祝福家庭と理想天国
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第三節 真の父母と真の子女

  1、真の父母とはどんな方か

 元来アダムとエバが堕落しなかったなら、人類の父母になり、神様を中心とした世界を形成したでしょう。ところが彼らは堕落することによって、サタンが主管する偽りの父母になってしまいました。したがって、本来神様の創造理想によって立てようとした真の父母がいなくなりました。真の人類の祖先がいなくなったというのです。(103)

 新しい父母はどんな父母でしょうか。昔、エデンの園で堕落したアダムとエバは、堕落した父母となりましたが、今後人類を再び生み直さなければならないその父母は、堕落していない位置、神様のみ旨と一致した立場で神様の公認を受けることのできる本来の父母なのです。堕落せずにみ旨を完成させ、神様の愛を中心として神様の懐で理想的な家庭を築き、そして善の子女を生み殖やすことができる、そのような本来の基準に立てる父母なのです。その父母は堕落とは関係がありません。(104)

 真の父母の位置とはどのような位置でしょうか。アダムとエバが、神様を中心として完全に一つになって、サタンの讒訴圏を脱け出した位置です。サタンが讒訴できる内容を残さずに、完成基準を越えた位置に上がっていって初めて、真の父母の起源が生じるのです。これが原理的観点から見た真の父母の起源なのです。しかし、その観点に相当する位置は簡単につかめるものではありません。(105)

 聖書は何を教えているのでしょうか。神様の核心である愛の真理を教えています。真の父母の理想を探してそれと一つになり、全人類を真の愛によって救わなければならないという教えです。イエス様は二千年前真の愛を完成できずに亡くなられました。創世記に生命の木と善悪を知る木があったと記されていますが、これは真の父母を象徴したものです。荒野に火の柱、雲の柱があったのも、父母を象徴するものです。十戒が二枚の石板に刻まれたのも、父母を象徴しています。(106)

 イエス様はこの地に来られて、神様を「私の父」と言い、「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」と言いました。これは結局、全部一つになることを意味します。父と子は、血と肉が入り混じり一体となって動くことのできる、父子の関係をもたなければなりません。

 キリスト教の真理は簡単です。神様は父であり、イエス様は新郎です。だから新郎であるイエス様は、新婦を迎えなければなりません。そして、私たちは神様の息子・娘として互いに兄弟なのです。このような父と新郎、新婦、息子、娘が一体となり、サタン世界を清算してしまわなければならないのです。

 今までの歴史過程を見れば、イエス様は人類の祖先として来られました。アダムが堕落して失敗したために、イエス様が第二のアダムとして来られたのです。

 このようなイエス様は、この地上で神様を中心とした新郎の立場で新婦を迎え夫婦となり、人類の真の父母にならなければなりませんでした。(堕落ゆえに、イエス様を送り)反対に摂理したのです。(107)

 イエス様は神様が送ってくださった人類の第二の父母です。第二の父母が成し得なかったみ旨を完成しなければ勝利した第三の父母は生まれません。イエス様は、一番目の父母になるはずのアダムとエバが失敗した内容を、元どおりに復帰しなければ、第二の父母として勝利の基台に立つことはできません。イエス様は第一の父母の基準を復帰できず十字架の死の道を行かれたので、摂理は再臨時代まで延長されるようになったのです。

 再臨主は第一の父母になれなかったアダムとエバの失敗と、第二の父母の使命をもってこられたイエス様と聖霊が果たせなかったみ旨を蕩減復帰して、霊肉ともの実体的な勝利の基盤を立てなければ、地上に勝利した真の父母として現れることはできないのです。(108)

 真の父母は完成したアダムとして、アダムが失敗した第一の父母の基準を復帰しなければなりません。また、第二のアダムとして来られたイエス様が失敗した父母の基準を完成させなければなりません。

 再臨時代において、先生が苦労の伝統を立てざるを得なかったのは、イエス様が霊的基台だけを立て、霊肉ともの世界的な基台を立て得なかったからです。(109)

 イエス様は、人類の父母の位置に立つべき使命をもってこられましたが、そのみ旨を成就できずに亡くなられました。だから、再臨時代にはそれと同じ立場を蕩減復帰して勝利しなければ、それ以上の世界へ上がっていけないのです。そのことを今まで成してきたのが統一教会です。(110)

 歴史始まって以来、神様の名前をもち、人類の男性を代表して勝利した人がいませんでした。これまで、先生はそのような基準を立てるために闘ってきました。統一教会と先生は苦労をしなくてもよいのですが、このような原則を知っているので苦労をしないわけにはいかないのです。(111)

 アダムが堕落したために、その時の希望的なアダム家庭、氏族、民族、国家、世界、神様まで失ってしまいました。イエス様はこれを捜し出すために、四千年間準備してきた祭壇の上に来られたのですが、その祭壇と国と民族が反対したので、十字架を負って亡くなられました。そのためにイエス様が、再びその基準を立てようとして来る時が終わりの日なのです。その方は民族的、国家的、世界的な希望をもってこられます。だから、「新郎よ来てください」と言って、キリスト教徒たちは主の地上再臨を待ち焦がれています。創世以後の真の個人、男性のモデルのような存在が、まさに再び訪ねてこられる再臨主です。

 この方の使命は、個人的な基準を立てた後にエバを捜し出して家庭的な基盤を造成し、氏族と民族と国家を編成していかなければならないのです。(112)

 再臨主とは何でしょうか。第一のアダムが失敗したためにイエスは第二のアダムとなり、第三アダムとして来られる方が再臨主なのです。

 アダムは真の人類の祖先になるはずでしたが、堕落することによって偽りの祖先になってしまいました。このように偽りの祖先が現れたために(神様は)ユダヤ教をつくりました。このユダヤ教の上に真の祖先としてイエスが来ましたが、ユダヤ人が新婦としての因縁を結ぶことができなかったので、父母が現れることができませんでした。父母が現れなかったので祖先が現れることができないのです。それで、仕方なく、イエス様は霊的な父母としての役割を果たしたのです。

 男性は天の代身であり、女性は地の代身なので、霊的な立場で天を代表した男性の位置を探し出すためにイエス様は昇天し、女性神である聖霊は地を代表して地に来なければならないのです。

 聖霊は母性神です。この母性神が霊的に基盤を整え、実体の体をもってこられる主と実体的に出会う時がまさに小羊の婚宴の時なのです。

 それで六千年間善の父母が立てなかったのを、歴史的終末時代に、逆転させる立場で来られる方が真の父母なのです。(113)

 再臨される主は真の子女をもった真の父母になり、神様の愛を軸(センター)にして神様と縦的に一体とならなければなりません。神様の縦的な愛と横的な夫婦の愛が出合って接ぎ木される愛の爆発点をつくらなければなりません。

 夫婦の真の愛を中心として、神様の縦的な愛が夫婦の愛と垂直線の中央で接続されるその瞬間が、アダムとエバをつくって望みみた神様の希望の位置であり、真の父母が立たなければならない位置なのです。

 真の父母の位置はどんな位置でしょうか。真の息子と娘が罪意識をもたない善男善女として成長し、神様と同化できる位置と、東西に(横的に)一つになる位置です。それを立てなければなりません。(114)

 家庭の中でも最高に勝利した家庭を望み、最高に勝利した家庭の主人として来られる方が誰かといえば、キリスト教でいう再臨主です。結婚しようとすれば格好よくしなければならないのです。そのような観点から見ると、統一教会は発見をよくします。では、その方に名前を付けるならばどんな名前を付けるでしょうか。その方を呼ぶ上で、一番適切な名前は何でしょうか。その名前を統一教会の文先生は「真の父母」と付けました。どうですか。うまく付けましたか。この言葉は易くして簡単な言葉ですが、内容を知ってみれば偉大な言葉です。

 それでは、その方の生活の起点はどこでしょうか。家庭を中心とする場所ではありません。行動の起点は天地を中心とした所です。その方は天地でいかない所がありません。その方のすることは歴史的でないものはありません。彼のすべての行跡は、一から千万に至るまで、歴史の何よりも貴い価値のものとして永遠に残されるのです。その方が使った紙きれ一枚でも歴史的な遺産として残るようになるのです。このようにすべてが世界的であり、天宙的でないものはあり得ないのです。偉大な人は、種が違うために偉大な人になったのではありません。一代で世の中を救うために、自己の生命を捨てることがあっても、この道を行くと決心し実行していく人が偉大な人なのです。自分一代で行けなければ二代、三代、十代をかけてでも行くという人が偉大な人なのです。天運は人を通して動かざるをえないのです。ちょうど磁石の横に大きくて固い鉄の塊があれば、その磁石がじっとしていても自然に引かれていくのと同じ道理です。

 皆さんの先祖を見ると、一体善の先祖とはどんな人でしょうか。自分の子供たちだけを知り、自分の妻だけを知り、自分の夫だけを知り、自分の父母だけを知って、生きて死んだ先祖が善の先祖でしょうか。違います。善の先祖は自分の家庭を犠牲にしてもその隣近所のために、そしてその隣近所を中心にして面のために、そして、面を中心にして郡のために、郡を中心にして国のために犠牲になった人を言うのです。(115)

 真の父母というのは、今日私たちが考える父母とはその価値と意味を大きく異にしています。父母は堕落した世界に適用する価値にすぎないからです。日本の首長は天皇です。それと同じように、各国家ごとに国家元首がおり、国家を統治しています。今日、すべての国家の指導者たちは、世界を一つにするための政治をしているのではありません。世界を一つにしようとすれば、人類の真の父母を迎えなければなりません。一つの世界をつくることは、真の父母だけが成就できるのです。ゆえに、真の父母は人類歴史の希望の結実体であり、願いの結実体であり、すべてを蕩減した勝利の結実体です。ですから真の父母の価値は、世界の何ものにも代えられない、至高至大のものです。(116)

 真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが考えることさえできない、涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知り得ない所で、どれくらい多くの涙を流したか分かりません。その内容は神様だけが知っておられることでしょう。

 先生は過去を通して現在に至るまで血と涙を流してサタンと闘ってきました。その路程は涙なしには語れないいばらの道でした。神様が涙の道を歩んでこられたので、先生もその道をたどってきたのです。自身のために涙を流してたどってきたのではありません。

 皆さんは神様と真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずには、誰も復帰の道を行けないのです。それは、神様が今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられたからです。(117)


  2、真の父母は全体の希望

 私たちは、堕落した後孫として生まれたことを否定できません。ですから、自分の父母も善なる父母だと言うことはできません。これを拡大して考えてみれば、どの民族も善なる民族の基準を受け継ぐことはできませんでした。堕落の後孫である以上、神様によって出発したのではなく、サタンによって出発し、その圏内に私たちがいるという事実を認めなければなりません。このような環境を正してくださるように願うのが、堕落圏内、死亡圏内にいる人間たちの願いであるに違いありません。(118)

 真の父母とはどんな存在でしょうか。真の父母は、あらゆる全体の希望の象徴です。堕落した人類にあって、絶対的なる希望の象徴なのです。彼は歴史的な結実体であり、時代的中心であり、三十億人類が住んでいる今日、この世界国家圏の中心です。真の父母は、これからの理想世界に結ばれる、未来線上における出発点です。

 それでは、歴史時代の先祖たちは何を願うでしょうか。統一の世界が誰を探し出すことを願うでしょうか。真の父母を探し出すことを願うのです。言うならば、真の父母と永遠の出会いをしようとするのです。

 今日、万民が願うことは何でしょうか。世界、国家を迎える前に、真の父母を迎えようとするのです。また、未来の後孫たちは、誰から出発したいのでしょうか。皆さん方の新しい息子・娘は、皆さんの血統を通して生まれたいのではありません。真の父母の血統を通して生まれたいのです。ですから、真の父母は新しい未来の出発点になるのです。(119)

 神様は真の父母を絶対的に必要とされます。全能であられる神様も、真の父母なしには摂理を成就できないからです。霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない限り、天使長界の霊人たちは、地上でみ旨が成就できるように役事したかいがないからです。神様の前に立つためにも、真の父母が必要なのです。(120)

 今日、神様は何を願っておられるのかといえば、この終末時代にご自身の姿を現すことを願っていらっしゃるのです。ですから、完全に心情的であり、縦的に復帰された完成した男性、つまりメシヤとしてもう一度現れようとされるのです。完成したアダムに代わる、完成したエバに代わる中心人物が現れなければなりません。

 成約時代には、神様ご自身が真の父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは、まさにこのためです。生きている神様を、私たちが直接目で見、感覚をもって体恤できる圏内で、体験を重ねつつやっていくのが私たち統一教会の道なのです。(121)

 人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行っても出会わなければならない人が、真の父母なのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の後孫をすべて失うことがあろうと、真の父母に出会えば歴史を見いだし、時代を見いだし、未来を見いだすのです。このような方がまさに真の父母であることを、皆さんは知らなければなりません。(122)

 人間は、歴史時代に父母を失い孤児になってしまったので、一つとなる道がありませんでした。本然の父母の愛によってすべてが解決されなければならないのに、そうできませんでした。そのために、すべての人が必要とする方が真の父母なのです。(123)

 神様を中心として、父母の愛で一つになってこそ真の息子・娘が生まれるのです。祝福を受けた皆さんは、そのような位置に立ちました。父母と子女、万物が一つとなり、その中に皆さんが入ってセンターになるのです。(124)

 養子はどのようにすべきでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。野生のオリーブの木を断ち切って、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木となる運動をしなければならないのです。新生するためには、真の父母の血統を受け継がなければならないのです。ですから、人類が願うのは真の父母であり、イエスと聖霊が願うのは小羊の婚宴です。(125)

 真の父母は、歴史的結実の中心になる存在として、周囲全体が一つの家庭に帰結し、もつれたものすべてが、再び一つの起点に全部直結される中心なのです。

 ですから、真の父母を完全に愛せる者は、歴史を完全に愛すると言って立てる者であり、真の父母を完全に愛そうとする者は、世界を心から愛する者です。また、真の父母を完全に愛するすべを知っている者は、未来世界の後孫たちまでも愛する術を知る、そういう価値をもった人です。ですから、真の父母の愛を受けるために、自分の生命をすべて捧げ犠牲にしても、感謝の心を忘れてはなりません。そのような人は、真の父母の愛を相続する上で不足がないのです。皆さんは、このことをはっきりと知らなければなりません。(126)

 今日、皆さんは真の父母という言葉を語り、真の父母という名詞を知っています。この真の父母という言葉は、歴史上において誰も呼べず、誰も考えられなかったものです。ところが、今日私たちは呼ぶことができ、知ることができ、侍ることができる栄光ある位置に立ちました。このように、私たちは歴史上の誰よりも幸福な場所に立っており、誰よりも高貴な場所に立っていることを、皆さんは知らなければなりません。

 真の父母という名前とともに、歴史は今まで苦労の中を進んできたのであり、真の父母の勝利の基盤を整えるために歴史的な数多くの犠牲の代価を払ってきたということを思うと、真の父母という名詞こそ、今日私たち人類には、神様からの祝福のみ言の中でもとりわけ祝福のみ言だということを知らなければなりません。

 「真(の)父母」という名前の三文字を考えると、真の父母を通して歴史が治められ、真の父母を通して新しい世界に帰ることのできる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させられる内的因縁が決定され、真の父母によって外的世界を占領しているサタンを征服し、初めて神様を解怨してさしあげられる中心が決定されるのです。ですから、真の父母とともに生き、真の父母の命令を頂いて行動できるこの驚くべき恩恵を、皆さんがまず感謝しなければなりません。(127)

 今まで呼び慣れたお父さんやお母さんは全部偽りです。そうでしょう。その偽りの世界を(真の世界へと)復活させなければならないのですが、そのためにはどうすべきでしょうか。打ち壊すべきでしょうか。打ち壊すのではなく、押し出さなければなりません。皆さんはそういう信念をもたなければなりません。(128)


  3、真の父母は歴史的希望の中心点

 真の父母は、人類歴史において最高の希望の存在です。どんな民族も求めざるを得ない歴史的希望の中心点です。

 今まで歴史が歩んできたのは、どこへ向かってのものだったでしょうか。ある一つの国や世界に向かってきたのではありません。歴史が願ってきた標的は、ある特定の国でもなく、今日の世界でもありません。歴史の流れを外的に見ると、ある一つの国や世界に向かっていくように見えますが、それは決して外的世界に目的を置いているのではありません。

 神様の摂理は、世界を救うことが目的です。世界を救おうとするなら、善なる父母がこの地上に完全な基台をつくり、善なる後孫たちが生まれなければなりません。そうでなければ、世界を救う道は生じません。したがって、歴史の全体的な希望は結局、ある国が世界を捜し立てることではありません。歴史が追求してきたのは、何よりもまずこの地上に真の父母を探し立てることなのです。

 ここでは、既存の国家観や世界観などは許容されません。国家観も世界観も、真の父母の伝統を受け継いでから生ずるべきものです。真の父母の家庭が現れて初めて、神様を中心とした氏族を編成し、民族を編成することができ、世界を神様の側に復帰させられるからです。真の父母なしには、何も復帰できません。真の父母を迎えなければ、何も成就できないということをはっきりと知らなければなりません。(129)

 今日、歴史は何を探し求めてきたのでしょうか。時代は何を探し求めてきたのでしょうか。未来は何を探さなければならないのでしょうか。真の父母です。ですから、全体がここに帰結しなければ、幸福の基準を、歴史過程や宇宙の中に見いだすことはできません。(130)

 真の父母は歴史を超越しています。それは何かといえば、今まで歴史は真の父母を願い求めてきたということです。分かりますか。今まで歴史は、来るべき日を待ち望んできたのです。それは、希望が未来にあるという意味です。しかし、統一教会の希望は未来にあるのではなく、過去にあるのです。

 ここでの過去とは、世の中にない、歴史的過去を超越したものであり、現実を代表したものです。過去の結実であり、現在の中心であり、未来の出発起点です。全体を統合した中心なのです。そのために、歴史を超越しているのです。

 現在の人も、これから千年後に来る人も、またその千年後に来る人も、千年前のその望みを仰ぎ見て行くのです。ですから歴史を超越するのです。空間と時間を超越した立場から、その実体に生活圏内で侍ることのできる理念が、世界を統一できる理念なのです。(131)

 皆さんは「私たちは六千年歴史の結実です。私たちは全人類の中心です。これから私たちが起源となるべきだ」と言えば、大変深刻になるのです。これを知らなければなりません。今まで目的といえば未来を中心としました。目的を明日へ明日へと引き延ばしてきました。しかしその目的を未来から探す限り、統一世界は出てこないのです。今まで堕落したこの世界は、未来、未来、未来を叫んできました。共産党は世界が闘争によって発展するといいますが、目的の世界は、ある一時期に歴史的中心に立たなければなりません。これが立たなければ、一つの世界は成就されないのです。(132)

 私たちは、目的を千年後の未来から探すのではありません。私たちが探す目的は、未来の後孫たちも過去から探すのです。それは何でしょうか。真の父母です。これは過去のものであり、現在のものであり、未来のものです。これは永遠なるものです。分かりますか。

 これから皆さんは、この理念を中心として来るべき世界を歓迎するだけではいけません。真の父母を慕いつつ、侍っていかなければなりません。したがって、今日この時代圏内にいる皆さんは現在に生きていますが、過去の結実であり、未来の起源にならなければなりません。この三時代が一つになるべきだというのです。後ろには過去、前には未来を統合させられる現在の自分にならなければなりません。

 何をもって統合するのでしょうか。真の父母の愛で統合しなければなりません。誰に統合させるのでしょうか。息子・娘に統合させなければなりません。その息子・娘とは誰でしょうか。真の父母の愛を中心とした息子・娘です。言い換えれば、堕落しないアダムとエバが生んだ息子・娘と同じです。ここから天国の息子・娘になれるのです。ですから、今日三時代の愛の因縁をもって生まれた位置が、真の父母の息子・娘となる位置です。たとえ人間が堕落したとしても、歴史過程をさかのぼり、その位置を取り戻さなければなりません。(133)

 皆さんが祈祷するとき、「六千年の歴史の結実である私たち」と言いますが、皆さんはどうして六千年の結実なのですか。父母の前に、子女であるにすぎないでしょう。真の父母の因縁と通じる子女の位置にいるから、歴史的実りであり、歴史的結実であり、未来の出発の起源だというのです。

 ですから、皆さんの希望は未来にあるのではなく真の父母にあるのです。皆さんが真の父母と完全に一つとなる日には、世界も一つになるのです。それは時間の問題です。(134)

 皆さんの中心は誰ですか。イエスを中心とした真の父母です。歴史的なすべての民は、真の父母を中心として一つにならなければなりません。ここから未来の伝統の起源が立つのです。統一できる伝統の起源が、ここから始まるのです。三数の中心はここからです。(135)

 統一教会は、歴史が探し求めてきた中心である真の父母に侍ることのできる所です。時代が要求する中心である真の父母に侍ることのできる所です。未来の起源になりえる真の父母の因縁を、「私」が相続できるのです。したがって「私」は歴史的な結実です。「私」は時代的中心です。未来の起源になるのであり、先祖になるのです。真の父母の心情と一致する因縁を結んでこそ、そのようになるということを知らなければなりません。(136)

 皆さんが、真の父母と完全に一つになるとき、国家もあり、氏族もあり、民族もあり、家庭もあるのです。天地のすべての栄光の価値を総合した実体基準が真の父母です。真の父母を世の中のお金と取り換えますか。自分の命を与えて取り換えられますか。ですから、昔と違うのです。皆さんはどこに行っても、真の父母に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子・娘も、千代万代の後孫たちもそうしなければなりません。だから統一教会は違うのです。

 天地に運動する数多くの存在物の価値基準を決定できる核心、中心が真の父母です。すべての存在の願いの価値を決定できる要因が真の父母なのです。ですから神様がいつも共にいらっしゃるのです。神様がそういうお方であられるからです。歴史的結実を追求する原理の原因となり、時代の中心であり、未来の主人となるのが神様なのです。ですから、真の父母は神様が臨在することのできる中心本部なのです。(137)


  4、人類歴史とは真の父母を迎えるためのもの

 今までの歴史的な願いとは何かといえば、真の父母に侍ることです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためでした。メシヤとはどんなお方かというと、真の父母です。また、キリスト教とキリスト教文化世界をつくったのは、再臨主を迎えるためであり、再臨主は第三アダムとして来られる真の父母です。(138)

 歴史を区分してみると、旧約時代は万物を分別させる時であり、新約時代は人を分別させる時であり、成約時代は勝利したアダムとエバを中心として、アダムとエバが失った愛の家庭を分別させる時です。この時代は、完成時代です。言うならば、人類の父母を失ったので、人類の父母を中心にして分別させなければならないのです。この父母がこの地に来て、分別の過程を経るには、受難の道を行かざるを得ません。これは原理的見解です。(139)

 真の父母が来られる時になり、世界のすべての国は兄弟の因縁を結ばなければならないので、第二次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家を解放してあげたのです。兄の立場で、弟を打ったので、弟に神様の祝福を祈ってあげなければ、来るべき父母に罰を受けるから、そういうことが起こったのだと見ます。(140)

 すべての歴史は真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を探してきたし、世界も真の父母を探してきたし、国家も真の父母を探してきました。真の父母を探し出す道を模索してきたのです。(141)

 キリスト教では、終わりの日を預言しています。終わりの日は神様の息子・娘の願いがかなう日です。

 キリスト教は、新郎新婦という理念をもっており、終末時代を一つの終着点にしています。新郎新婦という位置は、父母の立場に立てる位置です。メシヤ的な息子の使命を果たし、父母の使命を果たせる位置に上がるのです。終わりの日は、息子・娘の時が終わり、父母の時へと前進する時です。

 息子・娘の願いは、失った父母、出会えなかった父母と再び出会い、受けられなかった父母の愛をもう一度受けることです。今がその時なのです。それが、子女たちが願っている最高の時なのです。キリスト教で信じられているように、終末は、神様の命令ですべての世界が燃え、審判される時ではなく、子女たちが願う父母が現れて、神様の心情を中心とした天の家庭と天の人倫道徳を中心とした社会と国家と世界が形成される時であり、そういうことを父母から新しく教育される時なのです。この教育を通じ、父母の愛と一つとなり、父母と一つになった基盤をさらに横的に発展させ、新世界に交代させる一つの宇宙的転換の時期です。これが、終末に対する摂理的観点です。(142)

 今まで歴史時代に数多くの宗教が出現し、真理の光を照らしてきましたが、それは、真の父母を迎える基台をつくるためでした。真の父母は、完成したアダムとエバですから、真の父母以前に生まれた人々は、すべて天使長世界に属すのです。ですから、統一教会よりも先に現れたすべての宗教は、天使長的宗教です。こうした原理的事実に照らして見ると、統一教会の真の価値はどういうものかが分かるのです。(143)

 すべてのものは、どこに帰結するでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。ですから、真の父母が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点の時であり、後にも先にもない時なのです。永遠の世界から見れば、人間の一生というものは、一呼吸する瞬間と同じです。

 皆さんは、運がよくてそうなのか、神様からの祝福があってそうなのか分かりませんが、こうした時代に生まれ、統一教会に入ってくることは意味のあることです。皆さんがこの場所に帰ってくるまでには、数多くの先祖たちの精誠があったことを知らなければなりません。先祖が精誠を尽くしに尽くし、千人、万人の因縁を経て、回り回って、日が昇れば高い山がまず照らされるように、天と因縁があって集まってきた人々です。

 人類歴史において、愛という因縁がまさに初めて現れたのです。また、生命の価値を賦与できるものは、ここから始まるのです。国と世界の主権をより価値ある内容に肯定させることのできる時もこの時です。この時は、歴史の起源になる時であり、希望の焦点になる時であり、永遠の生命が始まる時です。(144)


  5、偽りの父母と真の父母

 本来、善と悪は一点から出発しました。一点から出発したのですが、その一点が何かといえば愛です。愛は、一人で愛し合うことができますか。二人で愛し合うものです。そして夫婦になり父母になるのです。ここから、愛の方向が悪の方へと曲がっていったために生じたのが悪の父母です。

 それで、神様は善なる父母の時を迎えるために役事をされますが、どのようにされるのでしょうか。今まで、強力に押し立ててきた父母と子供の間の人倫道徳を、時が来ればすべてあいまいにされるのです。ですから、世界的に子供たちが自分の父母を等閑視する時が来るのです。善が、悪なる世界の限界圏から分別されなければならないので、天がそのように役事をされるのです。だから、復帰されていけばいくほど、父母と子供の間の倫理道徳は一層あいまいになります。その代わり、別のもう一方、つまり天の側から誰が出てくるのかといえば、再臨主が出てくるようになります。すなわち、真の父母が現れるのです。そうして、そこから真の世界が出発し、新しい主義が始まるのです。

 それでは、そこでの中心はどこでしょう。悪の父母と善の父母がそれぞれ中心になるのです。(145)

 北韓では、金日成を父だと言っています。その名前を英語で分解してみると、金(gold:黄金)日(sun:太陽)成(accomplishment:完成)になります。私たち統一教会は、先生を父と呼んでいます。先生の名前を分解してみれば、文は真理を示します。それから鮮明は、とても澄んで清らかなもの、明るい光を示します。それから面白いことは、鮮の字で、さかな、魚は水を意味し、ひつじ、羊は陸地を示し、相対的になっています。すなわち世界を意味します。これを総合すれば、文(moon:月)、鮮(sun:太陽)が合わさって明るく(明)、光を放つ。すなわち、太陽や月と同じように、暗闇を明るく照らしてくれる真理の実体という意味です。

 一つの国が、二つの国に分かれ、父親が二人現れた国は、世界に韓国しかありません。互いに相反する立場に立つ二人がどちらも本物であり得ますか。あり得ません。

 それでは、今、私が金日成を恐れているでしょうか、金日成が私を恐れているでしょうか。正義に立脚していないものは偽者であり、偽者が現れる日には終わりだというのです。それをすべて暴露しているので、共産党はレバレンド・ムーンを嫌い、統一教会を嫌っているのです。今まではレバレンド・ムーンを嫌いましたが、今後民主世界は、レバレンド・ムーンを好きになるでしょう。すでに、アメリカがレバレンド・ムーンを好きになる時になりました。

 今後はアメリカ国民が、「私たちの上院議員よりレバレンド・ムーンが貴く、私たちの大統領よりレバレンド・ムーンが貴い」と言う時が来るでしょう。世の大統領は四年、長くて八年の間国を治めますが、レバレンド・ムーンを中心にすれば、永遠に保障される天国に向かうようになるのです。だからアメリカの誰よりも、レバレンド・ムーンをもっと尊重すべきだというのは妥当な結論なのです。(146)

 真の父母が二人存在できるでしょうか。北韓では、金日成を父と呼んでいますが、それは、統一教会でお父様と言うのとは質的に違っています。現在、金日成と私たちはぶつかり合っています。父、という名前は貴いものです。ですからサタンも神様も、互いに自分のものだと言って争っているのです。

 これを誰が裁決するのでしょうか。人間が結論を下すのです。人間たちが、「私たちの真の父母は、このような方でなければならない」と言いながら、真の父母を選定するのです。堕落した父母はこうであり、善の父母はこのような方であると、人間はよく知らなければならないのです。サタンも、人類が善の父母を探し求めてきたことを知っているので、自分がまず偽りの父母を押し立てて、神様が送られる善の父母に襲いかかろうとするのです。(147)

 悪いことと善いことの基準はどこで見つけなければならないでしょうか。これが問題です。例えば、善と悪、また美と醜の評価基準をどこで見つけなければならないのかというのです。日常生活の中では、善いこと(善)と悪いこと(悪)の基準が、いくらでも随時変わるのを私たちは見ることができます。

 私たちに必要なのは、そうした相対的基準ではなく絶対的基準です。ところが、不幸にも歴史上誰一人として、そのような絶対的価値基準を設定できませんでした。ですから私たちは、最も善いこととは何か、最も悪いこととは何かが分からないのです。

 最も悪いこととは何でしょうか。最も悪いという意味は、最も善いという意味の反対の意味です。それでは最も悪いこととは何ですか。最も良いこととは愛だと言いました。父母の愛、夫婦の愛、子女の子だと言いました。したがって最も悪いことは、その愛を奪い去ることだと見ることができます。ですから、善いことと悪いことの基準も、善い人と悪い人の基準も、愛を中心として決定されるのです。(148)


  6、統一教会が主張すること

 統一教会は、一体何をする宗教でしょうか。統一教会は真の父母を唱え、真の子女を唱えており、これが他の宗教と異なる点です。今日、大部分の宗教は宗主を中心にした宗教を主唱してきましたが、統一教会は父母の宗教を主唱しているのが特色です。

 父母がまさに宗主になるというのです。その父母とは誰でしょうか。神様を中心とした父母であり、神様を中心として人類の父母の位置、代々父母の伝統を受け継ぐ、人類の祖先の位置に立つ方です。

 その父母は一つの時代だけを生きる父母ではなく、堕落した世界が完全に復帰される時まで、もう一度生み直し接ぎ木してくださり、子女としての資格を備えられないものは是正してくださり、また、名分を備えることのできる内容を教えて提示してくださる父母なのです。これが、統一教会がもっている内容なのです。(149)

 統一教会では、真の父母を唱え、父母の道理を教えています。父母は、民族的基盤が整えば世界的基盤を準備しなければなりません。教会の基盤が整えば国家的基盤を準備しなければならないのです。そのように、一段階次元の高い、環境的要件を準備する術を知らない父母につながった後孫は、滅びるようになっているので、統一教会が生き残り後孫が生き残るために、世界的環境を準備するのです。世界を生かすためには、霊界の環境まで準備しようというのです。このように霊界にまで影響を及ぼしています。

 一例を挙げれば、日本で仕事をする時にも、霊的な役事が起こるのに出合うでしょう。それは、彼らが先生を信じて走っているために起こるのです。そうしたことが起こるのは、私たちの団体が「神霊協会」だからです。統一教会を信じなければ、いくら説明しても分かりません。(150)

 統一教会では、父子関係を唱えます。この関係は、縦的な心情関係です。そして、父母となられる方は、地上に実体があり、肉身を使っていても、イエス様が行ったように、霊的現象が皆さんに起こるのであり、同じように新しい事実を教えてくださるのです。実体を用いていても、霊人たちができることを、地上で横的に展開させることができるというのです。統一教会の宣教師たちが、宣教地へ出掛け、監獄に入ったり、難しいことに直面する時には、直接現れて、教えを下さっていると証しています。アメリカ、日本のような国でさまざまな活動をする食口たちが、そのように苦労しながらも、疲れを知らずに懸命に実績を上げようと努力するのは、父母が直接先頭に立って、霊的に見せてくださり、実体的に教えてくださるからだということを皆さんは分かるでしょう。(151)

 統一教会では、「真の父母」と「真の子女」という言葉を使います。なぜそうなのか知っていますか。統一教会の運動は、神様の愛を中心に、全人類に真の父母を探し出し、真の子女の道を照らし出そうという運動だからです。(152)

 私たち統一教会員はどんな群れでしょうか。真の父母の教理を教わり、真の父母の息子・娘になる群れです。真の父母の息子・娘にならなければならないという教理を教える所は、統一教会のほかにありません。(153)

 初めに、エバは、天使長と偽りの初めての愛の因縁を結ぶことによって堕落しました。許されない夫婦の関係を結ぶことによって堕落したのです。そのように、非原理的、不法的な愛の因縁を結ぶことによって、誰を追放したのでしょうか。神様を追放し、その次には真の父母を追放しました。すなわち、人類の真の父母が偽りの父母に変わり、その子供は偽りの子供になりました。言い換えれば、真の夫婦、真の子女、真の家庭、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、真の天宙、真の天使世界、このすべてを失ってしまいました。この法にはずれた愛によって、天倫の原則がすべて崩れ去っていきました。こんな滅びの女がどこにいるでしょうか。私がこういう系譜を暴いて、損得を勘定しようというのではありません。エバは正しかったのですか、失敗したのですか。「失敗しました」。法にはずれた愛の因縁を結んですべてを失ってしまったので、原則的な愛の因縁を結ぶことによって、これらすべてを再び探し出さなければならないのです。

 それで、今、統一教会では何をしようというのでしょうか。こんなにつぶれた歴史を、もう一度立て直すために、蕩減復帰していこうというのです。このような使命をもっていかなければならない道が、統一教会の行く道です。この道は、一人では行けないので、家庭を立てるのです。それで、原則的愛の因縁を中心にして、天が理想的夫婦として祝福してくださるのが、いわゆる統一教会の合同結婚式なのです。(154)

 イエス様は堕落しない真の父母として来ました。では、ヨセフとマリヤは何でしょうか。世間的に見ればイエスの父であり母ですが、み旨から見れば、真の父母であるイエス様の父母ではありません。イエス様は、失ったものを再び見つけ出すための理念をもってきたのであり、堕落しないで、神様が公認できる真の父母の使命をもってきたメシヤだったので、いくら彼を生んだ人でも、そのメシヤの前では子女となるのです。言い換えればイエス様は祖先だというのです。信じられますか。「天地開闢」という言葉があるでしょう。何が天地開闢でしょうか。私はこう思います。息子がその父の前で父となることが天地開闢だと見ます。この世にこのようなことが起こり得るでしょうか。

 したがって、メシヤの前に孝子はヨセフであり、孝女の中の孝女はマリヤであり、メシヤの前に忠臣はヨセフであり、メシヤの前に忠女はマリヤがならなければなりませんでした。イエス様のために死ぬとすれば、先に死ななければならなかったのです。そうなっていたら、弟子は要らなかったでしょう。

 ところが、イエス様はすべてを語れずに逝きました。父が子にすべてを語れずに逝きました。天的使命を負ったイエス様が、世間的には父で、内的には息子のような立場にいるヨセフにも、自分の秘密のすべてを話せず亡くなったのです。ですから、どれほど悲しかったでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・一二〜一三)と言ったでしょう。こんな聖句を見れば胸が詰まります。(155)

 天地開闢という言葉があります。天地開闢とはどういう意味ですか。国がひっくり返り、世界がひっくり返ることが天地開闢ですか。とんでもありません。母が娘になり、娘が母になることが天地開闢です。それ以上に天地が開闢することはあり得ません。父母が子供になり、子供が父母になること、これがまさに天地開闢なのです。びりが一番になり、一番がびりになること。前進する時にはびりでしたが、「後ろを向け」と言ったらどうなりますか。これが復帰、つまり天地開闢です。天地開闢は、一度起こらなければなりません。そして父が息子になり、息子が父にならなければなりません。では、おじいさんは何になりますか。孫になり、ひいおじいさんはひ孫になります。統一原理から見ると、歴史上、一番最後の孫は誰でしょうか。アダムです。後で生まれたのが、最後の孫ではありません。先祖です。つまり後代は孫ではなく、先祖なのです。分かりますか。これが天地開闢だというのです。(156)

 統一教会は何をする群れでしょうか。天地開闢運動をする群れです。ですからお母さん、お父さん、おじいさんが反対しないでしょうか。サタン世界では、決死的に反対をするのです。彼らから見れば、私たちはならず者の群れです。彼らは知りませんが、統一原理がそのようになっています。サタン世界にある威信や体面のようなものは何もありません。こうした腹をもって進む群れがまさに統一教会の群れなのです。本当にすてきでしょう。しかしサタン世界は、めちゃくちゃなのです。(157)


  7、真の父母の息子・娘になろうとすれば

 人類が願うことは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダムとエバが聖婚することによって、全人類が神様の後孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落によって人間はサタンの後孫になってしまいました。ですから今私たちは、六千年前に失った天の側の真の父母をもう一度この地上に探し立てて、真の父母の愛の因縁を通して、重生(新生)しなければなりません。そうすることによってのみ、天国の民になれるのです。(158)

 真の子女になるためには、この地上に真の父母が現れ、真の立場で再び生み直してもらわなければなりません。(159)

 真の父母と皆さんは、一体の関係を結ばなければならず、その関係が永遠に変わってはなりません。(160)

 人間は誰でも、心情的に神様と一つとなるようにつくられています。父である神様と子である人間は、まさに心情によってつながっています。(161)

 統一教会は、心情の道理を教える所です。皆さんは、神様の心情に接ぎ木されなければなりません。皆さんは、サタンの子として生まれたので、これから心情に接ぎ木されるにはどうしなければならないでしょうか。お父さん、お母さんが一緒に住みながら子供を育てるその場所で接ぎ木されてはなりません。息子・娘を生む前に、お父さんが結婚する前に、すなわち、お母さんを迎える前に、お父さんのおなかの中で種となったその時から、心情に接ぎ木されなければなりません。復帰歴史がそのようになっています。勝利はそこから始まるのです。(162)

 復帰の法度が原理です。この原理は、大学で教える科学の原理のようなものではありません。人間が堕落し父母を失ったので、その父母を捜し出すための公式を教えるのが原理です。それなのに原理を知らないでいいのかというのです。また、知ったならばどうしなければならないでしょうか。ただ知るだけで、見物だけしていればいいのでしょうか。実践しなければなりません。自ら学んで、実践しなければなりません。原理のみ言どおりに実践しようとすれば、原理に対する確信がなければならないのです。

 では、原理のみ言を聞いて何をしますか。父母が自ら、原理を中心にして実践したから法度になったのです。ですから、子女たちも原理のみ言を中心にして実践しなければなりません。

 実践する目的が何かといえば、第一はサタンを屈服させることです。言い換えれば、僕の父母であるサタンを屈服させなければなりません。その次には、養子の父母を屈服させなければなりません。その次に初めて、神様の直系の息子・娘になるのです。(163)

 皆さんの願いは何ですか。真の父母に出会うことです。逆転してしまったものを、反対にもう一度探していかなければならないのです。これが蕩減復帰です。したがって逆転して生まれた人間は、みんな逆の方向に行かなければなりません。世間が願うものとは違う、反対の道を行かなければなりません。このように行けば行くほど、堕落世界との関係が切れるのです。

 この世との因縁を全部切り捨てて行く道が宗教の道です。この道を通して初めて、本然の世界、すなわち天国に入っていくのであり、天国の民になるのです。このように、私たちはもう一度生まれなければなりません。この世の王や大統領でも、みんなもう一度生まれなければならないのです。(164)

 堕落は、長成期完成級で犯した、誤った愛です。では、完成期完成級の愛はどのくらい強いでしょうか。それは言葉では言い表せません。女性が統一教会に入ってくれば、今まで一緒に住んでいた世間の夫が、とるに足らないもののように感じるでしょう。統一教会に入ってくれば、強力な霊力を感じます。

 これは男性も同じことです。男性は、先生を世間のどの女性よりももっと慕わなければなりません。そうしてこそ復帰されるのです。原則がそうです。男性も、先生に会いたくて、三回以上大声で痛哭しなければなりません。今は皆さんが先生のことをさほど重要に考えませんが、過去にはそうだったのです。男性は、先生にあまりにも会いたくて、われ知らず切符を買いにいくことが起こったりしました。(165)

 皆さんは、実体の神様の立場にいる真の父母が慕わしくて泣かなければなりません。いつも会いたいと思わなければなりません。ごはんでも一杯炊き、水でも一杯くんで、侍りたいと思わなければなりません。そういう切ない気持ちをもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればいいのです。そうすれば、先生を中心として、皆さんが心情一致して先生と共に呼吸することによって、先生の人格基準と、それを支えている先生の過去と、それにまつわる事情がどうなっているのかを知るようになり、ひいてはそれを相続し、受け継ぐことができるのです。(166)

 統一教会に通う婦人が先生に従うので、夫たちは、自分のそばに来ないといって騒ぎ、これと反対に、女性たちも、夫が先生に従うので、自分のそばに来ないと騒ぐのです。そうなっているのです。また、男性も、先生に会いたければ、涙を流さなければなりません。そうできない人は、統一教会の天国時代になっても、天国に入れません。

 神様の心情を感じられず、涙ながらに分かれていったアダムですから、涙とともに合わさらなければならないし、涙ながらに分かれていったカインとアベルの恨みを、涙によって解放しなければならないのです。その道でなくては、一つになる道がありません。世界的に、男性の中にも、先生に会いたいといって泣く人もいます。ところが、ここにそういう人がいますか。昔は皆そうだったのです。草創期にも、皆そうしました。

 統一教会がそういう条件を立てなくては、復帰の責任を負えないのです。昔は、いくら男であっても、先生に会いたくて我慢できないほどでした。恋の病というのがあるでしょう。その病にかかったのです。世間のどんなことも、みんな煩わしかったのです。先生から、何かをしなさいという命令を受け、仕事をしてこそ体がほぐれて力が出ますが、そうでないと力が出ないのです。そうでなければならないのです。皆さんもそうですか。(167)

 世間のすべての男は、全部天使長です。それゆえ、意のままに花嫁を迎えることができないのです。意のままに結婚する資格がありません。女性は、来られる主の前に新婦の立場であり、主の側です。世間の男性に属しているのではなく、来るべき主に属しているのです。

 女性が堕落する時、二つの過程を通して堕落したので、復帰する場合にも二つの過程を経なければなりません。ですから、女性は先生が好きになり、慕わなければなりません。嫌でもそうしなければなりません。嫌でも先生を好きにならなければなりません。統一教会の女性は、先生の言葉なら、どんな言葉にも絶対従順でなければなりません。それでこそ、先生を好む人だといえます。それでこそ、先生は、皆さんを結婚させようとすれば結婚させられるし、伝道に送り出そうとすれば出せるのです。先生は、皆さんを黒人と結婚させられるし、結婚させないようにもできます。また、アメリカ人と結婚させることもできるし、させないようにもできます。これはよいですか、悪いですか。悪いという人は、私と関係のない人です。よいという人たちだけが、私と関係がある人です。ですから、女性は、おばあさんまで先生の方へ来るのです。このように、乙女が先生の方へ来るので、世間の男性は気分がいいでしょうか。ですから、世間の男性が、統一教会の文先生を反対するのです。女性は、そういうことはありません。

 それでは、男性は今どうしなければならないでしょうか。死ぬほど、僕の生活をしなければなりません。僕の過程を経なくてはならないのです。僕の僕の扱いを受けなければなりません。男性は、神様の前で姦夫の立場です。神様の怨讐の一族です。それゆえ、僕の僕の役を務めなければならないのです。先生が「死ね」と言えば、「はい」と言って、死ぬことができなければなりません。そうでないと、復帰されません。世間で一番つらいことを、男性がしなければなりません。今までは、主人なき女性を思いのままに蹂躙しましたが、今後、主が来るようになれば、そのようにはできません。そうすれば、復帰ができません。これは先生の言葉でしょうか、原理の言葉でしょうか。はっきりと言ってごらんなさい。知性人だと自称する皆さん、これが恐喝するための先生の言葉でしょうか、原理の言葉でしょうか。「原理の言葉です」。それならば、皆さんは原理的にしなければなりません。ですから、男たちを献身させなければなりません。

 先生も、今まで惨めな扱いを受けてきました。五十余年の間、闘ってきましたが、いまだに先生に矢を放っています。皆さんがこういうことを見て、黙っていてはなりません。

 皆さんは、サタン側の天使長になってはなりません。天の側の天使長になり、このサタンどもを撃退しなければなりません。だから皆さんを先頭に立たせるのです。先生は、サタン世界の公席に現れますか。現れるのを見ましたか。できるなら現れずに、皆さんを代わりに出そうとするのです。サタンが天に反逆し、天地の原則を誤らせたので、皆さんが、天を支持する天使の立場に立ち、天の前に忠臣の道理を立てなければなりません。そうすれば、そこから初めて、新しい復帰の道が開かれるのです。だから皆さんを先頭に立たせるのです。(168)

 皆さんは買ってきた人々です。人類を与え、天宙を与えて買ってきた人々です。ですから、神様は皆さんをおいて、天地を審判なさりたいのです。神様は、サタン世界の奴隷の立場にいる皆さんを買って、神様の息子・娘としてお立てになりました。ですから皆さんは、神様からの祝福を受けた栄光の子女です。だから、全世界が皆さんを欲しいというとき、与えることのできる皆さんにならなければなりません。サタンにまでも与えられる皆さんにならなければなりません。

 皆さんは、先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて買ってきた人たちです。ですから、皆さんも先生と同じことをしなければなりません。先生は食口たちを自慢したいのです。このような立場で公約しましょう。(169)


  8、失われた心情を復帰すべき私たち

 堕落した人間は、三つの心情を失ってしまいました。それも一度にです。アダムとエバは、神様の息子・娘です。ところが、堕落することで幼子としての心情、子としての心情を失ってしまいました。そして、神様の愛を中心にした兄妹間の心情を失ったのです。

 アダムとエバは、兄妹のような立場で成長しましたが、エバはアダムを誘惑して堕落させました。エバはアダムを殺したのです。善なる兄妹ではなく、悪なる兄妹になりました。善なる夫婦ではなく、悪なる夫婦になりました。善なる父母ではなく、悪なる父母になりました。神様の愛の心情圏である子女の心情、夫婦の心情、父母の心情を、一時に失ったのです。これをどうやって復帰するのかが問題です。

 私たちは、神様の心情圏に入って、子供のようにならなければなりません。互いに一体となり、失った兄弟の心情、夫婦の心情を復帰し、父母の心情と子女の心情を復帰しなければなりません。どうしても、切れた心情的関係をつないで道を通し、復活圏を築かなければ、堕落圏を抜け出せないのです。(170)

 神様は、心から愛する息子・娘を失いました。男女について見れば、神様を中心とした夫と妻を失いました。そして子供の立場から見れば、真の父母を失いました。堕落した行動一つで、この三つを全部奪われました。ですから、どうやってこの三つの心情を、原理によって一時に蕩減復帰して、神様が認定できる基準を捜し立てるのかということが問題です。まず、神様の前に、真の息子・娘として、神様を愛する基準を復帰して、その過程を通過し、婚期になれば、神様の愛を中心として夫婦の因縁を結び、ひいては善の子女を生み、神様が願われる四位基台を築かなければなりません。(171)

 イエス様の三十余年の生涯は、息子の使命を果たした生涯でした。次に、今までのキリスト教の歴史は、夫婦の愛を探し出すための歴史だというのです。夫婦の愛が探し出されれば、父母の愛が成立し、その愛が成立した後には、神様に代わって子女を愛せるのです。それを、「私」を中心として見れば、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛、このように逆に上がっていくのです。神様を中心として、そのような愛を感じなければ、復帰ができないのです。この三つの愛を感じなければならないのです。(172)

 信仰の道で追求する最後の道を行こうとするなら、何がなければならないでしょうか。まず第一には、神様の愛を中心として、兄弟の因縁をもって現れる指導者の道理がなければなりません。その次には、主体と対象、すなわち夫婦の因縁を中心にして現れる指導者の道理がなければなりません。次には、父母の因縁をもって現れる指導者の道理がなければなりません。(173)

 元来、一人の人間は、相対を通して、父母、夫婦、兄弟、子女の四大心情を感じられなければなりません。そのために家庭が必要なのです。(174)

 神様の心情を中心に、横的蕩減復帰摂理が始まっています。失った心情圏を一時に復帰する摂理が始まったのです。そのために、統一教会があるのです。なぜ、統一教会の食口たちが、すべて心情的に一致し、先生の命令によって一糸乱れず動いているのか、誰も分かりません。皆さんが、先生と心情的に一致し、活動している原因を、世間の人々がいくら研究しても理解できないでしょう。

 統一教会の食口たちは、男性であっても、先生に会いたくて涙を流すぐらい、先生を好きです。先生に会いたくて涙を流してみた経験がなければ、その人は統一教会の食口ではないでしょう。それは、先生のためではなく、神様のために素晴らしい現象です。(175)

 先生は神様の愛を中心として皆さんを愛し、皆さんは先生を愛しています。皆さんは神様を愛し、皆さん同士も愛し合わなければなりません。皆さんが先生を愛するのと全く同じように食口たちを愛さなければなりません。先生が願うことは、先生が愛する以上に愛しなさいということです。そうなれば、隣人を、自分の父母、兄弟以上に愛せるようになるでしょう。(176)

 皆さんは、理論的に勝利を収めるだけでなく、それに先立って、実践的勝利者にならなければなりません。隣人を父母のように、兄弟姉妹のように愛する群れにならなければなりません。そうなれば人が、来るなと言っても、病気になるくらいに会いたくて訪ねて来るようになるでしょう。先生は、学生時代にもそうでした。友人はみんな先生のいる所へ押し寄せてきました。そして、誰にも話せない内容を相談してきます。そうすれば、神様の心情圏を相続できるみ言を聞かせてあげます。それを実践する理論があるので、神様と一つになれるようにしてあげられるのです。(177)

 近い将来に、人類を統一の世界、永遠無窮なる安息の福地に安着させられる根拠地がなければなりません。それはどこでしょうか。心情の世界です。心情の世界では、お父さんは子供がいなければ生きられないし、妻は夫がいなければ生きられない世界です。今後来るべき世界は、こういう真実の世界です。

 世間で「主義」というのは、良心基準において意識革命の段階に当たるのかもしれませんが、これからは、宿命的に勝利でき、最終的に勝利できるものが現れなければなりません。それが正に「心情」です。

 これからは、人類の心情を革命し、天道の基準を立てられる、新しい歴史観が出てこなければなりません。この歴史観を基準にして、新しい人生観と世界観を創建できる心情的な主義が出てこなければなりません。では、その主義はどんな主義でしょうか。それは、心情的な人生観、心情的な世界観、心情的な宇宙観を中心にしたものであり、さらに歴史が期待するものです。統一教会は、正にこういうことを教えてあげるのです。(178)

 私たちを生かすことのできる永遠の理念が、私たちを呼んでいます。永遠の思想が、私たちを待っています。永遠の思想を愛する人が、永遠に生きるのです。そうなるのです。そこに一致できなければ、それだけ制裁を受けるのです。制裁を受ける分だけ、霊界での位置と段階が決まるのです。(179)


  9、歴史的な希望の日

 神様は、千辛万苦の末、アダムとエバをつくられました。彼らをつくるために、宇宙をつくられたのです。このように、神様は千辛万苦の末、被造世界をおつくりになったのです。これほどアダムとエバを苦労しておつくりになったので、その後の神様は、言葉に出せないほどうれしかったことでしょう。しかし、それ以上に喜べる時がなければならないのであり、その時とは、まさにおつくりになった息子・娘が一つになる時間、すなわち、アダムが新婦を迎える時なのです。こういう喜びが天地間に生まれたすべてのものに連結されるのであり、人類全体には、愛の中心が連結されるのです。ですから、そこから支派が生じ、爆発力と化せば、この世界はすべて巻き込まれていくほかありません。そうすると、皆さんはみんな神様に似て生まれるようになり、そうできない人たちは、神様に似ようとするでしょう。

 それでは、皆さんは神様に似て生まれましたか、似ようとするのですか。どちらですか。似ようとしなければなりません。神様に似て生まれたなら、皆さんが喜ぶべき日はどういう日でしょうか。神様が皆さんに似たのならいざ知らず、皆さんが神様に似て生まれたのなら、皆さんはどういう日を喜ばなければならないでしょうか。生まれた日を喜ばなければなりません。その次には、結婚した日を喜ばなければなりません。それから、息子・娘を生んだ日を喜ばなければなりません。これが歴史の起源であり、これを果たすために発展してきたのが歴史の実情であり、摂理の内容でした。(180)

 本然の父母を失ったのが堕落です。人間は、この堕落によって、父母を失ったと同時に、子女を失ってしまいました。子女を失うと同時に、万物を失い、万物を失うと同時に、神様を失ったために、これを全部復帰しなければならないのです。

 アダムとエバは、神様の真の息子・娘にならなければならず、次には、人類の真の父母になるべきでした。そんなアダムとエバに、すべての万物が主管を受けるべきだったのです。万物も、こういう栄光の日を迎えなければならなかったのです。

 万物主管は、一人ではできません。必ず父母が子女を生んで、家庭をつくり、四位基台が復帰された基盤の上に、万物を主管するのです。一人では主管できないのです。それゆえ、イエス様もこの地に来て、万物を主管し、この世界を主管しようとしましたが、果たせなかったのです。(181)

 神様は、アダムとエバを祝福してくださったのであり、アダムだけを祝福されたのではありません。ですから、必ず夫婦とならなければなりません。

 夫婦だけでもだめです。夫婦は、神様からの縦的な中心です。アダムとエバは、神様を中心として、天と地をつなぐ、内的、外的中心だったのです。霊的な二性性相が、実体的な二性性相として現れ、個人的な二性性相を整えて、心と体を中心として一人の男性になり、一人の女性になったのが、アダムとエバだったのです。ですから、彼らが一つになってこそ、初めて平面的四位基台の中心になり、中心基台が立つようになるのです。

 しかし、父母は中心ではあるけれど、氏族の基準を代表した横的世界の中心です。同時に、主体的な立場です。そのために対象が必要ですが、その対象は子女なのです。そうして四位基台ができ上がった時、初めて天と地はつながっていくのです。(182)

 今日、この世界には子供の日はありますが、子女の日はありません。父母の日や子女の日、万物の日や神の日というのは、統一教会で定めて発表した日です。このような日は、ただ適当に考えて定めたのではありません。先生の思いのままに、適当に「こうすればいい」と言って定めた日でもありません。全部、公式的な復帰路程を経て定めたのです。そうしなければ復帰ができないのです。ここには、必ず順序があり、その順序に従って復帰してきたのです。

 では、子女について考えてみましょう。子女が存在するには必ず父母が必要です。それゆえ、父母の日を宣布してから、子女の日を宣布するのが原則です。(183)

 本来、人間の理想の中には父母がいます。それゆえ、神の日が成立すれば、それと同時に父母の日が成立し、子女の日が成立し、万物の日が成立するようになっているのです。しかし、人間が堕落することによって、このすべてを失ったので、今日復帰途上においても、何から探し出さなければならないのかといえば、まず初めに人間を探し出さなければならないのです。それゆえ、父母の日が立たなければ、子女の日も立てることができないことを、皆さんは知らなければなりません。(184)

 歴史上、今まで探してきた、唯一の日がどういう日かといえば、真の父母の日です。子女の日よりも、真の父母の日が、この地上に誕生することを願ってきたのです。その日が現れなければ、皆さんは神様に対して、「お父さん」と呼ぶ資格がありません。

 たとえお父さんと呼んだとしても、審判基準を越えられない立場でのお父さんであって、審判基準を越えられる立場でのお父さんではないのです。今までは、審判基準を越えられる立場ではお父さんと呼べませんでした。

 審判の基準を越えて呼べるお父さんは、永遠の解放の父です。解放の父母だというのです。ここから、新しい国、新しい世界、新しい天地の出発がなされるのです。そのような世界が、サタン世界に包囲されたとしても、それはどこまでも広がっていくでしょう。また、広がっていくようになっているのです。

 皆さんが考えなければならないことは、皆さんが子女の日を迎えるためには、六千年の歴史を中心として、真なる道を行くことを決定しなければならないのです。そのためには、真の父母から因縁を与えられ、真の父母の祝福を受けてこそ、初めて越えられるのです。行く所へは蕩減条件を立てて越えていかなければならないのであって、そのままでは、越えていけないのです。子女の日を迎える前には、皆さんは、真の父母と何ら因縁がないのです。真の父母の骨髄を通しては生まれなかったというのです。(185)

 子女の日というのは、この世界の数多くの記念の日々を代表して、神様の前に、真の父母に侍り真の位置でもう一度生まれたという代表的な日を、世界的に、あるいは天宙的に設定してできた日です。(186)















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