真の御父母様の生涯路程 3
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統一教会創立と摂理の再出発

第一節 世界基督教統一神霊協会創立とその背景
         一九五四一五・一前後

一 釜山、大邱、ソウルを中心とした基盤構築
     (一九五三・九・一七〜一九五四・五・一)


上京後、三地城教会指導(一九五三・九・一七)

 一九五三年度から七年路程を準備し、一九六〇年から再出発をしたのです。先生は準備する七年の間、あらゆる精誠を尽くしました。草創期には我々の教会が、釜山、大邱、ソウルの三箇所にありました。この三箇所にある教会が、先生と一つにならなければならないのです。この基盤を通して、蕩減的な条件を立てていかなければならないのです。そうしてここで、イエス様の恨を解かなければならないのです。これを解かないことには、復帰がなされないのです。

 私が最初に教会を中心として出発した時には、御飯をもらって食べながら出発しました。もちろんあきれた立場でしたが、決して恥ずかしいとは思いませんでした。これが数十年の生涯の結果として現れる時、私がイエス様のみ旨を知り、そのような立場で残した思想は、必ず、今後の歴史時代において主体的な思想の使命を担うようになるはずです。これが、数多くの若者の胸に火を付ける、のろしとして立てられるはずです。

 昔、先生がお金がない時、食口に会いたくてたまりませんでした。御飯を食べても、寝ても覚めても落ち着かないのです。そうして、会うべき人たちがたくさんいる所を訪ねていくのです。愛した人を恋しがるその愛の心情をもって訪ねていくのです。行けば、既に切符を買って待っているのです。そんな話が信じられますか。「先生、きのう夢の中でこうこうこういった啓示を受けました。どこかに行かれるのでしょう」と言うのです。そのような驚くべき事実がたくさんあるのです。そのような基盤の上に、統一教会が建てられたのです。先生が貧しい時にはお金が一銭もない時がありました。


迫害が激しかった大邱
(一九五三・一二・二、初めて訪問)


 大邱といえば、統一教会の歴史において、いつも思い出すこととは何でしょうか。一番激しく反対する所だ、ということを思い出すのです。統一教会に反対することに情熱を注いだとすれば、第一となる場所が、慶尚北道の中心である大邱です。

 道を歩く時は罪人でない罪人として、できる限り裏通りのひっそりした路地だけを探して歩いたのです。人に会わないようにしなければならないのです。どこの路地でも私が現れれば、私を知らない人がいないのです。

 既成教会の人が写真を持って歩いていたので、顔さえ見れば「文なにがしが現れた」と大騒ぎしたのです。「どこどこに現れた」となれば、「その近くに家があるはずだ」と言って、その教会では毎日のようにラッパを鳴らすのです。「異端の親玉を追放しろ」と騒ぎながら、その都市全体がうなりをあげるのです。そのような状態なので、昼間歩けますか。

 大邱の人たちを一徹者だと言うでしょう。慶尚道の頑固一徹者です。一度打てば、壁が崩れても全部崩れるまでは踏ん張りながら、けってほうり投げるのです。一徹者とはそういう者です。

 この大邱が、既成教会の最も主要な分子たちの本部です。そこの第一教会の牧師といえば、統一教会に反対することにおいて、旗手です。ここにいる林勧士の娘婿ですが、世の中は本当におかしなものです。ここは自分の義理の母が通う教会なのに、それでもより過激に反対をします。そんな婿がいるのです。

 私がこの大邱の都について話そうと思えば、話したいことはいくらでもあるのです。あれこれと受難の道をかき分けて進みながら、死なずに耐えてきたのは、一片丹心の一念の願いがあったからです。その願いの基準とは何でしょうか。神様が歴史時代を通し探し求めてこられた一つの国、神様が保障することのできるその国、数多くの宗教が願うその国なのです。

 我々は礼拝堂がなくて、何度も立って礼拝をしたのです。雪の中で何度も礼拝を行ったのです。「この地め!」と呪うべきところですが、神様がヨナに命じて「ニネベの町に滅亡することを予告しろ」と言ったのに、ニネベの町が滅亡することを望んで逃げたヨナを、鯨の腹の中にほうり込んだ神様の愛を知っていたので、神様が「滅亡させてしまおう」とする時に、「父よ、もう一度我慢してください」と言える余裕満々の余力をもって、大邱の町を神の前に取り戻そうと考えたのです。私は、そのような男なのです。


一ヵ月に十三回引越しをした時

 大邱は、なぜ統一教会とそんなにも怨讐になっているのでしょうか。どこかの教会の牧師が、どうだこうだというおかげで、私は大邱見物を十分にしました。路地見物ができなかった文先生に、「この路地あの路地へと避難しながら路地の研究をしろ」と言って、大邱のキリスト教徒たちがあんなにも荒れ狂ったのだなあ、と考えるのです。

 私が大邱にいた時、一ヵ月に十三回も引っ越しをしたことがありました。引っ越しをしながら、大邱の食口たちにも先生がどこへ行くのか連絡しなかったのです。ひっきりなしに人、が集まってくるので、既成教会が反対をするのです。私がちょっとじっとしていればいいのですが、食口たちがそっとしておいてくれないのです。

 どこかに引っ越せば、「大変だ、うちの先生はどこに行ったんだ」と祈祷し、泣きわめくので、神様が大変なことになるのです。「お前、そんなに文先生に会いたいのか」と聞けば、「ええ会いたいです」と答えます。「じゃあ行こう!」と言って、鼻を引っ張って来るのです。そうして先生の部屋に来て、「あっ、ここに先生がいる」と言って、さっと入ってくるのです。そのようなことが、一度や二度ではありませんでした。道を知らないのに、自然と案内されて、導かれてくることがよくありました。

 足が訪ねてきたのです。心が先生を思っていると、足がひとりでに歩いて来たと言うのです。足がそのように行かせるのです。頭が案内するのではなく、足です。大邱には、そのような因縁の中で過ごしたお婆さんたちがたくさんいました。今はすべて過ぎ去りました。そのようなことを考えると、歴史の一ページは過ぎ、新しい歴史時代へと移行しているのだなあという気がするのです。


釜山で劉孝元氏伝道(一九五三・一二・二四、入数)

 劉協会長が立派なのは、原理をみなノートに書きながら、一冊ごとに涙を数百回流したということです。「自分は知識人として、大学で学んだ賢い人間として、真理を探求しながらも、疲れ果て、あきらめていたのだが、はからずもこのような深い世界に出会ったゆえに、涙が一滴二滴ではなく、滝のように流れ落ちる」と言うのです。「原理に接する時には、その真理の前に恍惚となり、涙なしには記録することができなかった」と言うのです。「一ページを記録するのに一週間かかった」という話を私は聞きました。だから涙をどれほど流したか分からないのです。本然の心情と通じ得るその真理のみ言は、愛を爆発させても再爆発させることができる力をもち、その作用は歴史を通してなされたのです。

 劉協会長の素晴らしい点がこれです。彼は私のみ言を聞かなくても、『原理原本』を読んで、「自分の体が永遠に天の前に捧げられる供え物になったとしても感謝します」と、自ら書面において誓いました。私が孤独だった時に、そういう人に出会ったのです。このようなことは、神様の役事でしょう。その当時の先生の心情は深刻でした。深刻であったので、神様が役事されたのです。

 劉協会長が教会に入ったのはいつですか。(一九五三年です)。劉協会長は手紙(一九五三年十二月十日、ソウルにいらっしゃる先生に差し上げた)で、弟子になりますと誓約し、先生を訪ねてきました。それはカイン世界、サタン世界から個人的なカインを屈服させ、復帰したということなのです。だから、彼を代表者として立てたのです。彼が足の不自由な身であることを神様は知っていらっしゃいましたが、彼を代表者に立てて出発したのです。


釜山影島復興会
  (一九五三・一二・二四〜一九五四・一・一八、影島区南航洞申ソンムク氏宅)


 劉孝元協会長に初めて会った時は、深刻でした。追われ追われながら釜山から大邱へ、大邱からソウルヘと三段階で上京し落ち着いたところで、出会う時は復帰なのです。影島は釜山の一番端にあります。韓半島が垂れた糞のようなものが影島です。そこで一九五三年の年末から翌年にかけて復興会を行いました。

 先生が釜山の影島で出発した時、私の一生において最も深刻な状況となったために、誰よりも同志を愛し、兄弟を愛し、国の民を愛することのできる一時となったのです。その時は、先生の全神経が集中していたし、神もやはり一人の子女を取り戻すために、家庭を立てるために、国を取り戻すために、最高の愛の心情的状態であったので、神が感じる感動と一つとなって、私は話をしたのです。

 その時の言葉は、私の言葉ではないのです。ただマイクをもって、言葉を放送するだけでした。その時は、そこに来た人、が一週間もすれば、全部霊界に入っていくのです。一週間どころか、数時間の内に霊的世界を体験する役事が起こりました。それは、地上に電波を送るのと同じです。神様の愛の電波を送るのと同じです。

 協会長がトイレに行って戻ってくるのに、五分もかかりません。「五分だけ待ってください」と言って走っていき、走って戻ってくるのです。全部用を済ませないまま出てくるのです(笑い)。私が深刻になれば、相手もそのように深刻になるのです。理屈がそうです。完全な主体があれば、完全な相対が生じるのです。その場を離れることができないようになっているのです。

 劉孝元協会長は武士道のような精神が強く、一筋道しか知らない人です。その人がそこに座り、心を奪われてしまったのです。そこにいた人たちすべてが、天の国を見てきたのです。劉孝敏のような人も、霊界を通し、みなそのようになったのです。約一週間ほど影島に滞在したのち、出てきて、あの影島の橋を渡ってくると「自動車はあんなになっていたか」と、初めてそこで見るような気がしました。そのようなことが起こるのです。何千年の間、どこかに行って帰って来たように感じられるため、自分の家に来ても「ここが私の住んでいた家なのか」と思えるのです。そのような役事してその時から発展するのです。

 天の戦法は原因が正しく、それから過程が正しいというのです。手段と方法を選ばずにするのではなく、真なる愛と真なる生命力をもってするのです。それでこそ真になるのです。


羅霊夢長老の龍門山祈祷院訪問
    (一九五四・三・二五〜二七、李耀翰牧師他七名同伴)


 先生は南韓において、何名かの食口を集めて釜山から伝道活動を始め、大邱と金泉を経てソウルに来るようになりました。ソウルに来て、落ち着くべき必要性を感じたからです。

 その時、私は羅雲夢長老の祈祷院に行ったのですが、追い出されたのです。そうこうして上京し、協会を創立したのです。

 福を与えるにおいても、私が父母の立場から、主導的役割を果たす準備ができていないのです。カイン、アベルの二人を立てて復帰してこそ、父母の立場に立つことができるのです。羅雲夢だとか朴大善だとか、みな自分たちが優れていて、そうなのだと思いますか。新しい運動が始まったというのです。彼ら二人が協力し、先生に侍らなければならないのです。原理がそうなのです。

 カインとアベル、北側と南側が連結しなければならないのです。北側はエバ型であり、南側は天使長型です。北側は鄭壽源の祖母(金聖道)と許孝彬氏であり、南側は朴東基です。それで北側が福を受けるべきところをサタンの金日成が出てきて支配するのです。今まで南側をキリスト教文化圏が支配しましたが、本来、慶尚道がキリスト教文化圏ではありません。伝統的キリスト教文化圏は北韓にすべて置いてきたのです。大邱が伝統ではないのです。本来は平壌でしょう。

 神がそのように準備した神霊的集団が、すべて私利私欲に走ったのです。原因を知らず、空想的な妄想圏の中で、自分の利益に陶酔した群れは、みな消えてしまったのです。羅長老、朴長老、彼らのために立てた教団ではないのです。そのような誤った環境であったから、先生は「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言ったイエス様と同じ運命に立ったのです。そこで統一教会は四千年の歴史を反復し、訪ね求めてこられた神様の歴史を縮めて、四十年の間、四十年前に神様が出発しようとしていたその基準に合わせる運動を先生を中心として、今までなしてきたのです。だから、行く先々に迫害があり、怨讐の矢がやまなかったのです。


二 世界基督教統一神霊協会創立(一九五四・五・一)

協会創立宣布(一九五四・五・一)

 一九五四年に、私は韓国のソウルにおいて正式に統一教会を創設しました。

 一九五四年の五月一日に、劉協会長を中心として、幾人かの食口が、北学洞の小さな家で看板を掲げて出発したのです。

 私は教派をつくろうとしませんでした。名前は「世界基督教統一神霊協会(Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity) 」なのですが、それをつくろうとしたのではありません。教派を超越した超教派的な面において運動をしようとしたのですが、受け入れなかったのです。それで仕方なく、統一教会をつくったのです。

 受難と試練の中で、我々の教会が創立されたということは、ある意味において、天の全体的なみ旨を中心として見る時には哀しいことですが、我々が歴史的伝統を回想するとき、そのような困難な環境の中で創立したことが、より印象的なことなのです。

 我々の教会はすべてが歓迎する立場で創立されたのではなく、孤独な立場で、若干の人が集まり、涙とともにその日を宣布したのです。良いことは日常的に過ぎていくものですが、その良いことをつかむために困難を克服した歴史は、常に良い事を迎えることができる新しい日の約束を刺激させる、力の母体として残るのです。


三つの門の家(ソウル城東区北学洞三九一の六)

 世界基督教統一神霊協会という看板を取り付けました。看板を付けるには付けたのですが、あのタワーホテルのてっぺんのような所に付ければ見た目がよいのですが、あの北学洞の三つの門の家に付けました。正門が三つもあるので、そろえるものは全部そろっていたでしょう。高さはどのくらいかといえば、このくらいにしかなりません。だから入ろうとすればあいさつし、出て行く時にも、「ありがとうございます」とあいさつしなくてはなりません。

 それはどういうことですか。神様が御加護される人間がまだ完成していないがゆえに、駄目になってしまうのではないかと案じて、よく頭が下がるようにするためです。あいさつして頭を下げろということなのです。蘇生でも頭を下げ、長成でも頭を下げ、完成でも頭を下げなければなりません。

 入ってみれば、部屋がどれくらい大きいかというと、八尺の部屋です。八尺といっても広い八尺ではありません。

 当時、その家は、多分ソウルで一番小さい家だったでしょう。横には寝られません。横に寝れば壁に足が付くので、縦に寝なければなりません。そうしてやっと足が付かないのです。そのような部屋が一つあり、奥の間があったのですが、そこも似たような部屋でした。

 また、天井はどれくらい高いでしょうか。どれくらいの高いかというと、私のような者が立つと、天井がゆがむのです。びりっとなるのです。

 そこに入って座り、うつ伏せになると、壁に額をくっつけていなければなりません。そのような家に「世界基督教統一神霊協会」という看板をつけるのは、どんなにすてきかというのです。そこにたびたび出入りする人は、わずか六、七人です。そうして集まって座れば、また近所がうるさく騒ぐのです。近所の人たちが「あの気違いたち」と言い、看板を見ては「ははは、世界基督教統一神霊協会だって?」と言うのです。おかしいでしょう。

 統一教会は、あの草庵(注:粗末な家)から世界的な発展をしました。わら屋のようでした。

 復帰原則において、最も小さな家から世界的な精誠を込めることができる代表者が現れるべきではないかというのが先生の思想です。その次には、もう少し大きな家から世界的代表に適した精誠を込めるべきではないでしょうか。そこから発展して、このように大きくなってきたのが統一教会です。


協会の看板

 看板を取り付けた位置は、子供たちでもいじることのできる高さでした。こんなとてつもない看板を、軒先に手が付くような家に付けておいたので、誰がそれに関心をもちますか。どれほど馬鹿にされ、いい加減に取り扱われたか分かりますか。近所の子供たちが遊ぶ時に、それを外しては遊び道具にしました。

 それはどんなに傷がついたか分かりません。また反対する人がやって来て、「何、キリスト教を統一するんだと? 異端じゃないか!」と言いながら、それを思いきりたたいたら、バキッと割れてしまったのです。そんな内容があるのです。しかし、そのような歴史的な看板をそのまま捨てるわけにはいかないので、その看板に釘を打ち、くっつけたのです。

 さて、その看板がひどい扱いを受けると、家もひどい扱いを受けたのです。看板と家がひどい扱いを受けると、その張本人である文何とかという人も、ひどい扱いを受けたのです。それはありそうなことでしょう。

 統一教会も教会ですが、私は教会という言葉が好きではありません。仕方がなく教会という看板を付けたのです。

 私は統一教会をつくって、「ああ、神様! 統一教会をつくったので、私は誇らしく思います」と、そのようには思いません。

 統一教会という看板を掲げてはいますが、この看板をいつになったら取り外すことができるか、という考えをもっています。

 この看板は、国のための看板です。国を取り戻すためには、看板も取り外してしまうというのです。国を生かすためには、看板も取り外してしまうのです。

 統一教会の看板が問題ではありません。大韓民国という称号がなくなるとしても、世界を支配できる国になるならば、大韓民国よりもっと高い名前をつけることができるのではないでしょうか。それを嫌がる人がどこにいるというのでしょうか。より大きなもの、より良いものと換えるのに、嫌がる人がどこにいるかというのです。


三つの門の家にいたころの生活

 そのころ、先生にはお金が一銭もなかったのです。部屋に横になれば壁に足が付くのですが、それも借りていた家です。そこから始めたのです。

 当時は、麦飯も食べられませんでした。乞食でも麦飯をあげれば、ごみ箱に捨てて行きます。しかし、「この道は拡大発展するのであり、常に天運の道理の道に従って前進的な次元へと向上し、進歩的な結果を、個人から家庭、社会、国家、世界に見せる日が来るはずだ」と、耐えて行くのです。不平を言ってはなりません。言い訳は必要ありません。

 当時は、私自身もわびしいものでした。そのころは、上にはジャンパーを、下は米軍の作業服を青黒く染めたのを着て、ゴムの靴を履いていました。ですから誰が統一教会の先生なのか、統一教会に通う者なのか、見分けがつきますか。何度も出たり入ったりすれば、みな同じような者に見えるでしょう。また、ほんの数人がいて、一ヵ月たっても同じ、二ヵ月たっても同じです。

 一年十二ヵ月そのようにして、看板だけが堂、と掲げられていたのです。また、時にはまげをゆってカッ(注:昔の青年男子の帽子)をかぶった人が出入りしたりしていました。その時、「統一教会が世界を統一する」と誰が信じましたか。あれは気が狂ったやつだと、魂が抜けてもあのように抜けることがあるのか、と言われました。

 だからといって、先生は価値のない先生ではありません。昼であれ夜であれ、山に登って祈祷をするのです。サタンの首を絞めれば、首が飛んでいくのが感じられるのです。空をつかめば、空が転がり下りてくるのが感じられるのです。地面をドーンと強くたたけば、ぱっと穴が開くのが感じられるのです。先生にはそういう勇気があるのです。そして「今に見ていろ!」という思いでやってきたのです。


摂理の時とアベル的キリスト教団の船出

 もし、キリスト教が一九四五年に先生と一つになっていたなら、それ以降にはどんな苦難もなかったはずです。しかし、キリスト教が反対する立場に落ちるや、先生は数多くの苦難を受けなければならず、それに自ら打ち勝っていかなければなりませんでした。統一教会を創立し、キリスト教に代わって、世界的な蕩減復帰の基盤として立てなければなりませんでした。

 統一教会とはいかなる教団でしょうか。反対したキリスト教をすべて投げ捨て、その前に新しいアベル的な宗教形態として登場したのが統一教会です。別の言い方をすれば、反対するキリスト教によってみ旨が成せなかったので、そのキリスト教に代わって探し出してきたのが統一教会ということなのです。

 それで一九四八年から一九五四年、七年目に我々の協会が創立されたのです。この七年間は旧約時代を蕩減するのと同じであると見るのです。そうしてこの七年の基盤の上に、初めて新約が出発することができたので、新しい基盤を備えて協会を創立したのです。そして新約の失敗を蕩減する期間が六〇年代までだということを、皆さんは知らなければなりません。したがって、旧約時代と新約時代に、神のみ旨において現れたすべての受難の道を代表的に行かなければならない、という結論がここに成立するのです。最も受難に遭うのです。イスラエル民族が成せなかったことと、キリスト教が成せなかったことはもちろんですが、イエス様が成せなかったことまで、ここで蕩減して、基盤を築いていかなければならないのです。

 では、神様のみ旨の中で誰が立ちましたか。キリスト教や神霊な団体が立つのではなく、先生が神様の前に立ちました。反対され始めたその時から一人で立ちました。

 その時、韓国は完全にけ散らされたのです。今までソウルとか何とか基盤を築いていたのが完全にけ散らされたのです。韓国政府が完全に荒らされてしまったのです。お金のある人は逃げようとし、既成教会の牧師は息子、娘を全部外国に留学させ、そうして国内は混乱時代に入っていったのです。

 ここから統一教会は基盤を築いていきました。統一教会の基盤が築かれるにつれて、新しい政府形態も収拾されるようになったのです。それが摂理観です。社会相が混乱したりすることは、天の摂理においてサタン側を利用して、神のみ旨を成すことができるような、一つの環境をつくることなのです。こうして一九五四年を中心として教会を創建し、そこから混乱した社会環境を経て、新しい基盤を拡大してきたのです。そのようにして政府と対立し、既成教会と対立しながら、統一教会は発展してきたのです。結局、アベル的基盤に立っているユダヤ教が、カインの立場にあるイスラエルの国を動かしたのと同じように、統一教会が主流となって、社会と国家を動かすことができる環境へと変革していかなければならないのです。


三 協会創立の動機と根源

統一教会出発の根本動機

 統一教会は、その創立の動機が人間の考えではないのです。統一教会は、間違いなく天が動機となっているのです。

 この協会を創設するようになった動機は、人意すなわち人の意図というよりも、神意すなわち神による意図があって出発したのです。人間の意図だけでは歴史の流れや、今後来たる新しい世界の前には貢献できないということを考え、神意に立脚した新しい宗教の創設をなしたのです。人意と神意が合わさることのできる一つの組織体が宗教だという考えをもったので、宗教は必ず神意を中心として、人類全体が願う人意的なあらゆるものを結束しなければならないと見たのです。

 私は一時的な気分や、自分の気ままには何事もしません。統一教会運動には深い霊的な根源があります。それは神様の命令によって、特定のこの時代に現れました。私は神様の導きを受けています。多くの人たちは、私が私なりの方法ですべてのことを行っていると考えていますが、実はそうではありません。

 統一教会の道は、出発の時から、ある個人のための道ではなく、神様のための道でした。動機が神様であるゆえに、神様のための道なのです。

 統一教会が神様によって始まったのであるなら、この統一教会を経て、行くべき道はいくつもの道ではないはずです。出発も一つであるはずであり、行くべき道の方向も一つであるはずであり、帰着すべき目的地も必ず一つであることに間違いはないのです。神様から始まったので、行く道も私自ら行けないのです。神様が動機となって、その動機に従って私たちが集まることになったので、我々はその動機と一つになって、一つの方向を経ていく途上に立っているのです。その方向は、あくまでも我々自らが思うままにできるのではありません。

 したがって、「統一教会は宗教の中で最も長い歴史をもっている」と見ることができるのです。「最も長い歴史をもっている」ということはどういうことでしょうか。神様の愛の世界において、誰も知らない世界まで発掘したということです。愛の世界は、時間と空間を超越しています。歴史はそこから出発し、過程において愛の世界を思い描きながら行き、終着点である愛の世界を表現化し、生活舞台において引き継ぐためにいくものではないでしょうか。したがって愛の世界は、過去においてもなくてはならず、現在にもなくてはならず、未来においてもなくてはならないのです。


統一教会の歴史的な起源

 統一教会の始まりは一九五四年となっていますが、本来は解放直後、もっとたどれば堕落した人類歴史が始まったその時から統一教会の歴史は始まったということを、我々は原理を通して知っています。

 統一教会の起源がいつかといえば、人類歴史とともに始まっているのです。神様の摂理が始まったその日から統一教会の歴史が因縁をもったと見るのです。

 創世以前の神様の心情から始まっているというのです。そこから因縁をもって、創造された神様、堕落の光景を眺めておられた神様、そして堕落したのちに復帰の問題を抱え、悲しみの嘆息圏で戦ってこられた神様、そういう神様の時代を経て、それらを全部清算して解放圏の神様の世界まで行こうというのが、統一教会が受け継いだ、伝統的な因縁を継承した歴史だということを否定できないのです。

 統一教会は歴史的な産物であるがゆえに、その歴史をたどってみると、数多くの宗教の歴史を兼ねながら、キリスト教歴史を経て、人類始祖であるアダムの歴史までさかのぽる因縁をもっているのです。人類始祖が堕落したために、堕落した人間をそのままにしておくことはできないので、神様は今まで歴史を経て来ながら救援摂理をしてきました。摂理歴史を、ある一時に結末をつけなければならないという目的があるのですが、それは特定した宗教を通して結末をつけなければなりません。そのような全体摂理の結末をつけなければならない代表的な使命を担った所がどこかといえば、統一教会なのです。

 我々の教会はわずかな群れから出発し、韓民族という限られた圏内で出発しましたが、そこに限定されてはなりません。歴史的な新しい使命を成し得る、歴史的な教会として登場しなければならないのです。


宗教歴史の最後の完成的機関

 現在、全世界的に見ると、四大文化圏が形成されています。キリスト教文化圏、儒仏仙の文化圏、ヒンズー教文化圏、イスラム教文化圏です。そのように四大宗教文化圏が残っています。ではこの四大宗教文化圏はどこに向かっていくのでしょうか。世界救援を目標とする神様のみ旨の前において、この四大宗教が一つとなり、最後の清算をすべき、最後の蕩減をすべき、一つの機関を通して行かなければならないという結論が出てくるのです。

 では、統一教会とはいったい何でしょうか。これらの宗教文化圏の世界の内容をすべて集約して蕩減し、贖罪の内容を清算して、一つの救いの目的を完成した、神様のみ旨が完成した世界へ越えて行こうという最後の宗教が出てくるべきですが、その宗教を代表して出てきたのが統一教会だと見るのです。

 宗教の中には数多くの種類がありますが、その中で蘇生的宗教とはいかなる宗教かと言えば、キリスト教以外の世界的宗教がそうなるのです。その次に、長成的宗教とは何かといえば、キリスト教なのです。そして完成的宗教とはいかなるものかといえば、統一教会になるのです。歴史性という点からいえば、そうなのです。

 第一イスラエルはユダヤ教、第二イスラエルはキリスト教、第三イスラエルは統一教会なのですが、統一教会が全体歴史を蕩減し、宇宙を神の前に捧げるべき使命を全うしなければならないのです。

 したがって、統一教会の食口たちは過去のユダヤ教を収拾し、キリスト教を収拾して、霊肉を中心とする地上天国、明白に形に現れた基盤を世界的に拡大させなければならないのです。

 キリスト教は子女の立場で、統一教会は父母の立場であり、旧約時代は万物の立場です。それを今、縦的に蕩減してきたのです。

 今までは数多くの宗教が宗主である男性ならば男性一人に仕えてきましたが、統一教会時代には父母宗教を主唱するのです。これが今日、宗教歴史において特別なことなのです。父母が、初めて宗主になったのです。

 それで、過去と現在を中心として神が数多くの宗教世界において犠牲にしたすべての結実を一度に集めて、世界的全体蕩減をし、全体統一役事をするために前面に立てたのが、何という教会ですか。統一教会です!


新しい真理の教え

 「教会」という言葉は、教える集まりを意味しています。「宗教」というのは、絶頂となる教えということです。その教えは、中心となる教え、根本的な教えなのです。先生以外には、いかなる宗教の教えもこれを解決できなかったのです。今まで先生が教えたことは、いかなる宗教経典にもなかったものです。先生が最初だというのです。霊界も地上界もどうすることもできなかったのです。ですからすべての万民がこの思想に従って行かざるを得ません。

 その統一教会の教えは、神の摂理史です。神様がどのように創造の摂理を始め、今まできたのかという具体的な内容を教えているのです。この世の歴史だけがあったのではありません。人々は知らなかったのですが、この世の背後において、神が関与した内縁的因縁を通して、歴史は展開してきたのです。それゆえに、終わりの日には神が目指す目的の世界に帰結せざるを得ないという事実を知り、準備してきたのが統一教会なのです。

 それゆえに統一教会が主張する思想は、哲学思想をしのぎ、宗教思想をしのぐのです。その思想は人間が願う思想とも連結していて、未来世界の内容を補強し、また主体的な立場で指導でき、すべてを識別することのできる内容がなければならないのです。

 統一教会が現在、ゴッディズム(神主義)とか、ユニフィケイショニズム(統一主義)を主張するすべての論理の内容は、歴史の背後の人間の未知の事実を全部総合して、今日の哲学思潮と現実思潮に符合するように明らかにしたものなのです。それは神の真理であるからです。

 統一教会は、現代的感覚を中心とするすべての世界の実像の前に、科学的な一面を備えながら、世界的な環境を中心とした信義の生活的基盤から出発したというのです。これが、統一教会が、現存する歴史的宗教と異なるのです。

 ユダヤ教とキリスト教は、メシヤに会うまでの教えであり、統一教会は、メシヤに会って、生きていく道理を教えているのです。


四 協会の名称と統一旗

「世界基督教」

 統一教会の正式名は、世界基督教統一神霊協会です。したがって世界のキリスト教を統一しなければならないのです。

 私は「世界基督教統一神霊協会」という名称の中に、キリスト教という言葉をつけたくなかったのですが、私の知る限り、イエス様がそういう面においては世界で一番であるがゆえに、「キリスト教」という言葉をつけました。

 歴史的な因縁に従い、キリスト教という名称を付けたのです。神様は統一教会だけで存在することを願わず、既成教会だけで存在することも願わないのです。この二つが共同目的を中心として因縁と関係をもって、より大きな世界的な一念を中心として行かなければならないのです。

 キリスト教を連結させて、今日新しい次元の世界に、歴史の希望圏に向かって進展すべき責任を担っているのです。それゆえに、統一教会の理念は、世界のキリスト教を一つにしなければならないのです。こういう結論が出てきます。

 世界基督教統一神霊協会の名前から世界基督教という言葉だけ取れば、私は反対されないのです。世界基督教という言葉だけを取り、そのまま統一教会だけにしたなら、どれほど良いですか。世界基督教という言葉を付けたために、悪口を言われるのです。

 しかし、これは運命の道でなく、宿命の道なのです。運命は変えられます。運命の道は回り道をして合わせることができますが、宿命の道は直行しなければならないのです。ですから、キリスト教という言葉をつけることによって、世界的に最もたくさん悪口を言われました。

 人というものは自分の看板として、自分の主流思想を正当に掲げないことには、「あいさつ」にならないのです。そうしなければ、歴史的な前後を分かち得る一つの渦中に立つことができないのです。それゆえ、やむを得ず、今までキリスト教の迫害を受けてきたのです。


「統一」、「統一教会」

 統一は二つが一つになることです。「統」という字は統率の統です。主体性があるということです。連合ではありません。統一はあくまでも主体性をもっています。その主体の根源は、どこでしょうか。文なにがしもすべて流れていきますが、主体の根源は永遠に残るべき、絶対的な神様の心情の起源から出発したのです。

 腕力や力でもって、統一するというのではありません。統一できる道はただ真理しかなく、愛しかありません。真でなければいけないというのです。

 それゆえに、その教えは強制ではなく、制裁でもなく、自然な立場で一つになることができる道を教えているのです。

 統率するためには、統率するだけの内容がなければなりません。主体者としての、すべてのことを備えていなければなりません。主体者は責任を負わなければならず、主体者は保護しなければならず、主体者は育成しなければならないのです。中心存在は責任をもたなければならず、保護しなければならず、育成しなければならないのです。

 統率するということは、自分が絶対的な縦の立場で率いることです。縦的基準がなくてどのように統一をなしますか。

 統率し、一つにするのです。個人的に統率し、家庭的に統率し、氏族的に統率し、民族的に統率し、国家的に統率し、世界的に統率して、天の地から地獄まで解放し統率できるそういう方法をもって千里の解放のために、別の言い方をすれば、真の父母の解放と神様の解放を叫んで出てくるのです。

 そのような目的をもっているので、教会の統一、教会の連合運動をしなければなりません。キリスト教ならば、キリスト教から連合運動を行い、一つにする運動です。その次にはキリスト教が主流的宗教ならば、キリスト教を中心とし、他の宗教と一つになって世界人類を一つにする運動をしなければなりません。それから神様と一つにならなければならないのです。

 統一教会という言葉、それ自体が偉大なのです。天地のすべての内容を突き詰めてみると、それでなくては駄目なので、先生は統一教会という言葉を立てたのです。

 ある僧侶が郭錠煥に会い、こう言ったというのです。「実に統一教会という名前が良い。それは、統一教会が反対を受けたこととは換えられない」と。「統一教会という言葉がどれほど良いか、統一教会! もっと早くそうしていたら、世界がすべて一つになったのに。その名前を一つを選んだために今まで統一教会が反対されたことは、その名前の価値とは比べものにならない」と言ったという話には一理があるのです。


「神霊協会」

 神霊協会とは何でしょうか。神霊で統一するのですが、父子関係の神霊で統一するということです。その神霊とは何でしょうか。愛を中心とした霊的世界と人間世界の調和を引き起こすことができるものを、神霊だというのです。目の見えない盲人の目が見えるようになることが問題ではありません。ふさがっていた耳が聞こえるようになるのが問題ではないのです。神様にはそれが必要ではありません。愛の神霊だということを知らなければなりません。

 聖書でも、礼拝は神霊と真理で捧げなさいと言っていますが、それはどのような真理ですか。愛の真理です。その愛の真理の最高が何ですか。父と息子、娘です。そのように見るべきなのです。神様が必要とするものはお金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛が必要なのです。

 神霊協会とは何だと言いましたか。父子関係の愛を中心として調和をもたらすのです。この調和さえあれば、地上で小さく起きたことでも、その波紋は宇宙的です。放送局がいかに小さくても、電波を送るということは宇宙的です。波及するときは宇宙的です。それと同じで、愛の調和の圏というものは、小さくても宇宙と連結する内容を備えているということを、皆さんは知らなければなりません。拡散するとき、愛の波紋というものは、無限なるものです。愛の世界に和回するところにおいては全宇宙が歩調を合わせます。それゆえ、その宇宙の中心となる神様も、間違いなく歩調を合わせざるを得ません。

 それで全世界を一つにするためには、キリスト教の霊人たち、イエス様を主とする霊人たちだけの協助を受けても駄目なのです。超宗派的な協助を受けなくてはならないのです。もちろん皆さんの善なる先祖たちの協助を受け、大韓民国の忠臣、烈女たちの協助を受け、なお一層拡大して、全世界の聖人たちの協助まで受けなければならないのです。

 そうして統一教会は、神霊役事で基盤を固め、真理をもって実体を立てなければなりません。

 「統一神霊協会」という時、神霊的なものとは何かといえば、堕落していない本然の世界です。統一された本然の世界を成し遂げることができる協会です。今後新しい世界へと移っていく時は、世界キリスト教ではなく、家庭教会だけが残ります。真の父母を中心とする家庭です。家庭は真の父母の伝統を中心とした、その愛の因縁によって連結された一本の木のような理想世界であり、統一された世界なのです。

 「世界基督教統一神霊協会」、その名前自体が、天の国の霊界とキリスト教の霊的世界との統一と、地上の統一教会の統一圏を完成し、一つの愛の理想世界へ導く神霊協会、神霊的な集まりです。これが統一教会です。

 協会はassociation、すなわち組織を意味します。「教会」と、そのようには言わないのです。


統一旗(一九六五、一 制定)

 我々統一教会のマークには四隅に四本の支柱があり、それが全宇宙を回っているのです。回るとき、神様としっかり四位基台を成して回らなければいけません。

 宇宙のすべてのものは、授受の因縁をもって創造されました。この旗は、宇宙が、人間の住んでいる太陽系の太陽を中心として形成されているように、天宙が神様を中心として構成されていることを象徴しているのです。この旗の中心部は、我々の理想となるすべてのことが連なっていることを象徴しています。これを中心として十二の線が放射状に描かれているのですが、その中の太い四本の線は四方を表示しています。一つの存在が中心をとって立つためには、四方が設定されていなければなりません。すなわち四位基台なのです。次に十二本の線は、四方の東西南北を中心とした一年十二ヵ月を表現したもので、これが授受の関係によって回っているのです。

 全体的に見れば船の舵を表現しているのですが、これは我々が天宙を運転しなければならないことを表しています。

 このように、旗の中には我々の理想である創造原理のすべてのことが入っています。本来、旗は国家を象徴するものです。現在、この統一旗は我々の教会を代表するものですが、我々の理想は教会だけでなく、すべての歴史の希望であり、現在と未来の希望である唯一の世界、神の心情にかなった世界、神の創造目的がなされる世界と、その輝かしい日を象徴しています。

 したがってこの旗を常に心に抱き、神様の心情と共に暮らす者は、サタンのあらゆる試練や反逆の勢力を克服する力をもっていることを象徴しています。だから皆さんがそのように信じ、勇気をもって進んでいくならば、いかなる所に行っても、神様がこの旗と共に皆さんに役事してくださるのです。


五 統一教会の食口が行く道

統一家の食口たち

 今日、統一教会は食口という名前をもっています。我々の家庭でもその一員を食口といいます。それでは統一教会は、何を中心として食口という言葉を使っているのでしょうか。神様の愛と、神様が本来探し求めようとされた創造理想を中心として、食口と言っているのです。

 食□を通して兄弟の因縁が結ばれるので、この食口という言葉こそ、天国を造成するにおいて土台となるものなのです。

 この神聖で偉大なる名詞! 天地がなくなっても、この名詞はなくなってはならないのです。この名詞とこの実体は、残されなければならないのです。

 イエス様には弟がいましたが、弟を愛することができず、父母がいましたが、父母を愛することができず、親戚がいましたが、親戚を愛することができませんでした。教会があり、国と民族があったのですが、それらを愛することができなかったイエス様の恨を解いてさしあげなければならないのです。

 統一教会というものは、教会ではありません。統一家です。統一家の中には、共産党も入り、民主主義も入り、黒人も入り、イスラム教も入り、仏教も入り、キリスト教も入り、ごちゃ混ぜに全部入っていて、一つなっていなければなりません。


真の愛で犠牲の道

 そう、皆さんに「統一教会とは何か。統一教会はどんな概念をもっているのか」と尋ねるならば、第一には、統一であり、第二に、真の愛の種族であり、第三は、人のために生きるという思想です。簡単なのです。そのように一生涯生きたのちには、天国のパスポートをもらって、あの世に持って行くのです。

 統一主義は真の愛主義です。他の個体を慈しむ真の思想です。本来神様はそのようなものをもっていらっしゃるというのです。これは概念ではなく実在です。そうして、そのように生きるようになれば、国も統一された一つの国、一つの主権、一つの国民、一つの父母、一つの血統となるのです。

 真の宗教とは、どんな宗教でしょうか。自分の教派のための宗教ではありません。教派を犠牲にしてでも国を救おうとする宗教であり、国を犠牲にしてでも世界を救おうとする宗教であり、世界を犠牲にしてでも人類を救おうとする宗教です。そうすることができる道を求めてこられた方が神様であられることを、私ははっきり知っています。それゆえに、私は今まで口があっても黙り、目があっても閉じ、耳があってもふさぎながら、私自身が神が願われるその絶頂の峠にどのように臨むかということが、地上最大の課題だと考えてきました。

 皆さん、絶対的な善の原則、存在の理想的起源はどこにあるのでしょうか。他のために生きるところに理想実現があるのであって、自分のためであれば地獄です。それは破滅です。今後、統一教会が滅びるか、繁栄するかという問題もそうです。統一教会自体のためにあるようならば滅びるのです。統一教会が国のためにあり、世界のためにあり、天と地のためにあり、神様のためにあり、自分よりもっと大きなもののためにあろうとする時には、繁栄するのです。

 したがって、統一教会の信徒たちは、どんな道を行かなければいけないのでしょうか。真の愛の道を求めて行かなければならないのです。個人が求める愛の道、家庭が求める愛の道、民族が求める愛の道、国家が求める愛の道、世界が求める愛の道、最後には神様まで求める愛の道を行こうというのが、統一教会が行こうとする道だということを知らなければなりません。

 これは歴史が願った望みであり、歴史が行こうとしていた道だというのです。全世界の人類が探し求めていた道であり、全世界の人類が現世において行こうとする道です。それらを代表する道であり、未来においても訪ねていくべき運命の道を、今日、現世で私が先駆けて歩んでいるという事実を知らなければなりません。

 人類を相手にして、神様とメシヤと地球星で踊り、サタンにまでも福を授けるようにやってみようというのです。これが統一教会の道です。そこまで行こうというのが統一教会です。


迫害を克服する道

 この統一教会の運動が韓国で最初に始まった時、すべての人とすべての家庭、氏族、国家が、この運動に対して懐疑的でした。あらゆる教会と宗派が懐疑的でした。しかし我々は、それを気に留めませんでした。彼らの迫害を、そのまま受け入れました。

 いろいろな分野において、個人から、家庭から、あるいは数多くの宗教から、あるいは国家主権から排斥を受けてきました。しかし一度も弁解したことはありません。なぜでしょうか。自分の最も愛する者を犠牲にしながらも、その補償を願ったり弁解をしない神様であることを私が知っているからです。「ため」に存在しようとするその方のあとをついていける人となるためには、黙々と行かなければならないのです。また、急いで行かなければならない道であるために、騒々しい周囲の環境に対して、気にかけるだけの時間の余裕がないのです。

 ありとあらゆる辱めを受け、あらゆる謀略中傷を浴びせられても、私たちの行く道は忙しいのです。時間がありません。

 宗教は克服しなければならないものです。家庭を克服しなければならず、社会を克服しなければならず、国を克服しなければならないのです。そうして、そうした道を神様が立てようとするので、サタン圏内にあるすべての環境は、総和合して、総攻勢で臨んでくるのです。この攻勢にへとへとになって破れる日には敗者となるのであり、この攻勢を克服する日には勝者となるのです。

 このような道を行くのが宗教の道です。統一教会も例外ではないために、そのような道を今まで歩んできたのです。三千万の民族が統一教会の文先生を本当に知るようになる時は、涙する場面がたくさんあることでしょう。












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