祝福家庭と理想天国
(全面表示) 戻る

第二節 理想家庭

  1、理想家庭

 神様を中心とした永遠なる父母の愛、永遠なる夫婦の愛、永遠なる子女の愛、この三つの愛があるのが理想的家庭です。(163)

 ある人がこれくらいなら天上天下にうらやむものはないといって、幸福を歌うとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは何が決定すれば、幸福を感じることができるでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これはどこの誰もが否定できません。ここで一つしかもたない人は、そこに該当する比例的な悲しみを感じるでしょうし。比例的な不満がその胸の中に残されざるを得ないでしょう。(164)

 家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様ご自身の幸福を模索するためであることに間違いありません。それゆえ、神様が幸福の土台を探し求めるには、人間を離れた場では、そのような理想があり得ないというのです。人間とともに関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、神様もまたそのような立場で幸福を感じるのです。(165)

 不幸はどこから出発するのでしょうか。愛の巣がなくなるようになるときから始まるのです。幸福な家庭は、その家の垣根となる父母に侍って暮らす家庭です。その家庭は、上には天を代表する父母に侍り、横には家庭を代表する他人同士が集まって暮らすその因縁の愛を夫婦として結び、この夫婦たちが天倫の法度を奉じ、その代を継ぎながら暮らす家庭です。(166)

 幸福はどこから来るのでしょうか。鼻歌を歌いながら迎えることのできる、そのような環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成され得ません。また心情、愛がなくても、成され得ないのです。(167)

 公式とは、ほかでもありません。一つの関係を維持させるため、全体に適用させることのできる主体的な内容をもったものがあれば、それが公式となるのです。一つの要件を全体の要件として代身して、帰結させられるようになるときに、それが公式として登場するというのです。原則がそうです。公式とは、中心を言います。中心は、すなわち縦的な基準です。ですから縦的基準は、二つではありません。一つです。

 一つの家の中を見ても、その家の中心は誰でしょうか。年のいった人、すなわちひいおじいさんが生きていれば、そのひいおじいさんが中心です。死ぬ時が来たといって、家族たちがそのおじいさんを無視すれば、縦的な世界を無視するのと同じです。たとえもうろくしたとしても、その家庭の中心は、ひいおじいさんです。食べるものがあっても、その人に先に持っていって差し上げなければならないのです。いくらお父さんがその国の大統領だとしても、おじいさんに先に差し上げなければならないのです。なぜなら、息子は横的だからです。(168)

 皆さん、家で一番いい人は誰ですか。父母でしょう? なぜ父母が一番いいですか。愛を中心として、一生涯に関係を結ぶことのできる一番近い立場にいるからです。

 その次は、愛する夫と妻になるでしょう。その夫と妻の愛は、ある条件的な愛ではなく、無条件的な愛です。その愛は永遠に絶対的な愛です。神様がおられるなら神様と直接的な関係ではなくても、神様の愛と相対的な関係を得ていくことのできる夫婦間の愛の土台が一番よいものではないかと見るのです。

 その次は、父母に対する子供の愛、父母のための子供の愛です。絶望ではなく、あすの望みとして芽生えることのできる理想的な環境を慕いながら、肯定的な姿勢で子供が父母のために犠牲になり、愛することができたなら、その子供の愛は、その家庭の幸福のための純粋で真実な価値としての愛となるでしょう。

 このように父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛が完璧に具備された家庭があるなら、その家庭は私たち人間世界上で、最も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。(169)

 一つの家庭を中心として、一番いいものが何かというとき、その一番いいものは、皆さん自身で決定されるものではないというのです。それでは、家庭での最上の価値は何になるでしょうか。父母です。皆さん一個人を置いてみても、皆さんにある権力や知識、また名誉やお金も貴重なものとなり得るでしょうが、そのすべてのものよりも、もっとよいものとしては「父母」以外にないというのです。その次には、皆さんの妻や夫になるでしょうし、またその次には皆さんの子女になるでしょう。

 事実、皆さんの家庭で、皆さんの父母や妻、そして子女よりももっと大切で価値あるものがありますか。ないというのです。

 それでは、なぜ父母がいいものになるでしょうか。そして夫と妻、子女がなぜいいものになるでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子供において絶対的に必要です。夫婦の愛、これは夫と妻において絶対的に必要なものとなります。そして兄弟間の友愛であるとか、子女が父母に対してもつ親思いの心も、一つの家庭で絶対的に必要なのです。(170)

 皆さん、考えてみてください。一つの家庭を中心として眺めるとき、もしその家庭の父母が病気になったなら、子供たちはどうするでしょうか。子供たちは最善の精誠を尽くして、全財産を売ったとしても、父母の病気を治療してあげようとします。なぜそうでしょうか。愛の因縁ゆえに!

 誰かが強要しなくても、何とかして病気にかかった父母を生かそうとするのが愛の力です。愛する夫婦の間においても、同様です。どちらか一方が死ぬような病気にかかれば、どんなことがあっても、どのような手段と方法を通してでも治そうとするのが夫婦間の愛です。父母と子供の間でも同様です。これはどこの国、どこの誰が否定しようとしても、否定できない普遍的な真理です。(171)

 真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は互いが犠牲になる伝統を備えなければ、長くは持続できず、壊れる定めです。そうでしょう? 父母が子供のために犠牲になるがゆえに、父母が子供を愛する因縁は壊れないのです。そして、真なる父母の愛を受けて育った息子・娘なら、自分の父母に絶対に不孝をすることができないのです。また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、互いが為に与え、一層犠牲になる立場が広がるようになるとき、その家庭には福が訪ねてくるのです。そのような家庭が、神様が訪ねてこられる福地なのです。(172)

 理想的な愛は、家庭から成されます。しかし、神様は真の息子・娘をもつことができませんでした。真の兄弟をもつことができず、夫婦をもつことができず、また父母となれませんでした。ゆえに、このようなことを成そうとするのが、神様のみ旨です。このような所にこそ、愛がとどまるのです。このような愛が成される所には、人々がこの世のすべてのものを捨てて訪ねてきます。(173)

 いくらもじゃもじゃ頭のお父さんでも、第三者が見て人相がしかめっ面であったとしても、そのお父さんの心にぎっしりつまった愛の包みが入っているときには、見たくないお父さんも、見栄えがよくなるのです。人が何分と見ていたくないそのようなお父さんでも、その顔を見詰めれば見詰めるほどいいのです。

 神様も愛があることによって、神様の権威もあり、父母の役をすることもできるのです。

 また、夫婦同士を見ても、花嫁が花嫁の役を果たせるのも愛あればこそです。愛がなくて花嫁の役が果たせるでしょうか。愛がなくては夫の役を果たせるでしょうか。果たせないというのです。

 愛がなくて花嫁の役を果たそうという女性は、女性ではありません。愛がなくて夫の役を果たそうという男性は、男性ではありません。愛があることによって、男性は夫の役を果たすことができ、愛があることで、女性は花嫁の役を果たせます。

 また、息子の役を完全に果たそうとすれば、愛なくしてできますか。娘の役を完全に果たすためには、愛なくしてできるでしょうか。できません。(174)

 子女間の愛はどうしなければならないでしょうか。何を基準として愛さなければならないでしょうか。父と母が愛するように、兄弟たちも愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというとき、それは父母に学ばなければなりません。(175)

 息子・娘たちが父と母に対して「私たちのお父さんとお母さんは、世界で一番いい人です。神様の代身存在だ!」と言えなければなりません。夫婦間の変わらない心と愛が、終始同じなのを見て、子女たちが「その愛に倣って、子女たる私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭が築かれ得ると見ます。

 また、子供が成長して思春期となれば、心情が一つとなる相対を求めるようになります。これは結婚を通して成すことができます。だから相対側をこの上なく尊重し、愛と心情の基準を立てるために努力することが、男性の行くべき道であり、女性の行く道です。だから母と父も神様の心と神様の愛に一致し、子供たちも父母に似て、神様の心と神様の愛に一致し得る家庭とならなければなりません。(176)

 父母の愛を中心として、兄の立場に立った人が自分を犠牲にしながら、父母を代身して弟妹たちを愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は、兄弟たちの中で一番苦労をたくさんすべき責任がある立場です。

 父母の立場も、同様です。子供を代身して、子供たちよりも一層苦労する立場が父母の立場です。父母が愛を中心として、子供のためには涙が交差する場だとしても離れたがらないなら、子供たちも涙を流しながらも、その父母についていきたがるのです。(177)

 神様を中心として一つとなるとき、千態万状に回るようになるのです。ですから、兄弟間で愛し合うのも、父母が子供を愛するのに倣って、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛しながら一円化した家庭には、家庭愛が花咲くことができます。これがまた、社会愛となり得ます。ひいては民族を愛する民族愛となります。このように愛せば、世界愛となるのです。ところが、今日これが漠然としているのです。(178)

 皆さん自身が父母の愛を受けるのは、何のためでしょうか。夫婦である父と母が相互いに頼り合い、相互いに愛し合うその動機が、皆さんによってなされているからです。分かりますか。ですから、その動機を中心として、兄弟同士が互いに愛し合うその愛は、変わらないことでしょう。それを中心として、隣人を私の体のように考えながら生活するとき、正しい社会環境が開かれるのです。家庭を中心として見れば、その家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。

 家庭と家庭を、全部合わせなければなりません。そうしてこそ、その中から愛が生まれるのです。そうして、国家の範囲でも一つに合わされるのです。ここで、社会はいろいろな階層に分かれるようになっています。会社には社長という代表者がいるでしょう? そうでしょう? 国家の責任者は今何人ですか。一人でしょう? 一人の責任者がいます。このように形は統一されるのであり、形態だけ大きくなるのです。このように、分かれていながらも一つになるのが、四位基台の原則です。(179)

 万物は愛のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるのかといえば、物質と子女と父母、言い換えれば、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母がなくては、子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として、万物を主管しなければなりません。アダムとエバも、万物を主管しなければならないのです。これが全部一度に適用されるのです。(180)

 愛の包みは、何の包みでしょうか。本郷の国に行って、その包みを解いてみれば、理想的な夫が飛び出し、理想的な妻が飛び出します。また、理想的な家庭が飛び出すポケットです。ここから出てくるのは、一等の復帰です。だから、個人も一等、家庭も一等、氏族も一等、民族も一等、国家も一等、世界も一等だというのです。全部一等なら、互いに高低がありません。ですから、兄弟も家庭も、復帰されるのです。このように統一的な基盤を造成していくために、宝物のつぼである愛の包みが必要だというのです。

 この味を知ってしまえば、家庭が問題ではありません。反対する夫が問題ではなく、反対する妻、親戚、先生が問題ではないのです。学校の問題は何でもありません。ただ自動的に「私」の心から火の玉がわき出るのです。このような心情の火山帯をつくって、生動する生命をほとばしらせ得ることが起こったなら、そこから何が出てくるでしょうか。この世の人々は、神様もこの愛に火がついたなら、爆発的な衝動を引き起こされるということを知りません。(181)

 「家庭」これは永久不変の紀元であり、要所です。これはお父さんも変えることができず、兄弟も変えることができず、どの国のどのような制度でも変えることができません。また、世界的にも変えられず、天と地も、神様も変えられません。それゆえ、家庭というものには、永遠に革命という名詞が必要ありません。なぜなら、家庭は愛の場であるため、革命が必要ないというのです。

 男性が女性を、女性が男性を愛するにおいては、昔おじいさんとおばあさんが若かったときに互いに思慕し合ったのも、きょう現在の若者たちが互いに思慕し合うのも、違いがありません。同じだというのです。思春期に感じることは、同じだというのです。ところで、家庭を成す型は、千態万状に変わっています。愛する心は同じなのに、家庭として安定するその形態は変わっているというのです。これは結局滅びるようになります。

 革命の要素を加えることのできないそのような型で成された家庭は、どのような主義や思想にも吸収されません。かえって主義や思想を支配し、凌駕します。このような基準が立てられた家庭は、十年、百年、千年たっても、永遠に変わらず、民族と国家の形態を維持させるようになります。(182)

 お父さんとお母さんは、愛なしには一つとなることができないのです。皆さんはなぜ愛を好みますか。好むまいとしても好まざるを得ないようになっているからです。お母さんとお父さんが相互いに愛し合う力が、個体のための力より強くなるほど、一層理想的なのです。お母さんとお父さんを完全に一つに縛りつけるのは、愛の綱です。鉄の鎖は、時間がたてばさびがついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして、父母と子供の間は、御飯でもお金でも縛りつけることはできません。ただ、父子関係の愛でだけ縛りつけることができます。(183)

 お母さんが子供を愛し、子供がお母さんを愛するのに、お父さんがその妻を見て、「あなたは私の愛する息子を愛さないでください」とは言わないのです。自分以上に息子を愛すれば喜びます。また、子供がお父さんよりもお母さんを愛するとしても、お父さんがその子供に、「お前は、お母さんより私をもっと愛しなさい」とは言わないというのです。そのような教育法はありません。

 このように、自分よりももっと愛することを好む立場を、どこでもつことができるでしょうか。その場所は家庭です。そのようなことは、家庭を離れてはもつことができないのです。ほかの所ではあり得ないのです。(184)

 真なる家庭は、自分のお母さんのように妻を愛し敬い、自分のお父さんのように夫を敬い愛し、妹と兄のように互いに愛し合う所です。その次には、神様のように自分の妻を愛し、神様のように自分の夫を愛し尊敬する世界が、理想家庭が暮らす天国です。このような伝統がこの地球上に立てられなければなりません。(185)

 幸福な家庭は、夫が出掛けて帰ってくれば、外であったすべてのことを妻と共に話し合い、新しく開拓することのできる要因を発見する家庭です。互いが力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭だというのです。父母がそのようになれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭をつくろうと、同調するようになるのです。(186)

 天の国の家庭は、無理やりにできあがるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛するときも、受けようとだけせずに、互いに授け受ける作用がなされてこそ、理想的な愛が成立するのです。(187)

 お父さんとお母さんが一つとなる日には、その家庭は発展するのです。子供と父母が一つとなる日には、より次元の高い家庭に発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚間において一つとなる日には、どのようになるでしょうか。そこには新しい民族の正気が起こるでしょう。それがより高い次元に向かっていこうというときは、環境的に全部結束し、国家基準まで忠臣の血族として残されるようになるということを忘れてはなりません。(188)

 父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母がいなくても、子女の喜びはないというのです。あるいはある男性がいれば、相対たる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。

 ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係をおいて、より高い次元で愛を維持することです。そして、夫婦の前には必ず子女がいなければなりません。そうしてこそ一つの家庭が築かれます。上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。

 このようにして、一つの家庭は縦と横に一つとならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つとなるのでしょうか。人間だけでは不可能です。

 人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、その主体を中心として、父母は一つとなることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女がその主体を中心として愛で一体となった場が、幸福の場であり、望みの場となるでしょう。

 すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で、刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではいけないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。(189)

 完全な家庭を築くためには、絶対的基準に立たなければなりません。堕落したので、二人はそのまま一つにはなれません。男性と女性が二人とも絶対的基準に立たなくては、共に行くことができないようになっています。堕落しなかったなら、二人が一つとなって家庭を築けたでしょうが、エバがまず堕落し、前後関係をつくっておいたために、横的な関係、すなわち左右関係をもてなかったというのです。

 平面的基準から神様と一致してはじめて、横的基準が一致され得る家庭、このような家庭は世界が壊すことができず、天と地が壊すことができません。その家庭から新しい歴史が開かれるのです。(190)

 体と心を収拾して、完全な個人とならなければならず、夫婦が一つとなって、完全な家庭を築かなければなりません。(191)


  2、三時代が連結されている家庭

 歴史を抱き、時代を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。だから、神様が今まで六千年を経ながら探してきた最後の起点は何でしょうか。家庭です。その家庭は愛が連結された、愛で結束した家庭です。存在するすべてのものは、ここに主管を受けるのです。根源的な愛、絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくることが、創造当時にアダムとエバに与えられた本来の使命ではなかったでしょうか。

 神様は男性アダム、女性エバとして終わるのではなく、互いに結合した新しい家庭を夢見られたのです。これが、神様が男女をお立てになった第一次的な出発の起源です。ですから、家庭を探し、家庭圏内で神様の愛を中心として、この世の中で充足を感じることのできる場に入って暮らしてこそ、天国も無事通過するのです。そうしてこそ、この世界も越えて立つことができます。皆さんは、そのような立場で闘う存在とならなければなりません。このような運動が新しい歴史時代に現れるべきであり、そのような運動を提示するために現れたのが統一教会だということを、はっきり知らなければなりません。そうして、自分の家庭で神様に侍り、神様と一つとならなければなりません。そして、「私」が主体の立場に立って、横的にも完全に一つとならなければなりません。このようなことを祝福家庭がしなければなりません。(192)

 愛の家庭圏を形成するためには、絶対的でなければなりません。父母は歴史を代身することができるのであり、夫婦は時代を代身することができるのであり、子女は未来を代身することができるのです。「私」が一時代に一相対を愛するのは、神様が世界に対されるのと同じなのです。ここから父母と夫婦と子女が一致し、天宙を代表して、私たちの愛をまねなさいと言うことができ、後孫たちに対して、私たちには倣いなさいと言うことができ、内外ともに主張できる心の本郷、天情が通じるその場所は、天地に記憶されるでしょう。完全な主体が決定されれば、完全な対象は自然に生まれ出るようになっているのです。(193)

 父母と一つとなることは、歴史と現実が出合うことです。ここで「私」は、自分一人を中心として、父母を愛することによって過去を愛することができ、相対を愛することによって現実を愛することができ、子女を愛することによって未来を愛することができます。ですから、「私」は三時代の愛を体験することができるのです。三つの愛が結集した核心体が、まさに家庭です。(194)

 父母を愛することは、歴史と現在を連結させることであり、神様が訪ねてこられ得る道を築くことです。ですから、父母を愛さなければなりません。歴史的な存在と時代的な「私」を連結させること、すなわち過去と現在を一つにすることが、父母を愛することです。また、自分を中心として子供を愛することは、現実と未来を連結させることです。このような愛を、千年万年讃揚させようとする思想が統一思想です。これが、統一教会が行くべき道であり、この道は誰も阻めません。(195)

 過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それが何の話かといえば、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するという話です。お父さんがおじいさんの立場に上がるようになれば、自分がお父さんの立場に上がって、息子・娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の三代が一つとならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つとならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れたとしても、揺れる社会の侵犯を受けず、幸福の土台をもつことができます。(196)

 お父さんが喜べば家庭全体が喜ぶのであり、妻が喜べば家庭全体が喜ぶのであり、子供が喜んでも家庭全体が喜ぶのです。一時に宇宙全体が喜び得る場が、家庭だというのです。(197)

 私たちには、これからどのような社会、どのような世界でも、革命ののろしを上げざるを得ない時代が来るでしょう。私たちはそこに対備して、その時代を凌駕することのできる鍵を準備しなければなりません。ところで、何によってそれを準備するのでしょうか。それは家庭です。理想的な愛を中心とした家庭なのです。私たちはこれを絶対視しています。これはどのような社会制度でも、どのような時代でも、革命することはできません。

 私たちが主張する理想的な家庭、言い換えれば、神様を中心とした創造理想の家庭は、歴史を代身することのできる家庭となり、時代を代身することのできる家庭となり、未来を代身することのできる家庭となるのです。(198)


  3、家庭は真の愛の訓練道場

 家庭において父母は縦的な軸を完全に継承し、そこに合わせなければなりません。その次に、夫婦は軸に横的に九十度の角度で合わせなければなりません。その基準は国家でも同様です。愛の軸の位置は一つしかありません。それゆえ、この軸を中心として、家庭は小さいですが、氏族、民族、国家、世界はだんだん大きくなります。愛の軸を中心として、拡大するようになっています。拡大、縮小の因縁関係を全部四方に拡大させるところに、理想圏が広がるのです。だから、今世界を一つにするために私がするのが、軸を正す仕事です。ですから、方向設定をするためには、思想的王者の立場を占領しなければなりません。占領するにおいては、強制ではない、愛で消化しなければなりません。(199)

 家庭は、天国を成すことのできる教材としてつくったのです。おじいさんのような年齢の人を、自分のおじいさんのように愛すれば、その人は天国に行くようになっています。父母と同年配の人を、自分の父母のように愛すれば、万国共通で霊界にも境界線が生じません。息子・娘の年齢のような万国の若い人たちを、自分の・娘だと考えることのできる心さえもてば、天国のどこにでも行くことができます。天国に十二の真珠門があり、方向がありますが、どこにでも通ずることができるのです。家庭とは、天国全体に因縁を結ばせる教材です。すなわち、テキスト・ブックだというのです。

 その軸を中心として、それを国に適用すれば、愛国者となるのであり、世界に適用すれば、聖人となるのです。天と地を中心として適用すれば神様の息子・娘である聖子となるのです。それが人間の価値でした。(200)

 真の愛の訓練道場はどこでしょうか。その愛の訓練道場は、きょうのみ言の題目である「神様とわが家庭」です。神様と私たちの家庭で、エホバは縦的な神様であり、アダムは横的な神様なのです。(201)

 家庭とは、人類愛を教育する代表的な修練所です。心情の中心を立てる代表的な広場です。そこで、互いに信頼しながら幸福な生活を営めば、全宇宙の中心として立つようになり、幸福を享受するようになるというのです。それが理想圏の始まりです。愛なくしては、何の存在の意味もありません。(202)

 この宇宙の中心は、どこにあるでしょうか。「家庭」にあります。真なる愛が定着することのできる基地はどこでしょうか。皆さんが暮らしている家庭だというのです。ですから、本来の家庭は、宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越えて国家を愛する愛国の道を行かなければならず、ひいては民族と国家を越えて世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子、または烈女といい、国を愛する人を愛国者というなら、世界を愛する人を何というでしょうか。その人を、まさに聖人というのです。(203)

 皆さん! 家庭がなぜいいですか。それはご父母様の愛を中心として、自由活動の基地となるからです。同様に、神様が自由に活動できなければなりません。いくら見た目にはみすぼらしくても、輝かしい愛の核をもった、そのような内的な人間によって成り立つ社会となったとき、神様は自由です。

 皆さん、そうではないですか。ある家にお客として行けば、不自然でしょう? なぜ、そうでしょうか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁が四方性を備えられないでいるため、ぎこちないのです。だから私たちが行くべき道は、人格の道です。(204)

 家庭がなぜいいでしょうか。家庭は、互いに愛を自由に授け受けることのできる土台であるため、栄えることができていいのです。それゆえ、人は故郷を慕い、父母と兄弟がいる所を慕うのです。(205)

 真なる家庭は、自分のお母さんのように妻を愛し敬い、自分のお父さんのように夫を敬い愛し、妹と兄のように互いに愛し合う所です。その次には、神様のように自分の妻を愛し、神様のように自分の夫を愛し尊敬する世界が、理想家庭の住む天国です。

 このような伝統が、この地球上に立てられなければなりません。自分の妹やお兄さんを捨てることはできません。自分のお母さんも捨てることはできません。誰も捨てることはできません。ですから、離婚という言葉はあり得ません。夫はお父さんの代身であり、お兄さんの代身であるため、お父さんを捨てることができず、お兄さんを捨てることができないので、妻も夫も捨てることができません。

 そのような愛を抱き、世界を愛さなければなりません。お父さんのような年齢の人を見れば、お父さんのように愛し、お母さんのような年齢の人は、お母さんのように愛さなければなりません。(206)

 皆さんはどこに行っても、そのすべての人を他人ではないと思わなければなりません。皆さんの家族だと思わなければなりません。ひいては、たくさんの老人たちを見れば、自分の父母のように思い、彼らに悲しいことがあれば、彼らをつかみ、共に痛哭することのできる心がいつもなければなりません。(207)

 お父さんとお母さん、夫婦、子女で形成された家庭は、世界の縮小体です。家庭的愛を拡大して、すべての人を愛さなければならないのが、人類が生きていく道であるのを知らなければなりません。年を取った人はおじいさんとおばあさんのように、中年はお父さんとお母さんのように、自分より少し年を取って見える人はお兄さんとお姉さんのように、若く見える人は、弟妹のように思い愛さなければなりません。

 だから、真の人とは、父母と年齢が同じ人は父母のように思い、お兄さんと年齢が同じ人はお兄さんのように思い、妹と同じ年齢の人は妹のように思う、このように全部自分の家族のように思いながら、世界的なすべての障壁と境界線を超越して、人類を愛することのできる心情をもった人です。それでこそ、本当に(自分の)お父さんとお母さんを愛することのできる資格があります。

 自分は白人として生まれたが、今度は黒人のおじいさん、黒人のおばさんに侍ってみなければならない、また困った人がいれば、自分の父母のように侍らなければならないという環境になっていれば、それは理想的な環境であらざるを得ません。(208)

 健全な家庭生活とは、祖父母、父母、子女をもって生活することです。もし、一つの世代がいないなら、この家庭は不具と同じです。ここで理想家庭を築けば、その一家庭は、地上天国を築くれんがとして奉仕しなければなりません。

 私たちはこの理想家庭を地上に築くべき使命をもっています。祖父母の深い愛を享有する子女が社会に現れれば、例えば、彼がニューヨークの街に現れれば、目上の人にとても親近感をもつようになるでしょうし、目上の人は彼らを自分の孫のように対するでしょう。いずれにしても、互いに話をしたいし、親近感をもつようになるでしょう。家庭で祖父母に仕えた若者は、助けが必要な目上の人を見れば、追いかけていってでも助けてあげるでしょう。

 もし、父母の愛を受けた子女が外に出掛けて、お父さんとお母さんのような人に出会えば、彼らにとても親近感を感じるでしょうし、話をしたいし、助けたいでしょう。また、兄弟姉妹間に美しいつながりをもった人が社会に出れば、周囲の隣人とより一層親密な関係をもつでしょうし、よく調和するでしょう。兄弟姉妹と上手に暮らす人が、外に出て異性と交際するとき、とても自然にできるでしょう。肉欲的な、不健全な感情をもたずに兄弟姉妹のような感情をもつようになります。地上天国は、神様を中心としたこのような愛の関係を本当に経験することのできる家庭をいうのです。(209)

 ここで年を取ったおじいさんとおばあさんが好きな人、手を挙げてみなさい。では好きでない人、手を挙げてみなさい。挙げない人が多いですね。皆さん、五百歳のおばあさんとおじいさんを連れてこられたならば、どうするつもりですか。そうしてもいいですか。年を取っている人ほど好きな人は、神様を好きな人となるのです。なぜかといえば、この世界で一番年を取ったおじいさんが誰かといえば、神様です。だから、神様を愛する人は、おじいさんでもおじさんでも息子でも、言うまでもなくみんな愛さなければなりません。すなわち、神様の家庭を愛さなければなりません。神様の家庭には、日本人でも韓国人でもアメリカ人でも、どこの国の人でもみんな入っていくのです。人種差別をする人は、神様の家庭を愛さない人となるのです。その差別がなくてこそ、理想世界ではないでしょうか。理想世界とは何でしょうか。

 理想的になろうとすれば、単色よりもまだらなのが理想的になります。そのような意味から見るとき、五色人種が一つとなって暮らすのが理想的でしょうか、五色人種がそれぞれ暮らすのが理想的でしょうか。どうでしょうか。みんな一緒に一つの所で調和して暮らすのが理想的です。それゆえ、そうなっていないのは、改めなければなりません。

 「レバレンド・ムーン」がこのように現れて、こういうことを改めるのを、神様が嫌がるでしょうか、好まれるでしょうか。神様はそのような人を後援されるのです。ですから皆さんが、今年から神様のような心をもって、その父母の伝統を継承し、人類を愛する天の家庭的なこの心情のつながりを、どのようにして拡大するかという、ここに力を注がなければなりません。(210)

 私たちは、神様が望まれる家を中心とした父母、夫婦、兄弟たちとならなければなりません。(211)

 アメリカでは六十歳ぐらいになれば、ふろしきを包んでどこかに行きます。息子の家や隣の家に行くのではなく、養老院を訪ねていきます。老人たちは、孫と孫娘の家を訪ねていくのが理想的です。おばあさんは、孫の家を訪ねていくのと養老院を訪ねていくのと、どっちをより好むでしょうか。

 これから統一教会で祝福してあげた家庭は、黒人の父母、黒人のおばあさんまでもてなし、仕えることができなければなりません。皆さんは、舅、姑、夫の祖父、夫の祖母、弟妹たちがたくさんいる家庭に嫁ぎますか。それとも、ただ二人でいる家庭に嫁ぎますか、舅、姑、夫の祖父、夫の祖母がみんないる家庭に行って、彼らに侍ることが、宇宙の公法にかなうというのです。(212)

 アメリカに行ってみれば、おばあさんとおじいさん同士で暮らしています。年老いた親たちだけで暮らしています。彼らに「あなたたち、幸福ですか」と聞けば、「息子たちの家に行きたい」と言います。それは息子たちの家に勝手に行けないということでしょう。また、「孫に会いたいですか」と聞けば、会いたくないという人はいません。彼らは不幸な人々です。(213)

 この世界を審判することのできる絶対的権限をもっているものは何でしょうか。個体ではだめです。真なる家庭です。サタンも何を打ってくるでしょうか。家庭を打ちます。だから、家庭を築いて一つとならなければ、破綻するのです。父子間に、夫婦間に、家庭全体に破綻をもたらすというのです。そして、家庭を築いて破綻した人の傷は、永遠にいやすことができません。いくらその人を慰労しても、無駄なことです。(214)

 神様の息子になろうとすれば、神様の心情に似なければなりません。神様の心情は、世界に植えられています。ですから、世界の人を愛さなければなりません。距離の関係で愛せなければ、その国を愛し、氏族を愛し、家庭を愛し、父母を愛さなければなりません。それは、父母は神様、夫婦はアダムとエバ、子女は世界人類を代表した立場だからです。(215)

 人間の価値は何に置かなければならないかというときに、理想世界に置くのではなく、理想の人に置かなければならないのです。だから、世界を愛そうとすれば、人を愛さなければならないのです。

 愛する方法は、男性(夫)が女性(妻)を愛するように、女性(妻)が男性(夫)を愛するように、愛さなければならないのです。(216)

 国と世界を愛するには、その代表的中心が何であり、誰から愛さなければならないかといえば、それは個人から愛さなければならないのです。

 個人から愛するには、どのように愛さなければならないでしょうか。もちろん、男性対男性、女性対女性同士の愛は、ある目的観を中心として愛し合うのであり、情緒的に愛し合うのではないのです。けれども、男性対女性においては、ある目的観ではなく、それ自体を中心として愛し合うのです。それゆえ、これは動機的愛なのです。

 このような立場で見るとき、世界を愛するにおいては、自分の相対を心から愛さなければならないのです。すなわち、男性は女性を、女性は男性を愛するのです。このような夫婦として、自分の相対を愛した心をもって世界を愛さなければなりません。女性は自分の相対を愛する心で世界の男性を愛し、また自分が男性から愛を受ける存在であるように、世界の女性をそのような位置に立てておいて愛さなければならないのです。

 男性も世界の女性を、自分の妻のように愛し、また世界の男性を、自分の妻が自分を愛するそのような立場に立て、愛さなければならないのです。そのようにすることによって、家庭が国家形成の基準となるのです。いくら大きな世界を形成するとしても、家庭の形成が不合理ならばいけないのです。

 このような立場で統一教会は、今日、天宙主義を唱えるのです。すなわち、天の家庭主義を言うのです。この家庭主義は、愛の結実体であることを意味するのです。(217)

 一家庭は社会の倫理的基盤であり、人間社会で最も手本となり、根源的で一次的な組織です。このような家庭で「愛」が最善の価値基準になるというのです。(218)


  4、家庭は天宙主義を完成する最終基準

 神様は人間を神様ご自身に似るようにおつくりになり、人間は自分に似た世の中に発展させています。このような観点から見るとき、人々はなぜ世の中で出世しようとするのでしょうか。それは広い世の中が人に似ているからです。人自身が主体的な立場で世の中に相対的に対するのが、原理的な鉄則です。だから、出世もすべて、社会を通してしようとするのです。そして、それは国家に帰結され、その国家を越えて世界に帰結されるのです。

 したがって、すべてのものは一つから多くのものに分かれ、結局一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一つからいろいろに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれ、より一層大きなものとなるのです。より大きな一つの世界の中に全部入るという話です。(219)

 家庭を中心として天宙主義を成さなければなりません。天宙は天と地を総合したものです。天と地は、人間においては体と心と同じです。体と心が一つとならなければなりません。一つの主体があれば、一つの対象が必要なように、一人の男性には一人の女性が必要だというのです。男性と女性が一つとなるのが家庭です。(220)

 天があれば地があるはずだし、天と地があればこれを象徴する男性と女性がいるはずです。これが立体的な面で一つになることのできる心情的な基準は家庭です。この家庭は、目的世界のための絶対的な基準として、どのような過程も突き抜けていくことができます。そこから新しい歴史、新しい世界、新しい天宙の基盤が築かれるというのです。(221)

 天宙主義というのは、体と心を合わせた後、神様の愛の本体となる家庭を成して、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の宙の字は、家の宙の字です。家の宙、そうでしょう? だから天宙主義という言葉を使うのです。天宙は無形世界と実体世界を合わせたものです。これが私たちとどのような関係があるのでしょうか。私たちには家庭が必要です。皆さんが家庭で一つとなれなくては、天宙主義とは関係ないというのです。家庭が天宙主義を完結させる最終基準となるのです。ここで平和の歌を歌うことができず、幸福を讃揚できない人は、この地上でも霊界に行っても不幸な人となるのです。(222)

 家庭というのは、世界を縮小した横的な基盤です。ここから国家と世界がつくられるのです。家庭とは何でしょうか。家庭は世界の横的な縮小形として、絶対的な中心の前には相対的な基準です。それでは、「私」とは何でしょうか。絶対的な中心がとどまることのできる足場です。(223)

 世界が家庭に似て現れました。どのような世界でも、すべてそうです。これからの理想世界は三位基台、家庭の三位基台を中心として成されなければなりません。

 それでは、創造目的とは何でしょうか。四位基台を完成することです。人間は、まず四位基台を完成しなければならないので、全部家庭を築くのです。

 人間は神様に似、人間を中心とした社会は神様を中心とした人間に似るのです。統一教会の先生が、今まで世界に統一教会を立て、そのようにつくっていっています。世界がすべて、そのようにならなければならないということを知っていますが、それを表せずにいます。けれども、このような原則を通して、世界がそのようになるというのです。理想世界というのは、全世界が一人の人の様を形作る世界です。そこにおいては、国家と民族を超越します。(224)

 人の一生において最も重要なときがいつかといえば、生まれるとき、結婚するとき、死ぬときです。それでは、生まれるときにはどのように生まれなければならないでしょうか。正しく生まれなけれなりません。わが統一教会でいえば、心情の因縁を中心として生まれなければなりません。その次には、結婚するときです。結婚とは、生きるためにするのです。すなわち、四位基台を成すためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててはじめて、神様のみ旨が成され、人間のみ旨が成されるというのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。(225)

 家庭は小さな社会に立脚した小さな国家です。小さな国家であり、小さな世界であり、小さな天宙なのです。ですから、家庭を離れては何もすることができません。このような家庭を教えてあげるので、統一教会は偉大だというのです。(226)

 天国はどこから成されるのでしょうか。私たちの家庭から成されます。それでは、私たちは何主義でしょうか。家庭主義です。私たちが標榜する天宙主義は、天国の天の字に家の宙の字、すなわち天の家主義だというのです。このようになってこそ、天宙という意味がはっきりするのです。

 聖書六十六巻は、全部理想的な家庭を願ったみ言です。また、万民が願うことは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。そうですか、そうではないですか。そうではないという男性は、人でなしです。また、女性も生まれて最も願うことは、理想的な夫と出会うことです。

 女性がいくら学があり博士になって、世界に大口をたたいたとしても、彼女の願いは理想的な男性に出会うことです。愛することのできる理想的な男性と出会って、福々しい息子・娘を生むことです。これが幸福の根です。このような家庭に統一教会の教理を打ち込んでおいたので、抜ける人がいないというのです。

 統一教会の理想は、ほかの所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。いまだにこのような問題を解決した人がいないので、それを望んできました。そして、そこに幸福があるため、これを体系化させ、天宙化させて無限なる価値を表したので、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う人がなく、みんな頭を下げて好むようになれば、世界は自動的に統一されるのです。(227)

 今からでも、皆さんの家庭を通して天倫の法度を見せてあげ、伝統を立てる核心的な内容を残すために、聖なる出発をしなければなりません。

 それゆえ、皆さんは兄弟の立場で互いに兄弟のために生き、その兄弟の立場で夫婦の運を備えることのできる立場に立たなければなりません。そうしてこそ、神様が兄弟として愛することができなかったのを愛し、夫婦として愛することができなかったのを愛し、子女として愛することができなかったのを愛したという、三大愛の原則を復帰するようになるのです。このような三大愛の原則が、皆さんの家庭を中心として完全に一致するようになる日に、神様の愛を授け受けることができるのです。このように家庭を中心として、神様の創造理想を実現しようというのが、まさに統一教会でいう天宙主義なのです。

 神様の愛が人間の三大愛を中心として、ともに花咲くことのできる一つの家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これが、初めて天地の法度の前に歴史の香りを漂わすことができ、新しい花として登場することのできる、貴く美しい夫婦の愛だということを知らなければなりません。(228)

 この世界は、結果として見れば、男性と女性です。この男性と女性を束ねてくれるのが、相対的愛です。夫婦が生まれたのも、自然的に生まれたのではありません。伝統的に自分の父母から因縁づけられ出てきたのです。男性と女性が結合する標準的な伝統基準を相続して現れるのが家庭です。この家庭にはお母さんとお父さんがいますが、このお母さんとお父さんに全部が糾合されます。相対的な男性と女性の圏内で、この世界は糾合されるのです。世界の人を全部糾合したものが家庭だというのです。だから、私たちが父母と一つとなることは、根源的な主体と関係を結ぶことです。父母を完全に愛そうという人、父母に孝行をしようという人は、神様と通じます。

 それでは、父母はどのような存在でしょうか。自分と最短距離にいる存在であり、絶対理想の愛の圏と関係を結んでいる絶対者の結果的な存在です。そして、「私」と確かな関係を結ぶことのできる存在です。それでは、「私」はどのような存在でしょうか。その父母の前に全人類を糾合する現実的な結果的存在です。このようになるのです。(229)

 家庭は、神様の理想が顕現することのできる起点であり、人類の幸福が現れる起点となるのです。人間としての仕事がすべて終わる場であり、神様もすべての仕事の完成を見る場です。

 家庭がなぜいいでしょうか。それは父母の愛を中心として、自由な活動の基地となるからです。(230)

 幸福の要因や恨みの要因も、家を中心として国家と世界に広がっていきます。(231)

 神様が望まれる出発点と決着点は家です。しかし、私たちは神様が理想となさる家を築けませんでした。かえって、目的に近くなるほど破滅と不幸に近づいているのが、今日、私たちが暮らしている家であることを知らなければなりません。(232)


  5、息子・娘をなぜ生まなければならないか

 皆さんのお母さんとお父さんを通して、皆さんが生まれようとすれば、先にお母さんとお父さんの愛が芽生えなければなりません。相対的関係が成立しなければなりません。だから、その愛の環境で生命が連結されなければなりません。そして、夫と妻が互いに嫌だという場ではなく、互いに懇切に慕い合う場でなされます。このようにして夫婦が愛を結び一つとなるその場が、真なる夫婦の場です。そのようになるとき、妻の立場で、夫の愛は自分の愛であり、夫の生命は自分の生命であり、夫の理想は自分の理想となるのです。

 夫の立場でも同様です。そのように一つとなった場、そのように統一された愛の場で生まれるのが子供です。

 その息子・娘は、お父さんとお母さんの愛の実現体であり、愛の投入体です。子女は、お父さんとお母さんの生命の延長体です。お父さんとお母さんの理想の具現体です。

 父母は、子女に対して「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体であり、第二の私」として感じます。子女は出発から愛と生命と理想的な基盤から生まれたので、父母はその子供を見れば見るほどいとおしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するというのです。(233)

 父母が愛を通して一つとなることによって、神様のような立場で創造的能力を発揮してつくったのが子女です。(234)

 二人の男女が出会って愛し合う目的は、どこにあるのでしょうか。彼らが願う愛はどこで結実されるのでしょうか。愛する場合には、必ずその結果が全体の因縁に結ばれ得る、そのような何かを望むのです。それが子女です。二人の夫婦が互いに愛するのみで終わることは望みません。愛する目的が果たされたものが子女です。それゆえ、この目的が果たされなければ、二人の夫婦がいくら愛し合う仲であっても、彼らの願いを果たしたとは見ることができないのです。(235)

 愛する父母の前に、子供というものは世界的な代表なのです。(236)

 この世に生まれた赤ん坊は、まさに夫婦の愛そのものです。「私」という人間は、父母の愛の同参者であり、愛の実として父母の愛を成熟させる実体なのです。

 子供は父母の無形的な愛を確認させる実体として、父母をして夫婦の愛を促進成熟させる連結体なのです。父母は夫婦間の無限なる愛を、子供を通して一層固めるようになります。このような愛の力学関係は一層拡大され、個人的愛、家庭的、氏族的愛だけでなく、民族、国家、世界、宇宙的愛に拡散され、ひいては本質的神様の愛まで連結されるようになるものであることを知らなければなりません。(237)

 横的な愛、すなわち夫婦が愛し合うようになって、互いが徐々に近づけば、そこに力が縦的に動くようになります。それゆえ、夫婦が完全に純潔に愛を築くようになれば、そこには必ず神様が臨在されるようになるというのです。

 すなわち、夫婦が横的に愛し合うようになったとき、そこに縦的に現れるその接点で、神様の愛は九十度の角度として現れるようになります。そして神様の愛の相対側からは、息子・娘がまた一つの愛として現れるのです。

 ですから「私」という存在は、父母の愛の同参者だというのです。「私」とは誰でしょうか。純情を抱き、互いに愛し合う父母の愛の同参者だというのです。なぜ同参したのでしょうか。縦的な宇宙の愛の本体たる神様の愛に同参するために……。そこから生命が生まれるのです。(238)

 神様において、一番の栄光のときは、肉(体)を使うことのできるときです。その次には、愛することのできる人(夫婦)をもつときであり、その次には、孫を愛することのできるときです。息子・娘より孫を愛することのできるときが、一層栄光の時だと見ます。

 ところで、神様がアダムをつくって、どんなによかったかということを、どのように教えてあげたでしょうか。「やあ! 私はお前をつくって、こんなによかった」と教えてあげなければなりませんでした。それは、息子・娘を生むことによって教えてあげることができます。分かりますか。わが孝進も、今は父母の愛がどうだということを知りませんが、後に家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるのです。私たちの父母が私を育てるとき愛したなと、知るようになっています。それゆえ、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。(239)

 創造の偉業をおいて見るとき、完成がどこから始まるでしょうか。アダムからではなく、彼の息子・娘から成されるという話が成立します。アダムを中心とした四位基台の完成を見てはじめて、一つのみ旨、創造目的完成の起源が成されるのです。(240)

 創造理想は神様の愛によって生まれた息子・娘が蘇生、長成、完成の基準圏を通過するのが原則です。神様の愛によって息子・娘が成長過程を経、結婚して生まれる赤ん坊によって完成時代が初めて開かれるようになっていたのです。(241)

 子女がなぜ必要でしょうか。神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ろうとしなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ろうとしなければなりません。子供の愛を知り、子供に侍ろうとしなければなりません。子供に命令だけするのではなく、侍ってみようともしなければなりません。敬おうともしなければなりません。そうしてこそ、神様の愛が理解できます。子供がいなくては、未完成状態です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子供をどれほど愛したか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子供も、父母になるときまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。だから、息子・娘がいなければ、真なる夫婦となれません。(242)

 皆さんは子供を生まなくてもいいですか。子供がいなければ、自分は滅亡します。何も残りません。子供は父母の分身であり、継承者です。それゆえ、結婚して子供をもとうとするのです。(243)

 父母が子供の結婚を願うのは、子供たちに父母の愛をすべて相続させてあげたいし、伝授してあげたいからです。父母は死んでも、後孫にその実体を残しておきます。ですから、後孫が必要なのです。

 愛は永遠に続くのです。愛は人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことによって、霊界でも堂々と神様の前に出ていくことができます。そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち愛の一体圏が成されるということです。(244)

 人間は原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になれば全部整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そうしてこそ、再び春を迎えるようになれば、またこれが植えられ得る種になるのです。これは何の話かといえば、これから皆さんは父母となり、皆さんのような息子・娘を生まなければならないというのです。分かりますか。皆さんの息子・娘を、皆さんのように育てなければならないのです。(245)

 皆さん、息子・娘がいなければ寂しいでしょう。それはサークルラインを形成できないからです。鳥たちがひなにえさを食べさせてあげるのを見たとき、この上ない愛を知るようになります。同様に、人間は息子・娘を生み育ててみてはじめて、愛を体恤して確認するようになります。西洋人たちは知りませんが、東洋では大人より子供たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子・娘たちには愛を惜しみません。息子・娘を生み育てることによって、父母が子供をどれほど愛したのかを悟るようになります。(246)

 人間は誰でも、結婚をした後に子女を生み育ててみなければなりません。そうしてこそ、子供の愛と父母の愛をもつことができます。しかし、西洋の人々はそうではないようです。息子・娘を生み育てることを忌避しています。息子・娘が離婚の妨害になるという考えゆえに、自分の子供をもつことをはばかっています。

 しかし、人間は生まれて四位基台を成せなければ、神様が人間を愛する心情を知ることができないので、天国に行けないということを知らなければなりません。(247)

 アメリカ人にも、息子・娘が必要でないという人が相当に多いようです。息子・娘を生み育てながら、深い愛を知ってこそ、夫婦の愛も深まり、離婚しなくなるでしょうに、息子・娘がいないために、夫婦が真実な愛より偽りの愛に生きるようになり、それで離婚を反復しているのです。このようなサークルがあるので、アメリカ社会が倫理的に滅亡の道に駆け登っているのです。(248)

 イエス様は「私を新郎であり、あなたがたは新婦である」と言われました。それでは、新郎新婦は何をしようというのでしょうか。何をするかといえば、嫁ぎ娶るのです。結婚しようというのです。それでは、結婚して何をしようというのでしょうか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子供を生もうというのです。息子・娘を生めなければ、その家庭は、家庭の数にも入りません。息子・娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかり築かれるのです。花嫁が憎くて、事のついでに離婚したくとも、息子さえ生んでおけばその新郎も仕方がないというのです。どうすることもできずに、一緒に暮らすしかないのです。ですから、家庭を築く場合には、子供がいなければならないのです。(249)

 先生は、ベリータウンで産児制限に関する話をしたことがあります。皆さんは産児制限に対してどのように考えますか。もし、ヤコブの時代に産児制限があったとするなら、ヨセフは現れなかったことでしょう。また、神様が人間たちの中に、テレビジョンを通じて神様を見ることができるように研究できる人を準備しておいたのに、産児制限をすることによって不可能になったなら、霊界や人類の前に申し開きができないでしょう。(250)

 天の息子・娘は、サタン世界のその誰よりも幸福に暮らし、サタン世界のその誰よりも息子・娘をたくさん生まなければなりません。皆さんはたぶん十二人は普通に生むでしょう。ひっきりなしに生めというのです。統一教会員たちは産児制限できません。十名以上は生まなければなりません。私がみんな稼いで食べさせます。(251)

 誰かが結婚して子供をもとうとするとき、娘を先に生むのがいいでしょうか、息子を先に生むのがいいでしょうか。ここにおられる皆さんは一度答えてごらんなさい。最初に息子を生むのがいいですか、娘を生むのがいいですか。「息子がいいです」。息子がいいというのは、またどうして学びましたか。誰に学ばなくても、よく知っています。どろぼうの気質をもった男性たちには聞いてみることもありません。(笑い)最初に息子を生めば、話もせず、よだれを流しながら喜びます。最初に息子を生んだ人に、無理押ししておごらせても差し支えないというのです。このようなことがらを見れば、わが韓国の風習はいいのです。このように男性でも女性でも、どうせ生むなら、最初に息子を生むことを願います。(252)

 男性や女性は、愛でもって四位基台を築かなければなりません。四位基台を築くためには、いい夫と妻となって、息子・娘をつくらなければなりません。いい息子・娘とは、宇宙の好む男性と女性が、宇宙の好む愛を中心とした力に連結されて生まれる息子・娘です。

 統一教会の男性や女性は、そのような息子・娘を生まなければなりません。それは神様が望むことですが、先生が望んでいる欲念でもあります。自然を愛し、人間を愛し、神様を愛する息子・娘たちが生まれることを待ち望んでいるのです。そのような息子・娘たちは、愛を中心としてどこにでも行けなければなりません。(253)

 皆さんは従順と愛の心を備え、愛を求めてここに来たのです。出会った夫が不具だとしても、神様とご父母様が決定したのです。生涯をすべて捧げて死ぬにしても、愛の津液(生物体内から染み出る液)である一つの実を残してから逝こうという望みの中で息子・娘を生まなければなりません。そのような息子・娘が生まれましたか。(254)

 すべての問題が漠然としてはなりません。皆さんの夫をどれほど愛してみましたか。わが夫は世界を代表した夫だと思わなければなりません。この原則に立脚して皆さんが息子・娘を生む日には、その子供たちも偉大になります。統一教会のお父さんとお母さんはむちゃくちゃですが、このような原則によって生まれるその息子・娘は素晴らしいのです。それゆえ、子供たちを見て、父母の信仰を測定することができます。統一教会には道運があります。(255)

 私たちの子女は、私たちがみ旨のためにどのくらい忠誠を尽くすかによって、いい子女が生まれるのです。(256)

 夫婦の間に子供ができるのも、心情的な一致点と生理的な一致点を兼ねた位置で生まれれば最高です。(257)

 息子・娘が生まれるとき、知識が豊かな人はその父母の知識が血統的根本となって、父母の知識のひさごを被って生まれますか。そうですか。それとも、自分のお母さんとお父さんの骨格に似て生まれますか。どのようなものに似て生まれますか。いくら父母が無知だとしても、先祖が善なら、善なる息子・娘が生まれるのです。しかし、いくら知識があっても、悪辣で心がゆがんだ悪い人には、悪い子供が生まれるのです。(258)

 祝福家庭の中で、誰の息子・娘が立派に生まれるでしょうか。伝統的原理に一致し、崇高な愛を求めて国境を出入りしながら、犠牲的に真なる愛の因縁を残そうという夫婦には、天の国の知恵をもち、大王の権威を引き継ぐことのできる子供が生まれるのです。貧しい暮らしゆえに、赤ん坊をおくるみに包んだけれども、天下の大富豪となって経済権を統治することのできる子供として生まれ得るのです。権勢でいえば、世界を治めることのできる大統領が生まれ得るのです。(259)

 もし女性たちが「私がそうできないから、結婚して先生以上に仕事のできる息子・娘でも生まなければならない。神様の日を記念する私としては、そのような息子・娘を生まなければならない。どんなことでもする女性になろう」という信念をもてば、そのような息子・娘を生むことができます。(260)


  6、祝福子女の価値

 統一教会で祝福を受けて生んだ息子・娘は、父母より優れています。(261)

 カインがアベルを殺すことによって、歴史が逆さまになったので、人類はサタンの子供となったのです(ヨハネ八・四四)。僕の子供となったのです。彼らは、本来は王子王女でしたが、僕の子供となったので、神様の心はどれほどふさがったでしょうか。だから、メシヤとなったイエス様が、本然のアダムと同じ立場で、神様と霊肉が一つとなり、愛を中心として一体となることのできる発光体のような使命者として来るので、その方が来る日には、サタン世界の男性や女性が全部引っ張られるのです。説明は必要ありません。だから、歴史は蕩減歴史です。(262)

 皆さんは蕩減路程を経なくては、神様の前に出られません。しかし、祝福された息子・娘は、条件なくして出ていくことができるのです。質が違います。堕落した後孫たちであるため、皆さんは堕落した世界の根を中心として生まれて、接ぎ木してもらって結実した実です。すべての根は、サタン世界にそのままあるというのです。しかし、皆さんの息子・娘たちは、神様を中心とした新しい実なのです。神様が根であり、真の父母が根となって現れたその息子・娘を抱くことは、マリヤがメシヤを抱いたよりも高貴だということを知らなければなりません。皆さんが生んだ息子・娘は、神様が四千年間準備して送ったイエス様よりも勝るのです。イエス様のお父さんとお母さんがいるとすれば、祝福を受けて懐妊したでしょうか。皆さんの子女たちは、真の父母を通して祝福を受けて生まれたのです。(263)

 これから生まれる祝福の子女たちは、神様の息子・娘として天運に乗って生まれるので、皆さんよりいい息子・娘たちが生まれます。皆さんより運に富んで生まれるので、幼いといってぞんざいな言葉を使ってはなりません。(264)

 統一教会の子女たちは、天地の運勢に乗って生まれます。(265)

 祝福家庭の幼児たちは、父母たる皆さんよりももっと輝くことのできる貴い存在です。ですから、絶対むち打ってはいけません。夫婦げんかをしても、幼児たちの前では笑顔で対しなさい。(266)


  7、家庭天国

 天国の起点は個人ではなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえ、イエス様は新郎新婦の因縁を尋ね、この地に来られるのです。個人が天国の起点ですか。家庭が天国の起点だというのです。(267)

 家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行けば帰りたくないし、十遍、百遍会っても、また会いたいその方がおられる所です。万民が共通にそこに行きたがり、その方に会いたがり、その方と共に暮らしたがるなら、世界は統一されるでしょう。そこに向かって歩んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、その次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に伸びていかなければならないのです。(268)

 皆さんの家庭は、天の国の主権を代身した立場であることを知らなければなりません。父母は主権を代身するものであり、子女は国民を代身するものであり、物質はその国の地を代身するものであるため、父母に孝を尽くすことが国に忠を尽くすことであり、父母に孝を尽くすことが聖人の道理を果たす道と通じるのです。今、家庭があらゆる醜態に満ちたものの起源となっていますが、神様は家庭が聖なる土台となることを望んでおられます。ですから、堕落圏内にいる腐敗した家庭を収拾すべき使命が私たちにあるのです。この地の家庭は破綻していますが、その家庭を否定することのできない立場にあるのを知らなければなりません。(269)

 人間たちは、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心として見れば、家庭には父母がおり、子供がおり、物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代においての縦的な歴史全体を、横的に展開させて代身することのできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子供と彼らの所有物です。これらは家庭の一つの囲いの中で必要なものです。(270)

 夫婦の中で、男性はどのようにしなければならないでしょうか。男性は教会と関係をもたなければなりません。また、女性は物質と関係をもたなければなりません。これは環境的にはそのようになっていますが、家庭的にはどうなるでしょうか。お父さんとお母さん、息子・娘、この三人が一つとならなければなりません。ここから家庭天国が始まるのです。ですから、人を中心とした天国を成すためには、四位基台を築かなければなりません。(271)

 神様の愛を中心として二人が一つとなる所でのみ、夫婦天国は成されます。一つとなったものを、その誰も引き離すことができないし、別れたり離れる心配がありません。

 皆さんはどのような愛を求めましたか。神様の愛を求めたなら、皆さんの心と体が完全に一つとなって、神様の愛が臨むことができなければなりません。だから、夫婦天国が生まれ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、その息子・娘もお母さんとお父さんのような対象を得てこそ、家庭天国が実現されるのです。父母がプラスとなり、息子・娘がマイナスとなれば、家庭天国となるのです。(272)

 昔、先生が統一教会を始めるときと同様に、友達が皆さんの家に来れば、「やあ、わが家より、ここがもっといい。麦飯を食べてもいいし、おかゆを食べてもわが家のご飯よりもうまい。もう一晩だけ泊まらせてくれ」と言い得る家庭をつくるのです。訪ねてくる人、訪ねてくる友達ごとに、自分の家を捨ててその家に来たがる家庭となってこそ、その家庭が天国家庭となるのです。(273)

 私が今、教会をつくらないのは、すべて考えがあってのことです。教会にたくさんの人が必要なのではないからです。天国は教会から成されるのではなく、家庭から始まるのです。家庭、すなわち新郎新婦から始まるというのです。女性は男性に巡り会うために生まれ、男性は女性に巡り会うために生まれました。赤ん坊が眠りから覚め、初めて目を開けながら呼ぶのが、「お母さん」です。赤ん坊がお母さんを呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。

 このように呼んでみなかった人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上にそう呼ばなければなりません。分かりますか。互いがそうできる夫婦として対さなければならないというのです。琴瑟之楽(=夫婦仲がとてもよいこと)の夫婦として、互いにそのように呼び合いながら暮らさなければならないのです。そのように千年万年暮らせば、老いても青春がうらやましくないというのです。将来、祝福家庭の夫婦が八十歳の老人になれば、先生が世界一周をさせてあげることでしょう。(274)

 これからは、わが統一教会で礼拝を捧げるのも、説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから、家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら、立派な家庭を見ては倣い、劣った家庭を見たならば、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして、家庭天国を建設しようというのです。家庭天国を先に成せなければ、地上天国は成されないということを、はっきり知らなければなりません。(275)

 天国は家庭を中心として成されます。家庭の食口として守るべき誇りを忘れてはなりません。(276)

 天国生活はどこから始まるでしょうか。家庭からです。ほかの所から始まるものではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであり、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえ、皆さんが自分の妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つとなるのだという考えをもたなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭です。(277)

 み言の時代を経て、実体の時代を経た後に初めて相逢の一日が成されるのです。そして、相逢の一日が成された後に初めて、天国生活をすることができるのです。相逢の一日には、彼の心が「私」の心であり、彼の心情が「私」の心情であり、彼の姿が「私」の姿であり、彼の困難が「私」の困難であり、彼の傷が「私」の傷として感じられ得る境地にまで入らなければなりません。そのような境地に入って、彼の心も「私」の心であり、彼の心情も「私」の心情となってこそ、天国家庭が成されるのです。これがこの地で完結されてこそ、天国家庭が生まれるのです。(278)

 今、先生は家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないと感じています。ところで、復帰の路程を歩むべき人々は、原理を中心として教えてくれる人がいるので、その人々を通して教えを受けなければなりません。先生が直接そのような問題に責任を負う時代は過ぎ去りました。一家庭、一家庭を中心として、再び収拾しなければなりません。わが統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主とするのです。個人を主としてきたのを、家庭を主にするというのです。(279)

 天国はどこにあるでしょうか。空中からどさっと落ちてくるのではなく、お父さんとお母さん、そして子供の間に授け受ける、その生活的な舞台を育て、またその中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件に利用する面白み、その面白みを百パーセント享受することのできる所が天国です。(280)

 神様の創造理想世界はどのような世界ですか。真の父母圏を通して、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通してのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けてみた人が誰もなく、現れた痕跡もありません。霊界も同様です。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。

 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような調和された立場で父母を愛し、夫を愛し、息子・娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。(281)

 私たちの家庭と天国は、雛型のようなものです。私たちの家には父母がおり、夫婦がおり、子女がおり、兄弟がいます。私たちの家は愛で一つにすることができます。ここでは統一が成され、生命が連結され、理想を実現させることができます。だから皆さんは、夫婦の愛を尊重することができ、父母の愛を尊重することができてこそ、天国に行くことのできる資格者となり得ます。祖父母は父母の前に愛を相続させてあげ、父母は夫婦の前に愛を相続させてあげ、夫婦は子供の前に愛を相続させてあげています。ここでどの愛を否定しても天国は成されません。自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におじいさんとおばあさんを愛さなければならないという結論です。これがすべての天国の核心となり、理想的モットーとなるというのです。(282)

 今日、世界が統一教会を恐れるのは、原理より、祝福家庭がいるからであることを知らなければなりません。祝福家庭は三代の愛を連結させるところです。神様の愛を中心として、メシヤと祝福家庭が愛で一つとなるのです。地から見れば、メシヤと祝福家庭、そしてその子女の三代が愛で連結されるのです。次に、祝福家庭と子女、そして孫の三代が愛で連結されるのです。このように三代に連結することのできる所が統一教会です。

 統一教会の原理でいえば、四位基台は三代愛の圏をいうのです。三代が一つの家で暮らしながら、愛で和睦して幸福であるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないのはもちろんですが、子女たちに愛で祈祷してあげ、精誠を尽くした心で世話をしてこそ、家庭が和睦し、幸福となるのです。これが縦的に成り、横的に連結されるときに完全な愛となります。いとことまたいとこまで愛で一つとなってはじめて、愛の原型となり、完全になります。

 統一教会では、天国は氏族圏内から成されると見るのです。おじいさんを中心として、父母と兄弟が一つとなり、いとことまたいとこまで一つに連結されるとき、完全な三代が成り立ちます。このような氏族圏の愛が地に立てられ、神様と一つになるなら、すべての世界は神様と一致する愛の世界となり、天国となるのです。女性が嫁いでも同様です。夫のおじいさんやおばあさんは、神様の代身の立場であり、夫の代身の立場なので、愛で侍らなければなりません。また、夫の弟や夫の姉妹とも愛で和睦しなければなりません。このような愛の関係が社会に拡大され、民族と国家、世界に拡大されるなら、この世界は罪悪と戦争の代わりに平和と愛で満ちるでしょう。ですから、その世界がまさに、神様の理想が実現された一つの天国であり、理想世界です。(283)

 家庭天国は男性と女性が完全に一つとなってこそ成され、個人天国は体と心が完全に一つとなってこそ成されます。家庭天国は神様のみ旨を中心として、夫婦が一つとならなければならず、子女と一つとならなければなりません。そのみ旨の目的は、万民のために生きるのです。そして、そのみ旨の中心は誰でしょうか。神様です。だから、神様を中心として万民のために生きる所で、家庭天国が連結されるのです。

 神様だけのために生きなければならないのではなく、神様を中心として万民のために生きなければなりません。神様はそのような家庭を探そうとするのです。世界が復帰されるときまで、そのような家庭を探し立てなければ、万民を救うことができず、万国を救うことができず、すべての家庭を救うことができないので、そのような家庭をつくるために祝福家庭を立てたのを、皆さんは知らなければなりません。

 神様は家庭の中心となる方であり、この世界は神様の国です。祝福家庭は、神様の国を連結させることのできる家庭となり得るように、努力する生活をしなければなりません。神様を代身して為に生きる生活をする所から、氏族が生まれ、民族が生まれ、国家が形成され、世界が形成されます。だから、家庭は神様を中心とした世界を形成する責任を果たさなければなりません。

 氏族と民族と国家と世界に、どれほど影響を及ぼしたかということが、神様の祝福を受けることのできる基準となります。そのような内的な価値、内的な実績の差異によって、祝福の内容が変わるということを、はっきり知らなければなりません。

 先生を中心とした統一教会は、一つの氏族と同じであり、一つの民族と同じなのです。五色人種が合わさって単一民族を形成し、誰よりも世界のために生きることのできる国家を形成することが統一教会の目的です。それが、先生がしようとする目的であり、神様が先生を通して成そうとなさる目的です。(284)


  8、天国に入る秘訣

 天国とは何でしょうか。極楽または天堂に行くと言いますが、自分一人で行く所ではありません。自分の父母と兄弟が一緒に行かなければならない所が天国です。(285)

 天国に行く秘訣は何でしょうか。天国は個人だけが入るのではありません。家庭的に入らなければなりません。家庭的に入らなければならないだけではなく、血族を率いて入らなければなりません。この地で神様の前に多くの血族をもったということは、福を受けることです。ある家庭に息子・娘が多く、財物が豊かなら、福を受けた家庭だというでしょう? このように福を受け、天国に入ろうとすれば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に入らなければなりません。(286)

 天の国には絶対個人的には入れません。先生が探ってみると、天国は今までキリスト教徒たちが信じてきた、そのような妄想的な所ではありませんでした。本来、天国は家庭単位で行くようになっている所です。家庭が行くようになっているのです。お父さんとお母さんと息子・娘が共に行って、神様を中心として共に暮らすことのできる所が、理想的な世界なのです。ところで、お父さんは地獄に行き、お母さんは天国に行き、姉は地獄に行き、弟妹は天国に行く、そのようになれば、自分が天国に行ったとして、うれしいでしょうか。天国は家庭として行くのです。家庭が行くのです。(287)

 天国とは、人間が堕落せずにこの地上で神様の愛の懐において聖婚をして、神様が好まれる息子・娘、神様が喜び得る孫たちを迎え、神様の愛を受けてその家庭がみんな一緒に入る所です。子供が入ることができなくても、自分だけ入れば天国ですか。しかし、楽園はいくらむつまじい夫婦や父母、子供でも、別れて入る所です。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天堂ですか。父母に侍り、全家族すべてが入り、神様を中心として授け受けることのできるその世界が天国です。息子が地獄で死ぬと騒いでいるのに、父母は天国で満足に生きればいいのですか。そのような所が天国ですか。(288)

 統一教会でいう天国は、一人で入る天国ではなく、家族が一緒に入る天国です。神様の創造理想を見るとき、男性と女性が別れて入る所が天国でしょうか。違います。二人で入る所が天国です。お父さんが入ればお母さんも入り、父母が入れば子供も共に行く所が天国だというのです。天国にお父さんとお母さんが一緒に行ってこそ(天国)であり、お父さんは天国に行くのにお母さんが地獄に行けば、天国になるでしょうか。このような立場から、わが統一教会は歴史的な宗教です。(289)

 本来神様は、夫が天国に入り、妻が地獄に入るように創造なさったのではありませんでした。創造当時の理想の主人公たち、すなわち、お父さんとお母さんと息子と娘が、氏族を成し、民族を成し、国を成そうというものでした。それでこそ、いいのではないでしょうか。ところが、人間が堕落したために地獄が生じたのです。(290)

 天国はどのような所でしょうか。男女が一緒に家庭を築いて入る所です。ところで、イエス様はこの地に来られ、新婦を探すことができず、息子・娘をもうけることができずに亡くなられたので、今まで楽園で二千年間祈祷なさりながら、聖霊をして役事させてこられたのです。

 罪は女性が先につくったので、女性神である聖霊が来てお母さんの実体として現れ、罪を清め、この地をきれいにしてこそ、イエス様は再び新郎として、新しい種をもち、再臨することができるのです。再充電して新しい天地の真の父母の血族として、神様を中心とした新しい世界をつくろうというのが神様の目的です。このような世界が成されてこそ、神様の計画がみ意のままに、すべて成されたということができるのです。目的もなしに六千年間摂理してこられた神様ならば、そのような神様は信じる必要もないのです。(291)

 四位基台は地上天国と天上天国の礎石です。天国は一人では立てられないのです。ゆえに、イエス様も一人ではだめなので、聖霊が降りて来なければなりません。(292)

 家庭から天国を成さなければなりませんが、イエス様も家庭を築けなかったので、天国に行けず楽園におられるのです。楽園は天国に行くための待合室のような所です。地獄は人間が堕落したため、生じたのです。最初から神様がおつくりになったのではありません。(293)

 一人では天国に行けません。絶対に一人では天国に行けません。アダムとエバが二人で堕落して地獄の門を開けたので、一人では天国に行けません。だからイエス様も天国に行けず、楽園に行っています。イエス様も新婦に出会ってはじめて、天国に行くようになっているのです。今日、キリスト教徒はこのようなことを知ることもできずに、全部イエス様に従っていくといいます。そうなれば、彼らは行って、再び来なければなりません。家庭を築き、家庭的な復帰の基準を立てなければ、天国に入れないというのです。だから、統一教会で祝福をしてあげるのです。分かりますか。(294)

 本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入る所です。父母が入り、子供が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ、幸福なのであり、父母は地獄に行き、子供だけ天国に行けば、それが何の天国でしょうか。

 ですから、統一教会がこれから天国に行くことのできる道をつくるにおいて、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては、天国に行けません。家庭を中心として、サタンが讒訴できる基準から脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。(295)

 天国は一人で行けません。祝福は天国の門をぴょんと越えるのです。天国は家庭的に入る所です。三代の因縁をもって入る所です。ヤコブの七十家族も、三代が合わさったものです。そのようにしてエジプトに入ったのです。(296)

 天命を受け、この怨讐の世界で見本たる家庭となってほしいのが、お父様の願いであると考えるとき、天国に行くためには、家庭を通さなくてはならないということを知らなければなりません。(297)

 天国復帰は誰がするのでしょうか。み旨のためには、十字架に向かっても感謝することができ、絶対夫婦、絶対信仰、絶対実践、絶対心情を主張することのできる夫婦から、初めて天国の門が開かれるのです。(298)

 皆さんは、天国がどのような所だと思いますか。天国は一言で言って、完成した人が入って暮らす所だと言うことができます。天国は真なる愛を備えた完成した人が入る所であるなら、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。

 人間は男性と女性で成り立っています。神様の理想的愛の完成が、地上でどのように成り立ち得るかをみるとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るようになります。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなくては、神様の愛が完成されません。(299)

 天国には独居する人は絶対に行けません。独居する人には、天国は絶望の風景です。寂寞の風景には希望がありますが、絶望の風景は希望もない状態ではないでしょうか。(300)

 祝福を受けた人々は、横的な愛の基盤を立てるために、神様が必要とされるので、横的な姿勢よりも縦的な神様を重要視しなければなりません。縦的な愛を中心とした愛を成してこそ天国に入れます。最近の霊的な証を例に挙げましょう。

 ※朴普煕総裁が説明:劉孝元前協会長が、霊媒者のある女性に現れて言ったそうです。

 「私は地上にいるとき、先生の一番弟子として長い間協会長をし、み言を受け、原理講論を執筆して、世界的経典となるようにしたので、霊界で最も高い位置を占めるようになるだろうと思いました。ところが、先生が霊界の三位基台を編成しましたが、李起錫、劉孝元、朴鐘九の順でした。私は失望して不平を吐きました。先生は、『ここは愛の世界なので、知性の競争ではなく、愛の競争がある所だ。李起錫が愛をより多く所有したのだ。だから、三位基台の一番兄さんは李起錫になったのだ』と説明をしてくださって、理解するようになりました。私はまだ天国に入れていません。今、向かっているところです。今までは、知性的な面に偏って仕事をしましたが、地上にいる妻と共に、懸命に心情的に仕事をします。現在、天国には興進様がおられます。その方も、祝福を受ける前は天国に入れませんでしたが、四位基台を立ててはじめて、お入りになったのです。霊界は愛の世界です。(301)

 天国に行く人は、どのような人でしょうか。神様よりも自分の息子を愛する人は天国に行けないのであり、自分の妻や自分自身を神様よりも愛しては、天国に行けないのです。(302)

 皆さんは、夫婦の愛と父母の愛を尊重することができてこそ、天国に行ける資格者となります。夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におばあさんとおじいさんを愛さなければなりません。これが天国の核心であり、理想的モットーとなります。(303)

 皆さんの心の中に、皆さんの生活の中に神様の愛が流れ、ぽとぽと落ちなければなりません。愛がぽとぽとと落ちれば望みがありますが、愛が干からびるようになるなら、皆さんとその家庭が滅びるしかないということを知らなければなりません。愛が干からびた人は、愛の国の国籍から除名されるという事実を知らなければなりません。愛の伝統世界から除外されるしかない運命に処すということを、はっきり知らなければなりません。(304)

 皆さんが知るべきことは、地上で天国の愛を体験できなければ、天上天国に行けないということです。カイン的な人を心から愛してみたことがありますか。天国に行こうとすれば、サタン世界での父母の愛、夫婦の愛以上に愛さなければなりません。もし、堕落世界で父母が子女のために死んだとすれば、私たちはそれをより超越して愛さなければならないのです。(305)

 「私」一人では天国に行けません。それゆえ、一人の男性は一人の女性と一つとならなければなりません。そのためには、一人のアベルは必ずカインとともに一つとならなければなりません。このように人は相対的環境を必要とするのです。夫婦を迎える前に、兄弟同士が相対的基準をもたなくては、復帰され得ないというのが統一思想なのです。(306)

 人間の堕落とは何でしょうか。堕落した子女とは何でしょうか。すなわち、彼らは神様を彼らのお父さんとして、とことん感じることができません。彼らは心の中に神様という概念をもっていないのです。皆さんは次のような体験と悟りがなければなりません。すなわち、「私は生まれ変わって新しい生命を得、真の父母によって新しい生活を営んでいる神様の息子・娘だ」という事実を実感しなければなりません。

 第二に、「私は神様の国の資格ある市民」だということを実感しなければなりません。第三に、皆さんが国と世界を見るときに、神様の慈悲を感じなければならず、「神様がこの世界を遺産として下さったので、神様の子女としてこの世を所有する権利がある」と考えなければなりません。

 このような覚醒と実感が、一九七七年度の私たちにおいて最も重要な課題なのです。第一に神様の直系子女であり、第二に天国市民、第三にこの世界が神様の下さった遺産だということを悟らなければなりません。神様はこのようなすべてのものを、神様の子女たちに祝福として下さったのです。このような実感をもった一個人は完成に向かっているのであり、この人こそ天国家庭の一員、あるいは中心となる資格と権利を賦与されるでしょう。(307)

 神様が喜ばれ、この地に定着してはじめて、被造物も安息の土台が生まれるのであり、神様が定着できずには、被造物の安息の土台が生まれないのです。家庭で父母の心が安らかでなくては、父母を中心として幸福な家庭を築けないのと同様に、天宙の大主宰としておられる神様ご自身が、その心と体に自ら幸福を歌うことができ、自由な環境の中で自己主張できる権限が備わっていなくては、この世界に新しい秩序が成り立ち得ないのです。(308)

 今日、皆さんがいくら個人天国を成したとしても、それを家庭に適用できなければ、個人が安息できる安定した位置を決定することができないのです。また、いくら家庭天国を成したとしても、氏族的な環境の基盤を勝利的に立てておかなくては、安定した家庭天国の基盤を築くことができないのです。また、氏族が安定した位置を得るためには、民族を中心とした基盤を決定しなければならず、民族が安息できる基盤を立てるためには、国家を中心とした基盤を立てなければならず、国家が安息できる位置を得るためには、世界を中心とした基盤を造成しなければなりません。皆さんはこのように発展していく過程にあるのです。(309)

 父なる神様と言うとき、神様は父母です。本来、堕落しなかったなら、アダムとエバが父母であると同時に、国の王となるのです。天国の王となるのであり、宇宙の王となるのです。だから、(父母を)愛する孝子、(国を)愛する忠臣は天国に行けるというのです。夫を神様のように、主や王のように侍り、真なる愛をもって生きる人は、天国に行けるのです。父母を愛し、その国と世界を愛さなくては天国に行けないという論理が、ここから成り立つのです。

 また、家庭は国の中に入り、国は世界、世界は宇宙の中に入るので、家庭や世界を捨てるとしても、神様のために愛したとすれば、すべて愛したという立場に立つというのです。

 だから、統一教会の皆さんは、世界のために生き、神様のために生きなさい。皆さんが先生を好きなぐらい世界を愛し、人類を愛するなら、天国に行くことができるというのです。(310)

 家庭に縛りつけられて生きている人、今までの形式や習慣から逃れられない人は、天国に行けないというのです。そのような立場にいる人には、自分の心にある爆発的な革命を起こし得る天的な贈り物が必要です。その天的な贈り物、心に爆発的な革命を起こすことができ、刺激することのできる所はどこでしょうか。統一教会です。統一教会にその動機と源泉があるというのです。それは千人、万人が全部違わず同じです。(311)

 先生は、統一教会員たちに、地上に天国を成さなければならないと言いますが、その天国はそのまま自然に成されるのではありません。地上天国を成そうとすれば、氏族の長孫とならなければなりませんが、その長孫になろうとすれば、本家に嫁ぐか娶るかして、その家で名分を立てなくては長孫になれないのです。(312)













SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送