祝福家庭と理想天国
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第二節 真の男女の愛

  1、創造本然の男女の愛

 神様の最高の傑作品としてつくられた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができるならば、それは最高の愛であり、超越的な愛であり、世俗的な愛ではありません。その愛は最高に美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことができる愛です。(113)

 男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願ったその基準と一致するかが問題となります。男性と女性が愛するとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになったという結論が出るのです。

 神様も人間の前にそのような愛を願ったのです。男性と女性も互いに相手に対しそのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核であらざるをえません。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。(114)

 男性と女性の愛は、創造理想を中心とした愛でなければなりません。夫を愛し妻を愛すること、その愛は自分たち夫婦を中心にするのではなく、神様の創造理想を中心にしなければなりません。(115)

 神様を中心にして暮らしていく夫婦ならば、男性が住む世界のどこへでも行くことができ、女性の住むところどこへでも行くことができるのであり、神様が臨在する所はどこであっても行くことができるという結論が出てくるのです。(116)

 人間は誰のために生きなければならないのでしょうか。アダムが創造されたとき、女性であるエバがいなかったので、アダムの存在価値は完全ではあり得なかったのです。それで、アダムは永遠の存続のための相対として、エバを必要とするようになったのです。それゆえに、男性の相対的主体は女性だということができるのです。(しかし、逆に)女性を主管することができる人も男性であるのです。

 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどんな力も男女間にあって、互いを主管することはできず、ただ愛だけが主管できるのです。

 神様も二性性相として存在されます。互いに違う二性が愛を中心として授受作用をしているので(神様も)永存なさることができるのです。神様の愛が絶対的であるのは、神様の二性が愛で完全に主管されているためです。完全なる主管を可能にするものは、愛だけであるのを知らなければなりません。(117)

 神様は縦的な愛の相対圏を築くことで終わるのではないのです。神様は縦的な愛の相対圏をつくった後、横的な愛の舞台を形成するために、存在世界を創造されたのです。それゆえに、横的な愛の関係を連結させるために被造世界をプラスとマイナス、すなわち男性と女性に創造されました。それによって、神様は人間を中心とした被造世界を愛で主管されるようになるのです。(118)

 「私」の肉身を誕生させたのは地上の父母であり、永遠なる生命を下さるのは縦的な父母です。縦的な父母と横的な父母が一体となるのは、愛によってのみ可能なのです。完全なる男性と女性の愛が純粋な神様のみ旨の中で一つになり結合されるところには、神様の愛が臨在し、「私」の生命の起源が芽吹くようになるのです。(119)

 すべての被造物を相対的につくったのは神様の真の愛を受けさせるためなのです。一つしかない愛を受けさせようとするのです。そのために相対的につくられたのです。そのような男性、そのような女性が神様の愛を完成させて、神様の愛を自らに決定的に結びつけることができる姿になれば、(また)同じ立場で(互いに)愛し合うことができる位置に立てば、彼らは明らかにたった一つの理想的な夫婦になります。(120)

 神様の愛と人間の愛は本質的に同じです。愛は一つになろうとします。男女が互いに恋しがる理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。愛とは、互いに愛し合うことです。(121)

 二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値をほめたたえると同時に、神様の尊い価値を一層ほめたたえることができる人にならなければなりません。(122)

 男性の心の中には神様が愛しておられる女性がおり、彼の相対である女性の心の中にも神様が愛しておられる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値(ある内容)になります。男性と女性が互いに愛し合い抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿はそういうものなのです。(123)

 元来男性は自分が喜ぶことのできる女性を迎え(なければならず)、女性もやはり自分が喜ぶことのできる男性を迎えなければなりません。そればかりか、(人間の喜びの)その限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そうすれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥たちは彼らのために歌を歌い、蝶は喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたら、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(124)

 愛の所有者は一体誰でしょうか。愛の主人は誰でしょうか。男性の立場からは、女性がいなければ愛も何も存在することができません。愛の相対基準は男性にあっては女性です。女性にあっては男性です。しかしこれは相対基準であり愛の絶対基準にはなり得ません。通過過程の存在としては認めることはできますが、その主体としての価値を認めることができる存在ではありません。絶対的愛の所有者、主人公は神様なのです。神様の愛をみ旨のままに成そうとせず、中間で奪った泥棒が、エデンの園を犯したその犯罪人なのです。(125)


  2、男性と女性が生まれた理由

 女性という存在が生まれた理由は、男性であるアダムの配偶になるためだったのです。アダムがいなかったら、エバという存在も必要なかったのです。アダムはなぜ存在するようになったのでしょうか。アダムもエバに必要な存在であるためにつくられたのです。(126)

 人間は男性も女性も自分のために生きるように創造されたのではなく、相対のために存在するように創造されたのです。

 それゆえに、男性が男性として生まれたのは男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だといっても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私たちは自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたということです。生まれたのはそのように生まれたのです。

 父母は子供のために、子供は父母のために尽くすようになるとき、互いのために尽くし合うときに回転するのです。為に尽くせば尽くすほど早く回転することができるのです。それが理想の形です。四角形ではなく、立体的に丸いということです。互いのために尽くすことは、互いに押してあげることなので、互いに為に尽くし合えば早く回転し、回転すれば球形を成して永存するようになるのです。

 それゆえに、世の中は円形に似ているのです。顔も丸いのです。目も丸いのです。全部完全に授け受けしなければなりません。静脈も動脈も授け受けています。病気というものは与える道理があるのに受ける道理がなければ起こるものなのです。均衡が破れるところに起こるのです。それゆえに、動く存在物はために尽くす作用の原則を立てなければ、永遠に存在することができないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(127)

 本来男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。それは女性のために生まれたということを否定することができないのです。その反対に女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じることを、私たちは知らなければならないのです。

 これを、天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則にしたために、その原則に従っていかなくては、善なる、真なる、幸福なる、平和な世界、また愛と理想の世界へ入ることができないのです。(128)

 男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。自分という存在を主張するところには神様は共におられず、人を尊重する場合に神様が共におられるのです。原則的で原理的思考によって私たちは二本の足で歩いていくのです。(129)

 女性は男性と出会うために生まれ、男性は女性と出会うために生まれたでしょう。それが最高の真理です。だからこのような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪です。(130)

 男性と女性は生理的に全部反対です。女性たちは一方的なのに比べて男性たちは三方四方的です。また女性たちは家の中にだけ居ますが、男性たちはあちらこちら世の中を巡るのです。このように性格が全部反対なのです。こういう主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせようとするのも愛なのです。(131)

 男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためなのです。女性のために男性が生まれたということなのです。男性の骨格が女性よりも大きいのは自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためのものです。男性がもっている器官と女性がもっている器官はそれぞれ違います。それを誰のためにもっていますか。それは自分のために生まれたのではありません。男性のものは女性のために生まれ出たので女性のものです。女性のものは、もちろん逆に、男性のものです。そのように考えてみましたか。(笑い)笑い話ではありません。(132)

 男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男女を一つの体に成さしめる性器官です。それは愛を中心として心と体が完全に一つになることができる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性の(ための)ものをもっており、女性は男性の(ための)ものをもっています。生まれたのは自分のために生まれたのではありません。相対のために生まれたということをはっきり知らなければなりません。(133)

 男性と女性について見ると、男性は男性のために生まれたのではなく、女性は女性のために生まれたのではありません。それは横的関係で見れば主従関係になっています。主体と対象関係になっています。男性も男性のためのものではなく、女性も女性のためのものではありません。互いのために生まれました。女性が女性の姿で生まれたのは女性のためではなく、男性が男性の姿で生まれたのは男性のためではありません。

 このように見るとき、(すなわち)男性のために生まれなかったのが男性であり、女性のために生まれなかったのが女性であるというとき、その女性のもつ目的はどのようにして成されるのでしょうか。女性だけでは成し得ないのです。それは不可能です。男性とともに成さなければならないのです。男性を通したときにのみ成されるのです。そこに男性の喜びがあり、女性の喜びがあるのではないでしょうか。それはとやかくいうことではない(当然のことな)のです。(134)

 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために男女の愛の器官をそれぞれ変えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じことです。主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛をたがえた審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻をさておいて、あえてとんでもない考えをすることができますか。反対に妻たちは夫をほったらかしにして、とんでもない考えをすることができますか。(135)


  3、互いは絶対的に必要な存在

 皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう。そうでしょう。その愛に絶対必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。また、女性がいなければ百年以内に人類はすべて滅亡するのです。それゆえ男性がいくら天下を統一したとふんぞり返っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから女性は絶対必要なのです。(136)

 女性にとって一番貴いものは何でしょうか。男性です。どんな男性が必要ですか。偉いとか偉くないとか不具かどうかが問題ではなく、ある男性から価値ある愛を探し出すことができるかということが問題です。(137)

 世の中で一番よいものは何でしょうか。男性には女性、女性には男性ではないのかというのです。男性たちが好きな愛は男性のものではなく、女性たちが好きな愛も女性のものではありません。そうでしょう。皆さん、一人でいるときに愛したい気持ちが生じますか。生じないでしょう。(138)

 「人」といえば男性と女性をいいます。一人の男性を置いて見ると、女性がいなくてはならないのであり、女性を置いて見ても男性がいなければなりません。その男性は自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。女性として、または男性として成長してみて初めて、(互いに)夫婦として必要であることを見いだしていく道が、私たちの人生の道であることを知っています。(139)

 男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。だから女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。私は(それについて)たとえ知らずに生まれたとしても、私を生んでくださった方は知っていたというのです。私が女性として生まれたのは、私を必要とする男性がいるためなのです。同様に、私が男性としてこのように生まれたのは、私を必要とする女性がいるから、男性として生まれたのです。そうでしょう。すべて知ってそのように生まれたのです。(140)

 男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性たちが絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。

 真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、(そのためには)男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対必要なのです。真の愛を慈しむ絶対的な男性と女性は、一生懸命努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。(141)

 真の愛で結ばれた夫婦が別れることは神様も嫌いなので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何ら意味がありません。それと同様に、一人の男性が(いくら)美男で健康な人だといっても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎないのです。そのように自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因であるというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(142)

 男性が一人座っていくら愛を求めてみても、その人は狂った人としか扱われないのです。(143)

 女性にとって本当の幸福は永遠の主体者に出会うことです。(144)


  4、愛は相対から来る

 愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく対象から来るのです。対象から出てくるので、「私」が頭を低くして対象のために尽くさなければならないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」に訪れるとき、それを受け入れようとすれば、気高くて、(そして)為に尽くさなければならないという「為にする哲学」を、築かなければならないのです。(145)

 愛は神様も一人で成すことができないのです。愛は必ず相対的基盤を通して成されるのです。愛はどこから始まるのかといえば自分から出るのではなく、相対から始まるのです。(146)

 人には愛があります。しかし愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。(147)

 父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいと言うとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。夫から、妻から生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(148)

 愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好きであれば、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。(149)

 愛は一人では絶対的に感じることができません。幸福も同じです。平和というのも一つの国だけで話すことではなく、相手の国家との間で成立する相対的関係をいうのです。(150)

 幸福も同じことです。一人で幸福を感じることができますか。相手側と同等な相対的関係を結びながら、互いに感動して愛し合うことができてこそ、真の幸福を感じるのです。

 自由もそうです。一人では本当の自由は成立しません。愛の中で、愛とともに得られる自由が本当の自由です。また愛の中でのみ無限なる自由が花咲くのです。真の愛の中では、たとえむちをもって独裁するといっても、それが拘束ではなくもっと深い喜びと喜悦をもたらすことができるのです。それは愛が、相手側のためにしてあげることであり、自分が犠牲になって人を生かすことであるためです。(151)

 愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念からいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することはできないのです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地は自分だと考えますが、これを残らず改め直さなくては、歴史を変えることはできません。

 今まで妻は妻なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから為に尽くせというので、破綻が生じるのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、その愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。

 このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけることができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくては出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も全部残らず相対的観念からいうのです。(152)


  5、真の異性観

 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。

 男性と女性は互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性のは滑らかです。男性はひげが生えますが、女性はひげが生えません。声も違います。男女を比べてみると相対的につりあっています。調和がとれているのです。

 人間という肉体的構造を見るとき、左右に対称的です。半分をぴったりとくっつけたからです。

 皆さん、高いだけ、あるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に下には魚が住み、上には哺乳類、鳥類などが住んでいます。

 女性は一月に一度ずつ生理が生じます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。

 男性と女性が調和して平行線にならなければなりません。昇ったり降りたり回ったりする各種施設のあるディズニーランドのようなところを、人々がなぜ好むのかといえば、宇宙がそうだからなのです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ちよいですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するから、(人間が)拍子をとらなければならないのです。(153)

 異性間にあって愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神様は降りて来られ、人間は上って行くようになり、中央で出会うようになります。神様はこの円形の求心点となり、球形運動が行われるのです。求心点から四方どこでも通じることができるのです。その求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容する力は愛なのです。(154)

 女の子たちは、美男子がいると、見ないと言いながらこっそり見るでしょう。また、独身男性はきれいな娘がいればとても関心があるでしょう。それは堕落した世界の愛です。女性はいくら美男子がいても、まずお兄さんだと思わなければなりません。その次は「私のお父さんに似た二番目のお兄さん」、このように考えるべきです。その理由は、お兄さんが一番近いからです。一番近い男性を連想してみて、それよりももっと自分に対して近づくことができる男性として、さらに私のために尽くしてくれる男性として感じることができるところから、相対が生まれるのです。

 本来娘たちは、相対(夫)のことを先に考えるようになっているのですか。お兄さんが醜いとしても、その方は(娘たちが)困っているときやうれしいときに訪ねていって相談したい相手なのです。お父さんも同じことです。「それ以上に、私は夫に侍る」と言えば、どれほど素晴らしい考えでしょうか。

 そのように考えなければならない理由は、真の妹として私に対してくれるお兄さんの愛、真の娘として対してくれるお父さんの愛、それを誘発させて、それ以上の愛で連結させることができる、より高い愛の道が展開されなければならないからです。

 だから男性たちの中でお父さんよりも、お兄さんよりも(夫が)「私」を愛してくれるのです。それでこそ一段階上がることができるのです。そしてお父さんを捨て、お兄さんを捨てても娘たちがお嫁に行きたいという理由がここにあるのです。

 同様に、独身の男性たちは娘たちに対するとき、「愛する妹だ」という感情が浮かび上がらなければなりません。「愛するお姉さんのようであり、愛するお母さんの延長体だなあ」と感じるべきです。また、女性たちは男性を見るとき、(私を)世界と連結させる男性を考え、どの国の人でも愛せると言えなければなりません。黒人の男性までも愛することができるという心で発展しなければなりません。

 だから、結婚というのは縦的世界の男性と女性の愛の道を無限に伸ばすことができる訓練場です。子供を生み育て、春のようにすべての人々を愛する教訓をもって、幼い子供から年をとった(人まで、)すべての男性と女性を互いに愛することができる因縁の世界、それがより理想郷に近い世界ではないでしょうか。(155)

 女性が男性と出会うとき、相対原理に立脚して見ると、主体は誰ですか。心の主体は女性であり、体の主体は男性ですか。どうですか。二人とも主体ですか。男性が主体ですか。女性が主体ですか。愛情は誰が多いのかといえば、男性より女性がより多いのです。そのような面では女性が主体です。しかし、いくら愛情が多いといっても、その愛情が本当の愛情になるためには、男性と出会って侍らなければならないのです。そうでしょう。愛情の畑は女性であり、愛情の種は男性なのです。種があって畑があるのであり、畑があって種があるのではありません。種を中心として見れば、畑は対象なのです。(156)

 今日、堕落した世界において愛が一番危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が壊れて混乱に陥るというのは堕落したためなのです。人間は愛がなぜ偽りとなり醜くなったのかがよく分かりませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのは、真の愛が現れることを願う本能のためだったのです。(157)

 人間において愛は永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年をとるまで仲良く連れ添わなければならないし、死んでも永遠に共に生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって、一体化するのです。二つの体が一つになれば神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになるので、それがまさに愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。

 神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(158)

 統一教会は六千年間秘められた愛の摂理を知って、神様の愛を中心にして創造理想の完成を成すために、祝福の足場を広げてきたのです。祝福を通して愛の至聖所をつくってきたのです。ここから生命が新しく生まれ出ることを知らなければなりません。(159)

 すべての肉的な細胞や霊的要素が、百パーセント一つになることができる中心は何なのでしょうか。それは男性と女性の性なのです。肉も成熟し霊も成熟できる思春期を過ぎ、愛の道を探していくようになるとき、霊と肉が完全に共鳴して完成するようになります。(160)

 愛の色はどんな色だと思いますか。夜には黒く、昼には白く、夕方ごろならば黄色だと思いますか。愛の色はどんな色だと思いますか。愛の中心の色には、平和と統一そして人類の平等思想を成就できる力があります。だから愛の至聖所にむやみに入っていこうとすれば焼け死んでしまうのです。

 統一教会の愛の理念は素晴らしいと思いませんか。今日の米国社会における愛の色は、一言で言えばおぞましい死の色です。男女間の愛を通して永遠なる創造理想の世界を築くのではなく、死のどん底に落ちています。祝福を受けるまで、男女は愛の至聖所を清潔に守らなければならないし、一度愛すれば守り続けていかなければならないのに、米国人たちは愛の至聖所を侵犯する悪党たちであり、悪女たちなのです。

 結婚を祝福として受け入れない米国の男女は、愛の目が遠くて、前を見ることができない患者たちばかりです。彼らは祖国創建の先駆者ではなく、祖国創建の破壊者たちなのです。米国社会がこのまま行けば、あすに対する希望もなく絶望が満ちているばかりです。結局は神様の審判によってではなく、人間性を失った人間たちによって自滅してしまうのが、火を見るよりも明らかなのです。(161)

 神様の至聖所はどこでしょうか。愛が宿る堕落以前の男女の性なのです。ここが天の至聖所なのです。(162)

 愛とは何なのでしょうか。愛は神様が臨在できる至聖所です。愛を通して、堕落した世の中をきれいに掃除させなければなりません。堕落とは、人間が思春期時代を正しく送らなければならないのにその時期を(正しく)過ごせず、脱線したことを意味するということをすでに明らかにしました。

 人間始祖エバがまず天使長と霊的に不倫の関係を結ぶことによって堕落し、それからエバがアダムと肉的な関係を結んで肉的に堕落したのです。それゆえ、彼らの罪の血統が後世の人間たちにまで遺伝してきているのです。

 サタンの痕跡が残っているところには、神様が絶対に臨在され得ないという事実を知らなければなりません。人間が神様の愛を受けるためには、死んでも再び生きなければなりません。人間社会でも、二度目に結婚した時、前の夫が忘れられない妻を、(新しい夫が)好きになれるはずがないではないですか。

 それゆえに神様も蕩減復帰を通して人間たちが罪を清算するようにさせ、救援摂理をしてこられたのです。(163)


  6、男性は志操、女性は貞節

 皆さんはこれから、家庭を中心として天国理念を立てていかなければなりません。ですから皆さんは、家庭について深く考えなくてはなりません。家庭の王者とならなければなりません。歴史的な面においても主体の王者にならなければなりません。そのためには、男性が貞節を守っていなければなりません。男性が貞節を守ってこれを全うしなければなりません。

 今までは女性の貞節を強調したでしょう。エデンの園で誰が貞節を失ったのでしょうか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。「女性です」。女性なのですか。男性も失ってしまったのです。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバのところに誘惑されて入り、結局は本来根である男性まで切られたのです。女性であるエバが、男性であるアダムを堕落させたのです。それを蕩減するために、今まで女性が男性に蹂躙されたのです。そうでしょう。女性たちが男性たちに蹂躙されるのはそのためです。だから先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは世界のどんな人よりも、後世の人々のためにしなければなりません。(164)

 新郎は新婦の前に何でしょうか。「烈男」です。世界的「烈男」なのです。烈女という言葉は聞いても「烈男」という言葉は聞いたことがないでしょう。イエス様は新婦となった万民に対して「烈男」でした。天と地が公認し、歴史が公認し、時代が公認し、現在と未来が公認する男性の中の男性でした。そのようなイエス様の前に新婦になろうとする人たちが、烈女という名詞を打ち立てることができないのでしょうか。烈女にもなれずに、イエス様の新婦になろうとするのは強盗のやり方です。乞食たちの洞窟に住む女性が、世界的な大統領を自分の夫だと言ったらどうでしょうか。「オー、ケネディ大統領が私の夫です」と言えば、みんな狂ったと言うことでしょう。

 キリスト教徒たちはそのようなことをしているのです。乞食のような立場から神様の王子に「オー、新郎さん早く来てください」と言っているのです。ぼろを着てイエス様に「ここに来て私と一緒に住みましょう」と言っています。それゆえに、恨み多いイエス様は今まで恨みを晴らすことができませんでした。イエス様が恨みを晴らすことができなかったのに、イエス様を送った神様の恨みが解かれますか。解けませんでした。神様も(恨みを)晴らすことができず、イエス様も晴らすことができなかったので、神様からつくられた天地万物も晴らすことができなかったのです。(165)

 世の中に数多くの男性たちがいても、わき見をしてはいけません。どのような男性でも、統一教会の女性を思いどおりにすることはできないのです。危急の時にはみんな命を断つか、刃物で相手の腹を突き刺して殺すか、二つのうち一つをとるのです、分かりますか。

 貞節は命よりも貴いものです。皆さんの夫が愛することのでき、息子や娘が愛することのでき、国が愛することのでき、世界が愛することのできる歴史の道、それが女性によって開かれるのです。このような、女性の美と高貴さと情緒的な伝統が輝きえる基盤を築いているという厳粛な課題の前に、皆さんは真実と真の姿をもって、ありったけの誠心を尽くさなければならないのです。(166)

 皆さんは今思いのまま愛することができるようになっていますか、できないでいますか。道で男性からふいに声をかけられて、ついて行くようになっていますか、なっていませんか。ついて行きません。皆さんはついて行くようになっているでしょう。(笑)そのような素質をもっていてはいけません。皆さんは時が来るまで、自分の体をよく守らなければなりません。純情を化け物のような男性にゆだねてはいけません。街頭で威張りちらして、ぶらぶらして役に立たずにいる男性たちは、全部化け物たちです。自分の運命をそのような男性にゆだねますか。これは簡単な問題ではありません。一生に一度しかないので、一歩踏み違えた場合には自分の人生が狂ってくるのです。そうでしょう。これは男性にもいえるのです。それゆえに、今までは女性に貞操を守れと言いましたが、これからは男性も貞節を守らなければなりません。そうしてこそ復帰されるのではないでしょうか。いくら世の中が悪く、せち辛くても、皆さんは行くべき正道からはずれる行動をしてはなりません。(167)

 青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩減できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに貴く保存して「千年、万年一人で行っても、愛が蹂躙されることは絶対にあってはならない」という志操と決意をもたなければならないのです。民族を愛し国を愛さなければ、自分が愛することのできる人と出会うことができないのです。世界を愛さなければ、(自分が)愛することのできる人をもてないし、神様を愛さなければ、愛する人をもつことができないのです。これは統一教会の伝統的思想です。ですから神様を愛し、世界を愛し、民族を愛した後に、自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則なのです。(168)

 ある男性たちは自分の妻がいてもきれいな女性を見れば、自分の妻だったらいいのにと思うのです。このように二心をもった男性を指して、泥棒の心をもった(人)と言います。二心から始まったのがサタンなので、二心をもった男性を指して、サタンといっても間違いありません。そのような人々がいたら、サタンにほかなりません。(169)

 男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守ることができなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。大臣だといっても、浮気をしてもいいようになってはいないのです。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来ているのです。統一思想を知るようになれば、そのようなことはできません。(170)

 これからは、男性も貞節を守らなければならない時代です。男性も貞節を守って歴史的な純潔の伝統を残さなければなりません。イエス様の血と肉を食べる儀式は、イエス様の純潔なる血と肉の伝統を立てるためのものです。(171)

 女性は貞節、男性は志操(度胸)という言葉があります。この言葉はどういう言葉かといえば、み旨(愛)を成就するための貞節であり、目的を果たすための志操なのです。ですから女性は貞節というからには、一つの愛のほかは知らないでこそ成され、男性は志操というからには、一つの目的だけのために精進してこそ成されるのです。

 アダムとエバを中心にして見るとき、自分が行く道を知り、志操と貞節を守らなければならなかったのに、守れなかったので堕落したのです。(172)

 男性は神様の愛を中心として女性を愛するときに、「完全に愛した。初めから終わりまで永遠に変わらず愛した」と言える立場に立たなければなりません。また女性はそのような立場に立つために、自分の身を固く封じなければなりません。数多くの花びらが幾重にも重なり合っている芍薬の花のように、固く埋めておかなければなりません。そして春という天地の調和に合わせ、そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。これを正しくしなければなりません。(173)


  7、愛には発展も革命もない

 愛には革命もなく、発展も退歩もないのです。(174)

 愛には発展もなく、どんな革命もありえません。愛は原型そのままが完全なものであり、不変で永遠で絶対的なものです。(175)

 愛は発展もなく革命もないのです。愛が永遠で完全なことは、永久不変の真理です。ところで愛が発展すると考えて試験してみようと思えば、それは間違った考えです。愛を生活の手段として考える米国は、そのような意味から滅亡するしかないのです。神様はそのような米国の未来を祝福してくださるはずがなく、米国自らが滅びなければ先生が愛の爆弾を爆発させても滅ぼすのです。はっきりしていることは、愛が生活の一つの方便や手段に利用されては絶対にいけないということです。(176)

 夫は妻に対し、初めて愛した姿から、どんな革命や発展も望みません。それは女性が夫に対して願う望みでもあるのです。初めて愛を出発させたその純粋な姿を保つよう願うのは、夫や妻、みんなの願いであることをはっきり知らなければなりません。純粋な愛に、ある色が加味されることを願わなければ、革命を必要としないのです。純粋な愛、それ自体が永遠に保存されるのを願うことを知ってくださるようにお願いします。

 愛する人との間になぜ離婚という問題が生じるのでしょうか。離婚した人や、離婚をしようとする人たちすべてが、最初は生死をかけた愛の関係だったことを考えてみると、何かが間違っているのです。離婚をするようになった理由はいろいろありますが、結局何かが変わってしまい、二人の間が変化したことを意味するのです。彼らは愛を守り、育てることができなかったからです。愛それ自体は変わりませんが、人の心は変わるのです。(177)

 ある男女が夫婦となれば、「おまえと私」の間に不変的な統一をどのようにして築くかが重要なのです。そのように一つになった立場で幸福を謳うようになるとき、それは永遠なる幸福(といえるの)です。理想的な愛情も、やはり変化しない主体的な何かをもっている所にだけ、そのような基準が設定されるのです。(178)

 結婚するときはその男性が美男子だといって愛していたのに、一週間過ぎた後に事故が起こり、体が不自由になった場合、離婚しようとなっては真の愛とはいえません。偽物の愛です。

 ある離婚調査書を見たところ、離婚をした百名中六十名以上、その動機が女性(の方の問題)にあったというものでした。(179)

 今日、先進国家の白人たちは世界を主導して動かす高い地位にあり、黒人たちは大部分が被支配者として低い地位にあります。しかし父母が子供を愛する場合は、その濃度において白人と黒人の差はないのです。誰かが誰かの支配を受けることはないのです。またそれは、永遠に変わることがありません。父母が子供を愛する心、妻が夫を愛する心、夫が妻を愛する心、真に愛し合う人たち同士の愛する心は、歴史がいくら変動し、発展し、革命の過程を経ても、変わりえないのです。(180)

 真の愛は絶対的であり、不変であり、永遠なるものです。(181)


  8、愛は極めて自然なもの

 先生の幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作って餌をあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい子供心からそうしたのです。それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。今考えれば、全く意地悪な行いを(よくも)続けたものです。愛は自然な中に築かれることを長らくして悟ることができました。

 愛は自然な中、最高の自由な雰囲気の中でなされるものが真の愛なのです。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経てはっきりと分かるようになったのです。(182)

 先生が幼いとき育った村は田舎だけに季節が変わるごとに渡り鳥が訪れ、季節ごとに違った花がたくさん咲く環境の中で成長したのです。先生が幼いときには韓国のどこに行っても季節がはっきりしていて、季節が変わるごとに美しい自然と出合うことができました。今日のソウルは一日中歩いても自然と出合うことができず、みな人為的景観のみを感じる索漠たる都会地になっていて、悲しみを覚えもします。このような都会の環境の中で育った人間は、情緒が不足し、自然の神秘や美を感じる機会がなく、乱暴だったり、個人主義の性格をつくりやすいことを知らなければなりません。自然との出合いの中でなされる交流は、人間をして多くのことを学び悟らしめるのです。(183)

 先生は自然の中で多くのことを学び習うことができました。その中からも、真実の愛がどんなもので、幸福がどんなものかについても私なりに悟りました。学校教育よりも根本的なことを学ぶことができるのが、自然の世界でした。

 季節が変わって美しい鳥が飛んで来たのを発見すれば、その鳥を追いながら、どのように巣を作ってどんな姿で住んでいるのかを観察しました。あるときは鳥の巣を探すのに一週間かかることもありましたし、鳥が卵を産んでひなをかえすのを見るために、十日間以上かかることもありました。お母さんに似たかわいくてきれいなひなを見ながら、神様の神秘と愛を深く確認することもしました。その鳥のひなは、進化して生まれた生命ではありませんでした。皆さんが卵を温めても、ひながかえりますか。鳥は、その父母の体温の中から、愛の中から、ひなとして誕生するのです。

 先生は鳥のひなを家に持ち帰って、精誠を込めて育ててみることにしました。こっそりひなを持ち出してきたのに、母鳥が私を見てしきりに鳴くのは、まさに自分のひなを返してくれと哀願して鳴く声だったのです。鳥の世界も母性愛が強く、侵入者が自分のひなを持っていこうとすれば自分の生命を捨ててまでも守ろうとしました。(184)

 愛の価値を失った人を、大学で教育させると、何が変わる(というの)でしょうか。彼らはみんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者のみをつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注・肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れられて、もろもろの味を出すのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。

 世界文明は、美術的調和を整えた基の上で花咲かせなければなりません。焼きカルビは皿に盛らなければならないし、テンジャンクッ(注・韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れられてこそ、もろもろの味を味わえるのと同じです。風味のよいテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。

 同じように、人間も風味よい味に似た、(そういう)愛を一度味わえば変わることがないのです。甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛だとはいえないのです。(185)

 最近はインスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なのです。香水風呂に入って沐浴したといっても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に体を入れて洗い、寝床に入る夫婦の愛(の方)がもっと純粋で、長くたてば深まるものだといえるのです。

 夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みがき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうために(キスを)するのか、それとも歯みがき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。最近の世相を見ていると、人間の幸福はどんなものなのか混沌となるほどに、計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができますが、そのような愛が、この世界を滅亡の道へと導いている主犯であるというのです。(186)

 皆さんが好きな、愛する人と出会えば抱擁したいし、口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためなのです。それは、相手を探し出すための人間の自然な行為なのです。

 すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念をもとにして男性と女性が出会うとき生まれるものです。

 しかし、このような愛の秩序に違反して環境圏を退け否定するところにおいては、愛の理想的な秩序が成り立ちえないのです。(187)















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