祝福家庭と理想天国
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第一章 創造理想と男女の愛

  第一節 創造理想と人間の堕落
  第二節 真の男女の愛
  第三節 真なる結婚と真の愛
  第四節 愛を中心とした終末の現象



第一節 創造理想と人間の堕落

  1、神様のみ旨と四位基台完成

 多くの人たちが神様のみ旨について語っています。しかし、この話は簡単なようで、いざ「神様のみ旨とは何か」という質問を受けた場合、答えるのは非常に難しいものです。

 また、今日まで多くの信仰者が「神様よ、み旨を成さしめ給え」と祈ってきました。そして神様のみ旨を成すために現在、私たちも信仰生活をしています。しかし神様のみ旨が何であるかもよく分からないのに、神様のみ旨が成されることを祈り、またそのみ旨のために信仰生活をしているというのは、一つの矛盾だと言わざるをえません。

 それでは私が神様のみ旨に対して定義をしてみましょう。私は、神様のみ旨とは「創造理想を完成すること」だと定義を下します。

 それでは「神様の創造理想を完成する」ということは何でしょうか。それは人間の理想を完成することです。言い換えればアダムとエバを中心として、全被造世界が神様のみ旨の前に一体となり、アダムとエバの理想を完成することです。統一教会の言葉を使って言うならば、神様のみ旨は四位基台を完成することです。(1)

 統一教会で見る神様のみ旨、すなわちレバレンド・ムーンが知っている神様のみ旨とは何でしょうか。それは神様が宇宙をつくった創造理想、すなわち創造目的を完成することです。神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです。

 では、その理想実現とは何でしょうか。それはまさに四位基台を成すことです。四位基台とは、神様を中心とするアダムとエバが、神様の愛の圏で離れようとしても離れられないように完全に一つとなり、理想的な夫婦となり、彼らが子女を繁殖することによってつくられる神様中心の家庭の基台をいいます。この四位基台が造成されれば、神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります。(2)

 神様の創造目的とは何でしょうか。アダムとエバをつくったのは、ただ見るためではありません。男性と女性をつくったのは、男性は男性として、女性は女性として年老いて死んでいくためではありません。彼らが成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して、神様を中心とした人類の真の地上天国を建設するようにするためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここにおいて男性であるアダムは天を代表し、女性であるエバは地を代表します。それゆえ彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば、天と地が統一されるのです。神様の愛を中心に二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。(3)

 神様はアダムとエバを創造されたその時点よりも、彼らを通して開かれる未来に、より大きい願いを置かれました。最も貴いものが来るようにしました。それは創造目的を完成することです。愛を中心とした四位基台を完成することです。(4)

 神様は個体の性稟を中心として、プラス的性稟の代表として息子であるアダムをつくられ、その息子を最高に愛されました。その息子を愛するのに、(男性的な愛だけでなく)、女性的な愛を合わせて愛されました。また娘であるエバを愛するのにも、男性的な愛を合わせて愛されたのです。

 このように分立した二人が一つになることによって、第三の出発の起源が生じるようになるのです。言い換えれば、第一相対の因縁を中心にしてアダムとエバが相対的に結合すれば、結合したこの新しい愛を中心にして出発の動機が現れるようになるのです。それが子女です。ですから子女はより新しい希望を触発させてくれる愛の対象であるというのです。

 アダムとエバは神様の愛と父母の愛を代身した実体として生まれました。したがって、彼らの息子・娘を神様も愛し、アダムも愛しエバも愛するのです。皆さんは三対象目的ということを知っています。その三対象目的はこうして成就されるのです。(5)

 人間に対する神様のみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想実現は男女が結婚し、愛によって一つになることで終わるのではありません。そうなった後には息子・娘をもたなければなりません。なぜそうかといえば、天地の道理は上下、前後の関係が連結されるものだからです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。(そのように)連結されなければなりません。ですから夫婦だけでは、きょうはあってもあすがありません。あすがなければすべてが終わってしまいます。夫婦が上ならば下(子女)がいなければなりません。下がなければ終わりなのです。そして天地の道理には、上下があり、左右がありますが、夫婦が左右となるのです。

 そして父母はその息子・娘たちを結婚させてこそ、父母の責任を果たしたといえるのです。息子・娘が結婚して初めて、夫婦である父母と上下関係が成立するのです。上下関係が確立してこそ理想が成り立つのです。左右としての夫と妻が一体となっても、上下関係としての父母と子女がいてこそ、縦横が連結され、宇宙の理想的球形世界を実現することができます。またここに兄弟姉妹がいて初めて球形が生じます。そして理想実現(創造理想)を完成するようになるには、横的にも縦的にも連結される十字的球形を描かなければなりません。その二つの理想実現圏を男性と女性が感じるようになるとき、初めて、(その男性と女性は)おのずから理想的な位置で生きているということができます。それは何でしょうか。統一教会でいう四位基台です。それゆえに創造理想完成は四位基台完成だという言葉が出てくるのです。(6)

 人は自分だけにとどまってはいけません。自分から三段階を経ていかなければなりません。これが「私と相対と子女」なのです。神様を中心とした「私と相対と子女の関係」、これが四位基台です。そしてこの四位基台を完成することが神様の創造目的なのです。(7)

 統一教会の原理でいう創造目的完成とは人間にとっては四位基台を完成することですが、父母が愛で一つになり、神様の愛が臨在することができると同時に、その神様の愛が父母を通して子女に伝達される絶対的な愛でなくては、四位基台は完成されないのです。天から始まったすべての出発の順序に従って、私たちの「家庭」という中間駅を通して、子女に間違いのない系譜で愛が伝承されてこそ、神様の四位基台が完成されるのです。そのためには(私たちがすべての人に)神様を善なる神様として教えてあげなければならず、愛することを教えてあげ、女性としては夫を愛することを見せてあげ、子女を愛することを教えてあげなければなりません。夫としては神様を愛することを教えてあげ、妻を愛することを見せてあげなくてはならず、子女を愛することを教育で見せてあげなければなりません。これを統一教会では三対象愛の目的完成といいます。(8)

 人間始祖を通しての神様の理想は何だったのでしょうか。神様の理想は理想的な男性と理想的な女性が結婚して理想的な家庭を完成することでした。それでは理想的な家庭を成す中心は何でしょうか。それは男性でもなく女性でもありません。家庭とは結局、父母と子女、夫婦の結合によって成される一つの束ねで、その結ばれた中心は何かといえば、まさに神様の愛です。神様の愛を中心にして夫婦が結婚し、神様の愛を中心にして家庭を完成させることが神様のみ旨であるとの結論が出ます。(9)

 神様を中心としてアダムとエバが完全に一つになったならば、それは相対的な立場で絶対者と一つになる(という)ことなので、そのアダムとエバの愛は絶対的な愛なのです。その絶対的な愛の圏内で生まれた息子・娘は、その絶対的な愛を通して愛を受け、絶対的な愛の圏内にいるのです。

 絶対的な愛の圏には、矛盾や相反がなく、(そこに)順応することのできる位置に立てば、絶対的愛がともにあり、愛の支配を受けるようになるのです。

 そのような意味で、息子・娘は平和な愛の垣根の圏内に育つようになるのです。そのような息子・娘として育つので、そこに造成されるすべての雰囲気は、父母から、あるいは子女から、調和し和動することができ、互いが神様の愛を讃揚することのできる位置になるのです。これが統一教会でいう四位基台基準です。

 このように四位基台基準が成されれば、すなわちお母さん、お父さん、息子・娘が一つになるならば、絶対的な愛の圏が形成されます。この愛の絶対的価値を、立体的に絶対化させることのできる圏が天国となるのです。(10)

 四位基台を造成するには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。(11)

 神様の創造理想は人間始祖であるアダムとエバが善なる子女を繁殖して、神様を中心とした一つの世界をつくることでした。(12)

 神様のみ旨とは一つの愛を中心とした家庭理想、すなわちサタンが讒訴できない家庭をつくり、神様の氏族、民族、国家、世界を建設することです。(13)


  2、愛を通した創造理想実現

 神様がこの世界を創造されたのですが、私たちが神様に、何ゆえにこの世界をつくられたのかと尋ねるならば、神様は間違いなく`善のためaと答えるでしょう。`善aすなわち喜びのために、喜びを得たいがために、神様はこの世界を創造されたというのです。

 それでは善い状態、すなわち喜びはどのようにして得られるのかといえば、愛の形態を通して得られるのです。ですから神様は愛の実現を通して喜びを得ようと、この世界を創造されたとの結論を私たちは得ることができます。

 愛の実現のためにこの世界を創造された神様であられました。人間と万物が神様の愛を中心に一つとなり、和気あいあいとした愛の関係を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心に一つの真の夫婦の因縁を結び、一つの真の愛の家庭と氏族、民族、世界を成すのを見て喜ぶために、そして、そのような人間と愛で一つになることによって愛の喜びを味わうために、被造世界を創造された神様であられました。まさにそれが神様の創造の理想であったのです。(14)

 神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。ところが愛の理想の実現は、神様お一人では果たせないのです。愛とか幸福、喜びなどは一つの個体のみによって成り立つようになっているのではありません。相対圏がなくては絶対に成立することができないのです。(15)

 神様は絶対的な存在ですが、愛の相対となる存在がなければなりません。神様の愛の相対者はまさに人間なのです。神様の愛の相対者としての人間が、完成した愛をもって神様の前に現れるとき、神様は幸福の神様、喜びの対象を得た神様となるのです。(16)

 宇宙は必ず授け受けする道理になっています。高くなれば下がらなければならず、受けたならば与えなければならないので、絶対的な愛、絶対的な主体となるには、より相対的位置に立たなければならないのです。

 ですから主体としての絶対者は、必ず相対のために理想を追求せざるを得ません。世の中でどんなに素晴らしい人がいても、世界的に権威のある学者、芸術家、政治家、聖人、すべてがどんなに高い位置にいたとしても、一人では喜ぶことができないのです。喜びとは相対的な要件を整えた位置において可能なことなのです。(17)

 神様の喜びはどこに現れるかを考えてみましょう。神様は絶対者なので終わりだとすれば最高の終わりです。また限界線の中心として立っているので相対的な面を追求せざるをえません。

 太陽が照ればある物体を中心として必ず影が伴います。これと同じように私たちは考えることができます。主体となるその方は高いもののために与えるより、相対的な低い万物のために与えたいのです。

 それゆえに、天地万物をつくったのはまさに神様の理想を実現するためだったのです。理想実現の対象は万物から動物、人間まで連結されるのです。もちろん自然も含まれますが、神様は小さいものから大きいものへとつくり始められました。

 ですから小さいものは小さいなりに神様の一部分の対象になるのです。ゆえに絶対的な神様には、相対的要件として小さいものが、愛することのできる手始めになります。(神様は)そこから徐々に次元の高い意味の刺激を感じられたのです。(18)

 無限なる神様の愛が、目的を中心として愛することのできる本心の基、これがまさに心情です。その価値は変わらないのです。神様の存在の価値を論じようとすれば、この愛をもって論じなければなりません。価値というのは相対的与件が満たされた中で決定されるものです。

 それゆえに喜びとは神様の心情から出発するものです。そしてその目的がどこで成されるかといえば人間において成されるのです。目に見えない神様の心情が、目に見える人間の心情に顕現されるのです。そしてその心情をもった人間が横的に拡大し、一つの家庭を成すようになれば、その家庭は世界的に拡大し世界の中心になるのです。そうした家庭を成せと、神様はアダムとエバに「成育し繁殖せよ」という祝福をされたのです。天宙主義は、成育し繁殖し万物を主管した、その基台の上に成立するのです。(19)

 神様はなぜ被造世界を創造されたのですか。神様は被造世界を通して喜びを味わおうとされたのです。神様がいくら絶対者だといっても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相対がいてこそ生じるからです。

 神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様ご自身が絶対的で全知全能なので、そのようなものを必要とはされません。科学がどんなに発達しても神様がつくられたものに追いついたり、越えたりはできません。膨大な宇宙は秩序の中に法度に従って運行されています。人間の思考と科学が及ぶことのできない膨大な宇宙を神様は創造され、運行しておられることを考えるとき、神様は絶対的な科学者でもあられます。

 世の中に存在する物の中で、神様と相対となる力はありません。神様の力は全知全能であり絶対的だからです。また永遠不変で自存的な方が神様であられます。そのような神様が願われることがあるとすれば何でしょうか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、何を願っておられるのかというのです。神様が必要とするものは何であるかが問題です。

 神様が絶対必要とするものが一つだけあります。それは人間に絶対的に必要なものであると同時に神様にも絶対に必要なもので、(それが)真の愛です。(20)

 神様には知識は必要ありません。知識を創造した方です。神様には権力も必要ありません。全知全能なる方です。神様にはお金は必要ありません。ダイヤモンドや金も思いのままにつくることができます。

 一体あなた(神様)に必要なものは何ですか。神様には必要なものがただ一つだけあります。それは何かといえば愛です。

 それでは神様お一人で愛を受けることができますか。神様はご自身で愛を思うままにすることができるのではないかというでしょうが、とんでもありません。

 神様において最も必要なものは、真の愛を分かつことのできる対象者なのです。これを知らなかったのです。(21)

 神様が絶対的な方ならば、その絶対的な方がなぜ人間をつくったのかというのです。お金のためにつくったのでもなく、知識のためにつくったのでもなく、権力のためにつくったのでもなく、(人間の創造が)神様の愛を(神様ご自身が)感じることのできる唯一の道ゆえに人間をつくったのです。

 この観点から見るとき、神様は父であり人間は息子・娘だということが一つの軸をなすのです。この軸が万一連結されたならば、人間と神様が愛で一体となった関係は、何が作用しても絶対に引き離すことができないのです。

 神様の本然の愛と絆を結んで、その愛の味を味わった人は(神様から)離れていくでしょうか。蜂は春に蜜を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻をつかんで引っ張るとお尻が抜けても、その蜂は蜜から口を離しません。

 皆さんがその味を味わったらどうでしょうか。離しても離しても戻ってきて、再びそこにくっつこうとするでしょう。この軸の愛に連結された全時空が作用する基準になっていれば、個人的に完成した男性と女性が一つになって、愛を中心とした人間の家庭の顕現が始まります。

 この愛を軸として氏族の顕現、民族の顕現、国家の顕現、世界の顕現が成されなければならないのにもかかわらず、何のゆえにか今日アメリカでは、いわゆる愛というものが利己的になり、道端であいさつ(外交)するように男女が交際する、そんな愛になってしまいました。(22)

 神様がなぜ人間を創造されたかといえば、一人でいては刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわき出るものです。一人では喜びの刺激を得られません。神様の相対的位置に立つならば初めて最高の愛を受けられるのです。そうなれば神様の性相がそのまま実体化します。神様が悲しめば人間も悲しまざるをえません。それゆえに人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても結論はここに到達するようになるのです。(23)

 神様には人間がなぜ必要なのでしょうか。神様の理想を実現するのに人間がなぜ必要なのかというとき、「神様の愛を完成するために必要なのだ」と言うことができます。神様の愛とは何でしょうか。それは、人間同士、永遠に見て愛するのはもちろんですが、神様をして人間を永遠に愛し得るようにさせるものだともいえます。人間はこのように神様の永遠の愛の相対者なのです。

 アダムとエバを創造されたその日から、神様は永遠無窮にアダムとエバを(どんなに)見ても、もっと見たいし、(どんなに一緒に)いても、もっといたいし、(どんなに一緒に)住んでも、もっと住みたい(という)対象として愛したかったのです。そのような対象をもつことが神様の創造理想です。(24)

 神様の愛はどのようになっているのでしょうか。統一教会の原理によれば、それは四位基台の完成であると結論づけます。それでは四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は子女に伝達され、感じるようになっています。それを段階的に見れば父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三段階に分かれますが、平面的基準においては互いが一つに通じるようになっています。四位基台の中心である父母の愛を中心に子女と一つになり、男と女の愛が一つになり、最後に神様の愛と一つになるのが四位基台なのです。(25)

 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結合させる中心点がまさに愛という絆です。

 肉体をもつ人間が神様と一体となるとき、その心情と感情は無限なる体恤境と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになれば、神様の創造目的、理想世界の実現はそこから出発するのです。(26)

 本然の人間とは、すべて神様と一体となり、愛を実体で感じながら生きていくようになっていました。サタンは実にこの愛の中心点を狙ってアダムとエバを堕落させたのです。それ以後、宇宙は愛とは関係のない反対方向に流れて、それこそめちゃくちゃになってしまいました。(27)

 神様を中心とした新しい愛、すなわち創造法度により決定された愛の基準から、初めて神様の理想が出発します。(28)


  3、アダムとエバを創造された目的

 私たちが旧約聖書創世記一章二七節を見ると、神様の形状どおりに人間をつくり、一男一女をつくられたという聖句があります。(そこから)帰納的に推理すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせた方であるとの結論が出るのです。

 そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要としてこの世界を創造せざるを得なかったのです。そういうわけでつくられたのが、一人の男性であり一人の女性なのです。(29)

 神様の性相は、男性格である父なる神様と女性格である母なる神様からなっています。ですから、神様からつくられた人間と被造世界が、男性と女性の二性の神様でもあります。(30)

 神様は第一に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバを創造されたのです。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つになることのできる愛の実体となれば、神様が臨在し、(彼らは)人類の完全な愛の父母となるのです。そして神様の形象的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって、理想世界が成就されるのです。そうなれば人間を通して霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させることをも目的として人間をつくられたのです。

 そういうわけで、神様が愛を中心にしてアダムとエバに臨在されることによって、(神様は)人類の真の父母、実体の父母として存在され、アダムとエバが霊界に行けばそこでもアダムとエバの形状で、体を父母の位置に顕現することができるのです。ところがアダムとエバが堕落することによってこれが成されなかったという事実を皆さん方が理解してくださるようお願いします。(31)

 神様が男性と女性をつくられた目的は、二人が愛し合い一つになるようにするためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのためにつくられたのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのためにつくられたのです。また神様ご自身の愛と喜びのために、アダムとエバをつくられたのです。神様がアダムとエバをつくられたのは知識、権力、お金のためではありません。全知全能なる神様は知識、お金、権力が必要だったのではなく、ただ愛が必要だったのです。(32)

 神様がアダムとエバをつくったのは知識を与えるためではなく、権力を与えるためでもなく、多くの財物を与えてよい生活ができるようにするためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体を立てるためだったのです。

 神様が人間を創造した目的は、家庭を通して愛の基盤をつくるためでした。愛のない被造世界は地獄であり、(神様)ご自身もまた存在価値が無意味になるからです。神様が人間を創造された目的は愛のためであったというのが、創造の絶対法であるのを知らなければなりません。(33)

 神様は天地をなぜ創造され、アダムとエバをなぜつくられましたか。それを知らなければなりません。なぜつくられたのかといえば、善しとされるためにつくられました。神様が善しとされるために創造されたのです。

 アダムの中に神様が入られて無形の父となり、アダムは有形の父になるようにされたのです。ゆえに、アダムは実体をもった神様にならなければならなかったのです。それでは神様は(なぜ)実体を必要とされたのでしょうか。ご自身がつくられた実体世界は無形では主管できないので、実体をもった神様が必要だったのです。

 それで実体の神様としてつくられたのがアダムとエバでした。だからアダムとエバは神様と一体とならなければなりませんでした。イエス様も神様と一体となるために来られたのです。神様と一体となるべきアダムがパンクしたので、それを直すために来られたのです。俗な表現ではありますが、失礼ではないでしょう。イエス様もたぶん(そのように表現しても)、よろしいと言われるでしょう。パンクという言葉を使うほうが実感がわくからです。事故だ、何だという表現よりパンクは俗っぽい言葉ですが、よく使われ、実感がわくので使うのです。(34)

 神様は見えません。その無形の神様が実体相をもつためにアダムとエバを創造されたのです。心の中に神様を抱いているアダムとエバが完成し、結婚して子女を生めば、神様は内的な父になり、アダムは外的な父となるのです。そうなればアダムは神様に完全に似るようになります。

 神様に似たアダムとエバが人類の父と母になれば、その姿を通して、いつも神様がおられることが歴史を通して認知されたことでしょう。万一そうなったとすれば、神様に対して疑いをもつはずがありません。堕落しなかったならば、いつも(神様を)見ることができ、呼べばすぐに現れるようになっていたのです。そのような基準になったら誰が神様を存在しないと否定するでしょうか。世界万民を総動員してもこれを否定することはできないのです。(35)

 アダムとエバの二人が愛するのを見る神様は寂しい存在ではなかったのです。ご自身の中に内在する愛の要素(素性)とはこんなにも強力なものだったのかと、相対的な喜びを感じるようになるのです。(36)

 神様にとってエバは未来の妻でした。なぜならアダムは神様と一体となるので神様自身なのです。神様の妻をサタンが犯しました。サタンは神様の怨讐であり、私たちの怨讐です。(37)


  4、アダムとエバの成長期間

 アダムとエバは完成できる可能性をもった罪のない人として創造されたのです。そして彼らは神様の法則に従うことによって完成すべく、成長していました。彼らが男性と女性として完全になるように成長する間は、彼らの関係は兄と妹でなければなりませんでした。彼らは兄と妹として真正の伝統を立てておかなければならなかったのです。(38)

 男女間の愛は、思春期を中心として成熟してこそ始まるのです。そのときまで神様は完熟する愛の道を眺めながら、待っておられたことでしょう。そして統一教会の原理ではこれを原理結果主管圏といいます。(原理結果主管圏があるのは、)成長期間を通らずには完熟した愛の基を据えられないからです。神様が人間を愛で主管するために、待つ期間があるのですが、これが成長期間、すなわち原理結果主管圏なのです。(39)

 神様がアダムとエバを見て「取って食べるな」と言ったのは、彼らが愛することのできる時機になっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。(40)

 一人の人間が父母を中心にこの世に生まれる時は、新郎新婦として生まれるのではなく、息子・娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。その愛の教育では、互いが一つになる教育をしなければなりません。

 それゆえに神様の愛を中心にして、神様の前に愛の教育を受けなければならないのです。愛の教育は、すべての価値の基準を知ることができ(るときまで)、成熟するときまで受けなければならないのです。

 この観点から見て、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったかといえば、聖書にはそんな記録がないばかりか、堕落したという話から始まっているのです。

 それではアダムとエバが教育を受けられる姿勢とは何でしょうか。神様とアダムとエバは、父母と子女の間柄なので、その父母が行く所にはいつもついていかなければならず、主管を受けなければならないのです。にもかかわらず、(二人は)その立場を離れることによって本然の姿勢を離脱したのです。神様は絶対的な方なので、絶対的にその方に従って服従しなければなりません。神様はアダムとエバにとって生命の母胎であり、保護者であると同時に生命の脅威を防いでくれる方でした。それゆえにアダムとエバが互いに成熟して、自分たち同士が、神様よりももっと愛し合うのを神様は好まれるようになっているのです。なぜですか。神様は主体なので、相対が素晴らしい愛の実体として和するとすれば、その主体はよりよい愛の価値を感じることができるので、神様は喜びを感じるようになるのです。

 これは人間創造を中心にした第一法度なのです。それゆえ、堕落した人間は愛の教育を受けられなければ、その位置に出られないのです。(41)

 アダムとエバは万物の霊長として、父なる神様が定めてくれた時間、すなわち霊肉ともに成熟する時を待たなければなりませんでした。神様もアダムとエバに「生育し繁殖せよ」と言いました。それは肉体と霊人体が完全に成長した後に、夫婦となり愛し合い息子・娘を繁殖せよとのみ言なのです。

 アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくりするような場面を見れば、エバが「まあ、怖い!」と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠れることが起こるようになったのです。エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男性的衝撃を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたでしょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖い」とアダムの胸にかけ込んだエバがかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線ができるようになったのです。

 神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりません。そのような任務をもったアダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなければなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねないのです。(42)

 人間は思春期を望みながら(その)一時を中心に出てきました。そのときまで待つべき理由がどこにあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのできる思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。(43)

 アダムとエバは、十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人が(その)香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができるようになります。ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。(44)

 アダムとエバが十七、十八歳の思春期時代に堕落せず神様の愛で一つになったなら、心と体が絶対に分かれるはずがありませんでした。そして完全な生命と完全な愛をもち、真の環境で生きていける真の女性、真の男性になったのです。堕落した以後には自己がそんな位置に立った気分を……。一生の間その時の思いをもちたいし、捜したいし、生きたいし、愛したいし……。そんな所で生命をもちたかったのです。(45)

 神様と人間が完全に一体となり、人間が神様の直接主管を受けるようになる時はいつからですか。(それは)男女が個体を完成させ、愛を授け受けるときからです。また、すべての面で成熟した人間本然の愛と、(そして)主体と対象間の相対的環境を整えられる(ときからです。そして)、その位置をいうのです。そうなれば神様と人間が愛を中心にして混然一体となり、永遠なる正道の軌道を走るようになるのです。(46)


  5、個人完成と愛の出発点

 人間の完成は知識や権力、あるいはお金によってなされるのではなく、愛によってなされるのです。その愛は俗化した愛ではなく本来の愛であり、その愛によってすべてが完成されます。

 私たちは視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚などの五感をもっています。その五感は愛の完成という基準から動き始めなければなりません。五感は完成した愛を中心にして、その機能を発揮しなければなりません。目であるとか耳、鼻、口、手などで感じられるすべての感覚は、愛を中心に完成すべきだと見なければなりません。

 そのように愛を中心に五感が一つになって相対世界を感じるのが、理想的なことだと考えることができます。一言で表現すれば酔って生きることです。愛に酔って相対世界に同化し、自身が環境に酔ってしまう境地のことです。

 その境地では、必ず一人でなく相対がいて、永遠に継続し互いに同化します。その相対はいつも異なることもでき、また感じも違います。拡大すれば無限に拡大され、縮小すれば一点に固まる力をもっているのが真の愛です。天上的な愛です。愛の目を通して見れば小さくても大きくても一つです。小さければ価値を縮小したのであり、大きければ拡大したのです。このような愛の世界を創造したかったのが神様の理想でした。(47)

 個体完成とは、本来神様がつくられた愛の型に従って、心と体が完全に一つとなった中で成長し成熟するように、授受作用を永続させていくことを言います。愛を中心にして出発し、愛を中心に成熟し、その上に愛の芽が出、実を結んでこそ完成するのです。このように愛の基台が立つようになれば、その中に神様は愛の因縁をもって臨在されるのです。

 愛が成熟しなければ、実を結ぶことのできる型を造成できないのです。

 すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても花が咲けば、花の中のおしべとめしべが授受作用、すなわち循環運動(をすること)によって実を結ぶようになるのです。動物世界もそうだし、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべての被造物は愛の関係を経て完成するようになっています。すべての存在は愛を通してのみ完成できるといえます。

 人間は神様の愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体となるようになり、神様の愛の圏内に、体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのとき初めて、堕落しない本然の人間として、個人完成が始まるようになります。(48)

 個人完成とは心と体が一体となることです。心が主体となり、体が対象の位置で授け受けるようになれば、神様の対象になります。心は永遠に変わらずにいなければならないのです。(49)

 心と体において心は天を中心とし、体は世の中を中心とするのですが、この心と体が一つになったというとき、その理念はどういう理念だといいますか。天宙主義理念だといいます。天宙主義理念が何だか分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一致するようになる位置を成していこうという主義が天宙主義です。この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は心と体が一体とならなくていいですか。一体とならなくてはここで滅びます。そして神様を中心にして心と体が一体となるとき、神様は内的な神様で自分は外的な神様になるのです。そうではありませんか。それで何を中心にして一つになるかといえば愛を中心として一つになるのです。(50)

 (自分)自身が問題です。それで自身が怨讐になることもあるのです。皆さんの心と体を一つにできなければ怨讐になるのです。(51)

 皆さんが常日ごろ言っている個人完成とは一体何を意味しますか。縦的に、父母と子息関係の信仰を結んでいくことをいいます。神様が私たちを愛されるのと同様に、私たちも神様を愛さなければなりません。愛は相対関係の間に成立するものなので、神様と、子女となった私たちの関係は離しておくことができないのです。(52)

 個性完成は神様と縦的な関係を結ぶところから出発するのです。(53)

 神様が皆さんを愛するのと同様に、皆さんも神様を愛さなければならないのは当然のことです。それは原理原則なのです。神様を縦的な中心として仰ぎ、侍るならば、父であられる神様の息子・娘として愛を受けるようになります。このように互いに愛する伝統が立てられなければ、個性完成の出発点が生まれてきません。(54)

 責任分担完成だけが人格完成の道なのを、皆さんは知らなければなりません。(55)

 神様が堕落した人間を眺めておられながら、その前に愛を差し出せないのは、堕落した人間が、優先的に人格の完成を成さなければならない過程が残っているからです。

 神様は真の愛の主体であられます。神様は愛の主体なので完成した対象が立ったとき、愛を授け受けることができます。

 人格の完成とは何をいうのでしょうか。それは責任分担を完遂できる人間になることです。すなわち、堕落する以前の状態に復帰され、人間の責任分担を遂行することのできる人格完成者になる人格革命なのです。

 人格完成は個人完成だといえます。人間に負わされた責任分担を成し遂げることができたとき、人格完成を成したといえるのです。神様の子女として成熟した人となり、神様の前で神様を讃揚し愛しえる立場に立つことができなければなりません。皆さんは、人格完成の後にこそ真の愛を所有できるということをはっきり知って、人格完成以外の道にとどまる場所がないことを銘記しなければなりません。(56)

 サタン世界では心情圏の連結がなされません。皆さんの場合も同様に、人格革命を経た後に真の愛と通じるようになっています。自身の世俗的貪欲とか、自身に対する執着、享有している文化的優越感など、自己中心の私心から離れなければ、絶対に完成に至れないことを銘記しなければなりません。

 アダムとエバが人格者として成熟するためには、完全な理想的宗教を中心にして、サタン世界のすべてのものを否定し、新しく出発しなければなりません。それゆえに、先生は多くの逼迫を受けながらも、完成した立場に立つために世俗的なものを否定してきています。(57)

 自己を中心に人生を考える人はすべてサタン圏にとどまっている者たちです。神様の心情圏を受け継いで人格完成の基準に至ったならば、神様の人格基準とも通じ、完成したアダムの人格基準とも一致するのです。私たちは本然の人格完成の基準に一致する人格完成者とならなければなりません。そのためには自らを自分の力で革新させなければならず、与えられた責任分担を完成させなければならないのです。この視点から断固として言えることは、この世の中のどこにも、自身を革新させ人格を完成させられる所はなく、あるとすればただ統一原理だけなのです。(58)

 世の中を改善するためには、百パーセント個性完成させなければ絶対に喜びの基準に到達できないのです。それは、堕落した人間をいくら救援したといっても、その人間が堕落の観念をもっており、神様が、人間は堕落したという観念をもっていてはならないからです。堕落したという観念までなくすためには、百パーセント理想の完成品にならなければならないのです。(59)

 愛の出発点であり基地であり安着点はどこでしょうか。皆さんの中のある人は、そこが自分自身の体と心であるならばいいと考える人がいるでしょう。事実皆さんの心と体がまさに神様の愛の安着点になることができるならば、皆さんは完全な統一基地になるでしょう。その次に皆さんが神様の息子となる日、天地の大業を相続する息子として神様の愛の対象となり、息子として神様の愛を全幅的に受け、神様が「私の息子よ」と言いながら目を閉じて感謝の涙を流すことのできる日、すべてが意のままになることでしょう。(60)

 愛はどこから出発するのでしょうか。個性を完成するところからです。原理で見れば個性を完成した後に愛するようになっています。思春期を経て異性に対することのできる資格を備え、天地の調和に一致して通過することのできる責任を担えるときに初めて、愛の因縁が始まるのです。

 ところがアダムとエバにおいてはそうではありませんでした。(彼らの)愛はどういう愛でしたか。天地のすべての万物を統一させることのできる位置での愛ではありませんでした。主体的な愛ではありませんでした。彼らの愛は主体的で必然的な愛でなければなりませんでした。ところが彼らは必然的な愛をもてなかったのです。それゆえに、今日の人類は、そのような愛を試みることのできなかった人たちの後孫なのです。愛という言葉はありますが、人間は真正なる愛の理念世界を知りません。そのような理念世界で、神様を中心として互いに愛することのできる一つの中心が整うとき、初めてここに神様が入ってきて愛されるようになるのです。

 言い換えれば、神様は自己の最高傑作品である人間同士が互いに愛するのを見るとき、愛さざるを得ないのです。そのような立場から、神様の息子・娘として愛の因縁を結ぶことのできるのが、今日の統一教会の祝福なのです。(61)

 太初にみ言としておられた神様は被造世界を創造され、最後の日に初めて人間を創造されました。神様は対象として人間を創造されたのですが、男性であるアダムを創造され、続いてアダムの対象であるエバを創造されたのです。

 神様を中心にアダムとエバが主体と対象の位置に立ち、愛で結ばれなければなりません。このとき、神様と人間であるアダムとエバは、各主体と対象の関係になります。ところが、アダムがエバと、主体と対象の関係を結ばずに、神様との主体と対象の関係だけを設定するならば、アダムは神様の永遠なる愛を所有できないばかりか、永遠に存続することもできないのです。アダムは神様との関係だけでは直線運動しかできないからです。これは(神様と)エバの関係でも同様です。

 永遠性と完全性をもつためには、直線運動ではなく球形運動がなされなければなりません。直線運動が球形運動に転換するためには、(アダムは)対象としてのエバとの関係を結ばなければなりません。一人では生命と愛の調和がなされないからです。

 宇宙森羅万象の位置は、三点を基盤に運動を継続することによって存続しているのです。三点を通過せずには完全性や永遠性はないのです。

 アダムは直線で神様の前に出るのでなく対象であるエバを通して神様の前に出なければならず、エバはアダムを通して神様の前に出てこそ球形運動を成すことができるのです。アダムがエバを通して回るときは、エバと愛の関係が築かれなければなりません。一人では回る力がないからです。(62)

 もしアダムとエバが完成したならどうなっていたでしょうか。彼らが完成して祝福を受けられる段階に入ったなら、すなわち男性・女性として完全に成熟したならば、どうなっていたでしょうか。一つの愛を中心にして全宇宙と母胎的な結合をなしたでしょう。これがなされることによって神様と一体となり、この宇宙、天地創造圏内で神様と人間が初めて一つの出発をするようになるのです。その出発点は何でしょうか。愛です。本来出発は愛から始まらなければならないのです。それではその愛はどのような愛でしょうか。まさに神様の愛です。(63)

 神様の愛を中心にした統一的な愛の起源はどこから生まれたのでしょうか。本来アダムとエバは堕落せずに成長して、天地のすべての万物を胸に抱き、幸福にあふれ、あすの希望にあふれ、未来の永遠万代を愛するに不足ないあふれる心をもって、神様の愛に酔うことのできる位置に行かなければなりませんでした。アダムとエバがその位置に行ったとき、初めて神様の愛を中心に一つになれる真の愛の起源が生じるのです。そうでなければ統一的な愛の起源は生じてきません。(64)

 個体完成、相対完成を成した後、神様を中心とする愛で公認を受けてこそ、真正なる理想が成就されます。(65)


  6、アダムとエバを通した創造理想世界

 神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。

 神様はアダムとエバをして、最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはずでした。神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなると、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。

 彼ら(アダムとエバ)はまた、どのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とした真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。(66)

 堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。

 この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛で結ばれた伝統にならざるを得ません。神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、離れたとしても再び戻らざるを得ません。

 堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものがその懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でからみ合っていたら、その懐を離れられないのです。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかないのです。

 そのような位置で人間たちに自慢するものがあるとすれば、第一に「神様は私の父だ」ということであり、第二に「自分は神様の愛を受けられる息子・娘だ」ということであり、第三に「自分は神様が創造した宇宙の相続者だ」ということです。

 今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう自慢します。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな自慢がどこにあるでしょうか。(67)

 アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の起点を整えられる家庭になったでしょう。その家庭は、神様が創造したアダム、エバ理想を完成するために、愛の結合によって一体になることのできる基となったことでしょう。

 その基において築かれた夫婦の愛と子女の愛で神様のみ旨が成就されたならば、この地球上にはアダムを中心にした単一文化圏が形成されたのです。今日のように数多くの民族が各自異なる文化と文明を形成してきたのではなく、アダムを中心にして単一文化、単一思想、単一文明をもつ世界となっていたのです。このようになったならば文化、歴史、風俗、言語、伝統などがすべて統一されたでしょう。

 また神様の愛の圏内で理想的な家庭を築き、氏族を築き、民族、国家を形成して、さらに拡大して、アダムの理想を実現する一つの理想的世界を築いたでしょう。木の根、幹、葉が一つの生命として連結されているように、愛を中心に、上は神様(根)を父として侍り、下は万民(葉)を兄弟のように(考え)、一つの生命体のごとく変化するようにして、神様を中心とする永遠なる理想世界を築かなければならないのが、まさに神様のみ旨から見た世界観です。このような世界の人間たちには救いが必要なく、メシヤも必要ありません。なぜならば、その世界に生きる人間は神様の善なる息子・娘だからです。(68)

 もしアダムとエバが神様を中心にした最初の家庭を築くことができたならば、その家庭を中心にして神様中心の民族が築かれたでしょうし、神様中心の国家と神様中心の世界が築かれたでしょう。そのような所では唯一、神様が統治者になったのです。そうなれば太初から永遠まで完全な統治だけが成されたことでしょう。

 もしエデンの園でそのようなことが成就されたなら、今日私たちはこれほど多くの異なった民族と言語を見ることはなかったのです。私たちはアダムを中心とした一つの伝統のもとで、すべてがアダムの民族に属するようになったのです。アダムが使用した一つの言語は、全世界の言語になったのです。そして全世界は真に神様のもとに一つの国を築いたのです。また神様の計画どおりにすべての人間は、地上の天国で生まれるようになっていました。

 私たちはこの地上で天国生活を楽しめるようになっており、地上での肉身生活を終えれば霊界にある天国に入って生きるようになっています。そして私たちはそこで永遠に生きるようになっています。このようなことが神様の原初的な青写真でした。そのような世界にはサタンもいるはずがなく、悪もあるはずがなく、地獄もまたあるはずがなかったのです。(69)


  7、アダムとエバの堕落

 全能であられる神様からつくられたアダムとエバが、どうして堕落したのでしょうか。これも神学的に重要な問題の一つです。

 ところで、多くのキリスト教信者たちは聖書に記録されたとおりに、アダムとエバが善悪を知る木の果という果実を取って食べて堕落したと信じています。もしそれが事実ならば大して問題にならないのです。ところが人間の救援摂理歴史が六千年もかかったのを見るとき、アダムとエバが善悪の果という果実を取って食べて堕落したのではないことが分かるのです。

 それでは、アダムとエバは何によって堕落したのでしょうか。一言で言えば、アダムとエバは愛の問題で堕落したのです。愛の問題によって堕落したので数千年の歴史がかかり、また延長に延長を重ねながら救援摂理をしてこられたのを知らなければなりません。このような事実を今まで大部分の信仰者たちは知りませんでした。

 それでは、誰が愛を蹂躙したのかといえば、天使長がアダムとエバの愛を蹂躙したのです。エバを誘惑して因縁を結び、アダムを蹂躙することによって、父母の愛を中心にした正道に従って神様を訪ねていかなければならなかったアダムとエバの愛の方向がずれるようになったのです。

 そして神様の血と肉を受け継がなければならない人類が、サタンの血肉を受けるようになったのです。このような事実に対し、大部分の信仰者たちは、(それを)夢にも思わずにいるのです。(70)

 聖書には、善悪の果を「取って食べるな」という内容が出てきます。そこには、人間と神様との関係を破綻させ得る内容がこめてあったからです。それで問題になるのです。原理ではこの事実を明確に解明しています。原理は堕落に対する事実がはっきり分からない人には偉大な福音です。苦痛を受けながら生きているすべての人々を救援することのできる偉大な福音です。

 善悪の果は文字どおり木の実だと見ることはできません。木の実ではありません。億千万代(にわたって)人類がこのように破綻の立場と闘争の路程で呻吟する状況をつくるような果実を神様がなぜつくられるでしょうか。先生が語る愛の内容を中心として現れた結果だというのが何よりも理論的だと考えられます。(71)

 堕落はどこから始まったのですか。家庭で堕落した(という)のは何(をしたの)ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落するというのは愛以外にありません。善悪の果を取って食べて堕落しますか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べたことが罪だというのですが、千代万代後孫が罪人になる善悪の果とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。(72)

 堕落は、神様がお許しにならない左右と横に入ってくる不義なる愛の誘惑に引き込まれ、天倫を破壊したところから始まりました。(73)

 愛ということを知るようになるときには、すべてのものが通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け立体的世界までも分かるので、神様を直接見て対することのできる境地に至るようになります。

 ところが愛の知覚が発達する前に堕落してしまいました。天使長と不倫の関係を結んだのです。これが宇宙を破綻させた根本原因になったのです。(74)

 愛のゆえに堕落が起こりました。愛の起点は目や口ではありません。男女が共にする愛の器官を通して堕落しました。堕落のゆえにすべてのものが壊れてしまいました。

 愛の結合点はすべての感覚を総合した所だといいます。ところが堕落によってその基準が壊れて、宇宙に被害をもたらすようになりました。(75)

 愛を中心に成長しなければならないのに、愛によって故障したときに、神様は後ろに退くようになります。このように見るとき、愛の事故以外には堕落があり得ないのです。ゆえに神様にも問題となり、人間にも問題となり、歴史に問題となり、宇宙の大事件として衝撃を与えるのは愛の事故しかありません。(76)

 サタンと愛の因縁を結んだのが堕落です。(77)

 堕落はサタンと一緒に堕ちて出ていったことです。(78)

 堕落は血統の不貞的動機から始まった事件でした。それゆえに堕落の結果が今日まで原罪として遺伝してきているのです。(79)

 先生のときになって、堕落が愛によりもたらされた結果であるという事実を明らかにしたことは、驚くべきことです。これは、歴史的背景を通して理論的に体系化されたものであり、否定することのできない内容です。(80)

 全知全能であられる神様が、アダムとエバの堕落を防ぐことができなかった理由は次のとおりです。

 アダムとエバは彼らの愛を、神様が願われる基準まで成長させなければならなかったのに、その成長過程で堕落したため、愛を絶対視しなければならない神様は、彼らの堕落を防げなかったのです。今日でも私たち人間が思春期という過程を経て青年期に入るのと同様に、アダムとエバも必ずある過程(成長期間)を経て完成し、そのとき神様の愛と一致できたのですが、その位置に到達する前に堕落したのです。(81)

 神様の前に立っていたアダムとエバ自身が神様の内情を察することができたなら、堕落しようにもできなかったでしょう。父母は父母として、子供に対して愛の心をもっていますが、子供は父母の深い心情までは分からなかったのです。もちろん幼くして堕落しましたが、その年齢のまだ及ばないことが堕落の動機になったのではなく、心情の未熟さによって堕落したのではないでしょうか。「あの方は私に対している。あの方は私と離れようにも離れられない」と言いながら、神様が一切のあらゆる問題に関係しているということを、もしアダムとエバが感じたならば、彼らは堕落できなかったのではないでしょうか。結局堕落(が起こったの)は心情の一致点をもてなかったからです。天の願いと自分たちの願いが食い違ったために、自己の考える方向が天の考えと食い違ったために、起こったのではないでしょうか。(82)

 堕落とは何でしょうか。天を見忘れ、地を見忘れ、神様を見忘れ、人を見忘れたことです。堕落は天と地を見忘れ、人を見忘れ、神様を見忘れ、人間を主とした愛を行ったところから始まったのです。それゆえに、どの社会でも、淫乱が膨脹した社会は滅びるのです。(83)

 堕落は天使長とエバが合わさって夫を滅ぼすようにしたことです。(84)

 堕落は男と女が別々になり、アダムとエバが怨讐になったことです。(85)

 罪の中で最も重いのは神様の愛を破綻させた罪です。そのような天理を私たちは知らなければなりません。明らかに、アダムは兄としての本分を誤り、エバは妹としての本分を誤りました。天使長が誘惑すればエバはアダムに尋ねなければならず、アダムは神様に尋ねなければなりませんでした。ところが、自分たちなりに判断して、堕落の道を行ったのです。(86)

 堕落とは何だと思いますか。堕落とは本然の理想的人間として、神様が願われた真の愛の夫婦となり、神様とともに愛を中心にして生きることができないことです。(87)

 堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも実感がわかないのです。

 これは、神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです。それですべて相反した存在になり、氏族、民族をなしたとしたら、少しばかり時がたてば全部分かれるようになります。このようにして立てられたのがサタン文化圏です。二つに分かれ三つに分かれ、すべて分かれるのがサタン圏に属するものです。

 神様は分立した文化圏を一つにする統一摂理を展開してこられました。人間は誰でも、宇宙の中心存在に属そうとする本性をもっています。しかし、この世界の中心存在が神様でなくサタンとなっているので、中心を求めていけばいくほど幸福になるのではなく不幸になる、そんな悲惨な歴史が広がるようになっているのです。(88)


  8、堕落の結果

 不倫な淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムもまた、天使長と一つになったエバと一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心にしたのではなく天使長を中心にした夫婦関係を結び、家庭を築くようになりました。そのためアダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血を受け継ぐようになったのです。

 したがって、本来のアダムとエバの息子は神様の長子、次子にならなければならないにもかかわらず、エバが不倫な情で天使長と関係を結んだため、その息子である長子と次子はサタンの所有物になってしまったのです。

 本来、創造理想の中では愛は所有を決定するようになります。愛の関係を結べば、その愛を中心に主体と対象は必ず互いの所有権を持ち合うようになるのが原理です。したがってこの原理的な基準でよく見るとき、エバが天使と不倫なる愛の因縁によって堕落するようになったので、エバの後孫として生まれる人間の所有権は天使長であるサタンにあるようになったのであり、サタンはその所有権を堂々と主張できるようになったのです。(89)

 ヨハネによる福音書八章四四節に、イエス様が悪い人々を眺めながら「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって…」と語られた内容があります。

 堕落によって人間は偽りの父であるサタンに屈服せざるを得なくなりました。人間は自分たちの父親を取り換えたのです。私たちは真の父である神様を捨て、偽りの父であるサタンと一つになったのです。それで最初の男性と女性はサタンの息子・娘になってしまいました。

 偽りの父、サタンのもとでアダムとエバは神様の祝福も、神様の許諾もなく、不法な夫婦となりました。そのようにして彼らが子女を繁殖すると、その子女たちもすべてが同じ偽りの父のもとにあるようになりました。その子女たちはすべて神様の子女ではなくサタンの子女として生まれるようになりました。それゆえにアダム以後、原罪をもつ子女を繁殖し、罪悪世界をつくるようになったのです。なぜならば人間が神様を中心にし得なかったからです。

 そこには罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、そして嫌悪と戦争の世界があるだけです。そして国家と社会は互いに破壊的行為を行いながらも、少しも苦痛を感じられなくなってしまいました。これが地上地獄なのです。事実上この地上の主人公は神様でなくサタンです。そしてヨハネによる福音書一二章三一節にも「この世の君は追い出されるであろう」と記録されているのです。(90)

 私たちはこの宇宙が神様によって創造されたという事実を知っています。私たちはまた、神様が人間を創造されたことをよく知っています。しかし神様が私たちの主人になれませんでした。それは人間が主人を取り換えたからです。人間は神様に反逆し、偽りの主人であるサタンと一つになってしまいました。そしてこのサタンが、人類の父となってしまったのです。(91)

 人間始祖のアダムとエバは神様のみ言を不信し堕落したので、真正なる理想相対、すなわち真の夫婦関係を喪失しました。(92)

 神様の創造目的は、アダムとエバが善なる新郎新婦として結婚して夫婦となり、夫婦の因縁を通して父母の因縁にまで至ることだったにもかかわらず、(彼らが)堕落することによって、これがすべて壊れました。それで、救援摂理は子息であるカイン・アベルから始まったのです。これは私たちの人生において迎えなければならない歴史の出発ではありませんでした。私たちの生涯において、このような悲運の歴史をもって生まれた事実は無念なことです。耐えがたいことです。皆さんが祖先の前で抗議し、恨むべきことです。(93)

 アダムとエバが堕落することによって、神様は彼らを真の人類の祖先として、人類の父母として、ご自身の息子・娘として対することができなくなってしまいました。アダムとエバは神様の前にかけがえのない息子・娘であったにもかかわらず、神様が息子・娘として対することのできない位置に立ってしまったのです。神様はまた、アダムとエバが成人した後には夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとされました。ところが彼らは、息子・娘としての慰労の対象になれないのはもちろん、新郎新婦としても慰労の対象になれませんでした。

 神様も願われた所願が大きいゆえに、彼らに無限なる価値を賦与し、眺められたのですが、彼らが堕落することによって、神様は(彼らから)、子女として慰労してくれる心情を感じられず、新郎新婦として、すなわち夫婦として慰労してくれる心情を感じられなかったのです。神様はアダムとエバが未来に希望ある祖先として、すべての人類の前に一つの王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われたのです。しかしながらこのような(願いをもつ)神様の前に、彼らは慰労の対象となれなかった事実を、皆さんは知らなければなりません。(94)

 人間が堕落することによって何を失ったのかといえば、父親の真の愛を失い、夫の真の愛を失い、兄の真の愛を失いました。

 これを失った動機はエバが堕落したからなのです。それゆえに、このエバ(女性)たちは歴史過程でこれを取り戻すときまで多くの苦労をするようになるのです。(95)

 堕落することによって真の父母を失い、真の夫を失い、真の子女を失うようになりました。失うようになった動機はエバと天使長のゆえでした。

 この観点から見れば、この地に生きている女性は天使長的な父親、天使長的な夫、天使長的な兄に頼って生きているのです。だから女性は悲惨なのです。

 一例を挙げれば、金持ちの家の娘が自分の家の作男と住む(ような)ものです。つまり作男の血を受け継いで生まれたということです。

 それゆえに本来の夫、本来の父、本来の兄の愛を受けることのできない女性たちなのです。

 ですから、主として来られる方は、そのような(本来の)愛をもってこられるのです。父の代身、夫の代身、兄の代身、この三種類の愛の因縁を完成できずに、幸福な娘としての位置をつかめなかったのが堕落なので、その三種類の愛を総合して、この地上に取り戻さなければならないのです。

 このように愛の秩序が今まで蹂躙されてきたので、この愛の秩序を立てずには幸福な世界が来るはずがないのです。(96)

 サタン圏に属している人たちは神様の血統とは全然関係がありません。つまり善の父母の子女として生まれなければならない人類が、悪の父母と因縁を結んで生まれました。それで悪を中心にした家庭、氏族、民族、国家、世界に拡大されました。(97)

 堕落はアダムとエバに限定された問題のようですが、彼らは人類の祖先であり、根本となるセンターのような存在なので、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界と未来全体に影響を及ぼしたのです。(98)

 アダムとエバの堕落は、アダムとエバだけの堕落のみならず、全般的な人類歴史を総合した立場での堕落です。言い換えれば、アダムとエバが堕落したことは善なる父母になれず、悪なる父母になったことをいいます。悪なる父母によって悪なる子女が生まれ、悪なる子女が生まれることによって、悪なる氏族、悪なる国家、悪なる世界が形成され、この世界圏内に三十億人類が存続しているのです。

 このような堕落圏内にある今日の人類歴史は、喜びの歴史ではなく悲しみの歴史であり、人類も喜びの人類ではなく悲しみの人類であるに相違ありません。(99)

 アダムとエバが堕落することによって神様の創造理想は成就されず、むしろ堕落した父母になったことによって、原罪のある子女を繁殖するようになりました。そして堕落したアダムとエバの家庭を中心にして氏族、民族、国家、世界へと発展してきたのが人類歴史なのです。それゆえに堕落以後今日まで、神様の本然のみ旨を完成した立場に立つ真の父母の理想が残されてきたのです。そして真の父母を中心にした真の家庭と真の氏族、民族、国家、世界は今でも理想として残っているのです。(100)


  9、アダムとエバが堕落しなかったならば

 人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは誰の息子・娘として生まれたでしょうか。当然神様の息子・娘として生まれたのです。(101)

 堕落しなかったならば、すべての人間は神様の真正なる息子・娘になります。今日のように怨讐の前に弄ばれ、怨讐に支配される氏族ではなく、怨讐の前に讒訴される群れではありません。絶対的な権威をもった神様の息子であり、どこへ行こうと神様の全権全能を代表できる神様の息子です。その息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は全宇宙の存在が屈服しなければならない神様の家庭となるのです。またその家庭を成した氏族が活動し出掛ける場合においては、あらゆる被造万物は彼らを擁護し、彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したゆえに、人間たちは神様の息子・娘になるどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。

 結局人間は神様の干渉を受けられる立場でなくなり、怨讐に完全に占領されました。(102)

 人類の始祖が、本来神様の法度を犯さずに神様と永遠に一体となったならば、その一体となった愛の因縁の中では誰も彼らを連れていけません。すでに息子・娘として生まれ、またすでに成人したのちに彼らを見て「やあ、おまえの父親は誰だ。あの人(天使長)がおまえの父親ではないか」と言って説明して、それ(神様が父であること)を否定できる理論や学説はないのです。銃剣を突きつけてもだめなのです。(103)

 もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の最初の家庭が立てられたのであり、その家庭はサタンの讒訴とは何の関係もない神様の主権下に繁栄したのです。(104)

 アダムとエバは堕落することによって神様の心情が分からなくなりました。アダムとエバが育って人格を完成し神様の前に近づいていったならば、すなわち人格を完成した者として成熟した段階に入ったならば、神様は彼らを祝福してくださり、彼らにご自身の心情を相続させてくださったことでしょう。そのようにして神様はご自身の愛と心情に通じる天的な夫婦をつくって、血統的な家庭をつくろうとされたのです。(105)

 人類始祖であるアダムとエバがもし堕落しなかったならば、どんな世界になっていたでしょうか。神様の愛の中で保護を受け成熟し完成したならば、神様はアダムとエバを呼ばれて祝福(結婚)をしてくださったことでしょう。そうするために男性と女性を創造したのです。もしそうなったならば、堕落した人間祖先ではなく、神様の愛を受ける、罪なき完成した真の人類祖先が地上に生活したでしょうし、(彼らは)真の父母となったでしょう。その次には神様が真実愛することのできる真の新郎新婦がこの地上に誕生したでしょう。

 堕落しなかったならば、完全に神様のみ旨に協助し、その愛の中で真なる兄弟がこの地上に生まれたことでしょう。それによって神様を中心とした新しいこの地球星に家庭を形成し、罪なき父母から罪なき子女が生まれ、罪なき氏族と民族、国家と世界となり、名実ともにこの地球星は神様が主管する地となり、神様は全人類の王となったことでしょう。

 そうなれば救世主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救世主が必要となり、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の産物だということを知らなければなりません。(106)

 神様の創造した世界が堕落しなかったならば、どのようになるか考えてみてください。そこではアダムが真の父母となり真の子女となったならば、真の血族であるアダムの一族を形成するのです。したがってその文化世界はアダム文化世界です。その世界は統一された世界です。

 神様の愛に一致したものは引き離そうにも引き離すことができないのです。今日堕落した世界で(さえ)、堕落した人同士が愛するのを、生命を断っても離すことができないのに、ましてや堕落しない善なる世界で神様の愛の前に一つになったものを、誰が引き離しますか。そのようになったならば、体と心が分かれません。体と心は一つになるのです。このように(分かれるように)なったのはすべて、故障したためなのです。(107)

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の完全な愛を受けたでしょう。このように神様の完全なる愛を受ける息子と娘として、(彼らが)神様の愛で結合したならば、神様の愛を中心とした息子・娘を生んだでしょう。そして真なる神様の愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての伝統を立てることができたでしょう。そして神様の愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、神様のみ旨は成就したことでしょう。(108)

 この世界は神様が本来願われた愛の園になり得ませんでした。アダムは神様の右側を代表した花の香りであり、エバは神様の左側を代表した花の香りでした。二つの側が一カ所で互いに出会う日、全天地は愛の香りが占領するようになります。しかし堕落によって悪臭が絶えない世の中になりました。私たちは絶対にそんな人になってはなりません。(109)

 もしアダムとエバが堕落せずに神様のみ旨を果たしたならば、間違いなくこの世界は神様を中心とした単一文化の世界、アダムとエバの文化の世界、アベルとカインの文化の世界になったでしょう。その世界は言語が異なるはずはなく、すべての伝統と文化が異なるはずがないので、神様に侍る一つの世界民族を形成したでしょう。(110)

 アダムとエバが堕落しなかったならば、どんな世界が築かれたと思いますか。直接主管することのできる国が築かれたでしょう。ところが、堕落によってサタンが支配する今日の世界が築かれたために、救援が必要であり、神様を信じて生活しなければならない宗教生活が必要になったのです。(111)

 アダムとエバは神様のみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から出発した神様の国を築かなければなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。神様に侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したでしょうし、その世界は拡大され宇宙にまで至ったことでしょう。

 アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは神様のみ旨に背いて堕落してしまいました。

 アダムとエバは創造され生まれた後に、万物を主管できるようにすべてのことを学び、覚えなければなりませんでした。自然の法則とその状態をすべて学んだら、善悪がどのようなものか分かるので、堕落行為はなかったことでしょう。

 神様は堕落したアダムとエバが築いた世界を、本然の世界に復帰させるための蕩減路程を歩んでこられているのですが、それがまさに摂理であり、み旨の道だといえます。(112)















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