祝福家庭と理想天国
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伝 道

一 伝 道

1431 伝道は情緒が先立って万人を引っ張ることのできる心情的磁石とならねばならない。常に心情的な引力をいかに補充していくかを考えなさい。

1432 伝道は第二の私をつくることである。母が、子供を生んで育てるほどの誠を尽くせば問題ないことである。

1433 サタンの墓の中で呻吟する多くの民のうめき声を聞いたことがあるか。そして、彼らを解放させようとする公憤心をもったことがあるか。

1434 善なる人を救おうとする人は多いが、悪なるかわいそうな人を善なる幸福なる人として導こうとする人は少ない。罪悪の歴史が六千年あったので、私は一人の人を捕まえて少なくとも六カ月は誠意を尽くし、伝道しなければならない。

1435 先生が三千里隅々を訪ね歩きながら叫びたかったその心情を引き継いで、代わりに叫ぶ者は誰か。

1436 私を送った神様に、気をもませるような者とならず、「あなたは私の代わりに早く行きなさい」と言える実体となりなさい。このような実体となることが地上での栄光である。

1437 私は常に私の体を爆発させて、ある地域をひっくり返して、そこにお父様に侍る天の土台を建設する覚悟がなければならない。

1438 今の時は、世の堕落した人間たちの、救ってほしいという怨声が天地に響く時である。この声を聞くことができなければ復帰の心情を通過することはできない。

1439 自分の伝道任地に対しては骨と肉が溶けてしまうほどの感性をもたねばならない。「お父様! 私はこんなにも足りません。しかし私が出なければならなくて申し訳ありません」と祈る心情で壇上で語りなさい。自分を中心とせず、天の通牒文を持って出た天の精兵だと思いなさい。

1440 伝道の効果は霊的四〇パーセント、原理三〇パーセント、実践三〇パーセントとして表れる。

1441 伝道の任地では、その町民を全部集め、その町に生きていた霊人たちを全部集めて、その町のための忠誠大会を自信をもってやることのできる、信念と生活姿勢をもって歩まねばならない。

1442 高い木に登ろうと思えば、まず下から上がっていかねばならない。下の方は汚い。同じように一つの村を復帰するためにも一番悲惨な立場から解決してあげなければならない。

1443 自分が汗と涙を流した所から、一握りの土でも復帰しようと考えなさい。

1444 神様が与えてくださったこの期間中に神様の仕事を多くやった者は、これから神様の恵みを多く受けるであろう。ちょうど、学校の成績が自分の一生を付きまとうのと同じように、この一時の功が永遠について回るだろう。

1445 生死の頂点を共に越えることのできる三人を探し出して立てなさい。

1446 目で多く見てあげ、口で多く語ってあげ、耳で多く聞いてあげ、心情で大いに心配してあげ、その人のために多くをしてあげることが人を伝道する秘訣である。

1447 問題は「私」である。地方へ伝道に行ったときも、私は「乞食」として来たのか、「見物人」として来たのか、「主人」として来たのかが問題である。伝道に行くのは、世話になるために行くのではなく、世話をするために行くのであるということを明確に知りなさい。

1448 彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。

1449 かわいそうな人を見て泣きたい心、与えたい心があふれなければならない。このような心をもって伝道し、祈る立場は神様はどうすることもできない立場である。

1450 休むな! 休んでいては必ず地をたたきながら痛哭する時が来るだろう。

1451 できないと言うな。できなかったら無理にでもやってみなさい。必ず道がある。見つけだしなさい。

1452 「活動するな!」、この言葉はすなわち「あなたは必要ない」ということではないか。世の中で一番恐ろしい言葉があるとしたら、この言葉であろう。

1453 私はいない。私は既に罪によって亡くなった私であるので私を埋葬して進め。

1454 伝道ができないと嘆く前に、私自身が心と体が一体化され、万民の前にプラスになる実体となっているかということをまず嘆き反省しなさい。

1455 自分の基盤を築きあげるため、あるだけの誠意を尽くしなさい。そうするために、@み言を与えて、A行動と人格でみ言に対する手本を見せてあげて、Bその人をして自分のすべてを直告することのできる心情的因縁を自分と結ぶようにさせ、C彼に信仰の道において忘れようとしても忘れられない数多くの追憶を残させて、D彼のために自分が動いたのと同じように彼もそのように動くようにさせ、E自分の代身者としなければならない。

1456 伝道がうまくいかないときは、望みを失わず備えておきなさい。時が来るまで誠意を尽くしなさい。そして善なる人を真心から慕いなさい。

1457 万民を救おうとするならば、万民の境遇を理解しなければならない。そのためにはその立場に立って考えなければならない。

1458 心苦しいときには、沈黙しなさい。そして計画を立てなさい。それでできなければ反対作戦も必要である。

1459 家庭はいつでも出動準備をなしておきなさい。先生は太平洋を越えなさいと言えば、死ぬことを知りながらも行く。

1460 こちらに来いと言わずに、こちらから出ていって伝道せよ。

1461 私はどれほど人を愛するために、人を救うために、涙したことがあるか。真なる犠牲なくしては、人を真に生かすことはできない。

1462 自分の親戚と親友から伝道しなさい。伝道は、昔は恵みを奪うためであったが、今は恵みを与えるために行くのであるから反対しないだろう。

1463 伝道するときには、その人の話を全部聞いてあげて、その人の事情を全部受け入れたあとに自分の事情を知らせなければならない。

1464 伝道は接ぎ木する業であるので、その人と、相衝突する要素を全部除去したあとに相通ずる要素をもって伝道しなければならない。その人の全事情、自分の父母や相対者にも言えない秘密を全部吐き出させるようにしたあとに伝道し始めなければならない。

1465 自分が誠意を尽くしたことに対して、たとえ結実がなくても後悔するな。神様のみ業は発展するものであるため、十年、二十年を耐えて誠意を尽くせば発展するようになっている。

1466 職場において働いても「何とかしてこの場までも神様の因縁を広めさせてください」という心情をもって働かなければならない。

1467 帰らなかったならば、もっといてくれたならば何でも与えてあげたい、という心情があってこそ人が伝道され、復興される。自分の救いのみを目的とする宗教は必ず滅ぶ。すべての人と共に救いを受けていかなければならない。

1468 善い祖先をもった人を伝道すれば、自分の祖先の功労がなくても善なる祖先をもった人の祖先の功労が自分に連結される。

1469 一番低い人に対し、一番最高の人と同じように伝道すれば神様も感動なさるだろう。

1470 我々食口たちだけに火をつければ、この民族は回転するようになっている。我々はこの地を自分の地、この民族を自分の家族と思って、民族の前にモーセとカレブのような立場に立たねばならない。

1471 床に就くときも「人類を復帰するための父のみ旨があるのに果たせずして、彼らのために力を尽くせずに寝る自分を許してください」と祈って寝なければならない。

1472 いつ生命を懸けてみ言を伝えたことがあるか。神様の事情、心情、願いをもって相手の事情、心情、願いに訴えるときに感動を受ける。

1473 私が行って伝道すれば神様、私、伝道を受ける人、このようにして三代のみ業がなされるので力が出る。

1474 先生の願いはこの民族と世界が先生と共に涙して泣ける時がいつ来るかということである。

1475 世界を心に抱いて進むのが天の生活である。

1476 イエス様のみ旨を世界的に広めることのできる弟子たちが多かったとしたら、悲惨な歴史は始まらなかっただろう。

1477 一時間伝道しようとすれば三時間は祈りなさい! 人を訪ねていく前に涙を流さなければならない。涙を流す人は神様が共に働いてくださる。

1478 夜遅くても、帰るのか、と思って心配するようになってこそ伝道できる。行ってしまえばいいと思えばできない。何でも与えたいし、食べさせたいようになれば発展する。そして誰よりも引っ張ってあげ、抱いてあげれば導かれる。夜、寝ずに祈れば、夜寝ずに訪ねてくるようになっている。

1479 特に親戚と親友を伝道しなさい。この地上で自分の親戚と親友を伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れることはできない。

1480 皆さんが先にみ旨の道に入ったことによって、天の門を狭める者、すなわち妨げる者になったか、それとも広める者となったか反省してみなさい。

1481 前線へ伝道に行って、心霊のショックを受け、神様の許しなしに後退するようになれば、後方に来ては絶対に心霊を回復できない。再び前方へ訪ねていかなければ。そして今まで自分が行っていた所より何倍も、もっと悪い所でも自ら進んで訪ねていける決意をもたねばならない。

1482 良心の呵責を受けながらも活動しなければ病気になる。

1483 統一教会に入ってきて伝道を一度もしないで霊界に行けばおしになる。

1484 伝道に行かせたのは蕩減させるための天の恵みである。善い祖先の後孫はサタンもその道を妨げることができない。妨げればサタンが蕩減を受ける。そのために助けてくれるのである。

1485 反対する人三人以上を屈服させておけば伝道は容易なものである。

1486 高い所からは必ず再び下がってこなければならないが、自分の力で下がれなければ伝道した子女を通して謙遜なる立場に下がってくることができる。

1487 三千万のこの民を追い立てて世界伝道に送ることのできる時となって初めて、我々の責任を全部果たしたといえる。

1488 牛も毒草を分けて食べ、屠殺場であることを知るのに、いわんや霊物という人間が自分の死ぬ所と生きる道とを知らないはずがない。生かそうとする切ない心情で対してあげたにもかかわらず、相手が受け入れてくれなければ、彼が築いてきた恵みをすべて奪ってくるし、彼の功労も苦労した者のものとなってしまう。

1489 伝道できなければ道がふさがれる。

1490 イエス・キリストも福音の道を出発するとき、家庭的生活環境、息子の立場、さらには自分の願望までも捨てて十字架の路程を歩まれた。

1491 人を無視するな。尋ねてくる人をいいかげんに扱えば道がふさがれる。

1492 伝えるときに応ずることよりも、伝えようとする心に応ずることのできる人が神様の食口である。

1493 み旨を受けるとき真心から受け入れたように、真心を込めて伝えなさい。

1494 人をしかったなら祈ってあげて収拾し越えていかなければならない。

1495 人に対して関心をもちなさい。愛しなさい。

1496 統一原理で伝道するのは、愛を探す運動である。

1497 生命を懸けて闘ってきた目標は、正しい人を探すことである。いかにして残り得る天倫の人物として立たせることができるか。

1498 あざ笑って与えれば滅びる。与えるにおいては涙で与えなければならない。

1499 歴史が悲しむことは、もっている人が与えることを知らず、学んだ者が教えることができず、見せてあげることができないところにある。

1500 み旨を伝えながらもオーバーを敷いて山の上で眠るようなとき「ああ! すてきな俳優になった。このフィルムが回る日、痛哭する瞬間がいつか来るであろう」と考えなさい。

1501 原理講義は神様の代わりに叫ぶ内情的な事実を講義しなければならない。講義より心情的な位置がどうであるかをもっと心配しなさい。

1502 祝福家庭は聖日は必ず伝道しなさい。

1503 昔、先生についてきながら忠誠を尽くした時と、皆さんを中心として活動する時は異ならなければならない。ついてきた時は霊的基準を復帰する時であり、今は引き受け繁殖する時である。

1504 一年に最小限三人は伝道しなければならない。

1505 死刑囚に一月に一人ずつ伝道しなさいと言えばできないだろうか。我々も何十年たてば死ぬしかない「自然死刑圏内」にいる。

1506 極度に反対する人三人が現れれば、味方になる人一人が必ず現れる。

1507 事業も、伝道のための条件的事業としてしなければならない。


二 信仰の子女

1508 信仰の三人の子女を立てなければ七年路程は無効になる。

1509 信仰の子女――公的な私をつくるための条件。

1510 信仰の三人の子女を立てて群れに加わる者となりなさい。信仰の三人の子女を立てれば家庭型をなすようになる。

1511 皆さんは先生よりも少ない年齢で信仰の子女をもつことができるというのが、いかに恵みであり感謝であるかをよく知らない。

1512 信仰の子女を生かすためには直系の子女を苦労させなければならないし、民族を生かすためには統一の食口たちを苦労させなければならない。

1513 信仰の三人の子女は三大祭物に該当する条件物である。それゆえに信仰の三子女がなくしては、神様の前に復帰されない。

1514 三つの家庭を結婚させてこそ父母の立場に立つ。信仰の三子女を見つけるのが問題である。

1515 信仰の三子女を立てておかなければ、自分の子女を愛することができない。

1516 信仰の子女が直系の子女に腹中から完全に侍るときに蕩減復帰は完全に終わって、サタンは我々の家庭から血統的に完全に切れてしまう。

1517 元来は信仰の子女三人を立てておいて子供をはらみ、腹の中から信仰の子女が完全に侍り得る立場を立てておいてこそ、天国に行ける子供を生むことができる。

1518 アダムの前には侍らなければならない三人の天使長があった。これを復帰するためには、子女を生む前に腹中から侍らなければならない三人の信仰の子女を立てて、絶対に屈服する立場を立てておかなければならない。

1519 信仰の三子女は、@私に代わって死を覚悟し死地に入っていける心情をもたねばならないし、Aアベル的子女に腹の中から成婚するまで侍らなければならない。そうしてこそ、その家庭は完全にサタンの讒訴を離れることができる。

1520 信仰の三人の子女は、縦的には神様の前に、アダム・イエス・再臨主型であり、横的にはカイン・アベル・セツ、セム・ハム・ヤペテ、アブラハム・イサク・ヤコブ型である。

1521 イエス様も信仰の三人の子女を失ったので、試練を受けざるを得なくなったのである。

1522 信仰の子女を愛したことを教材として、自分の子女たちに教育しなければならない。

1523 イエス様が亡くなられるとき、三弟子が一緒に死んだとしたら、神様はイエス様よりも先に三人の弟子を復活させ、その次にイエス様を復活させて、イエス様は昇天しないで地上で霊的四位基台をなして聖霊を地上に迎え、み業をすることによって、地上では悲惨な血を流すことなく早くみ旨をなし得たはずであった。この三人の弟子が信仰の子女である。

1524 神様のために涙を流す子女を神様は訪ねてこられる。

1525 父子の因縁が天地の根本である。

1526 子女にとっていくら醜い母だとしても自分の母は一人しかいない。

1527 神様への最高の贈り物は(霊的に)死んだ子女を探してきて報告することである。

1528 三子女復帰は、@霊的には三大天使長を復帰させること、A父母の立場を決定するための絶対要件、B子女を完全な勝利の立場に立て得る絶対要件。

1529 統一教会に入って裏切って去った人たちの責任を、あとから入ってきた人たちは再蕩減しなければならない。

1530 信仰の子女に私の最高のものを与えることができるか。

1531 子女を三人生んだとしても、育てるときは一人を育てるように育てることができなければ心情的な統一を期することができない。

1532 一人に対しても最高の精誠を尽くさねばならない。


試験・試練

1533 試験にかからない秘訣は、私を中心としないで生きる生活である。

1534 私に押し迫るすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押し迫るときには喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛してくださっている証拠である。

1535 神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。

1536 懲戒は天的な存在基台から離脱するとき(天倫の力を外れるとき)生ずるのであって、神様が直接打つのではない。

1537 ぶつかることを嫌がってはいけない。その範囲が広ければ広いほど勝算も大きい。

1538 善なる立場でありながらも、また打たれる立場(悔しい立場)に立てば、サタンはそれ以上に打つことができない。善でありながら打たれない立場にいれば、サタンは打ってみようと讒訴する。

1539 自分としては誠意を尽くしたのに、指導者が自分よりも劣る者を認めてやって、自分を認めてくれないとき、寂しく思うよりもかえってこのような祈りをしなさい。「お父様! 今私を認めてくださらなくてもいいのです。私のために痛快な笑いができる時に備えます。お父様が喜ばれない立場では認めてもらうことを願いません」。

1540 神様の前に同情を受け、記憶され得る自分になれば、自分を妨げようとする人よりも、神様のみ業が自分に大きく作用するようになる。

1541 このごろ、先生の祈りの題目は「悲惨な中においても耐え忍べる力を食口たちに与えてください」ということである。

1542 一番悲しく口惜しく、無念な立場においても責任をもちなさい。そのような心をもって進めばすべての試験が解かれる。

1543 サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。

1544 宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。

1545 キリスト教は十字架で出発して、行く先々で打たれて血を流した。今日、キリスト教は世界から打たれる立場をとらなければ世界を主管することができない。見てごらんなさい。一番多く倒れたバチカンの丘にキリスト教の宮殿が立ったではないか。

1546 神様の戦法は打たれて奪ってくる。ゆえに打たれようとすればきれいに打たれなさい。

1547 先生は、この手首が何十回も手錠と挨拶した。しかし監獄に入ったぐらいで消える男ではない。

1548 へたばるな! 天理を外れなければ自動的に発展する。死なずに残りなさい。

1549 荒野路程で押し寄せる風を避けようとして逃げれば、荒い鳥のえさとなってしまう。荒野時代を恐れる者はイスラエルではない。

1550 今まで預言者が連続して打たれてきたし、個人が打たれ、民族が打たれてきた。しかし消化できれなければ屈服するようになる。

1551 荒野路程で環境に不平を言うな。私は女子であり、私は老人であり、私はこうであり、ああでありと言いながら、モーセのあとをついていけなかったなら、荒野で死を免れることができただろうか。

1552 創造本然の円満な相対基準と授受作用を結べないところに苦痛と悲しみが来る。ゆえに、悲しみや苦痛というものは、相応の立場を(特に万有の本体である神様に)とらないとき、実存の価値を立てる型を整えることができなくなるので生ずるのである。

1553 み旨を知って満三年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、三年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。

1554 サタンはほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために猜疑としっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し審判しなさい。サタンはいつも私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。

1555 信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。

1556 一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって試練を有り難く思いな  さい。試練はサタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから耐え忍ん  で乗り越えれば春のような新しい恵みを受けるようになる。

1557 倉庫に納めておいた穀物も収穫されることだけで終わるのではない。三度以上皮をむかなければならない。そして、もみすりする途中においてつぶれてしまっては、決して主人のおぜんに上がることはできない。同じように我々の信仰路程においても多くの試練と苦痛の中において、自分を鍛えなければならない。そこで折れてしまっては何にもならない。

1558 光が強く照ってきたら、それに比例し影も深くなるように、恵みが大きいと、その恵みに前後して試練も大きい。

1559 危機を克服するためには、深い信仰と緻密なる計画と実践するだけの信念がなければならない。

1560 「私」という存在は天の悲しみを与えて探されてきたものであり、買われてきたものであり、取り替えられてきたものである。これを忘れるときには歴史的な死亡の波を踏み越えて上がることはできない。

1561 先生はサタンの試験は受けてみたが、真の兄弟の試験、真の父母の試験、真の子女の試験を受けてみなかった。皆三つの試験を全部受けるので、そのような面においては、先生よりも勝っている。

1562 サタンの試験は最高の頂点、十字架上でなされる。この時は神も干渉することができない。

1563 神様が私に従って動き、神様の心情が私と共にあり、天地はすべて私のもとで左右されるという確固たる信念をもって生活してこそ、サタンの侵犯を受けない。

1564 自分自身で自ら条件物と期間を立てて越えていく人は、サタンの試験を受けないで越えていくことができる。

1565 ある人から負債を負えば、その人の僕となる。そうでなければ滅びる。反対しようとしても反対することのできない立場まで行って、そのときに初めて位置を確保することができる。

1566 刺激を受けながらも感じない者はその根が腐っていく人である。

1567 迫害を受ければ縦的に上がる。

1568 自分だけのための願いを抱く者は、暗黒となり陰となる時があるが、大きい願いを抱いて生きる人は何となく生き生きして価値があるように見える。

1569 古い食口の中には、苦労をした事実だけが頭に残って目的に向かっていこうとする力がなくなった人が多いが、このような人たちは死んだ人と同じである。

1570 常に信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。

1571 十ぐらいの試練にぶつかれば、百ぐらいの試練を求めなさい。そうしたら反作用として打っていけるだろう。そして、自分が受ける試練以上に悲惨な立場を訪ねていけば神様が支えてくださる。

1572 すべての困難を自分一人で受けていると思うな。神様と共に受けていると思いなさい。そして、艱難(災い)を受けた時に、「父よ! 私の祖先からの過ちに対する蕩減を素直に受けます。以後はこのようなことがないようにしてください」と祈れば蕩減として越えてしまう。

1573 中心の峠と各自の峠を知って必死に越えなさい。

1574 試練、苦痛の路程を歩むためには、全体が私を捨てても私を分かってくれる一人の同志が必要である。

1575 どのような試練場においても勝つことができるまでは、勝利の月桂冠をかぶることができない。

1576 イエス様がサタンを屈服させる方法として「柔和謙遜になれ! 従順屈服せよ! 犠牲奉仕をせよ!」と教えてくれたのである。

1577 勝利者になるためには、第一に物質的な苦痛、第二に人による試練、第三にサタンの直接試練あるいはサタンの代わりに神様の試練を経なければならない。

1578 天と地の試練を克服しなければ善の基準を復帰することができない。第一は環境的な試練であり、第二は人間的な試練であり、第三は霊的な試練である。

1579 木も台風を受けるため根を深く張るように、「サタンの風よ吹いてこい」と言えるようにならなければならない。

1580 イスラエル民族は、エジプトの苦役を離れ自由の道に出てからもっと大きな試練があるということを知らなかったゆえに滅びたのである。

1581 恩恵を与えるのは、より大きな受難の道を行くことのできる道を補強してあげるためである。

1582 麻の上着を着ていたとしても走れば冬も勝つことができる。同じようにいくら難しい立場にいたとしても、常に走る心情があれば困難を克服することができる。

1583 未知の世界を尋ねていく人は最高の頂上に登ってみなければならない。そうしたらその向こうの未知の世界を観望することができるであろう。しかしその頂上まで登るには安易にはできない。受難と坂道を、あるいは茨の道を歩まなければならない。

1584 忍耐と克服は復帰途上の正常的な軌道である。


説 教

1585 説教は、血を流し、涙を流し、汗を流した生活のみ言である。

1586 説教するときには大衆をおいて説教すると思うな。一人をおいて説教しなさい。そこの一人が恵みを受けて涙を流せば全体に響いていく。ゆえにきょうの説教は誰のために霊力を消耗しようとするのか、その対象が確実に決定されていなければならない。

1587 先生は説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもつ。「お父様! 彼らを引き上げなければならないのに、どうすればよいでしょうか、これでありますか、あれでありますか」と深刻に誠を集中して、心の命令どおりに説教する。

1588 壇上に立つときには、神様が求めていらっしゃったその人に会うために立つ、という心をもって立たねばならない。

1589 教職者として説教を誤ったときには、三倍以上悔い改めて血と汗を流さなければならない。そして恵みを与えられなかったら、ほかの奉仕の方法ででも蕩減して、その代価を支払わなければならない。

1590 特に壇上に立つ人が肝に銘じなければならないことは、話をしてその内容を実践できないときは、実践する人にその恵みを奪われることを知らねばならない。

1591 骨と肉を溶かして、後代に見せてあげる無言の説教を残そう。

1592 説教は刑場に出ていく気持ちでやるのである。「父よ、今立ちます」と涙を流すことのできる場にならなければならない。

1593 教職者は、医者が重病患者を扱うときの心境と同じような心境で壇上に立たねばならない。

1594 人に会うために壇上に立つのである。説教の準備ではなく心情が問題である。

1595 三時間説教しようとすれば、三時間精誠を尽くしなさい。

1596 説教するには、み言の動機が私からではなく神様が動機とならねばならない。神様のみ言を入れられる器とならねばならない。

1597 準備をした説教には加工が加わる。それゆえ説教の題目を先には定めない。

1598 火をつけるときは火がよく燃えつくような紙が必要であるように、説教するとき心情の火をつけることのできる人を探さねばならない。

1599 説教はよくしようと思わないで真実にやりなさい。


祈 祷

1600 お祈りするときの心情は、子供がおなかがすいたとき、乳を恋しがるのと同じくらい切実で切ない心で祈らなければならない。

1601 祈る方法は、@神様の六千年の復帰の心情を私の心情として、Aイエス様の言うに言えない心情を理解する心情で、B先生の抱かれているみ旨と、その成就のため切ない路程を慰めながら、Cみ旨のために出て戦っている食口たちの立場を考えながら、D私の反省と私の誓いを中心としてただひたすら祭物となった立場で祈りなさい。

1602 この世でも挨拶をするのにその方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい。

1603 祈りはその特定の人のためにする祈りと、また公義のためにする祈りとの二つの種類に大別され、その祈りを当事者が受けないときには、その恵みが自分に来るし、公義のための祈りは審判の時を短縮してくれる。

1604 祈りは深い水がめと同じである。祈りの雰囲気は我々の肉身生活における呼吸と同じようなものである。

1605 天に対して祈るときは、子供が父の前で頼むような純粋な心情で祈らなければならない。

1606 私の心と体を善悪に冷静に分別して、み旨に対して祈りなさい。また、天の前に自分の罪の自覚をして祈りなさい。

1607 今までは、「恵みを下さい」と祈ったが、これからは「私のものを差し上げますのでもっていってください」と祈る時である。

1608 神様を感動させることのできる立場に立ちなさい。おなかがすいたとき、自分を思って祈らずに、神様を思って祈りなさい。「お父様! 今日まで復帰の道を行くために子女たちがどんなにか飢えていたことか。そしてそれを見つめていらっしゃるお父様はいかに悲しかったでしょうか」。

1609 蒼白な顔にも祈りの生活をして霊的な実力を備えなさい。霊界を主管して、原理に精通するようになれば、自信をもつようになる。

1610 主に祈ることを多くしなさい。祈れば一人で生活しても絶対に寂しくない。祈りは呼吸するのと同じである。

1611 たくさん祈れば霊的に明るくなるし、善悪に対する分別力と感性が鋭くなる。

1612 常に祈りの生活をしなさい。往来しながら、み言のとおりに生きることを祈り、父のみ言が血と肉となって動くように祈りなさい。

1613 祈りは私個人のためだとか、自分の家庭のために祈るよりは、人類全体のために祈れば、人類全体が祈ってくれてなした結果が返ってくる。

1614 まず、心の中に平和をなしたあとに祈りなさい。

1615 先生が呼ぶお父様と、皆さんが呼ぶお父様とは名は同じであるが立体性は異なる。

1616 「お父様! 万民に与えてあげたいので、与えることができるようにしてください」と祈りなさい。

1617 神様と私が一体となること、天と地を糾合して、神様に侍ることが先生の祈りの題目である。我々が寝ても覚めても思うことは神様のための一つの主権、一つの人類、一つの国土を立てることである。

1618 祈りは誠を集中させること。

1619 祈りは自慢しに行く時間でなく、祭物を捧げるために行く時間である。私を祭物として喜びに変えてくださいと切に願わなければならない。

1620 祈るときは自分自身を中心として祈らず摂理歴史において願ってきた神様の心情を中心として祈らなければならない。

1621 物質のための祈りより、人のための祈りをしなければならない。物質のための祈りをしようとすれば自己の財物をすべて捧げて、それを条件として祈りなさい。

1622 先生は神様の前に祈った内容のなされることが恐ろしいときがある。祈りが果たされれば神様との因縁はいったん終わるが、その祈りがなされない以上は、神様は統一教会をつかんでいくことを知っているためである。

1623 祈るとき、自分の祈りの声に恵みを受けることができてこそ、それが恵みの源泉となる。

1624 祈祷はまず、私の心を呼び起こし私の心を通して私自身が祈ることのできる道を整えなければならない。そうしたらその上に父と子と聖霊の神性が、我々の心を通じて関係を結ぶことができるのである。

1625 祈祷には犠牲が介在し精誠が介在するのである。

1626 食口たちのために一日三度ずつ祈ってあげなければならない。特に早朝ごとに祈ってあげなさい。

1627 深い祈祷生活をすれば、心霊が明るくなる。

1628 食口たちを診断するためには祈らなければならない。そのようにして自分が真空にならなければならない。

1629 数多くの宗教人と道人たちが呼ぶ「神様」という声より、私が呼ぶ「神様」という声が一番大きいと感じなければならない。「お父様は私の言うことしか聞きませんよ」と言える祈りをしなければならない。

1630 「耐えて生きています」と祈れば力も与えられる。

1631 一度祈って千年間を待つことのできる、そのように精誠を尽くした民族があったか。

1632 最高に孤独な場、最高の冒険的な場において捧げる自信満々な勇者の祈りを神様も好まれる。

1633 与えて代価を求める人となるな。数万年後になしてくださることを祈りなさい。人を助けてあげて記憶しておくな。

1634 精誠を尽くしなさい。精誠を尽くす父母は、外地に行っている子女の不祥事を知る。

1635 実力は一面を照らすが、精誠は中心であるため全面を照らすことができる。

1636 子女の手を握って夫婦が早朝に起きて涙を流しながら祈らなければならない。それが知られるとき伝統となる。

1637 早朝に起きて祈るとき、心臓の鼓動を聞くことができなければならない。

1638 細密に教えられるためには祈らなければならない。一心でなければならない。

1639 祈りが早く成就されるかどうかということは神様の目的と一致しているかどうかにある。

1640 牧会者は説教時間の二倍以上祈りなさい。

1641 祈りというのは率直に報告する生活である。

1642 我々が精誠を尽くしたという立場は、天国に行く出発にすぎない立場なのである。

1643 公席において祈ることをはばかる人が先生である。日常生活に精誠を尽くさない人が、それ以上精誠を尽くした人の前で祈るということは恥ずかしいことである。

1644 精誠を尽くしたものは毒薬よりも恐ろしいのである。

1645 歴史に残る人とは、もともとの素質より以上に精誠を尽くした人である。

1646 人は東西南北のタイプがある。祈りもその人その人の恵みとなる時間が各々違う。


義務守則

1647 十一条(十分の一原則)は選ばれた子女たちの基本道理である。神様の数である一数を捧げることによって九数までも捧げたという条件が立てられ、この十の一数は残りの数よりも、もっと貴重に思わねばならない。

1648 聖日は十一条の日であるので、私の日ではない。ゆえに、神様の命令のまま服従する日なのである。神様のものを私のものとして使おうとするのは罪である。

1649 十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室はかわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。

1650 私の子女のうち、一人を神様の前に捧げなければならないし、そうすることができなければ、他人の子女でも勉強させて神様の前に捧げなければならない。

1651 教会の十一条生活も食口が十家庭あれば、指導者一人を養わなければならない。そうでなければ天民権をもつことができない。

1652 十人が生きておれば、神様の人一人を扶養しなければならない。

1653 お金を扱うにおいては人格が先立たなければならないし、言行審査が一致しなければならない。

1654 公金は種である。蒔けば実を結ばなければならない。結ばなかったらすべて奪われる。

1655 公金に対して不徹底であれば追放される。見ていなさい。先生は全部知っているが、時を待っている。

1656 先生の財布から出た公金は、勝手に使ったら困る。

1657 全体の前に見本とならなければ置いておかない。見ていなさい。民族的な勝利の基準が来れば清算する。今清算したら、民族の生きる道がないために耐えていくのである。

1658 聖塩は「麹」と同じである。物を買うときに聖別し、外の生活をして家に入ってくるときも門の所で聖別するのが原則である。

1659 聖別したものはサタン世界に分け与えるな。やむを得ないときは左手で与えなさい。

1660 聖別した不動産を処分しなければならないときは地域、地区、協会の三段階を通して許可を受けて処分するのが原則である。

1661 我々食口たちが聖別して入る地で、すべての地を占領していかなければならない。













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