祝福家庭と理想天国
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成約のみ言
救援摂理史の原理観
  一九九六年九月十日から二十九日まで世界二十二カ国四十三都市で講演
  一九九七年三月十三日から四月三日まで韓国二十二都市で講演


 尊敬するご来賓、世界平和家庭連合の会員、そして紳士淑女の皆様!

 新緑の季節八月を送り、すでに五穀が実る天高く馬肥ゆる豊かな結実の季節、秋の初めに、私たちすべてが顔を向かい合わせて座り、自らを確立してみる時が来ました。

 このような時に、私はきょう、各界の高名なる指導者の皆様とともに、人間の生命の揺籃であり、平和世界の礎石たる真の家庭に関して共にお話を分かち合えることを無限の喜びと考えます。きょうのこの集いが未来に健全な家庭と平和世界を築く貴い動機となるようにお願いします。

 神様は絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのみ旨も同じなのです。もし人間始祖アダム、エバが神様の愛で一体になったなら、万事は完全、完成なのです。ですから、神様の出発、目的とその過程も、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。人間始祖アダム、エバは無知から堕落し、混沌に陥りました。個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的無知と混沌に陥るようになりました。

 この堕落圏を逃れるためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。終わりの日にメシヤが来て、神側で見る唯一、絶対、永遠、不変なる原因と方向と結果をはっきり教えてあげ、無知と混沌世界を清算して本然の神様の懐に帰るべきなのが、み旨の完成です。そのようにならなければ、終わりの日に、すべての宗教も、主義や思想も、国家も、皆滅びるようになるのです。

 今、私たち人類はわずか数年で二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に差しかかります。このような重大な時点で、私はきょう、「救援摂理史の原理観」を主題としたお話で、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。

 創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことをご存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。本来、真の愛は経験を通して得て、体恤を通して分かるようになっていました。真の愛は言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊としてつくられたアダムとエバは成長しながら、段階的に生活を通して経験をすることによって、真なる子女の心情、真なる兄弟の心情、真なる夫婦の心情、真なる父母の心情を体恤することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

 人は自分の愛する相対が、自分より何千万倍、いや無限大の価値的存在として生まれることを願います。このように神様も、ご自身が愛する相対である人間が、無限なる価値的存在になることを願われるのです。人間が完成すれば神性をもち、天の父が完全であるように、完全で神的な価値をもつのです。神様は絶対者であられますが、真の愛の理想は一人では成されません。愛の理想は必ず相対を要求するからです。私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が互いにいかなる連関をもっているかを知らなければなりません。もし、神様が真の愛の絶対的な対象として人間を立てずに、ほかの方法を通してご自身の真の愛の出発と完成を成そうとされたなら、どのようになったでしょうか?

 神様と人間の真の愛の理想は、おのおの動機が異なり、二つの愛の方向と目的は異なるしかなくなります。もしそうなるなら、神様の愛の理想は人間より上位の、またほかの愛の対象を立てて成さなければならず、一方で人間の愛の理想は神様と直接的な関係を持てなくなってしまいます。

 真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高最善の愛の対象としてつくられました。それゆえに、人間は創造物の中で唯一、神様の実体を身につけた対象なのです。

 無形の神様の前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の宮になります。神様が自由に、また平安にいつも入ってきて、住まわれることのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的な理想は、人間を通して父母と息子の縦的関係で実現、完成します。神様はご自身の体としてアダムを先につくりました。アダムは神様の息子であると同時に、体をもった神様自身でもあります。

 その次に、アダムの相対者としてエバをつくって、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。

 アダムとエバが完成して神様の祝福の下で結婚し、初愛を結ぶその場は、すなわち神様が実体の新婦を迎える場なのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実完成するようになるのです。神様の創造は必然でした。目的のない創造は考えることができません。神様において創造が必要であった理由は、ただ一つ、真の愛の理想でした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、おのおの主体と対象、陽性と陰性のカップルで展開なさった理由も、愛の理想の下で相対関係を形成するためなのです。創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は別個ではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようになさったのが、創造原理です。

 初めに人間をアダムとエバ一男一女として創造なさった理由もここにあります。神様の創造目的はアダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って真の人として完成することです。さらには神様の真の愛で一つとなった真なる夫婦になるのです。また、彼らがその真の愛の中で息子・娘をもち、幸福に豊かに暮らすことのできる真の父母になることです。アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。そして、彼らが真なる夫婦として完成することは、まさに神様の絶対的な愛の理想の完成を意味します。

 次に、アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定し、また神様が人間の血統を通して子々孫々を繁栄なさることによって、天上天国の市民を無限にされたかった理想を成就なさろうとされたのです。

 ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンから追われるとき、彼らは子女を抱えていませんでした。神様が追い出したアダムとエバをエデンの外まで訪ねて行って祝福し、結婚式をしてあげられたはずは絶対にありません。全人類は神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の後孫です。

 満場のご来賓の皆様!

 人類の堕落が木の実を取って食べた結果でありうるでしょうか? アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。

 本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことを顧みないでまで犯しうる可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。

 神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。堕落したアダムとエバの後孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪があるようになりました。

 人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しました。愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。

 しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子・娘である人間が無限なる愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真なる自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか? 至高なる愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。

 その責任性は次の三つとして考えることができます。第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

 第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の、自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。

 第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。

 家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真なる子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真なる家庭以外、そのどこでも得ることはできません。アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦となれば、神様は理想どおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながら、エバを愛されるようになるのです。

 さらには、アダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発となったことでしょう。ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となって、悪なる夫婦、悪なる父母、悪なる先祖となってしまいました。彼らの結合は悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根となってしまったのです。人類はすべてこの根に根源をおいたので、生まれるときからすべてが、神様の怨讐であり姦夫であるサタンの後孫になり、悪なる父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。

 親愛なる紳士淑女の皆様!

 人類の先祖の堕落で真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛がどれほど大きかったでしょうか? 神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母であるご自身が分からず、むしろサタンに仕えるのに、神様は救援歴史をしてこられたのです。

 絶対的な神様の創造理想も絶対的であるので、悲しい救援歴史をなさるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を再び回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。このような点で、復帰摂理の根本は、どうすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだせるかにあるようになります。

 神様が一番嫌う姦夫であるサタンの偽りの愛から由来した生命と血統を、清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母を、どのようにして生まれさせるかということです。人間始祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫なる血統関係を結んでサタンの主管を受けるようになったので、神様が直接立って原状回復させることができないのです。

 神様は天使長側に回った人類を、条件なしに善なる立場から選ぶことも、打つこともできないのです。神様は善なる天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減条件を立てるようにして、奪ってくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打った側が滅びました。復帰摂理を概観すれば、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブの時、モーセの時、イエス様の時、皆そうでした。

 堕落の張本人であるエバの代わりに責任を果たすお母さんを立て、次子と母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立させるための摂理が存在してきたからです。神様は、堕落によって人類を先に占有したサタンと血縁的に直結した長子に、直接対することがおできになりません。神様は善側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪側を代表する長子を屈服させることで、善なる血統を復帰してこられました。

 アダム家庭で、神様は次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をなさいました。堕落した母親ですが、そのエバによる兄弟を一つにしようとする努力がありましたが、結局はカインがアベルを殺害することによって、救援摂理は終結を見ることができず、延長し始めたのです。ノアの時も母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカ、ヤコブの時からです。

 人類の堕落はアダム、エバ、天使長、このように三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰の原則は百八十度反対の道を通してなされるのです。

 真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も、堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。

 根は神様に置きましたが、後のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がまさにここにあるのです。

 この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のために、先にお母さんがいなければなりません。お母さんが息子を産むにしても、ただそのまま産むことはできないのです。必ず、復帰の公式を通して産まなければならないのです。

 復帰摂理の中に現れた母子協助は、すべてが天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。母子共にサタンの攻撃を免れることのできる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。神様の摂理の歴史を記録した聖書の中に、理解することのできない記録がたくさんあります。

 リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助けて彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いたこの母子の側に立たれて、彼らを祝福し続けられました。アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が胎外で争って、次子のアベルがかえって殺されました。

 ヤコブは、アベル以後、善の側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンに追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利の条件と、実体の天使長の体であるエサウを屈服させることによって、歴史以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に歳が四十代でした。サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間も、サタンの分立がなされなければなりません。

 結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。タマルはユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので死んでしまいました。当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与えて子供を産むようにしましたが、オナンは生まれる子供が自分のものにならないことを知り、精子を地に流しました。これが神様の前に罪となってオナンも死んでしまいます。

 タマルはユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子たちが死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が絶たれることを心配したからです。タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレヅです。

 タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。このような条件の上に、選民の血族を集め、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。

 神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴のない立場を探すことができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に、聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ1:31)ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と言いながら、絶対信仰で神様のみ意を受け止めました。マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。

 ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠した洗礼ヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ1:42〜43)とイエス様の懐胎を証ししました。このように神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。

 イエス様をザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを、国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。

 歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。

 当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことを、マリヤが成し遂げなければなりませんでした。三人が全部霊的に感動したし、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。

 神様の息子はたとえ着地したといっても、サタンの世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要なのです。神様はザカリヤの家庭の三人に、その基盤となってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。

 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ1:56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は、最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。

 この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか? 愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。

 その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか? もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか? ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。

 これによってマリヤは、婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶がたくさんありました。

 特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係において心情的な距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。

 メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦をお迎えにならなければなりません。天使長がアダムと兄妹のように育ったエバを、偽りの愛で堕落させた立場を、根本的に復帰すべきイエス様であられます。したがって、アダムを代身して神様の息子として来られたイエス様は、天使長型の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような基台が皆崩れてしまいました。

 もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下で、初めにもった絶対的な信仰をもち続けていたなら、状況は全然違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは三か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、この上ない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったはずでした。

 また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしたはずです。しかし、不幸にも、ザカリヤも、エリサベツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証ししただけであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。

 尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまいました。民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い、人間的な考えに流れたときに、イエス様が願われた、新婦を迎えることを助けるはずは絶対になかったのです。次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。

 マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係を保たなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心を持ち続けました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。しかし、現実は、それを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。

 サタンはこれを条件として、彼らに侵入するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。人がサタンの侵入を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。

 これによりマリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えられず、そして真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2:4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ12:48)と言われたみ言葉も、このような基準から理解しなければなりません。

 イエス様は、母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエスの出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)と嘆息されました。

 親族の基盤を失ったイエス様は、それに代わることのできる基盤を探しに出かけたのです。これがイエス様の三年路程でした。しかし、民族が不信し、弟子たちの信仰が弱くなって、サタンの侵入を受けてしまったので、イエス様の基台は崩れ、十字架の道に行かれるしかありませんでした。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信されて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。それゆえ、再臨することを約束されました。

 きょう、このようにイエス様とマリヤに関する内容を詳細に明らかにするのは、これまで既存のカトリックとプロテスタントの反対がたくさんありましたが、聖書でいうように「地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれるであろう」という真理のとおり、イエス様とマリヤを解放させてあげるためなのです。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。

 すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます。彼は、既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在されます。

 すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです。

 それゆえ、再臨主は肉身をもって来られて、新しい血統関係を編成しようとするのであり、これが国際合同結婚式なのです。アダム一家庭で失われたものを世界大家庭圏で蕩減することにより、アダム家庭で完成すべき真の長子権、真の父母権、真の王圏を取り戻し、神様が主管なさる地上天国へと転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上、天上王圏時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。

 これが救援摂理史の原理観です。皆様も将来、この喜ばしく新しい祝福結婚式を受けるようにお願いします。

 親愛なる各界指導者、そしてご来賓の皆様!

 きょう、この意味深い集いに盛況を呈してくださった皆様に、今一度、深く感謝を申し上げます。併せて、皆様すべてがこの歴史的な方向に一致して、平和世界建設に先駆者となってくださるようにお願いします。皆様と皆様のご家庭に神様の祝福がともにありますよう、お祈り申し上げます。

 ありがとうございました。




宇宙の根本を探して
  一九九六年八月一日 アメリカ ワシントンD・C
 尊敬するご来賓の皆様、世界平和家庭連合会員、紳士淑女の皆様!

 冷戦の終息とともに、平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に全地球星に拡大しています。新しい世界的現実を無視したり、直視できない指導者たちは、津波のように押し寄せる変化に流されてしまいます。

 今、私たちは新しい世紀の分岐点に立って、私たちの伝統的な思考方式を再検討してみて、新しい機会と価値観を迎えるのに、果敢に進んでいくべき時だと思います。私はきょう、私の夫である文鮮明総裁が生涯をかけて主唱してきた「世界平和の実現と真の家庭の価値」について、お話をすることができるようになったことを大変な栄光と存じます。

 きょう、私は「宇宙の根本を探して」というテーマでお話しいたします。私たちが宇宙の根本を探していけば神様に帰着しますが、そのお方は、男性格と女性格の二つの性稟を所有しておられるということを知らなければなりません。宇宙の出発の原因がどのようになっているでしょうか? 神様に対してはまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、主体と対象からなっています。存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界を問わず、次元がより高い陽性と陰性が、より低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展していることを知ることができます。

 なぜこのような現象が生じるのでしょうか? このすべての存在世界は、万物の霊長である人間を完成させるべき責任があるからです。鉱物界を見ても、陽性と陰性、すなわち主体と対象が愛という概念のもとに、互いに一体となって存在をしており、植物界も同様に、すべて雄しべと雌しべ、すなわち主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続するのです。最近、医学界では病原菌までも陽性と陰性があると言っています。

 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるのに、何を中心として一つになるのでしょうか? キスすることによってでしょうか? 愛は概念であって実在ではありません。愛が定着することのできる実在は何でしょうか? 男性が男性になり、女性が女性になるようにするものが何であるかを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器です。それを卑しく思う人がいますか? 貴く思うとすれば、どのくらい貴く思うでしょうか? 今までは、それが善くないものと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。

 未来の世界はどのような世界でしょうか? 生殖器を絶対的に貴く思う世界になるなら、その世界が善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか? 栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか? 冗談で言っているのではありません。神様が人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めてお造りになった所がどこでしょうか? 目ですか、鼻ですか? 心臓でしょうか? でなければ頭脳でしょうか? これらは全部、死んでなくなってしまうのです。実際、そうではないでしょうか?

 世界平和のための家庭連合の目的は何でしょうか? 道徳と宗教、すべての分野を完全に超越し、生殖器が一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるなら、どのような世の中になるでしょうか? 男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人はだれでしょうか? 夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。明快な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。

 あらゆる男性たちは、それが自分のものだと考え、またあらゆる女性たちも、それが自分たちの所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いが主人を間違えているという話です。すべての人たちは、愛は絶対的であり、永遠なるものだといいながら、夢のようなものとだけ考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っているということをはっきり知るなら、世の中がこれほどまでにはならなかったはずです。博士や学者は数多くいますが、これ一つ考え抜いた人がいないというのです。

 皆様はこの真理を否定できますか? 皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるお方と、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねても、全部、同意するようになっているのです。これが鉄則なのです。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るので鉄則です。

 そして、この鉄則によって、神様の前に出ていけば、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然なのです。アダムとエバの堕落も知ってみれば、まさにこの鉄則に背いたところに由来しているのです。アダムやエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有だと錯覚したのです。

 考えてみてください。神様が善悪を知る木の実を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出しますか? 根本的な問題を誤って、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や、植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバが知らなかったというのです。

 では、生殖器は何のために存在するのでしょうか? それは愛のためです。愛を探すためにそのように男性と女性として生まれたというのです。神様の属性は何でしょうか? 神様は絶対的、唯一、永遠、不変であられるお方です。そうだとすれば、愛の主人はだれでしょうか? 男性でもなく、女性でもありません。そのお方がまさに神様であられます。愛を中心として愛を通してのみ、神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか? 絶対的愛を願われます。皆様はどうでしょうか? 私たちも同じです。

 神様が絶対的愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とするように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠なる愛を必要とするのです。皆、神様に似なければならないのです。神様自身が男性格、女性格、陽性と陰性をもっておられるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。

 このように結婚を通して縦的な神様の愛が、横的に完全統一されるように追求したものが神様のみ旨だったのです。人間の体はこの地を代表した横的なものです。すなわちそれが肉身です。それと反対に、良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを求めるのです。したがって、人間は神様の縦的な基準と一つになりうる点を探していくのです。その点は中心点でなければならず、まさにこの点で男性と女性が共に出会わなければなりません。そうして、この中心点から出生した人間は、愛とともに幼児の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。

 このとき、肉身は地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟して、ついに体と心が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのようなところであってこそ、絶対的な愛を中心として、絶対的存在である神様も喜び、その愛の対象体である夫婦も幸福になるのです。

 このように、上下の関係である父子の関係、東西の関係である夫婦関係、前後関係である兄弟姉妹関係が、一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造るようになります。このようなゆえんで、父子の関係を東洋では一つの体だといいます。さらには夫婦関係も一つの体であり、兄弟姉妹も一つの体として考えています。何を中心として、このように言うことができるのでしょうか? 真の愛を中心としてこのすべての関係が四方に球形を造るとき、このすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形を造らなければならないのです。その点は一つです! 一つなので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係なので、一つにならなければならないのです。それは真の愛を中心としてです。

 尊敬する世界平和家庭連合の会員の皆様!

 人間の欲望がどれほど高いでしょうか? 皆様の心の欲望は、神様よりも高くなることを願ったりもします。いくら劣った人でも、神様よりも勝った世界の代表者になろうという欲望はもつことができるのです。もし、皆様が神様の愛する息子なら、「お父様、いらしてください!」というとき、神様はそれを拒まれるでしょうか? 皆様の妻がいくら劣っているとしても、本当に愛するなら、妻が呼ぶとき、夫は従うのです。

 このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄さんが呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄さんがついていき、皆が絶対に離れたがらなくなるのです。神様も独りでいれば寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか? どうして分かりますか? 皆様、愛をもっていますか? 生命をもっていますか? 皆様の血統をつなぐことのできる精子と卵子を皆、もっているでしょう? 良心ももっていますか? それなら、愛を見たことがあるでしょうか? 生命、血統、良心を見ましたか? 触ってみたことがありますか?

 その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないということを知らなければなりません。ただ心で感じてのみ知ることができるのです。同じ論理として、神様がいるか、いないかというとき、または神様を見たか、見なかったかと尋ねてみると、見なかったとはいえないのです。見えるものと見えないもの、どちらが重要でしょうか? 見えないものがもっと貴いということを知らなければなりません。

 上品な壇上からこのような話をすれば失礼だと思うでしょうが、実感の出る話なので、例を挙げてみましょう。皆様、毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。大便をするとき、マスクを使って大便をするでしょうか? もし、ほかの人がそばで大便をして、そのような臭いを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分が大便の臭いはそのまま嗅いで、座って、平気なのでしょうか? 自分の体と一つになっているから、自分の大便を汚く感じないのです。

 皆様、幼い時、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか? その味が甘かったでしょうか、塩辛かったでしょうか? なぜ、その鼻くそが汚く感じられなかったのでしょうか? それがまさに私たちの体の一部分だったからです。

 愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスをとれば、感じられないのです。私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、皆もっていますが、独りではそれを感じられないのです。完全にバランスを取っているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここから見つけることができるのです。

 男性でも女性でも、独りのときは愛を感じられませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときは、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃を受けて問題を起こすことを知らなければなりません。だから、しっかりしなければなりません。このような真理を知らずに生きてきたのです。神様も絶対的に愛の相対が必要だという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。

 それなら、神様の愛の相対はだれでしょうか? 猿でしょうか? 人間が結果的存在であるならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるでしょうか? それではお話にならないというのです。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでは、数千の段階の愛の門を通過しなければならないのです。ただ無条件に上がっていきますか? とんでもありません。あらゆる動物も皆、同じです。種の区別は厳格です。だれも占領できません。

 唯物論を信奉する共産主義者たちが猿を先祖として信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が出てくると思いますか? 百年、千年しても無駄骨です。なぜ、できないのでしょうか? 秩序の尊厳性は考えてみるべき問題です。

 そうだとすれば、神様も何を必要とするでしょうか? 何か器官をもっと必要とするでしょうか? 目でしょうか、手でしょうか? 必要とされるのは、私たちが考える五官ではありません。神様は男性格と女性格の二つの性稟をすべて所有しておられますが、父としておられるためには、男性格主体として存在なさるお方です。

 このような基準で見るとき、神様も愛のパートナーが必要でないでしょうか? 被造世界のだれが、果たして神様の愛のパートナーになるでしょうか? 男性独りででしょうか? 女性独りだけでパートナーになれますか? 神様はどんなパートナーを願われるでしょうか? お金のパートナーですか? 知識のパートナーですか? 権力のパートナーですか? 違います! 神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになるその場を中心として顕現なさり、人間と出会うのです。

 なぜその場が神様を中心として一つになる場なのでしょうか? 愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所がまさにその場だからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性格である陽性と女性の性格である陰性が合わさって、大きく陽性的立場で、大きな陰性と合わさって一つになるのです。いつそのようになるかということが問題です。

 結婚とは何でしょうか? なぜ結婚が重要なのでしょうか? 結婚は愛を探していく道だからです。愛する道、生命を創造する道です。男性と女性の生命が一体になる道です。男性と女性の血統が混ざる所です。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ、個人の存在意味もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっています。

 男性と女性は絶対的に一つにならなければならず、父母と子供たちは絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様とともに生きてから、死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国なのです。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような理想的な人がいないので、神様が理想とする天国は空いているのです。今まで死んでいった人類はすべて、地獄に落ちています。天国に入れなかったという話です。

 このような観点から見るとき、イエス様も人類を救うための救世主として来られましたが、昇天した後、天国には行けず、楽園に行っておられることを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨なさることを願われるのです。

 イエス様も結婚して家庭を築き、その家庭とともに神様に侍って暮らしてから、共に天国に入れるのであって、独りでは天国に入れないので、聖書でも「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければなりません。

 皆様の家庭は堕落圏内の家庭です。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されたのです。アダムとエバが赤ん坊を生んだ後に追い出されましたか、追い出された後に赤ん坊を生みましたか? 彼らは追い出された後、神様と無関係な立場で子供を生んだのです。このようなことも知らずに天国に行けるのでしょうか? とんでもありません! 無知からは理想も生まれず、完成もありません。しっかりしなければなりません! このように警告します。

 レバレンド・ムーンの話が正しいか、正しくないか祈祷してみてください。私がこの道を見いだすためにどれほどの受難の道を歩んできたか、だれも知りません。罪なしに監獄に六回も入るほどの苦難に遭い、探し出してきた道です。ところが、他人の大切な息子・娘たちを連れていって、このような真理を教え、あまりにも短時間に方向転換させるので、皆が洗脳したと言うのです。事実とは反対に無神論者たちは、神がいないということを科学的に理論的体系を立てて証明しようとして、自ら崩れてきました。

 それと同様に、キリスト教徒たちは自分たちが信じている教理と違うといって、異端だと責め立てながら、私たちを取り除こうと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端が正統なのです! 反対になることを知らなければなりません。サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌うものはサタン側だということを知らなければなりません。

 思想的空白期に置かれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高等学校、大学校の教材を通して、そして甚だしきに至っては、刑務所の罪人までもその教材を通して、思想武装をしています。ロシアの三千六百の学校でレバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。

 彼らは叫んでいます。「私たちがアメリカに勝らなければならない! レバレンド・ムーンに反対するアメリカに勝らなければならない!」と、西洋の腐敗した退廃風潮であるホモセクシャル、フリーセックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけだと彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカより先にレバレンド・ムーンに従っていこうと、叫んでいるのです。

 皆様! 神様がお好きですか? レバレンド・ムーンがこのようなことを展開しているのをごらんになる神様は、喜ぶでしょうか? 教皇庁の教えと、今度の大会に列席したロバート・シューラー牧師の教えが同じでありえますか? もちろん、統一教会の教えも大きく違います。そうだとすれば、だれの教えが正しいか神様に尋ねてみてください。イエス様と聖母マリヤに対する皆様の理解が間違ったものだと、いくら教えてあげても、それ自体が統一教会に利益になることがあるでしょうか? しかし、皆様が間違いなく知らなければならない一つのことは、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯をかけてこの道を歩んできたのです。

 皆様、イエス様が結婚をしなければならないでしょうか? 結婚をしなければなりませんでした。イエス様は女性ですか、男性ですか? 聖女がいるなら、イエス様も彼女と結婚をしたくなかったでしょうか? 神様はエデンの園にアダムとエバを創造なさりながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそうされたのでしょうか? 彼らが成長すれば、神様が彼らを結婚させてくれるでしょうか、させてくれないでしょうか?

 問題は彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が変わったのです。それゆえ、神様は彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となるべきアダムと、神様の婦人格に立つべきエバが堕落することによって、神様自身の体と理想を病気にかからせ、怨讐になったので、それをごらんになった神様の心情がどれほど大変だったでしょうか? 堕落は自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になりました。

 アダムとエバがエデンの園にどんな種をまいたでしょうか? フリーセックスの種、すなわち節制のない性関係の種をまきました。それを否定できますか? そうしたために、彼らが下半身を覆ったのです。幼子たちも父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば隠すのが本性の作用ではないでしょうか? もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきはずであるのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することができません。

 アダムとエバが堕落して落ちたものを救ってあげるためには、堕落した方向と一八〇度違う逆の経路を通してこそ、救ってあげられるということは、この上なく理論的です。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来なければならないのです。

 メシヤは堕落前、神様が創造したエデンの園の場で、家庭を築くことのできる主人として来られるお方です。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければならないのです。このように、家庭が問題です。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければならなかったのです。この死亡の世界で、だれが自分を救ってくれるかが問題です。

 旧約時代は、「目には目、歯には歯」という原則の下に蕩減してきました。イサクの妻であったリベカをごらんなさい。長子であるエサウと夫までもだまし、次子であるヤコブに祝福を奪い与えた女性ではありませんか? そのような女性を神様はなぜ愛したのでしょうか? そのような神様をどうして信じることができるのでしょうか? 今まで、このような疑問をだれも解決できませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてあげているのです。レバレンド・ムーンだけが神様の秘密を皆、知っているからです。

 では、どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか? どこでしょうか? まさに皆様の生殖器です! 深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実をだれが否定できますか? レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に、説明がなされています。疑問に思えば神様に尋ねてごらんなさい。皆様としては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系立てておいたレバレンド・ムーンの原理の本に、だれしも反対することはできないのです。

 レバレンド・ムーンが天国に行くか、行かないか、気がかりなら、死んで霊界に行ってみれば、分かることです。レバレンド・ムーンがこの道を探すために、死の道を何度も越えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人がレバレンド・ムーンです。歴史以来、だれもレバレンド・ムーンほど神様を愛した人がいません。

 それゆえ、いくら世の中がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共に保護してくださいます。

 生殖器を、目がつぶれた盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これは明白な結論です。

 今、青少年の問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰の下で淫乱によって堕落して、フリーセックスをまいたので、取り入れの時期である終わりの日には、必ず世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延するようになる現象が現れるのです。終わりの日には再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引っ張り上げ、救われる戦略を、サタンは知っています。

 ですから、サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させるときに天使長がそうしたように、全人類をフリーセックスに押しやって、裸になって死んでいく方向に全世界を引っ張っていくのです。人類がすべて天使長の後裔たる末路に直面するようになるのです。

 エデンの園からサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの後孫が、今日の人類なので、サタンは堂々と神様の前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたいとおりにすることのできる権限を主張するというのです。神様はサタンが何を願うかをご存じなのです。サタンはフリーセックスを通して、ただの一人も神様の前に帰れないように、言い換えれば、全人類を完全にだめにしてしまい、地上地獄を造ろうとするのです。

 今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか? したがって、このように地上地獄になったこの世界と百八十度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来て、この世の中を救ってくれるのも、まさにこのような百八十度反対の道を教えてくれて、天国に導くことなのです。

 それでは、フリーセックスの道と百八十度異なった正反対の道とはどのような道でしょうか? 偽りの父母が現れて、つくっておいた道がフリーセックスの道なので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は干渉なさることができません。その地の主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。

 罪を犯した者がその罪を蕩減しなければならないのです。家庭で結婚を誤って、血統が百八十度ねじれてしまったので、真の父母が来て、結婚させ、百八十度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてあげるようになるのです。

 神様がアダムとエバに期待したのが何だったでしょうか? 絶対純潔愛を期待したのです。絶対純潔愛が存在する所には絶対純潔夫婦が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。このような絶対純潔愛を探す運動を世界的に広げるためにレバレンド・ムーンは一生をささげて、受難の道を克服してきました。今は勝利のファンファーレを響かせ、世界に号令をかけうる時が来たので、天の前に感謝をするものです。

 世界平和に向かっていくことのできる礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊しうるのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所がアダム家庭でした。したがって、きょう、このように世界平和家庭連合を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と百八十度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるをえません。この道でなくては、自由も幸福も理想もありません!

 皆様は今、絶対純潔、唯一、不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして、神様をお求めになるようお願いします。この基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、真の良心の基盤にならなければならず、ここからまさに地上天国と天上天国が生じることをお分かりにならなければなりません。

 すべての男女が自分たちに所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、主人が自分の相対だということを認定するようになれば、私たちすべては頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。愛は相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。ために生きないところには、愛がありえないのです。絶対、ために生きるところで絶対愛を見いだすことができるということを肝に銘じてください。

 どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅びません。地獄になったこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるでしょうか? 神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立て、生きていかなくては不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は神様であられます。

 今、私たちすべてが共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛隊になりましょう。今から家にお帰りになられたら、夫と妻でもって、自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠な器官であることを互いに確認し、それがまさに自分のものではなく、あなたのものであり、あなたが今までよく保管してきたものが自分のものだと宣言し、互いのために生き、永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと、お誓いください。そのような家庭であってこそ、永遠に神様がとどまるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成が成されるのです。

 そうして、皆様共に次回三百六十万双の祝福結婚式に列席なさり、地上天国に入籍する真の家庭になるようお願いいたします。

 ありがとうございました。




真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙
  一九九七年八月十日 韓国ソウル 新羅ホテル
  家庭が円満になるメッセージ

 尊敬するご来賓の皆様、特別にこの場にご光臨賜った著名なる紳士淑女の皆様7

 公私多忙であられるにもかかわらず、この場にご来臨くださった皆様に深く感謝を申し上げます。

 このような貴き日、私に心から皆様にささげたい最も貴い返礼の贈り物があるとするならば、それは私がこれまで世界を巡回しながら伝えてきた、最も代表的な二つのメッセージをご紹介することです。

 それは、「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」というメッセージです。現代においては男女問題と家庭問題、そして青少年問題が絶対的に解決されなければなりませんが、この二つのメッセージは、その根本的な解決方案を提示しているのです。

 各自帰られて、自らを振り返り、家庭を愛したい思いが生じるたびに、このメッセージを深く考えてくだされば、皆様が幸福で円満な家庭を築くのに大きな助けとなることでしょう。

 この二つのメッセージを皆様の年の数ほど読まれることをお願いします。八十歳を超えているなら、八十回以上読むべきです。皆様が読めば読むほど、天の祝福と天運が共にあることでしょう。読めば読むほど、その家庭に平和が自動的に訪れるようになるはずですので、たくさん読まれるようにお願いいたします。

 一番目のメッセージの主題は、「救援摂理史の原理観」です。その内容を要約すれば、神様を中心として結婚し、真の父母になることです。第一次アダム家庭でアダムが失敗して堕落したので、第二次アダムとしてイエス様が来られて、これを国家的な次元で復帰しなければならないということです。

 第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであられるイエス様は、第二次アダムとして来られたのです。しかし、イエス様が真の父母の家庭を築くことができずに約束だけして亡くなられました。それゆえ第三次アダムが再び来られ、世界的基準で真の父母の使命を償い復帰しなければならないのです。これが、第三次アダムとして来られる再臨主の使命です。したがって、旧約時代、新約時代、成約時代を完成するのです。そして、人類救援の根本問題が、血統復帰であるという事実も明らかにするのです。

 こうして、真の父母を中心とした成約時代を迎え、世界的に広がった祝福結婚式となるのです。

 二番目のメッセージの主題は、「宇宙の根本を探して」です。人間の堕落の根本が愛によってなされましたので、人類は真の愛を失ってしまいました。そのことから、この真の愛をどのように取り戻すかという問題が提起されています。

 真の愛を失ってしまったということは、淫乱によって堕落したことを意味します。すなわち、生殖器を中心として過ちを犯したので、これを取り戻そうとすれば、その反対に正しく行かなければなりません。このように、間違った愛がエデンの園で植えられたので、終わりの日の刈り入れのときにその結果として現れる現象が青少年問題なのです。

 ですから、セックス混乱時代が来るのです。これを清算するのは、絶対純潔(絶対的性)でなければなりません。このような絶対純潔(絶対的性)の概念でのみ、家庭破壊を防止し、青少年の淪落を防ぐことができるのです。


  神様は父母の中の真の父母

 「真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙」という新しい主題で、皆様とメッセージを分かち合おうと思います。

 皆様は、すべて父母を持っています。そして、師を持っており、国の主を持っています。それは、だれにとっても絶対的に必要なものです。

 しかし、父母といっても、真という基準を中心として見るときには、いろいろな基準があります。皆様自身は、果たしてどれくらい真なる父母になったと思われますか?

 また、「師」といっても、アメリカにあるハーバード、エール、コロンビアのようなアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門私立大学八校で結成しているリーグ)に属する大学であるとか、イギリスのオックスフォードやケンブリッジなどの大学の教授なら、それで真なる「師」と言えるでしょうか?

 国の主人も、「真」という基準から見るとき、皆、同じではあり得ません。皆様は、アメリカのような強大国の大統領ならば皆、真なる大統領であると思われますか?

 事実、今日の家庭では、子供が親を信じることができず、夫婦同士も互いに信じることができず、兄弟同士も不信し合うような間柄になっています。学校では先生のことを信じることができず、国では国の責任者を信じることができないというのが、今日の実情なのです。

 このように、皆様が願われるこの三つの重要な立場、すなわち父母と師、国の主人の中で、「真」という基準を中心として見た場合、一つでも合格することができるのか、ということが問題なのです。

 皆様が真なる父母になり、真なる師になり、真なる主人にならなければならないとするならば、そのような世界最高の基準と、そのすべてのモデルの中心はだれなのでしょうか?

 それが正に神様なのです。

 神様は、父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王であられます。神様は永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人であられます。

 私たちが神様の子女になるとするならば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければならないのです。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大主体思想です。その究極的なモデルは、神様なのです。


  天を父母として見れば、地は子女

 旧約聖書に記録されている、イスラエル民族の前に送られるメシヤとはだれのことでしょうか?

 メシヤは、正に真の父母として来られるおかたであり、真の師として来られるおかたであり、真の王として来られるおかたです。

 しかし、イエス様がこの地上で家庭を持って民族を一つにすることができなかったので、メシヤは再び地上に来られなければならないのです。再び来られるメシヤは第三次アダムとして来られて、世界的基準で真の父母権と、真の師権と、真の王圏を教えてくださろうとするのです。これが正にメシヤ思想です。

 家庭があり、国家があり、世界があり、天がある所ならば、いつでもどこででも、この三大主体思想が正しく確立されなければならないのです。

 人が空間の世界に立つためには、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうでなければ、自分の存在位置が確定されません。皆様が上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによって、さまざまな姿になるのです。皆様の上下、左右、前後関係、そして、家庭の問題、国の問題、世界の問題を扱ううえにおける、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭においても父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければならないのです。

 これと同じように、国においても国の主人を中心として、すべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべてかき抱き、それから世界の万民を兄弟姉妹のようにかき抱いて、結局、一つの家庭のモデルを築くのです。モデルは全く同じです。

 そして、自分自身がそのモデルの中心となるのです。自分の後には、自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして、神様にまで進んでいかなければならないのと同じ道理です。皆様には、宇宙の中心になりたいという気持ちがあります。それだけではなく、すべての人は皆、そのように宇宙の中心になることができるのです。

 このように、宇宙において、その核に当たるものが家庭の概念です。天を父母として見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴します。女性は結婚することによって、どこでも夫の位置に従っていくのです。

 西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値を持つようになることと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として生活するとき、弟妹たちが協力するようになるのです。


  東洋文明は縦的、西洋文明は横的

 ですから、人間は父子の関係を持ち、夫婦関係を持ち、兄弟関係を持たなければなりません。つまり、この三つの関係が、一点になければなりません。その中心点は一つなのです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が狂えば、上下、左右、前後関係の均衡が皆、崩れてしまうのです。

 結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで合わせると、全部で七数を成すようになるのです。このように七数を成すということはすなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つになって、これらすべてが完全に球形を成して、調和と統一を成す家庭になることです。私たちが、よく「ラッキー7」というのも、このような観点から見れば一理あることなのです。

 それで、これが一つに定着して回るようになれば、八数です。真の愛が永遠に変わらない限り、この中心も変わらず、永遠に回ることができたはずなのですが、堕落することによって神様を中心から追い出してしまったのです。神様の真の愛を全部追い出してしまったので、真の家庭の理想がすべて崩れてしまったのです。

 西洋と東洋は、その生活習慣において、あまりにも異なる点がたくさんあります。さまざまな面で正反対です。例えば、韓国で人を呼ぶときは、手のひらを下にして手招きしますが、西洋の人たちはそのようにすると、かえってもっと遠くに行ってしまいます。私のことが嫌いで行ってしまうのだろうか?と、むしろ誤解してしまうようになっています。

 西洋の文字は、横的なものであり、左側から右側に進行しますが、東洋の文字は本来縦的なもので、上から下に書いて読むようになっています。ですから、西洋の本は左側から開いてみますが、東洋の本は右側から開いてみます。西洋文明は一種の横的文明なのです。

 握手であいさつするのは、横的なあいさつということです。頭を下げながら、あいさつする東洋文明は縦的です。東洋では、家庭制度の核が先祖でなければならないという伝統がありますが、西洋ではそのような核が強くありません。先祖を核とする概念がないのです。自己中心であるというのです。

 すべてのものが核から連結されるので、核が動かなければすべてが動かないのです。ですから、中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、すべて同等です。それを分ければ十二切れになりますが、その十二切れをどこに合わせても皆、合います。祖父が願えば孫は反対せず、子女もそれを願うようになり、三代が皆、一緒に願うようになるのです。祖父、祖母、父、母、夫婦、息子、娘、全部中心に合わせるようになるのです。

 この愛を中心として見るとき、父子の関係も一つであるので一体であるといい、夫婦関係も一体であり、兄弟間も一体であるといいます。一つの体です。何を中心として、このような関係を一体であるというのかと言えば、愛の中心である神様の真の愛を中心として言うのです。

 真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一つの体になり、兄弟間も同様です。このようになることによって、すべてのものの価値が同等になるのです。


  聖子になることを願われる神様

 では、神様がその子女に願うことは何でしょうか?

 お金をたくさん稼いで億万長者になることでしょうか?

 国の最高の権力を手にする大統領になることでしょうか?

 神様が息子と娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが成長して孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。

 では、皆様は神様が願われるように、家庭では孝子、国では忠臣、世界では聖人、天地の前に聖子になろうという思いを持ったことがあるでしょうか?

 歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子、忠臣、聖人、そして、聖子になるようにと教えてきました。

 皆様はこのような理想的な人間、すなわち人間がその人格完成に必要とする孝子、忠臣、聖人、聖子の道理という観点から見るとき、合格したと見ることができますか?

 このような内容を知らずしては、家庭で真なる父母の役割を果たすことはできません。 真なる父母であれば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。自分の子供たちに、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、さらに、神様にまで行かなければならないということを、教えてあげなければならないのです。そのように教える人がいるとすれば、神様がごらんになるとき、初めて真なる父母、真なる師、そして真なる主人であると考えられるのです。

 皆様に真なる父母の資格があり、真なる師の資格があるというときには、真なる主人の資格も備えるようになり、さらには真なる王になることのできる資格まで備えるようになります。

 堕落した人に、真なる孝子という概念があるでしょうか?

 忠臣の概念もありません。聖人の概念もありません。聖子という概念もありません。ですから、滅びるのです。

 だれが聖子になることを願うのでしょうか? 神様が願われるのです。

 聖人になることをだれが願うのでしょうか? 世界が願います。

 国は何を願うのかと言えば、忠臣を願います。家庭は孝子を願います。これが正に、真なる真理の道です。

 愛を中心としたこのような真理は、一つの方向で永遠に持続するのです。そのことを知らなかったのです。それで、真なる父母になれなかったのです。国の真なる主人になれませんでした。聖人や真なる聖子になれなかったのです。

 イエス様がこの地上に来られたとき、家庭にそのような真の主人がおらず、国と世界にもそのような真の主人がおらず、結局、天地に真の主人がいませんでした。どのようにして、その道理の道を行かなければならないかを知らなかったというのです。しかし、もはや知らなければなりません。真なる父母は、「孝子になったから、忠臣になるな」とは言いません。真なる父母は、その孝子に「おまえは、家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たし、世界のために生きなければならない。また、世界を犠牲にして、天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして、神様を求めていかなければならない」と、教えてあげなければなりません。

 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければ、愛国者になることはできません。

 聖人というものは、自分の国を犠牲にして、世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして、天上天国と地上天国を築かなければならないのです。

 ですから、すべての父母たちの中で、より子供のために生きる父母が真の父母であり、いかなる師よりも、よりために生きる師が真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために犠牲になろうという大統領が本物です。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲になるのです。そのようにしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に来ないのです。


  真の愛のために生まれた五官

 個人主義がどこにありますか?

 自己において自己だけを主張する部分は一つもありません。子供が父母の愛によって、母親のおなかの中で、卵子から育って生まれるとき、その九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉です。

 そしてそこに〇・〇〇一パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには、「自己」という概念はあり得ません。だれでも生まれるとき、自分自身だけという概念はなかったのです。

 いかに立派な人であっても、自分一人で立派に生まれたと言える人は一人もいません。レバレンド・ムーン(文鮮明師)も同様です。骨や血や肉も、すべて母親のおなかの中で譲り受けたものです。

 この体の重要な部分は、母親の体の延長だということを認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、精子と卵子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠はないのです。

 「上」という言葉が成り立つときは、「下」を認めたうえで言う言葉です。「上」ということだけで、個人主義が成り立つでしょうか?

 個人だけという概念はあり得ません。「右」というのは、「左」というものをあらかじめ前提としたうえで言う言葉です。「前後」について見ても、「前」というのは「後ろ」を前もって認定して言う言葉です。

 男性という言葉も、男性一人を念頭に置いて言う言葉ではありません。女性を前提条件にして言う言葉なのです。これは、だれか一個人の言葉なのではなく、宇宙的な事実です。

 男性は、なぜ生まれたのでしょうか? 男性たちはよく、自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がないなどと皆言いますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分のために生まれたものは、一つもないのです。

 私たちの五官を見てください。自分の目が、自分の目を見るために生まれたのでしょうか?

 鼻や耳、口、手もすべて、相対のために生まれました。五官を総動員して、集中させることのできるその力が何かと言えば、真の愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。

 自分のために生まれたものは一つもありません。人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものを持ってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか?

 ですから、女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。

 男性と女性は、何が互いに異なるのでしょうか?

 まず、生殖器を含んだ体が異なります。では、男性の生殖器は、だれにとって絶対に必要なのでしょうか?

 男性の生殖器は、女性のためにあるのです。

 人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになったのでしょうか?

 二つとも、とがらせるとか、二つとも平べったくすることができるのに、なぜそのように異なって生まれたのでしょうか?

 すべて、相対のためです。

 男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願うのです。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を知るのです。

 二つが一つになるような経験を通してのみ、最高の境地の愛を知ることができるのです。どこのだれであれ、このような事実を絶対に否定することはできません。だれでも皆、認定しなければならないのです。二つが完全に一つになるその場で、理想的な夫婦が生まれます。正に、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在されるのです。

 ですから、絶対純潔(絶対的性)は神様を中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家や経済人たちは、文学作品やメディアを通してフリーセックスを刺激することが多くありました。ですから今から私たちは皆、政治家や経済人、文人、作家と言論人たちと一つになって先頭に立ち、フリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは、完全になくならなければなりません。


  霊界を統一したレバレンド・ムーン

 レバレンド・ムーンの話を聞けば、皆様の現在の立場とは百八十度異なる人間になり、異なる国になり、異なる世界になるのです。間違いなく変わります。この悪なる世界を完全に変化させることは、絶対に必要なことです。

 ところが、サタンを含めた悪の世界の人たちは、神側の人々を好みません。それで、世の中すべてがレバレンド・ムーンに反対してきました。国家と世界的次元でも反対しました。しかし、レバレンド・ムーンは神様に属しているので、神様がレバレンド・ムーンを保護してこられたのです。

 レバレンド・ムーンをサタンは嫌いますが、神様は好かれるのです。いくらレバレンド・ムーンを悲しませ、押さえつけて、無視するとしても、レバレンド・ムーンは意に介しませんでした。レバレンド・ムーンは、下がってはいきませんでした。むしろ、最も高い立場まで上がっていくようになりました。それで今は、どこのだれであれレバレンド・ムーンに反対できないようになったのです。

 あらゆる迫害を受けながら、どうしてこのような世界的な基盤を築くことができたのでしょうか?

 いかなる力でもって、世界の碩学と最高の指導者たちを教え導くこのような基盤を築くことができたのでしょうか?

 神様がそのような力をレバレンド・ムーンに下さったので可能だったのです。神様が私を保護され、私にそのような方向性を教えてくださり、今も継続して保護し教え導いてくださっているので、レバレンド・ムーンは、常に成功の道を進んでいるのです。

 歴史以来、霊界に通じることのできた多くの宗教指導者たちがいましたが、レバレンド・ムーンほど霊界を知り、かの天の国、霊界を統一して、この地上に現れたのはレバレンド・ムーン一人しかいないということを知らなければなりません。

 そうして、神様から玉璽(天の印章)を受けました。そうでなければ、地上の統一はできません。神様が霊界でそのように私を訓練し育てられたように、この地上においてもそのように継続して導いておられるということを知らなければなりません。

 二十余年間、レバレンド・ムーンは、新教の地アメリカに行って多くの迫害を受けました。しかし、イエス様が亡くなられて以後二千年間、すさまじい殉教の血を流したキリスト教を、この国に定着させようという神様のみ意を知ったので、アメリカを捨てることができなかったのです。旧教の地、南米も同様です。四十余年前にレバレンド・ムーンを受け入れていたならば、南米も北米もどのようになっただろうかと考えてみてくださるようにお願いします。韓国においては、なおさらそうです。


  家庭が円満になるメッセージ

 それでは、真の愛はどこから始まるのでしょうか?

 自分の生命を投じた後、また復活して、三度以上より投入しようというところから真の愛が始まるのです。私たちは、堕落した血を受け継いだので、自分の生命を懸けてでもこれを越えなければなりません。

 ですから、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」(マタイ一○・39参照)というのです。イエス様もこの地上に来られて、その道を行かれたのです。そのことによって、世界に広がることができたのです。

 「神様の下の一つの国」と「神様の下の一つの世界」のうち、皆様はどちらが好きですか?

 一部のアメリカの人たちは、「神様の下の一つの世界」が好きではありません。また、一部の白人たちは、黒人が好きではありません。アングロ・サクソン系の白人の新教徒たちが、アメリカの支配的な立場を占めていますが、彼らを中心としたアメリカは、世界のために生きるという考えを持たなければなりません。もし、アメリカだけのために生きるというのなら、アメリカは存続することができないのです。

 今は、時代が変わっています。来るべき時代とは、「神様の下の一つの世界」の時代です。神様は、このような世界のために働いておられ、また、そのような摂理のために働く者を助けておられます。そして、これからも永遠にそのような者たちを助けていかれることでしょう。

 ところで問題は、すべての人たちが、このような世界で暮らすことを願いながらも、そのような摂理の同参者になることは好まない、ということです。

 一つの平和な世界をつくるために、私たち夫婦はさまざまな努力を傾けています。そのうちの、いくつかの代表的な例を挙げれば、人種と宗教、国境、言語の障壁を超越して、未来世界の基盤を固める理想的な国連大学を建てることです。また、世界的な知識を交流させるために、遠隔通信大学が必要です。

 医学では、堕落によって生じた肉体の病気を治療するだけではなく、東西文化の和合を通して、東西洋の葛藤までも修復させるという次元から、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。東西思想と医学が一つになってこそ、今後、エイズのような難病を治せるようになることでしょう。

 このすべての課題は、すでにブリッジポート大学(米国)と鮮文大学(韓国)を中心として、実践に移されつつあります。

 さらに私たち夫婦は、すでにアメリカのワシントン・タイムズだけでなく、南北米すべての国々をカバーする言論機関をつくりました。これらの言論機関は、まもなく世界百八十五か国にまで拡張され、世界が一つになって学び、協力するのに大きく貢献するようになることでしょう。

 レバレンド・ムーンはアメリカに行って、アメリカ国民の前に一つも負債を負いませんでした。むしろ、アメリカのために私は尽くしました。天から受けた祝福でもって、レバレンド・ムーンはアメリカを祝福しました。私たち夫婦は、天から受けた祝福を世界にすべて分け与えました。南米も韓国もレバレンド・ムーンを歓迎して、アメリカのような祝福を受けることを願っています。

 どんなに反対しても、より多く愛する人が主人になるのです。より多く愛し、より多く投入し、より多く与えて忘れる者が中心存在になるのです。これがまさしく天法なのです。


  生命を三度以上投入する真の愛

 これから皆様は、家庭において父母の前に孝行し、国の前に忠臣になり、世界の前に聖人になり、神様の前に聖子になる道を行くべきです。だれであろうと、家庭、国家、世界、天、地の前に恥ずかしくない、この宇宙自然の中で天運の保護を受ける自らとなり、神様の最高の愛を受ける家庭を築くべきなのです。

 そうして、地上天国に転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上天上王圏時代に入り、勝利と自由と幸福と統一の世界を求めゆく国際合同結婚式を迎えなければなりません。

 皆様もすべて、今年(97年)の三百六十万双の祝福結婚式に、さらにそれを越えて行われる三千六百万双の合同結婚式に参与してくださるようにお願いします。そうして、天地が歓迎する人になって、永生の道を求めるようにお願いします。

 私たち皆が、神様と真のご父母様の血族になり、神様の真の愛を中心とした真なる家庭と真なる世界(宇宙)文化創建の主役になって、来る二十一世紀を平和と統一の世界へと建設していくことを願いながら、これで私のメッセージを終わります。

 皆様と、皆様の家庭と、なされている事業に、神様の祝福が共にありますようにお祈りいたします。

 ありがとうございました。




真の家庭と私
  一九九五年九月十四日 東京 東京ドーム
韓鶴子女史による講演

 尊敬するブッシュ大統領御夫妻、御来賓、そして満場の皆様。再び皆様にお目にかかれましたことを、心からうれしく思います。私にとっては、今回が四度目の日本訪問となります。

 私たち世界平和女性連合は、創設以来三年目を迎えました。昨年の十七万組の韓日姉妹結縁に続き、今年は一月以来、既に六千組以上の日米姉妹結縁をなしてまいりました。日米姉妹結縁は、第二次世界大戦後五十年を迎える日米関係において、新しい未来を切り開く重要な行事となり、日米両国は過去の敵対関係を超えて、最良のパートナーとしての絆を再び強化するようになりました。

 ブッシュ大統領御夫妻は、その特別ゲストスピーカーとして、何度もお話しくださいました。そして、このたびは、わざわざ日本までお越しくださいましたことに、心から感謝申し上げます。


  心と体の闘争はどこから?

 きょう、私がお話ししたいテーマは、「真の家庭と私」です。世界で今、最も深刻な問題は家庭の崩壊です。果たして、真の家庭とはどのようなものでしょうか。

 今日、私たちが生きている世界は、善の世界か、それとも悪の世界かと尋ねられると、誰もがみな「悪の世界」と答えるでしょう。では、なぜ悪の世界なのでしょうか。それは、世界中のどの国の歴史を見ても、戦争の歴史を繰り返してきたからです。

 もし世界が悪いと言うのなら、そこに属する日本もまた悪い国と言わざるを得ません。したがって、そこに属している私たちも悪いということになります。

 自分自身をよく吟味してみますと、心と体が戦っているという事実を否定することはできません。そして、この戦いの起源はいったいどこにあるのかが問題になります。もし私自身の中に平和の基地がなければ、どんなに家庭が平和であっても、国や世界が平和だとしても、私自身が闘争している限り決して幸福とは言えないからです。

 皆様も御存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦(東西冷戦)も終わりを告げました。しかし、私たちの内部における心と体との戦いは、昔から現在に至るまで、さらに未来にわたって継続する戦いであることを否定することはできません。

 このように考えた時、もし神がいるとすれば、私たちの内部の心と体との戦いを、なぜこれほどまで歴史を通して継続させてきたのかが、大きな問題になります。

 人間が罪を犯したとしたら、罪を犯したその人が蕩減(罪を償う)のは当然です。神は罪そのものに責任をもつことも、これに干渉することもできないのです。

 では、心と体が戦うようになった出発点はどこにあるのでしょうか。私たちの生命は、父母から受け継ぎました。そして父母は祖父母から生命を受け継ぎました。このようにさかのぼっていくと、心と体の戦いの起源も、人類の最初の先祖の立場にまでさかのぼることになります。


  人間はみなサタンの後孫

 すなわち、人類の最初の先祖であるアダムとエバに何らかの問題があったためであると考えられるのです。しかもその問題は、アダムとエバの愛の問題であると言わざるを得ません。生命の起源は父母の愛から始まるからです。

 私たちの生命が出発する以前から、このような戦いが始まっていたとしたら、父母が愛する、その愛の在り方そのものが問題になったと考えられます。

 アダムとエバの愛が喜びの愛となり得ず、相反する愛の起源から、私の生命が根を下ろしたために、私たちの内部の紛争が始まったのです。

 聖書には、アダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたと記録されています。追い出されたのち、彼らが子孫を繁殖したことは事実です。彼らは、神のもとではなく、サタンのもとで結婚式をしたのです。

 堕落は、サタンによってエバが誘惑され、次にエバがアダムを誘惑することによって起こりました。つまり堕落は淫乱によって始まったのです。そのような願わざる関係によって、人類始祖はサタンと一体となり、善の先祖となれず悪の先祖となり、悪なる愛と、悪なる生命と、悪なる血統の根をもつようになったのです。

 このことが事実ならば、私たちは堕落した人類の後孫ということになります。家庭や民族を越えて、国家や世界まで発展してきた今日の人類五十億は、みなサタンの後孫であり、悪の父母の血統を受け継いでいることを、否定することはできません。

 私たちの体内には、神が最も嫌う姦夫であるサタンの血統がうごめいているという事実を、今日まで誰も考えることができませんでした。これが最も重要な問題です。


  善悪が分立、闘争してきた歴史

 では、悪の根源を、どのようにして清算できるのでしょうか。サタンは、悪なる愛の根をどこに下ろしたのでしょうか。私たちの体、すなわち私たちの肉身に下ろしたのです。

 もし人間が堕落しなかったとすれば、心身が一つになることはごく自然な道理でした。ところが堕落によって、天に属する良心と、これに反する体とが互いに衝突するようになったのです。ここから心と体の闘争の歴史が始まったということを、私たちははっきり認識しなければなりません。

 神は、善悪分立の歴史を通して、悪から善へと転換するしかありませんでした。神は公的な立場で、全体のために生きる道をたどりながら、愛と平和を再創造されるのに対して、サタンは私的な立場で、歴史を通して全面的に善の側を破壊しようと、憎悪による戦争を引き起こしてきました。人間が永遠に神の側に行けないように、地上と天上の両世界を滅ぼそうとしてきたのです。

 神は善の立場に立っているので、サタンの側に回ってしまった人々を打つことができず、人類を取り戻すために、かえって天の側が打たれて奪ってくるという作戦をとってきました。一方、逆にサタンは人々を打ちながらも奪われてきたのです。

 終末期になれば、サタンは今まで霊的に人類を支配してきた位置を神側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示し、人本主義と物本主義、共産主義の出現をもたらし、天の側に立つ右翼とサタンの側に立つ左翼との闘争を世界的に展開してきました。そしてついに、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以降、キリスト教文化圏を中心として、人類は最終的には勝利と平和へ向かう大転換時代を迎えるようになったのです。

 今日の時代は、個人主義王国時代であり、真の愛を中心とする天の家庭を完全に破壊させたフリーセックス時代、父母否定時代、夫婦否定時代、そして子女否定時代であり、またホモセクシュアルやレズビアンによって、理想家庭を求める天の側を完全に破壊する地上地獄時代となりました。これを天国に転換していくのが、メシヤ再臨の使命なのです。再臨されるメシヤは、真の父母として、心身の統一、夫婦の統一、親子の統一を願われているのです。


  神の創造を認めるか否か、それが問題

 今、世界的な問題は、私的であるか公的であるか、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、実在論か観念論か、進化論か創造論かということです。これをはっきりしなければなりません。

 例を挙げて考えてみましょう。動物世界では、生まれる時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。

 目自体は、空気があることも、埃が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれらを知っている存在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。

 結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。

 ここで私たちは、本然の神の理想世界に戻って、神の願われる家庭と私と世界とを、はっきりと知らなければならないのです。そのようにして、堕落後に生じた私たちの周辺の複雑な関係を、解明しなければなりません。


  体を打って心を立てるのが宗教

 私たちの心と体を見ると、体は地獄の基地、良心は天国の基地になっていて、私たち自身は二つの世界の分岐点に立っています。そのことを、私たちは今まで知らなかったのです。このような立場に立っている自分自身を見た時に、体のほうが心を支配していることを発見するのです。

 肉身が良心を支配している理由は、堕落した時、サタンと関係を結んだ偽りの愛が、良心の力よりも強かったからです。神は、このことをよく知っていたので、堕落した人間を見捨てず、これを救うために、良心を支配している肉身の力を弱める作戦をとってきたのです。

 このように、天が働くことのできる救いの体制として、良心に対して立ててきたのが、歴史上における宗教なのです。そのため、過去にも現在にも宗教が必要なのです。

 全世界の文化圏が異なる背景に従って、それぞれの宗教が立てられてきました。しかし、体が心を支配していることを、どのようにして弱化させるか、除去させるかということが、宗教の目的であることを今までの信仰者たちは知らずにいるのです。

 もし堕落がなかったならば、宗教は必要なかったのです。人類始祖が堕落によって誤ったので、これを修正するために必要になったのが宗教です。

 では、神は宗教を通して何をなさろうとするのでしょうか。心を支配している体の力を屈服させようとしているのです。

 多くの人々は、宗教を信じて救われるものと考えています。例えば、キリスト教を信じれば天国に行き、仏教を信じれば極楽に行くと思ってきました。しかし天国は、神を中心とした真の愛と一体となった子女たちたちが、神の家族として神の愛を中心とした真の家族となって入る所であることを、今まで誰も知りませんでした。

 では、宗教がなすべき内容は何でしょうか。体が嫌がることを行うのです。「断食しなさい、奉仕しなさい、犠牲になりなさい、そして祭物になりなさい」と言うのです。祭物は、血を流し、生命を捧げなければならないようになっているのです。

 それで、聖書では「生きんする者は死に、死なんとする者は生きん」という逆説的な教えをしてきたのです。これは、肉身の思いのままに生きれば地獄に行くしかないし、肉身を主管して良心の解放圏の道に生きれば、天国に行くという意味だったのです。

 体を完全に屈服させ、良心が絶対的な立場に立てば、私たちの良心は無限なる欲望と希望をもつようになります。

 今日まで、歴史を通して数多くの宗教や宗教指導者たちが現れましたが、完全に体を克服して無の境地に立って、良心を主体とした本然の基準で、天と相対できる立場に立った人はいませんでした。


  良心は私のすべてを知っている

 私たち堕落人間は、偽りの愛の根を中心としたために、偽りのオリーブの木となり、真のオリーブの木になれませんでした。神の真の愛を中心として根を下ろすべき人間が、悪魔の愛を中心としての根を下ろしたために、偽りのオリーブの木になってしまったのです。

 この事実を、いかにして清算すべきでしょうか。これが、現代に生きている私たち人間が解決しなければならない最も重大、かつ宿命的な課題として残っているのです。

 自分自身をよく吟味してみると、私たちの良心は、自分のすべてのことを知っています。良心は、私にとって父母よりももっと近い存在なのです。そして良心は、真の愛によって永遠に、神の懐に抱かれることを願っているのです。

 子供が結婚すれば、親と別れて暮らすようになることもありますが、良心は生まれる前から私と共にあり、私と別れることはありません。私を愛しながら、永遠に真実で傷のない神の子女として、私を解放しようとするのが、良心の使命です。

 良心の世界には、先生は必要ありません。本然の道を行く限り、自分の行くべき一生の道をはっきり知っており、間違いなく神の懐に帰れるように、教え導いてくれるのです。

 良心が私の一生のすべてを知っているように、霊界に行けば、霊界のコンピューターがあって、地上で行ってきたすべてのことが記録されています。

 「私は霊界には行かない」と、自信をもって言える人がいるでしょうか。いずれ、私たちはみな霊界に行くようになっています。皆様も霊界に行けば、自分の一生ばかりではなく、数千代の先祖たちのことも、一瞬のうちに分かるようになっています。

 霊界は時間と空間を超えた世界なので、地上にいる時に、良心に反する足跡を残してはならないのです。良心はどんなに著名な教授よりも優れている、ということを知らなければなりません。皆様の良心は、船の羅針盤と同じ役割をしているのです。

 皆様の中で、自分の結婚相手を選ぶ時に、自分よりも劣った人を願う人がいるでしょうか。決していないのです。誰しも自分の愛する相手は、自分よりも何十倍、何百倍、可能ならば何千倍、何万倍、何億万倍でも優れていることを願っているのです。

 このように良心の欲望は、最高の愛を求め、絶対的価値の中心を占領しようとするのです。このことは、私たちの先祖、また後孫も同じです。もし、このような質問を神御自身にしたならば、きっと同じような回答を下さるに違いありません。


  良心は神をも占領する

 皆様は、良心の欲望はすべてかなえられると思いますか。日本人の一人として、国会議員になれば、次に首相になり、できればアジアの第一人者、さらには世界一の高い地位を占めたいというのが、良心の欲望なのです。

 歴史始まって以来、多くの人々は、人間の良心の欲望は達成できないものと結論を下してきました。しかし、レバレンド・ムーンは、それが「達成可能である」という結論を下したのです。

 皆様、良心の器がどれほど大きいものか、お分かりですか。良心は神まで占領したとしても、宇宙にもっと価値あるものがあれば、それも占領しようとするのです。

 神の良心の器と人間の良心の器とは、どちらが大きいでしょうか。神の良心の器のほうが大きいとすれば、それで何をしようとするのでしょうか。神が一番占領したいのは、人間の真の愛に対する人間の欲望であるというのが結論です。

 神は絶対的な方ですが、一人でいて寂しくないでしょうか、幸福でしょうか。いくら大統領であっても、愛する妻がいなければ、寂しいのです。

 神も相対を必要としないでしょうか、どうでしょうか。いくら神でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識や権力がないと寂しいのですが、神は創造主ですから、お金や知識、権力は必要ありません。神に一番必要とするのは何でしょうか、それが問題です。

 私たちは、神を何と呼んでいるでしょうか。神は愛の王様で、愛の主人です。もし神が愛の王であり、新郎であるとすれば、神の愛の相対となる女王が必要だということは絶対的な真理です。では、絶対的な神の前に、相対となり得る存在は誰でしょうか。それが、真の人間なのです。

 私たちには、お金も知識も権力も必要ですが、もし愛する妻がいなければ、それらはみな、むなしいものとなってしまいます。夫には妻と子が必要であり、妻には夫と子供が必要です。そのような愛の相対と共に暮らすところが家庭なのです。

 良心の欲望を、思う存分に満たしてくれる愛の主人である神に侍り、そのもとで、神の愛の対象である夫婦が一つになって、その愛の中で、愛する息子、娘と共に幸福に暮らす家庭こそ、神の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地となるのです。

 私たち人間も、愛する対象が自分よりも何千万倍、無限大の価値ある存在であることを願うように、神もまた、愛する相対が無限の価値ある存在であることを願っているのです。この対象になるのが、真の人間です。そのような男性と女性が、堕落しないで完成したアダムとエバであったということを、今まで誰も分からなかったのです。

 私たちに良心の高い欲望が与えられたのは、なぜでしょうか。神が主体で人間は対象の立場であるから、そのままで神の分身となるのではありません。人間は神とは別個の人格なのです。そして神の対象として、神の何千万倍の期待にそえるような価値ある存在となれるように、人間に与えてくださったのが、良心の愛に対する欲望なのです。

 神が、創造当初に理想として願った真の愛を中心として、神人一体の家庭を築いたならば、今日の私たちは、天国に行くのか、地獄に行くのか、何ら心配する必要もなく、そのまま天国にみな入れるようになっていたのです。


  解放された良心は真の愛に結ばれる

 ここで問題となるのは、神の真の愛と人間の真の愛が、それぞれ主体的愛と相対的愛として、一つになった一点から出発できず、異なった愛の出発となり、二つの愛の方向と目的をもつようになったことです。

 そのため、神と人間が願う絶対的理想世界は見いだすことができないのです。神と人間の二つの愛が、一点から出発することを願っていた神のみ旨は、堕落によって完全に頓挫してしまいました。

 今日、私たちはサタンの愛を中心として、偽りの父母となり、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ後孫となったので、天国とは関係がない地獄に行くしかないのです。

 皆様が心の問題を解放し、良心世界に三百六十度の解放圏を連結すれば、良心は自然に、真の愛と連結されるようになるのです。

 ところで、愛の器と良心とは、どちらが大きいかと言えば、愛のほうが大きいのです。なぜならば、良心は愛から始まったからです。

 良心を解放し、神の真の愛と一つとなって暮らし、神の愛の血族のために準備し、愛を中心として暮らしたのちに入る所が天国です。このような愛を占領できなければ、永遠に天国に入ることはできないし、その時が来るまで、私たちは数千万年も待たなければならないのです。

 真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入ることができます。たとえイエス様を信じたとしても、神の愛と連結しない限り、天国には入れません。肉身と良心が戦う人は、天国には入れません。サタンの血統を受けて紛争する人も、天国には入れません。その道を開拓すべき宗教同士が争うならば、終わりの日には、みな滅びてしまうのです。争うところに神はいません。すべての宗派と宗教は一つにならなければなりません。

 宗教は、体を打って良心を解放するものであり、直接、救援の門を開くのではありません。救援の門を開くには、神の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継ぐことが必要です。

 宗教を信じていても、救いを得るのではありません。宗教によって肉身を打ち、良心の解放圏を得ることができれば、愛に対する良心の欲望は、神以上に高くなる資格をもっているのです。


  人間は神の無限の愛の対象

 皆様、いかがですか。自分が行っていることは、良心が先に知っていますか、それとも神が先に知っていますか。良心が先に知っているのです。もし、良心より神が先に知っていれば、人間は神の分身であり、同じ体と言えます。人間は一人では相対的な理想を完成することができません。それで、アダムとエバが堕落したあと、神が「アダムよ! どこにいるのか」と、先に主体であるアダムに尋ねたのです。

 人間は、神の真の愛を動機として出発したので、相対的人格者として神に帰るのです。父母が百歳になり、子供が年を取って八十歳になれば、父と子は、父子の関係はもちろん、友達の関係になれるのです。女性と男性は、力では相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押したり引いたりして一つになれます。

 人間が、神の前に相対的な愛の存在になれば、神は喜ばれたでしょうか、喜ばれなかったでしょうか。絶対に喜ばれたのです。神は、理想的対象である人間を未来の希望として見つめながら、愛の対象が完成される前に、この宇宙を創造されたのです。

 愛の対象として完成したアダムとエバが、それ以上の大きなものを、さらに創造してほしいと願えば、神には創造する能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の欲望が無限であっても、それにこたえて創造することができる神であることを知らなければなりません。

 このように無限なる神の真の愛を中心として、その対象として人間を創造したという事実を完全に失われたために、これを再び回復しなければならないのが、私たち人間の生涯であり、人類歴史の目標なのです。

 神が宗教を立てた目的は何でしょうか。神の骨肉のごとくに一体となって愛し合うような息子、娘を中心とした愛の家庭、氏族、民族、国家を形成するのが、神のみ旨であったということを、はっきり知らなければなりません。


  救いの摂理は復帰摂理

 それでは、メシヤはどのような方でしょうか。永遠なる神の真の愛を根として、初めて地上に降臨し、すべての宗教が願ってきた理想を完成させる方が、再臨のメシヤなのです。

 再臨のメシヤが真の父母となり、失われた真の愛を回復し、真の生命と真の血統を中心として、地上に理想家庭を立てることが、神の救いの摂理の目的です。

 堕落によって、神はアダムの家庭の中で、真の母と息子、娘を失ってしまいました。神に属する一人の息子、娘もいなくなったのです。神の真の愛を中心として、血統的因縁をもつ神の家庭がなかったのです。

 堕落した父母を通して、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結んだことによって、私たちの心と体との間に戦いが起こりました。アダムとエバとは、互いに怨讐関係となり、その息子、娘たちの間に醜い殺戮戦が起こりました。

 そのため、神が人類を救うために立てた救援摂理が復帰摂理なのです。まず、心身一体となった息子、娘が絶対的な夫婦となり、さらに神の真の愛を中心として、親子が完全に一つになって、神と共に永遠に生きる真の家庭をつくります。そして、新婦の立場に立っているキリスト教を連結させて、神との血縁関係を結び、真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再編成することが、神の救援摂理の完成なのです。

 日本の国家指導者の皆様は、日本が神の祝福を受けることを願っていらっしゃることでしょう。そのためには、真の愛を中心として、心身が一つとなった国民にならなければなりません。真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければなりません。神の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになった家庭がこの国に多くなる時、神は、自然とこの国は世界の中心的国家になるのです。


  千六百名以上が海外ボランティア活動

 私は夫レバレンド・ムーンと共に、中南米十七カ国の大統領をはじめとする貴賓の方々とお会いしてきました。また、つい最近は、世界百六十三カ国からなる三十六万双の国際合同祝福結婚式を成功裡に終えてきました。

 第二次世界大戦後、レバレンド・ムーンは五十年間、全世界的に迫害を受けてきました。それは、私の夫に何かの罪があったからではなく、この世を救うために、他の人の身代わりとして、多くの迫害を受けたのです。しかし今日では、夫のことを「誰よりも立派な人である」と、多くの方々が尊敬するようになりました。

 皆様、レバレンド・ムーンによって、共産主義は滅びました。ゴルバチョフ前大統領と金日成主席に影響を与え、転換させたのはレバレンド・ムーンです。今日、「家庭崩壊と二世の倫理的退廃で滅びていくアメリカを救う人は、レバレンド・ムーンをおいてほかにない」と言われています。

 韓半島の困難な政治的背景の解決のためにも、レバレンド・ムーンは深く関係しているのです。中近東においてもそうです。レバレンド・ムーンは、一度言ったことは必ず達成してきました。私が夫と共に、三年前に「世界平和女性連合」を設立したのは、世界中の女性たちが妻として家庭を守り、母として子女たちを正しく育てていけば、今こそ神と人類の理想とした永遠なる平和世界を実現できると確信したからです。

 今や、私たちの「世界平和女性連合」は、世界一六三カ国に支部をもつ大きな組織となりました。特に、私が何よりも誇りに思うことは、千六百三十名を超える知性と教養にあふれた若い日本の女性たちが、ボランティアとして世界中で活躍していることです。それは、世界史上でも例のない運動だからです。


  自由と平和は真の家庭と私から

 このような事実を見た時から、日本がレバレンド・ムーンを、アメリカよりも先に受け入れるようになるならば、世界一の指導国家になることでしょう。

 皆様も御存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は「真の父母」の名で、全世界に知られております。真の父母によって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木され、大きな祝福が伝授されるのです。

 これを通して、超国家的な血縁関係を結成して、神を中心とした天宙的大家族主義を形成することにより、父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して、心情文化世界を迎えることによって、地上から天上まで、天国に入れる解放された地上天国世界を完成するのです。

 全世界の人類が、特に日本の皆様が大きな祝福を受けて、天国の家庭として転換し、地上天国に入籍するようになることを、切にお願いします。

 きょう、このように意義深い日、皆様にお会いして、互いに信じ合う立場で、最も重要な内容を紹介いたしました。どうか新しい決意のもと、この道に歩調を合わせてくださるようお願いします。

 この地上に平和をもたらすのは、「真の家庭と私」であり、そこから解放と自由と統一と平和の天国が始まることを覚えてくださるよう、切にお願いしながら、私の話を終えたいと思います。

 皆様の国と、皆様の家庭に、神の祝福がありますよう、お祈りいたします。御静聴ありがとうございました。














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