祝福家庭と理想天国
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第三節 真なる結婚と真の愛

  1、結婚の意義

 結婚とは幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式であるといえます。それゆえ、結婚は人生における重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとって最も偉大なものであり、結婚はそのような愛を現して確認する儀式なのです。(188)

 なぜ結婚式を「祝福を受ける」というのでしょうか。私たちの原理において見るとき、アダムとエバが堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、(アダムとエバ)は神様の実体対象として、神様が主体になれば対象的立場です。そして、愛の主体となられる神様から対象的な立場の愛を連結させることのできるその基台(祝福の基台)は、結局(アダムとエバが)完成することによって、成されるということを知っています。完成とは結局、結婚をいうのであり、結婚とは神様の愛の顕現をいうのです。

 言うならば、結婚がなければ、今日、人間世界においての愛というものが始まらなかったというのです。その愛の主人は誰でしょうか。人間ではなく神様であることを私たちは知らなければなりません。その神様の愛が人間の中に現れるようになるとき、神様の喜び、誇りとなり、神様の愛としてこれを感じることができるのです。

 愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛を成就しようとすれば男性自体だけでは成せません。女性も同じです。このようにアダムとエバが愛で一つになることによって初めて、神様の愛を受けることができるのです。このような観点から見るとき、私たち人間は神様から生まれたものであることが分かるのです。(189)

 「私」が結婚をするのは「私」だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分より相対のために行われるというのはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象からなっているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。男性が右側なら女性が左側になるのは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性がその対象となるのは、神様との縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから結婚とは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもない、天理の法度を合わせるためなのです。それゆえ、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。(190)

 結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助け合うことのできる相対的な位置で授け受けしながら、神様の前へ出ていく場合において、神様の愛を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。

 神様が男性と女性を天につくらず、地につくられたのは、平面的基準で神様の愛を横的に成すためです。すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であり神様と、二人で一つになった愛が、縦的な愛の因縁を結び得るというのです。この事実は極めて重要です。

 二千年前、この地に来られたイエス様も男性として来られ、万王の王として神様の国を建てる前に、新郎として新婦を地上に迎えなければなりませんでした。イエス様はすべての愛の最高基準として来られました。彼は横的基準の前に一人の男性として現れ、一人の完全な女性を選び、神様が人間男性に賦与された百パーセントの本性の愛と、女性に賦与された百パーセントの本性の愛を中心として一つにならなければなりませんでした。そのようになるとすると、神様は、失われた威信と体面を捜して降りて来られるようになります。そのような本来の基準で天と地が一つになり、愛を授受するとき、そこにいるすべてのものは自然に和合することができ、相応できるようになります。(191)


  2、結婚はなぜするのか

 結婚は何のためにするのでしょうか。創造理想を完成するためです。すなわち、創造目的を成就するためにするというのです。それでは創造目的は誰の目的でしょうか。アダムの目的である前に神様の目的です。ですから、アダムが喜ぶ前に神様が喜ばなければなりません。そうならなければならないのです。さあ、このように見るとき、結婚は誰のためにするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。

 創造理想は自分を中心として成就するものではありません。すべての心情が主体的なる神様と一体となり、彼(神様)が動じれば「私」も動じ、彼が静じれば「私」も静じ、心情的一致点を中心として内外が一つにならなければならないのです。このように神様の前に和合することのできる基準を立てなければ、創造目的を成就することができないのです。(192)

 「私」が結婚をするのは「私」だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分より相対のために行われるというのはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象からなっているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。

 男性が右側なら女性は左側になりますが、それは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性はその対象になりますが、それは神様との縦的な上下関係を築くためです。それゆえ、結婚は男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を一致させるためにするのです。それゆえに、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。(193)

 男性は女性を探すために生まれ、女性は男性を探すために生まれました。女性と男性は二人合わせて、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできません。一人で接してもそれは一方的なのです。立体的で球形的な愛に接することはできません。

 それゆえ、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。本然の世界にあっては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用においては偉大な中心が生じ、球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるというのです。そこにおいて体と心が一つになるのです。(194)

 女性が男性を迎えるのは、男性の世界を自分のものとするためです。女性が男性の世界を占領して何をしようというのでしょうか。女性が男性の世界を占領しようとするのは愛で一体となるためです。(195)

 結婚はなぜしますか。女性が男性を嫌だと思って(結婚)しないで済むのならいいのに、結婚をしなければ女性としての機能をもつことができず病気にかかるようになっています。女性のすべての循環器を中心として身体構造が、男性を迎え結婚生活をすることによって正常な機能を営むようになっているのです。女性が結婚をせずに独身で生きることは、正常な行動や考えでないことを知らなければなりません。ですから、女性は正常な過程の生活を通過していく道が理想的な行動といえます。

 正常な道とは何でしょうか。正常な道とはすべての面で平均をとって和合できる中庸の道を意味します。中庸の道とは、どちらか一方に愛情をもったり、偏ったりせず、(また)高低なしにすべての面で調和を成す正常な道をいいます。

 個人的に行く運命の道、男性なら男性、女性なら女性が行く運命の道は、どこへ行くべきでしょうか。運命の曲がった道へ行きたがる人は誰もいないはずです。人間本来の心理は、正しい運命の道へ行くことを望むのです。男性であろうが女性であろうが、運命に従順な家庭の道を選んで行くのを願うのです。(196)

 今日、独身の男女は将来素晴らしい人になれば、よい家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。それゆえ、夫は夫なりに妻は妻なりに、男は男なりに女は女なりに、素晴らしい相対を要求します。それはなぜでしょうか。自分が不足だということを感じるからです。このようなことを感じる一方、素晴らしい息子・娘を願うのです。自分が不足な面を相対を通して補充し、もっと良くなることができればどれほど良いでしょうか。そのようなことを胸深くに固く抱いて愛したいのです。(197)

 皆さんに尋ねますが、統一教会はどこへ行くのでしょうか。モスクワへですか。それではそこへ行って何をするのでしょうか。簡単です。神様が願われる地上天国を尋ねていこう(建設しよう)というのです。それでは結婚はなぜするのですか。天国へ行くのに役に立つためにするのです。なぜかといえば、天国へ行こうとすれば結婚をしなければ行けないからです。それゆえ、天国へ行く資格者になるためには結婚をしなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。神様に似ることです。どのようにして神様に似るのでしょうか。神様のみ言を実践する人になることです。神様の愛を「私」の愛にすることであり、神様が語る言葉を「私」の言葉として語ることができればいいのです。

 それゆえ、「私」は神様に代わり世界に向かって、「人類よ、おまえは天国に行かなければならない」と言うのです。その次には「天国に行くためには神様のごとく『私』が人類を愛して連れていく」、そうすればよいというのです。そういう人は、神様の人であり、天の側の人であり、天国へ行くことのできる候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというのです。

 さあ、結婚はなぜすると言いましたか。天国に行くために。そして人類のため(です)。男性の前にいるその女性は神様の娘であり、人類の(女性を代表した)娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければ資格がありません。女性はその反対です。「あれは『私』の夫である」とは考えるなというのです。「私」の夫であるという前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性であると考えろというのです。

 人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することのできる女性になればいいのです。そして「私」が男性としての右足になり、女性としての左足になり、人類のため、神様のための愛の足跡を家庭を通して伝えるのだという考えをもって結婚をしなければなりません。右足は夫であり、左足は妻なので、結婚をしなければびっこになるというのです。また、左右の足が完全でなければなりません。どちらか片側でも完全でなければびっこになります。それゆえに完全な男性と完全な女性になってこそ円満な結婚をすることができます。

 そうして、夫を見て「私」が好きになるのは人類を好きになることであり、神様を好きになることであり、また夫を愛することは人類を愛することであり、神様を愛することなのです。(198)

 結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためなのです。そして、結婚したということはそのような証拠を見せますと宣布したことなのです。結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができます。そして死ぬとき、これを成していたなら間違いなく天国へ行くというのです。(199)


  3、真の結婚観

 結婚というものは創造原理、創造理想から見れば、完成基準で成されなければならないものです。

 アダムとエバがもし完成したとすれば、二人が一緒に神様の前に立って結婚式を挙げなければなりません。

 結婚式を挙げる基準を私たちは完成基準といいます。完成基準に立てば、神様に対して霊肉ともに一致するような価値をもつようになります。

 霊肉ともに一体を成すというのは、何によって一致するのかといえば、愛によって一体となります。

 愛によって一体となれば、アダムとエバが成熟して神様の前に行く前に、二人がともに、相手が自分の理想相対であることを自然に知るようになります。

 そのようになった場合、アダムとエバは横的な愛の基準に立ちます。横的な愛の基準が始まるところにおいて、アダムとエバが共に慕う立場に立つようになるのです。したがって人間の完成というのは、相対基準が造成された愛を基準として平面化された立場をいいます。

 それが平面化された場合、神様の愛は垂直線と同じなので直角となり、神様の愛に接するようになります。

 二人が一つになることは、神様の二性性相の実体対象であるアダムとエバが一つになることであり、神様の本形状と本性相、すなわち、プラスとマイナスが一つになることなのです。(200)

 本来、体と心が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎新婦として神様の前に喜ぶことのできる対象圏を成し、神様の祝福を受けることを通して神様の愛による家庭が形成されたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダムとエバになっていたなら、その場所はどういう場所でしょうか。祝福を受ける場所です。

 福の中で一番貴い福は神様の愛です。その次は神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様が愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。皆さんはなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実体圏で引き継いだのと同じであるため、アダムとエバをつくって神様が喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。

 その次は、神様が天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たちに神様は主管権を賦与されました。その権限をもって秩序的段階にとどまることのできる、そんな世界が理想的天国であると見るのです。それゆえ、結婚するそのときには、神様の愛を相続し、再創造の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになることを皆さんは知らなければなりません。

 ですから結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。(201)

 私たちの結婚観は宇宙の座布団を……。宇宙の座布団、分かりますか。宇宙で一番いい絹は何ですか。洋緞(注・高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて結婚生活をすることよりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛する。そのように考えるのです。愛を中心として、所有権を「私」一代で決定する瞬間だということです。ああ、「私」の当代に所有権が来る。その所有は女性という動物の所有が決定されるのです。その女性はどんな女性か。宇宙の半分です。これをひったくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくる。考えてみなさい。また、女性はなぜ結婚をしなければならないのでしょうか。男性にくっついて一八〇度と一八〇度が合わさって、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚する。このように考えるとき、統一教会の思想が素晴らしいというのです。

 そうして何をするのですか。皆さん香りのない花がいいですか。香りのない花は無関心です。皆さん、「私は花になるなら緑色の花になろう」、こうですか。緑色の花、緑色の花を見ましたか。私が今まで植物園に行ってみても緑色の花はありませんでした。木の葉のような花は咲かないのと同じでしょう。それを見れば天地の道理が……。それ一つを見ても、神様がいるというのです。葉がみんな青いのに、緑色の花がどこにありますか。それは何なのですか。緑色に近い花が一つあります。何かというと、唐がらしの花です。それも、じっと細かく見れば、真っ青ではないのです。内容を見れば赤もあり、みんなあります。それはなぜ。現れるために。なぜ現れますか。この世の調和圏に入っていくために。天地調和、創造法に適用されるためには現れなければなりません。さあ、私たちの結婚観はこんなに素晴らしいのです。そんな結婚、私たち統一教会の結婚観はどれほど素晴らしいでしょうか。

 それでは歴史的内容を経ていますか。このような理想的な一つの家庭を夢見ながら、神様は今まで何をしてきたのかといえば、今までそのような男性を……。今まで歴史時代にそのような男性を探してみたけれど、一人も探せませんでした。それを考える者を一人も得られず、このようなことを言う者も得られなかったのです。(202)

 神様から出発した愛の道が実を結ぼうとすれば、その同参者の事情を知らなければならないのです。神様と父母と自分は公義の場所から出発した生命ですから、結実を見ようとすれば、その公義を基盤として結実しなければ本然の場所へ帰っていく道がないというのです。これが統一教会の結婚観です。(203)

 結婚は私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、立派な人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければならないという原則が分かったなら、結婚をするときも相対のためにするという観念をもたなければなりません。いくら醜い人だといっても美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。人間として生まれて相対を神様のように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりももっと愛することができるという観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することができないなら、神様と人類を愛することはできません。(204)

 結婚は誰のためにするのかといえば、人類のためにするのです。人類の共同利益のためなのです。世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性は世界を代表した女性です。それではどこから出発すべきでしょうか。世界を代表した場所から出発しなければなりません。結婚するのは人類が公的に願うみ旨のためなのです。(205)

 世間で行っている自由結婚は、サタンが人間たちを堕落させ神様の前に出ていけないようにする罠なのです。その罠に引っかかれば死に、サタンの支配を受けたり、えじきになるしかありません。今日、西欧社会、特に米国は自由結婚が盛んに行われることによって真の家庭が築かれず、家庭生活に失敗した人たちが日ごとに多くなり、いくらもしないうちに家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。そのようになれば米国社会は愛の干からびた社会になり、不信により不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言することができます。このような時点に立っている皆さんに、このような社会の風潮を一掃して、米国社会に愛があふれる、神様の願われる社会を建設しなければならない義務と使命が賦与されていることを知らなければなりません。(206)

 結婚は自分のためにするのではありません。自分を中心とした結婚をして、ならず者のような子女を生んでごらんなさい。家の中は滅んでしまうことでしょう。このような結婚をして楽しく暮らすことはただの夢です。将来が問題です。(207)

 今日、私たち統一家は現在の立場にとどまるのでなく、発展しなければなりません。国家の運勢を抱き、世界の運勢を抱いて生まれることのできる後孫を生まなければならないというのです。結婚というのは新しい民族、新しい国家を形成するために、そうすることのできる人材を模索しようとすることです。

 今まで、世界の人たちは自分のために結婚をすると言いました。しかし我々統一教会の結婚は民族のため、世界のためにするのです。(208)

 結婚は何のためにするのでしょうか、国のためにするのです。(209)

 祝福はなぜ受けるのですか。福を分けてあげて、全世界まで回っていくようにするためです。(210)

 韓国の民法は同姓同本の結婚を禁じて異族結婚を奨励しますが、これは統一を思慕する民族であるためにそうだというのです。(211)

 我が国の旧式結婚式を見れば、互いが敬礼をします。なぜ、敬礼すると思いますか。互いが「為に生きよう」と敬礼するのです。互いが為に生きなければ、愛は逃げていってしまいます。(212)

 女性が嫁に行くときにも「私は女性として生まれたので一人の男性を訪ねていくのだ」と言う人もいるでしょうし、「私が嫁に行くのは国を生かすために行くのだ」と言う人もいることでしょう。しかし、女性が嫁に行くのは一人の男性と喜びを共にするためではありません。一人の男性に会うために行くのではありません。一つの家庭のために、または一人の婦人の幸福のために行くのではありません。「大韓民国のすべての女性たちを代表して、この国、大韓民国のために嫁に行くのだ」と言えば、それは偉大な人です。何の話か分かりますか。

 我が国を見れば、過去にそのようなことがありました。李垠親王(一八九七〜一九六九年)の夫人になった方子女史がいますが、その女性は日本から韓国に嫁に来ました。何のために来たのでしょうか。韓国の男性を愛するために来たのですか。国のために来たのです。そのような人は歴史に残るのです。韓日合邦以降、ある関係を結ぶために政策的な結婚をしたのです。その女性は日本の全女性を代表した一つの祭物として、その国の歴史に残るでしょう。そうですか、そうではないですか。それでは嫁や婿に行くのはみな同じなのに、なぜそれだけ歴史に残るのですか。価値が違うからです。

 それでは全天地間で誰が最も偉大な場所で、嫁、婿に行こうとしたでしょうか。イエス様です。イエス様は結婚するため、新郎として新婦を迎えにこられるとき、どのような立場で来られたのでしょうか。世界のために来られたのです。世界のために結婚しようとして来た代表的な人物が誰かというと、イエス様しかいません。(213)


  4、思春期の変化と結婚の適期

 少年期には漠然とした夢の中で健康に育つことだけを望みますが、思春期になり身体的、生理的変化が生じるようになれば、異性に対する関心が高まり、瞳は好奇心と美しさできらきら光るようになります。体もおしゃれをするため、着物の身だしなみを整えるようになるし、顔もよりきれいにするために、整えることに余念がなくなるのです。そのようなときに唇を見れば彼が思春期に差しかかっているのか、そうでないのかを知ることができます。

 女性たちにおいても、思春期に差しかかれば月経が始まり、身体的に多くの変化が起こるようになります。お尻が大きくなり、胸がふくらみ、唇は赤くなり、瞳は神様秘的に輝いたりします。そのような女性たちの変化は、どうして、誰のために起こるのでしょうか。

 女性の身体的変化は、直行した道をくるくる回るための変化なのです。くるくる回っていくことのできる運動を始めるための変化だというのです。直行する道には何の調和もありません。直行する道は二回行ったり来たりすればすべてのものが消耗され、何も残るものがないのです。直行する道を行ったり来たりすれば環境を破壊するだけで、環境の調和は起こりません。環境の調和と保存のためには回っていかなければなりません。それゆえ、すべてが回っていくべきです。回っていく場合は、自分を中心にしては回っていくことができないので相対を中心として回っていかなければなりません。

 回っていく場合は相対とぶつかってこそ、回っていくことができます。相対者とぶつかれば自動的に反作用が起こり回る運動が始まります。これは天地の道理です。それゆえ、女性が身体的に変化が起こるのは相対者と出会い、回っていくためです。ぶつかれば回っていくための力が生じるようになります。女性が化粧をしてきれいに飾るのは、自分のためというより相対のためであると言えます。(214)

 最も美しい花のような時期、花がぱっと開いた青春時代がいつかといえば、思春期時代です。その時期がまさに十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は一生に二度とない愛の花が咲く時期です。一度しかない花のようなこの時代がどれほど貴いことでしょうか。

 皆さん、芍薬の花を知っているでしょう。その花のつぼみに色の違う黄色の花房があるでしょう。それは何枚から成っているでしょうか。花に全部しっかり取り巻いているのです。それをおし開くことができますか。たやすくおし開けないようにしっかりと取り巻いているのです。男性や女性もこれと同じです。皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみ、その愛のつぼみをいつ、ぱっと咲かせるのですか。天地の調和の中で美しさが最もよく現れるときがその時期です。人間として見るときにも最高のときです。神様の傑作品になり、最も中心の、絶頂としてきらめく期間です。そうではないでしょうか。

 大きくなりながら最もきれいな花のような時代、一番美しい時代が青春時代です。その青春期の姿は最高の花のつぼみです。それを十分に愛することのできる人がいるなら、その人は神様の部屋に招待を受けることができます。何の話か分かりますか。そんな愛を理解できますか。そのように愛することのできる男性と女性は神様の福を受けることができ、神様の部屋に招待を受けることができるというのです。それでは、皆さんは今そうできますか。それを知ったなら皆さんは、男性なら男性としてそのような準備をしなければなりません。(215)

 皆さん、思春期時代といえば、天下の王子になる気分なのです。そうですか、そうではないですか。そうだというのです。すべてのことを自分を中心としてひっくり返して考える時期です。このように思春期時代は反駁する時代なので自分を追いやれば、いくらでも別の道へ行くことができます。それゆえに今日、青少年たちの問題が世界的な問題になったのです。思春期時代はどんなことでも自分を中心としなければ気に入らないというのです。しかし自分と関係を結んだときは、それがいくら微々たるものであっても得意になるのです。

 二十歳前後の娘さんをじっと見ると、訳もなく「ひひひひひ…」と笑います。(笑い)秋に葉がすべて落ちた柿の木から、熟した柿がぽとんと落ちるのを見ても、「ははは」と笑います。それは何か分からなくとも通じるというのです。すべてのものが、全部自分と関係を結んでいるので最高の感情が誘発されるのです。ですから、思春期というのはすべてのものに接して因縁を結ぶことのできる転換点なのです。

 それはなぜでしょうか。神様の愛を中心として男性と女性を完全に百パーセント一つにするための創造本性が基盤となっているからです。ところが、これが誤ったために、へこみ、踏まれ、壊れ、まるで良い器にひびが入ったのと同じになったのです。

 本来人間は神様の愛を中心として一つになろうとする本性をもっています。神様の愛は無限のものです。神様の愛は天地のあらゆる生命の力です。この愛がすべての人々に投入されるなら、この世は道人が住む世の中になることでしょう。(216)

 いくらきれいな娘でも思春期はただ一時しかありません。その時は花の中の花であり、一生に一番貴いときなのです。それにもかかわらず、「私一人で生きよう」という女性がいるでしょうか。それは女性ではありません。そんな動物がいますか。(笑い)また、男性たちの中にも格幅よい十六歳前後の青春に、自分一人で生きようという者がいますか。そんなときには必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのですか。神様に似て、そうなのです。神様がそうでないのに、そんな人間ができるでしょうか。神様がそうなのです。一生のうち一番貴い時である若い青春時代に、相対を探していくのは男性でも女性でも同じです。そうですか、そうでないですか。そうでないなら一人で年老いて死になさい。(笑い)

 美人に「美人は薄幸だというので、あなたのような美人は一人で老いて死ぬべきだ」と言ってごらんなさい。いくらおとなしい美人でも顔から毒が飛び出すのです。それほどひどい悪口はありません。それを見れば美人の価値はどこにあるでしょうか。その美人は完全に鑑賞してあげ、天上の愛を因縁づけてあげることのできる男性がいてこそ価値があるのです。ですから、情緒の安定しない人は不幸ですか、幸福ですか。どれ、おばあさんたち、答えてごらんなさい。「不幸です」。不幸だというのです。これは間違いないのです。(217)

 愛はいつから連結されるのでしょうか。愛の力はいつから押し出してくれるのでしょうか。男女も思春期を迎え、すべての器官が百パーセント完成圏に到達するようになるとき、停止状態へ入っていくのです。すべてのものが飽和状態になります。運動というのは必ず飽和線を経ます。それで、(いったん)停止して、また回るようになります。そのような飽和状態に入っていって停止します。

 そのような飽和状態に入っていく前段階が前かといえば思春期です。思春期というのは「私」の肉体の発育において、すべての器官が完成した時期をいいます。気球でいえば空気がなくぺちゃんこの状態から、空気を入れてぱんぱんになり、破裂する直前になったということです。もう少し入れば破裂します。その破裂するとはどういうことでしょうか。それが愛が完成して破裂するのならどれほどいいことでしょうか。同じく人間も十八歳ぐらいになればゴム風船のようにはりつめてきます。そして破裂直前の立場まで行き、そこから見事に永遠に転がっていくことができます。(218)

 霊肉が完全に一体となるときは、本然の愛が私たちの中に訪れてくるときです。堕落した世界の人間たちの場合も、思春期とは霊と肉体の細胞が和合する平行線上に立つこのとできる時期であるというのです。思春期のときの霊と肉体の細胞は、すべての門を開き喜んで迎えるのです。

 神様を中心とした思春期時代に人間世界を眺めるとき、喜びと幸福のみが満ちるようになるのです。(219)

 皆さんのような思春期の独身男女がともに会って話をするときは胸がはずむのです。はずむでしょう。はずむのですか、はずまないのですか。分からないのですか。はずむというの、はずまないというの。「はずみます」。それみなさい。興奮するでしょう。そして興奮するようになれば心のうちに変化が生じます。ところが、その心が神様を中心とせず、反対の立場に立てば悪になるのです。心は誰を中心とするのでしょうか。神様です。その神様を中心とした心と心情が、一つになることのできる所に上がれるようにするのが愛です。何の話か分かりますか。このような立場で一つの生涯を送らなければならない人間であるために、人間は愛を中心とした理想と希望をもたなければならないというのです。

 そして、最後の場で輝くことのできるのが愛なのです。非良心的な愛は愛ではないのです。それが何の話か、今は分からないでしょうが、皆さんが結婚してみれば分かるようになります。(220)

 今、あなたたちは、男子学生は女子学生の顔を、女子学生は男子学生の顔を訳もなく見たくなるときが多いはずです。そうでしょう。今やそういう時が来たのですね。あなたたちはまだ年が若いからそうなのです。十五、十六歳になって、高校生になればね。考えが相手の方に行くのです。目がくるっと回るのです。どう、高校生たち、そうですか。正直に一度答えてみなさい。心がどうですか。男子学生たちがいるのは嫌ですか、よいですか。一度話してごらんなさい。

 さあ! 女性だから答えないのがまたいいのですね。男性たち、女学生がいるのは悪くないでしょう。「はい」。こんな時は思春期時代になるために、孝進も、女学生を見ればね……。事実を話しているのです。率直な話はすべてのものが協助し、どこにでも通じるというので率直な話をするのです。それをうそだというなら、うそだと思う人は間違った人です。私は率直に話をするのです。

 それで、「私」がどのように見るのか考えないで、女学生たちがどのように見るか考えているのです。また女学生もそうなのです。頭をちゃんととかないととか。服も手入れをしたり、鏡も見たりするのは、自分がどのように見るか考えてそうするのでなく、男子学生たちがどのように見るだろうかと思ってそうするのです。そうですか、そうではないですか。女学生たちは。では男子学生たちは。「そうです」。

 さあそうすると、その行動はよいし、そのようなことは自然な現象なのです。あなたたちがそんな考えをするからといって悪いことではないのです。しかし、芸術的な心をもって考えなさいというのです。(221)

 思春期になれば好奇心が多く、あちこち出たり入ったりするようになります。ところで、これから独身男性は花嫁が必要であり、花嫁になる人は独身男性が必要になるのです。そうでしょう。そうでないと考える者たちはやめてしまいなさい。(222)

 美しく身なりを整えた女性を見ると、(その女性が)男性を見る目はひときわ輝きます。自分の相対を見つけるため、自らをきれいに装うのは自然の現象といえるでしょう。しゃれた男性に出会うため、理想的男性に出会うため、心を焦がしながら歩き回るようになります。(223)

 神様は、人間たちが最大の幸福感を味わう時をいつだと考えられたのでしょうか。年老いた夫婦が互いに愛していると言って笑い、踊り回るのを見て、神様は私も実に気分がいいと言われるでしょうか。または、若い男女が体と心で愛し合いながら歌い、踊るのを見て喜ばれるのでしょうか。

 人間の幸福はどのようなものでしょうか。お金を多く持ち、ダイヤモンドを身に着ければ幸福だといえるでしょうか。派手に着飾り、香水をつけ、化粧をした姿で歌い踊るといって、幸福であるといえるでしょうか。もちろん、幸福は各自の感じ方によって少しは異なりますが、真実の幸福といえば、相対者と共に愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。そうすることのできる人を幸福な人というのです。

 愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。幸福なときとは年齢的に見ると、若さが最も華やかに咲くときだといえます。幸福が最も華やかなとき、最も趣のあるときとは、愛の力があふれる青年期です。愛によって力いっぱいつかみ、一つになることができるときが青春時代です。(224)

 全知全能の神様は、人間において華やかに花開くことのできる時間をつくられました。その時期が青春時代だといえます。神様は愛の青春時代を中心として、自ら幸福を培っていくようにつくられたのです。それゆえ、神様が存在する同一理想的な人間世界にあって、男女が華やかな青春の時期に幸福になることができる関門として、結婚という祝福をしました。この世に存在するすべてのものは、相対的理想を経なければ存在価値がなくなるのです。ですから人間が成長した後に祝福を受けて結婚をするのは至極自然の摂理なのです。(225)

 愛するようになれば幸せになり、愛に酔って感じる感情は、実に、のぞきめがねのようだといって、早く経験してみようととびつけば、それは大変なことだと言わざるをえません。愛の門は時になれば開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主体になったと思ったとき、堂々と開かなければならないのです。(226)

 結婚適齢期はいつごろだと思いますか。心と体が最も完成した力をもつときが結婚することのできる最適齢期であるといえます。青年期を越えればだんだんと気力が衰えていくために、いくら純情を保ったといっても相対者を求めるのが難しくなるのです。(227)


  5、勉強と結婚

 人間において幸福の門の開かれるとき、それは結婚なのです。幸福の門を開くために勉強をするのは、とてもよい方法だといえます。ところが問題は、その勉強がお金を稼ぐため、権力をもつためにするのであれば間違ったことだといえます。勉強は真の愛を成すことができるように学ぶのでなければなりません。(228)

 皆さんは学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強をして、どこに使おうというのですか。それは幸福のためです。幸福は愛を除いては存在することができません。それゆえ、学校へ行くのは愛の道を短縮させるためだということができます。(229)

 若い女性たちが大学へ行って学士になろうとする、その結論は何のためですか。良い新郎を得るためです。それ以外には何もありません。そして、ある男性がどれほど素晴らしくなったとしても、その家庭が一つにならなかったならば、その男性は不幸な人です。(230)

 勉強するのも、真なる男性に会って真なる母になるためだといわなければならないのです。母になるためにはまず国のために勉強しなければならず、夫を真の男性として侍り、真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。このような「私」になれなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子をもつこともできないのです。女性は真の妻になり、一つの家庭の主婦として、夫婦が年をとるまで仲良く連れ添わなければなりません。いい嫁になるために勉強するのなら、大学出身者たちは皆、夫婦が共白髪になるべきでしょう。ところが共白髪になる人が多いですか、離婚する人が多いですか。言うまでもありません。全く無学な者たちがより立派に長生きをするというのです。(231)

 男性や女性が生まれてから長い間の教育期間を経て、成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会い幸福な生活を得るためのものだといえます。最近、世間では結婚の相対者に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に住んでみれば、財物もついてくるし、名誉もついてくるものだといえます。(232)


  6、思春期と初恋

 神様の愛を成すことが最高の理想的結論になりえるし、愛を完成する道が最高の理想郷に向かっていくことのできる道だといえます。女性が男性を探そうとする理由も神様の愛を探すためであり、男性が女性を探す理由も神様の愛を探すためであるという結論が出てきます。

 ところで心と体が一つにならなければ、神様の愛を探すことができないというところに問題があります。また心と体が一つになることができるのは愛によってのみ可能なのです。愛の道を尋ねていくとき、間違いなく心と体が一つになります。

 例えば、思春期には愛を探して心と体が衝動を引き起こすようになります。父母の言葉を聞かず、自分勝手に歩き回ります。心の目と体の目が一つになって動きます。また、愛の鼻をもてば、ふだん嫌いだったにおいまで好きになります。愛の口をもてば、ふだん嫌いだった味までも好きになります。夜を徹しながらでも愛の話を聞きたがります。愛する対象は、触れば触るほど、もっと触りたいというのです。このように思春期になり愛の感情に襲われるときは、目がおかしくなり、すべてのものを良く見ようとします。

 体と心が一つになり愛の銃を撃てば、愛という弾丸が相手の心臓に打ちこまれるようになるのです。男性のそのような愛、女性のそのような愛を願う人は手を挙げてみなさい。愛は消化できないものがありません。すべてのものをおいしく食べることができ、すべてのものをみな消化することができるのです。真実の愛をもったなら、いくらぶ男であっても美男に見えるようになります。愛は驚くべきものです。ですから、よくても悪くても思春期時代に結んだ初恋は、男性でも女性でも永遠に忘れることができません。(233)

 死んでも生きても、好きな恋人のいる女性が、父母の反対で別の男性に嫁いだとしたら、その女性は一生の間幸福でしょうか、不幸でしょうか。その女性は、自分が初めて愛した男性がたとえ鼻がつぶれ、目が不格好だとしても、花のように良く見えるのです。父母が決めてくれた男性は外見からしても学歴からしても、千人なら千人が皆いいと言える人であり、昔(自分が)心の中でささやき愛した男性は至って不出来なのにもかかわらず、その初恋の男性(のほう)がよいというのです。皆さん、この言葉は信じられるでしょう。「はい」。しかし皆さんは該当しないでしょう。(笑い)

 初恋はすべてを占領するのです。愛の主体は誰ですか。神様です。愛の主体が神様であるために、愛することができるのも神様一人しかいないのです。元来、初恋は神様とするようになっています。ところがそのようにできなかったことが堕落です。

 エバは誰と愛し合いましたか。「天使長としました」。ところが喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛したのです。皆さん、堕落するときエバが「ああよいわ、善悪を知る木の果を取って食べると本当においしい、おいしいわ」と言ったでしょうか。エバが天使長に強姦されたとき、その心はどうだったのでしょうか。良心の呵責を受け、嫌がりながら天使長の誘惑に引かれていったのです。すべての細胞がうれしくて花が早春を望むように愛すべきであったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた場で(顔を)しかめながら愛したのです。(234)

 皆さん、初恋は貴いと思ったのですか。私はよく分からないが、皆さんはどうですか。「貴いです」。皆さんは私より優れているのですね。そう、答えた者は初恋をした経験があるようですね。(笑い)そんなことを言うときは黙っているものです。皆に聞けと一言言ってみたのです。もし、ここにいる女の子たちの中で、そんな答えをしたら気合を入れようと思ったのに、お化けみたいな男が答えたから、私は我慢したのです。とにかく初恋が良いということを聞いたでしょう。

 それでは初恋は誰としたのでしょうか。考えてみなさい。もし堕落しなかったなら、誰と(初恋を)したのでしょうか。神様としたはずです。アダムとエバの神様を中心とした初恋には、すべてがつまっているのです。初恋を中心とした父母の愛、初恋を中心とした夫婦の愛、初恋を中心とした子女の愛、すべてに神様の愛と根がしっかりくっついているのです。皆さんのように何千年の歴史的距離をおいて、個人復帰や家庭復帰という段階を経なければならない愛ではありません。いっぺんにぱっとくっつく愛です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がひとまとめに全部くっつく愛なのです。(235)

 神様に対する初恋、この初恋を捨てた人間は神様の前に行くことはできません。神様との初恋を通してすべてのものを放棄することができ、神様を中心として生き死にしようと言える人は天国に行くことができるのです。男女間にも初恋が重要なのです。

 統一教会のレバレンド・ムーンが今まで善男善女を集めて合同結婚式を挙行したのは、神様を中心とした初恋を結んであげようとしたのです。国境を超越し、人種を超越して結婚するのも神様の愛を実現するためでした。それゆえ、(人々から、文先生は)狂ったという声を聞きました。初恋のためにそういう声を聞きました。

 このような観点から皆さん自身を反省してみる必要があります。「私」がどれほど憎むべき邪悪な心と体をもっているか、自らの心と体を欺いている憎むべき存在ではないのかというのです。そのような皆さん自身を発見するとき、「ああ神様、私を愛によって救ってください」と言う前に、皆さん自身を改めることが急務であるのを知らなければなりません。(236)

 最近の若い者たちは、やれ恋愛だ何だといって道端で浮気をしてまわる人たちがたくさんいます。統一教会に入ってからは絶対にそんなことはありませんが、教会に入る前はそうだった人もいることでしょう。

 今まで、ある男性を愛していた女性が、自分が愛する人よりももっとよい男性が現れた場合、心がさっと変わってしまい、今まで愛していた人に「グッドバイ、グッドバイ」と言うとしたら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。「悪いです」。どれほど悪いでしょうか。たぶん、その女性を壊してしまいたいし、その男性をほうり投げてしまいたいでしょう。それが愛の心なのです。

 そうではないという人は男性ではありません。女性たちも同じです。自分の夫をそれほどまで愛してきたのにもかかわらず、夫が別の女性を愛するようになれば、その女性は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。もし気分がいいという人は、いっそのこと死んでしまうべきです。そんな人は一人もいないはずです。それを考えてみなさい。また男性の体面ゆえに、妻がそう(別の男性を愛)しているのに、それを黙って見ていられますか。刀で刺してでも女(妻)が手を引くのを見てこそ気がすっとするのです。ただ腹の中でだけくよくよ心配している男性は、男性ではありません。それは先生もたぶん同じことでしょう。(237)


  7、心と体が一致しなければならない

 今日、私たちは人間の同一なる個体の中で、悪の欲望を達成しようとする邪心の指向性と善の欲望を成就しようとする本心の指向性が、各々別の目的を前において熾烈な闘いを繰り広げながら、心と体が分裂していることを知ることができます。このように人間の心と体が分裂している矛盾性はどこから始まったのかといえば、まさに人間始祖の堕落からでした。人間始祖が堕落することによって、常に心と体が闘争し分裂する矛盾性をもつようになり、家庭と社会、ひいては国家と国家同士が戦い、血を流す不幸を経ざるをえなくなりました。(238)

 心と体が一つになれない理由を、確実に知らなければなりません。神様がおられるなら、どうして心と体が一つになれないようにつくられたのかというのです。各自は人間がどういうものかを知らずに生まれ、男か女かも知らずに生まれました。男として生まれ、あるいは女として生まれて、一つになることのできる道が愛の道なのに、なぜ、本来一つになれる基盤をもたずに生まれたのかというのです。神様がなぜそのように創造できなかったのかが問題です。絶対的神様の愛が必要で、男と女をつくったのなら、なぜそのようにできなかったのかというのです。このように見るとき、正常な男と女の位置に立つことができず、正常な神様の位置に行けなかったという論理が成り立つのです。(239)

 私たち人間にとって最も重要なものが愛であるので、男性と女性は互いに相対的な愛を探さなければ神様の愛を探す道がありません。真の男性、真の女性の心と体が完全に一つになり、真の心と体が一体化して闘わない、そのような愛の場でなければ、神様の愛は来ないのです。(240)

 心と体が一つになり、真の夫の愛、真の妻の愛、真の神様の愛と連結した、真の子女を愛することのできる父母にならなければなりません。そうしてこそ完全な家庭が築かれるのです。心と体が一つになるところにおいて、真の愛が現れるようになります。夫婦の心と体の中に神様の真の愛が臨み、一つになって息子・娘を生まなければなりません。

 また、自分の夫よりも神様をもっと重要視しなければならず、自分の妻よりも神様をもっと重要視しなければなりません。皆さんにはそれが必要ですが、皆さんの息子・娘の時代には違ってきます。真の父母を皆さんの夫よりももっと愛する立場に立たなければなりません。その次に夫を愛し、息子・娘を愛さなければならないのが原理的内容です。(241)

 皆さん、三点、分かりますか。三点、この三点が一つになれる点は、神様とアダムとエバが一つになれる場です。神様がアダムとエバと一つになれる場は、彼らの心と体が一致する場です。心と心情も同じことです。

 それでは完成した人、すなわち完成した男性と女性が住むようになる場とはどのような場でしょうか。天の公的なみ旨を中心として神様の愛を受けることができ、心と体が完全に一つになり、神様を主体として侍ることのできる場です。このような場に住むようになるとき、完成したアダムとエバの立場に立つようになります。このような人々が家庭を築いて出発するのが歴史的な出発なのです。これが歴史的な人生航路の第一歩です。そのような場をアダムとエバが築くべきだったのに、堕落することによって成すことができませんでした。それゆえ、今日、皆さんはこれを復帰するために、このような道を尋ねていかなければなりません。(242)

 男性は、心と体が主体と対象の関係になっていますが、心と体は縦と横の作用を継続することによって存在の力を発生させます。女性もやはり心と体が縦と横の関係をなしており、存在の力が起こってくるのです。男性でも女性でもすべて縦横の相対的関係をもっていますが、その力は愛なのです。愛だけが心と体の理想的関係を永遠に成すことができます。(243)

 貧しい農夫として田舎で草を取り、農作をする場にいたとしても、その農夫の心と体にふくれあがる愛の情熱が燃えあがれば、心の五官と肉の五官が完全に合わさって、これ以上にない喜びを味わうようになるのです。

 このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点を皆さんがもっているなら、時計の振り子の振動のように、神様の心が一度揺れれば皆さんの心が一度揺れ、それゆえに皆さんと神様が一緒に回っていくというのです。一度回り始めればしきりに回っていきます。行けば行くほど加重された力、遠心力が作用して、家庭を愛せ、社会を愛せ、国家を愛せ、世界を愛せと要求するようになるのです。(244)

 皆さん自身の心と体が一つになる中で愛の門が開かれる時が近づけば、皆さん自身の心が宇宙に共鳴して小説家や詩人になったりするのです。愛を主題として詩や小説を書くことができるのもまた、一つの愛を美しく幸せに結んでゆく資質を発揮するようになるからです。

 人間が愛の目を開けるようになれば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたくなります。そして秋風に舞う落ち葉を見て自然の道理を悟りほほえむようになり、春の園に咲く花の中に美しさを見つめたくなって、(自分が)一輪の花になったりするのです。(245)

 男性も女性もどうして愛を好むのでしょうか。人間の身体はおよそ四百兆にもなる細胞から構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するかといえば愛するときなのです。人体のすべての細胞を動かすことのできるときが、まさに男女が愛し合うときであることを知らなければなりません。(246)

 心と体が一つになって恋しい涙を流すようになれば、骨が鳴り騒ぎます。動物の場合においても同じです。皆さんも知っていると思いますが、雌牛が発情すると、どうなりますか。食べることさえ忘れてしまいます。そのとき、すべての神経がそのことだけを願うようになります。それと同じで、心と体が一つになった場所で愛し、互いに恋しがるようになれば、体の中で動かない細胞はありません。細胞一切が本来の方向感覚を忘れてしまい一つに集中されます。こうして相対に出会うようになれば爆発するようになります。その爆発力はものすごい力になります。

 そのように愛して何をしようというのでしょうか。神様に似ようというのです。神様が喜ばれることに同参することのできる場に出ていこうとするのです。言い換えれば、神様が喜ばれることを共に感じようとすることです。(247)

 心と体を一つにしなければなりません。体が行く道を中心にして心を一つにするのか、心が行く道を中心として体を一つにするのかという二通りの道があります。その中で心を中心として一つにしなければなりません。変わりはしても、心を中心として一つにするのがいいのです。理想的な愛を探そうとすれば、不可避なその道を行かざるをえないのです。もう、心を中心として体が一つになるようにすべきであるという決断を下さなければなりません。(248)

 統一教会の食口たちは、いつも公的な思想を中心とした心の基準の前に体を完全に一致させられなければなりません。心が願うその目的を中心として、体はいつも動揺することなく、一つになって出ていかなければなりません。先生はいくら難しい環境の中でも一つの目標を達成するための決心をすれば、心と体は動揺しませんでした。いくら悲惨な場に行くとしても、その悲惨な場を克服して越えていく「遊び」をしてきました。その難しさを踏んで目標を成就するという思想をもってきたので、寸分も動揺することはありませんでした。

 それと同じように、皆さんは今から、心が打ち立てる目的、神様のみ旨、神様の統一世界、神様の創造理想を中心として、体はいくら犠牲になるとしても、それと一致させる努力をしなければなりません。もし、犠牲を甘受できる決意ができていなければ、病気になったり蕩減を受けるのです。

 このように心を中心として体が一つになるべきです。そのように心と体が一つになった男性と女性が、家庭を中心として一つにならなければなりません。(249)


  8、真の愛の完成

 真の愛は愛の世界の最高峰です。それゆえ、真の愛は世界の一番てっぺんから始まるのです。稲妻が高い天から地へ落ちてくるように、真の愛も稲妻のように高いところから下へ落ちてぶつかるところで雷鳴を発するものです。

 人間の細胞が百パーセント運動し始めるのは、真の愛で愛するときです。堕落した世界にあっても男女が互いに愛するとき「ああ、電気が通る」と言います。そのとき生じる電気は天使長から始まるものなので単細胞なものです。本然の世界で生じる愛の電気は、宇宙的な愛の稲妻として強度が(稲妻の)数千倍を越えるだけでなく、一切の各器官の細胞が動く音も雷鳴の音と同じものです。本然の世界で真に愛する男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ、神様と出会うことができないというのが愛の原理観です。それが創造目的の完成でもあります。(250)

 すべてのものを包容して許す真の愛とは誰から始まると思いますか。真の愛は人間から出発しているのではありません。真の愛は主体であられる神様から始まります。神様は真の愛をもって人間を創造されました。そうして人間から真の愛を受けることを願われるのです。(そして、)その真の愛をもう一度人間に返してあげることによって、(神様と人間がともに)真の愛を完成するようになるのです。(251)

 この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在されるならそれ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなければ、神様の前へ出ていくことができないということを知らなければなりません。神様は愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいというのです。人間も神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであり、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいと言われるのではありません。(252)

 真の愛の前にはどんな力も溶け出します。それは見るだけでもうれしく、触れるだけでもうれしいのです。(253)

 宇宙の統一理想を完成させる内容が真の愛です。いくら名作であるといっても、その中に真の愛の味がなくなれば吐き出してしまうようになります。夫婦間に真の愛がなくなればそれまでです。(254)

 皆さん、女性にとって一番貴いものは何ですか。男性です。それでは、皆さんはどんな男性が必要ですか。見栄えが良い悪い、病身である(などという)ことが問題ではなく、ある男性から価値ある愛を探すことができるかどうかが問題です。女性においても同じです。真の愛をもった女性が真なる女性です。それではその真の愛とは何でしょうか。すべての愛の属性は良いものだけを愛そうというのではありません。とても低いものであっても、高いもの以上に愛することのできるのが、真の愛であると定義を下すのは妥当なことです。

 どうしてそうなのでしょうか。愛は力の作用です。高いものだけを眺める人は、高いものがなければ行くところがありません。ですからそれは真になることができません。愛は作用によって探すことができるために、高い所にいながらも低い所に相対することができてこそどこにでも通じることができ、永遠に作用することができます。そうしてこそ真になることができるのです。それゆえ低い愛を高い愛以上になそうとするところに、永遠という概念が出てきます。

 そのような理論から見るとき、神様はどのような存在でしょうか。神様はとても高いので、宇宙の国のような人だけを愛することができるという、そういう神様ではなく、あの、地獄の底にいる人までも愛そうとする神様なのです。神様はすべてのものを愛することのできる方でなければなりません。なぜ、神様は低いものを高いもの以上に愛することができなければならないのでしょうか。永遠の概念をもった神様であるので、このような作用の原則によってそうでなければならないのです。(255)

 真の愛とは何ですか。誰かに会って百年でも千年でも共にいたいという愛です。夫婦間においても永遠に愛したいという愛です。そこには地獄はありえず、サタンが付け込むこともできません。(256)

 人間の一身を見れば、人体は五官をもっています。人間は誰でも五官の認識によって、真の愛を感じ確認するようになっています。目が真の愛に向かっているなら、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。酔った瞳の色はどれほど美しく光るでしょうか。

 口が真の愛に溺れているなら、ほほえむその唇はどれほど恍惚としたものか、考えてごらんなさい。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五官の調和がどれほど美しいだろうかと想像してごらんなさい。そのような美しさを通した喜びは、神様一人では体験することができないのです。そのような美しさは相手がいてこそ体験するようになるのです。そしてそれは神様が人間を創造された目的でもあるのです。

 真の愛に酔った瞳の手入れをしてあげたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいるなら、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。

 神様は天地を創造した以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。神様は真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われるのは確実であり、真の愛のアダムとエバの心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。

 神様が人間をつくられた後、人間の真の愛に溺れ、愛の迷子になったなら世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様が住まわれるようになるでしょうし、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界であるのは確かです。(257)

 真の愛が完成したなら、感応の神様はその真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中でならどんなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないでしょうし、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(258)

 人類歴史において真の愛を完成すれば、政治、経済、文化の問題はもちろん、すべての紛争と[藤の問題もきれいに解決できるはずです。今日、世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ、根本的な解決が可能なのです。(259)

 真の愛を探さなければなりません。真の愛はどこへ行けば出会うことができるのでしょうか。真の愛は昼も夜もなく、不変であり永遠なものです。「私」一人だけのためのものは真の愛となることはできません。真の愛が「私」個人の所有となることはできません。真の愛は万人のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるものです。(260)

 キリスト教での、「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味は、互いが愛を受けようという意味ではありません。愛は相手のためのものなので、互いが「為に奉仕しなさい」というものです。すべての人が自分よりも相手と全体のために奉仕して、犠牲になるようになるなら、その世界はどのような世界になると思いますか。平和の世界になります。互いが真の愛で愛するようになれば、たとえ死の場であっても、そこには蘇生の火が燃えあがるようになります。互いが愛するようになれば、そこには喜びと平和の花が咲き、香りよい泉がわきます。真の愛が具現した世界はまさに人類の理想が実現された世界です。しかし互いが愛してくれと言えば、そこには闘争と対立と猜疑と嫉妬が生じるようになります。真理は決して遠いところにあるのではありません。まさに私たちの間にあるのです。(261)


  9、真の愛の特権

 愛には同参権があります。父親が高ければ、子供が低い位置にいてもすぐに父親の位置へ飛び上がっていくことができるのです。同参権が愛に内在しているという驚くべき事実ゆえに、「私」がたとえ離れているとしても愛は永遠なのです。(262)

 神様と愛の因縁を結ぶようになれば、必ず主管性と独立権、その次には相続権をもつことのできる特権があるのです。(263)

 神様の愛を所有した人だけが、神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続できる特権をもつことができます。(264)

 絶対的な神様の前に、「私」がどうすれば相対的な位置に出ていけるでしょうか。努力してですか。力を使ってですか。何をもってしても無駄です。しかし、愛の因縁を結んで出ていけば、いっぺんに同等の位置に出ていくことができます。(265)

 神様と対等の位置、同位圏の位置に立とうとすれば神様の愛を所有しなければなりません。(266)

 愛という力を、統一教会が神様の真の愛に連結させたなら、所有権の決定はすでに確定されたということを知らなければなりません。男性と女性が真の愛で因縁を結んだなら、男性の所有権はすなわち女性の所有権になるのと同じです。愛によって一つになった夫婦はすべての所有権を共有するようになるのと同じで、真の愛によって神様と連結された者は、神様の所有権を引き継ぐのです。(267)

 全知全能であられる神様と、制限的な存在である人間がどのように一つになることができるかが問題です。無形の存在と有形の存在が一つになれないなら、宇宙の統一は不可能であり、結局、人間がいくら宇宙の理想を懐かしがっても、統一は難しいのではないかという問題にぶつかるようになるでしょう。

 神様と一つになることのできる人はどんな人でしょうか。真なる人のみが神様と一つになれる人なのです。神様と一つになれる真の人とは真の愛をもった人です。

 「真の愛をもった真の人だけが神様と一つになることのできる人である」という結論に対して、誰も異論をもつ人はいないでしょう。歴史的な背景が違い、顔の色が違い、伝統と習慣など、言語と文化的背景が違う人であっても、その意見に対して反対する人は一人もいないはずです。(268)

 人間は神様の愛を中心として、神様と愛の関係を結ぶようになれば、神様と同位圏に立つことができるのです。アメリカのレーガン大統領の夫人であるナンシー女史が、アメリカ国民の前に、レーガン大統領と同じ位置で統治権を行使することができるのは何ゆえでしょうか。それはレーガン大統領と、愛を中心として、夫婦として一体関係をなしているためです。愛によって一つになれば、同参的権威をもつようになるのです。このように愛は同参権をもっています。

 愛は同参権に続いて相続権をもっています。それゆえ、神様と愛の関係に入っていくようになるとき、神様の前の座に立てるだけでなく、神様がもっておられるすべての所有権をもつことができるのです。人間には本来、神様がもっておられるすべてのものをもつことのできる特権があるために、すべての人間が最高の存在になりたいという欲望をもっているのは当然のことであると言えます。

 堕落した人間であるといっても、一番高い位置、最高の栄光の位置を望んでいるのです。学問のある人、ない人、黒人、白人の関係なく、最高の位置を望む人間の欲望は同じなのです。問題はそのような欲望を充足させてやることができるのは、愛だけであるということです。(269)

 愛の核を掌握するようになるときは神様をコントロールすることができます。素晴らしい夫の妻がたとえ醜くても、その妻が愛の因縁をもってひねれば、立派な博士も仕方なく引っかかってコントロールされるのです。愛にはそのような力があります。(270)

 わらぐつも履けない悲惨なところにいる田舎の純朴な娘であるとしても、結婚当時、何も知らずに大統領になれる人と愛の因縁を結んだならば、その国の大統領夫人として一時に飛躍できるのです。いくら米国の大統領が偉大で世界を怒鳴りつけるとしても、その夫人は何でもない人です。しかし愛の因縁を結んだことを通して、同参的資格を、どこででも所有できるのです。そのような能力が愛にはあるのです。(271)

 私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているためです。この問題が今まで度外視されていました。人間のこのような本然の価値、絶対的な神様の前に絶対的な対象の価値をもって堂々と宇宙間に登場することのできる権利を失ってしまいました。

 それでは、そのような高い神様の前に「私」がどうしたら相対的位置へ出ていけるでしょうか。努力をもってしてですか。力を使ってですか。何をもってしても無駄です。愛だけが、愛の因縁の綱だけを持って出ていけばいっぺんに同等の位置に出ていけるのです。

 皆さん、世の中もそうではないですか。偉大な一人の男性がいれば、その男性を中心として、何の価値もない、人格や知識、すべての権限から見ても〇点に近いけれど、その主体になる男性と愛の因縁だけ結べば、一時に堂々たる対象的価値をもつのです。

 偉大な「ジョン」がいれば、彼女はすぐに「ミセス・ジョン」になるというのです。そのような夫をもった女性に、他の女性たちはついていくことができません。そうではないですか。神様と私たち人間が愛の関係で連結されるなら、神様と私たち人間との愛は世の中の父子の間の愛よりも高いのですから、その愛を中心として、すぐさま対等の位置に上がっていくことができない、という理由は成り立たないのです。

 愛は不変であり、永遠であるゆえに絶対的であるというのです。ここで私たち人間のこのような偉大な価値の根源を忘却してしまった今、私たちの一生の本然地をもう一度回復しなければならない時として見ているのです。(272)















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