真の御父母様の生涯路程 3
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統一教会創立と摂理の再出発

第二節 キリスト教二世を中心とした摂理の再出発
         一九五四・五〜一九五五・七

一 協会創立直後の摂理の概観

キリスト教二世を中心とした摂理圏

 キリスト教を基盤として出発しなければならないのが統一教会の運命ですが、キリスト教を失ったために、キリスト教と対等となり得る教団をつくらなければならないのです。だからキリスト教から追い出された二世たちを集め、基盤を築き、苦労をさせながら、歴史的なあらゆることを蕩減するのです。すなわち個人的な塀を壊し、氏族的な塀を壊し、民族的な塀を壊しながら、キリスト教が世界史的基準を中心としたすべてのことを成せず、すべてが怨讐となったので、これに代わる霊的、肉的な基盤において、犠牲の代価を統一教会が払わなければならないのです。

 韓国で新しく再編成の基盤を中心として役事するのですが、蕩減条件を立ててきたので、統一教会は発展の一途をたどるのです。発展の一途をたどるとき、これがある個人の立場で行くよりも、教会を中心として国家基準を突破して行かなければならないというのです。

 それで延世大学を中心とした活動であるとか、梨花女子大学事件を起こしたそのすべての問題が、教育機関を中心として、キリスト教の最高基準に連結させるためのものであったのです。そのように反対したのですが、反対しても天の側を形成する条件を備えたので、一世は放棄し、二世を味方に引き込むようになったのです。

 なぜ一世を放棄するようになったのでしょうか。一世は既に汚されたものとなっていたのです。韓国でこのみ旨を立てようとする時、一世が反対したために北韓に行き、再び戻ってくるまでには、サタンが提示する条件を立てた基盤となっていたので、一世を主としてするのではなく、二世を中心とした救援摂理を推し進めていったのです。ですから、大学を中心とした、延世大と梨花大を中心とした活動から、ぶつかり合うようになったのです。

 そうして政府と既成教会が一つとなって、結局はこの問題をすべて破綻させるための作戦を展開したのです。そのために、韓国に入ってきて、またしても先生は監獄生活をしたのです。それは何かといえば、個体基準を中心とした蕩減条件を越えて、家庭的基盤と氏族的基盤と民族的基盤を中心とした蕩減条件を立てていくということです。

 北韓での活動が個体基盤を確立するためのものだとすれば、今や霊的にではありますが、氏族的基盤と民族的基盤を形成できる立場に立って、このような挙国的な版図を中心として戦うようになったのです。

 神の摂理は、一世である当時のキリスト教指導者を中心として、彼らを一つにしようとしたのですが、彼らが神様のみ旨に完全に反対する立場に立ったために、再び二世を中心とする糾合運動が起こったのです。それが、梨花女子大学と延世大学の事件です。

 それゆえに、どこかのキリスト教の教会から出発したのではありません。延世大と梨花女子大を基盤として、出発したのです。


キリスト教二世の集結地である梨花女子大と延世大

 延世大と梨花女子大、これが二世の男性と女性の最高の代表でした。そこからみ旨が成し遂げられたならば、そこが、この国のあらゆる組織の中心になったはずです。

 延世大と梨花女子大を中心として復帰されたならば、キリスト教の六大宗派のすべての息子、娘たちが来て、あっという間に完全に二世を占領するようになっていたのです。

 梨花女子大学と延世大学、これはアダムとエバと同じなのです。キリスト教の二世たちです。その二世の核心をぎゅっと握るのです。一世は堕落世界に半分がはさまれているのです。それで神様が貴いものを取るのです。昔はサタンが貴いものを取ったのですが、今や復帰時代では二世を先頭に立たせるのです。キリスト教を中心とする二世の集結地が梨花女子大と延世大ではないですか。先生が相手とするのは結婚していない男女です。童貞、処女を相手とすべき先生であって、ぽろ切れ、犬の糞のような者を集めて、世界を救わなければならない先生ではないのです。

 峠を越えようとするなら、最後の清算をしなければなりません。清算をし、血統をえり分けて、新しい根を新しい地に埋め込んで、越えていかなければなりません。こういう役事を国家を中心として行っていたなら、その木は世界に伸び、その葉は既に世界を覆っていたはずです。

 先生が大統領に会う前に訪ねていったのが、ティーンエージャーの親分である梨花女子大の総長、金活蘭でした。金活蘭は独身だったでしょう。メシヤを待ち望んでいたのです。延世大学と梨花女子大学は、一つは長老派の協助を受け、もう一つはメソジスト教団の協助を受けていました。

 当時、梨花女子大は副総長の朴マリヤを中心として、李承晩大統領の夫人と連結していました。それゆえ宣教師の基盤を中心として、その時政府と完全に一つとなることができるようになっていたのです。

 その時、西洋の宣教師を抑えて、金活蘭と白南柱の二人が一つとなって、統一教会を完全に迎えていたなら、世の中はすべて終わったのです。そうなれば、その時先生が一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていくのです。李承晩を通し、国を中心としていくらでもできるというのです。


二世を通して一世を再糾合

 一世が失敗したことを、二世を糾合し完全に一つにしなければなりません。その二世の中には、すべてが含まれていたのです。神霊的な人の息子、娘もいたし、神社参拝した人の息子、娘もいたし、それから宗教を信じない人の息子、娘もすべて入っていたのです。すべてのものがそこ集まっていたのです。この二世たちがいて、完全に一つになるようになっていたならば、そこから一世が誤ったものを取り戻し、復帰して国と教会を収拾して世界の舞台に出ていくのです。

 そこから神のみ旨を中心とし、統一教会が二世たちと一つとなって、アベルの立場でカイン的な父母を完全に抱き込んでいたなら、父母と息子が一つになったのでした。

 延世大と梨花大において二世を中心として連結させていくのです。二世を中心として連結させれば、一世のキリスト教と二世が、縦的には父子関係になるのです。横的に見れば梨花女子大と延世大が相対的な関係なのです。

 横的関係がアダムとエバのような立場にぴたっとなれば、一世と二世が自然に一つになるというのです。原理原則において、二世が完全に一つになるようになれば、一世のカインは屈服するようになるのです。何ゆえそうなのでしょうか。神様の保護圏に入っているために、二世のアベル圏が一つになる日には、一世は自然に一つなるようになっています。イスラエル民族において一世は荒野で死んでしまいましたが、今は天側の保護圏にあるので、一世は死ぬのではなくて二世と共にカナンの地に入ることができるのです。そのように韓国で連結させようとしたのが梨花女子大学と延世大学です。


キリスト教と李承晩政府の連結

 アダムとエバを中心として見てみると、延世大と梨花女子大は堕落していない若い青年男女と同じ立場であるので、キリスト教と父子関係で一つになれば、家庭的四位基台圏を成した形と同じだというのです。その中では、個人家庭もあり、氏族家庭もあって、民族編成がなされるというのです。それで李政権と完全に一つとなれば、キリスト教を中心として国が決定されるのです。そのようになっていたなら、韓国を中心として今日、真の父母の理想は堅固に出発していたはずでした。

 梨花女子大と延世大の二世を立てて、反対に上がっていくのです。そうして李博士を中心とする家庭圏まで連結させることによって、国家基準まで自然に一つになれるのです。そのように一つにしようとしたのです。ところが、これに既成教会が反対したのです。レバレンド・ムーンはサタン世界を清算するために、あらゆる分野のチャンピオンと闘わなければなりませんでした。私たちは挑戦して上っていかなければなりません。挑戦しなければなりません。私が大韓民国で反対されたのは、挑戦したからです。

 私が挑戦した相手は李博士でした。そして、延世大と梨花女子大の教授たちでした。その時、キリスト教を中心とした国家だったので、その頂上の人たちに挑戦したのです。私の話を聞けと言ったのです。


キリスト教政府と米国の一体化

 延世大学と梨花女子大学の男子、女子学生たちをすべてコントロールするようになれば、李承晩側は自然に巻き込まれていくのです。そのようになれば、李承晩には度胸があってホッジ将軍をコントロールしていたので、「この宗教理想によって世界を制覇できる」と主張して出れば、米国まで逆襲し、世界へと伸びていくことができる道が完全に準備されていたのです。

 李承晩大統領が素晴らしいところはそれです。ホッジ将軍と戦って、韓民族が願う南韓の主権が共産世界にのみ込まれないようにと、防御態勢を張ったのです。

 李承晩はどういう人かというと、米国の教育を受け、完全に米国人化した人です。夫人もオーストラリア人です。アメリカ人みたいに、韓国語も全部英語式に話す老人です。キリスト教文化圏を中心とした主権の代表が現れる時です。

 その時アメリカ政府が軍事政府を中心として韓国と一つになっていましたが、その時はホッジ将軍がアメリカの代表です。その時もし、李博士がホッジ将軍の言うとおりにしていたら、大変なことになっていたのです。李博士がホッジを押さえつけ、自分の主張どおりにしたということは見事なことです。彼がアジアの代表となり、米国のホッジ将軍を抑え、民族的自主性をもって屈服させたのです。それが見事なのです。

 北韓の反共捕虜釈放の協議においても、国連が反対するなかで、一日でみな釈放してしまったのです。それは歴史的に有名な逸話です。それで最初は騒ぎ立てたのですが、のちには「やあ、素晴らしい!」となったのです。歴史は、それを褒めたたえるようになっているのです。


二 梨花女子大、延世大退職退学事件(一九五五・三〜七)

大学街伝道と教会の移転:忠顕洞講義所(五四・一〇・一八)、興仁洞教会(五五・一・一七)、
              奨忠洞教会(五五・四・二七)


 延世大学と梨花女子大学の学生たちに命じて、「このままでは駄目だ。二世が火を付けなさい。「ため」に生きる平和と正義の道を立てなければならない」と言いました。ですから、どこに行っても私が行く所には問題が起こります。

 六千年の春は、一度来るのです。いつでも来るものではありません。アダムとエバを中心とした思春期というのは、一度なのです。婚姻の決定をする時まで春風が吹くのですが、それが復帰摂理を中心として、数千年、数万年の歴史を経て、ついに韓国の地でその春風が吹いたのです。

 梨花女子大学事件も、そのようなものです。三百八十名の女子学生たちに、その風が入っていったのです。そうして、一日に八十名ずつ、荷物をまとめて出てくるのです。塀を越えて来るのです。「風呂に行く」と言って飛び出してくるのです。その娘たちに「来るな」と言うと、「どうしてですか! 来ることができなければ私を殺してください。学校には死んでも行かない」と言うのです。先生のそばで、糞の臭いがしようが、足のくさい臭いがしようが、それが香ばしいというのです。

 学校へは死んでも行きたくないし、御飯も砂粒を食べているようだし、もう死にそうだというのです。そのように狂ったことが一度でもありますか。ここいる女性たちが、今でもそのようであれば、私は仕事ができなくなるのです。このような群れが、私が外に出れば車の前輪のところにひれ伏して「私を殺してから行ってください」というのです(笑い)。毎日、事故が起きてしまいます。

 そこで総長の金活蘭博士は、宗教社会事業科の科長であった金永雲先生という神学校を出た頭のいい先生を、「統一教会の内容を調べなさい」と送ったのですが、この方が原理のみ言を聞き、一週間で転向してしまいました。そうしたら、それ以外の多くの梨花女子大学の教授が、あっという間に、みんな参席するようになりました。約三百八十名ほどになる寄宿舎の学生たちが、この原理のみ言を聞いて、みな参席するようになりました。


成和学生会創立(一九五四・一二・三一)と成和青年会結成(一九五五・二・二二)

 本来完成の基準を立てる時期は、人間始祖が堕落した年齢である十七、十八の時です。それで二十代を中心として、すべてことが成し遂げられるのを願われる神様なのです。未来において中心となることができるのは、青少年期の人です。

 青年たちは、玉のようにかわいく大切な時期に該当するといえるでしょう。成和青年会の「成和」という字を調べてみると、「成」は完成を意味し、「和」は和動を意味します。したがって、お互い和して完成していくという意味になります。そのためには、成和青年は第一に、み言の過程を通過しなければなりません。第二に、人格的に神様が通じる存在にならなければなりません。そのためには、忠節の代表であるイエス様の人格を見習うべきです。いちいち相談しなくても、心情で通じなければなりません。

 そしてまた、成和青年は何よりも和動の中心にならなければなりません。前後、上下、左右に和することのできる人格体とならなければなりません。そうして、祝福の実体となるのがあるべき姿です。イエス様も青年期に、み旨の一線で歩まれました。三十歳前後の青年期は、人生において最も重要な時期に該当するのです。先生の若さに、成和の若い情熱の力を加え、み旨に没頭しなければなりません。その動きが、サタン世界の「成火(注:成和と同音で心配という意味)」の種にならなければなりません。

 成和という言葉は、何かの刺激によって受動的な立場で和を成せということではありません。能動的に和せよということです。全部一度に十字架にかかってこそ、民族を救うことができるならば、全部最高の一線に送り出して、死の淵に追い込んでこそ、民族を救うことができるならば、そのような歩みをさせなければならず、しなければならない責任が先生と成和にはあるのです。


伝道の活性化と反対与件の拡散

 私がこの国、この民族に問題を起こしました。静かに座ったままで起こしたのです。人が来れば、いつの間にか、とりこにしてしまうのです。誰でも来れば、そのようにしたのです。熱心に祈祷するようになれば、霊界がたたいて、追い立ててでも善意の心を起こすのです。

 私が既成教会の信徒たちを奪ってきたと言うのですが、私が奪ってきたのではありません。一九五四年当時でも、「看板は付けないでおこう」と言いました。彼らが来て、原理のみ言を聞いてからは「自分たちの教会に行きなさい」と言っても、彼らは「自分の教会には行かない」と言うのです。表口から入ってきてみ言を聞けば、「自分たちが通っている既成教会に行きなさい」といっても「死んでも行かない」というのです。そうして表口から追い払えば裏口から入ってくるし、裏口から追い払って門に鍵をかけると、今度は塀を越えて、ひょこひょこと入ってくるのです。そんな風だったのです。私が間違っていますか。

 それで韓国の全国民が反対したのです。反対しない人がいませんでした。皆反対したというのです。政府から、教会から、学校から、宗教団体はもちろんのこと、すべての家庭が、全部が反対したのです。では、どうして反対するようになったのでしょうか。レバレンド・ムーンが悪くて、統一教会が悪くて、反対されたのかというのです。そうではありません。歴史時代の過ちや、悪いものをすべて私たちになすりつけて、反対の要因をつくって反対したのです。

 既成のキリスト教が我々を憎み始めたのです。賢い人が統一教会の原理を一日だけ聞けば、一週間以内にみな転向してしまうのです。そのように見る時、歴史上のすべての敵の中でも、このような敵はいなかったというのです。

 韓国のキリスト教徒といえば、神様の前に代表的な忠誠を捧げて努力する人たちです。どんな国民、どんな国のキリスト教徒よりも熱烈だということで、知られています。キリスト教徒たちは一日に二時間以上祈祷しなければならず、早朝祈祷には出なければいけないという観念をもっています。現在も、そのように熱烈だというのです。そのように熱烈なので、それだけに教派の争いも尋常ではないのです。

 そのような環境において、長老派であれば長老派同士でも、互いに異端視して、胸ぐらをつかんで争う状況であるのに、突然どこからともなく来た教派があれば、とんでもないことだというのです。ところが統一教会が現れて、賢い人がいれば、この教派から、あの教派からと、残らず引き抜いていくというのです。それゆえに、梨花女子大事件の時には、二ヵ月もたたずに、退学問題だとか、緊急措置問題を中心として、弾圧をしてきたのです。それは驚くべき、破局的な結果をもたらすようになったのです。


梨花女子大、延世大事件の主導勢力

 梨花女子大生や延世大生がたくさん入ってきたのです。それで退学事件が起きたでしょう。何ヵ月たってからですか。三ヵ月にもなっていませんでした。約二ヵ月、約六十日の間に、そのような事件が起きたのです。

 私は梨大と延大を六ヵ月の間に、私のこの手で消化しようとしたのです。そうすれば、キリスト教は七年以内に統一教会の真理の前に屈服するはずであるという自信を私はもっていたのです。

 ところで、その延世大事件、梨花女子大事件は、誰が引き起こしたのですか。キリスト教と自由党が、主導したのです。

 自由党が、どれほど私を反対しましたか。副大統領の李起鵬とその妻で梨大副総長の朴マリヤが、なぜ私の言葉を聞かなかったのでしょうか。レバレンド・ーンが梨大を引っ張っていき、延大を引っ張っていくというのです。「ああ! 宣教部が引っ張っていかなければならないのに、梨大も延大もレバレンド・ムーンの言葉を聞いて、レバレンド・ムーンに引っ張られていく」と、いうのです。そこに大韓民国のすべての教派が引っ張られていくようになっていたのです。そのように大騒ぎになったのです。それで、統一教会に入った学生を退学させるような事件が起こったのです。自由党がどうして私に反対したのですか。反対しなかったらのみ込まれてしまうのではないかと思って反対したのです。

 金活蘭と朴マリヤが主導となって、景武台(大統領官邸)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしてしまい、私を完全に埋葬してしまおうとしました。

 延世大、梨花女子大事件が起こらなければ、その時、景武台と連結され、キリスト教全体が連結されたのです。その時、金永雲が宗教科長でした。主だった先生たちが全部復帰されたため、金活蘭が反対できないようになっていました。ところが金永雲が報告したのにもかかわらず、既成教会の幾人かの人が反対し、そのようにしてしまったのです。その時、梨花女子大学校と延世大学校さえ復帰されていれば、反対しなかったならば、韓国のキリスト教がすべて復帰されるようになっていました。


米国宣教師らが背後で操る

 韓国において、梨花女子大学、延世大学が統一教会を除去するように、誰が操ったのでしょうか。宣教師らが背後で糸を引いたのです。

 朴マリヤを中心として金活蘭が誰と謀議したかといえば、大統領夫人のフランチェスカを中心として米国の宣教師たちと、ひそひそと謀議したのです。国の最も重要な天の摂理をおいて、自分たちだけで相談したのです。その時、宗教は自由であったので、統一教会に行かせないようにできますか。

 宣教師が後ろで操って、金活蘭を動かしてきたということを知らなければならないのです。金活蘭がずっと独身であったのは、金活蘭が天使長だったというのです。天使長である米国の言うとおりにするので、天使長と同じなのです。そこで宣教師を抑えつけなければならなかったのです。当時、学長級の教授らが五名復帰されていたので、完全に宣教師たちを圧倒することができたのです。

 そうすれば昔のユダヤ教の世界的版図と同じその基盤において、米国とキリスト教が一つとなって統一教会と完全に一つとなることができたのです。金活蘭と完全に一つにならなければなりませんでした。米国人は天使長であり、韓国はアダムと同じ主体的立場にあるので、金活蘭が度胸を据えて、反対にひっくり返して、主体の位置を取り戻して、蕩減復帰しなければならないのに、それができなかったというのです。

 金活蘭が宣教師を完全に屈服させ、李博士と一つとなっていたならば、今ごろは完全に統一教会の天国になっていたのです。環境がすべてそのようになっていたのです。金活蘭が宣教師を押さえつけていたならば、今日、アメリカはこのようになっていないのです。


一方的な退職退学処分
  (延世大教授一名、梨花女子大教授五名、梨花女子大学生十四名、延世大学生二名)

 梨花女子大は、宣教師を背景として米国の援助を受けている立場にあったので、当時名もない統一教会が中心となった運動の前に、完全に吸収されるのではないかと大変な危機を感じたのです。そうして、緊急措置として取ったのが退学処分です。学校を取るのか、統一教会と文先生を取るのか、二者択一を迫ったのです。

 この運動が、燎原の火のごとく広まっていったので、学校全体がどれほどせわしかったことか。防ぎようがないので二者択一を迫ったのでしょう。世の中のどこに、そのような二者択一がありますか。巫女の子供もいれば、ありとあらゆる子供たちがいるのにもかかわらず、統一教会だけ、なぜ駄目なのですか。サタンが役事するのです。反対し屈服しました。

 それなのに梨花女子大総長の金活蘭は有無を言わさず、「二者択一だ、統一教会か、退学か」と迫ったのです。世の中のどこに、そんな道理がありますか。

 学校も、いかにせっぱ詰まっていたことでしょうか。五大科長たちを全部追放し、統一教会の主謀者となった学生たちを何の相談もなく、一方的に退学処分にしたのです。そんなことがあり得ますか。

 こうして、その時、五人の教授と学生十四人が退学になり、歴史にない事件が起きたのです。復帰歴史は、それほどに難しいものなのです。

 そうして優秀な教授六名(延世大……朴商来、梨花大……梁允永、崔元福、金永雲、李正浩、韓忠嘩)と十六名の学生たち(梨花大……金淑子、崔淳(女偏+華)、姜貞遠、李桂淳、林承姫、朴栄淑、鄭大和、他生蓮、朴承圭、金卿植、徐明鎮、金正恵、史吉子、申美植、延世大……黄煥ァ、柳景圭)が退学処分となる事件が起きたのでした。そこには統一教会が迫害を受け、文総裁が迫害を受けた恨が秘められているのです。

 一九五四年に出発して、一九五五年に梨花女子大事件が起き、国全体が大騒ぎして「文なにがしを殴り殺せ」というようになったのです。その時のことを振り返ると、私は、世の中で誰の助けも受けられない孤独な身でした。


食口たちの信仰が過熱する

 その時、先生の言葉に絶対服従していれば、梨花女子大事件は起きなかったのです。静かにひっ込んでいればいいのです。何をしに、地ぐもみたいに這い出てくるのですか。非難されるようになっているのです。本当に、お祭り騒ぎをするにしても、そんなお祭り騒ぎを私は初めて見たのです。

 梁光永が梨花女子大学にいた時、私が話して聞かせたことは、「金活蘭にはこういう話はするな、朴マリヤに話す時には、このように話しなさい」と全部言い聞かせておいたです。ところが「言ってはいけない」という話から、全部話をしたのです。ですから幼い子供たちには刀を与えてはならず、銃を与えてはならないというのです。「行って、話すな」という話が一番おもしろい話なのです。そうして、私は北学洞にいたのですが、朴マリヤをぱっと連れてきたのです。王宮のような所で、ほしいままにふるまっていた女を、あいさつもなく先生のところに連れてきたのです。全く、私がその時、大変な思いをしたことが今も忘れられません。そのように分別もなかったのです。

 また、梨花女子大を出る時、先生は「そうしては駄目だ」と言ったことがありました。ところが、「駄目って何が駄目なのですか。私が恵みを受けることなのに」と言って、言い触らして回りました。ところで、恵みを受けたということは、恐らく今までキリスト教で言わなかったことを先生が言ったからであって、すべて知っていることを話していれば恵みを受けたでしょうか。そうして「統一教会には善男善女たちがすべて集まったので、従わなければ大変なことになる」と大口をたたいて回ったので、既成教会の人たちが腹を立てたのです。

 これは、「ただうれしい」と口を開けて歌うようなものです。歌は最初から最後まで歌いきってこそすっきりするのと同じで、やたらに歌いまくったのです。

 けれども、過ぎし日を思い起こし、同情するとすれば、非難を受けて退学になるとき、先鋒に立った梁允永の功績が大きいのです。

 先生の話を聞いて、息子や娘を孤児院に入れてしまい、この道を行こうとしたことは、歴史において天が記憶し、歴史がみな証明してくれているのです。


三 統一教会に対するうわさの発生とその真相

うわさ発生の原因

 今日、この世で選挙戦が繰り広げられるときは、ありもしないことでもでっち上げ、なすりつけるのですが、「この天下を統一しよう」、「天下を理想天国にしよう」と言っている、野にあるひきがえるのような者がいるとすれば、サタンがそのままほっておくと思いますか。それは間抜けの中の間抜けです。だから、ありとあらゆるぬれぎぬを着せて、流してしまう方法が最高のやり方だというのです。

 理論的によく聞いてみると、みんな賢い子供たちは引かれていくようになるので、やむを得ず私たちを追い詰めるために、ありとあらゆることをしたのです。最初は、今までのキリスト教の歴史の中で、悪いとされた誰かのようだ、というのです。そこには白白教もあり、淫乱の集団もあって、「それと同じようだ」と言っていたのが、しまいには「それだ」と言うようになったのです。キリスト教の異端の名称をもっている歴史上のすべての人と、私が似ていると言い、その次には、韓国で起きた宗教団体の悪いもの、アジアで起きた宗教の悪いものと「似ている、似ている、同じだ、同じだ」と言ってから、「そのものだ」と言ってすべての罪状をなすりつけたのです。

 ある時、神様が私に語られるには「おいおい、文なにがし、今、お前に『死ね』といって、なんとか牧師が祈祷している声を一度聞いてみるかい」とおっしゃるのです。神様もユーモアが上手なお方です。そう、ラッパの音のように聞こえてくるのです。「文なにがしは、今すぐ、雷に打たれて死ななければならない」と祈祷しているのです。そのように本当に手がつけられないくらい迫害を浴びてきたのです。

 そのような渦中でも、統一教会は現在まで、私たちの行く道が忙しいので、それに対して闘いませんでした。闘う時間の余裕がありませんでした。行くべき道が忙しいので、道端に立って議論する時間がないくらい忙しかったのです。

 統一の世界が成されるのを防ぐため、サタンは悪あがきをしています。だから、我々統一教会は、非難を受けながら歩んできたのです。今まで、あらゆるうわさが立ちました。


「電気装置で惑わされる」

 皆さんは、「統一教会に行けば、電気装置を仕掛けて魔術をかけられ、裸になって踊って、文先生のとりこなっていく」などという話をたくさん聞いたでしょう。文先生のとりこになるとは何ですか。心が慕い求める最高の主体であられる本物の相手に出会ったので、心が本当に喜ぶ主体に会ったので、昼でも夜でも先生のもとへ行きたくなるのです。行きたくて心が揺れ動くのです。

 春が訪れ暖かくなれば、凍っていた雪は「溶けるな」と言っても溶けるでしょう。牛をつぶして、何かの祭祀をあげたところで、溶けるものはみな溶けてしまうのです。より高い愛の前には、みな自然に引かれていくようになっています。それで統一教会に来れば、自分の息子や娘のことも忘れてしまうのです。そのような何かがあるのです。自分の愛する夫が反対するようになれば、夫には死んでも会いたくなくなるのです。

 天の春風が吹くようになれば、男も女も、みな同じ立場になるのです。それゆえに、統一教会に行けば電気装置を使って、みんな惑わしてしまうと言ったのです。

 その話は当たっているのです。ところで電気は電気ですが、神様の愛の電気です。電灯の明かりも、電灯も、電灯の笠も、目に見えますが、電気となると目には見えません。神様の愛の電気も、目には見えません。どんなに動いたり、考えたり、本を読んでも分からないのです。愛というものは理論では説明できないのです。

 触れば触るほど、くっついて離れないというのです。だから統一教会には、くっつくという役事があるのです。統一教会に行けばくっついてしまいます。何かの、餅のふろしきがあるのか、飴のふろしきがあるのか知りませんが、ここに来て尻を付けると、くっついてしまうのです。


「裸になって踊る」

 梨花女子大学事件の時も、女性たちが全部惑わされて、裸になって踊って、どうのこうのと、みんな私の悪口を言いました。

 「統一教会は裸になって踊るというから、淫乱な団体だろう」と言って、次々とぬれぎぬを着せるのです。何も着るものがなくて寒いのですから、それはどんなに喜ばしいことでしょう。

 ところで、昔、裸になって踊る神霊集団があったというのです。人間の堕落によって着た服であるがゆえに、霊界から「その服を脱げ」と役事するのです。アダムとエバが堕落する時、裸になった状態から堕落して、悲しみが始まったので、裸になって喜んでこそ、その峠を越えていくことができるというのです。

 そのようなことを知っているがゆえに、先生は非難を受けてもじっとしていたのです。昔は、そのようなことを知らない人が迫害にあったのですから、そのようなことを知っている先生は悔しくありません。そのように我々は他人のぬれぎぬの束を、たくさん着せられたのです。

 多くの人、が、「統一教会の文なにがしは裸になって踊る」と言ったのですが、私が本当に裸になって踊って非難を受けたのであれば恨もないでしょう。しかし、裸になって踊っているのを見たこともないのに、裸になって踊る親分にしたのです。そのようにして大韓民国の民が福を受けることができるというのなら、いくらでもしろというのです。「私」という一人の人間を打ち、呪って、この民族が福を受けることができるというならば、それは善なることです。だからそっくりそのまま受けようというのです。彼らが民族を愛し、国を愛する愛国心の発露から「そのようにした」というならば、私はそれを神様の前に、神聖であり義なるものとして紹介するのです。そのように思いながら今まで歩んできました。

 どうぞ、好きなだけやってみなさいというのです。その中で、統一教会はそれを肥料として大きくなるというのです。「こんなに悪い」と言えば、浮わついた者は入ってこれないのです。死を覚悟し、この世を否定しても、「私は行こう」という、確かな人だけが、ここに入ってくるというのです。そのような反対を押しのけて入ってくれば、立つ日には、反対する人を押しのけていくことができるのです。このような結論が出てくるのです。ですから、統一教会は、反対されるからといって、崩壊するのではなく、発展するのです。

 ここにいる統一教会に入った皆さん、統一教会の先生が好きで統一教会に入りましたか。みんな横目でにらみつけながら、「あの人がほら、裸で踊るやからだろう。どうのこうのするやからだろう」と考えたことでしょう。そのような考えがなくなってしまうまでは、何年もかかるというのです。


「異端の頭、悪魔の大将、邪教の親分である」

 今日、既成教会では、自分たちの教会を「長老派教会だ」とか、「二千年の伝統をもつ教会だ」とかと言っています。そうして統一教会のことを、「異端」だと言うのです。しかも異端という言葉でも十分なのに、それ以上に「悪魔だ」と言っています。「統一教会は異端でありサタン、悪魔だ」と言うのです。誰がその名前をつけましたか。神様がつけたのですか。彼らが勝手に付けたのです。ここにる私が文先生という人です。いわゆる異端の頭と呼ばれているのです。「教会を滅ぼす頭目だ、国を滅ぼす頭目だ」と言って、今まで大騒ぎしているというのです。

 最も重要な者たちが、統一教会の原理のみ言さえ聞けば抜けていき、どんどん抜ければ、どんどん崩れていくために、「ああ、統一教会は大悪魔、大サタンだ」と言うのです。私が大悪魔の大将になったのです(笑い)。

 また、「統一教会は妖しい、邪悪な所だ。邪教だ。統一教会の文先生はその邪教の親分だ」と、世の中ではそのように言っています。私が正しく判断したでしょうか、できなかったでしょうか。公義を中心として、正義の判断か、不義の判断かという問題が起こるのです。歴史は、ここで食い違い、相克の世界が起きるのです。相克の世界では主権をつかんだとしても、その主体は全体に及ばないのです。間違って判断すれば、逆に落ちるようになっているのです。もし対象を誤って判断することになれば、対象は残り、主体は逆さまに落ちていき、なくなってしまうのです。

 もし、統一教会を間違って判断し、何も知らずに異端の邪教だと騒いでも、騒いだ人はみな流れてしまい、異端の邪教という称号を受けた統一教会は堂、と残るようになります。それが天理の道理です。そのために正しく判断しなければならないのです。


「家庭を破壊する」

 また、「統一教会を信じれば家庭が破壊される」といううわさを立てて悪宣伝をしました。誰が、家庭と離れて暮らしたいと思いますか。誰も、それは願わないのです。人の面の皮をかぶって、それを喜ぶ人がどこにいますか。ここに立っている文先生も、それを願わないのです。父母をなぜ捨て、妻子をなぜ捨て、息子をなぜ捨てますか。また一族をなぜ捨てますか。

 一族、妻子、息子よりも、この国、この民族のために、他人と全体のために、それらをみな犠牲にしてでも、国を救おうと立ったがゆえにです。歴史はそこから、新しい理想世界へと前進できるパターンがつくられるのです。その道においてのみ望みがあり、その道においてのみ歴史が光輝くのだという気持ちがなければなりません。


四 梨花女子大、延世大事件の結果と影響

再出発基盤の瓦解

 大韓民国の民は、私が愛する民です。天法を受け継ぎ、後代にそれを授けていかなければならない民であることを知っていますが、キリスト教が歓迎しない限り、彼らは文なにがしに迫害と悲しみの道を行かせる民族である、ということを知りながら出発したのです。

 延世大学と梨花女子大を中心として、一九五〇年代に六ヵ月だけ待っていたならば、そのような悲惨なことは起こらなかったはずであるのに、キリスト教が反旗を翻してしまったために、そのような結果になってしまいました。もしその時、キリスト教が私と手を組んでさえいたら、世界のキリスト教は既に統一されてしまったはずです。七年以内で、間違いなく統一されたというのです。

 世界は、私が四十代の時に、私の手の中で消化されていたはずであることを知らなければなりません。

 その時でも遅くはなかったのです。一九五五年度までに最初の摂理から十年がたっていましたが、遅くはなかったというのです。それを収拾できる方案もあったはずです。

 ところがその時、退学事件が起きたことにより、先生は監獄に行くことになり、神の摂理に一大問題が生じました。

 梨花女子大、延世大事件によって統一教会の文なにがしが、完全に排除されるようになったのでした。

 イエス様の時代にユダヤ教が反対したのと同じように、まさしくそのとおりになったのです。これによってレバレンド・ムーンは、とんでもない異端者として追放されたのです。荒野に追い出されたのです。四千年の間、天が準備したすべてのことを失ってしまいました。それを再び収拾して、上がっていかなくてはなりません。

 一九五五年の時の梨花女子大学事件は、挙国的であったというのです。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために総動員されたのです。しかし、その戦いの舞台を克服したのち、統一教会は、誰も知らない中で内外の基盤を固めたのです。そこで勝利してきて、どのようになるかというと、既成教会を否定し、大韓民国という国を否定して、既成教会の基盤と国家の国民に代わることができる、新しい再編成運動がなされるのです。言い換えれば、二世による新しい統一教会、二世による新しい国民形成が可能になったということです。

 統一教会の目的とは何かと言えば、国家を救うためのものであるので、国家を中心として動かしたのです。国家と既成教会のために動かしたというのです。統一教会のために動かしたのではありません。伝道したのも統一教会を拡大するためのものではなく、既成教会と国家の前に影響を及ぼすことができる、二世として新しいイスラエルを編成できるという希望的な内容をもつことができるためなのです。


事件の主導者たちの結末

 その時、朴マリヤと李起鵬を中心として、大韓民国大統領の李博士、フランチェスカ、金活蘭が国を滅ぼす元祖となったのです。李起鵬と朴マリヤは、どうなりましたか。息子によって天罰を受けたとしても、それほどの天罰が、どこにありますか。統一教会の文先生に反対した人の中で、良くなった人がいるか探してみなさいというのです。

 李博士も朴マリヤも、一家は、全部死んだのです。天に反対した者たちの行く末は、悲惨なものです。李博士の末路が哀れでしょう。

 金活蘭がどうなりましたか。それこそ名前と同じく患難(注・韓国語の発音でファルラン)を受けたのです。雷に打たれるようになったのです。どうして天国に行けるでしょうか。うそを言っているかどうか、行ってみなさい。学校の教権の看板を掲げて、宗教団体を犠牲にしようとし、学生たちを犠牲にしたのです。正義に立脚したことではなく、不義に立脚していたから、その代償を受けたのです。

 金活蘭、金玉吉みな死にました。霊界に行ってみなさいというのです。監獄に閉じ込められて、うんうんうなっていることでしょう。「お前、文総裁が誰なのか分かったか」と追及されるのです。そんな話がどこにあるのかというでしょうが、私が見てすべて知っていて話す内容なのです。

 それを知れば、悲惨です。あとになって、「私はこんなこととは知りませんでした」と言うのです。「こんなこととは知らなかった」ですって? 歴史において誤った道を行けば、いつでもそのようなことはあるのです。


正しく直すべき不義の歴史

 けれども、私は彼らを怨讐視せずに歩んできました。しかし南北が統一され、アジアの行く道が開かれる時には、歴史を正さなければならないのです。そのため、否定的で、不義の結実をもたらすようになった内容は、法的基準において処理していかなければならない歴史的な未来の関所が残っていることを知っているのです。

 これから私が梨花女子大学を裁判にかける日には、損害賠償を何倍受け取るか分かりません。時が来れば、すべて蕩減を受けるのです。南北統一を私の手でなす時、延世大を統一できないでしょうか。

 当時は、女子大は梨花女子大と淑明女子大しかなかったでしょう。一つはアベル型キリスト教大学であり、もう一つはこの世の大学ではないですか。あなた方、退学になった者たちは、梨花女子大生でもあり、淑明女子大生でもあるのです。

 梨花女子大学に公布して、十四名の名誉卒業証書をみな受け取らなければならないのです。そして梁允永と復元福はその時まで教授を続けたので、その給料を全部受け取らなければならないというのです。それが、名誉回復なのです。それ以上のことが、どこにありますか。今まで反対したすべてのことが、キリスト教が反対したすべてのことが、一遍に根を抜かれるのです。それを整理していかなければなりません。

 昔、退学になった十四名の中で、離れていった人たちがいるでしょう。その人たちを集めて昔を回想しながら導かなければなりません。梨花女子大学事件を中心とした記録を全部再び残さなければなりません。鄭大和、史吉子、姜貞遠、朴栄淑、徐明鎮、池生蓮、みんなを連れてくるのです。その時代にいた先生たち、同窓生たちを、みな連れてくるのです。過去をもう一度回想しながら、誤った歴史を正して、民族の新しい伝統的精気を、梨花女子大学の女性たちが正しく引き継がなければならないのです。そうしなければならない責任があります。ただそのままにして置くのではありません。

 今後この人たちは、大学に行って説教しなくてはなりません。毎日のように、梨花女子大の礼拝堂に行かせて、講義させようと思います。私が皆さんに、それをさせようというのです。

 黄煥ァ! そうでしょう。退学処分になったのは哀れなので、再び延世大に行き、鉄槌でたたき壊すことのできる立場を整えるため、今まで待っているのです。かといって、火を付け、パイプでたたこうというのではありません。み言の鉄の杖でたたいて、正さなければなりません。行って、それをする自信がありますか。












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