祝福家庭と理想天国
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第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢

  1、組み合わせてくださるお父様の眼識

 先生は人の見方を知っています。私たちの風習に相性というものがあるように、松の木なら松の木同士接ぎ木すべきであり、松の木とポプラの木とは接ぎ木されません。(76)

 先生は、一度だけちらっと見れば、その人の性稟と運命がすべて分かります。(77)

 先生は福を受ける人々がどんな人なのか、見ればすべて分かります。どこか集会所に行ってみれば、この人が裕福に暮らすか、そうでないかが分かるのです。(78)

 先生は手を見てもその人の運命がすぐ分かります。彫刻の素質があるのか、文学の素質があるのか、楽器演奏の素質があるのか、泥棒の手をしているのか、すぐ探し出します。(79)

 先生は今まで多くの人々を指導してみたので、ある人が来て笑う表情だけさっと見ても、その人の長所短所をすべてキャッチできるのです。実際にある女性は、目が下に落ちるぐらい前にぽんと飛び出ています。そのような女性には、目がぼこんとくぼんで、ほおの肉がぽんと飛び出た人を迎えてあげなければなりません。そのような統一教会の女性たちは、自分が願う男性を夢にも考えてはならないというのです。自分自身も考えもせず、こういう人としてくださいと言えば、その人とできるだろうとは、何ですか。だめだというのです。先生はそのようにはできません。(80)

 先生が皆さんに、「この人はあなたとは天が定めた似合いの夫婦だ」と言って、さっと決めてあげれば、それは間違いないのです。先生は皆さんを相手と結んであげるために、夜もゆっくり寝れません。人の生命の問題、霊魂の問題に責任を負った立場では、これは簡単な問題ではないのです。また、見れば運の良くない人がいます。顔を見れば、何度か嫁に行かなければならないタイプの人がいるのです。そのような人は、間違いなく未亡人になるタイプです。目を見て、唇を見て、鼻筋を見ると、間違いなくそうなっているのです。その人に合う男性は、少なくとも数年間は気分悪く暮らさざるを得ない、ああだこうだと、いがみ合いながら暮らすタイプの女性がいます。そのような看板を付けているのです。ですからそういう人は、その理想の男性に出会うようにしてあげなければなりません。

 そのような男性が自分の新郎になれば、最初は全く怨讐のようです。怨讐のようだというのです。良く出発してはそれが壊れていくので、怨讐から出発して初めて、あとでよく合うのです。そういうことを先生は知っています。祝福については、どうすればいいのかを、先生と相談しなければならないのです。(81)

 先生が約婚をずらりとするときは、できればその人の輪郭をはっきり見ないようにします。二人の人をたださっと見ます。どのような感じがするだろうか。余裕があるとすれば、心をさっと比較してみるのです。この二人はどうだろうか。二人を見ると、我知らず瞬間的に一つになる感じがするというのです。これは間違いなく天が定めた似合いの夫婦です。また、ある人は二人が背を向けているというのです。それは間違っています。そして互いが関心をもつ表情、これは将来、時がたてば本当によい相対になります。(82)

 先生が今までずっと祝福してあげるとき、このカップルは間違いなく子供を一ダース生むだろうと言えば、必ず的中します。先生が今も考えることはそうなのです。先生が結婚させてあげるときは、いいかげんにしてあげるのではありません。先生が一日足らずで数十双を組み合わせてあげるので、世の中の人たちはいいかげんに組み合わせているのだと思っています。しかし、先生が間違いないということは、間違いないのです。だから四柱、観相、相性を見る人たちがそのカップルたちを見ると、最もいいと言います。皆さんが信じられないのなら、四柱、観相、相性を見る人たちに、直接行って尋ねてごらんなさい。間違いなくぴったり的中するというのです。

 先生が一日に数十双を組み合わせてあげるのにもかかわらず、彼らはみんな、四柱、観相、相性が最もいいと言います。観相家たちがやろうとすれば、一日中精誠を尽くしてせいぜい一双であるはずなのに、先生は一日に数十双を組んでもよく合う相だと彼らは感服し、我が統一教会を宣伝するのです。彼らが、我が統一教会宣伝部長の務めをよく果たしているというのです。このように、人生の根本問題を中心として一つの部分部分として組み合わさって、世界の運勢を握る役事がいつか瞬く間に起きるようになるでしょう。ですから、これからは祝福家庭が一つにならなければならないのです。(83)

 私は独身男女をたくさん祝福をしてあげましたが、わずか数分前まで気分が悪いことがあり、良いとか悪いとか言っていても、決定さえされれば、とても気分がいいのです。革命の中にもそのような革命はありません。「愛!」と言えば、天地がひっくり返るのです。今まで、良いとかどうだとか、何がどうだこうだとか言っても、一度決定をした次には、行くなと言っても自分たちだけで続けて訪ねていくというのです。その時会うなという人は、怨讐になるのです。(84)

 統一教会で祝福を受けて暮らす夫婦の生活すべてのことを見た結果、嫁をもらい損なったという舅、姑はいないというのです。また、婿をもらった人は、いろんな婿の中で統一教会で祝福されて得た婿が一番良いというのです。既に、このような事実が一般世論化し得る段階に入ってきたのです。(85)

 韓国に相性をよく見ることで有名な李某氏という人がいます。その人は私たちの原理を知ってから先生をとても尊敬しています。その人が、「今まで自分が韓国では名高く、自分の専業がそれだから、文先生が祝福をするにおいて自分が助けてあげなければならない」と言うのです。それで先生が「私は必要ない」と言いながら、「一体老人は、一日に何双でもすることができますか」と尋ねると、「一双しようとすれば、少なくとも一週間はかけなければなりません」と言うのです。そういう方式では、私に通じないというのです。その老人が「それでは文先生は一日に何双までされますか」と言うので、「最高記録が七二双で、一日に普通七〇双はしなければなりません」と言いました。

 先生がその老人に「今、あなたがしている方式と統一教会の文先生がしている方式と一度対決してみましょう」と言いながら、先生の資料をさっと出して見せました。そうすると、その人が感服して、「さすが先生でいらっしゃる。どうすればそうできますか」と言うのです。例えば、この女性はいざという時凶星に当たって死ぬ女性なので、天下でこの女性に合う男性を選ぼうとしても選べませんが、「あれまあ、このような男性を相手としてよく合わせたものですね」と言うのです。このように先生には何かがあるというのです。皆さんをさっと見ればすぐに、何か分からないけれど感じるものがあるというのです。先生は素晴らしい頭よりも、そのような特異な素質ももっているのです。

 それゆえ、先生が原理も探し出したのです。何か一つはっとすれば、すぐにその反応と結果がどのようになるか、それを感じようと考えるのです。そのような何かがなければなりません。先生は勉強をしても、絶対一冊の本を全部見ません。半分も見ずに、他の本を見ます。それで、人をさっと見れば、あの人はどのような人だから、その人の相対はこうでなければならないと素早く感じるのです。ですから、皆さんよりは先生が、あらゆる面で優れているというのです。(86)

 自分の息子・娘が統一教会に通うといって、そのようにまで反対した父母たちは、先生が息子・娘たちに祝福をしてあげたので、「統一教会の文先生は悪いのは悪いが、私たちの息子・娘の配偶者をあのようにうまく結んでくれたので、少しましだ」と言います。それでは、ましというのは悪いことですか、良いことですか。「良いことです」。良ければいいでしょう。それでも悪いと思ったので、悔い改めなさいというのです。このようにして父母たちがたくさん統一教会員になろうとします。

 以前七七七双の祝福式を挙行した時、ある父母が先生を訪ねてきて、「統一教会の文教主様、私たちの娘の名前は誰それですが、よい婿を選んでくださるように本当にお願いします」と言うのです。これは何ということか……。いつそのようになりましたか。統一教会の文先生がいつの間にこのように高い位置に上がってきました。世の中も変われば変わるもののようです。冬だと思っていたら、いつの間にか春だというのです。生きがいを感じるというのです。そのような面白みもないとすれば、どのようにして先生は生きていきますか。(87)

 神様は人を見るとき、心を見て、その次には過去を見て未来の歴史を見ます。皆さんも人を見るとき、そのような面から見なければなりません。(88)

 今、大変な美男子、大変な美女に出会って「あ! あなたのような人には初めて会ったので、私たちは結婚しましょう」と言うと、(相手も)「しましょう」と言いましたが、歴史を開いてみるとある殺人犯だったというのです。そういう時は、夢も希望もすべて砕けて悲惨になるのです。それゆえ、過去を知るべきだというのです。

 また、その人の先祖はどうで、どのような歴史を経てきたのか、そして今現在、父母がどうなのか、家庭がどうなのかを見なければならないのです。そして、この人が北へ行くだろうか、南へ行くだろうかを知らなければならないのです。このようなことを知らなければなりません。(89)

 先生は人を一度だけさっと見れば、この人が何をする人なのか、すべて分かる素質をもっています。すべて分かるのです。それゆえ、私が日本人に祝福をしてあげたとき、十時間で二三〇双すべての相手を結んであげました。十時間でみんな相手を結んであげたのです。ところで、その中に摩擦があって、合わないと言って私を訪ねて来る人がいました。そのような人たちに、「あなたは、このような歴史をもっているだろう。そうか、そうではないか」と尋ねれば、「そうです」と答えます。「だから、あなたにはこの女性が合い、あなたにはこの男性が合うのだ」と忠告すると、その時になって初めて「間違っていました」と言うのです。

 先生は人を見るすべを知る専門家です。今までこのために生命を捧げてきたので、さっと見れば分かります。それでも、分かっているふりはしません。ただ、分からないふりをしているのです。分からないふりをして後ろを向いても、においだけかげば分かるのです。ここにいる地区長が精誠を込めたのか、込めなかったのか、すべて分かります。私が地区長のために祈祷を少しすれば、すべて分かるのです。それゆえ、統一教会はかかしではないのです。(90)

 私は素早く勘を働かせて、心情検討をして相を見て、その人が何をしてきたかを知ります。(91)

 私は二日間、日本で一六〇〇双を約婚してあげてきました。十二時間半で全部組み合わせてあげました。そうだとしても、でたらめに目をつぶってしたのではありません。性格を合わせ、後孫と一生を見て決定しました。先祖を見て寿命まで計算して、死ぬしかない立場でも、二人が一つになる時その死を免れるように相手を組み合わせたのです。風がぶつかり合えば、零点になるのと同じです。このような内容を知って組み合わせてあげるので、先生が合わせた相対が、各自が選んだ相手よりも勝るというのです。瞬間的に選んであげるほうが勝るので、先生の言葉に従順なのです。(92)

 先生は愚鈍な人ではありません。先祖について、現実の社会について、また後世についても良いということはすべてよく知っています。地上で祝福を受け、自分たち同士互いに努力していくとすれば、必ず良い道に行くということをはっきり知っているので、皆さんを祝福の道に導いているのです。それを理解し、理解したその理論的基盤の上で実行し、その実行の基台の上に現れた結果が原則に一致したか、その是非を検討するのは皆さんの使命です。(93)

 先生の鼻は高く、つんとして特色があります。ユダヤ民族の鼻がつんとしているように、宗教的な素質をもっている民族はつんとした鼻をもっています。鼻はアダムを象徴します。鼻が高いということは、心が鋭いということです。芸術家や宗教的な素質をもった人は、大体鼻がつんとしているでしょう。なぜなら、目は神様を象徴し、鼻は人を象徴し、口は万物を象徴するからです。 

 顔の中で範囲を一番広く占めている部分が目であり、その次が鼻です。宇宙の中心が人ならば、口は万物、額は天を象徴します。そして、額から直線に降りてきてにょっきりそびえている鼻は、アダムとエバを象徴しています。それで鼻を中心として円形に溝を成していれば、うまく生活できます。(笑い)

 また鼻筋は、天を象徴する額から山脈のようにすっと高くなっていますが、これは天が人間として現れるのを象徴しています。口も形によって運命が大きく変わります。それで、先生が一度だけちらっと見れば、その人の性稟と運命が分かります。

 同様に、口の周りに畝が口を避けて降りていかなければならず、口の近くに真っすぐに降りてくれば苦労するのです。水が流れるとき、この畝に沿って直線に落ちれば駄目だというのです。口の周りを回って、口の近くに入ってこなければ、苦労しないというのです。

 私がなぜこんな話をしてあげるのかというと、すべてが天地調和に合うようになっているということなのです。また、顔は三段階になっていて、口が蘇生、鼻は長成、額は完成と見ることができます。それで、金持ちを見れば額が広いのです。そのような人は先祖の功績がたくさんあります。また、目、鼻、口が三層になっていて、宇宙の三段階法則に合っていると見ます。内臓も肺、胃腸、肝臓など三つから成っています。

 人間は、宇宙のあらゆる万物が備えている神秘的なものをすべて備えています。神様は散歩をしなくても、人だけ愛するようになれば、人間からすべてのものを感じることができると見ます。また男性は女性と交際するようになれば、あらゆる万物の女性性相を総合したものが分かるようになり、女性は男性を見いだせば、あらゆる万物の男性を総合したものをすべて見いだすようになるのです。ここに原則的なすべての要素を全部備えているからです。だから、一人の男性が一人の女性を頭のてっぺんから足の先まで全部愛することができるとすれば、宇宙の中心と通じると見ます。女性が男性を愛しても同じです。

 同様に、愛する人の目を見る時も、この目は宇宙のすべての人間の目を総合した目であり、最高のつぼみだと見ることのできる人にならなければなりません。愛する人の鼻を見ても、この宇宙の数千万の鼻を総合した鼻だと言うことができなければ、真の愛の目で見たと言えません。この口がこのように醜くても、世界人類の口の中でも最高の傑作品だと思うことができなければなりません。そうし得るのは愛の力だけです。(94)

 皆さんが笑う時、目が別に笑い、鼻が別に笑い、顔が別に笑いますか。それとも、一度に全体がみんな笑いますか。目が笑い鼻が笑うのに口が笑わない人は、食べるのに困ります。また、別のものはすべて笑うのに鼻が笑わずこわばっていれば、そのような人には子孫が少ないです。また、笑うのは笑いますが、目が笑わない人は、大体情のない人です。それゆえ、笑う時、全部思い切り笑うのが正常です。このような見地から、私たちの心が笑いたい時、顔全体が笑うのが正常であるように、宇宙万象も同じことです。神様を私たちの心に例えれば、見える宇宙はまさに私たちの顔に該当します。(95)


  2、極と極の調和を成さなければならない

 先生が祝福をしてあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極を結ぶようにしなければなりません。東と東、北と北を結んではなりません。北と南、東と西を結ぶようにしなければなりません。皆さん、背の高い男性に背の高い女性を与えなければなりませんか、背の低い女性を与えなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むはずがありません。また、太った女性が太った男性を好むはずがありません。皆さん、ほっそりした男性が太った女性を好むでしょうか、ほっそりした女性を好むでしょうか。考えてごらんなさい。誰を好むでしょうか。太った女性を好むでしょう。太った女性を好まず、自分がやせているのに女性までもやせているとすればどうなりますか。山に大きな木だけでは醜いのです。小さな木もあってこそ良いでしょう。(96)

 美男、美女同士一緒に暮らすようになれば、その家庭は長持ちできそうですか。できないというのです。そのような人は、必ず反対にしてあげなければならないのです。天地の道理の全部がそうです。背の高い人は背の低い人と結んであげなければならないし、同じ背の高い人同士結んであげれば、彼らが暮らすのに面白みがないのです。そのことを知って、自分の顔が広い人は広い人をもらおうとせず、細い顔の人をもらうように考えなさい。それで、ラツパのような鼻の人は、わし鼻の人と結んであげなければならないのです。目を見て半分だけ開いたような人なら、大きな目をもった人と結んであげなければならないのです。また、ある人は口さえ開けば、夜でも昼でも(他の人が)不安に感じる人がいます。その人が口を開けば不安だというのです。そのような人には寡黙な人を結んであげなければならないのです。このように、こんなことあんなことを、すべて合わせなければならないのです。(97)

 先生は皆さんの配偶者を選んであげる時、基本原理に合うように組み合わせてあげています。先生が苦労したことも知らず、「ああ、私は嫌です」と言う人がいますが、そのような人は統一教会の原理を知らず、自分自身が不幸の道を行っているのです。背がさおのように高い人は小ぢんまりとした背の人と、体が太った人は細い人と結ばれてこそ、互いの弱点を保護できるし、関心と愛を相対のほうから受けるようになるのです。背がさおのように高い人同士結ばれたり、ドラム缶のように太った人同士結ばれるとすれば、それはどれほど不幸でしょうか。何よりも愛の相対者は、理想的な調和と均衡を成さなければなりません。(98)

 肉が薄い女性はあまり良くありません。顔のほおの肉が薄くなっている女性や、しなやかに振る舞う女性は軽々しく出し抜く癖があるのです。そのような女性と暮らそうとすれば、一週間に一回ずつはけんかをしなければならないというのです。ですから、一緒に暮らせる男性は、牡牛のような、岩の塊のような人でなくては、夫婦が年を取るまで仲良く連れ添うことができないのです。これを知って、そのような女性は美男子と結婚する考えをみじんももってはいけません。(99)

 例えば、三角形の顔をした人はどのような人と結ばれなければならないかといえば、反対の顔をした人と結ばれなければならないのが公式です。それが原形です。これを難しく考えないでください。これがまさに自然の道理です。物理的現象はそのままで比較できるものなので、そうなのです。同様に、顔の平たい人は平たい人を得て何になるでしょうか。これは、こっちでも、あっちでも全く必要ないのです。それゆえ、このような時、平たい顔の人は、ぐっと顔の突き出た人を、背の低い人は背の高い人を、顔の美しい人は(どうでしょうか)。佳人薄命という言葉があるでしょう。その言葉は正しいです。美しい人同士結ばれれば何が出てくるでしょうか。もっと美しい人は出てきません。その次は、がっくり落ちます。完全に満ちれば、衰えるのが原則です。美しい人同士でいっぱいに満ちたので、上がらなければなりませんか、下がらなければなりませんか。

 天地の道理は、上がったら下がるのが原則です。それで中庸の道という言葉も、すべて東洋哲学において、良い考えとしてこのようなことを言いました。美しい人同士やっていくと終わりが近いので、美男と醜女、美人とぶ男、このようにしておけば、展望が長いのです。このように考えるしかありません。(100)

 顔が馬のように長く見える人がいるとしましょう。さて、この馬面よりもっと長い顔は何ですか。ばった面でしょう。ところで、その人をばった面の人と結んであげると、彼らはどんなタイプの子女を生むでしょうか。どんなタイプの子女を生むか考えてごらんなさい。恐らく間違いなく、とかげのようなタイプの子女を生むでしょう。自然の道理がそうです。

 それゆえに、すべて反対のタイプを結んであげるのです。馬のような顔をした人には、かぼちゃやひさごを割って置いたように横に広がった顔の人を結んであげなければなりません。そうしてこそ、互いに反対型がよく調和して十人子供を生めば、その中の一人、二人でも役に立つ子供が生まれるのです。ところが、そのようにせず、自分がよいという人をそのまま結んであげれば、十人生んでも十人とも役に立たないというのです。(101)

 崔道淳(注・七二家庭の夫人)はどこにいますか。彼女の性格を見れば男性のようです。男性のような女性でしょう。その夫の性格は、おとなしい女性のような性格なので、夫婦同士うまく暮らしているのです。その夫は、天性が本当に良い人です。彼女の性格は、男性が誤って一度こぶしを振るったなら、手に取れる物があれば何でもつかんでたたくかもしれないような性格であるにもかかわらずうまく暮らしています。そのような性格の女性にそういう男性を結んであげたので、今までうまく暮らしているのでしょう。そうでなかったなら、もう……。崔道淳が「男はどうしてこうなの」とけんかをしかけてくれば、男性がこのように避けるのです。(笑い)それでこそいいのです。その夫婦の息子・娘は、また問題ないでしょう。娘は何人なの。(崔道淳氏に尋ねられる)。息子は何人なの。「三人兄妹です」。三人兄妹、何と備えるべきものはみんな備えましたね。四位基台まですべて成して……。(102)

 韓国人、ドイツ人、日本人、アメリカ人など数十カ国の人たちを、先生が直接国際結婚をさせてみました。ところで、韓国人は結婚相手に接する時見ていると、言葉は活発ではありませんが、相手方について、その人がいいか悪いかあらゆる計算をします。これでは(先生は)本当に死にそうです。姿を見ても、何を見ても、本人より優れていて、普通の人ならうれしがっても余るはずであるにもかかわらず、横にいる人がじれったいほどいらだたしい時がたくさんあります。そんな時、先生はどれほど息が詰まるでしょうか。先生が尋ねて、どう答えるのか見れば、ある人は一時間以上黙ってただ立っています。
 しかし、西洋人は違います。彼らを結婚させようとすれば、説明をまずしなければなりません。先生は、できるなら年を取った独身女性と年若い独身男性が結婚してこそうまくやっていけると説明してあげます。そうすれば、彼らは先生の言葉をよく聞きます。ところが、日本や韓国のような東洋人には、とても疲れます。東洋人の観念は、新婦の年が新郎の年より若いことを原則とします。これが伝統的な慣習です。しかし、西洋人たちは正反対です。これから結婚すれば、極から極にする人が一番いいのです。(103)


  3、人間の四つの型と理想的均衡

 人間は、自分を中心として周囲に対する理解と愛をもたなければ、正しく立つことができず、正しく行くことができません。日が昇る東側だけが好きで、西側は嫌いだと言った時、西側に対する理解不足で片一方だけの人になるでしょう。同様に、東側は昼なのに、西側は真っ暗な夜であるという考えゆえに西側が嫌いだとするなら、その人は結局、昼の価値を本当に知っているとは言い難いでしょう。夜が分からずに、昼が分かり得ないからです。同じように、もし夜に閉じこめられれば、彼は永遠に夜を押しのけて出てくることができないかもしれません。昼は夜を経なければ来ないからです。

 人は自分が立った位置から東西南北の四方性をもっています。ですから、東側のみならず、南北に対して理解し愛することができなければなりません。(104)

 多くの人の中で勝手に相手を選びなさいと言えば、自分に理想的な相手を選ぶことはできないというのです。東側があれば西側があり、南側があれば北側があります。東側型の人が東側型の人と結ばれることになれば、西側がないので理想的な出会いになりません。また、南側型の人が南側型の人と結ばれることになれば、北側がないので理想的ではないのです。それゆえ、東側型の人は西側型の人を求めていかなければならず、南側型の人は北側型の人を求めていかなければならないのです。何の話か分かりますか。(105)

 一年に四季があります。春、夏、秋、冬がありますが、花の咲く春だけ好きで、寒く暗い冬が嫌いだとすれば、その人は本当の春の価値が分からないでしょう。冬は春が来るのに絶対必要な季節です。秋に実る果実は春に生命を開かせますが、その実自体では厚い皮を破ることができません。冬には地中が適当な湿度を保ちますが、冬の寒さで凍って、春になれば溶けながら膨脹する熱量によって実の厚い皮が破れ、実の中にあった生命体が芽を吹くようになるのです。ですから、冬は春が来るにおいて絶対必要な季節なのです。

 私たちの生活の中でも冬を有効に利用できます。春には花の香りを求めて山に野原に行くことができますが、冬には白い雪の上でスキーに乗って楽しむことができるでしょう。(106)

 人間的に本当に美しく、情的な面でとても温かで何でもよく吸収する人は、春の季節に該当します。また、とても情が深く涙が多い人は夏の季節に該当し、冷静で清らかに見え、あらがない人は秋の季節に該当します。次に冬の季節に該当する人は、かちかちにくっついて、引きはがそうとしても引きはがせない要素をもっている人です。皆さんは自分がどの季節に該当する人であるかを、区別するすべを知らなければなりません。

 秋の季節に該当する人は、相対的な人と結ばれなければなりません。すなわち、春の季節の人を求めなければならないのです。夏の季節の人は、冬の季節の人と結ばれなければなりません。あまり熱くて心配になる人は、冷たい人と結ばれて冷やさなければならないのです。そのようなことは、目を見れば分かりますし、また、その顔付きを見れば分かるのです。(107)

 人は、東側だけ好きだとか春の季節だけ好きだとすれば、結局その人は別の側と別の季節から孤立するようになるでしょう。人間の願いと関係なく東西南北と春夏秋冬になっているからです。同様に、人間にもそれぞれ四方性と四季節が好きな人がいるからです。北極にも人が住み、熱帯地方にも人が住んでいるという事実を考えれば理解できるでしょう。ですから、この地球の至る所に行ってみなければならないし、春夏秋冬、どの気候でも住んでみなければなりません。(108)

 相対がいなくては「私」があり得ません。相対を認めてこそ、相対から「私」の存在が認められるということを知らなければなりません。男性が夏を好むとすれば、相手側の女性は冬を好む人であってこそ、均衡を取ることができるはずです。

 きれいな女性が、女性のようにかわいい男性と結ばれるとすれば、どれほど気分が悪いでしょうか。美人が、美男よりも健康美が満々にあふれる男性を好むのも、すべてがこのような理由のゆえです。それでこそ、愛の調和を成すことができるのです。(109)

 春の季節の女性は、秋の季節の男性と結ばれて初めて、夏と冬を通過できるという事実を知らなければなりません。春の季節に該当する女性は夏を通過してこそ、秋の季節の男性と結ばれるようになるし、秋の季節の男性は冬を通過してこそ、春の季節の女性と結ばれ得るので、二人は結局、春夏秋冬の四季節を通過することになるのです。

 先生は皆さんの配偶者を選ぶとき、このような原理に合うように組み合わせてあげています。そういう先生の苦心した愛情も知らず「ああ、私は嫌です」と言う人がいますが、そのような人は、統一原理を知らないだけでなく、自分自身が不幸の道を行っているのです。(110)


  4、「目の峠」を越えられなければならない

 皆さん、結婚する時ハンサムな男性、きれいな娘さんをもらいたいでしょう。みんなそのような考えをもつとすれば、皆さんの中に美男、美女がどれだけいますか。それゆえ、考えを変えなくては苦労の道を克服できないのです。目が嫌がる時には「目よ! それがお前の行くべきいばらの道だが、見たくないものを見て好み、神様のように愛してあげよう」と言うとすれば、それが美しい目です。また、他の人はそのように見ようとしても見ることができません。

 神様はそのように考えられます。神様は装って現れることにおいては、世界で一番のチャンピオンです。「私」の愛する相対として現れる人は、神様が本当に愛する息子だから、一番醜い顔で装って「私」を愛しに来ると考えてください。そのような目で夫や妻を愛するようになれば、神様の息子・娘を愛することになります。

 「私」の目に良い新郎新婦は、本来「私」を嫌いですが、神様が間違って選んで、「私」を惑わしに来たと考えてください。きれいな女性を見れば、「私」をおびき寄せに来た妖女だと考えてください。美しいより醜いほうが有利なのです。そして、あまりにも大きければ、神様が大きいから大きい人と結んでくださったのだな、小さければ、世の中に小さなものもつくった神様は調和のために小さい人と結んでくださったのだなと考えなければなりません。世の中では謀叛を起こすために美男美女を利用します。美男美女たちを立ててだましてしまいます。ですから、美男美女はサタンの道具になる可能性が高い危険な存在だと考えなければなりません。また、「私」はサタンの利用できない安全な相対と結ばれたと考えれば、どれほど誇らしいですか。

 黒人たちは、白人は傲慢だが、私たちはおのずから謙遜であるために黒い人になったと考えれば、神様に近づけるのです。さあ、では皆さんは「目の峠」を越える自信がありますか。(111)

 多くの娘たちの中は「私がこのようにかわいい顔をしているので、どんな男性が見てもぞっこんまいるはずなのに、私の新郎はどんな男性だろうか」と考える人がいるでしょう。「私がこのように美しくても、すべての男性たちの恨みを解くための神様の愛のみ旨があるとすれば、私を立てて、またとないぶ男でもいいから、その前に烈女の名を残せるようにすればどんなにいいでしょうか!」このような考えをもたなければなりません。(112)

 顔がどんなに醜かったとしても、それが重要なことではありません。心をどのようにもっているかが問題となります。

 それで、顔のいい妻を選ぶか、心のいい妻を選ぶかというと、どうですか。また、女子学生は格幅のいい男性を迎えますか、それとも心構えのいい男性を迎えますか。二つとも良いのならいいのですが、そのようなことはありません。それは上がりかけても割れてしまいます。風船に空気を入れて、天気がさえない曇った日に飛ばせば、高く飛んでも割れずに済みますが、天気がいい日、風船に空気をぱんぱんに入れて飛ばせばパンと割れてしまいます。天気がいい日は、反対に空気を少し入れ、ぱんぱんにならないようにしてこそ、割れずに済みます。

 心が良く顔が良いと、パンと割れてしまいます。それゆえ、心が良い人は顔がぺちゃんこになっています。心の良い人は顔が少しぺちゃんこになっているので、太陽が現れても割れず、ぱんぱんになりながらぶうんと飛び上がります。人を見るすべを知らなければなりません。(113)

 結婚していない娘さんとチョンガーの皆さんは、夢をもたなければなりません。一番醜い夫や妻と結ばれても「私」がうまくやるという原則を決めなければなりません。皆さんが美しい妻や夫をもらおうという原則を決めては、すべて壊れていくことになるでしょう。「私」はどんな男性、どんな女性と結ばれても感謝しながらみ旨の道を行こうと思う人には、本当に神様が祝福をもっとしてくださるでしょう。(114)

 結婚する時は、美女の夫になろうと思わないでください。この世で一番の醜女の夫になり、誰よりもうまく暮らせる夫になろうとしなければなりません。だから、この世のどんな美人からも仰がれる、そのような夫にならなければなりません。何の話か分かりますか。そうし得る観念をもって女性にうまく接していかなければなりません。(115)

 皆さんはどのような妻、どのような夫と結ばれて、嫁に行き婿に行きますか。最も醜い人と結ばれて烈男烈女になり愛そうという原則を立て、嫁婿に行って暮らすべきだということを知らなければなりません。

 愛の度合いが高ければ高いほど、無限なる宇宙で活動することができます。(116)

 世の中の人々と私の考えは違います。統一教会の合同結婚式で「私は美男子ですが、美人を下さい」と考えるのは、統一教会の伝統的歴史から見ると不合格者です。どんな男性、どんな女性と結ばれたとしても、この人が「私」の相対だと考えながらへばりつくことができれば合格です。

 真の愛は、日陰を克服しなければなりません。先生はいつも理想相対を考えるとき、黒人の女性に対しても「愛している」と言うことができると思いました。(117)

 これからは、美しい人は醜い人と夫婦にならなければなりません。私たちは彼らを崇拝しなければなりません。そのような時が来るのです。私たちの世界は、まさにそのような世界にならなければなりません。不具者と暮らす夫人や、そのような夫に対してその国の伝統を期待しなければなりません。そのような人は環境的に慰労を受けるべきではありませんか。今までそれができませんでしたが、これからは必ずそうなるのです。(118)

 皆さんは、皆さんの顔がどのように見えるか分かりますか。皆さんの顔は毎日のように、いや一日のうちにも数百回変わっています。その変わる顔の表情を鏡を置いて描けますか。皆さんは自分の顔をよく知っていると思うでしょうが、ある時は、自分も驚くほどに醜く変わりもします。皆さん自身の心がうれしい時は、顔もパッとほぐれますが、気分が良くなければ顔も醜くしかめっ面になります。自身の生活感情によって顔の変化が現れます。それは顔が心の表象だからです。心を中心として相対的姿で現れる顔は、心がうれしければうれしい顔で、悲しければ悲しい顔で現れます。それゆえ、自分の顔がこれだと言えません。自分の顔はどのようだということを推測できないからです。近くて一つとなっているので、自分の顔が分からないのです。

 ある物を目の近くに置いて見ると、よく見えない道理と同じです。皆さんが自分の手を握って触ると、第三者の手を握るようにはっきりとした感覚をもちますか。感じ間違えるというのです。それと同じように、皆さんの相対者、すなわち妻がこんな顔をしていると確定する人は、本質的な面で間違っているのです。愛する妻の顔は、自分の顔がどうなっているのか分からないように、「これだ」と言えません。自分の顔が変わるように、妻の姿も心の状態によって随時変わるからです。それで見る時ごとに違って現れ、見る人の心の状態によっても違って見えます。喜び笑う顔が印象に残れば、その笑う顔が妻の印象になるのです。また、夫の顔の様子から厳粛で謹厳さを感じたとすれば、それが夫の顔として記憶されるのです。笑う時、八重歯を出して笑ったとすれば、それがその人の顔の様子として記憶されます。そのような面で魅力を感じたということは、そのような表象を中心として全体的に拡大して考えるからです。それは、すなわち男性も女性も妻も夫も愛を中心として、無数の形状を備えているということを意味します。(119)

 結婚するにおいて、自己の愛を中心として相対を選ぼうとすれば、結婚の適齢期を逃し得るということを知らなければなりません。結婚するにおいて、女性の場合を見れば、学閥と経済力を前に出し、最も重要な愛と健康、そして能力的な面をおろそかにしやすいですが、それは誤ったことだといえます。愛を後回しにしたり、条件と利害関係のために愛がなおざりにされた状態で相対者を選ぶようになれば、その結婚生活は幸福になり得ないというのです。

 顔の美しい女性を優先的に選ぶ場合にもそうです。その顔は永遠であり得ないのですから、いくらもたたずに老けてしわが出るようになるでしょう。顔の構造は、目、鼻、口、耳から成っていますが、その位置と配列によって、その人がきれい、醜いという考えは、正しい考えとは言えないはずです。

 相対者が愛らしいと思えば、目が醜かったとしてもすべてが美しくきれいに見えるのです。ですから、愛する心をもっているかもっていないかによって、醜く見えたりもし、きれいに見えたりもするのです。昼には多少醜く見えても、夜になれば美しく見える場合もあるとすると、それは愛する心が大きくなったり、小さくなったりするからです。(120)

 人間において異性間の愛は、出会って理解と事情を取り交わす時、二人の間の愛は深まっていくようになります。「私」の約婚者は、この世の中で唯一で最高の伴侶だと思い叫んでごらんなさい、そうすればその約婚女性が本当に最高の恋人になるでしょう。

 「私の約婚者は目が大きくていい。私は目の大きいのがいい。どれほど目の大きい男性と結ばれることを待ったでしょうか」と考えれば、男性の目は一層大きくなり、愛情は行けば行くほど深まるでしょう。これは一つの理論であり、虚構ではありません。真実で理想的な愛情論であることを知らなければなりません。

 実際には目が大きいのに小さく見える人がいて、小さい目をもっているのに実際より大きく見える人がいるのは、すべてがこのような愛情観のゆえであるのを知らなければなりません。(121)


  5、低くなろうとする者が高くなる

 統一教会員の皆さんに私が一つ尋ねましょう。皆さんは祝福される時、一番顔のいい人と結ばれたいでしょう。しかし私たちは、一度考えてみる必要があると思います。互いに似た人同士結ばれれば分かりませんが、統一教会で最も美しいという人が最も醜い人と結ばれたとすれば、その醜い人の立場から見る時、どれほど幸福であろうかというのです。もし神様がいて同情する人がいるとすれば、当然自分を高める人よりも自分を低めて醜い人と結ばれて暮らそうという人を、神様は同情するというのです。だから、聖書にも「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という言葉があるのと、同じ道理です。言い換えれば、「私」のような人は最も醜い人と結ばれてもいいと思う人は、最もいい人と結ばれるようになり、「私」のような人は最も美しい人と結ばれなければならないと思う人は、最も醜い人と結ばれるようになるのです。「私」のような女性はあのような男性が連れて暮らすにはあまりにも醜いと、自らを低めて考える人はもっといい人と結ばれるようになるのです。それは自ら低くなろうとする場合においては、高めてあげようという天地の原則があるので、その道理に従ってそのようになるのです。すべてが同じ道理です。一生の間、この醜い女性を連れて暮らすということが、どれほど苦痛になるだろうかという考えをもって、(女性が)自分を低くする位置に立つようになれば、天地の道理は動くようになっているので、その人(男性)をして心が引かれるようにするのです。また、神様はそのような人(女性)を愛するので、神様が愛する人は美しく見えるというのです。(122)

 先生が祝福をしてあげる時、私たち食口の中のある人をそっと見ていたことがあります。その人を私が一度呼んで、テストをしてみました。その人は女性でしたが、「あなたは、先生がどんな人を与えればいいか」と尋ねると、「私はこれこれの男性ならいいです」と言います。私が「こんな男性が何だ。欲も深い。あなたは嫁に行く運が良くない」と言うと、「そうですか」と言いながら、「先生が気に入る人を決めてくだされば、どんな男性でもいいです」と言うのです。それで「こんな人でもいいか」と言いながら、最もどん底から上がりなさいと言うと、「ああ! 良いも悪いも、いいです」と言うのです。そうすれば、先生はそういうどん底にいる人とは絶対に祝福してあげません。反対にしてあげるのです。天の事柄というものは、高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高くなるようになっているのです。

 先生自身もそうでした。先生が結婚する時、自分より立派な相対をもとうと思いませんでした。自分より立派な相対をもって事を運ぼうとすれば、骨が折れるのです。同じように、立派な相対を得て暮らそうとすれば、骨が折れるのです。頭を下げて四五度以下を見つめつつ暮らすのが一番楽なのです。考えてみなさい。美しいという妻に仕えて暮らそうとすれば、どれほど骨が折れるでしょうか。ある男性は「ああ、私は勉強ができなかったので、妻ぐらいは大学を出た人が必要だ」と言う人がいますが、そのような人は間違っています。男性がすごく劣っているからといって、妻のひざの前に座って学ぶことを「どうだこうだ」と誇ることができますか。学べなかったとしても、いいというのです。

 では大学を出た女性たちは嫁に行くことができないということですか。そうではありません。嫁がせてあげるのは嫁がせてあげますが、心の中の大学という冠を脱いでしまいなさいというのです。学位があれば何をしますか。息子・娘を生むのに大学の卒業証書が必要ですか。「私」が学士だ、博士だ、これが必要ですか。そんなものは必要ないのです。歌にも、「大学を出ればこそ男か」という歌詞があるのと同様に、見掛けがどうであろうと、よく合えばいいのです。大学という看板を置いて見ると、結婚する場合に差し障りが多いのです。ですから、絶対そのような考えをもってはいけないというのです。(123)

 復帰路程を中心として見る時、先生自身もそう考えないでしょうか。「神様が六千年の間ご苦労された基台の上で、黒人の中で最高に真っ黒い人を先生の相対として決めてくださるとすれば、先生はどうするでしょうか」。先生は最初にこの道を行く時、そのように考えました。彼女を心から心から歓迎するでしょうか。本当に本当に彼女を歓迎できるでしょうか。皆さんはどう思いますか。皆さんはそこから上がらなければならないということを知らなければなりません。(124)

 統一教会の娘たちは、「私がこれくらい美しければ、どこに行っても劣らないだろう」と言いつつ、鏡をのぞき込んでどうこう言いますが、そんな人は、先生が出会えば許すことができません。それが恨めしければ、出て行ってください。(125)

 以前祝福する時ここに来てみると、ある人は目がおびえています。しかし先生は、最初約一週間そのまま自分たち同士ほうっておきました。そうすると、ある人は門前まで出てきて相手方を上から下までくまなく見回して大変です。まして一人で数百名の人を全部見回そうとするので、忙しくもなるでしょう。しかし、見回そうと思ってはいけないのです。最も醜い人と結婚しようという考えをもちなさいというのです。「私があの醜い人と結ばれるとしても、その人と幸せに暮らそう」と考えるのです。そう思って座っていれば、心が楽ではないかというのです。

 ところが、ただ見境なく自分一人、訳もなく心がぶうんと飛んで、この人に心が飛んでいき、あの人に心が飛んでいくのです。それでは困るのです。(126)

 皆さんは決して見向きもせず、下だけ見ていなさい。わき見をする人は泥棒のいとこです。なぜでしょうか。自分を偽ろうとする泥棒だというのです。自分一人、その相手方を紙切れに書いておいて決定を下す人もいます。女性たちは自分で、ある人を第一番に紙切れに書いておいて、その人が一週間選ばれて出ていかなければ、自分一人心の中で恋愛をしています。心で既に近づいているのです。その相手方が自分を好きだと言うようになれば、それこそもう、その人は自分の人だと思うのです。そうしてはいけないのです。紙切れには「一度書いてみることもできるのだ」、こう考えなさいというのです。(127)

 事実、体面と自尊心を前に出して祝福の機会を逃せば、自分だけではなく皆さんの家庭と子孫たちまで悲惨になるしかないでしょう。(128)

 道端に捨てられた売春婦でもむやみに手を出してはいけないのです。天地開闢が起これば、その売春婦が王様の夫人にもなり得るというのです。そうではないですか。ならないという法がありますか。王が、彼女でなければ私は死ぬと言うなら、どうしようもないのです。世の中を自分の枠に当てはめて見てはいけないのです。賢い人はそのような点で賢いのです。高いといって頂上だけ見てはいけないというのです。最もどん底にも無限に高い所があるのです。立体的な世界について見ると、そのように行く路程です。平面的な立場から見ると、ソウルにある南山が一番高いだろうと思いますが、以北(北韓)に行けば行くほど、南山より高くない山がないのです。そういうことがあり得るのです。(129)

 さあ! もう皆さんの立場が分かったでしょう。皆さんはサタン世界の王について行きますか、天の世界の僕について行きますか。天の世界の僕について行くというのですね。よろしい! よく答えました。

 統一教会にびっこの男性がいて、世の中の王がいて、結婚しようと言えば女性はどこに行かなければなりませんか。笑いごとではありません。どこに行くべきですか。統一教会のびっこをもらっていかなければなりません。彼はびっこですが、一度子供を生む日には何を生みますか。天の国の王子様を生むことができます。(130)


  6、学歴よりもっと重要な条件

 望みの高い人たちを見ると、大学を卒業したから大学院を出ていなければ……。そして、博士でなければ。そうでしょう。しかし博士になった人を探しても、独身男性の中に博士になった人がいますか。ちょうど三十歳になって、こういう人はもぐら型の人たちでしょう。どんなに良いという人を見ても、振り返って尋ねてみれば、夫婦の情はないのです。それを一般の人は知りません。これは何の話かというと、願いを懸けても、その願いが保障されるだけの何の内容もないということです。(131)

 今私が三日間このようなことをしながら、一日半は女性たちと時間を過ごしましたが、いわゆる高等学校、大学を出たという連中がみんな欲張って立派な男性を願っていて、望みを下げるのは束の間であり、また欲張って良い人だけを探しています。

 一日半ぐらいは望みを下げていなさいと言っても、下げるのは束の間で、またひたすら欲張ってばかりいるので、男性すべてが自分の気に入りません。それで、駄目なので、仕方なくその次には取り返すのです。作戦変更がなされます。神様も仕方ないでしょう。磐石が出てくる前には果てしない荒野を放浪するものだからです。人間は、誰しもそういう作戦をするのが常識になっています。

 それでは、作戦をどのように展開しますか。皆さんが嫌なら、私は聖書どおりにします。私は原則どおり、つまり私の思いどおりにせず、父のみ意どおりにします。では父のみ意は何でしょうか。高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高くなるのが父のみ意です。だから、この次には中学校出身は中学校出身以上を選びなさいと言うと、中学校以上の顔格好のいい娘たちはみんな、高等学校以上でも美男であればいいのになと言って、舌打ちをチェッチェッ……。こうして中学校を出た娘たちを中心として、高等学校を出た人たち(男性)と全部結んであげ、その次には大学(出身の男性)まで結んであげてみると、高等学校を出た女性、大学校を出た女性に残されたのは中学校と小学校出身だけです。しかし、こうしなければなりません。

 それは、統一教会の文先生が作戦上そうするのではなく、原理上そのようにしたということを皆さんは理解しなければなりません。だから、嫁に行く、行けないというのは私には責任がありません。それゆえ、この原則を中心として人事措置も取るのです。(132)

 今回も祝福を受ける者たち(一八〇〇家庭)は、自分の対象を選ぶのに深刻なのは深刻ですが、内容もなく深刻がっていました。

 内容を備えて深刻がっていたならば、無難に突破できたでしょう。自分を中心として深刻がれば、サタンのえじきになるのです。祝福を受ける群れが全部高卒、大卒出身たちですが、みんな上がろうとするだけとは、どういうことですか。まさしくそれは、零点より下にいるのです。(133)

 皆さんの中で愛のない判事の夫人になりたい人、手を挙げてみてください。一人もいません。なぜでしょうか。愛があった次に判事があり得ても、判事があった次に愛があり得ません。ところで神様も、世の中に対して先に愛して判事になるべきはずなのに、堕落したため判事を先にして、愛を尋ねてきています。

 それは、愛を探し出すために判決を先にしたのです。だから既成教会の神様は判決される神様だといいますが、統一教会の神様は愛するための判決をする神様です。(134)

 皆さんの中には「私は大学を出たので、私の相対は学士の学位を取った女性でなければいけないだろう」、または「大学院を出た男性でなければ私と合わないだろう」と言う人がいるでしょう。合うのは労働者でも合います。男性と女性は合うようになっています。ところが、自分たちが勝手に考えます。そのように考えてはいけません。(135)

 祝福対象者たちも同じです。祝福対象者の中に良い女性がいるとしましょう。うわべを見るにはすてきです。しかし重要なのは、これからみ旨の前に存在するだけの価値があるのかということです。そのような女性がどんな男性と結ばれるかということは、大変重要な問題なのです。

 ところで、祝福対象者の中で、ある女性が先生の前に来て「私は大学を出たので、相対は大学院以上は出ているべきではないですか」と言います。それで、先生はその女性に「そう、あなたは美しい。あなたは頭もいいし大学も出たし、だからあなたの相対は、あなたが勝手に気に入る男性を選んで結婚しなさい」と言いました。その女性がみ旨のために忠誠を尽くしますという心で、誰とでも結婚しますと言ったならば、どれほど良かったでしょうか。

 半面、今回の祝福対象者の中に小学校しか出ていなかった女性がいましたが、先生が呼んで「あなたは顔もそれくらいならいいのに、高等学校さえ出ていたならどれほど良かっただろうか」と言うと、涙を流しながら「私は小学校しか出ていないので、み旨のため何も言わず苦心奮闘している人なら誰とでもいいです」と言ったのです。それで先生が、高等学校出身の中で一番賢い地域長と結んであげました。先生がする方法は間違っていますか。天運が行く道はそうだというのです。(136)

 今回先生が日本に行った時に、日本の食口たちに「あなたたちが私の言葉を聞かなければ、七十年ないし八十年後に日本は必ず滅びる」と話しました。同様に、日本の独身の女性食口たちに、良い新郎をもらいたいか、悪い新郎をもらいたいかと一人ひとりに尋ねてみると、どれほど親しく温かく聞いたのか、うれしくてみんな涙を流しました。皆さんはどうですか。また、男性たちは良い新婦をもらいたいですか、悪い新婦をもらいたいですか。泥棒のような男性たちには聞いてみることもないでしょう。

 それでは、どのような新郎が良い新郎でしょうか。顔が良く、格幅が良く、一流大学出身、日本でいえば東京大学出身程度なら良い新郎でしょうか。そうですか。ある人たちは「そうだ」と言うでしょう。しかし、いかに一流大学出身の新郎候補者だといえども、統一教会を信じなければ、その人には絶対に嫁に行けないというのです。そうでしょう。皆さんは、統一教会を信じない一流大学出身の新郎候補者と結ばれたいですか。単なる農村の人夫ですが、死ぬか生きるか分からないほど統一教会に忠誠を尽くす人と結ばれたいですか。どんな人と結ばれたいですか。尋ねるまでもなく、統一教会に忠誠を尽くす人夫と結ばれると言うでしょう。そうなっているのです。

 それで日本の独身女性たちに、最も醜い人が統一教会に一番忠誠を尽くすとすれば、彼に嫁ぎますかと言ったら、答えるかどうかためらうのです。しかし、どうしますか。答えざるを得ないでしょう。結局、「最も醜い人の所に行きます」と答えました。人には間違いありませんからね。これは間違いない事実です。

 続けて「では、日本で最も信仰の篤い人とアフリカで最も信仰の篤い黒人がいるとして、アフリカの黒人は醜いですがその人が日本人より十倍以上統一教会を信じているとすれば、どこに嫁に行くべきですか。答えてごらんなさい!」と言ったら、小さい声で「アフリカに行きます」と答えたのです。(137)


  7、結婚は後孫のためにしなければならない

 先生が組み合わせてあげれば、何を信じて結婚しますか。自分の目で見ていい人よりも、将来、良い息子・娘を生むために結婚しなさいというのです。息子・娘のために結婚しなさいというのです。もし、皆さんが互いに良いという人と結んであげて、世の中の男性や女性が誰も見向きもしない、そのような息子・娘を生んだならどうしますか。それ以上の不幸はないのです。それは、一生涯不幸になります。自分自身が不具の身だとか、または自分に何らかの欠陥があって感じる不幸よりひどいのです。

 それゆえ、私たちの結婚は後孫のためにするものです。だから、結婚する当事者たちの顔立ちはもちろんですが、彼らがもった良い点だけが似た息子・娘を生める人同士、どのように組み合わせてあげるかということが問題です。(138)

 愛は天から始まらなければならないものなのに、サタンから始まりました。堕落とは何でしょうか。サタンから、エバから、横的に始まったものです。皆さんは、その後孫ですから横的です。先生は皆さんに利用されているのです。それでも先生は、皆さんがどうなることを願っているでしょうか。良くなることを願っています。同様に、皆さんから悪い後孫が生まれないことを願っています。先生の目的は、ここにあるのです。(139)

 結婚も、自分を良くするためにするものではありません。劣った子女を生んでみなさい。家は滅びてしまいます。(140)

 統一教会の文先生が祝福をするのは、皆さん個人のためにするのではなく、皆さんの後孫のためにしてあげるのです。皆さんとは観点が違います。

 統一教会の文先生は、結婚は何のためにするものだと見ますか。結婚は国のためにするものだと見ます。国のためにすればどうなりますか。目的は、結婚して生む息子・娘たちを、その父母よりも立派に生むことができるかどうかにあります。一つの例として、顔が三角になった男性が全く同じ三角形の女性と結婚をすると仮定すれば、なるほど何が生まれるか想像できます。

 それでは、それが後代の国のためなのですか。それは国を滅ぼすのです。(141)

 娘たちは嫁に行くでしょう。嫁には何のために行きますか。「私」のために行くのではありません。嫁には千秋万代の選民を受け継ぐために、後代のために行くのです。自分のために行ったなら、全部滅ぼしてしまいます。そのような退廃風潮が世界を巻き込んでいますが、全部切ってしまわなければなりません。ここの若い娘たちがそのような思想をもったなら、私とは怨讐です。

 国を愛し得る主人にならなければ、妻になれないのが原理原則になっています。アダムが完成すれば、国の主人として完成できるのです。アダムは世界の中心主人として完成しなければなりませんでした。それゆえ、世界の主人を夢見、国の主人の責任を果たせる立場に立った男性と女性になって初めて、祝福を受けるのが原則です。それもできず、そんな考えももてずに恋愛できるでしょうか。とんでもありません。(142)

 先生が話をしたかどうか分かりませんが、水沢里修練所で修練会の閉会式をする時、ある人が所感を発表して、子供を産む時そのまま産めず、帝王切開で息子を産んだというのです。それなのに、なぜそんなに気分がいいのか、本当におかしいというのです。説明はどのようにもできませんが、気分がいいというのです。そうして、「先生が私たちにいつも四位基台の復帰をお話しになる時は、何も分かりませんでしたが、息子を生んで原理どおり四位基台を成してから分かった」と言うのです。事実、それが誇りだといえます。それで先生が、「あなた、四位基台だとか何だとか言わず、率直に気分がいいならいいと言いなさい」と言いました。そうだというのです。すべてのものを全部備えるようになればいいのです。しかし、自分がそれらを備えられないようになると、不幸だというのです。どんなに美人だとしても、一人で暮らすようになれば、それは不幸なのです。

 それゆえに、我が統一教会で結婚するのは、これから長生きして、自分の後孫のためにするのだと考え、自分の姿がどうだということを考えてはいけないのです。率直に、そうならなければならないのです。「私自身はこのように生まれたので、私はこういう男性をもらってこそ、私の後孫はこのような子供が生まれるだろう」ということを考えなさい。そして、ほおがこのように出た人がいます。また、目がぽこんとくぼんだ人がいますが、そういう人は間違いなく未亡人になるのです。(笑い)ですからそのような人は、反対に目が出ていて、ほお骨が出た人と祝福してあげなければならないのです。そのように、すべてが合わなければならないのです。何と言いましょうか、種子を改良して新しい種子を得るために、接ぎ木のようなことをするというのです。

 ですから皆さんは、相対が自分の気に入らなくても心配しなくてもいいのです。先生は今まで多くの人たちを指導してきました。今まで祝福してあげた人たちの息子・娘を見ると、大体においてそのお父さん、お母さんよりももっと優れているというのです。そのようですか、そうではないようですか。そうだとすれば、私が結合をうまくしてあげたという話になるのです。(143)


  8、約婚のための真の父母の苦労

 三月から、全国にいる我が青年男女たちを呼んで、特別修練をさせる計画です。ところで七〇〇双を組み合わせてあげようとすれば、一日に五双ずつ決定するとしても、彼らは五カ月の間、眠る時や食事をする時も、常に祝福についてだけ考えるようになるでしょう。祝福という一つの問題をもって、約五カ月の間相撲を取るようになるでしょう。

 そうなると、独身男女たちは祝福を受けるんだといってうれしがりますが、これに責任を負ってすべて切り回すべき先生には、大変な問題です。それは、先生には、日帝時代に日本人たちの所へ拷問を受けに引かれていったような気分です。これをどのように通過するかを考えると、毒ガスがいっぱいに満ちた長い洞くつを通って出ていくような気分だというのです。

 それゆえ、これからあるはずの特別修練会に参席する人たちにお願いするのは、その時になって、どうか(先生を)傷つけないでということです。今日、皆さんが先生の誕生日を祝う意味で、先生のこの事情を分かってくれたならと思い、お願いをいたします。(144)

 世の中のどこにそのような結婚式があるでしょうか。そのとき十時に式を始めますが、八時半まで、夜も眠れずその行事(マッチング)をしました。このように結婚は、人の一生にとって重要だからです。

 日本では二日間に一六一〇双の配偶を選んで約婚式を主宰しました。皆さんは紙一千六百枚を作って組み合わせるだけでも疲れるでしょう。(145)

 皆さんも考えてみてください。八十三カ国から来た一万二千余名の独身男女たちに、国境を越えて愛の因縁を結んであげることは、言葉では易しいですが、実際にはどこが易しいでしょうか。そのようなことをして先生に何の利益があるでしょうか。六〇〇〇双を結んであげるのに、その間一時も楽に休めませんでした。祝福の行事が終わった今でこそ、少し休むには休みましたが……。ですから、体の楽な時間がどこにあるでしょうか。(146)

 このような面で、祝福という問題について見るとき、これから我が統一教会員たちも、天の祝福を受けるのに相当多くの問題があるだろうと思います。現在、先生自身がこれに責任をもち数カ月間この仕事をしてみて、どのような気分になるかといえば、炭鉱の坑に入っていく気分です。皆さんもその坑に入ってみなさい。そこは狭心症では入れません。初めに入れば暗く、どんどん入れば入るほど道が狭く感じるようになります。先生は今、そのような坑を通過している気分です。(147)

 今回、先生が外国を巡回しながら、西洋人たちを結婚させようとドイツ人に行ったら、四十二歳になった歯の抜けた独身男性が、結婚できずに先生を待っていました。統一教会の先生が結婚させてくれなければ、一人では絶対結婚しないというのです。自分の父母が結婚させてくれるのがいいですか、統一教会の文先生が結婚させてくれるのがいいですか。皆さんはどうですか。「先生がさせてくれるのがいいです」。これだから世の中の人々が騒ぎます。だから、その悪口は先生が全部食べます。皆さんが何をよくやったといって、先生が結婚させてあげるのでしょうか。先生は教えてあげて、ひどい目に遭っています。教えてあげなかったらこれをやらなくてもいいのに、真っ赤なのや黒んぼや黄色いのや、みんな頭を突っ込んで、先生に嫁婿に行かせてくれと言います。だから合同で結婚式をするのです。一年十二カ月、毎日のように宴会をするとしても余るようになっているので、合同結婚式しか方法がないのではないでしょうか。そうだといって、一生に一度しかない結婚式をむやみにすることもできないでしょう。それで今回も、アメリカで世界合同結婚式をして、一勝負しました。そして帰ってきました。(148)

 万民を本当に屈服させようとすれば、最も低い所から出発しなければなりません。もう、先生がどんな命令をするか分かりません。皆さんを祝福する時まで、どれほど内的な苦痛が多かったか皆さんは知らないでしょう。とばく場で最後の一枚を引く心で、皆さんを立てたのです。(149)

 十二時が過ぎ、二時が過ぎ、夜を明かしても、私の目は疲れることができません。忠誠をこの場で尽くさなければなりません。今もそうであり、昨晩も何時間と眠れませんでした。一時間ぐらいは眠ったでしょうか。人の生命に責任をもち、一生に一度しかない重大な問題を残して眠れません。
 皆さんが十年かけてどんなに選んだのよりも、私が瞬く間に数双ずつ選び出したものが、いかなる面でも優れているので、私がこの仕事をします。深刻です。滅びるしかない運勢圏を率いて世界にない一つの使命を成し遂げられるそのような秘訣を見つけ出したために、滅びずに統一教会が発展して勝利したという看板を掲げることができます。度量の小さい男になってはなりません。(150)













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