祝福家庭と理想天国
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第二章 真の父母と神の家庭

  第一節 イエスと祝福
  第二節 小羊の婚宴と最初の復活
  第三節 真の父母と真の子女
  第四節 家庭を中心とした復帰摂理

第一節 イエスと祝福

  1、メシヤは誰か

 堕落したアダムとエバの後孫が生まれて以来、地上には堕落した家庭がつくられ、堕落した氏族、堕落した国家、堕落した世界がつくられたのです。神様はこの堕落した世界、怨讐の世界の中から一人の人を見つけなければならないのですが、神様は勝利した立場では愛する人を探すことができないのです。この怨讐の世界から神様が用い、立てることのできる人を見いだすためには、戦いの歴史を繰り返さざるを得ないのです。そのために、必ず神様は先頭に立って環境を開拓し、神様の内情を通告しなければなりません。このように、一人の人を探し出さずにはいられないのが神様の立場なのです。それで、神様は、歴史の背後において、罪悪に満ちた人類歴史を再び収拾するために数千年の間、一人の人を探し出す役事をしてこられたのです。(1)

 復帰摂理を見るときに、今まで数多くの宗教を動員して、一つ世界を模索し、善の世界をつくるために摂理されてきたその帰結点はどこにあるのでしょうか。その世界ができる前にまず国が現れていなければならず、国ができる前に民族、民族ができる前に氏族、氏族ができる前に家庭、家庭ができる前に一人の人が現れなければならないのです。

 すると、その一人には誰がなるべきでしょうか。女性でしょうか、男性でしょうか。誰でしょうか。男性です。創造原理から見ても人間を創造するとき、アダムを先につくりました。アダムからつくったので、アダム(男性)を通さなければなりません。聖書にアダムのあばら骨を取ってエバをつくったとあるのは、何を意味するのでしょうか。それは原型としてつくったということを意味します。(2)

 これまでの六千年の歴史を見ると、それは、男性を探し出す歴史でした。男性を探してきたのです。男性によって女性が復帰されるからです。創造のときも、男性の後に女性を創造したので、男性を探し出す歴史だったというのは動かし難い事実なのです。歴史の原則は変わらないのです。(3)

 メシヤという人間は一体、神様の前にあってどのような男性なのでしょうか。メシヤとは、神様の心の中にあったただ一つの愛、その愛の全体が凝結して、一つの出発点から同じ方向へ向けて総合された愛を受ける最初の人なのです。その人こそ神様の前に初めて生まれた長男です。

 メシヤは神様の愛によって初めて誕生し、神様の愛の前に立つ神様の長男です。ですからイエス様は自身を指して、神様の「ひとり子」と言ったのです。ひとり子とは、全体の愛を受けるという意味です。神様が絶対的な主体となれば、メシヤも男性として絶対的主体圏に立つのです。父子の関係です。したがって神様の全体の愛を個人に伝え、家族に伝え、氏族、民族、国家、世界に伝える人です。メシヤは、神様の長男として、すべての圏を超越した基準で、代表的な愛を受ける資格をもってくる人なのです。(4)

 キリスト教が主張するメシヤとは誰でしょうか。メシヤとは神様の愛を受け継ぐことのできる息子のことです。それで聖書では、イエスをひとり子と呼びました。ひとり子は神様のたった一人の息子です。それは神様の愛を中心として、初めて生まれた息子を言っているのです。(5)

 イエスはどのような方として来たのでしょうか。(イエスは)神様の息子、ひとり子として来て、神様の愛を受けたのです。初めて神様の愛を受けることのできたひとり子だったのです。それゆえ、キリスト教でいう「ひとり子」とは偉大な言葉なのです。

 人間始祖アダムとエバが、未完成の期間に、対象圏をつくれずに堕落したので、理想の愛を体恤する立場に立って、人類が願う祖先としての資格をもってきた方がメシヤなのです。メシヤを通す以外に、人間を解放する方策がないので、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と結論を出すことができるのです。統一教会は、それを見据えていこうとしているのです。(6)

 私たちには神様の愛が必要です。未婚の男女が愛し合うとき、愛のためには死も恐れないのと同様に、神様の愛と一つになれば、神様の愛を実践できるようになります。そうなれば世界統一は自動的に実現します。私たち堕落した人間に必要なのは、神様の愛で愛することのできる人となることです。

 これが成就するのは、メシヤが来て神様の愛を連結させる時です。メシヤとはまさしく、体と心が一つになって、神様の真の愛が宿っている人です。(そして)神様の愛へ到達する時まで揺らぐことがなく、新しい道を備えることのできる人です。メシヤは世界、国家、家庭、個人を統一することのできる神様の愛をもってくる方です。神様のみ旨は、愛の主体となることのできるメシヤを送って、愛の世界を築くことです。神様は宗教を通してそれをなそうとされるので、宗教は必要であり、万民にとってメシヤは絶対に必要な存在です。まさにイエス・キリストが、「だれよりも私を愛しなさい」と教えた理由はここにあったのです。その点で、イエス様はメシヤとなることができるのです。また、イエス様は、「私は神様のひとり子だ」と言いました。これは、神様の真の愛を受けることができるという意味です。また、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁です」とも言いました。これも同様に、真の愛を有する家庭の基準を築いておこうという意味なのです。(7)

 救世主とはどのような方でしょうか。人間は堕落によって真の愛を失いました。ゆえに、救世主は真の愛を探し出すために来られる方です。言うならば、失った真の愛を取り戻すために来られる方が救世主なのです。(8)

 メシヤとはどのような方でしょうか。(メシヤとは)人間の無限の価値、無限の宝を備えた、そのような人格を再現して来られる方です。この方は、天地を主管し、天地をもってしても代えることのできない比重と測量の位置を再選定して人間世界に来られる方です。(9)

 神様は人間が同伴者を必要とするのをご存じなので、かけがえのないメシヤを地上に送らざるを得なかったのです。神様は人類を愛しておられるので、人類と接することのできる一人の代表的な存在、友達のようでもあり、先生のようでもあり、さらには、父親のようでもある、最も貴い存在を送らなければならなかったのです。このような代表的存在が誰かと言えば、メシヤなのです。

 メシヤは私たち人間にとって二人といない友であり、二人といない師であり、二人といない父親であることを知らなければなりません。たった一人しかいない最大の存在としてこの地上に送られた使命者がメシヤなのです。そしてメシヤをつかんで涙を流し、メシヤのために生命を投じ、その方を自分の生命のように愛するならば、世界史的で、天宙史的な神様の生命と愛の圏内に突入することができるのです。これが、人間に与えられた神様の最高の愛の贈り物であることを知らなければなりません。(10)

 メシヤはまさに、神様と人間、そして万物の願ってきた真の人です。それゆえに、その方は真理の実体として来られ、真理のみ言を語られますが、(そのときは)神様の愛と一致した位置において真理を語られるのです。さらには真なる行動をしますが、愛を動機として行動するのです。その生活は規制に従って形式的に行われるのではなく、神様の真の基準において生きるのです。世界の救済に際しても、この世的な政略や手段方法によるのではなく、神様の真の愛を中心として救おうとするのです。そのような方がまさしくメシヤなのです。

 このような一人の人から真の愛の運動が全世界に展開するのです。このような真の人が一人の女性と夫婦の契りを結び、一つの家庭を築き、この家庭を中心として、一つの氏族、民族、国家、そして一つの世界を成就していくのです。これが、神様が望み、人類や万物が望んでいる「全体の願い」なのです。(11)

 イエス様はどのような資格をもってこられましたか。父親の資格をもってこられました。人類の真の父、すなわち真の祖先として来られたのです。しかし真の母を連れてくるのではありません。真の母がサタンに奪われたので、本来の人間(メシヤ)は、死を覚悟してまでも、サタン世界から奪い返してこなければなりません。

 最後の日に主が来られ、新婦を迎えるとき、新婦が解放されるのです。今日、先進国家では女性運動が起こっていますが、そこには中心がありません。したがって中心となるイエス様が再び来なければならないのです。(もし)イエス様の使命が人間の兄弟としての救いだけならば、イエス様が再び来なくても、救い主の役事はこの地上にいくらでも継続することができます。しかし、父親の使命を果たさなければならないので、イエス様は再び来なければなりません。父親が二人になることはできないので、必ずまた来なければならないのです。(12)

 イエス様はどのような方であり、なぜ来られたのでしょうか。イエス様は人類の真の父母であり、真の父の使命をもってこられた方です。アダムは堕落しなかったならば、神様の祝福を受けて人類の真の父となったはずであり、エバは真の母となったはずです。ところが、堕落により、その祝福が失われてしまいました。それで、それを復帰するために神様は、四千年の長い歴史を通して準備された基台の上に、イエス様を真の父の使命者として送られたのです。(13)

 神様は宇宙の中に、アダム一人をつくりました。アダム一人をつくることによって神様の願いは芽を吹き始めたのです。それから、アダム一人だけではいけないのでエバをつくりました。神様はアダムとエバをつくり、「ああ、見るに善い、好ましい」と言われました。神様とアダムという縦的な関係だけではいけないので、横的な対象を備えて、それが相対的因縁を結べばいいというのです。

 それゆえに、復帰摂理の中で、アダムと同じ存在が地上に再び出現しなければならないのです。それがメシヤ再臨思想です。アダムが出てこなければ、エバをつくることはできません。アダムが現れる前に人間がいたとしても、それは人間ではありません。土くれと同様です。人間と同じ格好をしていても人間ではないのです。それは神様の公認された創造理想の法度において、人間とは認定できないのです。ただ、アダムだけが神様の願われる人なのです。それを再び蕩減復帰することが再臨思想です。二番目に現れるメシヤなのです。そのようなメシヤが現れて初めて、神様の願われるエバ、新婦を迎えることができるのです。(14)

 将来、来られる主はどのような方として来られるのでしょうか。イエス様は第二アダムとして来られましたが、将来来られる主は、第三アダムとして来られます。

 第三アダムはなぜ来なければなりませんか。それはこの地上で過ったからです。この地上で事故が生じたので、それを修理しなければならないからです。だからこれを修理できる、故障していない新しい主人が来なければなりません。それゆえ、皆さんは新しい主人が来て、事故をいつ直してもらえるかと待ちこがれるべきです。

 第三アダムとは誰でしょうか。この地上に人類祖先の名をもってこられる三番目の方です。(15)

 私たちは、終わりの日に、再臨主が来られることを知っています。それでは、来られる主はどのような目的をもってこの地上に来られるのでしょうか。僕の時代が過ぎ、息子の時代が過ぎたので、将来来られる主は父親として来られるのです。父親の栄光をもってこられるのです。(では、)父親の栄光をもってこられて何をなさるのでしょうか。人間一人ひとりに父親の心を吹き込まれるのです。息子の心ではありません。イエスの心でもありません。父親の心だというのです。(16)

 救世主とはどのような方なのでしょうか。今日の堕落した世界においては、信仰と希望の実体なのです。皆さんの信仰の目的は、信仰の実体であるメシヤと一体となることであり、希望の目的も愛の目的もその方と一体となることです。人類を収拾して、エデンを復帰するために来られる方がメシヤであり、その方を完全に占有できる人は、その方の世界を占有し、その方の愛を占有できるのです。また、その方は神様を完全につかんでいるので、その方を完全につかむ人は神様をつかむことができるのです。(17)

 私たちが絶対に探し出さなければならない問題が、一つだけ残っているのを知らなければなりません。

 この一つの問題とは何でしょうか。その問題はどこで解けるのでしょうか。それは神様の愛によって解けるのです。神様の愛はどこから来るのでしょうか。神様の愛は偽りの父母からではなく、真の父母によってこの地上にはっきりと現されるのです。真の父母が存在するためには、まず真の父が来なければなりません。父親の人格と神様の愛を代わって備え、この地球星を訪ねてくる方が、今日宗教人たちが信じている宗教思想の中心的存在、すなわち再臨主なのです。(18)


  2、イエス様と祝福

 今までの六千年歴史は、何を探し求めての歴史でしょうか。一人の男性を探し求める歴史でした。アダム家庭から今日まで、数多くの先知先烈たちの犠牲の代価を支払いながら探し求めてきたものは何でしょうか。すなわち、その苦労は何を探し求めてのものでしょうか。(それは)一人のアダムである男性を探し求めるためのものです。その男性を探し出した後には何をしなければならないのでしょうか。その男性を通して一人の女性を探し求めなければなりません。神様がアダムとエバを創造されるとき、アダムをまず創造され、次にアダムを通してエバを創造されたのと同様に、彼らは、まずアダムを探し求める歴史的責任を果たすために、今まで、神様を中心として闘ってきたのです。(19)

 アダムの代身として誕生したイエスとはどのような存在でしょうか。この世には男性が無数にいますが、神様の前に必要な男性は一人もいません。そのような男女が生きるこの地球星に、神様の愛の仲保として初めて生まれた一人の男性、その方がまさしくイエス様です。そのイエスは神様の愛を受けることのできる位置にいました。堕落したアダムの位置ではありませんでした。

 神様の愛を受けられない堕落したアダムの位置ではなく、神様の愛を完全に受けることのできる完成した位置から出発したのです。

 創造原理を見てみると、神様は男性をつくられた後に、アダムの姿を見本として、エバをつくられたのです。それゆえ、完全な神様の愛を中心として生まれることのできる完成した男性、すなわち、真の人が現れなければ、再創造の原則に従ってエバを捜し出すことはできません。ですから、イエスの誕生によって初めて、男性を主として、この地上に神様を中心としたエバを探し出す運動を起こすことができたというのです。

 では、エバはどのようにして探し立てるのでしょうか。アダムを通してつくらなければなりません。土でいいかげんにつくることはできないというのです。(20)

 アダム以後に失敗したすべてのことを蕩減するために、一人の男性として生まれた方が誰かというと、イエス様です。しかし、イエス様もみ旨をただ一人で成就することはできません。どんなにイエス様がイスラエル民族に対して摂理のすべての内容を相続させたとしても、イエス様一人では国家を形成することができないのです。イエス様が国家を形成するためには、まず、新しい家庭を編成しなければならないのです。

 新しい家庭を築くためには、地上にいる数多くの女性たちを代表し得る一人の女性を探し出さなければなりません。すなわち、国家的にも、世界的にも、全体にわたって、数多くの女性たちを代表し得る一人の女性を探し立てなければならないのです。(21)

 神様の愛する息子は、相対者を迎えなければなりません。相対者をどこで迎えなければなりませんか。天上で迎えるのではありません。堕落の結果としてエバは地上で失われたので、相対者もやはり地上で再創造されなければなりません。(22)

 アダムがエデンの園で堕落する前、すなわちアダムがエデンの園で創造され、結婚する前の立場を代表する人格者として来られる方が主です。堕落せず、結婚していないエデンの園のアダムの位置を代身して来られる主は、結婚式を挙げなければなりません。ゆえに、まず何をすべきかといえば、女性、すなわち母を探さなければならないのです。(23)

 アダムとしてのメシヤはどのような位置で来られるのかと言うと、長成期完成級の位置で来られます。長成期完成級とは結婚式を挙げるための位置です。(24)

 イエス様は、この地上に来られ、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」と言いました。何のためにそう言ったのですか。新婦を探さなければならないからです。愛は男性と女性の二人に帰結されます。宇宙史的な男性の代表者と女性の代表者は、大きく胸をふくらませ、神様の愛を引き込むことのできる本然の契りを結ばなければなりません。(25)

 イエス様は新郎としてこの地に再び来ると言いました。では、新郎として来られるイエス様一人で、愛を完成できるでしょうか。神様が探し求めている完成した女性がいるなら、イエス様の相対者として完成した女性がいるなら、イエス様がその女性を愛したからといってどんな罪になるのでしょうか。イエス様が完成した女性と愛し合ったからといって神様がやめさせるでしょうか。(26)

 皆さん、考えてみてください。ある父母に愛する息子・娘がいたとして、その息子・娘がみんな成長したのに、めとれず嫁げず死んだなら、その父母の心はどうでしょうか。平安でしょうか、平安でないでしょうか。その父母は「ああ! こいつめ、妻もめとれずに死んでしまうなんて!」と言いながら嘆き悲しむでしょう。その父母は自分がしてあげられることなら、何千倍の心情を加えてでもしてあげたいことでしょう。それが父母の心です。神様も同様です。(27)

 神様はメシヤ、すなわちイエス様の誕生によって、エデンの園で失ってしまった息子が誕生したときの喜びを、再び感じることのできる時を迎えたのです。すると、その息子は生まれてから何をすべきでしょうか。けんかを上手にしなければならないのでも、お金を上手にもうけなければならないのでもありません。結婚しなければならないのです。ところが、イエス様は結婚しましたか。結婚できませんでした。なぜ結婚できなかったのですか。イエス様は新郎としての準備を十分立派に備えていましたが、新婦として備えられた女性がいなかったからです。(28)

 イエス様の願いは何でしたか。結婚することでした。この話を既成教会の人々が知れば驚きのあまりひっくり返ることでしょう。イエス様の願いはまさしく結婚することだったというのです。
 なぜ妻をめとらなければならないのでしょうか。人類の出発が堕落した祖先から始まったので、人類には今まで真の祖先がいませんでした。神様の創造理想は真の祖先となった人を聖婚させて、神様の愛と一体化させることでした。そのようにして、神様を中心とした直系の血統の家系をつくることが創造目的でした。ところが、血筋が違ってしまったのです。それゆえ、この地上に生きている人がどんなに篤く信じたとしても、養子にしかなれないのです。養子は血統が違うのです。(29)

 キリスト教徒が聞けばあきれ返るでしょうが、イエス様は結婚しなければならなかったのです。妻を迎えないなら、何をするために男性として生まれたのでしょうか。(それなら)中性的な、男性でも女性でもない姿で生まれたでしょう。男性でも女性でもなく、中性として生まれ、場に応じて女性としてはぶりをきかせたり、男性としてはぶりをきかせたりするはずです。

 今日、荒唐無稽なことを誓う人がたくさんいます。「主は雲に乗ってくるのでしょうか。雲に乗ってきてどうするのでしょうか」、このように問うと、彼らは「どうするって、何をどうするんです。主がすべてなさることに私は従っていくだけですから、それでいいでしょう」と言うのです。盗賊と同じです。自分の父親、母親に苦労させておいて、全部自分だけがいいと言うのです。考えてごらんなさい。堕落が地上でなされたので、復帰も地上でなされなければなりません。地上で失ったので、地上で捜し出すべきなのに、空中で失われたとでも言うのですか。荒唐無稽な話だというのです。(30)

 新郎となる主は新婦を迎えなければなりません。では、新婦を立てて何をするのでしょうか。家庭を築かなければなりません。先生がこのような話をすると、人々は統一教会を異端として追及します。しかし誰が異端であり、誰が正統なのか、誰が滅び、誰が栄えるのかは見てみなければ分かりません。(31)

 イエス様は男ですか、女ですか。イエス様がこの地上に来た目的も同じです。宇宙の公約である大宇宙の愛を完結させるためです。完結させようとすれば男が一人ではできないので、新婦を探さなければなりません。聖書の黙示録に「小羊の宴」と書かれているでしょう。(これは)結局、イエス様が新婦を迎えて愛し合うということです。神様が保障する愛、エデンの園でエバは、神様が保障する愛をもつことのできる主体になれませんでした。夫とすべきアダムを残したまま、サタンの罠に落ちたのです。このように女の心は(左右に揺れ動く)葦に似て信じられないのです。

 そうして、「(文先生は)イエス様が結婚しなければならないと言っている。文先生は異端だ」と(キリスト教徒たちは)言っているのです。イエス様が男性であるなら男性としての感情があるでしょうか、ないでしょうか。生理的イエスを否定して、迷信的な神様と同じ荒唐無稽なイエス、それは実質的なイエスではありません。キリスト教は荒唐無稽な宗教なので後退しますが、統一教会は実質的な宗教なので発展するのです。愛の核心はどこで探すのかというと……。完成した男性は、行く道で女性と出会わなければならない必然的な運命にあるのです。つまり、男が生まれたのは、女と出会うためです。だから男女は出会うようになっているのです。男女がいつも出会うとき、神様は雷のように臨まれるのです。神様が臨在することによって初めて、宇宙の愛の核心が成立するのです。この世で最も強い影響圏を及ぼす力は、愛の力なのです。(32)


  3、本来のイエス様

 堕落とは故障したのと同じです。故障したら修理工場が必要であり、技術者が必要です。個人的に故障し、家庭的にも故障し、国家的にも故障し、世界的にも故障したというのです。

 それでは、本来、神様が完全であるように、完全な愛と完全な生命と完全な理想が一致した、故障していない人とはどのような人なのかを話してみましょう。その人は生まれたときから老いて死ぬときまで、神様の愛を受けながら、息子の道を行く人です。皆さんは神様の愛を受けていますか。受けてはいません。神様の愛を受けて生まれた息子・娘は大きくなって、神様の愛の中で結婚式を挙げなければなりません。その次に、罪のない息子・娘を生まなければなりません。皆さんは罪のない息子・娘を生んでみましたか。本来は罪のない子供を生んで、罪のない父親になるとともに、次には、罪のないおじいさんにならなければならないのです。

 次に、神様もこの地上に完全な王が必要であり、女王が必要ではないでしょうか。いつ神様はそのような一時をもってみたでしょうか。神様もサタンを追放して、そのような時を迎えなければなりません。個人的に、家庭的に、国家的に、民族的に、完全にひとまとめにして、神様が個人的に愛し、家庭的に愛し、国家的に愛し、世界的に愛することのできる、そのような国、国民、そのような息子・娘、そのような家庭をもちたいのは、当然の道理だと言えます。それらを私たちは成就できませんでした。

 私たちは堕落した祖先をもち、堕落した祖父、祖母、堕落した父、母、堕落した民族、堕落した国家、堕落した世界をもった一方で、堕落していない世界とは何の関係もない者となってしまいました。これらを一度に、個人的に修理し、家庭的に修理し、氏族的に修理し、民族的に修理し、国家的に修理するために立てた国がまさしくイスラエル選民なのです。

 イエス様の来た目的はそこにありました。イエス様は堕落していない完全な人間として来て、完全な家庭をつくり、完全な祖父となり、完全な王とならなければなりませんでした。神様はご自身の対象として、男と女の二人を創造しました。(ところが)この二人が堕落したので、二人とも再び修理工場へ預けなければなりません。 完全なアダム完成者として来られたイエス様には新婦が必要です。神様が祝福できる新婦が必要です。もし、イエス様が新婦を迎えて結婚していたなら、イエス様の息子・娘は生まれているでしょうか、いないでしょうか。

 イエス様の子供たちがいたなら、今日、ローマ・カトリックやプロテスタントなど数多くの教派が生じることはなかったでしょう。イエス様は王になりましたか。イエス様はこのようなみ旨を果たすことができなかったので、再び来なければならないのです。第一イスラエルであるユダヤ民族は、これを成就できずに滅び、キリスト教が第二イスラエルの使命を代身したのです。(33)

 (神様は)イスラエルの国を中心として、二千年間、預言者を通し、メシヤを送ると約束された上でイエス様を送られました。ところが、イスラエル国家と教会が一つとなり、イエス様と完全に一体とならなければならなかったのに、彼らが一体となれなかったことにより、イエス様は十字架で死ぬことになったのです。

 もし一体となっていたならば、イエス様はユダヤ教の大祭司長となったでしょう。その次には、ユダヤの国の王となったでしょう。

 ここにも問題があります。(イエス様は)祭司長となるときも独身であり、王となるときも独身でなければならないのでしょうか。そんなはずはありません。もし独身でなかったなら、どうなっていたでしょうか。イエス様を中心としてイエス様の家庭が生まれたことでしょう。そうなれば、アダムとエバが堕落せずに、真の父母の位置を確立すべきだった使命を、イエス様が代わりに成就していたのです。ここに、キリスト教を信じる牧師が来たなら驚くことでしょう。ここに立っている人(私)も長老教を信じ、イエスを信じた者です。ところが聖書の内容を解いてみると、以上のことが分かったのです。このような話をするので多くの反対も受けました。けれども事実なので否定することができないのです。(34)

 イエス様は個性を完成した位置にいたにもかかわらず、一人の主体的男性として、新婦となる一人の女性を迎えて、家庭的な次元の神様の愛の伝統を残しておくことができなかった、不運な方でした。そのため、今までこの地上に神様の真の愛を中心としてつくられた家庭が一つも現れることができなかったのです。メシヤの権威の上に築かれた真の夫婦の愛、神様が公認できる真の父母の愛と真の父子の愛の伝統が、成立しなかったのです。もしこのような家庭ができていたならば、自動的に歴史の過程を通し、この家庭を求心点として、横的に、また、縦的に発展し、神様の愛を中心とした一つの世界の成立が可能だったのです。

 しかし、私たちが知っているように、イエス様自身が神様の真の愛を中心とした家庭の伝統を立てられなかったために、神様が喜び、全人類と万物が喜ぶことのできる中心的基盤を築くことができなかったのです。神様の愛を基礎とした一つの家庭が築けなかったために、神様の愛を基本とした真の氏族の基盤が築けなかったのであり、真の民族的基盤、国家的基盤が築けなかったのであり、真の一つの世界が築けなかったのです。(35)

 二千年前、イエス・キリストは、メシヤ思想をもってこの地上に来ましたが、不幸にもその方は、その使命を果たせませんでした。もちろんその方がこの地上に来て、真の神様の愛を中心とする愛の運動を展開した、最初の神様の真の息子にはなったとしても、メシヤの愛を中心とする個人的人格を完成した基台の上に、真の愛を中心とする家庭を築き、そしてそのような家庭を基として、神様の真の民族と国家、世界を築いたかというと、私たちはこの事実を否認せざるを得ません。今日、キリスト教を信じる人々は、この言葉に反発するかもしれませんが、このことは誰も否認できない歴史的事実なのです。(36)

 旧約時代、新約時代の使命は何かというと、地上にメシヤの相対者を求めることです。メシヤのためにエバをつくるのです。

 絶対に服従するエバ圏を拡大し、すべてが歓迎する中で、愛の主体であるメシヤを迎えるようにすれば、自動的に全体が連結されるようになります。そのような環境、世界的環境をつくらなければならないのが、旧約時代の使命であり、新約時代の使命でした。(37)

 本来、イエス様はサタンの讒訴を受けなくてもいい立場で生まれたため、死んではなりませんでした。ところが、どうして十字架で死ぬようになったのかというのです。私たち人間の罪を背負って、罪人を救うために死なれたなどと言いますが、そんなばかげた話はやめなさいというのです。神様の息子が、死ななければ救えないのかというのです。(38)

 イエス様は地上に来られて、なぜ失敗したのでしょうか。イエス様が来られて三十余年、自らが語るべきみ言を、すべて語ることができなかったために失敗したのではありません。また、公生涯路程で、弟子たちや、あるいは親族と行うべきすべてのことができなかったために失敗したのでもありません。失敗の原因は、イエス様が祝福の場に出ることができなかったことなのです。また十字架を背負った直接的な原因もイスラエル民族が背信し、ユダヤ教徒が反対したためというよりも、ヨセフの家庭において、イエス様の祝福の一日を迎えられなかったところにあります。そのような一日を迎えていたなら、イエス様は十字架で亡くなりはしなかったのです。すると、すべてが帰一する十字架の原因と動機は何でしょうか。祝福を成就できなかったからです。それでイエス様は十字架で亡くなられたのです。(39)

 イエス様が家庭と完全に一つとなっていたならば、イエス様は個人の基準を超え、家庭基準の編成が可能です。父母や兄弟姉妹、さらに親族たちの祝福の中で結婚し、新しい善の子女が地上に生まれなければなりません。アダムとエバが堕落せずに完成していたならば、神様を中心として一体となった、理想的家庭が出発していたのです。

 イエス様は、アダム家庭を蕩減すべき使命をもってこられたので、イエス様の結婚もそれと同じ意味があるのです。しかし、イエス様は、ヨセフ家庭が責任を果たさなかったためにそのような基台を築けず、サタンの侵犯を受け、十字架につけられて亡くなったのです。新しい善の血統を受け継ぐ家庭は出発できなかったのです。それゆえ神様は、イスラエル民族の失敗を蕩減させるために、今までキリスト教を立てながら霊的に世界的基台にまで引き上げる役事をしてこられたのです。(40)

 イエス様が死なずに理想的相対者と出会い、神様と一つとなったその愛の中で夫婦となり直系の子女を生んでいたならば、今日の世界はどのようになったでしょうか。イエス様の直系の子女が生まれたからといって、神様が憤り、「罪を犯した」と言われるでしょうか。イエス様の後孫が誕生していたならば、今ごろは世界人口のかなりの部分がイエス様の後孫たちで占められたでしょう。あるいは、イエス様の後孫たちによって今日の世界はすでに天国となったかもしれません。

 神様は、一人の堕落人間を救うことも重要だと考えられるでしょうが、イエス様の直系の子女をもつこととは比べものになりません。堕落以後、神様は本当の神様の息子・娘、神様の孫・孫娘を相手にすることができたのかを考えてみなければならないでしょう。(41)

 イエス様は基盤を失った環境に立たれたために、洗礼ヨハネのもとを去り、サタン世界に行って戦い、家庭基盤と氏族基盤を再びつくらなければなりませんでした。その後も、ユダヤ民族がイエス様を不信したので、イエス様は神様を中心とした家庭を築くことができず、とうとう、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」というみ言を残して、ゴルゴタ山上の死の場へ出ていくようになったのです。(42)


  4、イエス様の恨み

 イエス様は人類の真の祖先の立場で、祝福を受けることができずに逝かれたのです。このことを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。(43)

 二千年前、神様のひとり子としてこの地に来られたイエス様に恨みがあるとすれば、それは何でしょうか。結婚できなかったことです。「チャンガ:男が結婚すること」という韓国語は深い意味をもっています。「チャンガ」という単語の前後を入れ代えると「カヂャン:家長」になり、元に戻すと「チャンガ」です。男が結婚すれば家長となるのですから、つじつまが合う話です。結婚して家長となるには、妻が必要であり、また子女を生み、家庭を築かなければなりません。

 イエス様が妻を迎えることができなかったために、人類歴史は悲劇を迎えることになりました。特に、ザカリヤ家庭はもちろんのこと、ユダヤ教団やイスラエル民族が滅亡の道を歩むようになったのです。(44)

 イエス様が十字架で亡くなることによって、聖霊もまた失われてしまいました。イエス様のそのような死の裏づけとなるものは何でしょうか。イエス様は「私が願った相対的存在、すなわち私が探し求めた真の母の姿はこうでなければならない」と、心中に新婦の姿を描きながら死の峠を越えていきました。心中いっぱいに染みわたる一つの願い、すなわち聖霊を思い描きながら亡くなったのです。

 イエス様は、この地上に恨みを残して亡くなったので、その恨みを晴らすには、聖霊がこの地に来なければなりません。こんな話は聖書にもないでしょう。皆さんは、恨みを晴らすという言葉を聞いたことがあるでしょう。イエス様が晴らせなかった恨みは、この地上で晴らすべきなのです。イエス様は父母の因縁をもって万民を愛し、万民を通してイスラエルを救いたい心をもち、そのような理念をもって、恨みを胸に抱いたまま亡くなりました。そんなイエス様の恨みを晴らすために霊的役事をしてきたのが、今までのキリスト教発展史です。(45)

 イエス様は結婚しなければならないのか、結婚してはならないのかということが問題です。神様の創造原則と人間の本然の価値から見ると、イエス様は結婚しなければなりません。結婚して何をしなければならないのでしょうか。完全な新婦と出会い、完全に一つとなって、神様の創造能力を実現できる人間として、神様が人間を創造したのと同様に、息子・娘を生まなければなりません。しかし、イエス様はそれができませんでした。これが人間としての重要な責任だったにもかかわらず、できなかったので、イエス様の終生の願いは、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」というものだったのです。新郎として新婦を探し求め、創造の遺業を継承して、神様の代わりに地上で全権を行使できるそのような国や世界を願いながら、今まで摂理してきたのです。(46)

 神様はイエスを男性として送ったため、イエス様も神様の祝福による結婚を願ったのです。また、理想的な家庭をつくって、「あなた(夫)」や「お父さん」という声を聞くことを願ったのです。このような因縁を結べずに亡くなったため、今日のキリスト教が現れるようになったという事実を、皆さんを通して知らせることによって、イエス様と神様の恨みが解けるという事実を知らなければなりません。

 つまり、ユダヤ民族の四千年歴史は、メシヤを迎える新婦のための基盤を備えておく歴史なのです。イエス様が亡くなるとき、新郎新婦の因縁をもってくると言ったために、キリスト教は二千年の間新婦の装いを整えてきたのです。(47)

 今日、キリスト教でいうひとり子とは一体どんな意味をもっているのでしょうか。また、ひとり娘とはどこにいるのでしょうか。イエス様がひとり娘を探し出していたなら、今日の摂理歴史は新しい転換点を迎えたでしょうが、ひとり娘を探し出せなかったことが歴史的な悲劇となったのです。

 再創造の歴史の中で、ひとり娘はどのようにして探し出すべきでしょうか。ひとり娘はアダムによって再創造されなければなりません。神様はアダムのあばら骨を取って配偶者をつくったという事実に留意すべきです。それは、実際にアダムのあばら骨を取ったのではなく、アダムに似せた相対者としてつくったという意味なのです。だからみ旨にかなうように育てなければならないのです。そのために、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭、洗礼ヨハネ家庭とヨセフ家庭が必要だったのです。(48)

 イエス様は、新郎新婦の理念を成就して、神様の懐に抱かれなければなりませんでした。そうしてこそ、アダムとエバが人類の祖先として堕落したのを、完全に復帰することができるのです。なぜなら、二人で堕落したために、復帰も二人でしなければならないからです。それで、統一教会には、祝福があるのです。

 イエス様は死なずに新郎新婦の契りを結び、十二弟子と七十人門徒、百二十人門徒を地上で、神様の名によって祝福しなければならないのです。死んで霊的に祝福するのでは、だめなのです。ところが、イエス様はこれを成し遂げられずに反対され、追われる中で亡くなったので、恨みが残っているのです。(49)

 イエス様はご自身も家庭を築いて、善なる息子・娘を生んで父母とならなければなりませんでした。善なる息子・娘を生んで父母となっていたならば、イエス様の後孫が残ったはずです。イエス様の後孫が残っていたならば、今日、キリスト教は数多くの教派に分かれることなく、統一された教団となったはずです。(50)

 イエス様は霊界で、二千年間何をしてきたのでしょうか。イエス様を信じて霊界に行った人々は、いまだに結婚できない父親と同じ立場、イエス様の体中にある種と同じで、天国に行くことができずに楽園にとどまり、イエス様の新婦を待っているのです。天法がそうなっているからです。

 それではどうしなければならないのでしょうか。新婦が現れなければなりません。新婦の契りを通して、言い換えれば、新婦と契りを結ぶことができなければ、天のみ国を相手に、自分の国だとは言えず、天国を相手にして自分の生活的理想世界だと言うこともできないのです。イエス様は結婚しさえすれば、子供を生むことのできる完成した男性の位置にいたのです。(51)

 祝福は、神様、イエス、聖霊の願いです。これを解決してこそ、新しい歴史が出発します。だから祝福は、この全体の願いを果たしてあげるのです。イエス様はこれを果たせなかったために、再臨してこれを成就しなければならないのです。(52)

 再び来られる主は、完成したアダムの立場に立たれます。そのアダムは、地上に生まれ、エバを通して再び祝福を受ける路程を歩まなければなりません。それ以前には、完成したアダムの位置を求めることはできません。天においてではなく、地上において責任を果たさなければなりません。(53)


  5、イエス様の祝福とキリスト教思想

 創造原理を見ると、アダムをまずつくられ、アダムを中心としてエバをつくられました。したがって、マリヤは息子を協助して、息子の新婦を探し出さなければなりませんでした。マリヤはそうしなければなりませんでした。イエスはもちろん、マリヤも協助して新婦を探さなければならないのです。

 この点から見ると、マリヤは責任を果たせなかったことが分かります。ある日、マリヤがガリラヤのカナの宴会場で、イエス様にぶどう酒がすっかりなくなったと言うと、イエス様は「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言いました。その意味は、他人が妻を迎えるのにどんな関係があるのかというのです。つまり、イエス様が妻を迎えるべき時は来ていたのに、なぜ、マリヤは気づかずにいるのかというのです。結局マリヤは、責任を果たせなかったのです。

 イエス様が妻を迎えていたならば、イエス様の息子・娘は、神様の孫、あるいは孫娘となります。(イエス様の息子・娘は)神様の血族となるのです。「イエスは聖なる神様だ」と言う人がいますが、それこそ気が狂った者たちです。彼らこそ邪教中の邪教です。(彼らは、)イエス様が私たちと同じ世人として来て、妻をめとるとは何事か、「ああ、聖なる神様が妻を迎えるなんて」と言って失望しているのです。なぜでしょうか。妻を迎えれば、聖なるものではなくなるのでしょうか。男性でも女性でも一番聖なることは、めとり、嫁ぐことです。

 もし、イエス様が妻を迎え、息子・娘をつくっていたとしたら、教皇には誰がなるのでしょうか。ペテロのような人がならなければならないのでしょうか。(笑い)いいえ、イエス様の直系の息子・娘たちがローマの教皇にならなければならないのです。そうすれば、自然と世界の王になったでしょう。

 このように、地上に基盤を築こうとしたイエス様が死んだので、イスラエルを失ったキリスト教は、霊的イスラエルだけを築くようになりました。したがって神様には、基盤を整えることのできる国土がありません。教会はイエス様が所有できる王国でしょうか。だから、追われていったのです。

 統一教会がこのような秘密を握って現れてきたので、キリスト教徒たちは恐れて、今、私たちに反対するのです。反対するならしてみなさいというのです。私たちはじっとしていてもいいのです。まさに、共産党が組織をつくってブルジョアを打倒しようと出てくるのと同様です。見ていなさい。誰が押し出されるのでしょうか。彼らが押し出されるでしょうか、統一教会の文先生が押し出されるでしょうか。彼らの方が押し出されるのです。人の数が問題ではありません。たった一人の人間が問題だというのです。(54)

 イエス様はなぜ死ぬようになったのでしょうか。イエス様が妻を迎えたならば死んだでしょうか、死ななかったでしょうか。既成教会の婦人が来て、この話を聞いたらあきれ返るでしょう。「イエス様が妻をめとるなんて……」と言うでしょう。皆さん、イエスは男でしょうか、女でしょうか。「男です」。男として生まれたら、男の特性があるでしょうか、ないでしょうか。「あります」。それなら、よい女性がいれば自分の新婦に迎えたいという気持ちがあったでしょうか、なかったでしょうか。それは聞くまでもないことです。きょう時間があれば、皆さんが疑問に思っていることすべてに答えてあげたいのですが、時間がありません。この次に時間があるとき、もう一度会いましょう。このような内容は原理を通してよく分かるはずです。

 男性として生まれた以上、女性がいるだろうということは知って生まれたのです。それならば男性として生まれたイエス様は妻を迎えなければならないでしょうか、迎えなくてもいいでしょうか。「迎えなければなりません」。もし、神様の息子として来たイエスが妻を迎え、息子・娘を生んでいたなら、彼らは何になるでしょうか。神様の孫・孫娘になるのです。神様は孫・孫娘を見て嫌がられるでしょうか、好まれるでしょうか。聞いてみるまでもなく、好まれるのです。

 それでは、イエスが亡くなった原因はどこにあるのでしょうか。母マリヤがイエスのために妻を迎えてあげられなかったからです。それで恨みが残ったのです。それゆえ、イエスがガリラヤ人の婚姻の宴会場で、ぶどう酒が足りないと言ったマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と批判したのです。愚かなことです。息子の行くべき道を整えずに、何が酒ですか。イエスの事情は追いつめられていたのです。

 ところが、キリスト教徒たちは、そのような内容を何も知らずに、ただ大まかに信じているのです。何、天国に行って新婦となる。そうなるには新郎の事情がどうであり、新郎の役事がどうであり、新郎がどのような悲しみを感じ、どのような苦痛を感じたかということを、すべて知って侍らなければならないのではないでしょうか。何にも知らずに、ただ、「イエスが苦労されたのだ……」と言うのを見ますが、それでは格好が悪いというのです。私たち統一教会員は、そのような既成キリスト教徒とは違うのです。(55)

 イエス様が、母マリヤの前に立って、三度痛哭しながら訴えたということを知らなければなりません。イエス様が三十歳になるまで、母マリヤは哀訴を聞き入れなかったので、(イエス様は)ふろしきを背負って家を出て、公生涯の路程を出発したのです。

 それでは、母マリヤがすべきことは何でしょうか。イエス様に妻を迎えることのできる相対的因縁を整え、歴史的基盤を備えなければならないのです。イエス様がそのような基盤を完結するためには、母子協助をして、息子が恨みの多い道を行くに当たって、母親がすべての責任を負うべきなのです。そして、イエス様の新婦を選び出してヨセフ家庭の基盤の上に、神様を中心とする聖婚式を挙げるべきでした。ところが、それが夢と消えてしまったのです。マリヤ自身は、生活問題、自身の相対問題に縛られ、暮らしていくのにきゅうきゅうとしていたのです。(56)

 これまでの、母子協助は、息子を探し求めるためでした。マリヤはどんな存在だと言いましたか。「僕です」。(マリヤは)息子を生みましたが、僕の体で生んだのです。ですから、イエス様には、新婦がいなければなりません。創造の原則に従って女性を創造しなければなりません。イエス様はアダムの立場で、失われたエバを探し出さなければなりません。そうしてこそ、結婚できるのです。

 ところが、イエス様はエバを探し出しましたか。探し出せませんでした。ですから、イエス様は再び来なければなりません。再び来て妻を迎えるのです。妻を迎えられずに死んだので、結婚するために再び来るのです。イエス様が妻を迎えるという思想はキリスト教の思想です。(笑い)

 ゆえに、再臨の主が来られるときには何の宴会が催されると言いましたか。「婚姻の宴会です」。婚姻の宴会とは何ですか。婚姻の宴会とは嫁ぎ、めとるという意味です。婚姻の宴会とは結婚の宴会です。そうですね。「はい」。こんな話をすると異端だと大騒ぎをします。(キリスト教徒は)無性にねたましくなるのです。

 婚姻の宴会、すなわち小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというとエバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は三人目のアダムです。イエス様は二人目のアダムであり、その後来られる主は三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダムが堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです。

 人類の父母となるはずだったアダムとエバが堕落することによって悪の父母となりました。したがって、私たちが堕落する前の善なる父母をもつようになれば復帰は完成します。それゆえ、人類には、善なる父母がいなければなりません。小羊の宴会をするのは、善なる父母として即位するためです。キリスト教思想は簡単です。これがキリスト教思想の骨子なのです。(57)

 イエス様を見ると、イエス様は家庭を愛することができませんでした。そのようなイエス様がどれほどかわいそうか、考えてごらんなさい。キリスト教徒たちはイエス様を救世主だと信じて、あれやこれや言いますが、そのイエス様がどれほどみじめでかわいそうだったかを考えてみなさいというのです。イエス様は家庭を愛してみましたか、国を愛してみましたか、天宙を愛してみましたか、神様を愛してみましたか。できなかったというのです。どんなにか、愛そうと心を砕かれたにもかかわらず、できなかったのです。(58)













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