祝福家庭と理想天国
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第四章 祝福の過程

  第一節 祝福の相対の決定
  第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢
  第三節 約婚事例
  第四節 祝福の過程とその意義


第一節 祝福の相対の決定

  1、祝福の相対は誰が決めるか

 創造の本質的原則から見ると、相対も神様と父母が創造したので、自分が探し出すのではなく、再創造の法度に従いお父さん、お母さん、神様が探し出してくれるのです。そこから私の夫が初めて創造されてくると見るのが、天理の公約です。これが統一教会の結婚観です。それゆえ統一教会では、原則的に神様、その次には先生が探し出してくれるのです。皆さんのお父さん、お母さんは、堕落した世界においてこのような天理を知りません。分かりますか。分からないというのですか。いいかげんなものです。

 けれども、統一教会の文先生はこのような原則、天倫の公約を中心として秩序を立てることのできる基準を知ったので、この基準に従って、このような理想を中心として、神様の保護のもとで真の父母として皆さんのお父さん、お母さんに代わって皆さんの結婚を執り持つことができるというのが、理論的創造理想です。これが統一教会の結婚観です。(1)

 相対基準を自分勝手に決定することは、絶対にあってはなりません。そのような決定権限を神様から引き継いでこられる方が、まさに再臨主です。ですから、理想相対の決定権をもたれた方が現れる時には、本心に近い人であればあるほど、その方の前に立てば、説明しなくても我知らず、心情的に引かれるようになります。

 祝福を受ける場合に「私は誰それとなればうれしい」と、このように心の中で、自分の好きな相手と結んでくれることを願う人がいるとするならば、その人は神様を冒Bする人です。エデンの園でアダムとエバが堕落した時と同じです。アダムとエバが長成期完成級で堕落した時、互いが自分の相対であることを、はっきり知らなかったというのです。はっきりと知りませんでした。知らない立場でサタンの誘惑によって、知らず知らずの間にそのような結果をもたらしたというのです。皆さんは、そのような道を避けていかなければならないのです。

 ですから、祝福される前に自分の相対が分かって祝福を受けにいくことができ、祝福される前に自分の相対を決定していけるはずがないというのです。祝福の相対の決定は、天がなさるのです。父母がなさるのです。すなわち、アダムの父たる神がなさるのです。こういうことを見るとき、韓国の伝統婚礼式が天法に該当する結婚方法だというのです。父母の承諾がなくては、絶対に結婚できないというのです。これは絶対的です。

 それゆえに、息子・娘となる人たちは、自分の好きな人がいて心にあるなら、その時、すぐ父母に報告をしなさいというのです。その人を好きだという言葉が口から出る前に、まず父母の公認を受けなさい。二人は付き合ってもいいと認めてくれれば、それは大丈夫なのです。報告して恋愛をするのは罪にはならないというのです。しかし、報告しないですることは、認められないのです。(3)

 世の中の人たちは、統一教会では結婚も独裁ですると言います。しかし、独裁ならどうだというのです。天はお二人ではあり得ないのです。二人ではなく、一人しかいなければ、その国家は独裁国家でしょうか。皆さんではない他の人は、ここに立つことができません。

 今日、哲学ならば哲学においても、その起源は一つです。唯心史観か、唯物史観か、これを中心として社会の成り立ちが変化するのです。自分のほうが絶対的だというのです。これが独裁主義です。それは二つを受容できないのです。ただ、それらの起源は一つなのです。統一教会の歴史観、統一哲学は、この二つを一つとして見ています。二つが合わさって一つになったものだというのです。

 原理に出てくる二性性相の内容を見てもそうです。二つが合わさり一つとなって好ましいのに、何が独裁かというのです。これは、統一教会の文先生が一人で行うのではありません。互いを良くするためにするのです。私が対する人(祝福を受ける人)に良いからするのであって、決して私自身を良くするためにするのではありません。すべての人に良いからするのです。そうであるなら、これがどうして独裁ですか!(4)

 子供が韓国人として生まれたなら、その子に食べ物を食べさせるとき、韓国の食べ物を食べさせるべきです。西洋の数多くの国の食べ物を食べさせるということは、あり得ないことです。韓国人として生まれたので、自分の父母を中心として生活しなければならないのが原則なので、韓国のご飯を食べなければならないのです。それは、絶対的です。皆さんが完成してしまうまでは、そのように(父母を絶対視)しなければならないのです。それを知らなければなりません。絶対に独裁という観念をもってはいけないというのです。皆さんもそのような観念をもってはいけないのです。皆さんがそのような観念をもっているとすれば、先生はそれを一番気分悪く思います。

 私が頭の痛いのは、陰でこそこそ言う者たちのせいです。そのようにして結ばれた者たちは、間違ったというのです。それは天法に外れるのです。それぞれの相対は、ただ天だけが決定できるのです。ですから、そのような人がいてはいけません。(5)

 皆さんには一生にただ一度しかないこの時に、天と「私」自身がどのような関係を結ばなければならないのでしょうか。これが問題なのです。これがすなわち、皆さんと天との問題です。男性なら男性と天との問題であり、女性なら女性と天との問題です。同じように、統一教会ではどのように先生と関係を結ばなければならないのでしょうか。これが問題です。先生と男性なら、男性と一対一の問題だというのです。女性なら、女性と先生と一対一の問題だというのです。

 その問題の解決点を見いださなくては、天の国、すなわち天国に入れないのです。なぜでしょうか。自分たちだけで解決したのが、堕落の原因だからです。それが天まで届く恨みになったのです。それが堕落の根拠ではないのかというとき、これを蕩減するためには、先生と解決をつけなければなりません。ところが、今まで解決をつけられなかったのです。

 それで、ここで宣誓をするのです。み旨の前で、問答をするのです。問答をして祝福が決定した後に、一生懸命に生きなければなりません。ところが、自分たちだけで集まって座り、誰は何がどうだこうだなど、こそこそ陰口を言っています。そのようにこそこそする人たちは、なっていない人たちです。今度の機会には、絶対にそんなことがあってはなりません。ここにいるおばさんたち、訳もなくつまらなく後ろに座って、誰が何をどうだこうだなどと、そういうことを言ってはいけないのです。私はそれが一番嫌いです。もし、そのようにして原則に外れる家庭があるとすれば、その家庭は良くないはずです。そんな人は天を助けてあげる立場ではなく、むしろ天使長のような立場です。(6)

 祝福を受ける場は、自分一代から永遠まで一度しかない最も貴い場です。その最も貴い場で、最も貴い方と共に決定し越えていかなければなりません。天がここに降り立たなければなりません。そのようにして、天と共に決定した最も貴い実体にならなければなりません。このような貴い実体を、自分の思いどおりに決定していくのは原則ではありません。これを誤ったために、堕落の恨みが今まで骨身にしみたということを知らなければなりません。これを蕩減していくべき私たちの立場から、どのようにこの貴い場を尋ねていかなければならないのかということが問題です。今まで祝福家庭は、そのような観点でぼんやりしていたのです。(7)

 これから世界を中心として祝福の時が来れば、どのようになるでしょうか。皆さんに祝福を相続してあげるのです。その父が所有しているものを息子に譲ってあげれば、それは息子に渡るのです。

 そこに、収穫のすべての結実を相続した人が管理するように、その相続した人がどんなに幼く自分より若くても、その人の管理の下で仲介を受けなければならないのです。ここでは美しい、醜いが問題となりません。将来先生がこれを引き継ぎしてあげるようになる時、皆さんはその相続した人がどんなに不具者だとしても、その人の前に行って祝福を受けなければなりません。そういう時がすぐ来るでしょう。このようなことを皆さんが悟り、この祝福の場が皆さん自身の一代において、ただ一度しかない最も貴い因縁を決定づける場であることを知ってください。(8)

 世界各国の青年たち(外国食口の場合)が、自分の結婚の相対者を先生に決めてくださいとゆだねるのは、信仰なのか、尊敬なのか、信頼なのか、どちらなのでしょうか。(9)


  2、自分自身で相対を決定してはいけない

 皆さん自ら相対を決定してはいけません。特に、祈祷して決めてはいけないというのです。そのような人について見れば、良くないのです。先生が以前そういう二人に蕩減条件を立ててあげ、祝福してあげたことがあります。しかし、その二人とも良くありませんでした。その人たちは、誰だと言うことができません。ただ先生だけが知っています。原則がそうだからです。もちろん、先生が許してあげて、自分たちが蕩減条件を立てたとしても、結局は良くないのです。必ず自分の子孫の三代以内に、そういう現象が起こるのです。だから、統一教会は恐ろしい所です。

 皆さんが先生について考えてみると、先生は何でもないようですが、事実は恐ろしい人です。先生を苦しめる人たちは、みんなその仲間も同じだというのです。それゆえに、私自身がみ旨に対して働くとき、深刻です。無責任な中では何事も決定しないのです。事を決定する前にまず天と相談して、すべての基準を立てて決定するのです。それが天のみ意だというときは、世間がどのように見ようが問題視しません。(10)

 前に祝福してあげた時、こんな人がいました。先生が、ある人同士を祝福してあげようとするのですが、横で他の人が「あ、その人は、何がこうこうだそうです」と言うのです。「そう、それではあなたが良いと推薦する人は誰か」と言うと、自分が好きな人を紹介したのです。つまり、先生に推薦する人が、自分の心にある人なのです。可能ならば良い人を、自分が大事にする人に、立派な夫の候補者を迎えてあげたいという心でしょう。そうではないですか。ここにいるお母さんたちも、自分の婿の候補者を見れば、互いが良い婿を迎えようと、こそこそ陰口を言うのです。結局、その女性は先生の言葉を否定し、横で言う、そのような言葉を聞いて、その人と結婚をしました。しかし、その結果が良くなかったのです。(11)

 先生が祝福してあげる時、自分たち同士好きで、結婚したくてもどかしがる人を一〇双ぐらい組んであげましたが、あとで八割が良くありませんでした。だから将来、もう少し進めば、番号を打って、番号同士を合わせて祝福してあげるでしょう。ですから、皆さんはしたいならすればよいし、したくないならしなくてもよいというのです。数万、数千万双をそのようにしなければならないのです。対象者たちに番号を付けて座らせれば、その時は、先生のアンテナが変わるのです。その瞬間は、この世の人ではないのです。その時が来れば、先生が非常作戦を展開します。今までサタンと対決し闘った非常作戦を使うのです。そのためには、たくさんの精誠を尽くさなければなりません。もし二〇双を祝福してあげるとすれば、相対を決定するのは、十分以内にするのです。その代わり決定するためには、深思熟考してやるのであって、むやみにしてあげるのではありません。(12)

 皆さんは、今回祝福するにおいて、先生のみ意に従わなければなりません。今までそうでなく、自分たち同士が好きで結婚した人たちの中には、死別した人もいます。先生がだめだと言っても、自分たちがいいと、しきりにやってくれと言うのです。「死んでもいいのか」と聞いてみても、それでもいいと言うのです。それで「よし、やってみなさい」と言って、やってあげました。予想どおり、全部そのようになったというのです。(13)

 皆さんも絶対自分を中心としての立場を取ってはいけないというのです。ここにコンパスがあるとすれば、このコンパスはいつも神様のものです。このコンパスを、神様を中心としてぐるっと回しなさいというのです。自分を中心としてこのコンパスを回せば、副作用が起こるのです。その副作用はどれくらい大きく起こるでしょうか。自分を中心として回すので、後には死ぬ羽目に陥るようになるのです。そういう人たちは、だいたい十五日間だけそのままにしておけば、目が落ち込みます。目が落ち込むようになっています。このように見るとき、皆さんは神様を中心として、相対を求めなければならないのです。(14)

 文先生は絶対に、「私が何々をします」と言っても祝福してあげません。自分たち同士でこそこそして、先生の所に行って結婚を許してもらおうというのは、先生を結婚通過祭物として、結局は利用してしまおうということです。「さあ、私たちがいいのでやってください」と言えば、先生は絶対に祝福してあげません。それは、自分の因習的な意図であると同時に、サタンの意図です。それでは、誰の思いどおりにしようというのですか。あなたたちの思いどおりでなければ、文先生の思いどおりにするかどうかが問題となります。

 統一教会の文先生はその人自体のためにしてあげるのではなく、その後孫のためにしてあげるのです。観点が違います。(15)

 先生が皆さんを相手と結んであげるのは、その人たちがちょうどふさわしいからです。もし、自分の相対者がふさわしくないとすれば、そのどちらかが長く生きられず死んだかもしれないのです。

 結婚というのは、むやみにするものではありません。道端で通りすがりに出会った人同士でするものではないのです。自分たち同士気に入ったといって結婚すれば、結婚してすぐに異変が起こるのです。ですから、何かあるというのです。互いがふさわしくありません。松の木は、松の木同士接ぎ木をすべきです。互いにふさわしい形があるのです。こういうことを皆さんは知って、今回の祝福に新しい姿勢をもって臨まなければなりません。自分たちなりの立場で通過しようとする、そのような立場に絶対立たないようにお願いします。そうして、祝福というものは、国のため、世界のためにするものであることを知らなければなりません。同様に、それが必ず後代のためのものになるということを銘記しなければなりません。(17)

 相対を決定する場合は、喜びでするのではなく、無限なる苦痛の心で決定しなければなりません。決定してしまう時まで、出発した時のように注意深く行かなければなりません。皆さんにとって今回の二十日間は、六千年歴史と時を同じくする重要な期間です。

 無限な苦痛の立場で、同時にこの上ない悲しみの立場で、また死を覚悟した立場で決定しなければなりません。最高の苦痛と悲しみと死を味わう立場で決定をしなければなりません。だから、二度とこのようなことが繰り返されないようにし、不平を感じないようにしなければなりません。

 イエス様がこの門を通過するために、どれほど悲しまれ、どれほど多くの苦痛と死の峠を経ましたか。皆さんも最も難しい環境で、そのような苦痛を受けてこそ、新しい生命の道として行くことができます。この立場は、苦痛の門が閉められ、悲しみの門が閉められ、死の門が閉められる立場です。ですから、最高の苦痛、最高の悲しみ、最高の死を感じ越えていかなければなりません。そうしてこそ、再生の道が開かれます。

 皆さん自身が憂いから復活し、苦痛から復活し、悲しみから復活し、死から復活して相対を決定しなければなりません。(18)

 三数の基準をもって、すべてを決定しなければなりません。決定は、先生も神様もしてあげられません。ただ自分自身が決定しなければなりません。

 本来男性は、女性を創造しなければならず、女性は男性を創造しなければなりません。堕落した人間は、僕と養子と直系の子女を経て、真の父母の位置に出ていかなければなりません。それゆえに、祝福を受けた人を死ぬほど苦労させるつもりです。人は、生まれる時も一人生まれ、嫁婿に行く時も一人行き、死ぬ時も一人で死にます。父母も紹介だけしますが、決定は自分自身がしなければなりません。皆さんの中には、苦労をしないで、そのまま帰っていく人が多いだろうと思います。そのような人は、自分自身を静かに考えてみなければなりません。

 この期間は復活期間です。イエス様の相対すなわち聖霊も、イエス様が復活した後、五旬節に降臨しました。

 先生の考えと同じであれば、全員が二十日断食をしたらよいでしょう。そのようにして立っても、おなかがすかず残る者にならなければなりません。(19)


  3、どうすれば理想相対に結ばれるか

 理想世界に行く同調者が、すなわち理想相対です。(20)

 理想相対とは一体どのようなものでしょうか。皆さんの前に、理想相対とは神様の愛を多く受ける人です。より公式に近づくことのできる立場に立った人が理想相対です。

 その公式に近づくことのできる人は誰でしょうか。歴史時代の願いに近い人です。過去の願いに近い人であり、現実社会が望む中心に近い人です。同様に、未来の出発があるからには、その出発に近い人です。そのような人を探さなければなりません。(21)

 理想相対という言葉が、この地上の一角に現れて騒がしいということは、世界に限りなくうれしい福音であり、神様がお喜びになり得る福音なのです。(22)

 理想相対基台というのは、サタンが犯すことのできない立場で結ばれた夫婦を言います。すなわち、縦的歴史を横的に蕩減復帰した基台の上で、神様の公義によって夫婦の関係を結ぶのです。ゆえに理想は、神様を中心にしなければなりません。

 アダムとエバが堕落する前の基台以上でなければ、新しい理想は出発できません。皆さんは、各自が闘ってサタンが侵犯できない位置に立ったのではなく、この理念を信じ従う立場に立ったのです。それゆえ、心情的な基台と実体的な基台を立てなければ、祝福も無為に帰するのです。(23)

 男性たちは美人を求めるために、美男になったらよいと言います。なぜ人々は美男や美人になろうとするのでしょうか。その理由は、美しければ美しいほど完全であるため、完全な理想的対象を求めることができるからです。最高の完成主体を完成対象と合わせて一〇〇パーセント喜び得る基準がつくられることによって、この宇宙の神様の愛に、完全であればあるほど、理想的であればあるほど、ぴったりと一致するのです。それで、美を追求し、完全なものを追求するのです。だから、宇宙の愛の核は、男性の前に女性を除いて、女性の前に男性を除いてはその核を求める道がありません。(24)

 今まで皆さんは、理想相対とはどのようなものか、と言いました。理想相対という言葉は、本当にいいでしょう。どんなに相対となる存在が優れていたとしても、皆さんがその素地を備えられなければ、その価値を発見することができません。何の話が分かりますか。優れているか、劣っているか、発見できる者がどこにいるでしょうか。自分自身が優れていなくては、それ自体が分からないのです。(25)

 理想相対というのは、あとです。まず自己を考えなければなりません。「私」がどのように完成するのかということが重要なのです。理想相対というのは、相対の意向を先立たせるもので、「私」が完全な主体となるのか、完全な相対となるのかということが決定されてこそ、完全な理想世界というものが現れてくるのです。(26)

 独身の男性、女性において、先決問題は何でしょうか。「私」自身の完成の可否が問題です。理想相対を考える前に、まず自分自らが父母の前に孝子となり、父母が孝子だと言うことのできる因縁をもたなければなりません。そのような意味で、完成されなければなりません。それが終わったのちに、理想相対が必要です。(27)

 今まで祝福をすぐに受けないで、統一教会で、いろいろな活動をしてきたのは、縦的な愛を指向させるためでした。約婚者を探したり心配しないようにと言ったのは、皆さんが縦的な愛を成すようになれば、約婚者は自然に来るようになっているからです。

 堕落とは何でしょうか。神様を中心とした縦的な愛を完成させないで、横的な愛を完成させたことです。ですから、縦的な愛を成す前に、約婚者に出会ったり愛そうと考えてはなりません。ここには約婚した人たちも多いだろうと思います。皆さんの中に、自信をもって縦的な愛を完成させたという人がいれば、手を挙げてごらんなさい。そのような人がいるとするならば、約婚者と共に暮らせるようにしてあげますし、祝福結婚を優先的にしてあげます。縦的な愛を完成させられない人を結婚させてあげる人も異端となるため、先生は今まで待っていたのです。(28)

 「私」の一生一代において、男女間で愛し合う愛よりも、まず世界を愛し神様を愛し人類を愛した後に、「私」を愛し得るそのような愛をもつ相対に出会おうとする人が、理想的な人です。(29)

 人間の最高の相対は何でしょうか。この地に来られたイエス様も、愛を中心とした家庭を見いだそうとされました。最高の相対は、愛を中心とした家庭なのです。それを見いだそうとすれば、自分がこの世の中で祭物の過程を経なければなりません。自分の体を中心として祭物の過程を経なければならないのです。サタン世界の愛を落としてしまい、天の世界の愛を蕩減復帰しなければなりません。自分から物質を超越し、体中心の欲望を超越し、欲情を超越し、今までの現実的で感覚的な要素一切を否定しなければならないのです。そのような過程を経なければなりません。(30)

 理想相対というのは何でしょうか。異想相対でもあり得るのです。相対を恨めしく思ってはなりません。相対を避けていくと言わないで、喜んで消化し、越えていかなければなりません。(31)

 福とは何でしょうか。よく食べてよい暮らしをするのが福ではありません。相対とうまく結ばれることが福です。天地の因縁に従い、天倫の法度に従い、夫婦の道を磨くのが福中の福です。それ以上の福がありますか。どんなに人気があり、権威があり、家門が立派だといっても、妻と結ばれ損なえば、その人は台なしになってしまうのです。経歴が良く、見掛けの良い人でも、妻と結ばれ損なえばどうしようもないというのです。また、どんなに美しい女性でも、夫と結ばれ損なえばやはり同じです。ゆえに、福の中で最も大きい福は何でしょうか。相対とうまく結ばれることです。それが最も大きい福です。相対とうまく結ばれてこそ、立派な子供を生むことができるでしょう。そうではないですか。(32)


  4、相手はどこかにいるものである

 アダムが完成した真の父母として現れれば、この人に決めるかあの人に決めるか、比較するでしょうか。エバは神様がつくってくれたので、そうできません。エバが美しかろうと、醜かろうと、絶対的な愛で愛さなければなりません。アダムとエバが生きていた当時は、エバが大きくても小さくても、一人しかいない唯一なる存在であるため、比較することなく、絶対的な愛で愛するようになっているのが原理です。真の愛の味さえ感じれば、そのようなことは問題にならないというのです。

 真の愛は、不完全なものを補ってあふれるようにします。皆さんは、アダムとエバが美男美女だと思うでしょう。それは分かりません。人の美しさ、醜さは問題になりません。このごろは、自分の顔が醜くて、鏡を見るのを嫌う女性たちもいますが、そのような必要はありません。一生の間理想相対を尋ねていくと言ったのに、「あ! この女性か」と言うかもしれませんが、理想的なものは絶対的に一つしかありません。エデンの園で男性も女性も一人しかいなかったのと同じです。真の父母となる人は、この女性あの女性を見て、目をきょろきょろしてはなりません。雷は場所を見て打つのではありません。陰極と陽極が近くなれば、いつでも襲いかかるようになっています。マイナス極さえ現れれば、合わさってしまうのです。皆さんも神様の愛を中心としてそうできなければなりません。(33)

 世界的に見るとき、女性が一人しかいないのに、男性が十人も生まれれば、その中の九人は死ななければならないと思いますか。そのような心配をしますか。女性が「おぎゃあ」と泣いて生まれれば、男性はどこにいるかと探しますか。男性が生まれれば、娘がどこにいるかと探しますか。そうではないでしょう。相手はどこかにいるようになっているからです。そのようなことを心配するために息子・娘を生めないと考える人がいますか。そのために産児制限をすべきだと研究する人がいますか。そのような心配はしなくてもいいです。男性がいれば女性がいるのです。女性がいれば男性が生まれるというのです。(34)

 この世の中のすべての男性と女性は、堕落したアダムとエバの立場に置かれています。堕落したアダムとエバは、サタンの息子と娘になりました。ですから、このサタンの世界に行き、どのように神様の息子に娘を得るか、捜し立てるかということが問題です。それは原理によって成されます。完全なアダムが生まれれば、完全なエバが復帰されるというのです。完全なプラスが現れる場合、完全なマイナスは自動的に生まれるようになっています。それが創造の原理です。完全なマイナスが現れれば、完全なプラスが生まれるようになっています。ですから、世界的に男性と女性の比率はあまり差がないのです。空気がどんなに自分の思いどおりに疎通するように見えるとしても、それは気圧の平均を取るために作用するのと同じ道理なのです。完全な男性が生まれる時には、完全な女性が生まれるようになっています。これが聖書には、男性であるアダムによって女性であるエバがつくられたと、象徴的に書かれています。(35)

 神様の復帰摂理を見るときに、堕落したのは「私」ゆえではありません。相対的与件、いつも相対が問題になるということを皆さんは知らなければなりません。み旨に対して行くことは、再創造をしていくことなので、皆さんの前に相対し得る相対者が問題です。ところで、世の中の人々の欲心は、相対が大きいことを願います。相対が自分より良いことを願います。それは、復帰摂理路程にあり得ないことです。相対が自分より大きく、良いことを願うということはあり得ません。堕落したために、堕落した世界に(相対が)自分より大きいものとして現れるのを願うことは、間違いなのです。良い者として現れることを願うなら、自分がそれだけ努力し投入してから願わなければならないのです。(36)

 今日、堕落した人間の立場で見てみれば、結婚をするとしても、自分の相対は自分より良かったならいいという考えは、あり得ないのです。そのような環境はあり得ません。そのような環境になっているとすれば、それは全部偽物です。神様と関係ありません。相対は、必ず自分より低い位置にいなければならないのです。

 なぜでしょうか。再創造しなければならないからです。そうして、自分の力の投入の功労によって、それが変わっていき、対象的な圏として現れなければならないのです。神様が天地を創造したのは、その天地自体を見るためではありません。愛するために心情を前に置いて(=心情を中心として)つくるのと同じく、心情を前に出して行動するほかありません。たとえアダムとエバは小さくとも、その小さい者を小さい者と見ないで、心情の世界では大きい者として見るのです。(37)


  5、相対的に創造された男性と女性

 人は男性でなければ女性です。神様が創造されたアダムとエバの延長がまさに「私」です。分かりますか。人と言えば、そこには既に実体があるのです。人の中に何種類が入っていますか。地が入っており、人が入っており、神様が入っています。(38)

 私たち人間は科学的に素晴らしく生まれました。それゆえ、もし女性たちが「男性がどうして、あのように生まれた」と笑ったり、男性が女性たちを見るとき「あの女性はおしりが大きくて、どうしてあのように生まれた」と言うとすれば罰を受けます。どんなに醜くても、その女性、男性は、創造主の最高の傑作品です。(39)

 皆さん、男性にひげがあるのがいいですか、ないのがいいですか。女性たち、話してみなさい。「あるのがいいです」。また、男性たちの考えはどうですか。「あるのがいいです」。それではなぜひげを伸ばしませんか。ひげのあるのがいい時もあります。今は忙しい時なので、ないのがいいですが、自然に遊ぶ時には、ひげを伸ばして遊ぶのが素晴らしいというのです。

 日本人は庭園を造るとき、刈って整えますが、アメリカ人は自然な庭園が好きです。皆さんは自然なものを好みますか、人工的なものを好みますか。「自然なものです」。このように自然なものを好むため、将来ひげを伸ばすようになれば、百ドルずつ俸給を受ける時が来るかもしれません。先生が法をそのように作る世界になれば、そのようになるかもしれないのです。将来ひげを伸ばすべき時が来るかもしれないというのです。

 それならば、女性にはなぜひげがないのでしょうか。神様はアダムがひげを伸ばした姿をご覧になり、気分が良くなかったために、エバをつくられる時には、ひげがないようにつくられたというのです。(笑い)したがって、神様の創造物の中で、最も傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たち、気分がいいですか。この女性たちは、傑作品は傑作品ですが、誰のための傑作品でしょうか。まさに男性のための傑作品だというのです。(笑い)気分が悪いでしょうが、仕方ありません。

 それならば、神様は何ゆえにそのような傑作品をつくられたのでしょうか。男性を中心として、すてきな刺激を受けようとしてつくられたのです。それにもかかわらず、女性のような肌をもった男性を好む女性がいるとすれば、その女性は死ぬべきです! また男性のように頑丈で、味もそっけもない女性を好む男性がいるとすれば、その男性は死ぬべきです!(笑い)

 男性と女性は相対的です。女性は柔らかで男性はごつごつしているので、ごつごつした者たちは、柔らかな女性を好みます。また、柔らかな娘たちは、ごつごつした男性を好むのです。そのようになっているのです。(40)

 男性を見れば、大抵柔らかくなく、頑丈に見えます。男性の手は、セメントのようにごつごつとしていますが、そこにまたごつごつとした手が触れるとすれば、気分がいいでしょうか。柔らかい女性の手が触れればどうでしょうか。(神様は)天地の道理を、すべて互いに調和するように創造しました。回るモーターを見ても、回る鉄は強い鉄を使いますが、回る面は平たい軟らかい真鍮でできています。これは、あまりすり減りません。けれども強い鉄だけでつくれば、回れば回るほど火が出て、簡単にすれてなくなります。天地の道理は、すべて相対的になっています。それを見れば、神様は専門家です。

 それゆえに、男性の手の中に男性の手を載せておくよりも、女性の手を載せておくほうがよくなければならないのが天地の道理です。男性は男性の手が嫌いであるべきです。そうしてこそ、柔らかいのと強いのが一つになれます。そうでなければ、完全でありません。男性の手の上に男性の手が来て触れれば、気分が悪くならなければならないし、女性の手が来て触れる時には、気分が良くならなければなりません。でなければ、天地の道理が合いません。だから、女性の手は柔らかく、男性の手は分厚くあるべきです。男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきだというのです。ですから男性にはひげが生えたと思います。そのひげは、柔らかい面に刺激を与えるので、刺激的な愛を感じることができると思います。だから、男性として生まれた人は、男性として生まれて良かったのであり、女性として生まれた人は、女性として生まれて良かったという結論になります。(41)


  6、女性の美しさと男性の魅力

 少し前、先生はイギリスで、女性の美しさは顔にだけあるのではないと言ったことがあります。普通の人は、顔だけ見て美人だ、美人ではないと言いますが、顔は体の一部分であるだけです。全体を見なければならないというのです。顔は美の基準の中で三番目です。人の美を評価しようとすれば、手、足、歩き方、音声はもちろん、前からも見て、横からも見て、すべての方向から見なければなりません。

 人間の美しさというものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美しさは、球のように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どんな方向から見ても、自分なりの完成された美しさをもっています。それゆえ、自分の妻の顔をむやみに批評してはならないのです。

 美人の中には貧しい人がたくさんいます。しかし、徳や福をもっている女性は違います。顔が美しい美人も、子供を二、三人ほど産めば、もはや顔が変わってしまう場合があります。ですから、子供を産んでも、美しさを維持できる人が美しい女性だと見ざるを得ません。(42)

 皆さんは、花の中で美しい花は何だと思いますか。皆さんがどのような花を好きなのか知りませんが、先生はラッパのようにできた花が好きです。なぜかといえば、ラッパのようにできた花は、香りを遠くに漂わせます。ラッパのようにできた花は何を意味するかといえば、深い愛を意味します。香りが遠くに広がります。ラッパのようにできていてこそ、香りが遠くに広がります。それゆえラッパ型の花であればあるほど香りが強くします。ですから、女性たちが花であれば、深い愛の心情をもたなければなりません。美しい香りをもった花は、万民が好むのです。そして、ユリの花は単調ですが、優雅な趣があります。清く優雅なユリの花が、花びらか茎か分からないほど同じ色で咲いているのを見れば、感傷的で情緒的な花です。歴史がある花だと思います。

 そのように娘たちはアサガオ、あるいはユリの花のようにならなければなりません。優雅で清い花にならなければなりません。(43)

 先生は、世界的美人は、真っ黒い頭に白い顔、そこに真っ青な目をもった人だと思います。鼻はぺちゃんこで、目もあまりくぼんでいなく、中間ぐらいであるべきです。ところで、西洋人は目があまりにもくぼんでいて、目なのかまつげなのか分からないでしょう。最近は、(付け)まつげを付けているので、本当に分かりません。何か塗って(=アイ・シャドー)おくではないですか。だから、先生のように目が少しだけくぼみ、まゆがこのように少し離れているのが理想的だと思います。(44)

 男性は、顔が滑らかなのよりは、少しでこぼこした人が、より男性的な魅力の所有者です。また、愛があるので、その愛はすべてのものを支配しても余ります。(45)

 女性は夫を得るとき、繊細で優しい人よりは、荒々しく見える人がいいでしょう。夫婦も相対的関係なので、荒々しいのと反対である妻は幸福になるというのです。荒々しい夫の胸に抱かれて愛を受けられる妻は、幸福な妻だということを忘れないで、選択するとき、荒々しい男性を選びなさいというのです。

 男性の力は、女性の前にはただそよそよした春風ほどしか力を使えないのが愛の道理です。男性の世界ではこぶしの力が左右しますが、愛する女性の前では、綿のこぶしのようにこの上なく柔らかいというのです。ですから、女性は荒々しい男性だといって怖がることなく、力が強い男性であればあるほど、さらに愛してみるべき価値があるという考えをもたなければなりません。(46)

 独身の男女を見てみると、娘たちはハンサムな男性が通り過ぎれば、片方の目はつむり、一方の目でこのようにして見るでしょう。そして、化け物のようなこの男性たちも、威張り散らしながら素早く女性を見るでしょう。ところでここに、外から見るとどす黒くまるで雷魚のようで、寝て起きて見ても魅力のない男性がいるとしましょう。しかしその男性は、全体的に見れば男らしいのです。そのような男性は、話すときも女性たちのようにこそこそしません。言葉より行動を先にします。女性たちは、これが気分悪いでしょう。男性が言葉でも一言言って、前奏曲があった次に行動をすべきなのに、前奏曲もなく突撃するというのです。

 そのような性格をもった人がいるとすると、最初は気分が悪いですが、千年万年そのようにできる人であるなら、女性が変わってきます。強くワイルドな性格が、この瞬間だけではなく連続的にそうであり得るとき、女性がもう一度考えるようになります。「他の男性たちはずるいから、秋になれば葉が落ちるように落ちて、冬になれば枯れてしまうだろう。しかしこの男性は、少し田舎者のようでも、圧縮され押されるピストンのように、自分が押さなければならないと思うことは最後まで押すだろう。死ぬまでそういう人だ」となれば、女性の考えが変わるのです。分かりますか。

 そのようになれば、男性を天のように愛するというのです。粗いのは粗いけれども、その殻の中から赤い愛を燃やし得る行動をするようになるときは、そこに巻き込まれていくようになるのです。ここの女性たちは注意しなさい。そのような事実が、映画や小説なんかに多いではないですか。そうでしょう。(47)


  7、女性と化粧

 人間も自分を愛してくれる人を求め、装いをして心を整えます。特に女性が夜昼なく化粧台の前に座り、顔を鏡に映して化粧をするのは、自分を愛する人からもっと多くの愛を受けようという欲望ゆえです。

 永遠なる美しさを保つために身なりを整える女性たちの行為は、決死的です。まさに男性たちが戦場に出ていって敵軍とぶつかり、生命をかけ血を流しながら闘う戦場を思わせるのを見ると、一方ではかわいそうにも思えますが、美しさを永遠に保ちたがる努力に愛を感じたりもするのです。(48)

 私たち統一教会の娘たちは、化粧をしたりおしゃれをしないで、み旨を伝えるために東奔西走します。しかし、化粧をしたいし、おしゃれもしたい心はあるでしょう。相対者ができる前に自分の美貌にある程度満足した人も、相対者ができれば、自分の美貌にさらに神経を遣うようになります。相対者によく見せるためです。自分のおしりが大きすぎないか、腰があまり太すぎないか、背が低いとか顔が醜くないかという思いをもつようになります。そのような考えと行為は、相対者の前に美しい花として咲き、香りを漂わせたいという意味なのです。それで、リズミカルな身振りをし、魅力的に見せるために努力をします。これと同じく皆さんは、昔の多様だった生活的な面を、今からみ旨を中心として縦的横的に広げて相対者を迎えなければならないのが当面の課題なのです。(49)

 女性たちは、毎日新しくきれいな服に着替えたいでしょう。大多数の女性たちが、毎日きれいで美しい、新しい服に着替えることを願うのです。そうだとすれば、「私」の顔に、服を着替える以上の美しさをいつももとうと考えてみましたか。その美しい服を着て何をしたいですか。愛する人を訪ねて行きたいでしょう。服は豪華に着たとしても、顔をしかめて愛する人を訪ねて行くとすれば、どれほど見苦しいでしょうか。その時、服は讒訴するでしょう。どれほど服を美しく着たとしても、愛なく絶望した人の姿でいるようになるとき、その服は嘆息するという事実を知らなければなりません。たとえ服が豪華でないとしても、その人が満足感と喜びに満ちた顔をしているとすれば、その服は満足するでしょう。そういう時、その服というものは、愛の中で装飾した宝石のように輝くというのです。愛の中で装飾したそのすべての装飾品と同じだという事実を知らなければなりません。

 皆さんは、ダイヤモンドの指輪をつくってはめるとき、ただダイヤモンドだけで指輪をつくってはめた人を見ましたか。金の指輪なら、ただ金だけでつくるより、金の上に小さいダイヤモンドを付けてはめると、もっと美しい指輪になるのです。すべて世の中の道理はそれと同じです。(50)

 例えば、草花の花が咲き香りがするのは何ゆえでしょうか。その草花が、花や香りが好きだからあるのですか、でなければ、誰のためにあるのかというのです。人間が自分の顔を見ることができないのと同じく、花びらは自らを見ることができないのです。ですから、美しく花びらを咲かせたり香りを漂わせるのは、それ自体のためではなく、その花と香りを好み得る誰かのためにあるという結論を下すことができます。花と香りがあるのは、チョウとハチがやってくるようにするためです。香りがあるのは、それらがやってくることのできる方向を教えてあげるためであり、花が咲くのは、区別させてあげるためです。

 女性たちが美しい服を着て化粧をするのも、同じくこのような道理なのです。

 皆さんが美しい服を着て化粧をするのは、自分のためですか。でなければ、相対のためにしますか。最近、女性たちを見てみれば、まゆ毛をかき、まつげを付けて、青い化粧までします。(51)

 女性たちは、朝起きれば鏡を見ながら化粧をしますが、いらない化粧をよくします。誰がよくて化粧をしますか。相対のためですか。自分のためですか。元来、火葬(注・韓国読みは化粧と同じでファヂャン)は、火葬場でしてこそ本当の火葬です。(笑い)その化粧とは、その言葉からか、気分が悪いです。こういう気になれば、深刻な立場で化粧するでしょう。誰のためにそのようにするのですか。
 ソウル行きの汽車に乗って見ると、ソウル駅に到着する三十分前から化粧室が慌ただしくなり始めますが、ほとんどがスカートをはいた女性たちです。男性たちはおとなしいのです。だから、終末には男性より女性たちがもっと忙しいというのです。(52)

 見た目にいいものは、サタン世界で看板を掛けて宣伝するものです。このように宣伝している家に入って物を買っては、ふんだくられるのです。それを皆さんは知らなければなりません。宣伝のうまい所に訪ねて入っては、大多数がふんだくられるというのです。本物は宣伝をしないのです。同じです。今度祝福を受けに来るとき、新しい服を着て顔には紅を塗ってのさばる、そのような女性は相対にするなというのです。それはとんでもない結果をもたらすのです。逆に、地味で、一皮むけばまた一皮あるような、そのような女性に何かがあるというのです。(53)

 最近、娘さんやおばさんたちは、何か自分の顔に紅を塗ったり何を塗ったりしていますが、何のために化粧をしますか。サタンの子が、美しいと自慢するためですか。(笑い)笑いごとではありません。(54)

 神側に行っては化粧をし、サタン側に行っては黒塗りをしなさいというのです。ですから、皆さんが出掛けるとき、「私は神様の形状と愛をもっているので、神様を知らないあなたたちよりはましだ」という考えをもたなければなりません。(55)

 統一教会員が自分のために化粧をするよりも、その時間に全体のために清掃し洗濯することを、神様は、もっと好むのです。自分のために生活する人は、他の所に行くようになります。いくら出ていくまいとしても、統一教会から出ていくようになるのです。(56)

 いい服を着たりにおいをかいだり化粧をする時も、解放の一日を考えなければなりません。(57)

 祝福された女性たちは化粧できても、未婚の女性たちは化粧できません。(58)

 我が統一教会の教会員たちも、最近は化粧をよくしますね! それは私が許してあげます。お母様が化粧するから、嫁に行ったら……。しかし独身女性たちが化粧するのは誰のためにするのですか! その化粧品を買うお金があれば、私の所に持ってきなさい! 化粧して男たちと歩きながら妖しい考えをしようとするのです。独身女性は純朴でなければなりません。よろよろして……。テンヂャンチゲ(注・ミソナベ)とキムチチゲ(注・キムチのナベ)の味がいいのです。韓国人はそれが口に合うのです。マニキュアだか何だか! 嫁に行った女性たちはしなさい! それはなぜですか。競争をしなければならないから、夫の前では、夫人たちは他の夫人たちより劣ってはならないのです。また、嫁は他人の嫁より劣ってはならないのです。姑と舅は、優れたものを願います。ですから、劣らないためには、化粧しなければならないのです。その前はだめです。その前は、自分の父母の愛だけ受ければいいのです。(59)

 先生と共にみ旨の道を歩んできた皆さんの苦労が大きいということをよく知っています。一身の平安な生活をあとにおいて、み旨の成就のために苦労した統一の食口たち、特に、おめかしもしてみることができず生きてきた女性たちの功労が大きいことを知っています。その人たちのために、老いない化粧品を発明して分けてあげたい気持ちです。もちろん、地上の生活を終えて、神様と共に永遠なる愛の圏内で生きるでしょうが……。(60)


  8、恋愛は絶対許されない

 信仰が深くなり、霊的な体験をするようになれば、いいかげんに行動できません。神様を押しのけて、自分たちの喜びだけのために互いに愛し合うのは、サタン世界の誤った愛です。

 今まで、自分はそのようなことをしてきたという人がいれば、先生の話を聞いた今から悔い改めなければなりません。アダムとエバは、神様にそっぽを向いて自分たちだけで愛し合うことにより、とんでもない結果をもたらしました。皆さんも自分たちだけで結婚したりすれば、新しい先祖になるどころか、とんでもない結果をもたらすようになります。ですから統一教会では、自由に恋愛することは絶対に許されません。神様にすべてをゆだねなければなりません。(61)

 祝福は、どこまでも神様を中心として愛の因縁を結んでいかなければならないのです。ところで「私はこのような人間です」と言って、自分だけを主張する人には絶対に天が同情しないでしょう。今まで、我が統一教会では、恋愛ということはあり得ません。認定もしないというのです。自分たち同士で気に入った人は、絶対に祝福をしてあげません。(62)

 皆さんは祝福を受けますか、受けませんか。統一教会の中で結婚をしますか、でなければ、勝手に結婚しますか。合同結婚式をするのは気分が悪いですか。統一教会の先生が決めてあげるとおりに嫁婿に行きますか。答えてごらんなさい。自分勝手に行きますか、先生が決めてあげたとおりに行きますか。そうするなら、自分勝手に愛してはなりません。愛の視線もむやみに送ってはなりません。これをはっきり知らなければなりません。

 ですから男性たちは、むやみに若い女性たちの手を握ってはなりません。若い女性の手を握る日には、もう独身男性ではありません。分かりますか。これは私の言葉ではありません。原理の言葉です。復帰摂理の言葉です。(63)

 道を行って美男子と出会ったとき、もう一度見たいという思いをもつようになりますが、それがまさに堕落の根性なのです。神様の息子・娘ならば、神様が決めてくれた配偶者でなければ少しの関心ももってはなりません。向かい合って見る、それ自体が罪悪ではありません。しかし、関心をもって眺めるようになるとき、強力な堕落性が作用するようになり、予期し得ない事故を誘発し得るからです。それゆえ、道を行って、美女や美男と出会ったとしても、関心に満ちた目で見てはなりません。

 このような心配と気遣いは、すべて皆さんのためにするのです。神様もアダムとエバのために、愛する意味で「取って食べてはならない」と言われたのです。(64)

 人間の先祖であるアダムとエバが堕落する時も、女性ゆえだったでしょう。それゆえ、女性はそうなり得る近い距離にいるのです。男性の知恵に乗せられる素質が多いのです。女性たちはどんな言葉にも心が傾いて、甘ければ無条件にいいと言って、へへへと笑います。(65)

 サタンの四大武器は、たばこ(気体)、酒(液体)、麻薬(固体)、そして、不倫の愛です。(66)

 先生が、結婚しない男女はできるだけ握手をしないようにと言うのも、つないだ手を通して愛の電流が流れるからです。愛の火花が相手方に心の傷を与えるからです。愛によってつくられた傷は、この世の中のどんな薬でも治癒させられないのです。(67)

 統一教会では、若い男女同士は手もつないではいけないと言っています。私たちは、サタンが見下しているということを知らなければならないし、これがサタンのあだを討つことだというのを知らなければなりません。(68)

 祝福される前までは、統一教会の独身男女は互いに手をつないではいけません。電気でいえば、百ボルトなら百ボルトが一遍にぶつかるべきであり、途中で漏電になってぼやけてしまってはなりません。(69)

 皆さんは独身男性たちですが、婿に行くとき、嫁に行ったことのある後家の所に行きますか、処女の所に行きますか。答えてごらんなさい。処女と結婚しますか、後家と結婚しますか。生命が投入され得るものは、初物です。だから、神様の前に初物を捧げるのは絶対的な基準です。それゆえ統一教会では、恋愛をしてはいけないというのです。統一教会の娘たち、独身男性たち、恋愛なんていったいどういうことですか。

 生命は初物から出発するのです。人が最初生まれる時、本来は初物として生まれたのです。お母さんのおなかの中から出てくる時、初物として生まれたでしょう、何の傷をもって生まれますか。そうではないですか。ですから、「私」の体も初物として生まれ、「私」の心も初物として生まれたのです。思春期を通して流れてくる春の香りをかぐことのできる青年の胸も、初物として生まれたのです。心身はすべて初物として生まれたのです。ところが、個人主義的な考えをもっているのに、それが初物になり得ますか。こんなものをみんなどこにもっていって捧げようというのですか。そのような体と心をもって生まれて、他の所でみんな消費できますか。蕩減法則により、そのようにしてはならないというのです。(70)

 二十代に近い青少年として、汚されず染まらない聖なる純情を大切に保管し、これをどこに供えるべきでしょうか。天が一番喜ぶことのできる祭壇に供え、神様が喜ぶことのできる、そのような純情をもった男性と女性が出会って一つに結ばれ得る聖なる位置が、新郎新婦の出会う場ではないでしょうか。(71)

 アメリカの父母たちは自分の息子・娘が十八歳になったのにデートの相手がいなければ、おかしく思い心配しますが、韓国ではその反対に三十歳を越えても、結婚する前までは、良家の独身男女は手首一つ握れません。目配せもできないのです。愛の観念を見ても、西洋ではフリー・セックスだの何だのといって、ありとあらゆる者たちがいますが、東洋はそうではないというのです。原理的に見ても、結婚する前には純真な処女、チョンガーにならなければなりません。(72)

 ラブレターを書くべきでしょうか、書くべきでないでしょうか。ラブレターを書く前に、父母に手紙を書くべきです。そして、父母の称賛を受けた後にラブレターを書くのであって、称賛を受けられない恋愛ができますか。できません。(73)

 我が統一教会の娘たちは、恋愛できますか、できませんか。「できません」。また、統一教会の独身男性たちは、恋愛できますか、できませんか。「できません」。それでは、先生が強制で恋愛するなと言いますか。「違います」。したければ、してみなさいというのです。しかし、できないようになっています。ですから、結局(統一教会は)恐ろしいというのです。そのようなことを、強制でできなくすれば、もっとするというのです。自分たちが試してみて、自ら抜け出さなければならないのです。(74)

 統一教会では恋愛をすることができません。絶対できないというのです。愛は、天から始まり天で終わらなければならないのです。(75)















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