祝福家庭と理想天国
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第二節 新生と祝福の起源

  1、イスラエル民族を通した血統転換

 歴史は闘いから始まります。アダム家庭では、アベルとカインが闘いました。ところで、カインを弟の立場に立てなければなりません。お兄さんがどのようにして弟の立場になるのかと言うでしょうが、そうしなければサタンを引きずり出すことができないからです。この闘いは、生まれるときからの兄弟間の闘いでした。

 カインが一人生まれれば、アベルも一人生まれました。エサウとヤコブも双子として生まれましたが、大きくなった後に闘いました。この二人は、お母さんの腹中にいる時から闘いました。

 タマルについて研究すれば、原理のすべてを知ることができます。タマルは、舅と関係して息子を産みました。ところで、舅と関係して生まれた子供がどうしてイスラエルの血統を受け継ぐことができたのでしょうか。この世で、そんなことがあり得ますか。

 ソロモンの母は誰ですか。彼の母バテシバはウリヤの妻でした。ダビデ王がウリヤの妻を奪ったのです。ウリヤの妻は、言うならば妾でした。

 ここでダビデはアダムの立場であり、ウリヤは天使長の立場です。そして天使長の妻は、復帰しなければならないエバの立場になります。天使長がアダムの相対者であるエバを堕落させ、引きずっていきました。愛で占領して盗んでいきました。それを蕩減するには、そのような三角関係に立ってもと返さなければなりません。そのような原理的基準に立脚した条件を立てた基台の上で生まれた子供は、天の栄光の子供として生まれるのです。ソロモンは栄光の子供です。

 タマルは自分の舅と関係しました。ところで舅との関係における精神は立派なものでした。当時の法によれば、淫行を行った女性は、石で打ち殺すことになっていました。

 タマルは、最初の夫と二番目の夫とを失いましたが、血統を守らなければならないと考えました。そのため、体面や威信は問題ではありませんでした。神様の願われる血統を、どうすれば残せるだろうかということだけが問題でした。

 血統を愛したので、血統を復帰しなければならないという一念だけでした。神様の摂理圏に立ち帰る条件を立てるために、舅と関係をもつことができたのです。これを見れば、舅はすなわち、自分のお父さんなのです。

 腹中勝利を収めた基準は、ずっとイスラエルとユダヤ教の子孫に受け継がれ、発展していきます。なぜそれが、国家的基準に立たなければならないのでしょうか。それは、サタン世界に国家が建てられているからそうなのです。

 このような理由で、イスラエル選民圏が発展しながら内的、血統的勝利の基準が連結されてきたのです。体面や威信や社会的環境といったものはすべて忘れ、ただ神様のみ旨だけがすべてであるという代表的な心情をもった愛の娘がマリヤです。勝利を収めた基準を受け継いだ腹中では、サタンの讒訴できる内容がないというのです。その基盤の上で、マリヤを通してイエス様が懐妊されたのです。ですからイエス様は、歴史的な闘いを終わらせた勝利の神様の前に、生まれる資格、条件を完成させた基盤の上に生まれたのです。

 それでイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われたのです。このような血統的内容を抱いて生まれたので、イエス様は、歴史上初めて神様の前に愛を受けるひとり子となることができたのです。このような事実は、今まで誰も知らなかったのです。

 それで、今までさまざまな宗教があっても、すべて奴隷の宗教であり、養子の宗教圏に立たざるを得ませんでした。(48)

 新約聖書のマタイによる福音書は、旧約の創世記に代わる福音書です。それで太初に起こった人間の堕落が創世記に記録されており、その復帰路程がマタイによる福音書に記録されているのです。

 マタイによる福音書には、アブラハムからイエス様までの継代歴史が出ています。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図…」と、第一章第一節から出ています。三節を見ると「ユダはタマルによるパレスとザラとの父」と記録されていますが、どうして、ちょっと見ただけでは不倫な女性に見えるタマルを、最初の部分に記録したのでしょうか。また、「ボアズはルツによるオベデの父」と記録されており、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」と記録されています。

 その次の一六節に「マリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」となっています。ところで、どうして人倫道徳から見ても不敬で受け入れ難い事実を、マタイによる福音書に記録したのでしょうか。私は、マタイ福音書の記者であるマタイは、イエス誕生の背後を知っていたと思います。しかし、考えてみただけでも気持ちの悪くなる事件まで、なぜ聖書の歴史として記録しておいたのでしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。これらの事件でなくても、聖書には一般の人々の理解できない悲運の歴史が数多く入っていますが、私たちはこれを究明して、キリスト教の伝統を確実に立てておかなければなりません。そうしなければ、全世界のキリスト教はちりぢりばらばらに分かれて、サタンの祭物として消え去ってしまうということを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス・キリストは、このような蕩減歴史を経てマリヤという女性を通して誕生しました。マリヤは歴史的な恨みを解くことのできる国家的中心の女性として召され、神様のみ旨のために生死を顧みなかった信仰によってイエス・キリストを懐妊することができたということを知らなければなりません。

 そのようにして、四千年のユダヤ民族史、ユダヤ教の歴史を経て、神様は何を取り戻されたのかというと、堕落する前の血統、汚れなかった息子、すなわちアダムを復帰したのです。それで、コリント前書一五章四五節でイエス様を「後のアダム」であると言ったのです。この「後のアダム」とは、神様の救援摂理歴史が復帰摂理歴史であり再創造歴史であるために、神様が四千年の間苦労されながら、人間たちの理解できない復帰の道を開拓してこられ、初めて神様の愛を受けることのできる息子の立場を復帰した「ひとり子イエス」であるという意味です。(49)


  2、イエスと聖霊を通した重生の役事

 イエス・キリストは、神様が四千年の間探し求められたただ一人の存在として地上に送られました。そのようなイエス様は、万民の前に善の祖先として、死亡の中にある私たち人間を重生(新生)させるために、真の父母の立場に立って苦労の役事を繰り返しています。(50)

 イエス様は、エデンの園における堕落していないアダムと同じですが、イエス様お一人で神様の理想が実現されるでしょうか。それで新婦を探さなければならないのです。新婦の家庭がイエス様の家庭とならなければならず、新婦の国がイエス様の国にならなければならず、イエス様の国が神の国とならなければならないのです。

 イエス様は神様の息子として一人来たというのです。ですから新婦の国であるユダヤの国がイエス様の国とならなければならず、その国の教会がイエス様の教会とならなければならないのです。そうして、ローマを支配できなければなりません。

 ところが、死んでしまったのでどうなるのでしょうか。地上に父母の基準が存在できないというのです。父と母がいれば、愛の条件をかけて、再び生まれたという条件を立てることができたのに、父と母が地上にいないので、父母の愛で再び生まれたという条件を立てる道がなくなってしまったのです。それで、イエス様が死んでから四十日以後に、聖霊がこの地上に臨むのです。

 その聖霊とは何でしょうか。母なる神様です。アダムとエバが堕落した後、初めて理想的実体のアダム型としてイエス様が生まれましたが、理想的実体のエバ型の基準がないので、理想的母型の基準を形態のない霊として送ったのです。それで聖霊を受けるというのは何かと言えば、母なる聖霊の腹中にもう一度入っていくことをいうのです。

 もう一度生まれるには、母なる神様である聖霊だけではいけません。聖霊を受けることによって自分が母の分身になり、また母なる神様である聖霊はイエス様の前にあって新婦なる神様なので、新郎イエスを思慕して完全に一つとなることのできる基準に入って初めて、霊的に再び生まれることができるのです。そうして初めて、「私」は霊的に救われることができるのです。それゆえ、皆さんはイエス様を新郎のように思い、聖霊を母のように思う、その理想の立場に進んでいかなくては、復活する道がないという理論がここに成立するのです。(51)

 イエス様が亡くなられて後、五旬節に屋上の間で、百二十名の聖徒たちが集まり祈祷した時、聖霊が降臨しましたが、この聖霊が誰かといえば母なる神様です。イエス様を父とするならば、聖霊は母なる神様なのです。夫を最もよく知っている人は、その夫の奥さんであり、夫と完全に通ずることのできる人は、奥さんしかいません。

 それでは、具体的に聖霊は、どのような方でしょうか。エバがもし完成したならば、実体の母となっていたはずでしたが、堕落することによってエバの霊性は、神様によって引き取られました。それでその霊性は、イエス様が地上で新婦を迎えたならば、その新婦に再臨して実体の形状をもとうとしましたが、イエス様の新婦の基盤がなくなることにより、その霊性は再臨することができず、イエス様は実体の父母の位置に進むことができませんでした。それで仕方なくイエス様は、聖霊と共に霊的父母の位置にだけでも進んでいかなければならなかったのです。そうしなければ、み旨を導いていける基盤も残すことができなかったのです。

 それで今日、キリスト教を信じる人々は、聖霊を受けなければならないと言っています。ところでなぜ、聖霊を受けなければなりませんか。女(エバ)、すなわち妻が罪を犯したので、女がお産の苦労をしなければなりません。それで、聖霊が役事しておられるのです。また、救いを受けたければ、イエス様の愛と共に聖霊の愛を受けなければならないので、キリスト教徒たちは聖霊を受けなければならないと言っているのです。(52)

 聖霊は完成した女性神です。聖霊の役割とは、アダムの内にもとかえっていくのを助けることです。それでクリスチャンはすべて、イエス様の体の内にある子女の種と同じ立場に帰らなければなりません。

 このような信仰をもっているクリスチャンは、果たしてどのくらいいますか。夢ででもそのように考える人はいますか。ただイエス様を無条件に信じて天国に行こうという人ばかりです。しかし、口だけで信じているといって天国に行けると考えるとしたら、大きな間違いです。イエス様の骨肉の中に入っていって初めて、完全な復帰ができます。

 このような摂理を広げなければならない神様の役割がどのようなものか考えてごらんなさい。このような過程では、数多くのサタンが陣を敷いていることを知らなければなりません。そのサタン圏を突破して入っていくには、数多くの犠牲が伴うようになります。犠牲を甘受しなくては、イエス様の骨肉の深いところまで行けません。

 このようにイエス様の内に入り、神様の愛に触れなければなりません。そして、真の父母の血肉に接することのできる内的因縁を立てたという条件を充足させなければなりません。そこから、イエス様と聖霊が互いに慕い合う愛の道をたどっていって初めて、再び生まれるのです。

 同様に、女性が男性を思慕し、男性が女性を慕うように、一致した愛の境地を通過して初めて、再び生まれます。聖霊は感動の役割をします。聖霊の感動を受けると、イエス様がとても慕わしくなります。イエス様は新郎であり、聖霊は新婦です。キリスト教の復活の原理は、まさに二つの実体が一つとなったとき新しくなるのです。(53)

 キリスト教では、聖父(父なる神様)は神様、聖子(御子)はイエスと言います。それでは、聖霊は何ですか。聖霊は母なる神様です。母なる神様である聖霊を受けなければ重生することはできません。母なる神様である聖霊が産んでくれなければならないのです。この聖霊はイエス様を慕うのです。どれほど慕わしいか、目の玉が飛び出るほど会いたいというのです。皆さんはそのような体験ができなかったでしょう。母なる神様である聖霊が、新郎たる夫の神様を思慕するその心が、人の体に現れなければなりません。そのような心をもって、もう一度生まれなければなりません。父母の愛を通さずに人が生まれる道理はありません。これが天理です。

 イエス様は父、聖霊は母、すなわちイエス様は新郎であり、聖霊は新婦です。皆さんの心に聖霊が臨み、聖霊が新郎イエスを思慕する力と皆さんの心が一致する時、火を受けるのです。逆転するのです。ですから、霊的父母の愛の因縁を通して新しい生命が注入されるのです。これがまさに、キリスト教でいう重生というものです。(54)

 イエス様と聖霊が今までなしてきた使命は、お産をする使命です。エバの内にある本然の母なる性稟の存在は、エバと相対基準を結べないことにより神様が引き取られましたが、それをイエス様の時代において主体の前に対象として送られたのです。ところが、体がありません。イエス様は体がありますが、聖霊は体がありません。しかし、母の使命を果たして私たち人間の心に入り、感動を与え罪を清める役事をするようになると、母が子供を育てるように、父の、すなわちイエス様の保護を受けて再び生まれたという条件となり、重生することになるのです。(55)

 キリスト教でいうには、イエス様と聖霊を通さなくては救われないそうです。イエス様は霊的な父をいうのであり、聖霊は霊的母です。霊的父母と一つになる立場で、息子の因縁をもって立つようになるとき、霊的復活という……。霊的ではあるが父母の関門を通る、接ぎ木する過程を経て復活圏が開かれるというのが、キリスト教の重生の原理です。父母を経なければ生命が誕生しないのです。このようにして、今まで救援摂理を発展させてきたのです。(56)

 イエス様は責任を果たせなかったためどのようにしたかといえば、その代わりに、霊的にその使命を果たしたのです。霊的にイエス様と聖霊を中心として、父、母の代理の使命をする基盤を築いたので、霊的に再結合するようになるのです。霊的にお産の役事をするのです。

 今日、堕落の後孫である私たち人間は、母の腹中を通して生まれるので、母の愛に抱かれて入らなければならないのです。これが聖霊の愛です。聖霊は母なる神様であるので、その母なる神様は愛という感情をもって、父であるイエス様を協助し、(私たち人間を)抱いてあげなければなりません。この愛によって、母なる神様が父を霊的に思慕するようになるのです。このように思慕するその愛の力が作用して、ぶつかる力を感じるのが、すなわち火を受けるということです。これを体験してこそ初めて、新しい生命が生まれるというのです。

 言い換えれば、母の腹中を通して父、母を中心とした愛の感覚を感じなければならないのです。その愛の感覚を感じなくては、新しい生命として生まれることはできません。愛なくしては、新しい生命が生まれることはできないというのです。これがキリスト教でいう重生です。

 イエス様はこのような原則を完結させることができず、霊的にのみ行ったので、このようなことを再度しなければならないのです。ですから、統一教会が、このような使命を再び行わなければならないというのです。

 それでは、この使命を完遂しようとすれば、どこへ入らなければならないでしょうか。来られる主はどのような人でしょうか。来られる主は父であるので、その父の腹中に入らなければならないのです。堕落した人間は、本来の父の中に入ったという条件を立てなくては、もう一度生まれることができないので、イエス様を新郎として侍る母なる神様の恵沢を受けて、男性であるイエス様の腹中に入ることができたというのです。しかし、実体でイエス様の腹中には入れません。それで、愛する心で入っていかなければならないというのです。愛する心をもって、通ずることができるのです。(57)

 今まで、全世界のキリスト教徒たちがイエス様を信じてきた理由は何でしょうか。母なる神様である聖霊の協助を受けて、イエス様の腹中に入るためです。イエス様は結婚しなかったので、独身なる神様と同様の立場です。そのようなイエス様の腹中にある子供の種の立場に、探し求めて入っていくために全世界のキリスト教徒たちは今までイエス様を信じてきたのです。このようにイエス様の腹中に入った後、復帰された新しい母を通して、もう一度生まれたという立場に立って初めて、重生になるのです。今日、実体を身にまとっている人間としては、これを行うことができないので、必ずこうした条件的内容を中心として、その条件を立てて連結させなければならないのです。(58)


  3、真の父母と真の子女を通した重生の役事

 二千年前、イエス様は後のアダムとして来られました。イエス様は、人類を救わなければならないメシヤとして、真の父の使命をもってこられました。しかし、イエス様が十字架に釘打たれて亡くなられたので、肉身をもった真の父母が顕現できませんでした。その結果、霊的救いは成されましたが、肉的救いは実現されなかったのです。結局、今日まで霊肉を共に救ってくださる真の父母がいませんでした。

 ですから、私たちは真の父母の資格を備えてこられる再臨主によって、霊肉共にもう一度生まれなければなりません。私たちは条件的、あるいは象徴的に、母の胎内から新しい生命として新たに生まれなければならず、そのための道を私たちは歩いているのです。今日まで聖霊は、母の役割をしてきました。私たちは母なる聖霊を通して、そして父、すなわちイエス様の霊を通じて新しく生まれなければなりません。

 もちろん私たちは、母の胎内から生まれたのですが、より深くさかのぼって考えてみれば、生命の起源は父から出発するのです。母の胎内までさかのぼることで血統は交差して復帰されましたが、まだ父を迎えることができませんでした。そういうわけで、今日までクリスチャンたちは、母なる霊である聖霊の力によって生命の起源である父、すなわちキリストの中に戻ることを願い、その再臨を待ってきたのです。堕落する前に、既に息子と娘の生命は、すべて父アダムの体の中に一つの種として存在していました。息子や娘となる種は、父の体の中にあるのです。

 このように、根本的に考えてみれば、私たちは霊肉が共に生まれなければなりません。それゆえ、私たちは霊肉が再出発するために、種の立場にまで立ち戻らなければなりません。

 その摂理を成就するために、イエス様は真の父母として来なければならないのです。ですから、私たちは再臨主を通して、一つの新しい復帰された生命として生まれなければならないのです。皆さんは、先生が今まで語った内容を総合してみるとき、再臨する主、新しいメシヤが必要か必要でないか、はっきり分かるようになるでしょう。(59)

 再臨主は、霊的にイエス様の体の中にある、種の立場に立つキリスト教徒たちを、全部相続しなければなりません。キリスト教徒たちは、まだ完全に重生していません。彼らは、イエス様の体の中にある種と同じ立場にあると見ることができます。しかし、彼らがそのような立場に立っているのも、どこまでも霊的な面のみなので、実体の父として来られる再臨主を迎えることのできる基台を立てなければなりません。

 聖霊が母の使命をなしてこられましたが、実体の父が来なければなりません。真の母が現れる前に、真の父と一体化しなければなりません。ですから、皆さんは、まだ結婚していない完成したアダムの体の中にある種の立場に戻らなければなりません。本来の立場に立ち戻らなければならないのです。

 このように私たちすべてが、堕落していない真の父から新しく生まれなければなりません。堕落していないアダムの体から出発した種が、母の胎内で懐胎しなければならないのです。そこにある種は本物であり、私たちはその位置に戻らなければなりません。真にそのことが、統一教会によって成されています。(60)

 今日、統一教会においても同様です。みんな、先生に絶対的にほれなければなりません。男性も女性も、先生に会いたくて涙を流さなければなりません。自分の妻よりも、自分の夫よりも、自分の横にいる子供よりも、先生にもっと会いたいと思い、より愛することのできる心がなければなりません。そのような心が出てこなくては、神様と連結され得ないのです。私たちが一九五〇年代にみ旨の道を出発しながら、このような役事をしてきたのです。

 その時には、統一教会の食口たちは、母がいない時であるにもかかわらず、先生だけを中心として、先生が悲しめば自分も悲しみ、先生が喜べば自分も喜びながら、先生と共に同感することのできる心情的一体の場に入っていたのです。それでは、その原因はどこにあるのでしょうか。それは、父の腹中に入っている子供の種と同じ立場に入っていくためです。

 それゆえ、父が悲しめば子供も悲しまなければならず、父が喜べば子供も喜ばなければならないのです。そのような立場で心情的一致点を備えなければ、父の腹中に帰る道がないというのです。それゆえに、心情的体恤が問題だというのです。

 しかし、父の腹中にある子供の種になっただけでは不十分なので、ここに母の腹中を必要とするのです。すなわち、母の腹中を通してもう一度生まれなければならないのです。

 それで、先生が一九六〇年(一九六〇年四月十一日)に聖婚式をすることによって、真の母が立てられました。これによって皆さんは、父の腹中にいる時に感じた愛の恩恵を感じて、お母様を愛し侍り得ることによって再度お母様と因縁を結んだので、初めてそのお母様の愛の因縁と連結させて出生できるのです。このようにして出生する皆さんは、変わらなければなりません。(61)

 統一教会員たちは、自分の母、父を置いておき、なぜ昼夜、先生に付き従っているのですか。皆さんが、先生の骨の中における子供の種と同じ心情的因縁をもたなければ、条件的にもう一度生まれ得る道がないからです。お母様と先生を、全く同様に愛して生まれたという条件を立てなければなりません。真の父母に侍らなくては、もう一度生まれたという条件を立てることができないのです。皆さんは、そのような過程を経ましたか。このような話は初めて聞くでしょう。このような内容があるとは夢にも思わなかったでしょう。先生はこのような内容を知ってこのみ旨のために生きてきた人です。(62)

 皆さんが真の父母の息子・娘になるためには、蕩減法を通して、父母の骨髄を通って出てきたという原理的条件を立てなければなりません。そうしてこそ、息子・娘の位置に立つことができるのです。

 このような条件を立てる期間が、一九六〇年度を中心として、一九六一年、一九六二年度の三年間にわたった四十日伝道期間でした。この期間に麦飯を食べました。そうしたでしょう。なぜ麦飯を食べなければならなかったのかといえば、その三年の間が蕩減期間だったからです。この期間は、先生の直系の子女を中心として、四位基台を復帰し乗り越えていく期間でした。そして皆さんには、父母を中心としたカイン・アベルの関係を立てて、カイン・アベルを一致化させていく期間でした。どこから一致化させなければならないのかといえば、お母様の腹中から一致化させる立場に立たなければならないのです。

 その前段階として、一九六〇年以前には、皆さんが先生を中心として一つになる時でした。その時は老若男女を問わず、先生を本当に好きになりました。男性たちも、先生に会いたくて涙を流しました。世の中では、男性が女性に会いたくて涙を流すことはあるでしょうが、男性が男性に会いたくて涙を流すことはありません。男性同士慕わしくて涙を流す人はいないというのです。そんな話を聞きましたか。絶対にそのようなことはないというのです。それも、愛を中心として会いたくて涙を流す人はいません。

 しかし、統一教会の中では、そういったことが起こりました。男性たちも、先生に会いたい時は、自分の父母、兄弟、妻、子供をすべて捨ててでも駆けつけたいほど、そのように切ない気持ちをもっていました。

 それは、なぜそうなのでしょうか。アダムとエバが生まれる前には、誰の体の中で育っていましたか。エバの体の中で育っていましたか。アダムの体の中で育っていましたか。アダムの骨髄の中に、息子・娘の種があったというのです。愛を体験することはできなかったけれど、そこで子女の種が育っていたというのです。それが愛の因縁を中心として一致して、母を通して生命として誕生するのです。これが父母から子供が生まれる原則です。

 この原則と同じ立場で統一教会員は、老若男女を問わず、みんな先生を好きになったのです。女性たち、先生が好きでしたか、好きではなかったですか。あまりにも好きで、うわさがたくさん立ったでしょう。お婆さんであれ、乙女であれ、男性でいえば、おじいさんであれ、若い男性であれ、みんな先生だけが好きで、付き従ったのです。それは何でしょうか。心情的一致が成し遂げられたというのです。(63)

 アダムとエバの初恋を中心として、新しく父母の腹を通して誕生できる愛の因縁を経なくては、生命の因縁は始まらず、原則的な復帰をしなくては、完全蕩減にならないのです。それで皆さんは、み旨を中心として先生を愛し、先生の感情を中心として皆さんのすべての感情を先生と一致させようとする心情的方向が、意識的、無意識的に動いてきたというのです。

 それによって、皆さんが真の父母の骨髄の中で心情的に接ぎ木することをもって、真の母の腹中を通じ本然のアダムとエバの立場で生まれたという条件を立てるのです。そうしなくては、復帰にならないのです。分かりますか。

 ですから皆さんは、お母様を中心として復帰されていかなければなりません。先生の息子・娘がお母様の腹中にある時に、その胎児を中心として皆さんはカイン・アベルを復帰するのです。これを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。(64)

 もちろん、既に肉身をもって生まれて成長してしまった私たちは、文字どおり完成したアダムの体の中にある種の立場に戻ることはできません。ですから私たちは、真の父母とその父母から生まれた真の子女と一体化することで、もう一度生まれるための条件を立てていくのです。

 カインがアベルに完全に屈服することで、その二人が共に復帰されるという原理があるので、この原理によって、カインの立場にある人はアベルの立場にある真の父母、真の子女と一体化しなければなりません。そうすることで、私たちは復帰された子女としての恵沢を受けることができるのです。真の父母を通じ真の子女として生まれるようになるとき、真の父母の聖体と同じ条件物を分けていただく立場を取らなければなりません。このようにして、私たちは真の子女の立場に参与する道を通過することになります。(65)

 皆さんは誰を通して真の子女と一体化し、新しく生まれた子女としての条件を立てることになりますか。

 父だけでは十分でありません。真の子女を通じなければ駄目なのです。どんなに父が重要だといっても、父だけではなく父母とその子女を通じなければならないのです。真の父母は、真の息子と真の娘をもつことになります。

 それでは女性たちは、誰と一つにならなければならないでしょうか。女性たちは皆、真の父母とそのお嬢様たちと一つにならなければなりません。男性たちは、真の父母とそのご子息たちと一つにならなければなりません。女性が先に堕落したので、女性の復帰がまず成された後、男性の復帰が成されるようになります。それでは、その最初に復帰された女性の立場に立つのは誰でしょうか。それは、真の父母から生まれるようになる最初の娘なのです。真の父母は最初に娘を生んで、その次、二番目は息子を生まなければなりません。このような内容は、至極原理的なのです。これについては、ごく簡単に説明しましたが、このような説明の背後には、とても長くて複雑な内容があるのを知らなければなりません。

 このような罪なき真の子女の誕生によって、歴史上初めて天的四位基台が復帰されたのです。サタン世界は、この基台に対して何も讒訴することができません。

 選民国家が復帰されなかったため、天的四位基台という、この一点から出発し、家庭、氏族、民族、さらに国家的基準へと拡大されなければなりません。その中心核となるのは、四位基台として復帰された天的家庭なのであり、その家庭を通して立てられる国家こそ、最も強い無敵の国家として、それこそ新しいイスラエルになるのです。その国家は、そのほかのすべてのサタン主権に勝利して、外的世界の中心となるでしょう。(66)

 皆さんは、お母様の腹中に入ることができないので、どのようにすべきかといえば、先生の子供たちと一つにならなければなりません。皆さんは三年の間、腹中の胎児の立場に立たなければなりません。それゆえに、先生が皆さんに三年間の標語を、第一に「生涯の中で最大の実績を残す年をつくりなさい」、第二に「神様の代身者となりなさい」、第三に「見せてあげて誇りなさい」と決めてあげたのです。ここで、見せてあげて誇りなさいというのは、四位基台復帰をいうのです。

 このようにして今日皆さんは、この三段階を中心として腹中にある胎児と共に、一緒に食べ一緒に生きるのと同じ条件を立てるのです。お母様も三年の間は、皆さんが麦飯を食べる時、同じように麦飯を食べ、皆さんが外に出て活動する時、同じ条件の活動をしました。譽進や孝進は、お母様が麦飯を食べて産みました。つまり、お母様も皆さんと全く同じ心情で生活したというのです。

 今や、皆さんは腹中から生まれたカイン的存在として、お母様を愛すると同時に、子供たちを愛する立場に立たなければなりません。そうして彼らと一致化することを通して、双胎と同じ立場に同参したという心情的条件を立て、彼らを中心として侍る立場に立たなければなりません。そうしてこそ腹中で二つの種が反発するのを防止できるのです。言い換えれば、反発した堕落の起源を防止できるのであり、ここから復帰がなされるのです。何の話か分かりますか。「はい」。皆さんの知らないうちに、このような役事をすべてなしてきたのです。

 皆さんは、譽進や孝進が生まれる時、汁をかけたご飯を食べました。お母様が汁をかけたご飯を食べたので、子供も一緒に食べるのです。ですから皆さんが、相対的に汁をかけたご飯を食べたのです。このような心情的一体の内容を蕩減できる、絶対的条件になったということを知らなければなりません。

 このように、復帰歴史は飛躍的に成されるのではなく、順次的に、水も漏らさないほど厳重な手続きを経て、今日の歴史時代にある皆さんと関係を結ぶために、すべての内的起源を立ててきたのです。このような内容はすべて、ただ何もしないでできたのではありません。このように苦労した歴史路程が、現実圏内にあるこの道を取り戻してくるまでには、六千年がかかったのです。同様に、歴史的に数多くの先知先烈たちが犠牲となる代価を払いながら、天地のその何物とも代えることのできない価値を備えた蕩減路程を経てきたというのです。

 このような難しい因縁を経て父母が四位基台を備えたので、皆さんも四位基台を備え、勝利の土台を築くことができなければなりません。これが祝福なのです。(67)

 先生は一生の間、命を懸けて闘ってきました。世の中での苦しいことは避けられますが、この道では避けることもできません。腕力や暴力をもってしても、成就することではありません。原理原則に従って行わなければ、四方から一度に飛んでくる矢を避けることができません。

 このような闘いは、神様が天地を創造なさることよりも、もっと難しいことではないかと思われます。そのようなことをするとき、蕩減の条件を立て内的基盤を磨いてきたとは、皆さんは夢にも思わなかったでしょう。そのような基盤を土台として転換点をつくったということは、天宙的な勝利だと言えます。(68)

 このように真の父母が出現するのが大変であり、真の息子・娘が生まれることが大変であろうとは、誰も知らなかったというのです。先生がこの位置に来るまで、どれほど歯を食い縛って我慢してきたか知らないでしょう。皆さんは、その心情を学ばなければならないのです。その愛の心情を受け継ぐことができなければ、先生の行く所、神様が住まれる所に行くことができないというのです。

 私が今死ぬとしたら、私のように神様を愛し、私のように人類を愛する人が、この地上に誰かいるだろうかという心配が先立ちます。そのような意味で、私は長く生きなければならないと思うのです。先生は、皆さんの中でそのような人が早く現れたなら、どれほどいいだろうかという目で、皆さんを見ているということを知らなければなりません。神様がこのレバレンド・ムーンに祝福をしてくださるとするならば、神様が私にそのような人を下さるのが一番大きな贈り物であり、祝福であると思うのです。今まで不信され受難を受けられた神様に対して、先生以上に愛し、先生以上に人類を解放してあげるために努力しようとする人が、この時間に出てくるとすれば、きょうは栄光の日となるでしょう。(69)

 血統的転換は誰がするのでしょうか。それは、誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。

 転換の勝利圏を立てるには、数千年に及ぶ神様の苦労と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを土台として立った所が、まさに皆さんの立っている位置です。祝福というのは、接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わることです。(70)

 皆さんは、復帰というものがどれほど難しい過程を経なければならないのかを知らなければなりません。先生は真理を発見するだけでなく、その真理の全部を成就しなければなりません。今、先生はそれを皆さんに無償で教えているのです。皆さんは、まるで何もしないで卒業証書をもらう学生と同じです。ですから、皆さんの立場が、どれほど貴重な価値をもつのかを知らなければなりません。(71)


  4、歴史的犠牲の土台の上に成された祝福

 復帰歴史について見れば、神様は真に知恵深い方です。至極関心をもたなければ、分からないようになっています。ここに七七七家庭が集まりましたが、祝福が何か知っていますか。皆さんの知っている祝福と先生の知っている祝福とは、天と地の差です。(72)

 成婚祝福を受けるということは、恐ろしいことです。摂理的に見ると、神様の中心的思想は、アダムとエバの家庭から出発します。神様はそれをモデルとして、全く同じ家庭をつくろうとされました。一定の模型をつくって材料を投入すれば、一時に数千数万個が出てきます。先生はその模型をつくるために今まで苦労してきました。その模型が壊れれば、何にもなりません。

 神様の摂理の中心思想は、メシヤの家庭、復帰したアダムとエバの家庭、堕落圏を勝利した家庭をつくることです。ですから人間の中心思想は、堕落圏を越え、勝利圏にある神様と共に、愛を中心とした家庭を築くところに置かなければならないのです。(73)

 アダム家庭の完成は、家庭的完成の出発であり、氏族、民族、国家すべての始まりであり、天国の起点なのです。皆さんは、家庭を中心として氏族圏の使命を果たすのか、果たせないのか、民族圏の使命を果たすのか、果たせないのかという岐路に立っています。先生は世界的な使命をもっていますが、中心点は皆さんと全く同じです。(74)

 イエス様は氏族的基台をもつことができず、結婚できませんでした。その事実をはっきり知らなければなりません。ヨセフの家庭とザカリヤの家庭および洗礼ヨハネの家庭を中心として、氏族的基盤が造成されたなら、イエス様は伝道しなくても天国を築いていかれたでしょう。信ずることのできない大衆を導いて、騒ぎ立てながら活動する必要はないのです。家庭を中心とした四位基台を造成すれば、自動的にすべてのことが成就できるというのです。四位基台を中心として、歴史的な蕩減の内容を理論的に解明し、徐々に基台をつくっていったならば、死ぬ運命にぶつかることはなかったでしょう。家庭基盤をつくって子女をもったとしたら、キリスト教は変わっていたでしょう。イエス様の直系の子孫を中心として、世界を動かすようになったでしょう。しかし、そのような基台がすべて築かれ得ませんでした。(75)

 堕落した人間が神様を中心として祝福を受けるということは、夢にも考えられなかった事件でした。その一日を迎えるために、神様は宗教を通して今まで摂理を導いてきました。神様はイスラエルの民を選民として選び、メシヤ思想を教えました。そしてイスラエル民族を通して国家的基準の勝利圏を回復しようとしましたが、彼らの無知と不信によって挫折してしまいました。それでキリスト教が第二イスラエルの立場に立ちました。(76)

 ユダヤ教は、国家的な基盤の上に、世界的な中心使命を担当しなければならない立場に立っていましたが、イエス様を十字架で死なせたため、地上圏を失ってしまいました。それでキリスト教が二千年間、霊的天国に向かって血を流して開拓してきました。イスラエルは外的に血を流し、キリスト教は内的に血を流しながら来ました。

 今や再臨の時代を迎え、霊的基盤を肉的基盤に接ぎ木しなければならない時となりました。キリスト教が再臨主を迎えなければならない時となったのです。統一教会は、そのような中心的摂理のみ旨を継承し出発した教会です。(77)

 祝福によって、縦的な歴史を横的に蕩減できる起点をもつことができるようになりました。(78)

 神様は、堕落した人間が祝福を受けるその瞬間を迎えるために、長い歴史を通して絶え間なく犠牲の道を歩んでこられました。その間、個人はもちろん、家庭、氏族、民族、国家の数千数百万が犠牲になりました。それにもかかわらず、神様を中心とした祝福の段階までは迎えることができませんでした。統一教会がこのような目標を掲げて、日本、米国はもちろん、世界的に祝福の基盤をつくるようになったということは、歴史的に驚くべき事実だと言わざるを得ません。

 皆さんは、祝福を受ける前に、皆さん自身がこのような歴史的な苦労の土台の上にあるということを考えなければなりません。神様の摂理が今まで継続し、数千年の犠牲の歴史を経てきたのも、結局皆さんを救うためでした。数多くの預言者と先知者たちが祭物となり、多くの宗教が犠牲の道を歩んできたのも、皆さん一人ひとりを勝利者として立てるための神様の愛の中でなされたのです。(79)

 統一教会の歴史も全く同じです。先生がこのように苦労したのは、先生自身の道を開拓すると同時に、万民に全く同じ祝福の道を付与するためでした。結局、「私」自身のために神様がそのように苦労してこられたということを知って、無限に感謝を捧げなければなりません。皆さんは生涯をすべて捧げても、神様の前に完全に報いることができないということを知らなければなりません。一生を捧げても、神様を喜ばせてさしあげることはできないというのです。

 しかし、すべてを捧げ切った時、神様は、永遠なる世界と勝利圏の世界、すなわち栄光の世界で皆さんを勝利者として迎え入れてくださるでしょう。ですから皆さんは、歴史を背負った自分であるということと、現在を背負っている自分であるということを悟らなければなりません。現在、世界四十億の生命が、皆さん自身によって救われなければならないという、全体の生命と直結されている皆さんであることを知らなければなりません。

 そのような価値的存在となるように、神様が犠牲を払われたし、各宗教が努力をしてきました。歴史的に犠牲を払ったとしても、その価値的な存在を迎える場合は、すべてが変わり得ます。皆さんは、このような中心的使命をもっているという事実をはっきりと知らなければなりません。(80)

 先生は家庭を求めるために四十年苦労しました。神様は六千年間苦労されました。祝福の日を立てるために数多くの犠牲を払ったのです。イエス様と聖霊が求めたのも、まさにそれでした。(81)

 皆さんが堕落した後孫の家庭に生まれて、祝福家庭を成したということは、今まで歴史上になかった最初の貴重な事件であらざるを得ません。復帰の内容を理論的に明確にし、このような祝福をなした例は今までありませんでした。この時代になって、地上で初めて祝福をするようになったのは、不可思議な時代に突入したからです。(82)

 堕落は何かと言えば、サタンを中心として結婚したことですが、今日統一教会で、神様とご父母様を中心として皆さんが結婚式をすることができるというのは、驚くべき事実だというのです。別れていった立場とは反対に、すべてを一致させていくのです。ここにほんの小さなすき間があっても、サタンが侵犯するのです。このようなことをレバレンド・ムーンは知って、すき間なく策をめぐらせていくので、サタン世界が崩壊するのです。(83)

 今日、皆さんの立っているこの立場は、どのような立場でしょうか。六千年歴史の数多くの先知先烈たちがプラスされており、神様がプラスされており、その次には、先生の一代がプラスされています。先生をこの立場に立たせるために、神様は、先生の先祖から三代を経て準備してきたのです。これは今まで、統一教会のその誰も知らない内容です。今回、修練生に初めてする話です。時になったので話すのです。

 このような歴史を経なければならないのです。そうしなくては、蕩減復帰歴史に違反するのです。ぴったりと合わなければなりません。内外、ぴったりと合わなければなりません。そうでなくては、神様の前に救いを受けることができません。(84)

 信仰基台、実体基台、メシヤのための基台があるということを知っているでしょう。今や私たちは、原罪をするりと脱いで上がっていくのです。これは公式です。神様はこれゆえに、この一時を探し求めるために、六千年苦労されました。そして、イエス様以後二千年の間、数多くの国の人々が、この道に従ってきているのです。今日、皆さんがここに座って、短時間内にこのような事実を知ることができるというのは、驚くべき恩賜なのです。このように実を結ぶことのできる勝利の一団体が、このアジアの韓国の地を中心に立てられたという事実は、驚くべきことだと言わざるを得ないのです。み旨を中心として、世界のさまざまな国の人々がここ韓国に来て、結婚をするというのは、驚くべきことなのです。(85)

 祝福はどれほど難しいことでしょうか。式は簡単ですが、背後の歴史の内容はとてつもなく難しいのです。このような歴史の過程を経なくてはなりませんでした。彼が笑えば、全宇宙が笑うことのできる基準が祝福の基準です。不足な点を是正して、神様が願われた夫婦の義理を成さなければなりません。家庭に対する認識が不足しています。男性と女性は、天と地を代身して生まれました。(86)

 皆さんはそれを知らなくてそうなのですが、祝福はどれほど難しいでしょうか。天が家庭一つを探し求めるために、歴史過程において、どれほど多くの個人が犠牲になり、どれほど多くの家庭と民族と国家が犠牲になったでしょうか。このようにして探し求められたのが祝福家庭です。(87)

 内心で待ち焦がれ、必然的に顕現するようになるのを望んだその祝福が、我が韓国国土を中心として、統一祭壇で成し遂げられたという事実は、我が韓国に限った問題ではなく、世界史的な問題だというのです。このように世界的な舞台の上に開く祝福の一日を望みみて立つことのできる一人の男性、一人の女性がいるとするならば、彼ら自体は、歴史時代において相当な価値をもった者たちではないでしょうか。言い換えれば、失われたアダムに代わって、神様が召されるに少しも不足のない姿、失われたエバに代わって、探し立てられるに恥ずかしくない姿ではないだろうかというのです。(88)


  5、祝福の日は歴史的所願成就の日

 今日、み旨を中心として祝福という言葉を考えてみるとき、この言葉は統一教会から始まったものではありません。この言葉は、今まで神様が復帰摂理をしてこられつつ、内的に心の中に保っておられた言葉です。神様はこれが実践されるのを願いながら来られたということを、私たちは知っています。

 神様がエデンの園でアダムとエバを創造され、彼らに祝福してくださり、それが成されるのを願われたのも、やはり同様でした。その祝福を今まで、その誰も実践できませんでした。このように神様は切ない立場で、祝福が実践されるのを念願中の念願として待ち焦がれつつ、今までの歴史過程を経てこられました。

 このような四千年の歴史過程を経た後に、神様が本来与えたかった祝福を、最後に決行するためにイエス様をこの地に送られました。神様はそのような摂理歴史をされましたが、イエス様もやはりその祝福の場まで進むことができず、亡くなられたのを私たちは知っています。それ以後にも、数千年のキリスト教歴史過程で、多くのキリスト教徒たちが殉教の血を流しながら闘ってきましたが、今まで、その神様の願いを果たすことができなかったという事実を私たちは知っています。

 ですからこの祝福という言葉は、私たち統一教会から出発したものではなく、創世から堕落以後の今日まで、歴史過程を通して神様の心の中に一つの願いとして、神様がいつもこれを追求し願ってこられたということを、私たちは知らなければなりません。

 そのような願いの一日を求めるために、神様は今まで受難の道を歩んでこられましたが、今までその日を見いだせませんでした。それゆえ、この一日を見いだせば、その日は歴史的な解怨を果たすことのできる日であり、神様の歴史的な願いを成就する日だというのです。このようなことを考えるとき、この祝福の場がどんなにとてつもない場であるかという事実を、私たちは知らなければなりません。(89)

 祝福は、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵です。(90)

 恨みと悲しみで悲惨な歴史過程を歩みつつ、あまりにも退屈な絶頂を越えた神様においては、エデンの園で堕落しないでその日を迎えるよりも、その解放を迎える日のほうが、よりうれしい日です。神様はこの日を迎えるために、今まで数多くの先知先烈たちを死の道へ追い出したのであり、六千年の間引きずってきた祭壇の上で、勝利できる息子・娘をつくるために耐えてきたその立場を考えるとき、この日がどれほど感謝の日であり、どれほどよき日であり、どれほど喜びの日でしょうか。もしそのような人が現れることになれば、天地が動じ、天地全体が祝宴をするでしょう。小羊の婚宴だけをするでしょうか。解放の宴もしなければならないのです。人間が堕落して以後、今日まで感じてきた、死ぬことに次ぐもどかしさと痛みと苦痛から解放させてあげることのできるその日が、祝福の日であり、聖婚の日です。(91)

 私たち統一教会では、一九六〇年代を中心としてこの祝福というみ言が出てきたのですが、このみ言と共にこのような生活を皆さんに提示することになったのは、一九六〇年代に限った時代的な要求からだけではありません。歴史過程を通して摂理を広げる所ごとに、あるいはその時ごとに神様の願われる最高の所願は何でしょうか。それは祝福という一つの起点をつくることです。この事実を私たちは知らなければなりません。(92)

 祝福は神様の願いであると共にイエス様と聖霊の願いです。この願いが成されて初めて、新しい歴史が開かれます。祝福は、この全体の願いを果たすものです。ゆえに祝福家庭は、このような願いを果たす主体として立ち得なければなりません。

 イエス様は、この願いを果たせなかったので再臨して果たさなければならないのです。統一教会は、イエス様が果たせなかった願いに責任をもち、成してさしあげなければなりません。(93)

 祝福が成される今の時は、いかなる時でしょうか。今は、神様の願いが果たされる最高の時であり、六千年間苦労してこられた神様の恨みがおさまる時であり、この地に来られ苦労された神様の息子、すなわちイエス様の願いが果たされる時です。のみならず、その息子の家庭を中心として、愛が始まる時であり、万物の歓喜と尊貴と栄光を受けることのできる時です。神様もこの日がどれほど喜ばしいでしょうか。罪悪がすべて消え去り、光明の太陽がほとばしる明るい天地を迎える日、すべての自然が和動し、すべての動物が踊りを踊るうららかな朝、勝利の朝を迎える日です。(94)

 祝福の場は、過去から今まで記録されてきた歴史過程でのすべての悲しみを清算することのできる場であり、今まで成就できなかった神様の願いが新しく出発できる場であり、新しい未来が出発する契機とすることのできる一つの起点だというのです。(95)

 今まで人類が苦痛の中で呻吟している原因は、どこにあるのでしょうか。それは堕落して祝福の場に至れなかった先祖をもったからです。その悲運の歴史があったために、いまだに長く後孫たちが呻吟しているのです。それでは、全天下の人類が天の前に一様に願うのは何でしょうか。それは、祝福の一日です。これは、空前絶後の歴史的な事実です。(96)

 神様が太初にアダムとエバをつくられるとき、まず万物をつくっておき、その万物の中心であるアダムとエバを栄光の実体としてつくり、彼らが歓喜に満ちた勝利を誓うことのできる、祝福の一日をもつことを願われました。しかし、アダムとエバが堕落することにより、そのみ旨を成就できなかったため、その願いの一日を今日、私たちが私たち一代において完結できるようにしなければなりません。その勝利の栄光を高めて私たち自身が、あるいは夫婦が全天地の前に称賛を捧げなければならないというのです。そうすることのできる喜びの日を迎えるため、たった一度だけしかないこのようなとてつもない栄光の場に参席することが、どれほど神様から祝福されたことであるかを私たちは知らなければなりません。

 それでは、この祝福を願いながらイエス様が亡くなられたように、復帰摂理の途上で生まれては死んでいった数多くの人々、あるいはみ旨に対して自己の生涯を捧げながら闘っていった人々の過去を考えてみるとき、神様の前に一片丹心に、自己のあらん限りすべての精誠を投入し努力したそれらの人々の願いが何であったかと言えば、是が非でもこの祝福を成就することでした。霊界に行っている数多くの霊人たちも、今までこの祝福の因縁を結べなかったので、そこでも必ずこの祝福の因縁を結ぶようになるのを願っているというのです。

 聖書を見れば、義の冠、愛の冠という言葉がありますが、その冠の表象は何でしょうか。それは、神様の前に祝福の相対と共に、神様が許される国の民となることです。このような特権を神様から付与されることが、冠の象徴となっているという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 今日、統一教会で成されたこのような事実は、平面的に制限された環境の場にのみ及ぼされるのではありません。経てきた歴史の過程を通して、現在を通して、未来を通して、あるいは霊界の数多くの霊人たちが必然的に追求し渇望してきた願いの起点がここでつくられていくというのです。このとてつもない祝福に臨んでいる当事者たちが、それを知っているのかという問題について考えてみるとき、皆さんは深刻な立場で自我を批判し、新しく決心しなければならないのです。(97)

 人間の先祖であるアダムとエバが堕落したその日から、人間は、神様が祝福してくださるその日を待ち焦がれてきました。(98)

 家庭は、本人たちと神様の歴史的な願いの結実点です。これが祝福です。(99)













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