祝福家庭と理想天国
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第三章 祝福の意義と価値

  第一節 新生の根本原理
  第二節 新生と祝福の起源
  第三節 祝福の意義と価値
  第四節 祝福を受けるための蕩減条件


第一節 新生の根本原理

  1、メシヤが必要な理由

 私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的基点は何でしょうか。それは、神様の愛の接触点に帰っていくことです。

 ところで、人間は一から十まで、すべてが神様とは関係のないサタンの実体を携えた存在となってしまいました。これは神様の愛とは反対となるため、蕩減しなければならないのです。

 蕩減とは原罪を除去することであり、原罪を除去する場合、血統的なものが根本的に存在しています。血統的なものは、堕落人間には到底解決することができないのです。それで、メシヤが必要なのです。(1)

 イエス様はこの地上に来られて、霊的父の使命を果たし、サタンを霊的に防ぎ止めました。サタンに勝利して、逝きました。夫は天を象徴するので天に行かなければならず、女性は地を象徴しているので、地上でサタンと闘い夫のように勝利しなければ、新婦の位置に出ていくことはできません。エデンの園でサタンが男性、女性を蹂躙したのを、蕩減し勝利して、再出発しなければならないのです。

 皆さんは、聖霊を中心として、サタンが侵犯できる限界線を脱しなければなりません。イエスと聖霊の愛の力である、復活の能力、復活した生命の力を受けて、サタンと闘い勝利しなければならないというのです。このように一生を生きるのでなくては、天国に行くことはできません。(2)

 この地上のキリスト教徒たちは、主が来られるようになれば原罪を脱くのだと言いますが、原罪を脱ぐとはどういうことでしょうか。それは、サタンの侵犯を受けない心情的血統の回復を意味しています。最後の最後まで残るものが、これです。(3)

 血統が違うということは、父親が違うということです。ですから、父親の異なった血統をもって生まれた人間は、本来堕落していない本然の父母によらなければ、罪を蕩減することはできません。分かりますか。それゆえに、今日まで歴史は、堕落していない始祖となることのできる権利をもった、そのお一人が来られる時まで、宗教の理念を中心として連結させてきました。(4)

 堕落した人間の求める救い主とは、どのような救い主でしょうか。堕落した父母の立場でではなく、堕落していないアダム・エバと同じ立場で、神様のみ旨と一致し、神様の愛を受け、神様の祝福を受けることのできる真なる父母の立場で、人類を生み直してくれる救い主でなければなりません。そうでなければ人間は、原罪と関係のない立場に上がっていくことができないのです。(5)

 メシヤとは誰でしょうか。真の父母です。それでは、真の父母はなぜ必要でしょうか。真の父母の愛で再び、接ぎ木ということをしなければならないからです。それゆえ、メシヤである真の父母が現れなくては、堕落した人間が原罪を脱ぎ捨て、罪のない解放された立場から、完成段階の祝福を受けることのできる立場へと進んでいくことができないのです。(6)

 アダム一族において、真なる父母が生まれ出ることができず、罪多き父母が生まれ出たのを、蕩減復帰を通して、神様の前に、真の父母の役事を取り戻して接ぎ木するのがメシヤの思想であり、救世主の思想です。このようになったのは、すべて堕落のためです。(7)

 私たちは悪の父母と闘い、愛を中心に最後の勝利を果たさなければなりません。神様が送られたメシヤを通してのみ、悪の血統圏を克服できるのです。(8)

 人間たちの中に代々引き継がれてきたサタンの血統を、抜き出すことのできる人がいるとすれば、その人が真の父母なのです。このような真の父母が現れないとすれば、善なる神様との一致をなすことができず、善なる相対基準をなすことができません。(9)

 アダムとエバが堕落してしまったので、カインとアベルが縦的に一つとなる道がなくなりました。アダムとエバが堕落したのを、カインとアベルを通して復帰する立場に立っているので、アダムとエバも縦的に結ばれる基準がありません。

 神様の真の子女圏を願っている私たちは、それを縦的に結びつけてくれる真の父母に出会わなければなりません。堕落しなかった子女の立場を復帰できなければ、神様と一つとなって完成基準へ上がっていくことはできません。神様をどんなに信じているといっても、カインとアベルがどんなに一つになったといっても、堕落しなかった父母の基台を復帰しなければ、縦的に上がっていく道は生まれてきません。(10)


  2、再び生まれることの真の意味

 もう一度生まれなければならないというのは、堕落したアダムとエバの後孫である父母の血肉を通して、もう一度生まれなければならないというのではなく、堕落とは関係のない父母の血肉を通して、もう一度生まれなければならないということです。そうしなければ、神様のところへも帰っていくことができません。罪の根本の根は、アダムとエバから始まったので、これを踏み越え、すなわち原罪とは関係のない立場で生まれたという資格を備えなくては、神様のみもとに帰れないのです。(11)

 神様が私たち人間を救おうとされる目的は、どこにあるのでしょうか。堕落圏以下では、どんなに救おうとしてみても、救いにはなりません。それで神様は、堕落しなかったアダムとエバ以上の、真の父母をこの地上に再び送って、その父母を通して人類を再び出産する路程を通過するようにされます。永遠にサタンと関係をなくし、(サタンが)讒訴しようとしても讒訴できないようにして、神様だけが主管し、神様だけが干渉できるようにされるというのです。こうした立場で、人類が再び生まれなければ、原罪をもった人間が、原罪のない立場に戻っていくことはできないのです。(12)

 ニコデモがイエス様に、「どのようにすれば、救いを受けられますか」と聞いたとき、「もう一度生まれ(重生=新生)なければならない」と言ったのです。これは、サタンの子供として生まれたので、救いを受けるには神様の聖霊を受け、もう一度生まれなければならないということです。今までサタンと結んできたすべての関係を清算し、神様と創造本然の関係を結ばなければならないということです。(13)

 ユダヤ人の指導者であったニコデモが、「どのようにしたら天国に入ることができますか」とイエス様に聞いたとき、「再び生まれなければ、天国に入ることはできない」と答えられました。もう一度生まれるというのは、悪の鎖を断ち切り、天国の人となるという意味です。(14)

 再び生まれるというのは、心が改変されなければならないということです。(15)

 今日、キリスト教を信じている人々の中には、「再び来られる主は、雲に乗って来られる」と信じている人もいます。何も分からない中ででも、信じれば救われるという思考方式では、真の信仰をすることはできません。そのように簡単に救いを受けられるとしたら、統一教会は、この世に必要な宗教ではありません。(16)

 神様の摂理で信仰を立てたと言っても、神様の子供として復帰するためには、接ぎ木されなければなりません。(17)

 真の父母が真のオリーブの木ならば、皆さんすべては、接ぎ木されなければならない、野生のオリーブの木です。若葉や若枝です。新しい枝が出てきて初めて、正常な生態作用をしていると見ることができます。

 人類が信仰と愛と実体を失って、何になったでしょうか。血統的に逆さまになってしまったために、ひっくり返しておかなければなりません。それでニコデモがイエス様に、「天国に入ろうとすれば、どうしなければならないのでしょうか」と聞いた時、「再び生まれなければ、天国に入ることはできない」と、最も重要な事実的内容をもって喝破しました。(18)

 野生のオリーブの木に、真のオリーブの木を接ぐ時は、枝を切って、そこに接ぐのではなく、木の根本から切って、根だけ残しておいてその上に接ぐのです。これは既成教会が、再び来られる主によって、既存の体制や制度、またはすべての儀式を変えて、新しく出発するようになるということを意味します。彼らが信仰生活を通して結んだ実は、野生のオリーブの木の実なので、真のオリーブの木の実を結ぶためには、木の本体を切ってしまって芽接ぎをしなければならないからです。もし接ぎ木できなければ、根まで抜き取って、火で燃やしてしまわなければなりません。そのまま置いておけば、野生のオリーブの木の実が畑にばらまかれて、数多くの野生のオリーブの木をつくり出してしまうからです。野生のオリーブの木を切るのは、真のオリーブの木の芽を接ぎ木するためです。

 問題は、真のオリーブの木の芽も野生のオリーブの木の芽も、芽として見れば全く同じであるために、その是非を正さなければならないということです。特に再臨主が来られる時には、多くの偽キリストが現れるために、真実を見つめる価値観と目に混乱が生じる可能性があります。ですから、「絶えず、目を覚まして祈りなさい」と言ったのです。

 野生のオリーブの木の根元を切って、真のオリーブの木を接ぎ木することによって、野生のオリーブの木はすべて刈り取られて、真のオリーブの木の畑となるでしょう。

 このような接ぎ木をレバレンド・ムーンがするというので、騒がしいのです。彼らは、自分の身が切られる痛さを恐れて、また、偽園芸師ではないかと思っています。

 摂理歴史の春とともに、野生のオリーブの木に接ぎ木する作業が始まりました。(19)

 再び生まれるには、アダムとエバより劣っていてはだめであり、また根本的復帰も不可能なのです。再び生まれる時も、個人が再び生まれなければならず、家庭、民族、国家、世界が再び生まれなければなりません。この事実を、今日のキリスト教徒たちは分からないでいます。(20)


  3、血統転換の意味

 人が生まれるのは、男性から生命の種が女性に入ることからです。それならこの転換の道は、どこに行って、その交差点をつくらなければならないでしょうか。それは、女性の腹中です。歴史はずっとそこ、すなわち原点に戻る条件を立てる歴史でした。

 それなら、女性の腹中に胎児を懐妊するという時、そこには男性がいなければならず、結局、家庭が形成されなければならないのです。しかし、完全復帰ということを考える時、男性の骨肉の中に潜んでいる子供の種が出発点となります。すなわち、その男性の血肉の中にある子供の種の基準までも、神様の愛を中心として一致したという条件を立てなければなりません。その過程を通過しなければ、完全な血統的転換の基台のための条件を充足させることができません。(21)

 子供の種は、お母さんの腹中にあります。お父さんにもあるでしょう。お父さんのものは、骨の中にあります。ですから、お父さんの骨の中を通って、お母さんの腹の中を通って、子供が生まれてくるのです。

 では、子供はどのようにしてつくられますか。お父さんとお母さんを通してつくられます。皆さんは、お父さんの骨の中と、お母さんの腹の中を通してつくられたということを知らなければなりません。歴史というものは、おもしろいです。(22)

 イエス様を信じているキリスト教徒は、本然の基準を中心として、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘の位置に入っていかなければならないのです。それがどういうことかと言えば、アダムが生まれる前に、息子の種をもっていたように、今日のキリスト教徒たちは、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘とならなければならないということです。そうしようとすれば、イエス様と一つにならなければなりません。イエス様と愛の一体をなした後に、聖霊、すなわち霊的なお母さんを通して、再び生まれなければならないというのです。それでイエス様は、ニコデモに重生(新生)しなければならないと言われたのです。(23)

 イエス様はニコデモに、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。これに対してニコデモは、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と反問しました。するとイエス様は再び、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」と言いました。この時、イエス様は、まさしくこの原理を語っていたのです。

 キリスト教における復活と新生という言葉は、すべてこのような方法を意味しています。すなわち、血統の復帰は結局、お母さんを通して成されるのです。原罪は清算され、汚れた血統は天の血統へと復帰されるのです。

 しかし、私たちが完全な新しい生命として再創造され、根本的に再び生まれるのは、真の父の体を通してのみ果たされるようになります。真の父によってのみ、霊肉共に救われる完全な救いが可能となるのです。このようにして誕生した私たちの子女たちは、原罪がないので、救いの過程を通らないで天国に行くようになります。(24)

 キリスト教は今まで、人がどのようにして再び生まれなければならないのかについて、はっきり解明できませんでした。どこを目標として、復活の基盤を出発させるのか。それさえ、まだ把握できないでいます。今、生まれ育ち、三十歳でイエス様を信じたからといって、再び生まれるのだと考えれば、それは大きな間違いです。心情的な内容の発生地は、三十歳からではありません。歴史からです。それを引き継ぐ、心の相続をしたという条件を自分がもたなければ、重生の出発と動機は成立しないのです。これを知らなければなりません。

 血統的転換を成し遂げるためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部にまで入って、将来の子供となるべきその種に、神様の愛と結束された勝利的条件を充足させなくては、将来、神様の子女として生まれることはできません。これは、理論的に間違いありません。聖書にそのようにしてきた記録がありますか。そうだとすれば、聖書は神様のみ言だというのです。(25)

 今まで、イエス様を信じるというのは、何を意味しますか。イエス様は男性として、堕落しなかった本来のアダムなのです。結局は肉的な父であり、霊的な父であられます。それゆえ、この父と一つにならなければ、再び生まれる道は全くありません。そのためキリスト教は、人間たちをして、イエス様の骨髄にまで入っていったという、イエス様を渇望するように慕い、イエス様の愛情と触れ合う、そのようなことを体恤させるただ一つの教えとして、イエス様を新郎として慕い迎え入れなさいといったのです。つまり、イエス様を新郎として迎え入れなさいと教えることは、二つの意味をもっています。一つは、その骨肉に入る子供の種になりなさいということであり、もう一つは、お母さんの腹を通過したという条件も得なさいということですが、これがまさに、新婦の立場です。(26)

 本来、人が生まれる時、霊人体と肉身が分かれて生まれるようにはなっていません。ところで、イエス様が死ぬことによって霊的復活のみ成したため、霊人体は生まれたけれど、肉身は生まれることができなかった立場にあるので、イエス様は肉身をもって再び来ざるを得ないというのです。それゆえに、イエス様を信じて霊界に行った人は、イエス様が再臨する時もう一度来て、お母さん、お父さんの腹中を経て再び生まれたという条件を立てなければ、生きる道がないというのです。言い換えれば、皆さんは、真の母を迎える前に、お父さんの骨の中に娘・息子の種として存在していて、お母さんを通して出てくるのです。聖霊を通して主を探すのは、真の父の骨の中の子供の種の立場に入っていこうとするためなのです。霊的にそのような立場を蕩減復帰するのです。

 それで、イエス様が再臨する時に、霊的にお父さんの骨の中に子供の種として入った者たちが、イエス様の肉身を通して一つとなり、お母さんを通して出てくることができるのです。それが復帰の道です。心情と血統を交換するためにあるのが復帰の道なのに、今日キリスト教徒たちは、このようなことは考えもしないで、ただ信じて天国に行こうというのですから、話が理屈に合いません。(27)

 皆さんは、真の父母と関係のない立場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を引いて生まれたので、この血筋から脱するためには、血筋を踏みに踏んで、抜きに抜いてしまわなければなりません。そうして、血統を根本的に転換しなければ、天の国へ行くことはできません。(28)


  4、重生(新生)しようとすれば

 新郎となられるイエス様の愛と新婦となられる聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「わたしがあなたがたにおり、あなたがたがわたしにおるであろう…」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成されないでは、キリスト教でいう新生はあり得ないのです。

 皆さんも、重生(新生)しなければならないと言いますが、皆さんが重生しようとすれば、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛の圏内で築かれるそのいかなる愛よりも、神様を中心として築かれる愛がより一層次元が高くない限り、神様と連結され得る道がないということを知らなければなりません。

 これが受難の道であり、宗教者たちの行かなければならない難しい道であるというのです。キリスト教徒たちもイエス様を日々思慕しており、イエス様が再臨されるのを首を長くして待っており、はらわたが張り裂けるほど「新郎イエスよ、来たりませ!」と、二千年間叫んでこなかったでしょうか。しかし、体が裂けていき、胸が引き裂かれ、骨髄が溶けるような立場、体の中にいるのか体の外にいるのか分からない境地、ただ神様やイエス様とのみ通ずることのできる境地に入るようになる時、初めて聖霊が臨むのです。

 そうして、聖霊が臨むことによって、霊的な赤ん坊として再生することのできる霊的重生の役事が展開するのです。皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子・娘だというのです。まだサタンの讒訴を受ける人間であることを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできないのです。地獄に行きます。(29)

 血統を転換するのはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動するのは、自分自身でなければならないと言いました。このような基準が成し遂げられない限り、私たちは救いの道に至ることはできません。それは決してたやすく成されるものではなく、死ぬか生きるかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷や、血を吐く死の境地に行って初めて、血統転換が可能です。(30)

 イエス様は弟子たちに、このように語られました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。

 サタン世界の生命に未練をもたず、神様のみ旨の前に自分の血と肉と骨がめらめらと燃えて粉となり香りとなって、天地に香気を漂わせるまで神様を愛し、宇宙を愛する人は地獄へは行かないというのです。彼は永遠に生きることができます。(31)

 「心と精誠をつくして、主なるあなたの神様に仕えよ」と言われたように、そこには私心がないのです。この言葉は、全体的な立場で公的であり、私的なものは受け入れられないということです。すなわち、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神様を愛せよ」と言われたのが第一の戒めです。これは絶対的な立場で公的であるということです。

 絶対的立場での公的という言葉は、「私」がないということです。全体を代表して、それを主体としなさいということです。この世は堕落圏内に入るので、全体を代表する一つの中心存在として神様に侍っておき、絶対的な主体として侍るのです。そこでは、「私」という観念をもってはいけません。「私」という観念をもつようになると、必ずサタン圏内の所有的条件として残されるのです。自分を絶対否定する立場で、絶対主体観念を中心とする外的な物質と体と心が一つとならなければなりません。このような立場で、祭物を捧げなければなりません。(32)

 イエス様はニコデモに対して、あなたが新しく生まれなければ、天国に入ることはできないと言われました。今まで生きてきた自分は、どうせ歴史的に否定されなければなりません。いくらうまくやったと弁明して自ら立てておいた何かがあるといっても、「私」自体は、否定されなければなりません。堕落人間であるために、そのような圏内から逃れられないというのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったというのです。(33)

 世界万民は、真の母が現れる前に生まれたので、むなしく生まれたことになります。それゆえ、イエス様に接ぎ木された立場でイエス様の腹中に入り、イエス様が夫婦となった時、聖霊を通して再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたため、真の愛を通して再び生まれなければならないというのです。キリスト教で愛を強調する理由も、そこにあるというのです。(34)

 イエス様と一体となるには愛以外にはありません。真理でも正義でもありません。生命が存在するのに先立って、愛が必要です。愛は歴史をも飛び越えることができ、距離や空間の支配を受けないというのです。(35)

 神様は、愛を中心として創造本然の人間を結合させようとされました。自分の身の苦しみを忘れて、ただひたすら愛を慕い求めなければ、本然の人間へと飛び越えることはできません。(36)

 神様を愛し万物を愛する心をもつとき、堕落した愛を除去させることができます。創造本然の人間を追求する程度が、恋人同士愛し合う程度よりも勝っていて初めて発展します。神様を絶対的に愛し、再創造の愛の圏で人格価値を所有しようという目標を立てて前進しなければなりません。

 なぜ、そうしなければならないのでしょうか。非原理的愛で堕落したからです。傲慢な愛、自分中心の愛などで堕落したからです。それゆえに、本然の愛である神様の愛をもって初めて、前進することができます。自己の本然の人格完成を望む心が、未婚の男女たちの恋愛する心以上になって初めて、完成基準に上がっていくというのです。サタン的愛を、神様の愛で消化することのできる力がなくては、上がっていくことはできないのです。

 それゆえ、神様を敬慕しなければならず、理想的相対として来られる主を敬慕せよと教えるのです。これは、二千年の間新婦の立場で独身生活をし、新郎を待たなければならないキリスト教徒の生活の由来でもあります。このような内容を、キリスト教徒は理解できないでいます。(37)

 この世の夫婦が互いに愛し合ったり、父母が子供を愛したり、先烈たちが国を愛した、その程度も神様を愛することができずして、神様の息子・娘になれるでしょうか。神様の真の息子・娘になろうとすれば、まず神様と霊界、地上、そして後孫の前で称賛される者とならなければなりません。

 三点が合わなければなりません。三点が結合されて初めて、面積が生じます。二点では線にしかならないので、それだけでは足りません。(38)

 神様を信じることができずに堕落したので、救い主を信じて従っていかなければなりません。従っていって何をするのでしょうか。愛の安息所をつくらなければなりません。簡単ではないですか。そして、新郎となられたイエス様と実体的に一体化し、心情一体化しなければなりません。そうして復帰しなければなりません。そのようにして、神様と真の父母と真の子女とが互いに出会う場、すなわち神様が太初より願われたその場がこの天地間にできれば、そこから新しい天地が開かれるのです。(39)

 皆さん各自の血統的内容が異なり、背後が異なっているとしても、父母に似るためには、接ぎ木する役事をしなければなりません。ひっくり返して接ぎ木しなければなりません。接ぎ木したいのなら、皆さん自体に残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは父母から始まったので、父母を通して清算されなければなりません。それで、真の父母に接ぎ木しなければならないというのです。アダムが真の父母になれずに偽りの父母となったために、神様は今まで真の父母を捜してこられたのです。再臨時代に新郎新婦とか、小羊の婚宴というのも、すべて父母を取り戻すためです。(40)

 皆さん、精誠も真の父母を通じなくては、考えることができません。国のために地区に出ていって闘い、地区長となって忠誠を尽くすといっても、真の父母を中心としなければなりません。すべてのことは、真の父母の因縁を通さなければなりません。真の父母の因縁を通して苦労し努力し、実りを得て初めて、天のものとして収められるのです。そうしなくては、天のものとして収められません。

 それゆえ、成約時代は、侍ることで救われるのです。皆さんは、この世を慕う前にまず父母を慕わなければなりません。それが子供としての道理です。自分の花嫁を先に慕う人に、子供としての資格がありますか。父母のもとで育ち、父母が一番いい、という立場で成長するのが子供ではないかというのです。これが原則です。

 将来、祝福を受けても、相対との因縁はあとで結ばなければなりません。まず、父母を慕わなければなりません。父母がいなければ、昼も夜もこの世もなく、自己の存在価値がないかのような気持ちをもたなければなりません。父母に対する思慕の心情と敬慕の心情が、皆さんの生活のすべてを占領しなければならないのです。それでこそ、天の息子であり、娘だと言えます。

 そのような生活過程を通過したそのあとでこそ相対、すなわち妻なら妻、夫なら夫を迎えることができるのです。そうしなくて、どうして夫を迎え、妻を迎えることができるでしょうか。

 まずは、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の望みの一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母であるという基準を中心として侍らなくては、救いを受けることはできないのです。皆さんは、そのように侍ってみましたか。偽者のようですね。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。

 それゆえ、皆さんは「私は真の父母と永遠に一つとなり得る息子、あるいは娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越することができるぐらい固くもたなければなりません。そうでなくては、いけないのです。(41)

 真の父母に侍るには、一人ではいけません。男性なら男性、女性なら女性、自己の相対的な存在がいなければなりません。もし一人であるときには、父母の前に、その何かを報いることができ、捧げることができなければなりません。それによって初めて、皆さんは父母の愛を相続して、自分たちの後孫に血統的因縁を連結させることができるのです。血筋を通して、このような因縁を連結させることのできる価値的内容が決定されるのです。このように愛の土台を基盤として真の父母に侍ることができるのです。このように血統的な相対的価値を基準として真の父母に侍ることができるのであって、そうでなければ侍ることはできないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(42)

 統一教会の信仰は、自分が神様の息子・娘であることを実感するところから出発します。これは、神様の愛を中心として子女の立場を復帰することです。(43)

 真の孝子女となりたければ、父母の心情を通過すべきなのです。統一教会に入ってきて先生を知りたければ、先生の心情的世界に入っていかなければなりません。

 責任者たちや伝道師たちがこのような心情に入って、道を行きながら一日のうちに何度も、我知らずに神様の心情に息が詰まって、とりとめようもなく痛哭する境地を体験するようになれば、その教会はすべての事がうまくいかざるを得ません。(44)

 精誠を尽くす心情の世界では、先生と皆さんは一つとなることができます。心情の世界ではすべてが一体となれます。心情は距離を超越し、環境を超越し、歴史を超越するからです。時代を短縮させることもできます。

 ですから、皆さんは先生と同じ立場に立たなければなりません。先生が悲しめば、皆さんも悲しまなければなりません。呼吸を一つにしなければなりません。先生が息を吐けば皆さんは息を吸って、先生と一体となって、拍子を合わせていかなければなりません。(45)

 皆さんも、難しいけれど復帰の道を行っています。このような道を行っているのは、皆さんであれ私であれ、神様を知ったからです。不平があり恨みがあるとすれば、神様を知ったという罪しかありません。それゆえ、恨むことはできません。それは悪いことですか。神様を知らないためにすべてが滅んでいき、共産党がこの世をのみ込み、キリスト教が全部崩れていっているにもかかわらず、神様を知ったことが罪なのかというのです。どんなに悲惨であっても、この道が貴い道であるので行かざるを得ません。どうせ、すべてのものが崩れていくからには、死ぬほど忠誠を尽くして立派に行こうというのです。(46)

 真理を探求するにおいても同様です。既成教会のように聖書を読むからといって済むものではありません。どれほど膨大なはかりではからなければならないか、考えてみなさいというのです。実験する人が、あれこれ持ってきては合わせてみるように、真理や原理を探り出していくのです。それを考えれば、先生は多くのことを発見したことになるのではないですか。(47)















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