真の御父母様の生涯路程 3
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統一教会創立と摂理の再出発

第五節 全国伝道および海外宣教師派遣
        一九五七・七〜一九六〇・四

一 全食口七日断食と夏季四十日伝道(一九五七・七)

一九五七年の時運、共産主義の運勢が下降

 フルシチョフが国連の壇上で、靴を脱いで大騒ぎした時がありました。それはサタンが最高の位置に上がったことを意味します。しかし、それ以降は下がっていくのです。一九五七年から下がっていくのです。中共も同じです。すべて我々の歴史に、歩調を合わせて進展しているのです。

 世界の歴史は、先生によって左右されるのです。共産党は八代を越えられずに傾くようになっています。これは、原理的な観点からそうだというのです。そして四十年を過ぎれば、共産党内で二つに分かれなければならないのです。一九一七年から共産党が始まったので、四十年が過ぎた一九五七年に、ソ連と中共の理念紛争が起きました。我々統一教会は、その時を前後して出発したのです。その時は、先生にとっては第二次七年路程の三年目に入る時でした。

 ソ連が、国家次元を超えて、世界のために生きることができる共産党であるならば、ソ連国民を犠牲にしてでも世界人類を救おうという立場に立たなければならないというのが天倫の行く道なのですが、そうできなかったので、ここから共産主義は二派に分かれました。


本格的な全国基盤造成

 一九五四年から始めて一九六〇年度までは、どんなことがあっても、国家的迫害を越え、突破し、上がっていかなければならなかったのです。その期間に、どれほど多くの苦労をしましたか。

 本来、イエス様の公生涯路程を中心として、三年期間ですべてを蕩減するために先生が立ち上がったのです。それで三十四歳から三十六歳までに蕩減をし、三十七歳の時から本格的に統一教会の形態を整えて、蕩減歴史を国家的な基準で広げてきたのです。すべて原理的なのです。

 その時、キリスト教をはじめとする韓国のすべてが反対しました。それゆえに一九五五年に獄中生活をしたのです。監獄の中でも闘ったのです。そうして一九五七年に断食をして、本格的に宣布式をしました。全国的な基盤を固めていったのです。それは攻勢をしかけたということです。伝道をして全国に拡大したのです。統一教会の新しい段階だったのです。

 青坡洞で、腰が折れたライオンのように時を待ちながら、道を固めていったのです。そうして若者たちを教育して精鋭部隊をつくり、全国にあまねく影響を及ぼすことのできる基盤を固めていったのです。国が反対しても、押し返すことができる基盤を固めたのです。そうしながら、男として受ける迫害を、すべて体験したのです。


全食口七日断食(一九五七・七・一)

 一九五七年を中心として、統一教会の当時の食口たちは、全体転換をしました。一週間断食をしたのです。

 韓国統一教会の全食口が、七月二十日を期して一週間断食を始めました。そうして出発したのです。先生もその時、共に断食をしながら宣言しました。

 したがって、皆さん、統一教会に入れば一週間断食をしなければならないのです。私がしたので、皆さんもしなければならないのです。

 それは皆さんを苦労させようというのではなく、天の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためなのです。

 愛の力を補強する方法の一つは、内的な力を貫いていく方法であり、もう一つは体を打つ方法です。だから一週間断食ができなければ、統一教会の正式会員になることはできません。イエス様は何日断食をしましたか。四十日断食をしました。聖人という名前をもったイエス様も、四十日間断食をしながら本然の位置に入っていったのです。完全な愛の因縁を取り戻すために、不完全なものを押しのけて四十日断食もしたというのです。

 一週間断食すれば何が便利かというと、御飯の心配がなくなります。「死ぬ」という口癖がなくなります。「御飯を食べられなくて私は飢えてしまう」ということがなくなります。

 物質を無視しても堂、と越えていける実力をつけるために、一週間断食の命令を下したのです。一週間断食の命令を受けて断食を実践した人は、生活の恐怖症を超越します。皆さんは、この基準を中心として真理を立てなければなりません。

 七日断食を始めれば「ああおなかがすいた、我慢、我慢」と言いながら、一日が過ぎ二日が過ぎます。三日が過ぎて四日くらいになると、かなり大変です。なぜか、そんなに食べたくて仕方がありません(笑い)。世の中がすべて食べる物に見えるのです。甚だしくは、過去に麦餅を一つもらって食べたことまでも思い出すのです。「食べるサタン」がすべて動員されるのです。

 一週間がたち、十二時に壁からボーンと時計の音が聞こえると、それ以上の喜ばしい知らせはないでしょう(笑い)。ああ、あと残り十分、五分という時は切実な気持ちです。それ以上の切実な気持ちになってこそ神様に出会うというのです。御飯を恋しがる以上の、切実な高い基準にあるのが愛なのです。我々堕落した衣食住圏内にあっては、神様との関係を結べないというのです。


最初の夏季四十日伝道派遣
  (一九五七・七・二〇〜八・三一、百二十箇所二百四十名)


 一九五七年度を中心として統一教会は伸展していきました。一九五七年は我々の第一次伝道期間です。そうして歴史は転換期に入っていくのです。これを操縦する全権を、天がもつというのです。ところで、盲目的にするのではなく、地上的な歩調に合わせてするのです。

 四十日特別活動は一九五七年七月二十日から始まりました。統一教会ではいつも七月二十日を中心としてそのようなことをします。この時期は、学校も休みになる一番暑い時です。一番暑い時に、み旨のために汗を流しながら努力しなければならないのです。それが蕩減条件を立てるのに有用なのです。大きな蕩減条件になるというのです。そのために、その期間を選ぶのです。

 先生は、一九五七年度に百二十箇所の伝道地を設定し、派遣しながら、「皆さん、三年間服役をするという立場で、そこに売られていった雇われの身という立場で、部落ならば部落に行って忠誠を尽くしなさい。そして彼らに何を教えるのですか。忠誠の道理を教えなさい。それだけでなく、実践して見せなさい。すると必ず、皆さんが何も言わなくても、『自分たちができることは引き受けます』と言うようになるのです。我も我もと、そのように言ってくる時、皆さんはその部落で、完全に位置を復帰するのです」と話しました。

 一九五七年度に、統一教会の食口が初めて伝道に出発する時には、百二十箇所に送り出すことになったのですが、その時は行きの交通費だけです。汽車に乗っていけるだけの交通費だけ渡して、それ以外のお金は徴収しました。服も二着しか与えずに追い出しました。目的地へ行って、四十日間、はったい粉だけ食べて仕事をしろと言ったのです。そして、労働をしてもらって食べる立場から始めろと言ったのです。


最低の立場から開拓

 韓国では、反対があるので統一教会という言葉は言わないで、掃除をしてあげたり、台所仕事をしてあげるなどの運動をしたのです。明け方早く起きて、数時間かけて町中を掃く運動をしたりしたのです。始めは誰がしたのか分からないのですが、何ヵ月か過ぎて分かるのです。

 もっと汗を流し、もっと涙を流すように悲惨になれというのです。そして、その悲惨なことを克服しろというのです。小麦粉一袋、実際は一袋にもならないものを持っていき、水と混ぜて食べながら伝道したのです。四十日伝道に行けば、断食するのと同じだったのです。

 そのようにして帰ってきた時には、私がたくさん食べさせてあげるのですが、ひたすら狂ったように食べるのを見ては、「ああ、私は大変な罪人ではないか」と、そんな呵責も随分感じたのです。将来、韓国が滅びたとしても、生き残る者たちにしなければならないと考えたのです。

 一九五七年から、国家的な次元で全部動員したのです。麦飯を食べながら運動しました。麦飯が何ですか。みんな飢えていて、犬の御飯まで食べながらもやったのです。

 そのようにして歩んできたのです。それで自分たち同士で耳打ちしながら、「腹が減ってどうしようもないので犬の御飯を取って食べた」と言っているのです。人間の最低の立場から始めたというのです。

 韓国で開拓地に出掛けて伝道していた当時は、お金を一日稼いで、一日暮らすのは大変でした。一日働いて、一食食べるのが大変でした。若い人たちが出掛けていき、一日中歩いて、徒労に終わることがいくらでもあったのです。

 ある町に伝道に、開拓に行きました。そこでは仕事はあるのですが、仕事をすると「ここに仕事をしに来た」と町中にうわさが立ち、もっと迫害されるので、仕方なく十里以上離れた所まで行って仕事をした人、がたくさんいたことを知らなければなりません。

 責任者は本部からお金をもらって伝道するのではなく、そのような事情の中で開拓伝道をするのです。そうでありながらも、自分の事情を絶対に話さないのです。このようにして六ヵ月過ぎ、一年が過ぎて、伝道できた時には、号泣するのです。


開拓教会の心情的雰囲気

 統一教会に入ると、教会が自分の家よりも良くなるというのです。学校にも行きたくなくなり、ここにだけに来たいのです。心がここにしかないのです。それはなぜですか。神様の愛がここにあるからです。神様は縦的な愛の相対圏を成すだけで終わるのではなく、横的な愛の舞台を拡大しようとしました。

 食べる物があれば残しておいて一緒に分けて食べようとしたり、和動して全部解決してあげようとしたり、困難なことがあれば私が解決してあげようとしたりするのです。だから従ってくるのです。迫害されても、村中で大騒ぎしても、国から全部追放しようとしてもです。昔、我々は、そのような雰囲気だったのです。

 伝道に行って人が伝道されるようになると、伝道してくれた人にただ会いたくて毎日来るというような雰囲気だったのです。新しく入った人たちを、そのように指導したのです。だから本当に自分の家よりも良く、学校よりも良いので、学校にも行こうとしないし、職場にも行こうとしないし、家にも帰ろうとしないで、みんな集まろうとしたのです。それで、それが問題となったのです。


伝道師に弁当を食べさせた成和学生たち

 成和学生会があります。中高校生たちで構成されているのですが、その中高校生たちが統一教会の伝道師を食べさせてあげたのです。両親の反対があまりにも激しいので、親が作ってくれた弁当を順番に持っていってあげたのです。学生たちが三十人いると、一日三人ずつ弁当を置いていけば、十日に一回ずつ回ってきます。そうして、朝、昼、晩と順番に弁当をあげるのです。こうして、学生たちの弁当を食べて開拓した歴史があるのです。

 それを両親が来て見たとすれば、どんなに嘆くことでしょうか。しかし、それが問題ではありません。国をつかんでみ旨を成すために、そのようにでもして前進し、その日の栄光をたたえようとしたのです。どうやって暮らそうかとか不平不満を言いながら、お金のことをいつも口にしながら出発したのではありません。過去の歴史の中に、そのような時代が燦爛と輝く摂理史の材料として、その場に残っているということを、皆さんは知らなければならないのです。

 その御飯を食べなければならない指導者の気持ちは、どれほど悲惨ですか。また、御飯を置いていった学生が学校に行っておなかがすいていないだろうかと、どれほど思ったことでしょうか。このような中で、お互いに「我々は死んでもみ旨を成そう」と言いながら、心情的紐帯感に浸っていたのです。

 そうして、数日前まで、統一教会に入る前までは、誰よりも立派なお弁当を持ってきていた子が、弁当を持たずに来たりするのです。毎日昼食時になると、一人校庭にこっそりと隠れていて教室に戻って来るのを友達に見つけられたりしたというのです。なぜそうしたのかと言えば、自分の親に知られたら大変なことになるからです。

 一回や二回ではなく、ずっとそういうことをしなければならないので、信仰していない友達が自分の母親の所に行って、「誰々はいつも弁当を持ってきていたのに、近ごろ統一教会に入ってからは、弁当を持ってこないのですが、どうしてですか。統一教会の人は人ではないのですか。息子は息子として、娘は娘として扱われるべきなのに、なぜそんなことをするのですか」と抗議する、このようなことが起こるのです。

 ですから、その親は息子や娘に、「お前、学校で弁当を食べていないそうだが、どうなってるんだ」と聞くようになるのです。聞かれれば、本当のことを話さざるを得ないのです。

 そうして、親たちがその事実を知るようになれば、「この野郎! 統一教会の教会員たちは、うちの息子、娘の弁当を奪って食べ、搾取し、血肉を吸い取る吸血鬼だ」と言って反対したのです。そのようなことは、二度や二度ではありませんでした。全国的にあったのです。

 ですから統一教会員が来るというと、「息子や娘の血を吸い取るやつが来る」と言って、町内で群をなして、袋だたきにしたり、ありとあらゆることをしたのです。その上、全国のキリスト教徒たちは、「神の羊を奪っていく狼の群れがやって来る」と言って、全部ぐるになって、ありとあらゆることをしたのです。そうした環境で、彼らを指導していた統一教会の先生の心は、どうだったでしょうか。


開拓伝道師たちの心情的紐帯

 一九五七年度から、伝道期間を決めて行ったのですが、互いが道で会い、喜んだその時間、また再び会うことを願って涙で別れたその時間、そのような時間は、皆さんが億千万金を払っても買うことができない時間なのです。それがどんな価値があるのか、統一教会のあなた方は分かっているのかというのです。

 草創期には、食口一人ひとりを、みな無限な価値をもった存在と思ったのです。

 昔は、そうだったのです。任地に出て伝道する時、お互いがそれぞれの地域に離れていれば、会って別れる時には、別れ難く、見送るために相手の任地まで行き、また見送ってもらってこちらまで来て、お互いが行ったり来たりしながら夜を明かすこともありました。兄弟の間でも、そうだったのです。弟が行く困難な道を心配して、食べる物があれば食べずに包んで、五里の道を遠いとも思わず、一気に走っていって渡したりしました。

 そのころ、韓国では自動車が珍しく、みんな歩いて回りました。半月の夜に、夜更けに月が浮かんだその晩に、お互いに国のために涙を流し、天のため、未来のためにお互いが宣誓して出発した、そのような忘れられない出来事がたくさんあるのです。そこから愛国心が生まれるのです。

 この世の初恋に浸る以上の高次的な霊的雰囲気で、恋しく思いながら動いたことが、いつも懐かしいのです。そのような因縁を皆さんがどのように誘発するかという問題が、教会を指導する人たちの責任であり、自分たちの活動する目標として立てるべきなのです。その伝統基盤を、どのように連結させるかということが努力すべき標準であるというのを忘れてはならないのです。


草創期食□たちの涙の歴史

 過去において、統一教会の先生についてきた初代教会の人たちの中で、自分の息子や、夫や、親戚から称賛を受けた人は、一人もいなかったのです。みんな反対されたのです。なぜでしょうか。すべてを捨てて来たためです。その人たちを愛し、共にいては、共に滅びるのです。そのような二者択一の立場から歩んできたので、今までこの世にいるすべての家族、親戚、友人たちから称賛を受けられなかったという事実を知らなければならないのです。

 それで古い食口たちは、祈祷しても涙が多いのです。天が直接、共に歩むという立場で生きてきたのです。そのように天と共に生きてきたということが今の皆さんと違うのです。しかし、初代教会の伝統が、皆さんの歴史の伝統として残ることができるか、ということが問題となるのです。我々は、一本の木と同じです。根が同じ家庭なのです。だから韓国の伝統も米国の伝統も同じだというのです。


四十日伝道期間の伝統

 我々統一教会では、七月二十日になれば、四十日伝道期間をもつようになっていることを皆さんは知らないでしょう。今からでも、統一教会の歴史を知らなければなりません。歴史を知らなければ現在を知ることはできません。また、現在を知らなければ未来が分からないのです。

 一九五七年度に伝道活動に行った時は、「統一教会だ」ということは言えませんでした。あふれんばかりの胸を抑えて、恨多き事情を抱えて、道を歩いてもどこへ行っても、悔しい気持ちに徹してきました。しかし今はそれが解け、同等な立場に立ちました。

 犬の飯を食べながら伝道して、基盤を築いてきたのを神様が見て、つぱを吐くでしょうか。神も涙を流すのです。そのようにして出発したのです。そのような貴い歴史的な事実を皆さんが知らず、すべて流れてしまうといけないので、私が話してあげるのです。ここにいる米国の責任者も、今後そういう日を中心として、一週間断食をして、四十日を決定すると良いでしょう。

 原理には、同時性時代についての内容が出てくるでしょう。そこには四十数が出てくるのです。四千年に代わって四百年、四百年に代わって四十年、四十年に代わって四十日です。七日の一週間という七数は、復帰摂理の中心数なのです。このような課題をもって、我々が生命の道を開拓するときに、蕩減条件が絶対的な問題となるのです。四十日ずつ三年やれば、百二十日になります。これは、重要な一つの山を越える過程です。

 なぜそうならなければならないのでしょうか。その理由は、我々が今日のあらゆる環境に支配されて終わるのではなく、未来に拡張させなければならないからです。そのために世界的で、全体的な分野に因縁を結ぶ仕事をしなければならないというのです。すべての存在も、現在現れただけではなく、過去を象徴し、未来を象徴し、世界的な一つの代表的な表象として現れているのです。ですから、皆さんは過去を代表し、世界を代表し、未来を代表して生きているというのです。そのような生を営む存在であることが、貴いのです。


『原理解説』発刊と原理宣布(一九五七・八・一五)

 先生に会わずに先生に従った最初の人が、劉孝元前協会長でした。彼は『原理原本』を見て、それを読むことにより、会いもしないで先生に従おうと決心しました。

 劉協会長は先生より六歳年上でした。洗礼ヨハネはイエス様より六か月年上でした。それで、劉協会長は洗礼ヨハネの立場にいました。彼は洗礼ヨハネの立場で原理を解説しなければなりませんでした。劉協会長が書いた本は、劉協会長の本ではありません。劉協会長がその本を書く時、先生は彼に、このように、またあのように書きなさいと指示しました。皆さんは今後詳細にその本を勉強しなければなりません。

 皆さんは原理を通して、この膨大な内容をどこから手をつけて、どのように解いていくのですか。これを吸収して、これくらい秩序的に、このような基準まで、皆さんが理解できるように作ったという事実、これは簡単なことではないのです。

 私は涙をたくさん流し、何日も涙を流して、太陽を見ることができなかったときがたくさんありました。皆さんはそれを知らなければなりません。

 そうして、この道を一歩一歩築いてきたのです。そのようなことは皆さんにすべて教えてあげません。それは私が責任を負うからです。皆さんが教えてもらっていない道は行かなければいいのです。楽な道を行きなさいということです。古い食口たち、霊的に体験した人々だけが、このような統一教会の歴史の境地を知っているのです。

 統一教会の原理のみ言も、先生を通して成されたものであるために、宣布したのです。宇宙的に見ても中心があるために、宣布せざるを得ません。大韓民国においても、内閣を組織しようとするとき、それが明らかにされるまではその内容は分かりません。決定したのちに宣布してこそ、人々は知るようになるのです。それと同じことです。決定されてこそ宣布するのです。そうして、宣布すれば、すべて知るようになるのです。

 皆さんが原理を知ったということ、それは結果的なことです。六千年の歴史が個人復帰を完成する歴史であることを知ったと同時に実践的な実体が決定されたために、皆さんにそのようなことを教えてあげられるのです。

 ですから、皆さんは自分の命や財産すべてと取り替える恨があったとしても、その教えてもらったすべてのことを絶対視して、それと共に生き、それと共に死ねば、それと共に同参するようになるのです。それゆえ、皆さんは信仰の道において深刻にならなければなりません。

 先生は皆さんが知っている道を行くのではありません。皆さんは平面的です。平面的なことをしています。しかし、先生は立体的なことをしています。根本的に違うというのです。皆さんは皆さんのレベルのことしかできないので、先生が必要なのです。先生と合わないようですが、結局、過ごしてみれば合うようになります。

 皆さんが原理講義するとき、汗を流すことができず、涙を流すことができなければ、あの世に行って引っ掛かるのです。先生がその原理を明らかにしたとき、ただ座っていてできたと思いますか。とんでもない話です。血みどろの闘い、激闘を繰り返して探し出したのです。


二 最初の日本、米国開拓の宣教師派遣(一九五八〜五九)

海外宣教の緊急性

 私が刑務所に入ってから出てくるや否や、甲寺(忠清南道公州郡鶏龍山にある麻谷寺の末寺)にいながら研究したことは、「今後、日本が問題である。今は倒れたが、今後、再び日本が問題になる時が来る。我々は日本を怨讐視してはならない」ということでした。それで、大学街に日本と交渉する準備をしておき、人を日本に密かに派遣したのです。

 北では金日成主席を中心として、ソ連と中共が後援する立場にあることは間違いないので、この難局を解決し、大韓民国が生き残る一つの突破口を開くためには、日本を突破していかなければならない、ということを考えました。

 日本の地は怨讐ではありますが、今後私が誰よりも日本を愛することによって、アジアで神様のみ旨を展開することができる相対的基準になるのです。そうでなければ主体国の前に、相対的国家を見つけることができないというです。

 我々のみ旨が世界的なものであるならば、隣の国日本にも果たすべき責任があり、様々な国にも果たすべき責任があるのです。ゆえに我々は、受難の道をたどりながらでも世界に宣教師を送らなければならないのです。しかし世界的な責任を果たす時においても、食べる物が余るとか、お金が余るとか、そのように余裕があってするのではありません。貧しく困難な中でするのです。


密かに崔奉春宣教師を日本宣教に派遣(一九五六、忠南鶏龍山甲寺)

 一九五六年、西大門刑務所から釈放され、忠清南道の甲寺に行っている時、私は崔奉春という若い青年を呼んで、「君は日本のために密航するのだ。男が決めた歩みは死を覚悟して行かねばならない」と訓戒したのです。

 甲寺の裏山に呼んで、彼に日本宣教の特命を下しました。「君は玄界灘を渡らねばならない。死ぬ前には帰ってこれない。神様のみ旨はそのように、非常に厳しいものなのだ」と、そのように念を押し、密航船に乗せて送りました。

 先生は彼に、「君が無事に到着する時まで、寝ないで君のため祈祷し、君のために精誠を尽くそう」と言い、「死んでも任務を全うする時までは現れるな」と言いました。

 先生は、「十年もたてば分かることだろう。法治国家の国民としてこれは違法行為であることは分かっているが、間違いなくアジアに自由に宣教できる時が来るはずだ。その時のために、私が今、民族の反逆者として追い込まれても、そのことをするつもりだ。そのような正義に立脚した私の信念と行動を、歴史が保証する日が来るはずだ」と考え、断乎として実行しました。その時、統一教会の食口たちは、飢えに飢えていた時でした。写真を売って、やっとその日その日を暮らす状態でした。

 それでも、監獄を出たり入ったりしながらも、当時のお金百五十万ウォン借金して、崔奉春を日本に送りました。

 法が問題なのではありません。国家の運命は、法を超越するのです。天運というものは、人間たちが提唱した憲法を超えた立場から訪ねてくるのです。

 私は天運を知っているがゆえに、それに備えることのできることをしようとするので、常に死が交差し、苦痛が交差し、迫害が交差するのではないですか。他の人たちが好むようにするならば、迫害があろうかというのです。しかし、その時は相反するのです。統一教会の信徒はそのような道を行くのです。


三次の特命と日本入城(一九五八・六・一五)

 最初は、日本に入国するや否や逮捕されました。一次は失敗に終わりました。そこでまた送りました。二次もまた失敗して戻ってきました。一九五八年のことです。

 それで「もう行けない」と言うのです。だからほっぺたを張り飛ばしながら、「こいつ、男が一度誓ったなら実践しなければならないだろう。死んだとしても、日本に行って死になさい」と大声で叫んで、また送り出しました。

 「監獄に入っても、三人を伝道しなければならない!」と指令を下しました。その命令によって始まったのが、現在の日本統一教会です。複本春を忠清南道甲寺の裏山の、松の木の下に呼んで訓示をした、その時を忘れはしないのです。

 ところが、彼は麗水を通って日本に行くや、捕まり、大村収容所に収容されてしまいました。そうして韓国に送還されるために、下関へ行く途中、列車から飛び降りようとしたのですが、列車の速度が速く、トンネルが多いために、それはできなかったのです。そして下関に到着し、再び収容所に閉じ込められ、送還されるのを待つだけの身となりました。そうなれば、すべてのことが崩壊するのです。それで、一つ知恵を絞って、断食をしたということです。一週間から十日間、ずっと塩だけをなめながら、断食を続けると、熱病のような病気にかかり、気を失ったのです。そのようにして病気でない病気にかかり、病院に入院して、そのまま逃げ出してしまったのです。

 一次は失敗、二次も失敗、三次にして入国し、大村収容所にいるという報告を受けた時には、「神様には何の考えもないのか。このように、あなたのみ旨の道を開拓しようとしているのに、そこまでしなければならない神様なのか」と、いくらでも恨むことができるのです。けれども感謝して、再び神様を迎えて、「また行こう!」と決意したのです。そのようにして誰も知らない中で道を開き、支援しようとして資金を送ったのに、資金は全部どこかに行ってしまいました。


日本宣教の開拓

 そのように、日本に我々が宣教事業を開拓したのが一九五八年です。その時は自由党の治下であり、韓日国交正常化を絶対に反対していた時でした。

 しかしそうした環境にありながら、統一教会のすべての食口たちを、未来の十年、二十年の長期間を見通して教育をしてきたのです。より新しい思想観に立脚して、キリスト教を考え、共産主義を考えながら、今後、民主世界と共産世界が終わったのちにはどんな世界になるべきか、という問題を中心として教育してきたのです。

 日本国内に行って糾弾を受けるのではなく、日本人たちを教化して、どのように我々が主体的な立場で土着化できるか、それだけが、未来に韓国が生きる道を開くことだと考えたのです。日本に宣教に行ったその青年は、日本で身を隠した立場で統一教会の開拓伝道を行い、正に新しい基盤を形成するようになったのです。それで我々は、どんな国民的運動よりも、日本の前に道を開こうとしました。韓国が生きようとするならば、必ず日本を背負わなければならないのです。そして、必ず米国に連結させなければならないのです。


米国開拓の宣教師を派遣:金永雲(一九五九・一・二)、金相哲(一九五九・九・一八)、
             朴普煕(一九六四・一二・二九)


 最も激しい迫害を受ける中でも、私の祈祷と関心は韓国のためのものではありませんでした。私は、日本とアメリカに宣教師を送るために最善を尽くしました。その当時、我々が米国に宣教師を送るということは、誰も考えられないことでした。そのような環境であったにもかかわらず、私は米国に原理の種を蒔くために誰かを送らなければならないと決心し、日夜苦労を惜しまなかったのです。

 自由党時代に先生を殺そうとしたことを条件として、外国宣教の道を開拓したのです。

 自由党の時代に、私は西大門刑務所に入って出てきました。出てきてから、その反対した長官らに旅券を出させて、米国に宣教師を送ったのです。

 米国に宣教師を送る時は、自由党を利用しました。もしそうしなかったなら、今日このような勝利の基盤は、絶対に準備されることはなかったでしょう。

 私は米国ならば米国と戦うときにおいては、卑怯で人を欺くような立場で、仮装して戦うようなことはしないのです。正、堂、と戦うのです。正面からぶつかるのです。そうしようとするなら、その国に必要な要件を教えてあげ、その基盤を通して前進できなければなりません。それも見せてあげずに前進しては、滅びるのです。そのためには基盤が必要なのです。世界舞台に向かって一九五〇年代からそれを準備し、築いてきたのです。すべてのことを、あらかじめ準備しました。

 先生が世界的な仕事をするためには、ただ思いつくままにそうするのではなく、数十年前から計画するのです。誰も協助しない中で、そのような仕事をするのは、易しいことではありません。


米国初期開拓宣教

 すべてが反対しましたが、米国を立てて早く背水の陣を敷かれなければ、韓国はどこへ行くのでしょうか。それで、「巨大な米国を早く収拾しなければ、大韓民国は滅びる」と作戦命令を下し、西部と東部に三人を送ったのです。

 米国に宣教に行った金永雲先生が伝道する時、ただ伝道するのではなく、霊通人を訪ねていって伝道したというのです。「さあ、この本が何の本なのか祈祷してみてください」と言いながら伝道しました。本当に高次的な伝道方法でしょう。「私が誰なのか祈祷してみてください」と言ったのです。彼らが祈祷してみると、激しくしかりつける声が聞こえるのです。「その方が門を開けて入ってきたら、「気をつけ」をして敬拝を捧げて迎え入れなさい。その方はお金がないので、お金を渡しなさい」と夢で教えてくれたそうです。統一教会は、米国でそのように出発したのです。


三 全国食口の組織訓練と事業

消印のついた切手収集と販売事業(一九五六・七から七年間)

 今まで全国的に切手収集の行事に参加しています。取るに足らない小さな切手一枚をはがしても、ほんの何銭にもならないのです。けれども、皆さんが関心をもって一枚の切手をはがすということは、崇高な努力なのです。さらに、切手収集で賞をもらった人たちを見れば、大概若い人たちです。今の中高等学生たちが多いというのです。

 先生はある時、「統一教会信徒たちは誰でも、一ヵ月に三回ずつは食口同士で手紙を書きなさい」と言いました。皆さんが手紙を出す時に、もし四十ウォン切手をはらずに一ウォン切手をはるようにすれば、我々は教会事業部を後援する結果をもたらします。三回ずつだったら百二十ウォンです。そのように我々が何の価値もない紙くずになってしまう切手を使うことで、そういう効果をもたらすようになるのです。

 そのように見る時、我々の動きはささいなことのようですが、これを全体的に、国家的に見る時、莫大な利益をもたらすことになるというのです。そのようなささいな問題に対し関心をもつということを、我々統一信徒において、今後なくてはならない重要な一つの慣習として残さなければならないのです。それゆえ、壮年たちもそのような面に関心をもって、たくさん努力するようにお願いします。

 今まで切手収集をすることによって、伝道するのに莫大な貢献をなしています。皆さんが一枚一枚このように集めてくれた切手によって、昨年(一九五九年)に得た金額が、百万ウォン近くになりました。今、ここにいる中高校生が切手収集に努力したという話を聞きましたが、どんな時でもそのような精神を忘れずに、生活面においても切手収集に関心をもってくださるようお願いします。

 それで、これが一つの習慣になれば、我々統一教会の信徒の動きに精神的な団結をもたらします。これを収集して、もちろん利益を得るという一面もあるでしょうが、このような行事により精神的な統一がなされ、互いが一つの共同目標において、同じ心情で生活感情を共にするようになるのです。それは誰もが褒めたたえることができる精神であると見ることができます。


教会食口の組織を編成

 今日、我々の教会において男性三人、女性三人、というように三位基台をつくりました。なぜそのようにつくったのかというと、今後主に侍らなければならない我々において、アダム家庭のアダムの三人の息子と、三人の嫁の型に代わり得る模型を備えなければならないためです。

 そして三位基台を造成するにおいても、皆さんは三つの三位基台を中心として、十人が団結しなくてはなりません。三つの三位基台を中心として班をつくることには何の意味があるかというと、縦的に見るとアダムの時からノアまで十代を身代わりするのであり、班長は二人の責任があるために、十二人型を備えたと見ることができます。これはまた、ノアからヤコブまで十二代を身代わりすることができる型であり、歴史的な面、すなわち縦的な面においては十代と十二代を身代わりすることができる型です。

 そのように三つの班が合わさり一つの組になりますが、一つの組は三十六数、三十六人を身代わりすることになります。これはヤコブの十二人の子供、モーセの十二支派、イエス様の十二使徒を表示するのであり、六千年の歴史的な代表を合わせたものを象徴する数が三十六数ということです。

 男性三十六人、女性三十六人を合わせれば、七十二人になります。それでイエス様を中心として七十門徒があり、モーセを中心として七十長老、ヤコブの七十人の家族がありました。イエス様と七十門徒とイエス様の新婦を合わせれば七十二人になります。今日、天地の度数を合わせるべき使命が我々にあるので、我々はこの峠を越えなければならないのです。

 それゆえに、今年(一九五八年)の天の命令は、皆さんを死ぬほどに訓練しろということです。今年は修練の年、試練の年として、いかなる苦痛も凛々しく越えられる年となるようにすべきであり、十二人以上の心を合わせてくれる人を早く立てなければなりません。

 きょうは一月三日ですが、皆さん、断固として決心しなければなりません。三ヵ月に一回ずつ三位基台を変更する時、皆さんは誰と組まれようと一つにならなければなりません。皆さんは三位基台として結ばれた相手に「あなたは長い六千年の摂理歴史を巡り巡って、何の因縁があって私と結ばれたのだろうか」と考えながら、歴史的な運命の対面だと感じるべきなのです。そうして三人が一つなり、十人が一つになり、三十六人、七十人が一つにならなければならないのです。


全国の名山、大寺院を踏査して祈祷(一九五八〜五九)

 先生は全国の山河の景色の良い所に行き、祈祷してあげたのです。「やあ、私は君を祝福しに来た。君を見て、君にお世話になろうというのではなく、君が歴史始まって以来、真なる一人の主人を願ってきたことを知ったので、君たちに愛を与えよう」と、全国の山河を歩きながら、そのような祈祷を本当にたくさんしました。変わった人でしょう。

 私が全国の山河を歩き回るのは、遊覧するためではないのです。多くの人が観光地に行って見物をしたとしても、私は違うのです。涙を流しながら祈祷をたくさんしたのです。雪岳山に行っても、俗離山に行っても祈祷したのです。山河を訪ねる人はたくさんいましたが、心から神様の心情と、山河が求めている心情をもって訪ねた人がいるでしょうか。


統一産業青坡洞工場(一九五九)

 昔、青坡洞に統一産業をつくる時、日本人が建てた家屋の後ろに、約半坪ぐらいの煉炭を置いた場所がありました。当時、旋盤がどこにありますか。旋盤がないから、日本人が使っていた古い物を、当時、貨幣改革の前に七十二万ウォン払って買ってきました。その時、私はそれを見て、「これが七千台、七万台の機械になるのであり、大韓民国の軍需産業とか自動車工業まで発展させるだろう。信じなさい!」と言いました。その当時であれば、あなた方はそれを信じられましたか。それが信じられるようなものであったかというのです。


第一回全国伝道師修練会(一九五九・一・一〇〜二・二〇、青坡洞本部教会、二百七名)

 〔開会祈祷〕地方に散らばり戦っていたあなたの息子、娘たちが、この一週間を通して新しい覚悟と新しい決心と新しい武装をするために集まりましたので、この修練会を通して、お父様の栄光の痕跡を、体で、心で体恤できるように許諾してください。

 今回のこの期間を通して、天の心情を体恤するよう許諾してくださり、この機会にお父様のみ旨を成すために歩んでいった人、の、その跡を知ることができるように許諾してください。前線に出てお父様の息子、娘が戦っていった、その戦いの路程を教えてくださいまして、天の事情を理解できる、天が永遠につかんで放すことのできない息子、娘となるようしてくださいますことを心よりお願い申し上げます。

 今、私たちに与えてくださった修練期間を通して修練を受け、出発したあなたの息子、娘たちは、懇切な心情と、新しい覚悟と決心で、この三千里(韓国)津々浦々に散らばりましたので、お父様、彼らの行く道を開いてくださり、戦いをする時には力を与えてくださり、天の権限を立てるようにしてくださいまして、天の実権の行使をするのに不足がないようしてくださいますことを、切にお願い申し上げます。

 受けた鉄の杖のみ言と生命の盾で、怨讐をはね除けることができる能力を彼らに与えてくださいまして、天的な勝利の栄光を彼らに与えてくださいますことを、切にお願い申し上げます。


第二回全国伝道師修練会
  (一九五九・七・二〇〜八・三一、京畿道華城郡梅松面野木里、三十五名)


 我々統一教会が出発した時、水原で今後水産業を経営するために、若いメンバーを連れて、教育しながら訓練しました。野木という所は、本当に水が多い所です。そこに千年も住んでいる何かがいるとか、人が入ったことがなくて、一度入れば出てくることができないとか、服の端を引っ張られるとか、あらゆるうわさが立っていました。そこを襲撃するのです。

 魚がいったん入れば、出てくることができない網を作るのです。そのような網を考案して作って、それを張って魚を追いやるのです。底の方には、蛇やいろいろなものがいるのです。

 また、蓮の花で「コウホネ」というのがあります。茎から葉っぱまで、アカシアのように、犬山椒のように、全部とげがあります。これに一度刺されると、真っ赤になって必ず化膿します。緑豆のようになって一日中膿みます。そっとふくらはぎを上げて見れば、全部刺されているのです。

 その時の修練が、第二回でした。その第二回の修練生たちが、今統一教会の幹部になったのですが、野木で雷魚を捕まえる修練の方法がどうだった、なまずを捕まえる方法がどうだった、蛇を捕まえる方法がどうだったと、どこに行ってもその話が出てくるのです。

 その網はとても大きかったのです。何百尋ですか。何千尋ですか。約二千尋の道を渡って行ったのです。竿は人の身長の五、六倍になります。その中に魚が入ってくれば、全部捕まえるのです。

 みな真っ黒になって、年を取った人も、若い人も同じなのです。顔がみんな真っ黒になっているので、年が分かりますか。みんな真っ黒で、目だけがきらきらしていて、そうしながら、日が沈むのも忘れて魚を捕まえようとしているのです。そういうことが必要です。国を思いみ旨を思う時、忘れられない生涯の一部分ではないかというのです。春夏秋冬、季節によって自分の生涯に残る印象を残しておかなければなりません。そのように訓練を受けた者たちは、離れることができないのです。

 金栄輝の母親になる金スナが、水に入っていったのですが、ずぽっと入っていって、ぷかぷかと流されていくのです。この人は泳げないので、そのまま流れていくのです。水を思いきり飲んで、ある程度流されると誰かが救い上げてくれました。十メートルほど流されたのですが、「大丈夫か」と聞くと、「何でもない」と平然としているのです。そのような逸話が本当にたくさんあります。

 女性もパンツをはいて歩き回ったので、ひとしきり走ると、半分脱げてしまっていても気がつかないのです。パンツが引っ掛かって、お尻が出ていても気がつかないのです。お尻を出したまま町内にある井戸の所まで行くので、指を指されて非難を受けるのです。

 そのようにしながら修練し、み言を受けて、精神と体と生活がごちゃまぜになって一つになるのです。それが生きているのです。ここから野木へ行こうとすれば、一時間四十分ほどかかります。

 野木に三姉妹がいました。二人は未亡人で、一人は姪に当たります。その三人が一つになって、先生が来るようにと昼夜祈祷するのです。そのように引き寄せるので、先生はどこに行っても「野木に行こう!」となるのです。

 行ってみると祈祷しているのです。それで、「この女たちめ、夜通し『先生来てください』と祈祷しただろう。腹をすかせながら祈祷しただろ。こいつら! 誰が祈祷しろと言った」と言うと、「統一教会の信徒が数万名いますが、自分たちがその人たちよりもっと切実な思いで祈祷すれば、来られると思って祈祷しました。神様が命令してそのようになったのです。私たちに罪がありますか」と言うのです。


狩猟と魚取り(一九六〇年前後)

 先生は一九六一年までは、食口たちを山や川にたびたび連れていきました。

 昔、私がなぜ猪狩りによく行ったのか知っていますか。若い者を訓練する場所を探して回ったのです。遊び半分で狩猟に行ったのではありません。高い山の尾根や、のみ込まれて死ぬかもしれない深い谷間を巡りながら、猪狩りをした理由は、共産党を神様の怨讐と考えたからです。「こういう谷間に全部ほうり込んで訓練させよう。何人生き残るかみてみよう」と考えるのです。しかし、そのように訓練するところにおいて、死んではならないというのです。

 冬には山の中が、どんなに寒いか知っていますか。けもの道を見張り続ける人の凄涼とした心情が分かりますか。ああ、汗を流しながら登って行き座っていると、全部凍ってくるのです。氷の棒になっていくのです。指も凍り、長く伸びたものは、みなそうなのです(笑い)。

 そんな場所で一番取り扱いに困ったのが男性のそれです。それが凍ってくるのですが、どうしたらいいですか。それをつかんで、たたいてうんうん唸っていては、ノロジカや猪のやつがみんな逃げていくのです。だから声を出さないで、じっと座っていようとするので大変です。ああ、次からは、絶対に行くまいと思うのですが、その季節になればまた行ってしまうのです。そんな狩りの魅力を感じたことがなければなりません。釣りの魅力もそうです。そういうことを感じることができてこそ、真理探求の価値ある魅力も感じることができるのです。

 それは誰かが行けと言って行くのですか。先生は、誰かに命じられてするのですか。やらないと、体がむずむずして眠れないのです。明け方早くから飛んで回らないとおさまらないのです。


西海での釣りの時の事故

 その時がいつだったか、多分一九五九年か一九六〇年だったはずです。先生が聖婚式をする前なので、そのくらいの時です。オパール号という船に乗って西海に釣りをしに行ったのですが、その船に乗っていると何か悪い兆しを感じるのです。船が出発する時からとても気分が良くないのです。釣りをして、たこを一匹捕まえても気分が良くないのです。それで魚釣りを中止して、船を運転して海辺まで来たのですが、雨が降り始めました。私を含めて六人で行ったのですが、海辺にいてもよくないと思い、私は二人を連れて陸に上がりました。しかし三人は、「自分たちは心配はない」と言い張るので、彼らをそのまま船に残したのです。

 ところが突然、台風になりました。夜なので船は見えません。波が船に押し寄せれば、船と岩が実力で対決しようとするように互いにぶつかり合って、船がぱらばらになってしまうのです。それでその人たちを助けるために山に駆け上ったのですが、台風によって激しく降りつける砂粒のような雨粒が、やたらに強くたたきつけるのです。痛いとか、そんなことを考える余裕がどこにありますか。我を忘れて走るのです。そんな中で、私が彼らのために必死になっている以上に神様は心配されていると感じながら祈祷したのです。

 その人たちの気持ちはどうだったでしょうか。助けてくれようとする人が、早く来てくれるのを願っていたに違いありません。「ああ私は死ぬ。ああ私は死ぬ」と言いながら、彼らは生死の境に置かれていたために、心の中で何千回も死を意識したはずです。そのような立場から、再び生の歓喜が起きたがゆえに、新しい生命力がわき上がったのです。


四 真の御父母様聖婚直前の三年期間(一九五七・七〜一九六〇・四)

解放後十四年の蕩減路程(一九四五〜一九六〇)

 イエス様がこの地に来られた時、誰も知らない中で、摂理の基盤を継承し、ユダヤ民族の中心家庭であるヨセフ家庭からみ旨を展開し、そうしてすべての上流階級にまでみ旨を展開しようとされたのです。しかし、そのみ旨が成されなくなるや、反対の立場から出発したのです。

 同じように今日統一教会が行く道も、蕩減復帰の原則によって、イエス様の時のように、悲惨な路程を歩みながら、一番末端から出発しなければならないのです。

 それで、韓国にある教団という教団が全部反対し、全民族が歓迎しない中で、統一教会の信徒は一番末端から上がってくる運動をしてきたのです。そのように歩んできた一九六〇年までの期間は、ヤコブ路程における十四年期間に相当するために、この期間内に天的な計画を決定しなければならないのです。国家が反対し、宗教界が最高度に反対する熾烈な戦いの中で、み旨を成さなければならなかったのです。

 解放後十四年ですから一九六〇年の初期です。この十四年というのは蘇生七年、長成七年ですから、長成期完成級の基準になるのです。イエス様の七年路程において、第一次は旧約時代で、第二次は新約時代です。新約時代に該当するイエス様における長成期完成級を中心として、この期間に該当する一九六〇年代に入って、国家が反対したすべてのことを奪ってくるのです。それで第二次七年路程において、イエス様が失ってしまった霊的、肉的基準を連結させる摂理をしなければならないのです。

 一九五四年から一九六〇年まで七年間ですが、この期間に氏族的基盤を確定しなければならなかったのです。イエス様が氏族的基盤を成せなかったことを蕩減して、基盤を築かなければならないのです。統一教会を中心として一九五四年から強力な反対の歴史に入っていきました。国家が一丸となって、反対する中で、七年間に国家に影響を及ぼさなければならなかったのです。どんなに反対し、どんなに思いのままに、なくそうとしても、なくすことのできない環境へと乗り越えて行かなければならなかったのです。氏族がなければ、民族へと行く道がないのです。イエス様の時、氏族的版図を中心として、ユダヤの国とユダヤ教を一つにして、ローマから世界へと行くべき道をもたなけれぱならなかったように、今日我々統一教会もそれと同じだというのです。


聖婚直前の三年期間

 個人的十字架の峠を、国家が反対する次元で再び越えなければならないのです。そのために、皆さんが知っているように、一九五六年以後に国家的な反対事件が起きたのです。全体が反対したのです。誰一人同情する人がいませんでした。洗礼ヨハネが失敗したことにより、イエス様は三年路程の道を行き、民族全体が反対しても、低い所から収拾して上がっていき、その国の教権者たちと主権者たちがイエス様を迎え入れることのできる時まで、最高の反対を受けながら、戦って勝利しなければなりませんでした。そうでなければ、家庭的勝利圏を立てることができないのがイエス様の道でした。しかし、個人的十字架の途上において追い込まれ、その峠を越えることができず十字架にかけられたのが、イエス様の行った道でした。

 それで、一九五七年から一九六〇年までの三年期間に反対が最高度に高まったのです。その期間は、どんなに国が反対し、手錠を掛けられて死の道を行ったとしても、断固として命懸けで闘争しなければならない期間でした。それが一九六〇年まででした。皆さんは知りませんが、一九五九年後半から一九六〇年四月までの約七ヵ月間が、最高の受難期でした。その期間において、統一教会を出て行った人たちが、イエス様に十二弟子が反対したのと同じように、結束して反対してきたのです。それを原理的に見れば、本当に恐ろしいほどぴったり合っているのです。

 しかし、数多くの人、が反対すればするほど神様に感謝しながら、私は神様を慰めてあげようと身もだえしました。そうして、サタンが侵害しようとする時、神様が勝利の役事を起こしたのです。


一九六〇年度以前のみ言の性格

 見てごらんなさい。一九六〇年までは、すべてイエス様に対する講義をしました。先生の説教集を調べてみてください。イエス様について、すべて詳細に秘密を明らかにしたのです。

 六〇年度に「父母の日」が設定される時までの先生の説教集(文鮮明先生御言葉選集第一巻第八集)を見ると、すべてイエス様を中心として話しているでしょう。先生を中心としては話さなかったのです。復帰路程において、イエス様が果たせなかったことを解怨してあげなければならないのです。イエス様を十字架につけた、サタンの立ち会いのもとで、「私がこういう条件を提示したので、お前はもう後退しなければならないだろう」と言って、「そのとおりです」と言わせることのできる証を立てていく歩みを、イエス様に代わってしなければならないのです。そうでなければ、神様の摂理を正しくとらえて進むことができません。そのような激しい闘争の歴史を、見極めて行かなければならないのです。そのことを誰が知っているのかというのです。

 それゆえ神霊に通じる人たちが、文先生について「いったい文先生はどんな人ですか」と祈祷すれば、痛哭するようになるのです。舌が硬直し、はらわたがねじれ、涙があふれ、鼻水が流れ、唇が渇いてしまう、そんなことが起こるのです。天が痛哭させるのです。しかしそのような痛哭をしても、先生を理解することができないのです。先生の行く道を知ることができないというのです。


僕の僕、僕、養子、子女、父母時代蕩減復帰

 統一教会は、何をするためのものですか。僕の僕の時代から、僕の時代、養子の時代、子女の時代を経て、父母の時代まで、蕩減復帰の路程に失敗したキリスト教に連結されたすべての使命を再び立てて蕩減復帰しようというのです。こういう観点で見る時、一九六〇年の前までは、どんな使命を果たさなければならないかというと、統一教会の食口たち自身が四方に散らばって、僕の僕の道理をわきまえ、僕の道理をわきまえ、養子の道理をわきまえ、国家と民族の前に、いかなる受難を受けてもそれを克服して、天の前に統一できる一つの群れを形成し、発展させなければならなかったのです。

 それゆえ、僕の僕とか、僕とか、養子とか、あるいは息子とかいう立場まで引き上げるためには、サタンとのご縁に立って対決し、勝利する群れにならなければならないのです。その一線がどこかといえば、国家なのです。大韓民国という国家の舞台の上に立ち、様々な辱めを受けなければならないのです。もし、大韓民国の反対がなかったとしたら、世界的蕩減路程に継承していくことができなかったのです。その過程における統一教会の歴史をたどってみれば、正に悲惨な歴史なのです。涙でにじんだ歴史でした。

 迫害を受けながら、国家とぶつかって迫害を受ける時代に入っていったのです。それで一九五七年から伝道を始めたのです。そして三年半を過ぎ、四年目に大変な激動の時代に入っていったのです。国が反対し、教会が反対し、聖進様の母親の家庭が反対し、全部が反対しました。しかし、先生の家庭だけは反対しなかったのです。先生には、弟の話はどんな話でも絶対服従する兄がいたのです。そのような立場から、洗礼ヨハネのような家庭を立てていき、エバを選ぶことのできる基盤だけ築けば、ここから復帰の基準が可能であると見ることができます。

 そのようにしながら、内的問題においては内的サタン、外的な面においては外的サタンが、合同で戦いをしかけてくるその一番複雑な渦中において、一九六〇年四月十一日、陰暦三月十六日に聖婚式を挙げたのです。どんなに十字架の迫害が多いとしても、私自身は鉄石のような信念をもって、あらゆる反対の環境を踏みつぶして、その日を迎えたのが一九六〇年です。そこから次元が変わり、一つの峠を越えたのです。



2004.7.1












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