祝福家庭と理想天国
(全面表示) 戻る

第三節 祝福家庭の価値と使命

  1、祝福家庭の価値

 祝福家庭は、自分によって成されたのではありません。神様、そして先生を中心とした歴史性をもっています。自分たちによって成されたのではなく、他意的に成されたというのです。ここに神様の願いがありました。先生によって祝福家庭が由来しました。イエス様もこのために来られました。

 神様は、神様が知る家庭基準以上の家庭が現れることを願われます。(117)

 祝福家庭は、長成期完成級から出発します。祝福家庭は、ご父母様の赤ん坊たちのように、新しく生まれた立場です。(118)

 祝福家庭とは、堕落したアダムとエバが侍ることのできなかった神様に侍り得る中心土台であり、アダムとエバが天使世界と結ぶことのできなかった関係を、実体生活的な基盤の上で横的に直接連結し得る土台であり、万物を復帰することのできる基盤です。そして、神様の息子・娘の立場、すなわちアダムとエバの完成基準の上に立っているのが祝福家庭です。(119)

 至聖所のような立場に立てたのが祝福家庭です。祝福家庭を、神様は六千年間探してこられました。数多くの預言者たちとイエス様を通して探してこられたのです。

 神様が名状しがたい惨状にぶつかりながらも、皆さんを探し出すために苦労してこられたので、皆さんの個体は、歴史を与えても取り換えることのできない存在なのです。(120)

 祝福家庭は、天地の運勢とも離れることのできない因縁をもつようになります。神様が億千万世、とこしえに大切にしまってきた先祖だといわれ、根の中の根であり、種の中の種だといって、とても貴い立場に立てようとなさるのが祝福家庭です。(121)

 神様の歴史から悲しみを除去するのが祝福家庭です。(122)

 今日、愛を中心として勝利の家庭の因縁を連結させ、この地に再現させたのが、統一教会の祝福家庭です。(123)

 祝福を受けた天の家庭は、すでに恐ろしい名前であり、恐ろしい位置です。それは実体と血統と心情に責任を負った立場だからです。(124)

 私たち祝福家庭とは何でしょうか。つえと同じです。何のつえでしょうか。世界的な死亡の世界を渡っていくことのできる橋であり、そのような道に導くつえだというのです。祝福家庭がそうだというのです。(125)

 すべての縦的な歴史を、横的に蕩減することのできる天の祭壇が家庭なのです。

 家庭を中心として子女を備えて、自分の全所有物を持ち神様の前に臨むとき、初めて縦的な歴史を総合した横的な実体になるのです。神様の前に出るためには、祝福家庭にならなくてはなりません。(126)

 歴史的な縦的因縁を越えたという条件は何でしょうか。祝福家庭を成して、その基準を通過したというのです。(127)

 皆さんは知らないでしょうが、祝福がどれほど難しいでしょうか。天の家庭一つを探し出すために、歴史過程においてどれほど多くの個人が犠牲になり、どれほど多くの家庭と民族と国家が犠牲になったでしょうか。このようにして探し出されたのが、祝福家庭です。(128)

 祝福家庭は宇宙的な家庭であり、縦横の歴史を総合した家庭なので、全体が一致団結して、神様の子供になった道理としてサタン世界を完全に倒さなければなりません。それによって、家庭が天国になり得るのです。(129)

 男性と女性が一つになって家庭を築いてこそ善いことがあるのです。このような立場は神様の有史以前の理想であり、以後の理想でもあります。私たちは地上に暮らしますが、本来地上天国で暮らすはずだったのです。天国(理想)は歴史以前にあったのであり、歴史以後にも残っているのです。(130)

 今日、祝福を受けた家庭は、歴史時代に神様が必要としたどのような特定の個人よりも高貴な存在です。外形的に見ても、具体的な内容をもっているというのです。これは歴史時代を代表し得る天の家庭であり、イエス様が探してこられた家庭であり、数多くの先祖たちが願った家庭です。みんながこの一つの基盤を立てるために闘ってきたのです。このような事実をおいて見るとき、神様が祝福家庭を高次元的な立場で見ておられるということを、皆さんは知らなければなりません。(131)

 統一教会は、今まで家庭救援の目的をもって来ました。ですから、祝福家庭は統一教会の中心です。(132)

 祝福家庭とは何でしょうか。神様を中心とした理想的な家庭を追求するものです。その家庭は、来られる主がもつべき家庭であり、これからの後代の人々ももつべき家庭であり、ここにいるあのおばさんももたなければならない家庭です。(133)

 人類の先祖であるアダムとエバが堕落したので、後孫が血を流し、苦難を経た悲惨な歴史を残してきました。しかし皆さんは、堕落の後孫のような立場ではなく、罪を受け継がない新しい次元での善なる後孫を残すようになるでしょう。ですから、生涯どのような犠牲を支払っても、感謝しなければならず、不平を言ってはなりません。(134)

 今、皆さんの立場はどのような立場でしょうか。皆さんは、神様が四千年の間準備したイスラエルの国を占有した立場であり、イエス様に任せようとしたユダヤ教団を皆さんが相続した立場であり、ヨセフの家庭に与えられたすべての条件を全部占有するようになった立場です。それだけでなく祝福家庭は、イエス様が追われに追われながらも探し出そうとした、新郎新婦の位置を決定づけられた立場です。このようなとてつもない位置にいるので、内外で迫害されるのです。

 私たちは、亡くなられたイエス様が二千年間の苦労を経た後、この地上に再び来て成すべき小羊の婚宴の位置を越えた立場にいます。このような位置にいる私たちは、教会、民族、氏族を失った立場ではなく、かえってそれらを探し出し得る立場にあるのです。このような時なので、祝福を受けた家庭に「民族的メシヤになれ」と言うのです。(135)

 祝福家庭の立場はどのような立場でしょうか。昔、イスラエル民族がユダヤ教を中心としてメシヤを望んだ立場ではなく、メシヤを迎えて新しい氏族編成をして、一段階前進した立場に立ったのが統一教会の祝福家庭です。これを考えると、個人が問題ではありません。その祝福家庭が総合して、新しい歴史をつくりあげなければならない時が来たのを知らなければなりません。(136)

 父母の理念を中心として統一教会を見るとき、祝福を受けた家庭は天の氏族を形成しているのであり、祝福家庭を中心として全体の食口たちは、天の民族を形成しているのです。そのようにしてこの三千万民族に対しているというのです。ここは民族基準だけではなく、氏族基準、家庭基準、個人基準が含まれているのです。そのような縦的な基準が、横的に展開された立場で進んでいるのです。(137)

 祝福家庭は個人のための家庭ではなく、どこまでも民族を代表した家庭であり、世界を代表した家庭であり、天と地を代表した家庭です。このようなことをもう一度自覚しなければならないので、家庭的な試練と蕩減が私たちの前に近づいているのです。(138)

 祝福家庭の立場は、全体を代身した立場です。祝福は、未来世界に対する約束です。祝福家庭は、神様がおられる家庭となって、万民に福を分けてあげることのできる立場に立たなければなりません。(139)

 祝福家庭の価値はとてつもありません。(140)

 統一教会に祝福家庭がいるということはありがたいことです。(141)

 祝福を受けた家庭が先生と同じ心情をもっているならば、その家庭に反対していては、へし折られていきます。(142)

 神様が背後で協助する祝福家庭に反対するようになれば、これからは即時に災いに遭うようになるでしょう。

 神様の愛を中心とした家庭は、サタンが侵犯できないというのが原理観です。(143)

 神様が祝福した心情ほど、祝福を受けた食口を尊重視してこそ福を受けます。祝福を受けた食口たちは、神様の前に出る出入り口です。彼らを通して出たり入ったりするのです。(144)

 ある人は、「文先生はそのような家庭に対してたくさんお話をされますが、統一教会の祝福家庭と私たちの家庭とはどう違いますか」と聞きたいでしょう。祝福家庭でもほかの家庭でも、男性と女性が共に暮らすのは同じです。それでは、何が違うというのですか。また、韓国で一番貧しい者と一番富裕な者を互いに比較してみれば、何が違いますか。同じように目があり、鼻があり、口があり、耳があるというのです。韓国で一番の金持ちでも、こじきの服を着せておけば、こじきのように見えます。こじきではなくても、こじきの役をすれば、こじきに見えるというのです。しかし、こじきの服を着た金持ちが死んだならば、この世の人々は金持ちが死んだと言いますが、こじきが死んだとは言いません。このように表に現れた格好は同じだとしても、その内容が違うというのです。これと同様に、統一教会が違うというのも、その内容が違うというのです。(145)

 今までは、皆さんは家庭を軽視してきました。軽視していた家庭が、知ってみると、皆さんに必要な家庭だったというのです。「捨てた石が隅のかしら石になった」という言葉と同様に、皆さんが今まで無価値なように感じた家庭が、今は絶対的な権威をもって現れる時が来たというのです。このような訳で、祝福が貴いというのです。(146)


  2、祝福家庭はご父母様の指導を受けなければならない

 ここにいる婦人たちに一つ聞いてみましょう。夢での啓示や祈祷の中で、先生に時々出会う人、手を挙げてみてください。下ろしてください。特に女性たちは、全部先生の指導を受けなければなりません。皆さんが精誠を尽くせば、教えてくれるようになっています。皆さんは、先生と連結されていなければなりません。それは、思うだけではいけません。祈祷すれば、必ず教えてくれるようになっています。夫婦が一心同体になって祈祷すれば、教えてくれるのです。先生に会いたくて涙し、本部に行きたくて気をもむ心、皆さんが思春期に感じたような、そういう心が生活圏内に深く根づいている、そのような家庭になってみてください。そうすれば、その家庭に神様が共におられるのです。

 婦人食口たちは、必ず先生の指導を受けなければなりません。そして、男性食口たちも、時々でも重要な問題に対しては、先生の教えを受けなければなりません。そうしなくては、神様の家庭になり得ません。そうしようとすれば、祈祷し、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすときには、神様の心情を中心として、神様が復帰摂理をする場合どのような面に重点を置かれるかということを知って、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くしても、神様が教えてくれ得る方向と一致した立場で精誠を尽くさなければならず、かけ離れた立場ではいくら精誠を尽くしても通じないというのです。それゆえ、本部で起こる出来事を早く知りたがる気持ちが誰よりも切実な人は、神様と近い立場を探していくことができるのです。(147)

 家庭が今まで本部を遠ざける生活をしてきたならば、それは間違った生活です。み旨を中心として生活する人ならば、いつでも自分の夫よりも、自分の妻よりも、み旨と一致して先生の家庭を中心として行かなければなりません。そうすれば、先生が直接指導してあげるというのです。これがほかの教会と違う点です。国家と民族を超越して、そのようなことが起こるというのです。それで、わが教会が世界的に発展するのです。(148)

 統一教会員たちは、祈祷や夢での啓示の中で、先生から指導を直接受けなければなりません。わが食口たちの中には、どこに行ってもその場で先生の指示を直接受ける人々がたくさんいます。

 イエス様のとき以上に、実感がわくことがたくさん起こります。わが統一教会員たちは、先生に直接侍って暮らすというのです。統一教会では、イエス様のときよりもすごいことが、時々あるのです。そのようなことがあるので、世界が統一教会と一つになることができるというのです。(149)

 日本の食口たちは、半分以上の約六五パーセントが霊的に先生の指導を受けていました。それを見れば、心霊生活で、彼らが皆さんより前に立っているというのです。祈祷生活を皆さんよりも多くし、切ない気持ちが皆さんより多かったというのです。そうなれば、皆さんは彼らより劣ります。それがなくてはならないというのです。(150)

 今は昔とは違います。昔は縦的な時代でした。縦的な関係を中心として縦的なものを発展させる時だったので、心霊が発達しました。過去には、キリスト教を発展させるために多くの人々が殉教に遭いました。そのような土台の上に、長い歴史を経てキリスト教が世界的に発展しました。しかし、今は違います。東でちらっ、西でちらっとするというのです。分かりますか。先生は今ここにいますが、世界各国を指導しています。ある国は、今この時間が夜の国もあるでしょう。東でちらっ、西でちらっという言葉が合っているというのです。このような役事を今までしているのです。(151)

 これから皆さんが、家庭生活において重要視すべきことは何でしょうか。先生が(皆さんの)妻や子供たちの夢の中に現れて、何か教えてくれたならば、それを信じなければならないというのです。自分の娘が教えを受けたならば、その娘の言葉を神様のみ言のように尊重視し、その教えを絶対視し、そのみ言と一つになって従っていくことのできる家庭環境をつくらなければなりません。夫がその教えを受けられなければ、妻を中心として必ず教えてくれるようになっています。そうなれば、自分の家庭に神様が近づいてくださるということを知って、妻の言葉を神様のみ言と同様に思うのです。そうするのがいいことなのか、悪いことなのか、時がたてば分かるでしょう。

 それを教会の区域長の所に行って鑑定してみれば、一遍に分かります。だから、先生がどのような表情をするので、うれしいことが起こったというのを研究していかなければなりません。祈祷する人には、必ず教えてくれるようになっています。夢や祈祷の中に先生が現れるとき、うれしい表情をすればなぜ喜ばれるのか、悲しい表情をすればなぜ悲しまれるのかを鑑定しなければなりません。悲しい表情も、正面から現れるときと横から現れるときとは違います。また、右側から現れるときと左側から現れるときとは違い、上から現れるときと下から現れるときとは違うというのです。そのようなことを全部鑑定しなければならないのです。

 そのようなことがあれば、それを中心として統計を出してそこに合わせていけば、今、神様が自分の家庭に対してどのように動いておられ、これから自分の家庭がどうなるかをすべて知って行くことができるというのです。自分の家庭に先生からそのように教えを受ける食口がいれば、その食口を中心として夜を明かしながらも、食口全部がその話を聞き、何をどのようにどうしていかなければならないかを決定し誓い、積んで上がっていかなければならないのです。

 このように一人を中心として、そこに同調するようになれば、その人が必ず教えを受けるのです。完全なプラスがあれば完全なマイナスが生じるのと同様に、それがその家庭に一度、二度、三度だけぴったり的中すれば、夫だとかあるいは息子・娘が、それを一番気にするようになるというのです。そうして霊的基盤を広げていくのです。ところが皆さんは、今までそのような夢も見ずにきたでしょう。ですから、祈祷しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。そのような経験があってこそ、神様がおられるということも分かり、信仰生活もうまくいくのです。そうなっているのです。(152)

 皆さんの中で、祝福を受けた家庭は手を挙げてごらんなさい。本当に多いですね。この祝福家庭は、何を中心として生まれましたか。朴氏なら朴氏、金氏なら金氏の氏族が豊かに暮らせと、祝福をしてあげたのではありません。愛する夫と妻が、体は二つであっても一つだと言えなければなりません。しかし、夫婦が一つになるにおいて、愛なく一つになり得ますか。また、民族を統一し民族が団結する場合、民族を愛する愛国精神なくしてできますか。愛を無視し、手段方法によって一つになれという、そのような主張があるならば、それは滅ぶべき主張です。

 共産党の主張がまさにそのような主張です。共産党は脅威、恐喝、脅迫をして強制的に従わせます。ここに立ち向かえば、打たれるので無理にでも一つになるのです。仕方なく外的にでも一つになります。しかし、そのように一つになったものは、強制力さえなくなれば、すぐに背を向けるようになるのです。背を向けますか、背を向けませんか。必ずそのようになるときが来るのです。わが統一教会がそれを操縦しようとします。

 私は、そのような家庭が築かれることを願っています。皆さんは私より優れているので、そのようなことを願わないでしょう。私は皆さんより劣っていますが、そのような家庭を願っていきます。皆さんは今の家庭そのままがいいでしょう。そのような家庭を願っていきますか。皆さんもそのような家庭を願っていますか。そのような家庭になることを願わなければならないと思いますか。それなら、寂しくても私の話を聞きなさい。このような家庭になることを願うなら、私の話を聞くのです。私が金脈を知っているので、皆さんは、私の言うとおりにしてください。崖に登るときにも、私が逆さまに登れと言えば、皆さんは逆さまに登るのです。必ずそのようにしなさい。頂上に行くときまでは、独裁をするように見えるでしょう。誰が苦労して行きたいでしょうか。しかし行ってみれば、「おう!」と、感嘆するようになるのです。

 皆さんの中にも、牛を育てながら飼い葉を食べさせてみた人がいるでしょう。梅雨や天気の悪い日には、牛に飼い葉を食べさせるのが本当に嫌です。私も昔、牛の飼い葉を食べさせにいって、牛にむちを打ちもしました。今笑っている人々は、そのような経験があって通じるようですね。私だけそうしたのではないというのです。父母が、牛を引いていって飼い葉を腹いっぱい食べさせ、何時まで帰れと言ったのに、平地には草が一本もなかったらどうしますか。そのようなときには、「えい、知るものか。裏山にお父さんが一番愛する草原があるから、そこに行って食べさせよう」と、その険しい山に引いて登っていくのです。ところが、この牛が登らず、中間でわずかな草を食べようとするのです。そうしたら、「この牛の野郎」と言って、いきなり強く打ち、棒でたたくのです。それでも、かわいそうではないのです。そういうことを感じてみましたか。このように無理やり引っ張って、川を渡り山に登らせ、ぱっとその場で放してやれば、その牛はどうするでしょうか。食べるなと言ったなら、食べないでしょうか。そのときは、舌はもちろん、唇、耳、目まですべて、ありがとうと言いながら、一心不乱に食べるようになっているのです。

 先生がそうすることのできる所を知っているので、今まで皆さんを押し出しながら行くのですが、皆さんはそれを知らずにいるというのです。皆さんは、そのような所があるということも知らないのです。皆さんがそのようなことをはっきり知っていれば、むしろ押し出してくれるのを願うでしょう。何の話か分かりますか。(153)


  3、祝福をしてくださった理由

 皆さんは、統一教会で祝福を受けなければなりません。先生が今まで世界的に祝福をしてあげたのは何かといえば、皆さんが世界に出ていき得る道を立てておいたのです。すなわち、イエス様が一代で成さなければなりませんでしたが、その責任を果たせなかったのを、先生が全部復帰させておいたというのです。ですから、もう統一教会は滅びません。先生がちまたで客死することがあっても、統一教会の思想は世界を支配して余りあるでしょう。(154)

 統一教会では、善男善女に公的な立場で世界の標本的な家庭になるようにと、祝福をしてあげました。(155)

 統一教会で善男善女が一定の資格を備えれば祝福をしてあげるのは、永遠の神様の息子・娘になれということです。(156)

 この世では仲人が仲立ちすれば、贈り物ももらいますが、私は私のお金を使いながらしました。皆さんを結婚させてあげたのは、皆さんからお金をもらおうと、結婚させたのではありません。誰よりも豊かに暮らせと、してあげたのです。(157)

 統一教会員たちはどこに行くのでしょうか。皆さんを祝福してあげたのは、両腕、両足になって、民族のために闘いいく夫婦になれと祝福してあげたのです。(158)

 統一教会の文先生は、皆さん個人のために祝福をしてあげるのではなく、皆さんの後孫のために祝福をしてあげるのです。(159)

 皆さんが祝福を受けた家庭になったのは、天が苦労された功績の土台によって許された福です。天がそのような福を与えるのは、その福をただそのまま継承してその場で幸福を享受するために与えるのではありません。氏族を探し出す責任を担うために祝福してくださったことを知らなければなりません。(160)

 祝福をしてあげるのは、彼らに新しい使命である氏族のメシヤの資格を付与してあげるためであるともいえます。イエス様が願われた新郎新婦の理想を完成した立場に立て、神様を代身した立場に先生が立って、彼らに横的なメシヤの使命を付与してあげるのです。(161)


  4、祝福家庭の使命と責任

 神様の祝福を受けた者は、神様の代身者なのです。したがって、皆さんは祝福を受ければ家庭を備えて、サタンを屈服させなければなりません。サタンを審判しなければなりません。そして、その次には四位基台を復帰して勝利的主管者にならなければなりません。(162)

 祝福家庭は天の最も貴い愛を受け、生命を受けたので、サタン世界を天の側に復帰するために、無言の従順と祭物の思想をもって、後世万民が痛哭し望むべき天の伝統を立てていかなければなりません。(163)

 統一教会で祝福を受けた若い家庭は、伝統を立てなければなりません。堂々たる伝統を立て、これを家庭、氏族、民族、国家、世界にまで拡大させなければなりません。その伝統を誰かに壊されないようにするためには、最高に難しい立場で立たなければなりません。

 先生の一生を顧みれば、悲惨なことの連続でした。だから物議が多く、痛哭すべきことが多く、あきれたことが多いです。これが人間生活の面白さだということを知らなければなりません。輝かしい伝統は、その中に埋められているからです。(164)

 統一教会が行く道において、個人的な十字架を先生が負ってきています。家庭的な十字架の道までも先生が負ってきました。皆さんはその内容を知りません。これを知ろうとすれば、原理を詳しく知らなければならず、祈祷を十年以上はしなければなりません。父母が苦労した内容を話さなければ、子供は知りません。父母が言葉に表すことのできないそのような事由が宿っています。このような先生の家庭を中心として、統一教会の祝福家庭が氏族になり、この地上のすべての民族を復帰しなければならない使命を負っています。このようにどんどん大きくなっていくのです。(165)

 祝福家庭は家庭の父母としてとどまるのではなく、最低、氏族と民族の父母にはならなければなりません。信念をもち民族を愛することができなければ、災いを受けます。イエス様は理念をもって天と地を抱きました。(166)

 この国を守るべき人は誰でしょうか。私たちが守らなければなりません。そのような信念を誓い、天の前にきょうを守ることのできるわが祝福家庭になったかという問題を考えてみなさい。(167)

 祝福家庭は、復帰路程で誰よりも先頭に立って蕩減の道を行かなければなりません。その道は、自分の蕩減条件よりは国家と民族が立てるべき蕩減条件を背に負って行く道なので、後孫の前に誇るべき先祖になるのです。神様の国を立てるときまでは、祝福家庭が先頭に立って、地上の安息とともに永遠なる霊界の安息の基準をつくらなければなりません。そのような伝統が立てられたならば、祝福家庭は関心の的になるでしょう。(168)

 私たちの使命は大きいです。天と地を復帰するための使命と蕩減を背負い、祭物的な場に行かなければなりません。(169)

 人類の前に、先に愛によって召命を受けた統一教会員たち、その中でも先に祝福を受けた家庭は、絶対的な責任感を痛感して、神様の心情とみ旨を隣人と社会に伝え、成すべき使命があります。(170)

 私たちは、近い将来に世界を制覇するときが来るという信念をもって行かなければなりません。もし環境がそのようになっていないといっても、そのまま信じて行くことができなければなりません。そうして、勝利の旗を高らかに掲げ、前線の王者王女になって、天の国を創建しようという信念をもって行かなければなりません。今から、天国建設は祝福家庭の使命だということを、皆さんははっきり知らなければなりません。(171)

 神様の六千年の苦労と再臨主の苦難にわが祝福家庭が責任を負い、この地と万民と天を私たちのものにしなければなりません。そうして、創造理想を実現しようとするところに、祝福の意義があるのです。ですから、私たちがその苦痛に責任を負わなければなりません。(172)

 祝福家庭の責任は、とてつもなく大きいという事実を知らなければなりません。何千年目に訪れた天の恩賜を受け、それを永生福楽の自分の資源として引き継ぐことができなければなりません。(173)

 祝福は決してただで来たのではありません。必ず責任を伴うのです。(174)


  5、祭司長の使命を果たすべき祝福家庭

 祝福を受ければどうなりますか。アダムとエバが堕落する直前の段階に復帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完成すべき段階が残っているので、神様の心情を悟っていかなければなりません。この過程で、神様が堕落した人間を救うために苦労された内的な事情を全部体得しなければならないのです。神様がこの地上に愛するひとり子を送られ、復帰歴史に責任を負って行かせたのと同様に、祝福家庭も自分の子女たちを祭物として、サタンの世の中に出さなければなりません。自分の息子・娘をおぶって行き来しながら、ヨセフとマリヤがイエス様を抱き、エジプトに行って避難したのと同じ生活をしなければならないのです。この人類のためなので、「私たちを愛されるお父様が守ってくださるだろう」と言わなければなりません。そうすれば、神様は彼らを通して、この世に実体として来られる主のような立場にお立てになるでしょう。ですから、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私は祝福家庭なので、もてなせ」と言っていると、へし折られていきます。(175)

 祝福を受けた私たちは、何をしなければならないでしょうか。イエス様がこの地上で果たせなかったことを果たさなければなりません。そのような立場を越えられなければ、神様の息子になれません。イエス様は、責任を果たせず死ぬことによって神様の息子になりましたが、私たちは生きて神様の息子になれるというのです。そうなれば、イエス様より私たちが勝るという結論が出てきます。そうではないですか。

 イエス様は十二弟子を従えましたが、氏族と民族を編成できず、十二弟子を糾合し引っ張っていくべき三弟子までも失ってしまったので、仕方なくサタン世界から追放されざるを得ませんでした。このようにイエス様は、国から追われ、教会から追われ、家庭から追われ、弟子たちに追われ、しまいには三弟子にまで追われたので、一番どん底のサタンの前に祭物になるしかなかったのです。(176)

 祝福家庭は数多くの民族の前に模範となり、数多くの教会の前に模範とならなければなりません。ヨセフの家庭が責任を果たせなかったのを、皆さんの家庭が立派に果たすことによって蕩減復帰し、ヨセフの家庭が責任を果たせずユダヤ教が責任を果たせなかったのを、私たちが教団的に蕩減復帰して越えていかなければならないというのです。そうして、家庭的失敗、氏族的失敗を国家基準を中心として一時に蕩減復帰し、越えようというのです。それが昨年の冬、皆さんの家庭がしたことでした。それは誰が責任を果たせなかったからですか。マリヤが責任を果たせなかったからです。(177)

 神様があなたたちの家庭でなければと、立ててくれるのを願う前に、神様が呼び立てることができるように悔い改めの涙を流し、自分の家庭を神様の懐に抱かせ捧げる使命を果たさなければならないのが、統一教会の家庭です。それにもかかわらず、そのような価値を知っている祝福家庭がどれほどいますか。(178)

 わが祝福家庭が、自分たちだけが出ていって住もうと考えれば、それは大きな誤算だというのです。自分たちが祝福を受けたのは、先生の家庭のために、アベル的な立場を相対的に防御するために祝福を受けたのです。(179)

 家庭はただ、来られる主の家庭と生命と財産を保護するためにあるのです。彼らの生命と財産そのすべてのものは、主の家庭と主の生命が発展するためにあるのです。発展するためにはどうしなければならないでしょうか。このような者たちを肥料として吸収しなければならないのです。発展の原則がそうです。発展しようとすれば、必ずほかの分野から補給してやらなければなりません。補給してやらなくては、発展していくことができないのです。そうではないですか。補給を受けなくては、発展することができないというのです。(180)

 祝福家庭は、祭司長の使命を果たさなければなりません。祭司長は、神様が下さるもの以外には分配されるべき所有物がありません。一万名が精誠を尽くした供え物を処理するためには、一万名の中のどの人の精誠より勝る誠意をもたなければなりません。そうでなければ法度に引っかかります。(181)

 今から二千年前に、ユダヤ人が個人的にイエス様を神様の内的なみ旨と一致し得る立場で守れなかったので、イエス様は個人的な基盤を立てられずに逝ったのです。

 その次には、ヨセフの家庭やザカリヤの家庭が、イエス様が立つことのできる家庭を守れませんでした。そのことをしなければなりません。個人だけでなく家庭的にも、先生の家庭が歩むべきすべての受難の道を外的であろうと内的であろうとどこまでも責任を負おうという、守ろうという家庭がなければなりません。(182)

 今、皆さんは生きていくにおいて、父母と一つになること以外にありません。その次には、ご父母様の家庭の四位基台と一つになるのです。それでは、皆さんはこれからどうしなければならないでしょうか。天の伝統を立てるためには、カインはアベルの行くべき道を立ててあげなければなりません。また、天使長は、アダムが暮らすことのできる環境や法度を立てるにおいて忠臣の道理を果たし、神様のみ旨の前にずれない道を行かなければなりません。

 これと同様に皆さんは、先生の家庭の赤ん坊たちが将来天の国の生活をすることのできる環境を用意しなければなりません。ですから皆さんは、すべての面で彼らの模範にならなければなりません。皆さんが「ああ、先生の息子は行儀が悪いな」と思うのではなく、そのようにしなければならないというのです。何の話か分かりますか。

 皆さん自らの言葉や行動が彼らの前に模範となり、彼らが、天の息子として差し障りのない完全な立場で万宇宙を代身するようになるとき、皆さんは天使長の立場で忠臣になり得るのです。天使長は忠臣として幼いアダムとエバを育て、天法に一致できるように行動をもって模範を示してあげるべき使命をもっていました。このように皆さんは、自動的に模範にならなければなりません。(183)

 堕落したアダムとエバの家庭では、カインも父母の伝統を受け継ぐことができず、アベルも父母の伝統を受け継ぐことができませんでした。これがどれほど悔しく憤懣やるかたないことでしょうか。それゆえ、彼らはかわいそうです。父母がいても父母の伝統を受け継ぐことができないので、あきれ返るというのです。

 しかし、皆さんは先生を中心として、カインも伝統を受け継ぐことができ、アベルも伝統を受け継ぐことができるのです。皆さんは、そのような恵沢圏内に生きているという事実に、ありがたさを感じることができなければなりません。この立場は本当に恐ろしい立場です。皆さんがある手段や方法を通して上がってきた立場ではないというのです。この立場は、父母の特権的な恵沢によって子女を生んであげる立場なのです。それゆえ皆さんは、心情的一致点を中心として生死のすべてを共にすることができなければなりません。「私」が死んだとしても、父母を二度殺してはならないのです。(184)

 ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子には、イエス様がお父さんのような立場でした。それにもかかわらず、彼らはお父さんが死地に行くのを見て、逃げ出しました。親不孝極まりない者たちだというのです。

 このような恨みの歴史を顧みるとき、皆さんはご父母様の前に横たわっているいかなる死の道をもふさぎ、孝行の道理を果たさなければならないと決意しなければなりません。自分が破綻するとしても、当然行くべき道として行かなければなりません。そうでなければならないのです。(185)

 家庭が教会を助けてあげなければならないのです。統一教会がいかに大きく、統一教会の思想がいかに偉大だといっても、理想的な家庭の思想を飛ばしては考えることができないのです。しかし、今までそのような基台が築かれなかったので、皆さんの家庭がこれを強固にしなければなりません。だから、サタンが引き離そうとしても引き離すことのできない家庭的な基盤を、皆さんが闘って固めなければなりません。すなわち、蕩減復帰すべき五パーセントの責任を果たすべきだというのです。(186)

 悲惨なことを先に受ける人は祭司長です。ですから、祝福家庭が先に悲惨なことを受けなければなりません。(187)


  6、三時代の使命に責任を負うべき祝福家庭

 皆さんはたとえ一時代に生きていても、三時代の使命に結末をつけておかなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。本来、人間が堕落しなかったならば、過去、現在、未来が一点から始まるはずでした。ところが堕落することにより、これがそれぞれ隔たるようになったのです。すなわち、私たちには過去に事件があり、現代に事件が発生し、未来に事件が発生し得る足場が残っているのです。

 ですから、これを全部統合させ、天の一家庭を中心として解決したという条件を立てなくては、先祖から今まで残された氏族を、その後孫たちが地上で蕩減復帰することができないのです。ですから、金某が祝福を受けたならば、その金某の一家庭を救うために祝福を受けたと考えてはなりません。彼は自分の氏族全体を代表して祝福を受けたので、その氏族と連関された責任があります。その責任は縦的には過去、現在、未来が連結されています。これを皆さんが一時に蕩減復帰しなければならないというのです。縦的な歴史を横的に蕩減復帰しなければならないというのです。(188)

 皆さんは三時代の使命を、皆さんの当代に解決して行かなければなりません。これが祝福を受けた家庭の責任です。皆さんが誤れば、霊界にいる先祖たちが引っかかっていくのです。自分の先祖だけでなく現在の氏族や、親戚全部に支障を与えるというのです。(189)

 祝福を受けた家庭の立場は、イエス様を中心として見れば、イエス様の願いを代身して果たした立場です。それゆえイエス様のときに、イエス様によって旧約時代のすべての霊人たちが再臨復活し、長成級に上がっていくことのできる特別の恩恵を受けたのと同様に、皆さんの先祖たちは今まで、復帰摂理の路程には何らの関係もありませんでしたが、祝福を受けた皆さんを通してそのような特別の恩恵を受けることができるというのです。それは皆さんが祝福を受けることによって先祖たちと関係を結び得る内的勝利の条件を備えておいたので、その先祖たちは復帰摂理の途上で協助しませんでしたが、この道にさえ従ってくれば、皆さんが結実した価値を標準として、み旨の前に実を結ぶというのです。それは六千年の因縁を経て結ぶ実です。

 先生を中心として関係して結ばれた実がアベル的な実ならば、彼らはカイン的な立場で相対的関係をもつというのです。このように相対的関係をもつことができるので、アベル的実の因縁を、カイン的実の価値基準として主張することができるというのです。

 皆さんの先祖たちはみ旨の前に協助した人々でもなく、蕩減復帰摂理時代においての功臣でもありませんが、彼らは皆さんの活動いかんによって、昔み旨の前に協助した功臣たちと対等なる価値をもって、地上に対することができるのです。

 言い換えれば、アブラハムの直系の血統を受け継いだ者たちだけが地上に再臨できるのですが、皆さんが祝福を受けることによって、皆さんの先祖たちが皆さんを通して再臨できる、特権的な恵沢が与えられたというのです。すなわち、皆さんの先祖たちが、イエス様の来るときまでみ旨の前に忠誠を尽くした忠臣の列に同参した資格をもって、皆さんの家庭を通し横的に再臨復活の役事をすることができるというのです。(190)

 皆さんは何の苦労もしませんでしたが、数千年歴史を経てきたイスラエル全体の祝福の権限を相続しうる実体になったという事実、これはどんなにとてつもないことですか。そのようなことを知れば、動かないでいようとしても動かざるを得ず、失敗もできないというのです。ところがこれを知らないので、風にゆすられ、行ったり来たりするのです。

 もし皆さんがこのようなみ旨を知っても責任を果たせなくなれば、皆さんの先祖たちが騒ぎ立てるというのです。先祖たちが、皆さんに対して騒ぎ立てるのです。それゆえ、み旨を知ってもみ旨の前に責任を果たせない人々は、将来、名前も分からない病気になるだろうと思います。その先祖たちが来て、生きられないようにするというのです。

 皆さんは三時代の中間の立場に処しているので、今日、皆さんの家庭が標準になり、また、皆さんの家庭が責任を果たせば、歴史を生かし、現在を生かし、未来を生かすのです。しかし、皆さんの家庭が誤れば、歴史を滅ぼし、現在を滅ぼし、未来を滅ぼすのです。すなわち、責任を果たせば三時代を生かすのであり、誤れば三時代を滅ぼすのです。このようなとてつもない三時代の責任を果たすか果たせないかということが、皆さんにかかっているので、貴いというのです。それゆえ、先祖たちがここに屈服するのです。(191)

 皆さんが過去、現在、未来をすべて占有するためには、皆さん自体が過去、現在、未来を通じた心情的な代表者にならなければなりません。家庭がそのような心情的な代表にならなければならず、氏族がそのような心情的な代表にならなければなりません。そうなれば、そのような個人、家庭、氏族は世界を指導できるのです。(192)

 今日の生活は、私自体だけのための生活ではなく、歴史的に延長されてきた生活であり、人類を代身した生活であり、未来の生活を保障するための生活だということを自覚しなければなりません。歴史を輝かせ、時代を立て、未来のための定礎石を残しておくべき立場であることを自覚し、自分の一日の生活を通して生涯の路程を開拓する人にならなければなりません。(193)

 皆さんには過去、現在、未来の三時代を解放しなければならない使命があります。後孫たちに蕩減の苦役を残さないためには、確実な勝利の伝統を残さなければなりません。祝福を受けた立場は、過去はもちろん、全人類が見つめる立場であり、重大な使命をもった立場であるのを知らなければなりません。(194)


  7、氏族的メシヤとなれ

 今まで長々と続いた歴史過程で、復帰摂理の使命を担当して行き来した数多くの人々が願ったことが何だったかといえば、個人が天と一体化することでした。その次には、この願いの基準を拡大させ、家庭が神様と一つになることです。ところが家庭が一つになったとしてもそれで終わるのではありません。絶対的な中心の相対になった後には、第二の主体の立場で、自分の氏族を率いて永遠の中心と一体化させるべき問題にぶつかるようになるのです。(195)

 統一はまず夫婦が一つになるのです。男性メシヤがいれば、女性メシヤもいなければならないので、家庭的メシヤとして主は来られます。堕落はアダムとエバ二人でしたので、復帰も二人がしなければなりません。氏族的メシヤになるのです。(196)

 家庭は家庭にとどまるのではなく、氏族が必要です。先祖として責任を完成しなければなりません。祝福を受け、公職にいない人は脱線したのです。(197)

 皆さんは今どのような立場にいるでしょうか。イエス様は聖婚、すなわち小羊の婚宴をすることができず、家庭的な基準を立てられないで十字架で亡くなられました。それゆえ、二千年間待ち焦がれたその基準を、今日、祝福を受けた家庭が勝利した家庭の立場で、氏族、民族、国家に対し得る基準を立てなければならない立場に立っています。すなわち、氏族的なメシヤとして使命を果たすことのできる時が来たということを、皆さんは知らなければなりません。(198)

 氏族的なメシヤになるにおいて、神様の愛と一つにならずになれるでしょうか。神様の愛と一つになれなければ、メシヤになれません。そのような基準に立った男性と女性になってこそ、祝福を受けて家庭を築くことができるのです。聖霊とイエス様が一つになる役事をすることによって信仰の息子・娘が生まれ出るように、皆さんも実体で一つになる基準を立て、平面的な立場で息子・娘を繁殖できるようになるのです。そうすることができてこそ、氏族的なメシヤだといえるのです。(199)

 皆さんは、自分の息子・娘に影響を及ぼすことのできる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そうしようとすれば、教会生活や公的生活を徹底的にしなければならず、私的生活において模範にならなければなりません。これは子女をして、今後み旨の道を行くことができるように教育するために絶対必要なのです。分かるでしょう。

 その次には、一九六八年度に四三〇家庭を祝福するとき先生が指示したように、氏族のメシヤになれというのです。その使命を果たさなければなりません。先生を中心として最初の三六家庭が組織されているように、金氏なら金氏の家門で先に祝福を受けた家庭を中心として、金氏の家門の三六家庭型がなければなりません。分かりますか。三十六家庭をつくれないなら、皆さんは十二家庭型の先祖にでもならなければなりません。それは皆さんが父母なので、皆さんの息子・娘を中心として、三位基台を成してその基準をつくっていかなければなりません。

 そうして、皆さんが皆さんの氏族の先祖になり、皆さんの家庭を中心とした新しい支派の編成をすべきではないですか。それが十二支派型ですが、それを形成すれば、その十二支派圏内に全部入るのです。十二支派の形態と同様に、十二弟子がいなければならず、十二弟子が中心になって七十門徒になり、ひいては百二十門徒と同じ形態を備えていかなければなりません。これが直系氏族です。(200)

 これから、皆さんが実績を積み上げれば、積み上げたすべてのものが皆さんのものになります。蕩減が必要のない時代が来ました。今からは、兄嫁の親族の八親等まで訪ね回りながら、伝道しなければなりません。こうすれば、たやすく一年以内に十二名以上伝道できるでしょう。皆さんを中心とした四方を築き、四季節に三名ずつ、十二名を探せというのです。霊界の十二真珠門を代表的に通過できる、代表的に門を守るべき人が必要です。そこには、兄さん、姉さん、弟などみんな親戚なので、イエス様を売り飛ばす弟子のような人は出てこないでしょう。皆さんはイエス様と違い、家庭的にそのような環境をもつことができるので、イエス様よりもっといい立場にいると見ることができます。また、皆さんは外部に出ずに家庭をもてることがイエス様よりましです。皆さんは、蕩減条件を立てずに世界まで行くことができます。このような道を経るためには、天の国に十二真珠門があるように、地上に十二弟子がいなければなりません。それが蘇生ならば、七十二門徒は長成格で百二十門徒は完成格です。これが三年以内にできると見ます。

 先生は蘇生十二家庭、長成十二家庭、完成十二家庭を合わせた三六家庭と七二家庭、一二〇家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭を祝福しました。三六家庭は旧約、新約、成約時代を代表した十二家庭を合わせたものです。三家庭はアダム、ノア、ヤコブ家庭を代表しています。皆さんはそのような数字を探し、結婚はさせてあげなくても、その形態はすべて合わせなければなりません。皆さんが私より立派ならば、外部の人にそのようにすることができるというのです。先生は、皆さんがうらやましいです。先生は迫害と反対を受けながら、このようなことをしてきました。いつも生死の境を行き来しながらこのようなことをしました。(201)

 皆さんが氏族復帰をすれば、そこには三家庭がおのずとあるのであり、十二家庭もおのずとあるのであり、三六家庭も七二家庭もおのずとあるのであり、一二四家庭もおのずとあるのです。それゆえ、氏族復帰をしなければならないというのです。このような使命が皆さんに残っているのを知らなければなりません。

 氏族復帰をする道が天に行く道であり、氏族復帰をすることによって、世界に行くことのできる道が開かれるのです。寝ても覚めてもそのために努力することによって新しい国が建てられるのであり、自分を栄光でもって迎え侍ることのできる国が現れるようになるのであり、今までの自分の苦労を称賛し得る国が現れるようになるのです。これを考えれば、寝ても覚めても食べても、家庭が越えるべき試練をどのように越えるかということが問題です。食べて暮らすことが問題ではないというのです。私に任せられた課業をどのように完遂するか、これが問題なのです。(202)

 祝福を受けた家庭を中心として、金氏なら金氏の宗会(=一族の会合)をつくり、朴氏なら朴氏の宗会をつくり、文氏なら文氏の宗会をつくるのです。そうして、これから何をするのでしょうか。文氏の宗会を相続しなければなりません。そして、この宗会がほかの宗会の前にアベルの宗会にならなければなりません。

 それでは、これから宗会を収拾する作戦をどのようにするのでしょうか。金氏なら金氏全体が合わさって、金氏の宗会を生かすために、金氏の宗会を発展させるために、努力の限りを尽くさなければなりません。教育機関もつくらなければなりません。ほかのいろいろな仕事もしなければなりません。だから、皆さんの門中が社会に影響を及ぼし得る足場をつくってこそ、天上世界にいる先祖たちが地上に再臨し得る足場が広げられるのです。

 霊人たちが地上に再臨し協助するにおいて、金氏の先祖が朴氏の家門に行って協助するのは、ほとんど不可能だというのです。通ずるべき道がないのです。このように皆さんには霊界と肉界を連結させ蕩減復帰すべき重大な責任が残っているのです。(203)

 今からは祝福家庭を中心として、氏族ができ上がってくるようになります。ですから皆さんは、氏族的なメシヤとしての使命を果たさなければなりません。これからの教会は族長を中心として築かれます。祝福を受けた人々は、全部族長たちです。(204)

 皆さんの家庭には、氏族を復帰しなければならない、とてつもない使命が賦課されているということを知らなければなりません。氏族を復帰するためには、皆さんが昔、愛した人々や友達に手紙を出した以上に手紙を出さなければなりません。倍以上の精誠を尽くさなければなりません。女性たちも自分のお母さん、お父さんを恋しがるそれ以上の恋しい気持ちをもって、自分の親族に精誠を尽くさなければなりません。それでこそ、復帰されるというのです。彼らに対して愛の心情を再誘発させなければ、復帰がなされないのです。そうか、そうでないか、霊界に行けば良く分かります。(205)

 地獄という所は、一度引っかかって入れば永遠に抜け出ることができない所です。それでも皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ、どうにかなるだろうと、そのままにします。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてごらんなさい。この世の監獄でさえ、入るといって泣きわめきながら、ありとあらゆることをし尽くしても引っ張り出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子・娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが永遠に出てこられない監獄に行くということを知るならば、そのようにしますか。

 皆さんはいまだに何も知らないのです。地獄があるのかないのか、原理があることはありますが、どのようなものなのか知らずにいるというのです。皆さん、本当に分かりますか、分かりませんか。はっきりしないでしょう。間違いなく、はっきりしないでしょう。しかし皆さんが死んでみれば、分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、そのときにはもう遅いというのです。

 それで今、死んだ父母たちが霊的に現れ、伝道をたくさんします。自分たちが統一教会に通う息子に反対し、死んで霊界に行ってみれば、大変なことになったのですからね。それで霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そうしなければ、三世界で引っかかるからです。分かりますか。自分の息子・娘が統一教会に行くのを反対し、行けなくすれば、三世界で引っかかるというのです。(206)

 先生は今までみ旨の道を歩んできましたが、氏族復帰の使命を果たせませんでした。これは、国家基準を越える前にはなされません。イエス様が国家基準に引っかかって倒れたので、その基準を越える前に、自分の家庭を先に愛するようになっていません。イエス様がヨセフの家庭を中心として愛することのできる基盤を失ってしまったので、これを再び捜し出すためには、国家に追われたのを蕩減復帰し、戻ってこなければならないのです。このような基盤を先生が立てておいたので、皆さんはその基盤の上で、皆さんの当代に祝福とともに氏族的基盤をもつことができるというのです。ですから、どれほど栄光ですか。これを知って感謝しなければならないにもかかわらず、その責任を果たし切れなくなれば、その家庭は責任追及を受けないのかというのです。責任追及を受けるというのです。このような立場から、家庭の責任もありますが、これからはその家庭が氏族的メシヤの使命を果たし切らなければなりません。(207)

 今、新しい家庭と氏族の基盤を立てたので、皆さんの時代には氏族復帰という歴史的に驚くべき恵沢圏内に入ってきたのです。そうして皆さんには、お父さん、お母さんに伝道でき、お兄さん、お姉さんの前に伝道できる時が到来したのです。

 復帰歴史は家庭を探し出すためのものですが、ほかの家庭を復帰するよりも、自分の血縁を通して復帰すれば、どれほど早いでしょうか。皆さんが父母や兄弟たちを伝道しろという話を聞くことができるのは、先生一代においては夢のような話です。(208)

 皆さんが、み旨を知った立場に立って本当の意味の統一教会員になろうとすれば、一線に出て個人的、家庭的、氏族的に勝利しなければなりません。少なくとも氏族的に勝利しなければなりません。それゆえ、祝福を受けた家庭は、氏族的なメシヤの使命を果たさなければなりません。それをしなければならない期間が第二次七年路程です。ですから、この期間に伝統を立てなければならないのです。

 七年路程には、この使命を中心として生き、この使命を中心として闘い、この使命を中心として死ななければなりません。勝敗の条件が七年路程を中心として決定されるのであり、全面的な進撃もこの七年路程を中心としてしなければならないのです。ですから、皆さんもここで伝統を確立しなければなりません。(209)

 祝福家庭の男性はイエス様の実体の立場であり、女性は聖霊の実体の立場です。すなわち、イエス様と聖霊がイスラエル民族を救おうと立ち上がったように、生きてこの民族を救おうと、ためらわず立ち上がる立場がまさに祝福家庭の立場です。ですから、祝福家庭は氏族的なメシヤとして出発できます。(210)

 皆さんは家庭を導き、イスラエルの地を探していかなければなりません。皆さんには、そのような責任があります。イスラエルの十二支派が、自分が分配される地を探していったのと同様に、皆さんは今、家庭を導き氏族的な土台の相続地を探していかなければなりません。その期間が一九七〇年度から一九七二年度までですが、このときは世界的に一つの分水嶺を越えていくときです。(211)

 先生の家庭生活と皆さんの家庭生活は同じです。先生を中心として一つの氏族的な生活と皆さんの氏族的生活も同じであり、民族的、国家的、世界的、宇宙的な生活様式も、範囲が広いだけでその公式的内容は同じです。ですから先生は、皆さんに氏族的メシヤになれと頼むのです。(212)


  8、既成祝福家庭の使命

 既成祝福家庭には問題があります。その既成家庭が問題になるというのです。霊界に行くようになれば、違うというのです。正式に童貞、処女が祝福されたのと、既成家庭が受けた祝福は違うというのです。霊界は三層になっています。現社会にも上中下があるように、霊界でもそうだというのです。それなら、三六家庭を見るとき、言い換えれば、それぞれ十二家庭としてアダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭を代身した三六家庭をおいて見るとき、どの家庭が最も貴いかといえば、一番最後の家庭が最も貴いのです。これからは、そのような家庭に仕えなければならないというのです。今はそのような時ではないのでそうですが、すべて差があるのです。違うというのです。

 それは、なぜでしょうか。堕落した世界を救うためです。今まで自分勝手に結婚して暮らし、死んでいった霊人たちがたくさんいます。そのように死んでいった人々が多いので、後孫がその門を開かなければなりません。その門が開かれれば、彼らが生きられるというのです。それが蘇生段階です。次が長成段階、その次が完成段階、このように三段階があります。これを規範化させなければなりませんが、まだそこまでは行っていません。(213)

 皆さん、既成祝福を受けた家庭と、処女、童貞が祝福を受けた家庭と、同じですか、違いますか。違うというのです。霊界組織で見ようとすれば、皆さんは蘇生期に該当します。それなら、将来皆さんの息子・娘はどのように結婚をしますか。これが問題になるのです。既成家庭も祝福家庭だといって、三六家庭やほかの家庭の子女たちと結婚するようになっていません。原則的な秩序に従って結婚をしなければならないのです。そうではないですか。

 祝福家庭にも三段階がなければなりません。三つの類型の家庭がなければならないのです。その家庭を中心として、将来全国的に支派編成をしなければなりません。それなら、皆さんはどこに属するか分かりますか。皆さんは、どこまでもアダム家庭を中心とした第一家庭に所属する家庭です。(214)

 み旨から見れば、二つの世界に関係を結んでいる人々は天使長型です。本来、既成家庭を処理してあげるのは、先生の責任ではありません。完成基準で、祝福という基準を立てた先生です。(215)

 本来真の父母は、処女、童貞を中心として祝福してあげるようになっているというのです。既成家庭を祝福してあげるのは、世の中を救ってあげるために橋を架けることなのです。皆さんは世の中を救うための橋です。ところが、世界の人々が橋を渡ってくるとき、この橋が崩れ壊れてもいいですか。皆さんは橋の責任を果たすことができなければならないというのです。

 今、全世界を見れば、家庭と家庭ではない世界からなっています。また、わが教会を見れば、既成家庭と既成家庭ではない家庭によってなっています。これを全部吸収し得る道をつくらなければなりません。(216)

 走るにおいて誰よりも犠牲的であり、殉教すべきことがあれば、皆さんが殉教しなければならないというのです。何の話か分かりますか。死ぬべきことがあれば、皆さんが死ななければならないというのです。第三家庭に属する処女、童貞として祝福を受けた連中が死んではならないのです。(217)

 これから皆さんをものすごく苦労させなければなりません。ところが、苦労の道が嫌で、垣根越しに眺めているだけでいいでしょうか。だめだというのです。このような立場から見るとき、これから子女教育をしっかりすべきなのはもちろんであり、早く祝福を受けさせなければなりません。皆さんの家庭の三代が祝福を受ければ、しっかり結びつけることができるというのです。分かりますか。皆さんが死ぬ前に三代が祝福を受けなければなりません。そうして、越えていかなければならないのです。

 イスラエル民族もアダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、この三つの家庭を中心として全部連結されたのと同様に、皆さんも三代の基準を連結させなければなりません。(218)

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、そう言ったでしょう。これが三代の神様の立場です。これがどこで実を結んだかといえば、四代目のユダ支派です。そのユダ支派を中心としてイエス様が出現したのです。だから、四代目の家庭から出発するのです。それでは、どうしてイエス様がユダ支派から生まれたのでしょうか。これは天理原則が四位基台の四数を中心として成っていたからです。

 それゆえ、三代を祭ってあげるのです。三代を解放するようなことをしてあげなければならないというのです。そこから、神様と関係を結ぶようになっているのです。これが原理的見解です。皆さんがこのようなことを知るようになれば、今まで暮らした、そのように暮らしてはならないのです。ですから、氏族的メシヤの使命を果たさなければならないというのです。既成家庭には、このような二重の使命を果たし切るべき重大な責任があるということを知らなければなりません。(219)

 皆さんの氏族の中には、既成家庭もいるでしょうし、婚約をして破棄したとか、恋愛関係をもったけれども愛を結べなかったとかいう、問題が複雑な中間の人もいるでしょうし、また純粋な処女、童貞もいるでしょう。彼らを一まとめにして縦的な歴史を横的に蕩減しなければならないのです。三代を中心として一つになったといえる立場に立って、一番最後の代の長男、すなわち完成級に立った孫が代身して供え物を供えて、贖罪の祭祀を捧げなければなりません。そうでなくては、一つになれないというのです。(220)

 既成家庭の息子・娘が祝福を受ければ、それがどれほど福であるかしれません。地上では縦的な歴史を横的に蕩減するでしょう。ここで皆さんが蘇生級ならば、息子は長成級であり、その息子を通して完成級の息子も出てくることができるので、地上で授け受けできるのです。縦的な関係ではこのように授け受けできますか。できません。授け受けるのは、横的な関係として授け受けなければならないのです。そのようにして横的に蕩減復帰していかなければなりません。それゆえ、三代を経なければならないというのです。(221)


  9、祝福家庭が行くべき必然的運命の道

 皆さんは「祝福を受けたならそれでいいのに、伝道とは何か、死地に行くとは何か、受難の道を行かなければならないとは何ということだ」と言うでしょう。私たちがこのようにしなければならないのは、今日私たちの祝福を受けた立場が、堕落した世界を脱した立場ではないからです。私たちは堕落した世界の中で祝福を受けたのです。

 だから、私たちが家庭圏を築いたといっても、その前にサタン側はすでに氏族圏を築いており、私たちが民族圏を築くといっても、サタン側はすでに国家圏を築いており、私たちが国家圏を築くといっても、サタン側はすでに世界圏を築いているというのです。

 祝福はサタン側の世界で受けたので、サタン圏の世界と祝福を受けた私たちの家庭とは、あくまでも行くべき段階的距離があるのです。すなわち、越えていくべき峠が残っているというのです。個々の祝福家庭をおいて見れば、その家庭には越えていくべき氏族的峠が残っており、民族的な峠が残っており、国家的な峠が残っており、世界的な峠が残っており、天宙的な峠が残っているというのです。(222)

 皆さんは、祝福を受けたならばすべてだと考えるかもしれませんが、その祝福を受けたのは、この世の中を脱して受けたのではなく、世の中から勝利して世の中が福を祈ってくれる立場で受けたのではありません。サタン側の世界、カイン圏の世界でアベル的家庭として立てられたのです。そして、外的な面から見れば、カイン側の世界はアベル家庭を祝福してくれないというのです。むしろサタン側は、必ず天の側を迫害するのです。過程では、それゆえ迫害を受けるというのです。

 先生自身も一九六〇年に聖婚式を挙げましたが、世の中に完全に勝利し、霊界や肉界で完全な勝利の基盤を立てた土台の上に聖婚式を挙げたのではありませんでした。先生の家庭は、国家圏内で患難を経験したイエス・キリストが完成できなかった、その立場を引き継ぎ出発したのです。ですから、新しい氏族と民族と世界を形成するために出発した家庭は、サタン世界から迫害を受けるようになっていたのです。(223)

 先生の家庭や皆さんの家庭が行くべき必然的な運命の道は、世界を克服して越えていく道です。世界をどのように克服するのでしょうか。これは、私たちが死んで行く道ではなく、生きて、生前に「蕩減」という道を通して行かなければならないのです。

 蕩減の道には、ある期間がなければならず、条件物がなければならず、アダムの代身の存在であるアベル的な中心存在が必要だというのです。先生自身も、世界史的な蕩減期間内に、必ずある条件を立てなければならないのです。その条件が何かといえば、国家と世界を愛し、国家と世界のために生きたという実績を残すことです。

 それで、アベル的な立場で、カイン側の個人たちから、カイン側の家庭と民族と国家と世界から激しい迫害を受けながらも、むしろ彼らのために生きてきたのです。その過程で倒れず、生き残って勝利の基盤を立てる前には、アベルを中心とした理念をサタン側の個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙にまで伝播し越えることができないというのです。(224)

 私たち家庭はすべて、一切の願いをどこに置かなければならないでしょうか。国家と世界のための家庭だという信念をもたなければなりません。そして国家と世界を形成し得る神様の代身者だという責任感をもち、またこのような心をもって、一切の行動をそこに結束させられなければなりません。

 皆さんが限られた環境で仕事をするとしても、誰の命令を受けてしているかが重要です。神様の命令を受け、あるいは世界と国家の召命を受けてしているという信念をもたなければなりません。世界を代身した仕事を限られた環境でしているのです。国家を代身した仕事も限られた環境でしているというのです。個人を中心とした仕事も同様です。同様ではありますが、命令を受けた背後が違うことによって、その仕事の結果も違うというのです。それを知らなければなりません。

 世界を代表して私が仕事をするというとき、私の個体でする仕事ととりわけ差がないようですが、世界の命令を受けて立って私がするというときには、世界に結束されるのです。同じように国家の命令を受けて立ってするというときにも、制約された環境は同じですが、これは国家の前に寄与するのです。(225)

 皆さんには六千年がプラスされるのです。今まで六千年間男性を探してきたので、皆さんには六千年がプラスされるというのです。さあ、皆さんは探し出された男性たちですか。サタンと闘って勝ちましたか。霊的サタンと闘って勝ちましたか。勝ちましたか、勝てませんでしたか。皆さんには資格がないのです。資格がありません。

 サタンを屈服させなくてはならないのです。民族的サタンと国家的サタンと世界的サタンを屈服させなければなりません。それを誰がしたでしょうか。先生が一人でやりました。倍達民族(=韓民族の古典的、または歴史上の称)が反対し、大韓民国が反対しても、先生一人でその仕事をしてきたのです。

 皆さんは先生が東へ行けば東に行き、西に行けば西に行き、南に行けば南に行き、北に行けば北に行って、いつも一緒に行き来しなければなりません。ついていく自信がもてなければ、勝利の栄光をもつことができないのです。

 したがって、皆さんは先生に感謝し、報いることのできる内的な決意をし、またそれを外的に実行しなければなりません。内的にどんなに決意したといっても、それを外的に表せなければ、役に立たないのです。皆さんが心でだけみ旨のために行かなければならないというなら、それはだめなのです。心がしようとするとおりに行動しなければなりません。内外が一致しなければならないのです。(226)

 皆さんはこのために祈祷しなければなりません。赤ん坊に乳を飲ませるたびに、「この国、この民族をこの赤ん坊より愛しているか」と、反問してみてください。そして「私が夫を好み愛する以上に、この民族を愛してみたか」と、自問してみなさい。また、夫たちも「自分の妻と子供よりも、この国とこの民族をより愛したか」と、自問してみるのです。そうしなくては、天の国に行けません。そのような伝統的な思想とそのような条件を立てようとするので、家庭を捨て国のために行かなければならず、世界のために行かなければならないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(227)

 御飯を食べた後も、「お父様! 私は大韓民国に向かって、ひいては世界に向かって行きます」と言いながら出ていかなければなりません。行く途中には明らかに怨讐がいるでしょうが、この怨讐を強制屈服させるのではなく、どのようにして自然屈服させるかということが問題です。これがたやすいことですか。皆さんはたたき壊すことは簡単だろうと考えるかもしれません。しかし、たたき壊すことで終わるのではありません。天は打たれて奪ってくる作戦をしてこられるので、これによってけりをつけなければならないのです。方法はそれしかありません。それで統一教会員たちに苦労させるのです。(228)

 私が行く道は、大韓民国の三千万民族がついてくるべき道です。世界人類もついてこなければなりません。そのためには、御飯を食べるのもそのために食べ、生きるのもそのために生き、死ぬのもそのために死ななければなりません。

 そうでなければ、神様のみ旨に対して侍る生活ができないのです。そのための命令があれば、その命令に向かって直行しなければなりません。遠回りしようと考えてはならないのです。

 死と生命がかかる一つの焦点に立って行くのが孝の道理であり、忠の道理なのです。この話が何かといえば、それは、生きている最大の価値と死ぬことのできる最大の価値を表し得る立場に立って、死を覚悟して行かなければならない道だというのです。この立場を経なくては、孝の道理を立てることができず、忠の道理を立てることができません。この道は、死を覚悟して行く道です。死を覚悟して進んでいって、どこかで倒れたとしても、それは問題になりません。どうせ死ぬからには、直行して死のうというのです。(229)

 父母が死に、家が滅びる局面なのに、指先に少し血が出たといって大騒ぎを起こしてはならないのです。「血よ、出るなら出ろ、私はやるべきことがほかにある」こうでなければならないのです。何、辛うじて御飯だけ食べて生きている、何、子女たちが学校に行けずにいる、何、自分の夫、自分の妻がどうだとか、こうしている余裕が私たちにはないのです。今、国が滅びるか、滅びないかという局面なのに……。

 今、国が滅びるか滅びないか、世界が滅びるか滅びないかという、このような困難な時点に置かれているので、私たちは心を合わせて精誠を尽くし、「私」の生命が犠牲になってもみ旨のために忠誠を尽くし、忠誠が足りないのでもっと忠誠を尽くすべきだと誓わなければなりません。(230)

 世界を復帰するためには、家庭よりは氏族を一層愛し、氏族よりは民族を一層愛し、民族よりは世界を一層愛さなければならないというのです。ですから、世界復帰のために急がなければなりません。(231)

 世界を復帰するにおいて、自分の息子・娘一人を犠牲にするのは問題ではありません。その一家を犠牲にするのは問題ではないというのです。だから先生は、皆さんを苦労させようと思います。そうしなければ、皆さんは大韓民国を生かすことができません。そうしないで、平和の世界を成せると思いますか。世界のための皆さんになるとき、役事が起こるのです。このような作戦をなぜ促すのでしょうか。皆さんがこのような過程を経てこそ、完全な蕩減条件が成立するからです。(232)

 統一教会はどのような教会でしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。皆さんは夫を犠牲にしても、世界を愛さなければなりません。世界のために夫を犠牲にする女性は、世界的な女性です。世界のために息子・娘を犠牲にし得る父母は、世界的な父母です。同じように、世界を愛する燃える心をもって死の道を行った息子・娘がいるならば、彼はその父母を中心として見ても、孝子の中の孝子になるのです。分かりますか。皆さんはこのような道を行かなければなりません。世界的でなければならないというのです。(233)

 天国は家庭から成されます。個人の路程を越えたので、今から統一教会が行くべき主流的路程は、民族復帰のために家庭的な供え物を捧げる家庭の路程です。そのためには既成教会を糾合すべきです。祝福家庭は先生が責任を負わなければなりませんが、既成教会は統一家で責任を負わなければなりません。これさえ成せれば、民族復帰は問題ありません。このための条件として四三〇家庭を祝福して立てました。ですから、私たちが団結して押し進んでいけば、三年あれば成ります。(234)

 今までは、個人的な忠臣が多かったけれども、これから統一時代においての忠臣は、家庭がならなければなりません。それゆえ、忠臣家庭が出てこなければなりません。忠臣家庭が出てこなくては、忠臣氏族が出てくることができません。神様の表彰を受けられるイスラエル民族、神様の表彰を受けるに値するイスラエル国家が出てこなければならないというのです。そのために、私たちは行くべき道を確実に行かなければならないのです。(235)

 復帰の道は民族から補充させるものではありません。自分の血と肉を加えてやり、自分を否定する立場で、自分の血族を再構成して補強していかなければなりません。それによって、自分一人行くのではなく、自分の家庭が行ったという条件が立てられるようになるのです。これが愛なのです。(236)

 祝福家庭の食口たちは、全部歯を食い縛らなければなりません。楽しく暮らそうとは考えないでください。先生の家庭はたった一日でもそのようなときがありませんでした。困難な道を通して基盤を立ててきたのです。先生の家庭と同様に、皆さんの家庭もそうでなければなりません。これがすべての家庭の責任です。(237)

 今日、祝福を受けた家庭は、祝福を受けて生まれた子女たちが貴いと、かばおうとしますが、それではいけません。祝福を受けた家庭の子女たちを供え物にすることができなければなりません。その子女たちを国よりも愛してはなりません。今日の大韓民国ではなく、神様が探していかれるその国のために犠牲にすることができなければなりません。それゆえ、神様の国を立てるために彼らを犠牲にするという覚悟で行かなければなりません。これが統一教会の信徒たちが行くべき道だということを、皆さんは知らなければなりません。(238)

 神様を愛する道が、まさに皆さんが歩まなければならないみ旨の道なのです。そのみ旨の道は、家庭を中心として神様を愛する氏族、民族、国家、世界をつくっていくのです。ひいては、神様の国のために霊界の解放圏と地獄の解放圏が残されているということを知らなければなりません。そのようなことは、堕落の結果として残された課題なのです。ですからそれらを、ごみ箱を掃除するように、きれいに片付けなければなりません。(239)

 皆さんが寝ても覚めても考えるべきことは、夫を愛する以上に父母を愛さなければならず、夫を愛する以上に兄弟たちを愛さなければならないということです。自分の家庭を愛する以上に民族、国家、世界を愛さなければならず、神様を愛すべきなのです。このように愛の秩序が立てられなければ、行くべき道がどこにもないということを知らなければなりません。(240)

 私たちが願う家庭は、お父様が願われる家庭にならなければならず、私たちが願う国は、お父様が夢の中でもお忘れになれないその国にならなければならず、私たちが願う世界は、お父様の愛の中で、お父様と私たちが喜び踊る天国にならなければなりません。(241)


  10、祝福を受けた夫婦が行くべき道

 今日、祝福を受けるにおいて、常習的な観念でその過程を経る者がいてはなりません。過程だけ経てはならないというのです。そこには、その複雑な事由や因縁がどれほどすさまじく絡み合っているかということを知らなければなりません。それを知って行くようになれば、世界が左右されるのです。ですから、一つの目的に向かって方向を合わせていくようになれば、世界がその方向に向かっていくようになっているというのです。

 それゆえ、祝福を受けた夫婦たちは、自分たちの勝手に生きることができないのです。神様の公約のために、あるいはその国の公約のために生きなければならないのです。自分の相対が優れている、劣っているなど問題ではなく、行くべき目的性が問題だというのです。すなわち、自分たちが生きて、後孫が行くべき正常な道をどのように立てておくかということが問題なのです。(242)

 皆さんを見ると、夫と妻が互いに自分を愛せと言いますが、そのような立場は間違いだというのです。そのような愛は認定できないのです。ですから、自分を愛せと言う前に、まず国家を愛し世界を愛せと言わなければならないのです。そうしてから、自分を愛せと言わなければなりません。これが祝福を受けた家庭として行くべき道です。これは夫でも妻でもみんな同じです。すなわち、私を愛する代わりに国を愛し、世界を愛し、天を愛せと言えなければならないのです。ところで皆さんは、いつ天を、世界を、国を愛しましたか。これが問題です。

 もしアダムとエバが堕落しなかったなら、彼らの愛は、天と地を代身した愛になるのであり、世界を代身した愛になるのです。また、国家を代身した愛になるのであり、民族を代身した愛になるのです。全部それによって始まるのです。

 しかし、この復帰の道に向かって訪ねていく皆さんが、いつ国を愛する立場に立ち、いつ世界を愛する立場に立ったでしょうか。また、いつ天を愛する立場に立ったかというのです。そのような立場に今まで立てなかったというのです。そのような立場は、自分を中心として愛してくれるのを願い、自分を中心として関係を結び幸福の要件を立ててくれという立場ではないというのです。このような考え方をもっては、祝福家庭が行くべき正常な道を行くことができないのです。(243)

 祝福家庭は本来、人間始祖が堕落して天に対してなせなかった愛を探すべき運命であり、世界に対してなせなかった愛を探すべき運命であり、国に対してなせなかった愛を探すべき運命です。また、民族と氏族に対してなせなかった愛を探すべき運命です。それゆえ、国家を越え世界を越えて、天を愛さなければなりません。

 ここで天を愛したという公認を受けて世界を愛さなければならず、世界を愛したという公認を受けて国家を愛さなければならないのです。また、国を愛したという公認を受けて氏族を愛し、氏族を愛したという公認を受けて家庭を愛さなければなりません。このように家庭まで愛したという公認を受けたとき、すなわちそのような内容を天の前に認定された後に、初めて夫婦同士愛し合わなければならないのです。このように、逆さまに愛するようになっているというのです。

 ところで、祝福家庭が仲が悪く、夫婦同士どうのこうのと言う家庭は、自分を中心とした家庭だというのです。そのようなことは、み旨を忘れ去った立場で起こることではないですか。ゆえに、妻は夫に「あなたは私を愛する前にまず天を愛さなければなりません。その天を愛したという認定を受けて世界を愛してください。世界を愛したという認定を受けて国を愛してください。国を愛したという認定を受けて氏族を愛してください。氏族を愛したという認定を受けて家庭を愛してください」と言わなければならないのです。(244)

 自分だけを愛してくれとか、あなたは私のものだなど、今までこの世の夫婦が慣習的に言い得るそのような言葉を、祝福家庭は言ってはならないというのです。ですから、妻になった人は、時間さえあれば、そのような夫にならないように精誠を尽くさなければなりません。また、夫になる人も、時間さえあれば、そのような妻にならないように精誠を尽くさなければなりません。互いに力を合わせて助けてあげ、導いてあげなければなりません。その道を行くにおいて心を痛めないように、互いが勇気を与え、互いが導き導かれるべき責任をともにもっているのが夫婦であり、家庭だというのです。(245)

 祝福家庭は、自分の家庭より民族を一層愛さなければならず、氏族を愛さなければならず、ひいては国と世界を愛さなければなりません。そして、自分の親戚と祝福を受けた同僚たちを愛さなければなりません。こうして互いに連結された一つの家庭があるならば、その家庭は千人、一万人の家族の中にあるとしても、さっと見れば分かるのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭からは、国家を愛する姿、世界を愛する姿、天を愛する姿が現れるというのです。このように夫婦は一つにならなければなりません。(246)

 もし、夫婦が探し立てるべき国を探し立てられなくなるとき、その夫婦は別れて探し立てなければなりません。そうでなければ、二人合わせてでも必ず探し立てなければなりません。こうしなければ、この地に再び来て協助しなければならない無念の事実が残るのです。ゆえに、天が行くことのできる道を開き、世界が行くことのできる道を開き、国家が行くことのできる道を開いておきなさい。反対に下りてくるのです。神様の前にそのような公認を受けて出発しなければなりません。そうするためにも、夫婦が心を一つにして世界と国のために闘ってきたか、その国のために常に忠孝の道理を果たしたかということが問題だというのです。(247)

 祝福を受けた家庭は、祝福を受けたその日から、各自二重の十字架を負っていかなければなりません。男性は、自分の世界だけではなく女性の世界までも責任を負わなければならず、女性も同じく、自分の世界だけではなく男性の世界までも責任を負わなければならないというのです。このように二人が責任を負って行く道において、サタンが讒訴し得る内容を残してはなりません。これが祝福を受けた家庭が行くべき道なのを皆さんは知らなければなりません。(248)

 統一教会の祝福家庭に教訓があるとすれば、それは何でしょうか。大韓民国を愛せということではなく、大韓民国を中心として探し出すべき世界を愛せということです。夫もそのためにあり、妻もそのためにあるので、世界を先に愛した後に家庭の巣をつくろうというのです。そうしてこそ、天国が始まるのではないかというのです。国のない民族は哀れな民族です。いくら家庭同士が命懸けで努力したとしても、国の主権がなくなるときには怨讐の銃剣に倒れていくのです。(249)

 個人が安息しようとするなら家庭的な土台がなければならず、家庭が安息しようとするなら氏族的な十字架を蕩減しなければなりません。だから、その氏族を垣根にしてその土台の上に平和な場を確保して安息するようになるのです。ですから安息するためには、一段階より大きな環境を収拾すべきであり、苦労すべきなのです。(250)

 皆さんが祝福を受けて行かなければならないその道は、自分たち夫婦のための道ではないというのです。夫婦のために行く前に氏族のために行ってこそ、夫婦として安息できる場が生じるのです。同様に、氏族は国家のために行ってこそ、氏族が安息できる場が生じるのであり、国家は世界のために行ってこそ、国家が安息できる場が生じるというのです。

 このような観点から、祝福ということ自体が皆さん個人のためのものではないのを知らなければなりません。皆さん各自が「祝福は全体を代表するものだ」という信念をもっていくべきです。そのような立場で、互いが一つになって家庭を形成するようになるとき、初めてその家庭は世界に向かうことのできる家庭になるのです。(251)

 天国はどのような所でしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。今まで既成教会を信じていてここに来たおばさんがいるなら、よくお聞きなさい。天国はどのような所でしょうか。神様と同じ立場で世界の人々を自分の息子・娘のように愛する人たちが行く所です。それはどういう意味でしょうか。皆さんの夫よりも世界を愛さなければならないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。

 神様のみ旨を中心として見るとき、夫をより愛すべきか、世界をより愛すべきか、これをわきまえなければなりません。どうしなければなりませんか。「世界をより愛さなければなりません」。分かることは分かるのですね。自分の夫を供え物としても、世界を生かし得る女性が、神様が愛し信じることのできる娘になるのです。また、自分の妻を供え物としても世界を生かそうという男性が、神様の息子なのです。これが神様のみ旨です。(252)

 祝福を受けた夫婦は、祝福を受けたその日から果たすべき責任があります。その責任は、夫婦が一つになって家庭を形成し生きるのではなく、二人が一つになって民族あるいは国家を形成しなければならないのです。それが問題だというのです。祝福を受けた人が十人いるなら、十人の家庭が一つになって新しい世界観をもち、一つの新しい氏族を編成しなければなりません。新しい国家を形成しようとすれば、まず新しい氏族を編成しなければならないのです。その氏族は、分裂した氏族ではなく、一つに統一された氏族でなければなりません。

 ですから、祝福を受けた十人の目的は、互いに同じでなければなりません。この家庭は、サタン世界から探し立てられた少数の家庭なので、いつもサタン世界の攻勢を受け得る立場にあります。それゆえ、いつも一つになって団結し、その環境に圧倒して入ってくる外部の力を、凌駕し得るように自体内を結束しなければならないのです。その力を凌駕しようとすれば、自体内の完全な統一が成されなければならないのです。こうして一つとなった姿になるならば、いくら外的にサタンの侵犯を受けたとしても、うまく勝ち抜くことができるのです。このように団結結束した実体を備えたところから、サタン世界の侵犯を受けない新しい氏族が形成されるのです。そのような団結した氏族を通して民族が形成され、その団結した民族を通して新しい国家が形成され得るのではないかというのです。(253)

 祝福を受けた夫婦は、自分の家庭を通して国家のみならず、その終着点である世界までも抱き得る、その日まで行かなければならないのです。皆さんが行かないようにしても、結局そうなるというのです。

 皆さんがもし、この地上で祝福を受けた家庭として行くべき道を行けなかったというときは、霊界に行って暮らせません。自分たちが祝福を受けた夫婦として、天上に行って幸福に暮らせるだろうと思っていますが、実はそうなっていません。その祝福を通して、自身は万代の存在世界で栄光の実体の中心にならなければならないのです。それが創造本然の姿勢です。ところが堕落世界では、そのような姿勢を備えた人がいないのです。

 世界には韓国があるのと同時に日本があり、また数多くの国々が各所に広く散らばっています。サタン世界でこのような国々が怨讐陣営になっているので、天を代身してこれを全部勝利の決定圏内に探し立てなければなりません。だから、神様の前に栄光と称賛を捧げ奉ることのできる立場に立たなければなりません。このような本然の位置に皆さんが立てない立場で霊界に行けば、自分が安息することのできる位置を確保できないというのです。ゆえに皆さんの夫、あるいは妻だけではなく子供たちまでも導いて、必ず、世界を復帰するために協助できるようにしなければならないのです。そのような立場に立った家庭が、まさに祝福家庭だという事実を知らなければなりません。(254)


  11、世界的な家庭的カナン復帰

 統一教会がほかの宗教と違うのは何でしょうか。今までの宗教は、個人の救いを目標としています。すなわち人間完成、理想的な人格完成を目標としているというのです。しかし、統一教会はそれだけでなく、家庭を完成するために出てきたのです。だから、個人の救いを標榜する宗教は、個人の犠牲的な生活を個人救援完成の要件と見なしましたが、家庭の完成を標榜する統一教会は、家庭を犠牲にできてこそ、神様を中心とした家庭完成の要件が造成されると見るのです。(255)

 イスラエル民族がエジプトから出てカナンに帰るときは、家庭がありませんでした。そのときには、家庭をもてませんでした。み旨的な立場で見れば、そのときには家庭もサタン圏に属していました。ですからそのときは、個人的なカナン復帰をする時代です。(256)

 イスラエル民族がカナン福地に入ろうとした時代は、家庭を主として入る時代ではなく、個人を主として入る時代でした。しかし、今は家庭を主としてカナン福地に入る時代です。それで、統一教会のすべての家庭が、今カナン復帰路程を歩んでいます。(257)

 統一教会がいうカナンはどこでしょうか。地球星です。地球全体にカナン福地が築かれ幸福に暮らすようになれば、それを地上天国というのです。イスラエル民族のカナンは、特定地域に限定されていますが、私たちのカナンはこの地球星、すなわち世界を意味します。次元が違うのです。(258)

 統一教会の時代はどのような時代でしょうか。歴史始まって以来現れることのできなかった家庭的カナン復帰運動を、世界的に展開する時代なのです。現時代は、家庭的大移動の時代です。それで今、韓国の祝福家庭である皆さん自身もそうであり、日本の祝福家庭もそうであり、アメリカの祝福家庭もそうであり、統一教会の家庭はすべて動いているというのです。地球星を中心として動くジプシーの群れ……。統一教会員たちは、このようなジプシーの群れです。このように統一教会の群れは、いまだに定着できずにいます。(259)

 私たちは今、カナン復帰のために二十一年路程を歩んでいます。私たちがこの期間に生死を意に介さず押し通せば、世界的カナン福地に到着して基盤を立てることができ、四十年期間を経れば、全世界が太平天国になるだろうと見るのです。私たちが責任だけを完遂すれば、一九六〇年度から始めたので四十年を経て二〇〇〇年代になれば、この地上に天国が完全に実現されるでしょう。(260)

 統一教会は今、世界的な家庭的カナン復帰時代に処しています。ですから皆さんは、ふろしき包みを重く包めば包むほど損だというのです。それで、三次七年路程が終わるときまで家を買ってはならないと言ったのです。それは、ふろしき包みを大きくするなという意味です。(261)

 今は、自分の所有物を持ってはならないようになっています。世の中のすべての物は、自分の所有物として認定される前に、まず神様の所有物として認定されなければなりません。その次に、真の父母の所有物になって皆さんに相続されなければなりません。国家以上の基準でそのような整備の基準がまだ成されていませんでした。統一勇士は今、国を救うために彷徨しています。その目的を果たせなければ、皆さんの分配地、所有権は生まれません。カナンを復帰しなくては、十二支派に対して土地を分配することができなかったイスラエル民族の歴史とも同じ歴史をもつようになるのです。(262)

 先生もアメリカに行って、初めて家を買ったのです。韓国では家もなく暮らしました。アメリカでは、家もなく闘えば神様の威信が立たないので、初めて家を買ったのです。

 私たちは家をもつにはもつが、国を探し立てた後にもたなければなりません。国を探し立てられずに家をもつようになれば、いつ盗まれるか分からないのです。また、国を探し立てるだけではいけません。世界を探し立てなければなりません。世界を探し立てられず、国だけ探し立てておいて、福を受けたと喜んでいては、いつまた敵の攻撃を受けるか分からないのです。

 それゆえ、私たちは大韓民国が完全に復帰され、神様のみ旨の前に立つようになったとしても、再び大韓民国が犠牲を覚悟し世界を生かそうという考えをもてるようにしなければなりません。少なくとも世界を生かし得る土台をつくっておき、大韓民国に入ってきて休んでこそ、大韓民国が安息できる天国福地になるということを皆さんは知らなければなりません。ですから、皆さんは世界的な責任を完結した後にこそ、地上天国が建設されるということを知らなければなりません。(263)

 皆さんは神様の名とともに、先生の名とともに……。子供たちにはたとえ粟飯や麦飯を食べさせても、ご飯を食べさせるほかの人より喜び、「神様、民族が生き得る道と国が生き得る道があるならば、わが家族が供え物になります」と言うことができなければなりません。それが貴いのです。(264)

 統一教会は、第三イスラエル国家のカナン福地を大移動する民族です。それゆえ、家を捨て韓半島を歩き回らなければなりません。自分の故郷の地に血と汗と涙を流し、祭壇を残し、異邦に行って帰ってこなければならないのです。十二支派を代表した弟子を残したその地(韓国)において天の約束を残してこそ、再び行って帰ってくるとき、故郷に錦を飾り得るイスラエルの国が生まれるようになっており、祭壇を残せずに行っては、帰ってくるべき道がないのです。

 それゆえ、統一教会の文先生も今までそのようにしたのです。アメリカに行って帰ってくることのできる祭壇を残したので、イスラエル圏内に入ったのです。それを個人的に、氏族的に、民族的に、国家的につくろうというのが、今まで血のにじむ先生の闘争路程であるのを知らなければなりません。このようにして、外国に行って帰ってくることのできる道をつくってきたというのです。そうでなければ帰ってこれません。イスラエルがないのに、どうして帰ってこれるかというのです。もし、そうなっていないのに、帰ってくるのを誰かが歓迎するなら、歓迎する群れは私を生け捕り利用するための群れなのです。

 それゆえ、そのようなイスラエル圏を立てるために、韓半島、この民族を中心として祝福を受けた家庭に全部大移動命令を発したのです。(265)

 祝福を受けた家庭は、指定された地に訪ねていかなければなりません。なぜなら、エジプトの地からカナンの地に訪ねていくのが復帰歴史だからです。エジプトの地を退け、カナンの地に行かなければならないのが復帰歴史であるゆえに、エジプトの地にある今日の統一信徒たちは、カナンの地に行かなければならないのです。そのような荒野路程は、各自にみんなあるのです。しかし、家庭を捨ててカナンの地に行けというのです。「行け!」家が問題ではなく家庭が問題ではありません。どうせ行かなければなりません。時がたてば分かるでしょう。行かなければなりません。具体的な説明はしません。わが統一教会が韓国内では国家的な移動をしています。すなわち、道的な移動であり、面的な移動ですが、これが将来世界的な伝統になって歴史的な世界の大移動が起こるでしょう。

 なぜこのようにしなければならないのでしょうか。神様はサタン世界の痕跡さえ見るのを好まれないからです。サタンを中心としたものはすべて、神様は見たくないのです。そのようなサタンを殲滅してしまおうとするので、恐ろしい神様になるのです。神様はエジプトで苦痛を受けた以上の苦労をさせるでしょう。苦労をするときに、エジプト苦役時代を考えてはなりません。荒野では神様のみ旨だけを考えなければなりません。神様はそのような考えをもたせるために追い立てるのです。先生自身がそのようにしてきています。(266)

 カナン復帰路程は、一種の戦闘路程です。それで、モーセがイスラエルの六十万の大衆を率いたのと同様に、統一教会の祝福家庭を先生が率いているのです。すなわち、先生がモーセの使命を果たしているのです。祝福家庭は、先生がこちらに行けと言えばこちらに行き、あちらに行かなければならないと言えばあちらに行かなければならないのです。

 自分の息子のために行けないと言ってはなりません。自分の妻ゆえに行けないと言ってもならないというのです。滅びるのです。谷を越えろと言えば谷を越えなければならず、川を渡れと言えば川を渡らなければならず、泳いで渡れと言えば泳いで渡らなければなりません。泳いで渡って死ぬかもしれないので、死なせないようにするために縄で首をくくって向こう岸から引っ張るとしても、引っ張られていかなければならないのです。川を渡らなければ死ぬというのです。どうせ渡るべき川は渡らなければならないというのです。

 イスラエル民族はヨルダン川を渡れずに滅びたということを知らなければなりません。ヨルダン川が何だと思いますか。ヨルダン川とは天の世界とサタン世界の境界線です。すなわち、境界の川なのです。

 ですから、夫が先に川を渡ったら、妻の首に縄を縛ってでも引っ張って渡らなければなりません。もし死ねば、人工呼吸をして生かそうという心たりとももってこそ、家庭が救われるということを皆さんは知らなければなりません。父母たちは子供のために、そのような冒険をしてもヨルダン川を渡るべき時だということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんの家庭は、み旨を中心として夫と妻が一つにならなければなりません。共同の生を営む生きた姿として、これから先生と完全に一つにならなければなりません。(267)

 男性と女性が一心同体になり、父母と子女が一つになり、神様と先生が完全に一つの心、一つの意志になって「最後の命令はこれだ」と言えば、家庭全体がその境界線を越えなければなりません。そのような時が目前に迫ったということを皆さんは知らなければなりません。「ヨルダン川を渡れ」という命令があれば、一時に渡らなけばなりません。イスラエル民族が紅海を渡るときも、そうではなかったですか。神様が海水を分けて、渡れと言うとき、瞬間的に渡らなければならなかったのではないですか。そうではなく、その瞬間を逃せば、すべて滅亡するのです。(268)

 今日、私たちは家庭的な世界カナン復帰時代に処しています。その路程にはヨルダン川が横たわっています。ですから、皆さんの家庭をヨルダン川の向こう岸、勝利の天国、本郷の地に移しておかなければなりません。その責任が皆さんにあります。移しておくことができなければ、千年の恨み、万年の恨みが残るでしょう。

 モーセはヨルダン川を眺めながら死んだでしょう。イスラエル民族の一世は全部荒野ではげたかのえさになったでしょう。そのような歴史が私たちの前に置かれているということを知らなければなりません。先生はそれを知っているので、死を覚悟してこの道を行っているのです。

 痛いといっても痛がる暇がなく、休むといっても休む暇がありません。体が痛くても、み旨のために働いて死ねば、生きて責任を果たせなかった恨みを残すことがないので、このまま死んだらという考えをもつときがあります。それなら、責任を果たせないのをあの世に行って弁明もできるでしょうが、み旨を果たせず行けば、弁明すべき道さえないのです。(269)

 皆さん、きょう子女たちをたくさん連れてきましたが、子女たちがどれほど愛らしいですか。子女たち以上にみ旨を愛さなければなりません。先生は過去、み旨のために子供を後に残し、妻を後に残して家を出たときがあります。米一粒なく、お金一文残っていないのに、神様は出発命令を下されました。神様もみ旨を置いては、無情です。妻が苦労するという思いをもち、子供がかわいそうだという思いをもてば行けないのです。

 先生がそのような道を行ったなら、皆さんはそのような道を行くことのできる姿勢なりとももたなければならず、まねなりともしなければならないのです。皆さんが今祝福を受けてもこのように苦労しているのに、世界のために苦労すれば世界に代わって福を受けるのです。福は天のてっぺんの楽な寝床で受けるのではありません。悲惨で、血を流す十字架の場で受けるのです。どこで福を引き継ぐかといえば、家庭的十字架の頂上、生死が交差する場で引き継ぐという事実を皆さんは知らなければなりません。(270)

 皆さんがよい夫、よい妻になって、子供たちに手本を示さなければなりません。「お前たちのお父さん、お母さんが一つになったように、これが神様が喜ばれることなので、お前たちもこうしなければならない」と言って、子供たちをよく教育し、皆さんの家庭に祭壇をつくって神様に侍り奉らなければなりません。そうしてこそ福を受けるのです。そうすれば、絶対飢えません。食べるものはいくらでもあります。神様がサタン世界をも食べさせ生かすのに、神様の祝福を受けた家庭、神様のみ旨のために忠誠を尽くそうという家庭を飢えさせ見捨てるでしょうか。絶対飢えさせません。(271)

 先生もみ旨の道を歩むにおいて、国のために闘い世界のために闘うにおいて、とても胸の詰まることがたくさんありました。妻にも話せず、子供たちにも話せない苦しく胸の詰まることがたくさんありました。狂った人のようにあえぐ歩みをどれほどしたか分かりません。そのようなときごとに神様が、私の心配する以上に助けてくださったので、この道を歩んできたのです。

 皆さんは、神様を心配する前に子供たちを心配したり妻を心配しました。しかし、そうではありません。み旨は家庭を犠牲にして氏族を救い、氏族を犠牲にして世界を救い、世界を犠牲にしてでも地獄を撤廃するのです。行かなければならない道がこのようにはっきりしているにもかかわらず、自分の子供たちや妻を心配する心にとらわれて活動できなければ、滅びるのです。(272)

 どのような困難、どのような苦難があるとしても、神様とご父母様を中心として行かなければならない道が統一教会の道です。イスラエル民族が行くべき方向を失い荒野で彷徨したように、今日世界人類は、砂漠のようなこの世の中で行くべき方向を失い彷徨しています。航海をする船が羅針盤を失えば、北極星を見て方向を捕らえていくように、人が生きていくべき方向を失ってしまったこの砂漠のような世の中で、北極星のような役割をしなければならないのが統一教会です。(273)

 アダム家庭が天使長を中心として堕落し没落していった基準を、養子圏の家庭を中心として真の子女と一体になって完成基準、すなわち神様の直接主管圏に向かって七年間を通過して越えることができます。しかし、その基準を越えたといっても、その信仰の子女の連結体、すなわち、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の復帰は、アダムとエバの使命です。それと同じく、祝福家庭の家庭自体が、世界を復帰しなければならない使命をもっているというのです。ですから祝福家庭は、世界を復帰するまで犠牲にならなければなりません。皆さんが遂行すべきこのような使命を先生が代身し、全体的な蕩減路程の代表的基盤を、家庭、氏族、民族、国家、世界に順に拡大させてきたのが第三次七年路程です。ですから、信仰の子女のような立場にいる皆さんは、養子圏の位置で一体になった心情でもって真の父母に侍り、世界的基準に発展できるように一貫した精神で行かなければなりません。そうすれば、世界完成圏を越えることができます。

 皆さんはその時まで、家庭を安着させようと考えてはなりません。私たちはまだ、世界的な荒野路程の中で彷徨しています。まだカナンの地に定着できる時期になり得ていないと見ることができます。ですから、皆さんが家庭的に定着をするといっても、それは永遠な定着ではありません。(274)

 先生は生涯をかけて世界的蕩減条件を立てました。先生が九五パーセントを払ったので、次は皆さんが五パーセントの蕩減条件を立てなければなりません。それによって父子関係が決定し、そこで初めて天国への入籍という問題が出てくるのです。皆さんはいつか天国に入籍しなければならないでしょう。天国への入籍は霊界に行ってするのではなく、地上の完全なアダム一族により決定されるのですが、その入籍の基盤はまだ築かれていません。ですから、一つの国を中心として早く入籍の基盤を世界的に準備しなければなりません。そうでなければ、世界は滅亡してしまう運命に処するようになります。皆さんは入籍をしましたか。今からの先生には、はっきりした天の憲法をつくらなければならないなど、多くの問題が残っています。ですから、先生がどれほど内的に焦燥しているか分かりますか。一日も、一瞬も休む暇がないのです。(275)


  12、新しい時代の主人になる者

 新しい時代の主人とは、国を越え世界に行き得る新しい思想をもった世界的な指導者でなければなりません。大韓民国がそうし得るなら、大韓民国がそのような主人の位置に立つというのです。ですから先生や皆さんは、大韓民国だけのために生きようとしてはいけません。世界を主導すべき大分水嶺のような立場にいるのです。ですから、そこに必要なすべてのものを備えなければなりません。分水嶺の中でもカインとアベルがあります。過去にはカインとアベルが分かれて闘いましたが、今は一つにならなければなりません。そのためには、民族観念を超越しなければなりません。そうしなければ、再び分かれるようになります。

 それでは、「私」自身はどうしなければならないでしょうか。「私」自身も世界のための供え物にならなければなりません。また、自分の家庭も供え物になるべきであり、統一教会は一つの氏族ですが、その氏族全体も供え物になるべきであり、三千万の韓国民族全体も供え物になるべきでしょう。このような結論が出てくるのです。その次に、霊界全体までを復帰するためには、世界人類が供え物にならなければなりません。世界三十億人類全体が一緒に供え物にならなければならないという意味ではありません。代表者たちを立て、彼らが犠牲になったという条件さえ立てればいいのです。それによって、霊界も解放され得るのです。何の話か分かりますか。私たちは、このようなとてつもないことをしていくのです。(276)

 自分の国を愛せない人は、世界を愛することはできません。自分の国を愛するのは、何をするためにでしょうか。大韓民国なら大韓民国だけを愛するためではなく、世界を愛するためにです。アメリカならアメリカの為政者やその国民がアメリカを愛しアメリカを好むのは、世界をより愛し世界をより好きになるためにです。今まで、人々はそれを知りませんでした。共産党もそれを知りませんでした。今はそれを知らなければ滅びるのです。

 それでは、私たちは何をしようというのでしょうか。このすべてのことを清算してあげようというのです。分かりますか。そのために先生がこれから世界最高の諜報活動をしようと思います。興信所をつくり世界的な情報網を組織して、このようなことを清算しなければならないというのです。困難なことは私たちが責任を負うのです。世の中はすべてサタン世界なので、必要なら売ってもしなければなりません。

 先生は、サタンを殲滅するために最高の険しい谷間でも入っていき、サタンと対決をして勝利する部隊を、派遣すべき責任をもっています。このような話をすると、先生が「この時代に対して闘っていこう」と扇動するようですが、原理がそうなのです。(277)

 先生が来たといって喜ばないでください。先生は無情な人です。皆さんが赤ん坊を連れてくることを、私が祝福してあげましたが、それを今、快く思いません。彼らを苦労させなければなりません。大韓民国のために使命を果たしたなら、世界の舞台に立てなければなりません。イサクが祭壇の上に捧げられ、生きて下りてきてアブラハムの前に立つようになったとき祝福を受けたように、この大韓民国のために供え物として捧げられたのに、その供え物が死ななかったならば、その供え物の前に万民はもちろんであり、霊界にいる霊人たちまで頭を下げるのです。祭壇に捧げられた供え物が来られる主を迎えて、その精誠を尽くした忠誠心によって祝福を受けることができるというのです。そうし得る民族があるなら、その民族は世界を支配するでしょう。それが復帰歴史の運命の道です。(278)

 歴史に残される人々はどのような人でしょうか。個人を中心として死んでいった人が、その時代の人間たちの前に崇敬の対象になり歴史過程に残され得るかといえば、そうではないというのです。個人よりも家庭のために死んでいった人が、数多くの個人の崇敬の対象になり得るのです。家庭よりも宗教を中心として民族のために死んでいった人は、すべての家庭の崇敬の対象になるでしょう。さらには、宗教の名をもって世界のために死んでいった人は、その宗教を追求する民族の前に崇敬の対象になるでしょう。(279)













SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送