありとあらゆることをしました。女性の食口たちが来ると、胸ぐらをつかんで「この娘たち、なぜ来た?」と言うのです。そうすればするほど、反対に、その女性たちが、「このきつねのような女。私があなたの夫を擁護してあげなければいけない」、というようになるのです。

 ところで、聖進の母親が盛んに反対する時、聖進は七歳だったのですが、母親を捨てて父を訪ねてきました。母親が、それこそ金よ玉よと愛しながら、七歳の時までおぶって育てたのに、そんな母親を捨てて、自分のために何もしてくれない父を訪ねてきたのです。そして、母親が反対すれば、前もって全部、来て知らせてくれるのです。

 私がそのような聖進に済まなく思っていることは、その子に一度も教育してあげられなかったことです。「原理はこうだ」と、一度も教育してあげられなかったのです。


三 水晶洞の受難と伝道拡散(一九五三・一〜九∴七)

南韓の生活適応の三年期間(一九五一〜一九五三)

 私が避難暮らしをしていた時のことです。北韓で監獄暮らして南韓に下ってきてみると、あらゆる物がなじみませんでした。その環境を詳しく調べることだけで、三年以上かかったのです。三年以上たつと、その環境が自然に感じられるようになりました。三年以上かかって、ようやく普通になったのです。それを思うとき、イエス様も三年の公生涯路程が、絶対必要な期間であったと感じるようになりました。人間世界と天の世界は、伝統と習慣が違うので、それが慣れるためには三年が必要なので割に

 そのように、北韓に行き、何年間かそこにとどまったのち、再び南韓に戻ってきてから、北韓のすべての感情を解消するのに、少なくとも三年以上はかかるのです。そのように感じたのです。そのような観点から見る時、私たちの習慣性がどんなに信仰生活に妨害になり、それによって信仰の道がどんなに歪曲されてしまうか知れないということを、私たちは知るべきです。


頻繁な引っ越しと身を隠すこと(一九五三・一〜二〜三〜一一)

 先生は、皆さんが先生よりも、もっと立派であることを願っています。皆さんが、先生の立派でない点を習ったとすれば、それは何ですか。逃げ回ることでしょう。先生は今まで、避難をたくさんしてきました。イエス様もそうでした。

 先生は御飯もたくさんもらってたべました。しかし、ひもじいなかで一晩寝るような時にも、腹が減ったとは考えません。「きょう精誠を尽くし、祈祷する時間になった」と祈祷します。「腹が減った」と言う人は、絶対天が助けてくれないのです。

 「この村に来たので、この村の人のために福を祈ってあげよう」といって、夜寝ないで祈祷すれば、その家の霊が発動して、「なにがしの家にこのようなお客様がいるから、ごちそうをこしらえて、何時にお招きしろ!」と命令が下ります。そのようなことを知っていますか。それで先生は、御飯もたくさんもらって食べ、お金もたくさんもらって使いました。ですから神様を信じて生きる人は、洪吉童(注:小説の主人公)おじいさんでしょう? どのように生活しているのか分からないように生きるのです。


食口伝道と神霊集団訪問指導

 私は、韓国の神霊集団の中で、訪ねていかなかった所がありません。さらに神霊に通じるという女性たち、姜賢實もその中の一人でしょう。その人たちを通して、男性を訪問させたのです。寺にいる人々を呼んでおいて、全部尋ねてみるのです。会って話をする時にも、私が精誠を尽くして対しているのに、彼らが悪党の心をもって異端として対したのちには、彼らがもっている福を私が根こそぎ取り込むのです「そうして、アダム・エバ自体を再び作り出すことができる天的な基盤を天下に広げておいたのです。そのためには八十名以上の人々に対して、彼らを呼び集めなければならなかったのです。

 霊界を通して因縁を結んで出会った食口たちが、みんな急ぎ足で、その時一人で住んでいた先生を訪ねてきたことが、きのうのことのような気がします。そのような食口たち中には既に霊界に行った人も何人かいます。一人で始めて、何人かの食口を集めて動きながら、全国で最も神霊に通じる人々を訪問させました。その中に、大邱に伝道に行かせた姜賢實伝道師がいたのです。


大邱開拓伝道派遣(一九五三・七・二〇:姜賢實、八月中旬:李耀翰)

 当時の例を挙げてみれば、その時、あの高神派に通う激烈分子の婦人伝道師が統一教会に鞍替えしたと言って、高神派の韓尚東を中心として、その一派が一丸となって、「文なにがしというのは狼の群れだ、異端だ」と大騒ぎしたのです。

 そのような時、大邱は韓国のエルサレムだという地域なので、姜賢實を大邱の伝道に送りました。その時、何も持たせずに送り出したのです。旅費も与えず、「どのようにしようが、行って伝道しなさい」と送り出したのです。

 ですから、霊界がたくさん役事しました。霊界でコーチして、会うべき人に会うようにしながら、大邱教会の出発がなされたのです。そのような事情があります。

 本来、伝道に送り出す時は、お金のようなものはすべて取り上げて送らなければならないのです。お金を信じていくのではないのです。お金があればお金を信じるのです。お金よりも神様を信ぜよというのです。イエス様が弟子たちに「お金を持っていくな」と言われたことが、そのまま現在にも適用され、神様が生きておられ、そのような人々が行く道を保護されるのを、間違いなく皆さんも体験するはずです。

 それで、お金を持って行くなら、「私が使うお金でなく、届けるお金である」と考えなさい。「人々にあげるために持っていく」と、考えなければならないのです。そうすれば、必ず皆さんの行く道は祝福を受けるであろうと考えるのです。

 李耀翰牧師! 今でも李牧師が訪ねていかなければなりません。牧師たちを訪ねていって、彼らを消化して、私をお兄さんのように侍って、従ってくるようにしなければいけません。復帰の道はそのようになるのです。

 李牧師は何歳ですか。み言を語っていれば、すべてが恩恵で満たされるから力が出るのです。愛を与えるのに忙しく、愛を受けるのに、感じるのに忙しければ老けないのです。


韓国動乱の休戦(一九五三・七・二三)

 韓半島の休戦ラインは、共産独裁体制と自由民主体制が対立し、悪側の左翼と善側の右翼が対決しているのであり、唯物論と唯心論が、無神論と有神論がぶつかり合っている対峙線なのです。韓半島は世界の縮小型であり、世界は韓半島の拡大型です。また旧約時代のヘブライズムの流れを受け継いだキリスト教文明と、ヘレニズムの流れを継承した共産主義文明が、この休戦ラインで対峙しているのです。十字架上の善側と悪側の対立で象徴される、現実のすべての対立と闘争の状況は、韓半島の休戦ラインがそのまま集約的に表現しています。

 この民族が、このようになったのは誰のせいですか。三十八度線が解決されていないではないですか。トルーマンがマッカーサーの話を聞かなかったことにより、一九五三年七月に終わってしまいました。一人の人の誤ちで歴史がこのようになることを誰が知っていたでしょうか。しかし、知る人は知っているのです。このような恨の多い事情を知っている人は血が沸くのです。

 私は休戦に反対していました。私が李承晩博士の立場ならば、絶対に休戦しなかったはずです。どんなことをしてでも休戦をしません。仮に休戦しても、また北伐しようという主義です。李博士が大きく出ながら、なぜ譲歩をしたのか分かりません。そこにおいて後退するようにはなっていなかったのです。後退しても、「南韓各地の破壊されたものを復旧してくれ」とでも言わなければならなかったのです。

 南北の悲運は世界史的な悲運です。したがって、韓国とアメリカが責任を果たすことができないことによって、アメリカ自体の墜落、イギリス自体の墜落、民主世界の墜落が起こったのです。


四 釜山ポムネッコル聖地

釜山凡一洞

 釜山と言えば釜のてっぺんではなく、釜の底だと考えるのです。なぜ釜山の港が良いのかといえば、深いためです。釜の底で火をたいてこそ運が開くのです。それゆえ、釜山は火がついてこそ発展するのです。

 チャガルチ市場が何度も火事になったので、市場が良くなったのです。一度火事になれば、少し良くなって、また火事になれば、もう少し良くなってきたのです。なぜかといえば、釜の底だからです。それゆえに、絶えずふいごで風を送ってこそ発展するのです。

 それで、釜山が発展するためには、火をつけなくてはなりません。分かりますか。慶尚南道が発展するためには釜山から火をつけるのです。

 釜山は釜の底であるために、私はまず、ここを訪ねてきました。釜山は八金山でしょう。そのように釜山には意味があります。凡一洞という言葉もそうです。「凡」とは何ですか。普通でないということです。

 八金山の凡一洞。釜山で一番の谷です。


凡一殿開館(一九七八・一〇・二九、日曜日)

 今日、ここ凡一洞に再び来てみると、昔の思い出が鮮やかによみがえります。ここにあるのは岩です。この岩は、凡一洞の谷に数多くある岩の中の一つです。この岩は、どこの誰も大切に思わず、仰ぎもしなかった岩でしたが、私という人と共に関係したそのような因縁によって、その岩が今から、世界的な、歴史的なものになったのです。人類歴史とともに、あるいは神様の摂理とともに、価値的内容において、一つの条件物として因縁を結んだのです。

 このようなことを考える時に、皆さんが岩の中でも、どんな岩になるかということが問題です。皆さんが見るには、なんの価値もない自分自身ですが、天の心情世界において厚い因縁を残すことができる皆さんになるならば、皆さんは歴史的な記念物になるのです。歴史だけでなく、摂理史的な記念物になるのです。皆さんは岩より価値ある人間であるために、皆さんがより価値ある記念の対象になることを、真心から祈祷しなければなりません。

 今日、凡一洞で開館記念日といって、凡一殿堂も建てたのです。

 それできょう、私はあの凡一洞にも行ってきたのですが。何、「朴判南が苦労した」と言っていましたが、私が見るには、そうでもないのです。「まあまあだったな」と称賛をして、記憶されればよいですが。

 昔は、この岩が聖地になって、あんな家をかぶせられるだろうとは夢にも思いませんでした。主人は、それよりもっと惨めな所で住んでいたのです。その岩は、毎日のように雨に打たれて、星が出れば、私がズボンを乾かしたりしたものなのに、それが今では昔の私より立派になっていたのです。


涙の岩

 人が知らないことを知っている人たちを、今後、私たち統一教会の歴史を研究する人が訪ねてくるのです。凡一洞に行けば、涙の岩があります。それは先生が祈祷した場所ですが、先生だけが知っている所があるのです。先生だけが知っている所を誰かが一言でぴたりと言い当てれば、その人の権威が立つようになるのです。

 それゆえ、木で言うならぱ、東西南北にあらゆる根がありますが、一番深い根が、全体の歴史の歩調を左右するのです。それを誰かが知って、事実として連結したすべての内容を説明するとき、その人が、歴史時代に最高の学者になるのです。

 先日も、ある人が涙の岩に行ったところ、痛哭してしまい、「ああ、聖地は一つだと思ったのに、世界に二つあるとは、釜山聖地」と言ったというのです。




2004.06.27 了
















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