祝福家庭と理想天国
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第四節 家庭を中心とした復帰摂理

  1、堕落人間の願い

 人間始祖アダムとエバは、堕落することによって堕落の血統をつくってしまいました。彼らは神様が願う本然の理想世界、堕落していないその世界で神様と一体となり、神様の直系の血統を受けて息子・娘を生むべき真の父母の立場にありました。しかしサタンと因縁を結び、死んだ子供を生んだサタンの魁首になったのです。ですから今日人類は、全部偽りの父母に出会ったのです。ゆえに偽りの父母の血統を否定し、真の父母に出会わなければなりません。(187)

 堕落人間の願いは、神様の息子に出会うことです。カインの息子として生まれた無念さをもって嘆息し、神様の真の息子を探し、さまよっています。私たちは、神様の息子を探し出さなければなりせん。しかし、個人的な神様の息子、家庭的な神様の息子、氏族的な神様の息子、民族的な神様の息子、国家的な神様の息子を探し出そうとするなら、人類はどれほど苦労することでしょうか。

 そこで神様は、国家的基準の息子圏を代表したメシヤを送られたのです。ですから、人間たちがこのメシヤを迎える日には、個人的な神様の息子、家庭、氏族、民族、国家的な神様の息子まで探し出すことができるのです。このように、神様の国家的な息子まで探し出すことができるという喜ばしい知らせを伝えてあげるのが、メシヤの降臨だということを、皆さんは知らなければならないのです。(188)

 堕落の因縁をもって生まれた私たちは、サタンの讒訴条件を超越することができる、神様の息子に出会わなければならないのです。神様の息子に出会った後は、父母に出会わなければなりません。皆さんは、堕落した父母はもちましたが、堕落していない真なる父母はもてませんでした。それで、神様が愛することのできる真なる父母を探し出さなければなりません。

 次に父母の家庭を探さなければなりません。父母の家庭を探し出した後に、神様の愛を探さなければならないのです。そして、神様の愛を探し出した後には、神様に出会うのです。

 このように、堕落人間は、神様を中心として兄弟を探さなければならず、父を探さなければならず、母を探さなければならず、私の家、私の故郷を探さなければなりません。このような道を歩いていかなければならなかったのが、この地の人類だったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 それで、神様の愛を受けられる父母と、神様の愛を受けられる息子・娘が、神様の愛を中心に互いに愛し合う家庭を築くようになれば、「家和萬事成(家和して万事成る)」ということのできる環境において、愛の歌を歌いながら、自動的に栄えることができるというのです。そうなれば、自動的に神様を中心とした民族が形成されるのです。

 ところが、アダムがそのような家庭を失ってしまったので、宗教を通じてそのような家庭の基準を探さなければならないのです。家庭を探し出さなければ氏族や民族、国家、世界は捜し出すことができないというのです。(189)

 人間の理想、願い、希望は何かというと、次のように結論づけて言うことができるでしょう。第一に、神様を私の父として侍ることが最大の希望であるというのです。第二に、神様の愛を受ける息子・娘になることであり、第三に、神様が所有しておられる全部を相続することです。それ以上大きな人間の願いはあり得ないというのです。(190)

 幸福とは何でしょうか。父母を失った孤児のような民が、六千年ぶりに父母を捜し出すことです。これ以上うれしいことがどこにありますか。

 宗教をもつのは、こういう父母を捜し出すのに加担することです。死んだ父母が、永遠に死んだと思っていたのに、生きることができるというのです。父母が生きることができるとするならば、私たちは手段と方法を選べません。父母を捜し出すのに、財産が問題ですか。親戚が問題ですか。国が、世界が問題ですか。そのどれも問題になりません。すべてのことを脇において、父母を捜し出すためにあらゆる忠誠を尽くさなければなりません。世間でもそうではありませんか。自分の父母が死んでいくのに、土地やお金にすがって、喜々としている子供がどこにいますか。

 本性の因縁を中心とした本然の父母が死んだと思っていたのに、その父母がもう一度蘇生できるとすれば、その道を私が開拓するためには、言葉で言えない精誠を捧げなければなりません。また、誰よりも天の悲しみに胸が張り裂けるほど悲しみつつ無念さと口惜しさを感じるその立場で、忠誠を尽くさなければなりません。

 そういう心をもって、父母が生きかえることのできる道を整えなければなりません。それが子の道理であり、孝子の立場です。これが私たちの責任です。ですから、世のことを意にかけず、この道を開拓しなければなりません。この世の楽しいことや、この世の迫害と死の道も意にかけず、この道を開拓するために忠孝の因縁をもたなければならないのです。(191)


  2、復帰摂理の最終目標

 堕落していないアダムとエバは、どのような存在でしょうか。神様の実体と同じです。ですから、内的には神様と一つとなり、外的にはアダムとエバが一つになってできた家庭はどのような家庭かといえば、まさに神様の家庭となるのです。そして、家庭で生まれた息子・娘は誰の息子・娘になるのかといえば、まさしく神様の息子・娘になるのです。

 ところがサタンがエバを強奪し、アダムまで堕落させたのです。数えで十六歳の、ティーン・エージャーのような分別をわきまえないときに、愛について何も知らないときに、サタンが侵犯したというのです。そうして、非合法な愛の因縁を結ぶようになり、神様が臨在されるべき位置に、サタンが入っていくようになったのです。(192)

 神様は、愛する真の息子・娘に愛をいっぱい与えたいのに、その子女を失ってしまいました。男女の関係について見ると、神様を中心とした一組の夫婦を失ってしまいました。そして、子供から見れば、真の父母を失ってしまいました。堕落の行動一つで、この三つをみな奪われました。

 それで、どうやってこの三つの心情を、蕩減復帰の原則によって一時に蕩減し、神様が認め得る基準を立てるかということが問題なのです。まず、神様の前に真なる息子、真なる娘として、神様が愛し得る基準を復帰し、その過程を通過して年齢が満ちれば、神様の愛を中心とした夫婦が結合するのです。そして、そこに再び神様が喜ばれ願われる四位基台を築くために、善なる子女を生まなければなりません。(193)

 今日、人間は、神様からつくられて生まれましたが神様の息子・娘として振る舞えずにいます。第一に、神様が、人間を息子・娘として愛することができません。神様が人間を愛し得ず、また人間は、神様の息子・娘としての愛を受けられないのです。第二に、神様の愛を受けた息子・娘としての聖礼式ができず、第三に、彼らは神様の愛を中心とした神様の家庭を築けないのです。この三つを彼らがすべて成就したなら、人間は今日のように悲惨にはならなかったでしょう。そうなっていたら、今日のような文化世界は、もうずいぶん前にできていたでしょう。ところが、そうなり得なかったので、復帰の路程を手探りしてきて、今になって、文化世界だ、何の世界だとやっているのです。

 ですから、私たちは最後に行って、出会わなければならないところ、最後に行って、とどまらなければならないところ、そこを探していかなければなりません。世界の国々が本然の祖国を探さなければならず、世界の数多くの人間が、本来の自分の故郷、本郷を探さなければならず、数多くの氏族が、本来の父母を探さなければなりません。これが、今まで神様がなしてこられた摂理の全目的です。(194)

 復帰の目標は、アダム家庭復帰にあります。神様は、アダムとエバが堕落するとすぐに救援摂理を始められました。しかし、カインがアベルを殺害し、アダム家庭を中心とした救援摂理はノア家庭に移されました。神様は、ノア家庭を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅亡させ、サタンの侵犯条件を越えた家庭を立て、地上摂理の基盤を構築しようとされました。それが、再びアブラハム、イサク、ヤコブを経て、モーセ時代に移り、イエスにつながれ、私たちの時代まで来たのです。ですから、復帰摂理の最終目標は、失ったアダム家庭を探し立てることです。(195)

 今まで、神様は何を探してこられたのでしょう。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。神様を模範として、つくられた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。このような結果的な一つの基点は何でしょうか。家庭です。家庭よりも宇宙を代表できるものはないのです。(196)

 結局、神様が六千年の間復帰摂理をされたのは、何を探し出すためだったのでしょうか。一つの国を探し出す前に、あるいは、民族と教会を探し出す前に、何を探し出さなければならないのでしょうか。家庭です。つまり、自分の相対を探し出し、家庭を探し出すことでした。一つの国が形成されるためには、家庭がなくてはならないのです。ゆえに、全体の根本が何かといえば家庭です。(197)

 人類の祖先であるアダムの家庭が破壊されたので、これを復帰しなければなりません。イエス様は、堕落しなかったアダムとして来なければなりません。だから、イエス様は第二のアダムとして来られた方です。人類の最初の祖先であるアダムは堕落した祖先となったので、神様は本然のみ旨を立てるために、堕落していない真の祖先としてイエス様を送られたのです。そういう真の祖先を中心に、アダム家庭を探し出さなければなりません。(198)

 イエス様は、何をしにこられたのでしょうか。家庭を探しにこられました。救いの歴史は、復帰歴史です。病気になったら治さなければならないように、イエス様は、堕落した人間を救うために来られました。では、救いとは何でしょうか。家庭を失ったので、それをもう一度探し出すことです。もう一度探し出そうとすれば、どうすべきでしょうか。失った本来の場所に帰らなければ探し出せません。では、どういうわけで、人間が家庭を探し出さなければならないのでしょうか。イエス様は、どういうわけで、家庭を探しにこなければならないのでしょうか。それは本来の家庭を失ってしまったからです。病気になったので、病気を治さなければなりません。つまり、堕落したので、復帰をしなければならないのです。

 聖書を見ると、人類始祖が堕落したとなっています。それでは、その始祖が堕落する時、一人だけ堕落しましたか、二人が堕落しましたか。「二人とも堕落しました」。それが問題です。堕落したとしても、一人だけ堕落したというなら問題は簡単です。一人だけ堕落したとすれば、神様は創造の神様でいらっしゃるので、もう一度つくることができるのです。(199)

 今日まで宗教団体、特にキリスト教が目標とし、信仰してきた個人の救いは、完成ではなく、第一段階の始まりにすぎない原初的な救いなのです。

 救いの目標は、家庭の救いを単位とするのですが、その家庭の救いの基盤というのは、世界を指導でき、世界の救いまで責任を負える家庭のことをいうのです。そのような心情圏が確立された家庭を築くことが、信仰生活の最高の理想にならなければなりません。(200)

 歴史時代のすべての宗教は、今まで何をしてきたでしょうか。今まで宗教は、男性一人を再び探してきたのです。今までの宗教は、相対の理念を許しませんでした。新しいものを許しませんでした。相対の理念を許さず進んでいけば滅びるようになります。けれども、一人を探してくる歴史時代において、男性を見つけ出したといえる基準まで行くようになれば、その後には女性を探し出さなければなりません。女性を探し出すための運動を提示したのが、今日の統一教会です。ゆえに統一教会は何をするところかといえば、家庭を探し出す教会です。

 今まで宗教は、個人を探してきました。分かりますか。個人を探し出し、家庭の基盤を築けば、その家庭は氏族になるのです。また、その家庭は民族になれるし、国家を形成できるのです。だから、その家庭は国家を探し出す時まで、日がたてばたつほど一つになるのです。息子・娘を生めば生むほど団結するのです。鉄石のように結束するのです。

 そのようにさえなれば、復帰摂理を中心とした国を探し出すための運動はすでに始まったので、その時からは、世界を探し出すための正常なコースを走っていくのです。世界に伸びていかなければなりません。まず、復帰摂理を中心とした一つの家庭をつくり、一つの氏族を編成しなければなりません。その一つの氏族を編成する日、世界の運勢は違ってくるでしょう。歴史は今、その日に向かって前進しているのです。(201)

 今までの宗教は、個人の救いを標準にしましたが、今後新しい時代に、世界が喜ぶことのでき、神様が立てることのできる宗教は、家庭を救える宗教でなければなりません。

 それで、男性一人だけ救いを受ければ、女性はすべて続いて入っていくのです。また、女性が皆、蕩減するようになれば、男性は皆、ついていくようになるのです。そうなるのです。エバが堕落する時、アダムがついていったでしょう。そのように、女性の言葉を命懸けで死ぬほど信じる男性は、天国に行きます。また、男性の言葉を絶対的に信じる女性も天国に行きます。こうやっても天国に行き、ああやっても天国に行くのです。

 それだから、女性は、女性のために死ぬほど信じ、命まで捧げられる男性を得られればよいということであり、男性は、男性のために命までも捧げられる女性を得ればよいのです。そうできる人々が現れれば、彼らは、神様の息子・娘になるのです。(202)

 今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも家庭の救いを目的としているのです。救うのも家庭を救い、天国に行くのも、一人では行かないというのです。

 統一教会の救済観は、夫は天国に送り、妻は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというのです。また、お母さん、お父さんを地獄に送るのではなく、お母さん、お父さんに侍り、息子・娘も連れて天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までみんな連れて天国に行ける道理を教えてくれる宗教なので、他の宗教とは次元が違うのです。ですから、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが、統一教会の信徒たちが行くべき道であり、今後、皆さんが生活していくべき道であることをはっきりと知らなければなりません。

 父母より、夫より、妻より、子供より、神様と世界をより愛することがすなわち、父母に百パーセント孝行する道であり、夫を百パーセント愛する道です。また、妻を百パーセント愛する道であり、子供を百パーセント愛する道です。その愛の価値以上の場所に行く道が、この道のほかにないので、この道を行かなければならないのです。この道は、万民が行くべき共同の道なので、この道を行き、勝利の旗を揚げるようになる時には、天下を統一しても余りあり、天下を胸に抱いても余りあるという、天の国の王子、王女となるでしょう。ですから、この道が私たち統一教会の信徒たちが行くべき道であることをはっきりと知らなければなりません。(203)

 法を超越し、制度を超越し、環境のすべての背景を超越し、自分も超越し、永遠に共にいたい因縁を結ぼうというのが父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛なのです。これを無視した社会制度はあり得ないし、これを無視した国家は形成され得ないのです。ですから、統一教会は個人教会を願うのではなく、家庭教会を願うのです。統一教会は、個人の救いを願うのではなく、家庭の救いを願うのです。統一教会は、個人の救いを目的にするのではなく、家庭の救いを成就しようというのです。統一教会はこの点が違います。(204)

 神様を中心とした家庭を探し出せなければ、国も探し出せないし、世界も探し出せないので、イエス様も、この地に来て、神様が愛する家庭を築こうとしました。だから、一人の新郎として、新婦を探し出さなければなりません。一人の男性を中心として、真の父母も現れ、真の夫婦も現れ、真の兄弟も現れることができるので、これを決定的に成すと預言したのが、小羊の婚宴の時です。新郎新婦を迎えようというのです。(205)

 すべての人間たちが、最後にもつべき共同的な目標、行くべき共同的な関門は何でしょうか。国でもないし、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。共産主義世界がある前に、本然の家庭がなければなりません。また、民主主義世界がある前に、民主主義世界を創建できる、本然の家庭がなければなりません。それでは、今までここに対する秩序がどこにあり、ここに対する教育がどこにあり、ここに対する目的、基準がどこにあったでしょうか。このような決定的基準が、この地上に現れなかったというのです。これが現れる前には、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないのです。

 だから、私たちが願うのは、このような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すべき家庭が、この地球上に必ず現れ、人類歴史と共に、運命を共にできる一時が来ることです。そうしてこそ、地に対する神様の摂理が成就されるのであり、安息の福地、安息の巣が出発するというのです。(206)

 家庭は、神様の理想が顕現できる基点であり、人類の幸福顕現の基点となるのです。人間としての仕事がすべて終わる位置であり、神様も、すべての仕事の完成を見る位置です。(207)


  3、家庭を中心とした復帰摂理

 復帰は、家庭を中心としてするのです。(208)

 神様が堕落した人類をお救いになるための、最初の基点はどこでしょうか。ある文明を誇りにする、特定の国家でしょうか。違います。社会のある組織が理想的な組織だといって、それを中心にするでしょうか。違います。それでは、天才的な素質をもったある個人を中心としてするのでしょうか。違います。それでは、何でしょうか。このすべてのことを超越できる一つの基点が家庭だということを、皆さんは知らなければなりません。

 もし神様がいらっしゃるなら、神様もそのような家庭を探し出さなければなりません。ですから今日、人間はそのような家庭の門を通過した資格を整え、勝利者の立て札を掲げ、世界を目指す人にならなければなりません。そのような主義と思想に対し得る個体が現れなければなりません。(209)

 メシヤは、キリスト教個人、キリスト教家庭、キリスト教氏族、キリスト教民族、キリスト教国家を代表して来られる責任者ですが、その方がすべきことは、世界的なことです。その出発を、家庭からするというのです。

 なぜ家庭から出発するのでしょうか。すべての事件が、家庭から始まったからです。すなわちアダムとエバの家庭から始まったというのです。神様を失ったことも、天使世界を追放したことも、万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったことも、すべてがアダム家庭から、男性と女性が誤って出会ったために起こったのです。

 したがって、これらをつなぐためにはどうすべきでしょうか。男性、女性が、正しく出会わなければならないというのです。誰と誰が正しく出会わなければならないのですか。神様と人間ですか。神様と人間ではなく、男性と女性が正しく出会わなければなりません。男性と女性が、誤って出会うことで、全部追放されたため、原理的に見れば、男性と女性が正しく出会ってこそ、もう一度蕩減復帰できるのです。(210)

 皆さん個人が完成するためには、家庭復帰路程を経ていかなければならないのです。アダムが堕落したとき、個人が堕落した後に、家庭を通して堕落が完結したため、皆さんが完成する場合も、個人だけ完成したのではいけないのです。家庭が完成しなければならないのです。(211)

 原理的に見ると、本来アダムとエバは、長成期完成級の未成熟な位置から堕落しましたが、堕落したとき、一人で堕落したのではなく、アダムとエバ、すなわち夫婦が堕落したのを私たちは知っています。結局、夫婦が一つになり、養子の位置、僕の位置、僕の僕の位置に落ちたので、復帰過程も、夫婦の因縁をもたなければ子女の位置を探し上っていけないという結論が出ます。(212)

 復帰摂理に因縁づけられた個人は、個人に終わるのではありません。ここには、必ず家庭がつながって入ってこなければならないのです。なぜでしょうか。堕落が、家庭に連結されたからです。堕落の動機は、個人であるアダム、エバにありましたが、彼らが、それを家庭に引っ張り込むことによって、氏族を引っ張り込んだ結果になり、国家を引っ張り込んだ結果になり、世界を引っ張り込んだ結果になったということを知らなければなりません。(213)

 元来、アダムとエバが、実体の父、母として一体となり、神様の創造理想である家庭の完成、すなわち愛の家庭理想を完成しなければなりませんでした。ところが、これができなかったので、それを完成させるために、イエス様が来られなければならなかったのです。そして、イエス様が来られ、新郎の位置で新婦を迎えなければならなかったのです。

 そうして、神様の愛と一つとなり、エデンの園で堕落せず完成することができた本然のアダムの位置を復帰し、その愛で結ばれる日には、誰も再び堕落させることはできないのです。(214)

 神様は、原理原則に従って運行される方であられるのを知らなければなりません。アダムを失ったため、サタン世界からもう一度探してこなければなりません。アダムが誤って、夫の役割を遂行できなかったため、アダムはエバを支配し治めることのできる位置にいたにもかかわらず、エバをサタン世界に奪われました。それで、サタン世界からもう一度探してこなければならないのです。

 ですから、エバを再び探してくるなら、闘わないですむでしょうか。国の基盤から教会の基盤、氏族の基盤、家庭の基盤を神様は準備されました。そうしてヨセフ家庭を立てられ、ザカリヤ家庭を立てられました。それゆえ、ヨセフ家庭のイエスと、ザカリヤ家庭の洗礼ヨハネが一つになったならば、短い期間に神様のみ旨が成されたはずです。

 洗礼ヨハネがイエス様を信じたならば、どうなったでしょうか。また、洗礼ヨハネの妹を、イエス様が新婦に迎えていたならば、どうなっていたでしょうか。み旨は成就できたはずです。このようなことを言えば、キリスト教徒たちは、すぐさま反対するでしょうか。大変なことになったと大騒ぎすることでしょう。しかし、いくら反対してみても……。皆さんが、今反対していますが、霊界に行ってみれば、レバレンド・ムーンがうそを言わなかったことが分かるはずです。(215)

 イエス様も、この地に来た時、天国を成すために、新婦を探し迎えなければならないという歴史的事実を知って来たのです。もしイエス様が新婦を迎えたなら、どのような生活をしたでしょうか。争い、離婚すると言って別れたでしょうか。これは仮説ですが、イエス様は最も美しく、すてきな家庭を築いたことでしょう。(216)

 神様のみ旨が何かといえば、男性完成の基準と女性完成の基準を立てておき、アダムとエバが神様の愛を中心として、神様の家庭を築くことでした。

 ところが、神様の家庭は築かれましたか、神様の家庭は築かれませんでした。イエス様は、このような神様のみ旨を知ったし、また信じました。しかし、ユダヤ民族の不信で、イエス様のための、イスラエル民族の四千年歴史の基盤とユダヤ教が崩れ、イエス様は十字架で惨めに亡くなられました。このような胸が詰まるイエス様の事情を今まで誰が知っていましたか。誰も知りませんでした。

 今日、この文という人が、このような話をしてあげるので皆さんが知るようになったのです。これが事実ならば、イエス様がどれほど喜んでおられるでしょうか。

 新郎になられたイエス様が、新婦になられる真の母を探し立てておかなければ、神様の家庭完成は不可能です。イエス様の家庭が築かれない限り、神様のみ旨は永遠に成されないのです。(217)

 原理的に見ると、夫婦でなければ、いくら素晴らしい聖人でも、いくら天のみ旨をすべて知る人だといっても、その人一人だけではいけないのです。

 その備えられた基盤を中心として、一つになれる家庭的基盤を準備しなければならないのが創造理想であり、あるいは復帰の理想であり、摂理時代を見上げてきた歴史的な願いです。

 その歴史的な願いを果たし、すべての悲惨な事実を清算するのが宗教の使命であり、目的であり、(家庭は)その目的を達成するために来られるイエス様自身がとどまることのできる、希望の基盤であるのを知らなければならないのです。(218)

 アダムとエバが偽りの愛の契りを結ぶことによって、悪の結果をもたらしたため、失った善の結果を、再び探し立てなければなりません。それゆえ、来られる再臨主は、アダムとエバが失った父母の因縁を、天の側と再び一つになった場所で代わって備えなければなりません。そうして、神様を中心とした愛の因縁を連結し、祝福の基盤を築かなければならないのです。そうなれば、真の父母の因縁が設定され、善の家庭的出発ができるようになるのです。アダムとエバが長成期完成級で堕落し、真の家庭を築く基盤を失ってしまったため、家庭も、長成期完成級の位置で真の父母の因縁をもってこそ探し出されるのです。(219)

 再臨主が地上に来られ、個人の勝利圏を立て、家庭の勝利圏を立てたならば、それは限定された環境の、一つの家庭ではありません。その家庭は、世界のキリスト教を代表した家庭となるのです。その基台の上に氏族が連結されるならば、それは一つの氏族にとどまらず、世界的氏族となります。(220)

 完全な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙における中心は家庭です。それゆえ、神様の復帰摂理歴史においても、ノア家庭、アブラハム家庭、ヤコブ家庭、モーセ家庭、イエス様の家庭などの家庭が立てられたのです。中心家庭は、多くの家庭ではなく、一つの家庭であればよいのです。氏族を代身でき、民族を代身でき、国家を代身でき、世界を代身でき、天宙を代身できる、一つの家庭であればよいのです。神様の心情を中心として、一致した一つの家庭であればよいのです。そのような意味で先生は譲りません。個人としても優れた人にならなければならないし、家庭としても優れた家庭をつくらなければなりません。(221)

 今後の歴史が願うものは何でしょうか。それは優れた人ではありません。優れた国家でもありません。この天宙に通ずることができる愛の圏内に立った、一つの家庭です。そのような家庭だけが、神様の安息なさる基盤を用意することができるのであり、そのような家庭だけが、新しい世界を創建できるのであり、そのような家庭だけが、この宇宙に永遠なる幸福を宿すことができます。そのような家庭で私たちが安息するようになれば、幸福の基盤が準備されるのです。(222)

 私たちは、個人の救いを目標として行くのではありません。家庭の救いの基を立てなければならないのです。家庭は、社会形成の基盤となるのであり、国家形成の基盤となるのです。それゆえ、真なる家庭とならなければなりません。真は真同士、合わさるなと言っても合わさるのです。しかし、水と油はいくら合わせようとしても分離します。合わせようとすればするほど分かれるのです。

 このような立場から見ると、本質的に和合できる内容を整えた家庭、統一の要件を整えた家庭になったならば、そのモデル的な家庭によって、氏族形成が可能になるのです。その家庭は、今まで私たちが習慣的に生活してきた家庭とは内容が違います。それは、今までの現実的な社会制度や、世界情勢に観点をおいて、そこに一致することによって新しい方案を模索していくといった、そのような家庭とは違うのです。モデル的な家庭が一致しようとするのは、今日私たちが暮らしているこのような社会ではなく、このような環境ではありません。これを超越するのです。

 それは今まで人間が夢にも思わなかったほどに、天地の差です。人間は誰でも、家庭で泣いている父母よりは、笑っている父母に侍り、暮らしたいのです。笑って生きる兄弟と共に暮らしたいのです。それではどうすれば笑う父母に侍って暮らすことができ、笑う兄弟と暮らすことができるのでしょうか。世俗的な夫婦と、その父母を中心とした家庭ではなく、全人類と、全世界の父母を中心とした家庭にならなければならないのです。(223)

 今日統一教会の皆さんの時代は、真の父母と真の子女を中心として、真の家庭を築くようになれば、主管できる基準が立てられる時です。そしてこれから統一教会が行く道には、幸福の花が咲くことでしょう。この度、世界巡回をしてきたのも、家庭的な四位基台を復帰するためです。私たちは、イエス様が個人的に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを中心として四位基台を復帰できなかったのを、世界的な家庭の四位基台によって復帰しなければなりません。

 それゆえ、韓国を基盤に、アメリカ、ドイツ、日本を中心とした平面的な四位基台の家庭基準を準備したのです。言うならば、世界的メシヤ理念の基準を立てておいたので、これからの統一教会は絶対に滅びません。今や、先生が死んでも、統一教会の理念は世界を征服しても余りあるのを皆さんが知らなければなりません。(224)

 今日、統一教会が提示する内容は何でしょうか。統一教会は家庭を提示します。これは父母を中心とした新しい家庭です。新しい家庭制度から新しく出発する息子・娘たちは、過去を清算して立たなければなりません。(225)

 統一教会の道は、個人として行く道ではありません。家庭的に行く道です。家庭を築き、食口と共に行く道です。分かりますか。食口には父母があり、兄弟がいるのです。食口同士、世間の兄弟以上の兄弟愛をもつことができなければ偽者です。そのような人たちは、今後蕩減を受けるのです。いくら避けようとしても、避けられません。結局は押し出されるのです。いくら頑張っても、押し出されるようになるのです。

 その次には、各自の家庭へ行きます。分かりますか。各食口たちにも家庭ができるでしょう。兄さんの家庭、姉さんの家庭、弟妹の家庭など、家庭ができるのです。もう、食口として行く時は過ぎました。今からは家庭単位で行くときなのです。家庭として行くことのできる段階に高めてあげるためのものが、何かといえば、祝福だというのです。それでは、食口として行くときと、家庭として行くときと、どちらが貴いでしょうか。家庭として行くときです。六千年歴史の全体の願いがこれです。(226)


  4、復帰の家庭

 再び来られる主が、新婦を迎えることによって、初めて復帰の家庭という言葉が現れます。再び探し出さなければならない復帰の家庭、それは人類が願う家庭です。六千年の歴史の中で、信じ現れた数多くの宗教指導者たちが、数多い怨讐の執権者たちや為政者たちに犠牲にされながらも、懇切に願ったのは、主が来られ、自分たちの恨みと怨讐に報いてもらうことでした。しかし、彼らの怨讐を討つにしても、主一人ではできません。一人でできるのであれば、すでにやったでしょう。ですから、天の家庭が現れなければなりません。天の家庭が編成され、地上に新しい足場を築くのです。そうして、心情のダイナマイトをもって、サタン世界を爆破しなければなりません。(227)

 復帰の家庭と言いますが、その復帰された家庭の中心には誰がなるのでしょうか。神様がお探しになる真なる息子・娘によって築かれた一つの家庭が、神様の創造目的ですから、その家庭の中心は、神様の本当の息子・娘でなければなりません。では誰でしょうか。この宇宙を相続できる全権をもってこられる方です。その方が再臨主です。その再臨主が来て、家庭を築かなければならないのです。(228)

 今日、私たちの恨みは何でしょうか。アダムとエバがエデンの園で真の父母として、真の家庭を築き、歴史を出発できなかったことです。これは人類の恨みである前に神様の恨みです。神様が人間をおつくりになった目的は、そのような家庭を立て、この地上に平和の王国を創建することでした。それにもかかわらず、その家庭が壊れることによって、神様は六千年という長い歳月の間、恨みを抱き、復帰の歴史を繰り返してこられたのです。その過程で、数多くの恨みの峠を限りなく踏み越え、今までの歴史を築いてこられたのを、皆さんは知らなければなりません。

 そのような歴史に責任を負い、解決するために来られる方が、再臨主です。では再臨主は何をしなければならないのでしょうか。家庭を築かなければなりません。家庭を築くのも、空中でではなく、地上で築かなければなりません。そうしてこそ、そこから氏族が現れ、民族が現れ、国家が現れ、世界が現れるのです。主が新しい天国を建設するための役事をする場合には、再臨の権勢をもって、また、無数の鉄窓をもって世界を苦しめてはならないのです。再臨主が国家的基準を越えるとき、世界が一時に帰ることができる足場を固めていかなければなりません。まかり間違えば、イエスがこの地上で受けた悲惨な歴史が、ここに繰り返されえる事由が隠されているということを、皆さんは知らなければなりません。(229)

 来られるイエス様は、必ず神様が願われる家庭を立てなければなりませんが、その家庭は真の家庭でなければなりません。今まで人類は、真の愛を追求してきました。結局、偽りの愛の形態は、家庭や社会をだめにするのです。ですから、すべての万民が共有できる神様の愛を中心とした、人類全体が願う最大の愛を中心とした、一つの真の家庭が出発しなければなりません。そのような家庭が現れなければ、氏族を編成することができないのであり、そのような民族が現れなければ、国家や世界を築けないのです。それゆえ、神様が人類の前に提示した救いの摂理で、人間が対し得る最高の基準と、神様として願う最高の理想的基準点は、家庭にあると見るのです。(230)

 復帰の家庭はどのような家庭でしょうか。歴史的な願いの実体です。神様は、今まで六千年の間、この一つの家庭を探し出すために摂理されました。この歴史的な願いの実体は、どこで築かれなければならないでしょうか。とりもなおさず、この現世の、現実社会で築かれなければなりません。未来に築かれてはなりません。現世に築かれるのです。それが築かれるその時が終わりの日です。これが歴史的な願いの基準であり、現世万民の願いの基準です。人類の過去、現在、未来の願いの基準です。人間として生まれ、行き来した数多くの聖人、賢哲たちも、この家庭を慕いました。

 善のために死んでいった哀魂は、何のためにそうして犠牲になっていったのでしょうか。この一つの目的を助けるための一つの肥料として、善なる人々はそのように数多く犠牲になっていったのです。ですから、この願いがかなうとき、初めて歴史過程で犠牲になった聖人、賢哲たちも、恵沢を受けるようになります。聖書を見ると、義の冠、愛の冠、何の冠、このように出てきますが、それはみな、そのような恵沢をいうのです。そのような先祖たちを通して、この現世に残された後孫たちが福を受けられる中心となる所が、復帰の家庭です。それゆえ、現世で宗教を信じる人々が、この基盤を通して福を受けなければならないのです。歴史の恨みを解くことのできる一つの家庭というのは、現世のすべての恨みをも解くことができるし、さらに新しい歴史に向かう出発の一基点にもなり得るのです。(231)

 私たち統一食口の願いは何でしょうか。復帰の家庭になることです。私たちの願いもここにあり、アメリカの平和の起源もここにあり、天上天下の幸福の基点もここにあり、一つの摂理の基点もここにあります。また、天と地がひっくり返る天地開闢の基点もここにあり、すべての人生の価値の根源もここにあり、願いの出発もここにあります。全部ここです。では、復帰家庭の中心は誰でしょうか。真の祖先です。真の祖先は、父母でしょう。(232)

 人間たちは、堕落した縁で、お父さんとお母さんがもう一度生まれるのを見ることができます。世間で、お父さんとお母さんが生まれるのを見ることができますか。堕落の縁で、それを見られるというのです。胸の詰まる事実です。それゆえ、キリスト教では、新生しなければならないと教えます。母のおなかの中にもう一度入って、再び生まれなければならないというのです。しかし、母のおなかの中にもう一度入ることができますか。できないから接ぎ木をしなければなりません。首を切ってしまって、そこにイエス様を接がなければなりません。(233)


  5、復帰の家庭になるには

 イエス様がこの地に来たのは、外的にはサタン世界を処理できる機能をもった王として来ましたが、内的には父母として来たのを知らなければなりません。

 イエス様が真の父母の位置に出ていこうとすれば、真の父母の条件を立てなければなりませんが、真の父母の条件は、権能をもってしてはいけないのです。愛をもってこそ可能なのです。(それは)どんな愛でしょうか。サタン世界の愛よりも、もっと大きく、深く、広い愛でなければならないのです。

 「サタン世界の王に対した以上に私をもてなし、サタン世界の父母に対した以上に私をもてなし、サタン世界の夫や妻、子供に対した以上に私をもてなせ!」。このような宣布をしなければ、イエス様はメシヤの資格がないとの結論が出る、ということを知らなければなりません。それで、イエス様はこのような内容として、「私を誰よりも愛せよ」と宣布しました。過去、現在、未来に存在するサタン世界のすべての人間たちは、誰よりも私を愛さなければ神様の前に行けない、という決定的な宣言が、イエス様をしてメシヤになり得る資格をつくったのです。イエス様は、言葉だけでなく、そのようにできるというのです。そのようにイエス様を愛する人を、愛することができるというのです。それをはっきり知らなければなりません。

 では、どのようになるのでしょうか。サタン世界の王よりも、イエス様を一層愛せば、天の国の王権を相続できる道が生じるのであり、サタン世界の父母よりも、イエス様をもっと愛するようになれば、神様の国の父母に侍ることができる道が生じるのです。サタン世界の妻子よりも、イエス様をもっと愛せば、神様の国の妻子を愛する道が生じるのであり、サタン世界の夫と妻よりも愛するようになれば、神様の国の夫と妻が見いだされるという話です。何の話か分かりますか。そのように愛せば、外的にそのようなことをすべて探し出すことができ、イエス様と神様をも迎えることができるというのです。

 それでイエス様は、「誰よりも私を愛さなければ、わたしの弟子となることはできない」と断言しました。その当時としては、人々の前で、刀で斬り殺されそうな言葉です。欲張りのようではないですか。妻のいる夫がその話を聞いて、自分の妻に、「行ってイエスを愛せ」、そう言うでしょうか。行ってばかりいると殺してしまう、と脅迫したことでしょう。

 ですから、最も難しい位置がメシヤの位置です。最も難しい仕事がメシヤの仕事だというのです。メシヤに一度なりたい人がいれば、手を挙げてみなさい。私が知るところでは、メシヤをやりたいという人は、全部狂った人です。自分がやりたいことをしていては、メシヤになれません。どれほど困難なことか、分かりますか。(234)

 神様の家庭を探し出そうとすれば、サタン圏の愛を退け、立つことができなければなりません。それでイエス様は、「あなたがたは、誰よりも私を愛さなければならない」と語られたのです。「あなたがたの父母や妻子、夫や息子・娘よりも私を愛さなければ、私にふさわしくない」ということです。このような話があり得ますか。

 しかしイエス様は、愛の独裁者という非難を浴びるだけの、そのようなみ言を語られました。これは、サタン圏内で父母や子女を愛する、その愛を超越しなければならないために、語ってくださったみ言です。それ以下になるときは、サタンの所有になるというのです。牧師や長老になったとしても、いくら世界的に有名な伝道師になったとしても、サタン主管圏内から抜け出せないのです。

 この驚くべき恐ろしい事実を、大部分の宗教者たちは知らず、とりわけ伝統的に伝わってきた歴史的な因縁を受け継ぐべきキリスト教徒たちは、夢にも思いませんでした。これがどれほど悔しく、無念な事実かということを、皆さんは悟らなければなりません。(235)

 家庭を探していく道は、平坦な道ではなく険しい道です。歴史過程に刻まれたすべての曲折は、家庭を通して始まったので、家庭を探し越えていくためには、数多くの恨みの峠と、絡み合った事由を踏みしめ、険しい峠を越えなければならないということを、私たちは知らなければなりません。(236)

 復帰の家庭に入ろうとすれば、どうすればよいでしょうか。統一教会と因縁を結ばなければなりません。統一教会で教えてくれる教理のとおり、行わなければなりません。それでは、統一教会で教えてくれる教理は何でしょうか。サタンを屈服させる方法を教えてくれるのです。歴史的に神様の怨讐の業を行ってきたサタンを追放しようというのです。この教理には、歴史上において、いつの時であっても現れ、サタンに向かって「やい、この野郎、怨讐サタンよ、退け」と言って、サタンを追放できる権威を備えた内容がなければなりません。サタンが支配しているこの現世において、サタンを屈服できる権威を備えた内容がなければ、絶対に統一することはできません。言うならば、エデンの園で、アダムとエバがサタンの支配圏に入ったのを、全部爆破し、サタンを屈服し得る権限の備わった内容を準備できなければ、復帰の家庭に入ることはできません。(237)

 今日、統一教会を信じる人たち、すなわち統一教会の教理を通してみ旨を知っている人たちは、どのような人にならなければならないでしょうか。歴史において、どのような闘いにも負けず、勝利者になれるという自信をもった人にならなければなりません。さらに今日、現世において、いくら険悪なこの地だといっても、ここで忠節を守って進み、悪なる世界を屈服できる主体性をもった人にならなければならないのです。

 今まで、サタンと神様が闘う戦争の度ごとに後退し、その度ごとに失敗した神様の歴史を、統一教会が責任をもって復帰できなければなりません。統一教会員は、そのような資格をもった人にならなければなりません。現世で、民主と共産が互いに争っていますが、その争いの過程の中でも、それを踏み越え、収拾し、打ち勝てる資格者にならなければならないのです。時代の支配を受けないで、時代を支配し、立つことのできる主体的能力があってこそ、天の家庭とつながることのできる資格者になるのです。(238)

 皆さんが社会生活をするにおいて、忘れてならないことは何でしょうか。皆さんの対人関係や生活の中で、そして対社会関係において結ばれるすべての事件は、歴史過程で神様をもてあそんだ怨讐の手錠が連結されている舞台なのです。それゆえ、皆さんは歴史的なすべてのサタンの罠を除去し、審判してしまうことのできる権限をもった人にならなければなりません。すなわち、歴史時代において、サタンの讒訴を受ける網に引っかからないようにしなければならないのです。言葉を一言言うのでもそうであり、生活するときにもそうなのです。どのような社会生活やどのような仕事をするときでも、神様のサタンに対する蕩減復帰歴史が、六千年もつながれて結実したのと同じ立場にある環境が皆さんを包囲しているので、そこで倒れない人にならなければなりません。

 そうして、サタンを支配できる人にならなければ、天の家庭とつながり得ないというのです。天の家庭とつながらなければ、天の氏族になれません。天の氏族圏内に入らなければ、天の民族に同参できず、天の民族に同参できなければ、天の国家の国民になれません。同様に、天の国家の国民になれなければ、天の国、地上天国に入れません。(239)

 天国世界はどのような世界でしょうか。そこは本然の世界なので、サタン世界から讒訴される個人や家庭や氏族は入れません。それゆえこれからの統一教会員は、すべて個人や家庭や自分の親戚である氏族と一つとならなければなりません。言うならば、三代が一つにならなければなりません。アダム家庭を見ると、アダムが一代、カインとアベルが二代、カインとアベルの息子が三代、このように三代が一つにならなければなりません。神様を中心として見ると、神様が一代、アダムとエバが二代、カインとアベルが三代になります。

 イエス様は、後のアダムとして来られ、第二の人類の祖先にならなければならなかったのに、そうなれなかったので再び来るようになりました。それで再び来られる主は第三のアダムとして来られるのです。この第三のアダムは、人類歴史を完成するために、すべての歴史を収拾しなければなりません。それゆえ皆さんも、三代を中心とした基準で、サタンの讒訴を受けない家庭をつくらなければなりません。そのような家庭をつくらなければ、天の氏族圏内と、国家圏内と世界圏内に同参できないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。(240)

 復帰された家庭はどうすべきでしょうか。すべての人を愛し、すべての国を愛し、すべてのことを超越して愛した後にこそ、復帰された家庭として越えていけるということを知らなければなりません。復帰された家(家庭)には誰がいるのかといえば、神様がいるのです。この神様を愛せなければなりません。神様を愛するためには、どのような民族であれ、愛しても余りあるようでなければなりません。(241)


  6、真の家庭主義と真の父母の宗教

 歴史はアダムとエバの争いで始まりました。詐欺から始まったのです。「取って食べると死ぬ」、そう言ったのに、「ああ、これは食べても大丈夫、目が開ける」と言って、こっそり誘って食べさせるという詐欺から始まったのです。始まりから誤ったのです。ですから私たちはそこに立脚して、ひどい苦労をしなければなりません。罪の代価を支払うのです。蒔いたとおりに刈り取らなければなりません。

 終わりの日になれば、兄弟の因縁がすべて切れます。今まで人類歴史の中では、天道や父子の因縁や、三綱五倫といったものが、この世界を収拾する一つの母体になったのですが、終わりの日には、それらのものがすべて壊れていきます。お母さんが何だ、子供が何だ、妻が何が、夫が何だというように、全部蹂躙する時になれば、世の終わりだということを知らなければなりません。父母が子供を包丁で刺し殺したというようなことが起これば終わりの日であり、兄が弟を刺し殺したという話が四方で入り乱れれば、終わりの日です。兄弟は唯一であるとか、父子は唯一であるとか、夫婦は唯一であるというのが、すべて自分を中心として有利にしようとする時世になれば終わりの日です。エデンの園で、堕落によってそのように植えられたので、そのような現象が世界的に起こり、堕落の実を収める収穫期が来るのです。今がそのような時ではないですか。この世が、そのまま流れていってはならないので、それを収めるための刈り入れの時、すなわち収穫期に入ってきたのです。(242)

 堕落した父母の因縁で、神様から離脱した伝統を受け、この世界がこのありさまになりました。ですから、真の父母が来て、新しい主義を立てなければなりません。それはどのような主義でしょうか。世界主義でしょうか。天宙主義でしょうか。真の家庭主義です。真の家庭主義が現れなければ、世界主義が現れ得ません。この真の家庭主義の代表者は、神様の真の息子でなければなりません。彼は、神様の心情的なすべてのことを相続する内情的相続者であり、外形的相続者、そして万物所有権の相続者にならなければなりません。言い換えれば、神様の心を相続できる方であり、体を相続できる方であり、万物を相続できる方でなければならないのです。そのような息子であってこそ、神様の代身者になれるのです。その息子が来てこそ、初めて天国が築かれるようになります。(243)

 真の家庭主義は、どのような主義ですか。真の家庭主義は、神様の愛の主義です。簡単でしょう。愛がなければ、いくら世界一だと腹を出して歩いても、その人は不幸な人です。そうですか、そうではないですか。真の家庭主義は、父母が行けば、息子・娘は父母の後を永遠についていく主義、また、兄さんが行けば、弟が永遠についていく主義、弟が行けば、兄さんが永遠についていく主義です。ですから、弟の国があれば、兄さんの国がついていき、兄さんの国があれば弟の国もついていこうと言わなければなりません。(244)

 神様の愛の主義は、どのような主義でしょうか。国境を超越し、このすべての平面的な世界を超越し、互いに授け受ける場合において、互いがまず与えよう、受けることは後にしようとする主義です。そのような主義の世界が、今後来る理想世界です。理想世界は何か大きな権勢をもって「この野郎たちめ」と怒鳴りつける世界ではありません。理想世界というのは、自動的に心が動いて神様の愛に和することができる、万民兄弟主義世界です。今後そのような世界になるでしょう。ですから、真の家庭が現れなければならないでしょう。(245)

 救い主というのは、メシヤのことです。メシヤ思想に、救い主という言葉があるでしょう。皆さん、キリスト教を信じる人々に、誰を信じるかと尋ねれば、イエス様を信じると言いますが、イエス様の家庭を信じると言いますか。また、仏教を信じる人にも、お前は誰を信じるかと尋ねれば、釈迦牟尼を信じると言いますが、釈迦の家庭を信じると言いますか。家庭を信じるという話を聞きましたか。

 しかし、これからはそのような宗教が現れなければなりません。家庭救世主の宗教が現れなければなりません。それが真の父母主義です。真の父母の宗教です。真の父母の宗教というのは、四位基台を成す真の父母の生活宗教です。そうなれば、お父さん、お母さんがその家庭の息子・娘の救世主になるのです。そうでしょう。

 皆さんが、黙示録の一番後ろを見れば、復帰歴史が出ています。だから聖書は偉大だというのです。このような復帰の原則があったので、聖書の終章に復帰の内容を入れるようになったのです。ヨハネの黙示録二二章一七節を見ると、「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と記録されていますが、花嫁、御霊が何であるか分かりますか。花嫁は、主の妻になるのであり、御霊は霊的なものなので、ここから霊肉が合わさった母が現れなければならないのです。イエス様は人類の父として、男性なので女性の中から母を探し出し、新しい世界へと救わなければなりません。これを、キリスト教徒たちは知りません。教えてあげると言っても嫌だと言い、かえって異端だと言うのだからあきれるでしょう。(246)

 天宙主義は、どのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これはわが家主義であり、わが国主義であり、皆さん個人の主義です。人間が堕落しなかったならば、世界は誰の主義になったでしょうか。アダムの主義になるはずです。そのアダム主義が、まさしく真の父母主義です。お父さん、お母さん主義だというのです。これ以上のほかの主義はあり得ないのです。それゆえ、統一教会は心情的な問題を、この本然の理想的な家庭の枠内で、真の父母という理念を中心として、天の主義と結ばれるようにしなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り、統一教会は滅びません。滅びてはならないというのです。(247)

 天宙主義とは何でしょうか。家庭についていえば、「私」が住んでいる家庭に、金銀財宝が天下をぎっしり埋めても余るほどあるといっても、そこに酔って生きるのではなく、それを忘れ、いつでも神様の愛に酔って生きられる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは様のものとして、そっくりつなぐことができなければなりません。(248)













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