祝福家庭と理想天国
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第三節 祝福家庭の生活

  1、手本となるべき祝福家庭

 イエス様が慕った家庭を築かなければなりません。言い換えれば、エデンの園でアダムとエバが堕落することによって神様が去ったその家庭を、本然の家庭に復帰しなければなりません。神様はエデンの園にアダムとエバをつくって喜ばれながら、彼らが蘇生、長成、完成の成長過程を経て、神様の直接主管圏内で家庭を築くことを待ち焦がれておられました。

 しかし、アダムとエバはそのような家庭を築けなかったので、皆さんがそのような家庭を築いて、神様に「神様が望まれるこのような家庭を築きました」と言えなければなりません。(313)

 皆さんは家庭の手本とならなければなりません。六千年間神様が探してこられた家庭の道です。イエス様を中心として願う基準を探し立てることができず、二千年間開拓してきた恨みがこびりついた受難の道がなければならなかった原因も、神様が探してこられた家庭を立てることができなかったからだということを知らなければなりません。ですから、祝福家庭はこのとてつもない復帰の基準となるのであり、天地の運命を解怨成就することのできる祭壇だということを皆さんが知って、祝福家庭の神聖さを讃揚しなければならないのです。

 天を代身した男性であり、地を代身した女性として、過去、現在、未来の歴史がここでひっくり返って回っていくのです。勝敗を決定し、永遠なる勝利の基盤を神様に謙遜に捧げ奉ることのできる、真なる家庭の父母とならなければなりません。(314)

 一つの家庭の夫と妻は、神様と同行できなければなりません。また、先生に従わなければならないのです。深い深い場を暴いて、千年万年生きたいと言えなければなりません。「神様、私たちがここで楽しく暮らしていますから、共にいてください」と言える家庭とならなければなりません。誰よりも家庭がそうならなければならないというのです。分かりますか。神様を中心とした土台を築きなさい。(315)

 先生は今まで凄涼な一生を経てきましたが、感謝すべきことが行けば行くほど多くなることを知っています。それはどこから生じるのでしょうか。家庭から生じるのです。だから、先生が皆さんに相続させてあげるものが何かといえば、家庭的勝利圏です。それを相続できる家庭はどのような家庭でしょうか。世界を代表する家庭、メシヤ的使命を担う家庭です。

 皆さんの家庭は世界を代表する家庭として、すべてのものを抱き上げることができ、切り回すことができなければなりません。そして、世界万民を往来させることのできる中心家庭とならなければなりません。五色人種がその家庭に深く入っていこうとし、その家庭と関係を結びたくなるようにしなければなりません。

 そのような中心家庭となれば、万人がその家庭を通すようになるでしょう。天国も、真なる中心家庭、核心家庭がなければ成り立たないというのです。(316)

 もし皆さんが結婚して暮らす間、ひどく貧しく困難であるとしても、この世で最も悲惨な生活をするとしても、落胆してはなりません。惨めな生活をしていても、自分の家庭が歴史路程にあった数多くの家庭を救うことのできる、救い主の家庭となることができるということを知らなければならないのです。ですから、困難な立場でいかに不幸せに暮らすとしても、それを嘆息してはならないのです。その立場はこの世のすべての人々を蕩減復帰させるために、また霊界にいる霊人たちやこれから来る後代の後孫たちのために代身して道標となり、行くべき道を開いてあげる主体者となる立場だと思うことです。そのような救い主の立場に立つために、「私」が今生きていると思わなければならないのです。(317)

 家庭には、家庭としての願いがあります。家庭の願いが何であるかというとき、私たちの家庭だけは、すべての家庭の手本となれたならと願います。また、これを発展させて一つの氏族となれば、その氏族がすべての氏族の中で最上になることを願うでしょう。このように、より大きな願いを仰ぎながら拡大されたのが一つの国です。(318)

 皆さんは公的生活においての模範を示さなければなりません。言い換えれば、教会生活に徹底しなければならず、公式活動にも徹底しなければなりません。この二つが問題となるのです。

 皆さんは、町内なら町内のある班に所属して暮らすでしょう。そこで皆さんが生活するにおいて、その班全体をみ旨の前に吸収するためにどれほど努力するかということが、子女教育にこの上なく大きい影響を及ぼすというのです。み旨の中心として生きた後の生活的な差異、すなわち町内でどれほど模範的な生活をし、対人関係においてどれほど模範的な関係を結んだかということが、子女たちの批判の対象とならざるをえないのです。ですから、公的な生活を強固にしなければなりません。

 その次には、皆さんの私的生活です。夫婦が家庭でみ旨の生活をするとき、祝福を受ける前と祝福を受けた後で異なることが何かありますか。夫は夫なりに腹芸を使い、妻は妻なりに腹を立ててがみがみ言うのが昔よりひどいなら、子女たちの手本にならないというのです。昔とは異ならなければなりません。格段に変わらなければなりません。変わって、子女たちに尊敬され得る与件をどのようにしてつくるかということが重要な問題です。ですから、私的生活においても模範とならなければなりません。(319)

 公的な欲心はどこでも通じます。しかし、自分自身を中心とした欲心を出してはいけません。国を生かすために「私」がこのようにしなければならないと言わなければならず、「私」が生きるために国で何かするというときに、だめなのです。国が自分の思いどおりに動いてくれますか。そんなふうであるなら、神様までも自分の思いどおりに動いてくれたならと、願うようになるでしょう。それは、すべて「私」を中心とした考えです。ですから、皆さんはいつでも公的な生活をしなければなりません。お金を稼ぐときでも、活動のときでも、行動するすべてが、国を生かし世界を生かすためのものとならなければならず、「私」がお金を稼ぎ何かをしようという考えをもってはなりません。(320)


  2、祝福家庭の家庭生活

 家庭宣誓

 天宙の中心たる我らの家庭は、上下を連ねる兄弟姉妹として、新しき天の前に真の父母の血肉として、天が命令された伝統と家法を遵守し、責任的活動において自分の位置を失わず、勝利者の栄光を備えることを、真の父母様の前に宣誓致します。宣誓致します。宣誓致します。(321)

 人間は本来、今宣誓した内容(家庭宣誓文)の因縁をもって生まれたので、この宣誓の内で生きて死ななければなりません。何の呵責もなしにこの宣誓文を読めなければならないのです。(322)

 今まで私たちはむやみに生き、言葉もむやみに使ってきました。しかし、今から、私たちの家庭にも規律を立てなければなりません。父母が腹が立つといって、自分勝手に棒を取ってたたいて、子女に「こいつ、滅びてしまえ」と言うような、この世的な野卑な言葉を使ってはなりません。今、すべてが一新されなければなりません。神様を中心として、言葉から、態度から、生活から、一新された立場に立たなければならないのです。(323)

 祝福は、一個人の一代だけでは何の価値もありません。一人の男性と一人の女性が暮らすことにすぎません。それでは、一個人として家庭的な祝福を受けることは、どのような摂理的な内容があるのでしょうか。祝福家庭は自分の本心によって生活しさえすればいいのではなく、神様を中心として四位基台を成さなければならないのです。なぜなら、サタンを中心として堕落した人類の歴史であるため、神様を中心として復帰しなければならないのです。堕落した人間には、これが不可避なことがらです。(324)

 本家が栄えようとするなら、先祖から伝わってきた家法や礼法をしっかりと受け入れて実践しなければなりません。そうでなく、「そんなこと何、なるようになれ、それが私と何の関係があるか」という人は、本家の子孫になれません。もし、そのような人が本家の長孫として生まれたとしても、本家の長孫にはなれないのです。(325)

 私たちは神様から受けた純粋な血統を、どのようにして保有するかが問題です。堕落し得る血統ではなく、純粋な血統をいかにして保存するかというのです。そのために、心から気を配らなければなりません。

 汚染されていないエデンの園にいてさえ堕落したのに、この罪悪世界で清くなるということは、とても困難な問題であらざるを得ません。ここにいろいろ問題があります。罪悪世界で生まれた父母は苦労をしても、今から祝福を受けて生まれる子供たちには汚染されていない環境をつくってあげなければなりません。私たちが犠牲になるとしても、二世たちのためにそのような環境を早く準備してあげなければならないというのが先生の考えです。急がなければなりません。(326)

 罪の世界から解放されようとすれば、アメリカ国民でもアメリカ国民だという観念をもたないようにしなければなりません。韓国国民でも自分が韓国国民だという観念をもたないようにしなければなりません。アメリカまたは韓国の国民だと考える前に「私は神様の人だ。天の民だ。天の人だ」という観念をもたなければなりません。

 世界が使っている言語や、着ている服、履物、女性が使っている化粧品、このような風習や習慣の中に染み込んだ罪の根性を、いつかは無慈悲に切ることのできる短刀を研ぐ生活をしなければなりません。これが罪の世界から解放され得る生活です。この世の歴史、習慣、環境の悪習に勝利しなくては、罪の世界を主管する道がありません。

 真なる人になりたく、真なる国を見いだしたく、天国に行くことを願うなら、このような環境的なすべての悪条件から解放されなければなりません。(327)

 習慣的で世俗的な家庭であってはなりません。「今はこうだが、後日にはよくなるだろう」と考えてはなりません。すでに完全でなければなりません。現在が問題となります。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得ます。

 エデンの園でも、このような一日をもてなかったのが堕落の証左です。過去、現在、未来が一致し得る立場が理想的な立場です。

 現在を捧げ奉ることができなければなりません。地上の永遠なる足場となり得るか、これが神様の願いです。これが歴史的な総合点です。(328)

 皆さんが真の神の日に精誠を尽くした、その精誠の基準で一年を生き抜くなら、毎日の生活に影響を及ぼすはずです。また、こんなふうに精誠を尽くし、家庭の伝統として導いていけば、皆さんの息子・娘は絶対に滅びません。(329)

 イスラエル民族がカナン復帰を果たした後に滅亡したのは、彼らが既存の環境に習慣化されたからです。彼らはより豊かに生き、よく食べ、ぜいたくな生活をすることにのみ心を使ったので滅亡したのです。異邦人といえど、お金持ちの家なら結婚をしました。また、権力をむさぼり、知識を好みました。彼らは結局、既存のカナン文化に同化し、選民の精神を売り飛ばしたので滅亡したのです。(330)

 習慣化されてはなりません。習慣は一番病み付きの悪い癖です。皆さんが結婚後、子供たちを育てながら習慣的な生活をするようになれば、それが体に凝結してしまいます。そのような環境の中では、特別な精誠や祈祷をする時間がないのです。子供たちがそばで騒ぎ立てるので、祈祷できる時間がないというのです。(331)

 祝福家庭は、全体を左右するという使命を感じなければなりません。家庭には夫婦と子女がいます。習慣性のある家庭になってはなりません。家庭が四位基台を成すことのできる起点です。ここには夫婦の一体化が要求されます。神様が望む本来の基準の前に一致しなければなりません。(332)

 家庭的な基盤を立てるにおいて、夫に妻が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、妻に夫が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、子女が一つとなれば福を受けるのです。今は、家庭救援時代なのです。(333)

 家庭を復帰しなければなりません。これ以上の伝道はありません。夫婦が明け方に起きて、子女の手をつかみ、涙を流しながら祈祷しなければなりません。そうすることによって、お父さんやお母さんがどこかに行っていないとき、子供たちが父母を待ちながら、恋しがり歌うことができなければなりません。(334)

 これからは短刀を持って、切るべきものは切り、解剖すべきものは解剖しなければなりません。皆さんの思いどおりにしてはならないのです。統一教会は天国を成すべき教会なので、個人ではなく家庭を見いださなければならないのです。分かりますか。これからは、わが協会本部で家庭部が一番重要な部署となるでしょう。家庭生活で手本となれない人は、世界的なつまはじきを受けるでしょう。全天宙的なつまはじきを受けるでしょう。(335)

 祝福とは、責任を果たしてこそ貴いのです。男性はこぶしを振るったり、女性は悪口を言ったりしてはなりません。この世的な悪口を言ってはなりません。何かが異ならなければなりません。すなわち、家庭は小教会です。天の代行機関として働かなければなりません。天が訪ねていきたい家庭とならなければなりません。最小限、三家庭は一つの生活をしなければなりません。特別にきょうを機会に語ってあげたいことは、第一にたくさんの人々が往来できる家庭とならなければなりません。人の和が最も重要です。そして二番目は、天の家庭同士団結しなければなりません。最小限、三位基台たる家庭同士だけでも、完全に一つとならなければなりません。(336)

 私たちは個人を主とするのではなく、家庭を主とします。そうだといって、家庭だけを中心としてすべてのことを清算するのではなく、全部連結しなければなりません。それゆえ、昔一人で生活をしたときの努力だけではいけません。昔、努力したことの何倍も努力しようという決意と覚悟を添付させなければなりません。

 悪に対して挑戦していく生活は、ともすれば疲れ、後退しやすいのです。家庭をもったときは、一人のときより何倍も努力しなければなりません。

 家庭は中心をつかむ場です。私たちは現実を避けることができません。前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければなりません。

 過去の信仰形態をもってしてはなりません。過去の一方的な信仰態度をもってしてもなりません。(337)

 一人でいるときには、祈祷すればすべてのことが成就しました。しかし家庭では、反対する人がいれば、その十字架を負い、本然の基準まで貫かなければなりません。

 一人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じです。個人が失敗したことを復帰するのは簡単です。しかし、家庭的に失敗すれば破綻します。(338)

 家庭は重要です。一人が失敗すれば補充もできません。処女と童貞が出会って、互いに愛し合うようになれば、大抵、理想も何もみんな忘れてしまうようになります。私たちには、家庭がすべてのことの出発です。互いに自分だけ主張して争えば、国が滅び、天と地が滅びます。私たちにおいて、気管のようなものが家庭です。(339)

 個人の信仰は、いい指導者にさえ出会えればそれで済みます。しかし家庭では、相互いに指導者とならなければなりません。

 家庭の誰のために、何のために生きるかが問題です。(340)

 子供たちが「うちの父さん好き! うちの母さん好き!」と、お父さんとお母さんを、そんなに好きで自慢する、それが子供たちの安息の場です(341)

 家庭を中心として、お父さんが「ツー」と言えば、息子も「カー」と言える基盤が必要です。しかし、子供がいたとしても、国がなければ何になるでしょうか。国がなければ一等であろうと何であろうと、何にもならないのです。(342)

 昔、忠臣の家庭では、いいものが手に入ればまず王の前に捧げました。これが韓国の忠臣たちの生活法です。

 そのような観点から見るとき、韓国の礼法は、どのような国にもない天国の中心内容だというのです。分かりますか。儒教では孔子の教えに従いますが、その孔子の教えを中心とした礼法を見ると、天法に近いものが多いです。

 将来、皆さんの後孫たちが、皆さんに対して祭事を執り行うようにしなければなりません。今までは、生活規範や商売をする手続きなどは、わが原理を中心として定められてはいませんでしたが、将来その礼法が現れるようになれば、そのときからはいいかげんにしてはなりません。今から皆さんは、どんな内容でも神様が共にいてくださるという心を中心として、自分の環境を克服し、根を深く打ち込んで、どのような風霜にあっても育ち得る生命力を備えなければなりません。そうなれば、神様が法を定めることも問題にはなりません。しかし、それがそうならなければ、問題だというのです。(343)

 今までの私たちの先祖たちを、先祖として対してはなりません。アダム以後、来ては逝った数多くの先祖たちの中にはいい先祖もいたでしょうが、彼らも神様を不信したので、先祖として取り扱わないようにしようというのです。先祖扱いしないようにしましょう。

 それでは、私たちの先祖は誰ですか。堕落した先祖たちは、一つになれなくなってしまいました。しかし、その中でずば抜けて特出した選民の先祖たちがいました。神様の仕事を担った後孫たちの系列に立っている方たちを尊敬しようと聖書に現れたアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスのような先祖たちをつかんできたのです。ですから、そのような先祖たちを中心として、私たちが彼らと一つになろうというのです。彼らが呼んだお父様、彼らが侍ったお父様、彼らが敬ったお父様を、私たちのお父様として侍りましょう。(344)


  3、祝福家庭の夫婦生活

 祝福家庭は、今までの生活観念から抜け出さなければなりません。本来、神様が理想とされた一双の夫婦は、神様に栄光を帰し奉らなければなりませんが、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返しました。ここには、アダムとエバの責任だけではなく、天使長の不忠もあります。天使が先に神様に忠孝の道理を立てなければならないのに、その道理を果たさず堕落したのです。したがって、復帰摂理は、忠孝烈を立てるものです。

 ところで、私たちがいくら忠孝烈を尽くすといっても、本来の基準に到達することはできません。怨讐が介在した立場での忠孝烈だからです。私たちは忠孝烈を慣習的に語り、考えやすいですが、本然の忠孝烈はそうではありません。それゆえ、一つの中心が必要です。

 神様が忠孝烈の心情の中心を立ててこられたので、すべての宗教と道も、これを立ててくるようになっています。すべての道人たちは、これを探し立てるために現れたのであり、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を探してこられたのです。神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を探すためであられました。イエス様がまず忠孝烈の道を立てなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってはじめて、サタンを屈服させることができました。

 本来、子女が成熟すれば、神様の理念と実体を代身しなければなりません。

 祝福家庭は忠孝烈を立てるにおいて、誰にも負けてはなりません。忠も孝も烈も、家庭から始まらなければなりません。祝福はお父様の望みを相続するものです。今まで神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はありませんでした。真の神の日が来る前には烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っているかぎり、烈は立てられません。(345)

 ここに集まった男性たちは、自分の妻を愛するにおいて、この世のどのような男性が自分の妻を愛するよりも愛さなければなりません。女性たちも自分の夫を愛するにおいて、この世のどのような女性が夫を愛するよりも愛さなければなりません。それが祝福家庭を成した夫婦が守るべき倫理なのです。(346)

 統一教会で祝福を受けた夫婦たちは、縦的な愛を中心として横的な愛を成してはじめて天国に入ります。(347)

 皆さんが妻や夫に対して、天と地を代表した、万民を代表した人としてその人を愛することができるなら、その家庭は今日、祝福家庭を代表することができるのを知らなければなりません。(348)

 「わが家庭はわが家庭のためのものではない」というのが、統一教会の主流思想です。女性たちが夫についていくのが妻の行くべき道のように考えますが、それは統一教会では通じません。自分の家庭のためにだけ生きる夫を後に置いてでも、国のために生きる道があるなら、家庭を残しておき、家を出て国を求めるのが烈女の道です。(349)

 家庭の伝統を立てなさい。夫婦のうちどちらか一人がまず神様の前に立てば、その人を中心としてついていきなさい。

 家庭の中でどのような家庭が模範家庭でしょうか。家庭が使命を果たせなければ、家庭全体が引っかかります。そして、霊界にいる先祖も協助できなくなります。

 家庭が、イエス様と聖霊の実体としての伝統を立ててこそ、民族、国家、世界の伝統が立てられるのです。

 み旨の中に立った夫婦のうち、どちらか一人が先に死んだとしても、悲しがってはなりません。(350)

 統一教会で祝福を受けた夫婦は、自分の妻、あるいは夫が先に死んだとしても嘆いてはなりません。自分勝手に再婚してもいけません。そのように自分勝手にしては、霊界で引っかかるのです。必ず天の前に報告し、天が指導するとおりに行かなければならないのです。ところが、今日見てみれば、そのようにしない人々がいます。その結果はどのようになるでしょうか。これは地上では現れません。けれども、霊界に行ってみなさい。間違いなくそのような人は、サタンよりも悪なる立場に立つのです。(351)

 各自の過去を先生は知っているので、尋ねるなら教えてあげます。新郎新婦は過去を尋ねますか。でなければ、過去を全部きれいにして不問に付しますか。(全員不問に付すと手を挙げる)先生が皆さんの過去を忘れることにしたので、皆さんも忘れなければなりません。(352)

 きょう、家庭をもった男性は、先生と完全に一つとならなければなりません。ここには罪の観念がないのです。完全に一つとなって、先生の分身として、主体的な立場で出発しなければなりません。このときに対象である夫人は、主体と一つになって、彼の前に絶対的に順応しなければなりません。(353)

 結婚した皆さんはもうすぐ家庭をもつはずですが、夫は公的生活、すなわち奉仕の生活をし、妻は家庭の生活を担当しなければなりません。代表的家庭、模範的な家庭になりますか。ムーニー(moonies)は反射体であり、サニー(sunnies)は発光体であり、キンギー(kingies)は包括体です。したがって皆さんは、キンギーすなわち包括的な家庭とならなければなりません。理想というものは、神様を通じ人間を通じて実現されなければならないのです。(354)

 皆さん、負債のある人は栄える道理がありません。家庭において世話になるのが好きな家族がいるなら、それはみんな嫌うのです。為に生きる人は、その両親よりも家族たちのために生きるようになるときには、その父母もすべての権利をその子供に移してあげるのが、人間世界の道理ではないかというのです。皆さん、妻となる人は、夫に負債を負わないようにしなければなりません。夫も同様です。互いに負債を負わせまいとする家庭から、永遠なる平和の世界が来ることを知らなければなりません。(355)

 家庭自体もやはり、二人が行くべきみ旨の道と一致する場です。あなたもその道を行かなければならず、私もその道を行かなければなりません。行くまいとしても行かざるを得ず、別れようとしても別れられないその道です。それはいくら遠回りしようとしても、ほかに道がないのです。この道を行かなければならないのです。(356)

 皆さんが農村で働くべきときにも、一人で出ていって働くようにはなっていません。夫婦が共にその日の仕事を神様の前に報告し、出ていって仕事を始め、終えて帰ってきても神様の前に報告してからご飯を食べるようになっています。そのようなことをすべて規範化させる、神様を基準とした生活がどれほど厳格であるかということを知らなければなりません。

 女性にも女性として守るべき家庭生活の規範があり、男性にも男性として守るべき家庭生活の規範があるのです。このようなとてつもない天的な規範を体系化させ、生活するのが皆さんの行くべき路程であるにもかかわらず、その路程を行けなくなれば、とんでもないというのです。(357)

 家庭のために与え、国のために与え、世界のために与えなさい。これが三対象原則です。

 歩くにも、男性は右足を先に踏み出し、女性は左足をまず踏み出さなければならないのです。どこかに行って座るにも、男性は東側に座り、女性は西側に座るのが原則です。おぜんを置くこと、服を掛けることなど、すべてのことに方式があるのです。(358)

 男性は女性を上から見下ろし、女性は男性を下から少しずつ見上げなければなりません。女性は水が流れてくる方を見上げるのではなく、流れていく方を見下ろさなければなりません。水が流れる方に向かって見上げる女性は、浮気をするタイプです。

 元来、男性が座る席を女性がつくってあげなければなりません。洋服だんすを使うときも、男性が右側なら女性は左側のものを使わなければならず、男性が上なら女性は下を使うべきです。例えば、男性のチョゴリ(上着)の上に、女性のスカートや下着を置いてはならないのです。男性の服の上に女性の服を載せてはなりません。(359)

 責任者の妻は、夫が門を出るとき、絶対がみがみ言ってはなりません。妻ががみがみ言うことによって、夫の心を曇らせる波が、世界を曇らせるのです。がみがみ言うのは夕方にしなさい。そうすれば、すべての問題が夜の間に解決するでしょう。男性は朝、闘いにいくのです。そのような夫のために、妻は朝早く起きてよくサービスをしなければなりません。(360)

 夫にたたかれても、感謝の祈祷をしなければなりません。「夫として、妻を一度たたいてみれなくて、いいでしょうか。ありがとうございます」と。(361)

 おしろいを塗り、香水を振ってでも、女性はいつも美しくしなければなりません。女性は情緒生活で負債を負ってはなりません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきたとき疲れて見えれば、洗面の水も汲んであげ、歯磨きする準備もしてあげ、足も洗ってあげ、髪もといてあげなさい。

 女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を築こうとするなら、女性は悲喜劇の一番の俳優にならなければなりません。夫が喜ぶときにも完全に溶かしておき、悲しいときにも完全に溶かしておかなければなりません。(362)

 服は少なくとも三日に一度は着替えなければなりません。髪もそのようにしょっちゅう洗わなければなりません。そして、いつもほほ笑みなさい。ほほ笑みは心の花です。いつも花を咲かせ、香りを漂わせなさい。

 頭のスタイルや化粧で相対をテストしようとしなければなりません。自分の顔やスタイルで相手の心を喜ばせられないなら、趣味でそれを代身しなければなりません。音楽だとかすべての芸術を総動員してみなさい。雑誌のようなものを見て、女性の生理について説明してあげてもいいし、文学書籍を読んでそれを説明してあげてもいいのです。夫が子供のようにスカートに包まれて生きるようにしてあげなさい。(363)

 夫婦はどうせ出会ったのだから、両手をつかんで死のうが生きようが、共に行かなければなりません。どうせ行くからには、格好よく行きましょう。(364)

 結婚した後において、皆さんは勝手に行動することはできません。結婚以後、どこに行かなければならないでしょうか。神様の愛を担わなければなりません。人間が男性、女性に生まれたのは愛ゆえです。愛は夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。

 皆さんは神様の愛が二性性相によって分立した実体なので、分立した実体が合成一体化するために、神様の愛を尋ねていかなければなりません。

 神様の愛に出合おうとするなら、男性と女性が愛で一つとならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、神様の愛に出合うことはできません。神様の愛に出合うことによって、私たちは神様の同位圏にとどまるようになるのです。同位圏とは、神様の横に立つことのできる位置をいいます。(365)

 夫婦が完全に神様の愛を中心として一つとなるようになれば、皆さんは神様の位置まで出ていけるということを知らなければなりません。神様の位置に上がっていけるだけでなく、神様がもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるというのです。愛の力はこのように驚くべきものです。神様が皆さんに同参的権威を許諾すると同時に、皆さんは神様がもっておられる全体の所有権限を伝授されるようになるのです。(366)

 互いがみ旨を忘却し、自分たち同士だけで愛し合いながら生きたなら、天の前に恥ずかしさを感じなければなりません。これが祝福家庭の夫婦生活なのです。み旨の前において自分たち同士が因縁を結んだのに、自分たちだけの幸福を求めて家庭を切り回していく立場に立てば、発展できないのです。絶対に発展できないというのです。したがって、家庭にいいことがあれば、それは国とともに、世界とともに、天とともに関係を結ばなければならないのです。その家庭の喜びは、国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければならないのです。(367)

 今日、祝福家庭が赤ん坊を抱いて愛そうとするなら、その息子・娘たちが何ゆえに生まれたかということを銘記しなければなりません。神様ゆえに生まれたということを知らなければなりません。神様という因縁を通して生まれました。夫が貴く妻が貴くて秘密裏に何の話をしようと、その相対は自分たち同士で出会った相対ではありません。公的な天道を前において出会った人です。神様を介在させておいて出会った人です。そのような自分たちが悲惨になれば悲惨になるほど、神様が悲惨になることを私たちは知らなければなりません。(368)


  4、祝福家庭のみ旨にかなう生活

 家庭を築く夫婦は、自分たちが全体のみ旨のためになり、神様のみ旨を成就させる一員であることを知らなければなりません。もし祝福を受けた家庭が、これから神様のみ旨のために生きる生活をせず、自分の家庭の利益と安楽さを求めるなら、その息子・娘たちが悲惨になるということを知らなければなりません。(369)

 皆さんがみ旨を前において行く場合に、自分の欲を張っていけば、前に行くのでなく逆に行くということを知らなければなりません。そのような事実が多かったのです。そこには自分の欲を介入させることができないのです。もし祝福を受けてから、互いに自分の利益のために欲を張って生きる夫婦がいるなら、その夫婦はアダムとエバが堕落した姿を、もう一度再現することになります。堕落とは、欲心から始まったのです。自分の主体性だけをもって、そこに屈服するのを望む、そのような立場で祝福が成り立ったなら、その祝福は正当なものではないというのです。(370)

 きょう皆さんは、この山頂まで何のために来ましたか。み言を聞いて、皆さんが偉くなろうという考えで来たのなら、滅びなければなりません。しかし、み言を聞いて自分の隣近所や国と世界、あるいは天のみ旨の前にプラスになるために来たのなら、よく来たと思いましょう。先生を見にきたのなら、ありがたいけれど、それは流れていってしまいます。だから、皆さんのすべての仕事は、天の利益のためにしようという基準が立たなければなりません。(371)

 夫婦が神様の理念を引き継ぎ、徹頭徹尾心情的な一体の基準を立てれば、未来の後孫たちが永遠に讃揚するでしょう。その讃揚の基準は、一民族や国家圏にだけとどまるのではなく、世界万民が追求できる心情の土台として準備されなければなりません。そのために、私たちの家庭はどのような困難な環境でも克服できるという信念をもち、出発する家庭とならなければなりません。(372)

 皆さんはどのような道を歩んできましたか。息子・娘、三、四名のために東奔西走しながら生きてきたのなら、その人は霊界に行って神様に出会うことができないでしょう。神様は人間を失うことによって、すべての被造世界を失ってしまったということを知らなければなりません。ですから、今日私たちは、息子・娘を生んで暮らしますが、私たちの精神は神様を愛し、神様のみ旨を成すために生きなければならないのです。私たちの父母が神様のみ旨を成すために迫害を受け死んだというとき、その息子・娘は、その父母の一生に対して栄光に思うでしょう。(373)

 皆さんは「ああ! 難しいのに……」と言いますが、先生はあらゆる所で暮らしてみました。自分が悲惨な場に行けば行くほど、天がともにあるということを知らなければなりません。あるときは、目をぱっと開けると天で光が輝いています。天がともにあれば、そのような現象も起こるというのです。その全景がどれほど美しいでしょうか。この世には美男美女も多いですが、そのようなものは比ではありません。夢の国で見られるものとして、その美しさが百パーセント表現され得る所が、私たちの望む理想世界、すなわち天国です。もしこの朴貢緒(四三〇家庭・劇団「家族」代表)のような人々がそのような現象を見れば、感激してとても大きく口を開け、息を吸い込んでおき、それを吐こうとはしないでしょう。そうなるというのです。(374)

 神様のために、黙々と自分のもっているすべてのものを犠牲にするときは、神様が「私」を擁護します。神様は必ず「私」の味方となります。(375)

 皆さんの家庭は、愛の家庭とならなければなりません。そして、皆さんは愛を中心とした公的な夫婦となり、父母とならなければなりません。自分たちを中心とした私的な夫婦や父母になってはなりません。

 アメリカの家庭は、大部分公的な夫婦でもなく、公的な父母でもなく、公的な息子・娘でもありません。公的な愛の道を行くのではなく、私的な愛の道を行っています。だから、夫婦も互いに自分を中心として愛し合っており、父母たちもそうであり、子女たちもそうです。このように愛すれば愛するほど、国を滅ぼし、世界を滅ぼすのです。

 世界を愛し、世界のために犠牲となって世界の中心となれば、そのときには自動的に個体的な愛で愛し合えるようになるのです。その次には、神様が愛されるようになっています。(376)

 大きな人物だという人は、自分の家の中だけを切り回した人ではなく、自分の国だけを切り回した人でもなく、世界のために生きて切り回した人です。それよりももっと大きい人はどのような人物でしょうか。この世界の生活を切り回すことよりも、絶対者である神様がいるなら、その神様の生活までも切り回そうという人でしょう。

 このように見るとき、聖人という人は、人の生活を中心として夢を見たのでなく、神様の生活を中心として夢を見た人々です。結局聖人たちは、宗教の宗主であるイエス、孔子、釈迦牟尼、マホメットのような人々で、人間の生活よりももっと次元の高い理想的な生活の本体となる、天があるということを知ったため、その理想を慕ってきた人々です。(377)

 皆さんはみ旨の中で召され、祝福を受けました。それは大いなる神様の愛のゆえであって、皆さん自らが探し出したのではありません。皆さんは無条件の神様の愛によって、代価を払わずに生命を得たのです。そのような事実をおいて見るとき、皆さんすべては、神様に心情の負債を負っているのです。神様は負った心情の負債を返せとはおっしゃいませんが、私たちが天のお父様の子女だと自任するなら、その方の事情とみ旨に同参するのが子女たる道理なのです。父母と子供の間に利害関係は介入し得ません。ただ、愛のみが存在するだけです。父母に負債を返すために働くのではなく、父母の仕事がすなわち子女の仕事なので同参するのです。(378)

 祝福を受けて家庭をもつようになった私たちが、どれほど天のお父様の事業に同参したかを反省してみなければなりません。祝福家庭が、お父様の仕事は自分とは関係ないというなら、誰がお父様の仕事を相続しなければならないでしょうか。

 皆さんが統一教会に入教し、先生に出会うことによって天のお父様を見いだすようになったのなら、感謝しようとしなければならないでしょう。み旨から見るとき、祝福は簡単に成されることがらではありません。何かの記念行事や例年の行事のように成ることではありません。祝福の価値が分かるなら、お父様の事情と心情も相続できなければなりません。(379)

 偉大なお父さんの息子として生まれた者に責任があるなら、それはお父さんのすべてのものを継承することです。

 人が立っている中心点は同じでも、その範囲が家庭的なのか、あるいは氏族、民族、国家、世界的なのかという差異点があります。中心点は、先生が立っている所と皆さんが立っている所が同じです。二つはあり得ないということを、はっきり知らなければなりません。先生が世界的な使命をもっているとするなら、皆さんは個人的な使命、または家庭、氏族、民族、国家的使命をもっているでしょうし、努力によって自由にその範囲を拡大することができるでしょう。(380)

 祝福を受けるとどうなるでしょうか。皆さんが行くべき世界は、先生が行くべき世界です。お父さんが行くべき国は、子供が行くべき国でしょう? 同様に、お父さんが享受すべき栄光は、子供が享受すべき栄光です。

 それなら皆さんは、今まで先生が何をしているのか、どれほど研究してみましたか。「成和誌」が来るのを待って、先生にどんなことが起こり、先生の家庭にどんなことが起こったかを知りたいと、徹夜をして読んでみたことがありますか。「成和誌」が来れば何ページ読みますか。つまらないサタン世界の因縁のある本ばかり読み、つまらないものもろの研究は全部したかもしれませんが、果たして先生についてはどれほど研究したかというのです。自信がないでしょう。(381)

 私たちはみ旨のために生きたのか、でなければみ旨によって生きたのかを知らなければなりません。祝福を受けた人々と受けていない人々をおいて、どのようになるか見守る人々がいます。神様は赤ん坊が「お父ちゃん」と呼ぶとき、その声を一人の赤ん坊の声として聞くのでなく、すべての赤ん坊の声として聞くのです。

 神様は試練を経た後に恵みを与えられます。先生は頭が白くなったのを見るたびに、この年齢に至るまで、この程度の仕事しかできなかったことを悲しく思います。お父様が十遍涙を流せば、私たちは一遍でも涙を流さなければならないでしょう……。お父様に出会う場で流す血と汗と涙は、歴史的に流してきた血と汗と涙とは違うのです。国を探し求めてきたお父様にその国で出会い、抱きしめて涙を流しましょう。(382)

 昔、み旨を知らなかったときの、そのような夫婦となってはなりません。恵みを受けることができ、神様から相続を受け得る道においては、自分の財産をすべて消耗させてでも、それ以上の価値があるので行かなければならないと考えて出ていかなければなりません。財産を一方に隠しておいては、立ちどころに罰を受けます。それは祭物を盗むのと同じです。分かりますか。祭物を盗んだ泥棒は罰を受けるのです。これが一番恐ろしいのです。犯罪だというのです。(383)

 皆さんの家庭は、皆さんの家庭のためだけではなく、三千万民衆のための家庭とならなければなりません。また、皆さんの体は皆さん自身の体ではなく、三千万民衆を代表して燔祭として上がるべき体なのです。それゆえ、この道を行くためには、まず物質に対することを神様に任せなければなりません。先生もそうでした。(384)

 「私」が持っているすべてのものは、「私」のものでなく神様のものであり、宇宙のものです。宇宙圏内にある万物は復活すべき万物であり、自分が育てる息子は、自分の息子でなく神様の息子であり、宇宙の息子として育てなければなりません。夫婦というものは、自分一人に局限された夫婦ではありません。天と地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。(385)

 自分の家庭のためだけに心を砕かないで、国のために心を砕こうというのです。先生が皆さんに人格的に接して過ごすので、皆さんは先生を統一教会の先生としてだけ理解していますが、統一教会だけの先生ではありません。それだけではないというのです。これからの十年を見てみなさい。(386)

 祝福家庭は貴いものです。しかし祝福家庭は、エデンの園のアダムとエバのような立場で出発しなければなりません。アダムとエバのように服もなく出発しなければなりません。しかし皆さんには、服はあります。エデンの園でアダムとエバが服を着ましたか。ただいちじくで覆っただけです。家もありませんでした。そのようなことを考えれば、今の祝福家庭が困難だとはいえません。わが祝福家庭に家がないですか、服がないですか。(387)

 生涯路程で祝福を受けて幸福の鼻歌を歌うことより、億千万年の青史の前に勝利を誓うことができ、その幸福を誇ることのできる後孫を残すことが福となるのです。皆さんが今、楽によく食べ、豊かに暮らすために統一教会に来たのなら、ふろしきを包んで出ていきなさい。それでは滅びるのです。必ず滅びるというのです。子供を心配し、妻を案じては、み旨が成されないのです。滅びるというのです。(388)

 皆さんが統一教会に入ったのは、一日に三度の御飯を食べるためですか。一日に三度の御飯を食べるために、一生を苦労して死んでいこうと、み旨の前に来て祝福を受けたのでは決してないはずです。神様の事情を代身して「その国と義を求めよう」という初めの誓いが、うそでなかったのなら、ためらわないようにしなければなりません。未練によってためらっては、塩の柱になるという事実を忘れてはなりません。

 先生は、腹いっぱい御飯を食べるために統一教会をつくって、今日までののしられ迫害を受けながら耐えてきた人だと思いますか。一生を顧みても、一日一食たりとも腹いっぱい食べ、一晩も安らかに寝たことがありません。私が腹いっぱいで気楽な生活におぼれれば、人のひもじさを忘れてしまいそうで、ずっと腹をすかせてきたし、苦労をいとわずに先頭に立ってきたのです。

 自分の腹を満たすために仕事をして死んだ人は、神様の国に入ることができません。先生がもし腹いっぱい食べ、安らかに寝るなら、世界に散らばっているすべての統一教会食口に負債を負った者となってしまうでしょう。そのような生活がまさに罪なのです。(389)

 自分のために生きればどうなりますか。世界を失ってしまうのです。民族も氏族もすべて失ってしまうのです。また、自分のために生きる人が家庭をもつことができますか。公的な家庭ももてないのです。家庭をもてないだけでしょうか。後で自分自身も滅びるのです。完全に滅びるというのです。国もなく、氏族もないので、少しずつ滅びるのです。少しずつ滅びる群れが探し求める所はどこでしょうか。地獄です、地獄。統一教会員の中にも地獄に行く人々がたくさんいます。それゆえ、自分のため生きてはならないというのです。皆さんはこのために祈祷しなければなりません。今は個人のために生きてはなりません。全体のために生きなければなりません。(390)

 食べる物があっても世界のために節約する生活をし、また自分が楽に食べて生きることができても、世界のために遊ばない人であればあるほど、神様の同情と愛を受けることができるのです。

 例を挙げていえば、一人の妻が夫のために苦労をたくさんしたとするならば、その苦労の目的がすべて成され、夫が栄光の位置を占めるようになるとき、妻をまず前に出したい心が生ずるのと同様なのです。

 また一つの家庭で、ある目的を成就するために相互いに協助し出ていって、そのことが成就したとき、その家庭にお父さんがいるなら、自分よりも息子、あるいは娘を讃揚したいし、その讃揚とともに永遠にありたいのです。それがお父さんの心なのです。これと同様に、神様のみ旨を中心としたそのような息子・娘がいるとき、神様が先に立つのでなく、その息子・娘を前に出して讃揚すると同時に、共にいたいのが神様でしょう。(391)

 皆さんの中に「うちの息子・娘の学費をちょっと助けてください」と、先生に助けを要請しようとする人々がいるのを知っています。先生は、皆さんよりも飢饉で倒れ、墓も掘れずに死体を積み上げている第三国を考えています。それゆえ、ネクタイを結ばない主義であり、冬にも肌着を着ない主義です。

 神様を解放し、ご父母様を解放し、私たちの兄弟を解放しておき、自分は死の道を行こうという人は、神様の懐に抱かれるので、死のうとしても死ねないという事実を知らなければなりません。(392)

 皆さんの責任は重大なものです。早くに選ばれ、先生から愛と教育を受けた皆さんが責任を果たさなければ、歴史的に讒訴を免れる道はないでしょう。皆さんの後孫たちから讒訴を受けないようにするには、任せられた責任を果たさなければなりません。皆さんは苦労をいとわず責任を果たすことによって、伝統を立てていかなければなりません。皆さんの業績の前に後孫たちが頭を下げ、歴史をおいて讃揚できる先祖とならなければなりません。(393)

 父母が天に行く道で脱線しないようにありとあらゆる精誠を尽くすなら、子供たちは絶対に不孝をすることができません。(394)


  5、祝福家庭の信仰生活

 祝福家庭の中で、聖日に礼拝時間前に来て準備する人が、何人ぐらいいるか考えてごらんなさい。讃美歌を歌い終わり説教する時間ぴったりになれば、そのときに合わせて入ってくるというのです。そのようにする人々を、どうしてみ旨に従う人々だといえますか。そのような人々は、いくら弁明しても公的生活ができず、私的生活をしているというのです。そのような人々には、ある希望をかけ、期待する何の内容もないというのです。それゆえ、皆さんは今度の集会を通して新しくみ旨の前に覚醒し、公的生活の徹底化、私的生活の模範化を決意していかなければなりません。

 ですから、祝福家庭は一人も欠かさず礼拝時間前に来て、礼拝に参席する数多くの生命に恩恵の雰囲気をつくってあげ、恩恵を及ぼしてあげなければなりません。そうして地区長なら地区長、地域長なら地域長が壇に立つ前に、そのような心情的基盤をつくって後押ししてあげるようになれば、教職者が説教をするにおいて、食口たちの懇切なる表情を見渡して刺激を受けることができるのです。そのような要員が多ければ多いほど、その教会は発展するのです。

 そして、教会の公式的な記念日、あるいは何かの集会があるなら、それを生命視して動かなければなりません。そうでない家庭は、祝福家庭として落第となるのです。(395)

 早朝の敬拝、礼拝時間を厳守できずに自分の息子・娘がよくなることを望んではなりません。したがって、先生を中心として四位基台を成さなければなりません。そして、ここから後孫を立てようとすれば、父母がしっかりしなければなりません。(396)

 早朝の敬拝時間だけでも天と直線上で立ちましょう。その時間は、本当に深刻な場です。その時間に一秒だけ遅れても悔い改めなさい。その時間には、聖物としてあめ一粒ずつでも準備して、子供たちに分けてあげなさい。ちょうど聖餐のときするように……。(397)

 聖日は一週間を節約して計画し、わが食口たちが喜ぶことのできる内容を与える日です。また聖日には共に集まって、準備してきた食べ物を分けて食べ、各家庭が互いに自分の夫や妻を誇らなければなりません。(398)

 公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝時間を迎えるために早朝から精誠を尽くして、その日を神様の前に捧げ奉ることを生活化するのを子女たちに教育しなければならないにもかかわらず、自分たちがしたいことはして……。み旨の生活をすると言いながらも、祈祷もせず、精誠も尽くさず、原理の勉強もせず、伝道もせず、何もせずに、聖日の礼拝時間が十時三十分なら十時三十分、その時間に合わせて参席するためには、九時三十分だとか十時に出発してこそ礼拝時間前に到着するはずなのに、時間になってから家を出発し、礼拝中に入ってきてこっそりと座るというのです。このようになれば、必ず批判されるのです。いくら父母の立場で子女を教育したところで、従ってくれないというのです。

 そのためには、父母たちがみ旨の生活において模範とならなければなりません。家庭での祈祷生活だとか、家庭礼拝だとか、どのような面でも既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければならないでしょう。また、敬拝の時間がどれだけ重要であるかということを、認識させてあげなければなりません。その時間には敬拝式だけで終わるのでなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。(399)

 食口はどこに行っても、まず神聖な所、すなわち聖地や教会をまず探すか、そうでなければそのような条件でも立てなければなりません。

 皆さん各自は個人といっても、個人だけにとどまる存在でないということを銘記しなければなりません。また、皆さん各自は先祖の立場に立たなければなりません。(400)

 祝福家庭がソウルに来れば、必ず本部に寄り精誠を尽くさなければなりません。毎日、神様と国家と自分の家庭のために精誠を尽くさなければなりません。世界の食口が毎週日曜日ごとに本部に向かい精誠を尽くしているのに、皆さんはそれに対して報いようとしなければなりません。これができなければ家庭の行く道がふさがります。(401)

 祈祷をしなければなりません。祈祷するにおいて、男性と女性が同じ日、同じ時間にするのではありません。男性と女性の性格が相対的な場合には、共にすればいいですが、相対的でないときには、祈祷時間を異にしなければなりません。祈祷時間を定めるときには、早朝に祈祷してみて、朝にしてみて、昼にしてみて、夕方にしてみて、夜にも十時にするか十二時にするか、いろいろしてみます。そのように長年の間祈祷生活をしてみて、何時から何時まで祈祷するのが自分に一番合う時間かを知らなければなりません。それを知って、自分に合う時間に精誠を尽くすのです。

 そして、できれば恩恵の基準が高い人を中心として、その人が祈祷する時間に他の人々も共に祈祷するのです。そうすれば、その人によって恩恵を受けます。もし夫が自分より恩恵の基準が高く、信仰生活でも模範になるなら、その夫によって恩恵を受けるようになるのです。そのように恩恵を受けるようになれば、夫がこの世にまたとない美男に見えるのです。また、夫が妻を通して恩恵を受けるようになれば、その妻がこの上もなく美人に見えるのです。自分のお母さんよりも懐かしく、自分の姉よりも懐かしい。この世の女性の中で一番だというのです。元来、夫婦はそうでなければなりません。

 だから、目を開けさえすれば眺めたく、夜を明かしながらひそひそと話したくなるというのです。それは滅びることがらではなく、栄えることがらです。(402)

 これから皆さんは、生活の中で祈祷生活を重要視しながら、先生に直接指導を受け得る雰囲気をつくっていかなければなりません。このような霊的雰囲気をどのようにしてつくるかという問題を、夫婦同士、あるいは子女たちを集めて、互いに議論することのできる環境をつくるよう努力しなければなりません。もしそのような因縁をもった人がいるなら、その人を尊重視するのです。息子がそうなら息子を尊重視し、娘がそうなら娘を尊重視してみなさい。信仰を中心として、その人を自分の家の信仰の先祖のように思い、協助していきながら育てるのです。そうすれば、一番精誠を尽くした人にすべて与えるようになっています。

 皆さんはこのような霊的生活の雰囲気を備えて、さっき話した公的生活と私的生活において模範を示し、氏族的なメシヤの責任を果たしていかなければなりません。これは霊的基盤なしにはできないのです。このような基盤をもつためには、体験をしなければなりません。その体験を尊重して、生活に適用し分析し、統計を出して、それがいいのか悪いのか、または発展するのか後退するのかを選んでいかなければならないのです。また対人関係でも霊的に選んでいかなければならないのです。このように皆さんが分析してみるとき、いつもいいことがあるか悪いことがあるかを、霊感ですべて感じるようになるというのです。そのように暮らさなければならないのです。ところで、罪がいっぱいで、サタン圏内に落ちるときにも、それがいいか悪いか分からずにいれば、いつどのように滅びて落ちていくか分かるでしょうか。それゆえ、このようなことを選んでいくためには、精誠を尽くさなければならないのです。(403)

 各家庭は白い座布団をつくりなさい。そして、きれいな場所を準備しなさい。そうして、その座布団に座って精誠を尽くす時間をもつようにしなさい。(404)

 精誠を尽くすときは「絶対信じます」という立場に至らなければなりません。「神様を絶対信じます」、み旨ならみ旨に対して「絶対信じます」という立場に至らなければなりません。そのような立場でだけ神様が協助なさるのです。祈祷しながらも、つまらなく祈祷が成るか成らないか、疑ってはならないというのです。「お父様! 私だけ残りました。私でなければこの国がなくなり、私でなければこの世界がなくなってしまうでしょうに、お父様、あなたが六千年の間苦労してこられたこの一境地に、この境界線に私一人残りました。あなたが成就させるべきみ旨の近くにいる者が、私しかいないではないですか。私という存在がこのように重要ですが、私はまだ備えることができないでおります。それでも、そのような私にご命令なさいましたので、私がそうすることのできる条件、そうすることのできる基盤を備えて、全体、この民族を代身いたします。これが復帰摂理ではございませんか」と言えなければなりません。

 皆さんは今からでも涙を流し、骨髄が溶けるほどの深刻な境地に入り、一対一で是非を決めなさい。そうして、私が涙するとき神様も涙し、神様が涙するとき私も涙する、そのような、従順な心で神様と授け受けることのできる境地に至らなければなりません。どんなことでも、そのようにして、しなければなりません。そのためには祈祷をしなければなりません。根がなければならないというのです。その根は祈祷です。(405)

 根は外に現れません。木が大きければ大きいほど、その木の大きさに比例して根が深く幅を広げていくのと同様です。

 先生はこのような公式の席上でいつも新しい言葉を語りますが、この新しい言葉は、そのときそのとき語るのではありません。全部根があります。皆さんが知らないこともたくさんあります。大きな木は、普通の木が追いつこうとしても追いつくことのできない深い根をもっています。

 皆さんは祝福を受けた家庭として、根がどれほど深いですか。根が深くてこそ、息子・娘が健やかに育つのではないですか。そうでしょう? 原理としての豊かな根をもって沃土に植えられた環境に、神様が肥料まで与えてくれるので、育たずにいられるでしょうか。

 このような点をおいて見るとき、問題は何でしょうか。神様とともに一体たる境地で、一人の夫を中心として一人の女性が、一つの夫婦を中心として一つの家庭が精誠を尽くすか、尽くさないかということであり、霊的な根を中心として接ぎ木するか、接ぎ木しないかということです。

 そして、皆さんの家庭にいいことがあれば、必ず神様と関係を結ばなければなりません。そうしてこそ、それが皆さんには落ちずに残され得る信仰の基盤となるのです。皆さんは個人的な立場ですが、家庭と連結されうる基盤をつくつておいてこそ、それ以下には落ちないのです。そうすれば家庭が上がるとき、それに付いて上がるのです。それを結んでおかなければならないというのです。(406)

 いつも祈祷する生活をしなくては、み旨の道を行けません。皆さんは生活するにおいて、お金を考えず、み旨を先に考えなければなりません。(407)

 祈祷しなければなりません。掃除をしなければなりません。心の掃除、生活の掃除をしなければなりません。そのために祈祷しなさい。早朝でも起きて祈祷しなさい。祈祷するときは、心臓の鼓動の音を聞こうとしなければなりません。動脈と静脈、ここで天地の調和が起こると想像しながら、心臓の筋肉を考えなさい。そうすれば健康になります。(408)

 祈祷しなさい。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、する仕事を通じてでも祈祷できなければなりません。(409)

 洗濯をしながらも、道を行きなからも祈祷しなければなりません。倉庫にずっと積まれなければならず、空であってはなりません。(410)

 先生は統一教会の祭司長と同じです。祭司長が自ら祭物となる羊を養って祭事を捧げる道理がどこにありますか。行事のときには、全部私のポケットを通して行事をしているのですが、これは大きな間違いです。祭司長が自分のお金で祭事を捧げるのは、身のほどもわきまえない祭事です。そのように誠意もなく精誠も尽くさずに貴い日を迎えては、皆さんの後孫が罰を受けるようになるでしょう。そのような場からは、神様も去ってしまわれるでしょう。神様が去った真の神の日がどこにあり、真のご父母様が去った真の父母の日がどこにあり、真の子女の日がどこにあるでしょうか。

 皆さんはこのような因縁を中心として、自分の精誠の因縁を億千万代にまで残そうという立場に立たなければなりません。そしてこのような日々(神の日など)は、精誠を尽くす心をもって涙で対すべき日であることを知らなければなりません。今まで知らなかったとしても、今後はこういう立場で精誠を尽くしてくれることを願います。(411)

 精誠を尽くして皆さんの父母を伝道しなければなりません。一つのみ旨の前に共に天の祝福を受け、祝福家庭の垣根をつくるようになれば、それ以上の幸福はないのです。(412)

 皆さんは神様を背景にもつことのできる、神様の息子・娘となったでしょうか。神様を背景にしようとすれば、いつも神様が共にあり、皆さんが神様と共にあり得る人となっていなければなりません。子犬のように親の懐を離れ、一人で歩いては親の保護を受けられません。

 エデンの園でエバがなぜ堕落したでしょうか。神様のみ言を考えることができず、一人で行動して堕落しました。神様と共にあったなら堕落しません。それゆえ、学生は自分の学校を背景として行動しなければなりません。(413)


  6、祝福家庭の侍る生活

 侍る生活とはどのようなものでしょうか。至誠を尽くす生活です。昔は霊的に神様と対し、精誠を尽くしましたが。今日は実体的なご父母様の前に誠心を捧げるのです。その誠心を至誠を尽くして捧げる道が、国に対して忠誠を尽くす始まりであり、この万国を代表する聖人たちが行うことがらです。ですから、今日、この平面的な立場で父母に侍り、誠心を捧げるということは、国のために生き、世界の聖人の精神を受け継ぎ得る価値あることです。

 それゆえ神様の前に、あるいは真の父母の前に孝子の名をもって、孝子の公認を受けるということは、何よりも偉大で驚くべきことです。その立場はイエス様もうらやみ、今までの歴史時代の道人たちもうらやむのです。分かりますか、何の話か。それゆえ、今から皆さんは真の父母と鉄石のような連関を結んで、この世のどのようなものによっても、切ろうとしても切ることのできない一致した生活伝統をもたなければなりません。

 自分の父母に対して、説明をもって、そう(=父母)ではないという論理があり得ますか。それは天下において神様もできないのです。それと同様に、皆さんが精誠を尽くし、真の父母と一つになれば、誰もそれについてくることはできません。そこで自分だけの最高の精誠ある基盤をもつことによって、神様の愛が父母を通して皆さんに宿るようになるのです。

 このような立場から、皆さん自体は原理で教えてくれる愛によって、神様を中心として真の父母に侍べることで、はじめて愛を通じた四位基台を完成することができます。これが統一教会の侍る立場だというのです。ほかの道はありません。神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受ける道は原理的です。(414)

 皆さんの中で聖日の朝に御飯を食べない人、手を挙げてみなさい。いくらもいませんね。それでは、聖日の朝に御飯を食べる人、手を挙げてみなさい。もっと多いですね。これだから、もはやだめだというのです。また、聖日の早朝に家庭で敬拝式をする人は手を挙げてみなさい。皆さん、ごらんなさい。敬拝式は日曜日の朝にだけするのではありません。本来は毎日しなければならないのです。

 皆さん、蕩減復帰をするためには、家庭を中心とした孝の道理と、国を中心とした忠の道理を蕩減しなければなりません。今、私たちがそのような仕事をしなければならないというのです。父母の前には孝行をしなければならず、国の前には忠誠を尽くさなければなりません。

 一国の君主と臣下の間においても、必ず毎朝、朝会があるのです。韓国の家庭を見れば、朝、父母が起きれば嫁が布団も畳んであげ、部屋の掃除もしてあげ、ご飯もつくってあげ、父母が出入りするときにはあいさつをします。これが韓国の法度ではないですか。皆さんは法を蕩減しなければなりません。韓国のすべての歴史時代を蕩減するためには、法中の法、孝行する法なら孝行をする法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を越え得る法を立てなければならないというのです。

 ところで、皆さんのようにしてよいと思いますか。毎日のように地区なら地区長、地域なら地域長を中心として、本部に向かって敬拝式をしなければなりません。それが公式的な礼式です。しかし、毎日そのようにしてみれば副作用があるため、副作用を避けようと思うので、その条件を掲げておいて聖日の早朝にだけしているのです。元来は毎日しなければならないのです。

 この世でも父母が死んで三年の喪に服すときには、毎朝夕に御飯を供えて、出掛けるとき、帰ってくるとき、霊座に告げてあいさつする法度があるではないですか。皆さんはそれ以上にしなければなりません。皆さんが今していることは、み旨から見るとき、天の格式にぴったり合った生活でしょうか。違います。とんでもないというのです。(415)

 サタン世界の父母が亡くなっても、三年の喪に服すのが韓国の風習です。ですから、この地で三年以上精誠を尽くして父母に侍ってみなくては、天上世界に行って大韓民国の後孫だと言えないのです。何の話か分かるでしょう。皆さん、家で父母に三年以上精誠を尽くして侍りますか、侍りませんか。

 昔、孝子たちが父母の三年の喪に服すときには、墓場に穴蔵をつくり、そこに身を寄せながら孝の道理を履行したのが韓国の礼法ではありませんでしたか。私たちはそれ以上にしなければならないというのです。それ以上していますか。祝福家庭の中でそのような生活をしている人は手を挙げてごらんなさい。全部でたらめです。そのような皆さんが、天に侍ると言うのですか。あきれ返ってしまいます。先生のみ言が理解できますか、できませんか。おかゆを食べて(粗末に)暮らしたとしても、そのような心をもたなければなりません。夫婦同士さえよければ、祝福家庭ですか。互いのいい面を備えて、父母に侍る生活をしなければなりません。(416)

 月初めには早朝五時に各家庭で、夫婦が共に本部に向かって敬拝しなければなりません。喜ばしい雰囲気の中でしなければなりません。

 日曜日にも早朝五時に敬拝しなければいけません。そのときには、一週間の間のすべての生活を報告しなければなりません。日曜日は早く回ってくることを望む喜びの日とならなければなりません。(417)

 家庭の伝統を立てる最も早い道は、先生が生きているときにすることです。元来は、毎朝斎戒沐浴し、十里外から歩いてきて先生に敬拝を捧げなければなりません。このような伝統を立てられなければ、自分の後孫たちが滅びるようになります。(418)

 このたび祝福を受けた老人が一人亡くなりましたが、その息子が、亡くなったお父さんを静かに考えてみて、もの悲しかったようです。生きておられる間に、うどん一杯ごちそうできなかったことを、亡くなった後にはじめて気づいたようです。このように亡くなった後に後悔するのが、堕落した人間たちの習性なのです。

 先生はそこに行ってきて、感じたことがたくさんあります。もう皆さんも、先生も遠くなく霊界に行くはずなのに、そのときにはどうしますか!(419)

 皆さんが鏡を見ながらも、「この目がどれほどご父母様を見たくて涙を流し、この口がご父母様の解怨成就をどれほど叫んでみ、この手がどれほどご父母様の地で血を流し仕事をしてみたか。私の体が粉々になるまでご父母様が願う土台の上で仕事をしてきたか。それができなかったことが恨みだ」と言えなければなりません。そのような心を感じながら、その道を探していくことが幸福な道であり、その道で天とともに因縁を結ぶことが幸福な仕事であることを知って行く人は幸福な人です。そのような人は、誰も支配する人がいません。その人を動かし得る人は父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。また、父母を幸福にさせることのできる人も、その息子以外にはありません。父母の望みがあるとすれば、父母自身にあるのでなく、その息子にあるのです。(420)

 農業をしても「ご父母様が来られれば、これをご父母様に差し上げなけりゃ」、これが天地の道理です。天は空、地は地面をいうので、天地とは二つが一つに成りゆく道、すなわち愛の道をいうのです。そうではないですか。愛があればすべてのものが幸福になり、愛がなければすべてのものが不幸になるというのです。愛があればすべてのものが和動し、愛がなければすべてのものは索漠とした荒野になるのです。そうでしょう? 問題はここにあるのです。

 ソウルからご父母様が来られれば、ご父母様の話が聞きたくて百里の道も駆けていくことができなければなりません。教区長や教域長、教会長を通して伝達する便りがあれば「私」がまず行かなければならないと言える人にならなければなりません。そうすることのできる心を今後私たち教会員は、生活舞台で備えなければなりません。

 これだけ備えれば、外国の食口たちの前に出たとしても恥ずかしくないでしょう。御飯を食べるのも水を飲むのも、座るのも立つのも、誰かに対するのも、ご父母様の前での幼子のような心情を彼らの前に見せられればそれで満点です。知識や学識が多くて通じるのではありません。それはけんかでも収拾するとき必要なものであり、暮らしていくときに博士の学位をもって生きますか。神様の前に「私は誰それ博士です」。そうして生きますか。事実それは必要ありません。

 それゆえ、神様の愛を「私」がどのようにして導き得るでしょうか。たった一つの道は「至誠天に通ず」これ以外にはありません。何を見るにもご父母様を考えなければなりません。(421)

 孝行する人は、自身の生活の中でいいことがあれば父母を先に考えます。いいものも見たのに、自分の夫や妻を先に考えるのは、堕落した世の中ですることです。自分の父母に貴いものを先に買ってあげなくては、自分の妻に買ってあげることができないのです。三十六家庭の中には、このような話を聞いて引っかかる人が多いでしょう。自分の妻に服を着せようとすれば、父母にまず買って着せてあげなければなりません。そうしなければ、妻にも着せられないのです。その妻も、自分の夫が父母にしてあげられなかったにもかかわらず、何の洋装が欲しい何が欲しいと言いながら、「これが気に入っているけど、あなたが私を愛しているなら一つ買ってよ」とは言えません。女性たち、分かりますか。食べるのもそうです。男性たちも同様に、自分が服を買って着ようとすれば、父母にまず買ってあげてから、買い、妻にもしてあげなければならないのです。御飯を食べるときも、父母に侍って食べなければなりません。(422)

 父母に侍りたい懇切なる心をもって毎日のように待ちますが、父母が来れないということをよく知っているので、愛する天の兄弟たち、天の息子・娘たりとも、自分の家に来ることを待ち焦がれながら、朝から夕方までお客様を接待するために準備する人が、天の福を受ける人です。昔、韓国の人士たちの中には、通りすがりの旅人が泊まっていけるように舎廊房(=客間に使う主人の居間)をよく整え、お客様を接待する部屋として使いました。このようなことは、韓国だけがもっていた歴史です。この法度は、天の法度をあらかじめサタン世界の歴史路程で象徴的に見せてくれたものです。

 ところが、皆さんは自分の家に誰か来そうで心配をすることもあるでしょう。皆さんは、お客様が家に来るのを願いますか、来ないのを願いますか。「来るのを願います」。来るのを願うですって? 先生が三カ月ぐらい、毎日のように皆さんの家に行けばどうですか。「ああ、うんざりする」と嫌がるでしょう。そうでないという人は、手を挙げてごらんなさい。手を挙げた人が少ないのを見ると、そうだという人がもっと多いということではないですか。「先生はああだこうだ」と言う話が本当に多いです。そのようなことをすべて知っている先生は、あきれ返るでしょうか、あきれ返らないでしょうか。あきれ返るという言葉がそれで出てくるのです。このように皆さんは、自分の威信も知らず、身の振り方も知らないでいるのです。ですから、このようなことを教育しなければならないというのです。(423)

 天国とは難しい所でなく、神様に侍りお父様に侍り愛を受けて暮らす所です。互いに愛し合う所です。また、父母は兄弟同士互いに愛し合うことを望みます。父母には孝行すると言いながら兄弟同士けんかをするなら、その孝行は役に立たないものとなってしまいます。それゆえ、父母は自分のために尽くすことよりも、兄弟のためにもっと尽くすことを好みます。兄弟を父母以上に愛している人々は、天国の境界線内で永遠に生きることができるのです。兄弟を父母のように愛せない人は、ここから外れるのです。これを私たちは知り、食口同士が一つとならなければなりません。(424)


  7、三位基台を中心とした生活

 今日、わが教会において男性三人、女性三人、このように三位基台をつくりました。なぜこのようにしたのかといえば、今後主に侍るべき私たちにおいては、アダム家庭でのアダム夫婦と彼の三人の息子と三人の嫁の型を代身できるひな型を備えなければならないからです。

 それゆえ、この三人が一つとならなければ、また破壊されるおそれがあるというのです。特に三人の男性が一つとならなければなりません。死のうが生きようが霊的に一つとなり、体で一つとなることができなければなりません。だから、ある時間的な現在圏内の基台ではなく、時間性を超越した主体的な一つの型を備えなければなりません。そうでなければ、再び来られる主の前に立つべき面目がないということを皆さんは知らなければなりません。

 もし、三人が一つとなってみ旨を代身できる原則的な足場をつくるなら、言い換えれば、天が変わるとしても私たちは変わらないという覚悟をもった三位基台になっているなら、天はこのような基台の上でみ旨を成されるでしょう。このような内容を備えるために、皆さんを中心として三位基台を組織しました。(425)

 三兄弟が一つとなれなかったのが堕落でしょう? そうでしょう? 三人が一つになれなかったのが堕落なので、復帰の原則に従って三兄弟が共に生活をして一つとなれなければ、天国は絶対に成すことができないのです。(426)

 皆さん三位基台に属した三人が、互いに心を合わせられなければだめです。このような人は天国に行けません。統一の理念はここから始まります。三人の心を合わせられなければ、天国に入ることはできません。入門もできず天国の見物もできません。また、三人が一つとなって、これを単位として十二人の心を合わせて一つとなることができなければならないというのです。(427)

 信仰の道は一人では行けません。信仰の同志が必要です。三人以上が一つとならなければなりません。だから、三位基台が必要なのです。人間の性稟の主体であられる神様も、三つの基準を望んでおられます。

 神様は人間が誤っても、直接お教えになることができません。しかし、縦的には教えることができませんが、三人が一つとなれば、一人の人が誤っても二人が誤らなければ、その人の誤りを教えてあげることができます。イエスと聖霊を送った理由がここにあります。

 山での祈祷も三人以上が共にしてこそ、恩恵が早く降ります。祈祷後には自分たち同士互いに論議すべきです。けれども、他人と議論すればサタンが侵犯します。

 三人が心から頼ることのできる美しい姿を備えるようになれば、それを見て周囲の人々がうらやむようになります。そうなれば神様のみ旨は自然に繁殖されるのです。神様が助けてくれなくても、三人が一つとなればそこから新芽が出るようになります。(428)

 この世でも三人が合わさればできないことがないというのです。わが教会は八人の食口が動かなければなりません。いくら大きな迫害を受ける教会でも、指導者とその夫人、そこに三人の男性と三人の女性が合わさった八人の食口が一つとなれば、誰も壊すことができません。これは鉄則です。このような復帰型を各自備えるべき使命があるために、三位基台を組織しました。(429)

 四位基台を備えるためには、横的基盤を中心とした形態を備えなければならないので、社会環境において人と教会と物質、そして家庭が一つとならなければなりません。だから、三位基台を組織したのです。本来、三位基台の使命は、家庭で模範にならなければならず、教会の標本にならなければならず、経済にも責任を負わなければならないのです。この三位基台が完全に一つとならなければならないのです。これがひび割れる日には、将来の天国の理念は台なしになるというのです。皆さんの家庭も三位基台の組織があるでしょう?

 それでは、この三位基台は今からどのようにしなければならないでしょうか。三位基台を中心として、その家庭の中で代表され得る家庭を選ばなければなりません。その家庭は、絶対的な天の家庭として神様が理想とされた家庭であり、先生の家庭を代表した家庭であるので、その家庭の命令に絶対に順応し得る伝統を立てておかなければなりません。そして、三位基台を成した家庭は、教会を指導するにおいてどのような教会の指導者よりも忠誠を尽くさなければなりません。また、物質管理においても、どのような人よりも倹素でなければなりません。ですから、今後体系化された組織を備えた社会制度と経済的な体制を備えることが、私たちの理念が指向する社会なのです。(430)

 今後、代表的な家庭を選定するときが来るでしょう。地区ごとに一家庭を選定するようになれば、その家庭を中心として三位基台を成さなければなりません。永遠に共に暮らしていき得る三位基台を中心として、出ていかなければならないのです。

 そこから地上天国がつくられるのです。それが原理的な世界です。そのような地上天国を成すために、歴史は発展していくのです。共産党が党を絶対視するのも、中心を中心とする面において一理あるのです。党の命令によって死に、党のために存続するのは、一面一理あるというのです。

 皆さんは地方でこのような原則を中心として、その使命と責任を完遂しなければなりません。自分が祝福を受けて、これから後代の前に、天と地の前に中心家庭となるために準備していかなければならないのです。

 これからのこの時代において、神様の前に正常な責任を負うことのできる強固な基盤を、自分の家庭を通して築いておこうという心をもって出ていかなければなりません。そうしてこそ、原理を中心とした生活法度に外れないということを銘記しなければなりません。(431)

 先生は三位基台を編成しました。それは各自を中心としたものではなく、先生を中心とした三位基台です。実のところは、各自の信仰の子女で三位基台をつくるのがいいのです。内的に先生を中心として父子関係になります。そのような意味で三位基台をつくりました。(432)

 祝福家庭は三位基台を編成して暮らさなければなりません。その家庭に息子が生まれれば、四位基台が成されるのです。

 三位基台の家庭の中に息子のいない家庭があれば、その家庭に自分の息子を養子として送ることができなければなりません。しかし、その家庭で息子を生めば、自分の息子を再び引き取ることができます。(433)

 もし、三家庭の中で一家庭でも息子・娘を生めなければ、息子・娘を生んだ家庭が、生めなかった家庭に息子・娘を生んであげなければならないのです。そのようになっています。(434)

 三位基台の三人の中で一人の夫が死ねば、三位基台がその家の暮らしに責任を負わなければなりません。これからは、三つの家の暮らしをひとまとめにするのです。一人で暮らすのではありません。今後、時になれば三つの家の暮らしをひとまとめにするのです。(435)

 先生のみ言を絶対に生命視しなさい。み言に絶対に服従すればいいのです。

 元来、三位基台は三年以上ともに暮らさなければなりません。三位基台は子供を取り換えて暮らしても、同じに感じなければなりません。それを煩わしく思えば、落第生です。三位基台の中で、一家庭の夫が死んでも心配してはなりません。そのようなときは、残りの二家庭がともに責任を負わなければなりません。(436)

 「カインをアベルのように愛しました」とサタンが公認し得る基準を立ててこそ、サタンが離れていきます。

 三位基台の家庭の赤ん坊たちを連れてきて育てるなら、自分の赤ん坊より二倍、三倍精誠を尽くして育てなければなりません。

 三位基台が一つとならないのに、どうして世界を統一できるでしょうか。

 三国が一つとならなければなりません。

 主を愛したよりも、もっとこの世を愛さなければなりません。

 先生は三国家、三時代、三主権の迫害を受けました。

 三位基台は一つの兄弟です。ゆえにこの三人が一つとなれば、先生を代身して行事をすることができます。三位基台を忘却し、自分の家庭を主とすれば滅びます。名前だけ先生を代身するのでなく、責任と心情において先生を代身しなければなりません。

 原則は三位基台中、一家庭が三家庭の生活に責任を負い、二家庭は出ていって伝道しなければならないのです。(437)

 わが統一教会は「食口」という名詞を使います。三位基台を中心として全部兄弟です。分かりますか。皆さんは、今までそのようにしてこれなかったことを悔い改めなければなりません。(438)

 三位基台を中心として生活も共にし、生活感情も同じでなければなりません。三年なら一年ずつ順番に三位基台の責任を負って暮らさなければなりません。だから、天宙主義なのです。家庭天国を成せなければ、天国に入れません。皆さんはあらゆる家庭を救うことのできる救世主のような立場です。

 三人が(子供を)生んだとしても、一人が育てるかのように育てることができなければなりません。そうしてこそ、心情的な統一を期することができます。先生の心情とアダムの心情、そしてイエス様の心情が一致しなければなりません。皆さんもそうできなければ、天国に行って立つことができません。

 自分の息子・娘を中心として三家庭が争ってはなりません。もしそうなら悔い改めなければなりません。一カ所に住みながら、十二方向を動かさなければなりません。(439)

 祝福家庭の三位基台は、一カ月のうち三週間を越えずに、互いに連絡しなければなりません。三位基台を中心として生活しなければなりません。

 一つの節気の間は、三位基台中、一家庭が責任を担います。すなわち、一家庭ずつ回りながら責任者となって、三家庭の生活を主導しなければならず、家を建てるとしても、三家庭が共に暮らせるように建てなければなりません。だから、三位基台はなくてはなりません。(440)

 三位基台を中心として、教会において手本になり得る人、万物復帰において手本になり得る人にならなければなりません。お金に支配されては絶対だめです。お金に支配される民族と国家は滅びるのです。また、自分の家庭と個人の欲心を満たすために国をだませば、その家庭は滅びるのです。(441)

 女性たちは妖邪なところがあるでしょう? その妖邪な女性が、これからは反対に(=いい意味で)妖邪にならなければならないのです。女性は皆、新郎新婦だけで暮らそうとするでしょう? この思想を崩さなくては、世界的な統一の伝統を立てられないのです。分かりますか。皆さんはこれを知らなければならないのです。

 家族が一緒に暮らせないのは、婦人たちのせいです。今日、この滅びるべき世の中……。舅、姑が嫌だという嫁たちは、将来悲惨な姑になるでしょう。そうではないですか。これは互いが悲しみを介在させることゆえに、全部反対にへし折らなければならないのです。

 皆さんは、三位基台の三夫人たち同士で一つとなることができなければだめです。だから今、一つとなるよう訓練させるのです。将来は十二家庭が一つの家で暮らさなければなりません。その次には百二十家庭、あるいは千二百家庭が全部一つの家で暮らすのです。一町内で暮らすとしても、けんかをしてはならないのです。もし、けんかをするようになれば、族長会議を開き、争った人々の尻を打つときが来ます。けんかをしては、とんでもないというのです。将来、そのような時が来るというのです。(442)

 皆さんを全部家庭的に訓練していくのです。将来、家庭的に訓練するアパートが生じるのです。文化住宅、アパートのことです。七家庭以上適合した生活をすることのできる家をつくるのです。だから数カ月ずつ入って、共同生活をしながら、文化生活をすることのできるそのような訓練住宅、アパート訓練所が生じるというのです。分かりますか。

 皆さんは全部その訓練所を経なければなりません。そのアパートで三世帯が一緒に暮らすのです。御飯も共に食べ、勉強も共にするのです。父母を中心として八人家族となってこそ、天国に入るでしょう? 八人家族になれなくて、天国に入ることができますか。

 父母と三位基台を合わせればみんなで何人ですか。八人です。この八人家族が一つとなったという基準に立たなくては、天国に入ることができません。これが原理でしょう? 原理ですか、原理ではないですか。原理なら原理どおり生きなければならないのです。(443)


  8、祝福家庭の共同生活

 統一教会は、神様と悲運の歴史的なすべての聖賢たちを代身して、父母を教えてあげる教会です。今まで父母を教えました。父母がいなければ、神様も必要ないのであり、聖賢も必要ないのです。すべて必要ないのです。父母を完全に探し立てて兄弟の因縁を備え、一つとなることによって新しい家族、新しい家庭の出発が始まるのです。それゆえ、皆さんは三位基台をつくらなければなりません。(444)

 皆さんには必ず信仰の父母がいることでしょう。その信仰の父母に信仰の三人の息子・娘がいるなら、その三兄弟から一つになれというのです。そうできなければ、皆さんはみ旨の前に立てません。皆さんと伝道した人がつくった三位基台兄弟(霊の兄弟)を知っていますか。また、彼らと一つになりましたか。全部偽物たちです。

 皆さんはそのような因縁を結べなかったので、どうしなければならないかといえば、先生の家庭を中心としてそのようにするのです。先生の家庭の、この三兄弟を代身して、代表者として立てたその人々と一つになりなさい。彼らと一つになったなら、自分の家庭の三人の息子・娘よりも、先生の息子・娘を中心としてカイン・アベル的基準で兄弟の因縁を結ぶのです。それもできなかったではないですか。

 自分の体が寒ければ寒いといって服を着ようとし、腹が減れば食べようとしたのであり、いつ先生の家庭の子供たちが飢えているのかどうなのか、考えてみましたか。先生が先生の息子・娘を連れて生活するのを見れば、公式路程なのです。三年の間そのまま侍りなさい。絶対的に侍るのです。夜でも昼でも、死ぬほどそうするのです。

 皆さん、そのように暮らしましたか。全部堕落したサタンのなりで、自分を中心として生活するというのです。それは深刻な問題です。私たちは苦労していますが、「神様が何だ。先生が何だ。本部にいる人々が何だ。地区長が何だ」と言いながら、いいかげんに、自分の気ままに遊んで食べる連中のように行き来していいのですか。まさか、そのような連中がここにいるのではないでしょう?

 すべてのことを原則に符合させなければなりません。原則的基盤に符号させ、出発しなければなりません。兄弟同士愛し合おうとすれば、そのような基盤がなければならないのです。食口というのは兄弟です。イエス様はこの地上に生まれて、父母の愛を受けられませんでした。兄弟の愛も受けられませんでした。親戚の愛も受けられませんでした。

 皆さんには食口がいるので、兄弟同士、愛を授け受けることができ、互いが為に与えることのできる人とならなければなりません。そのような模範食口にならなければなりません。統一教会なら、教会食口全体が敬うことのできる男性、女性とならなければなりません。皆さん、そのような男性と女性になりましたか。言う必要もないでしょう。ありとあらゆる人々が皆集まりましたが、その中で食口という名前を売り飛ばした人がいないかというのです。そのような者が祝福を受ければ、家庭という名前を売り飛ばさないかというのです。祝福を受けたといって、のらくらする浮浪者もたくさんいます。このようなつまらない家庭、清算するしかない留意家庭などをつくるために、私が今まで苦労したのではありません。(445)

 家庭は全体を代身した最小単位です。この誤りは全体の誤りとして連結されるので、個人の誤りは受け入れられますが、家庭の誤りは受け入れることができません。個体の喜びを全体の喜びとなるようにしようという心情が充満しなければなりません。

 個人的な事情と主観と望みを抜き捨て、全体の事情と主観と望みを立ててこそ、より大きなものに融合することができます。家庭は全体を生かすためのものです。ゆえに、家庭は送電線と同じです。家庭を通じて全体に和していけるようにしなければなりません。ゆえに、三位基台は一つの家で暮らさなければなりません。今は、家庭を再整備すべき時です。(446)

 統一教会では社会から追われ迫害を受けましたが、(社会は)もっとよい友と兄弟を得るようにしてくれました。すなわち、一つの父母の血筋を受けなかった、兄弟でない兄弟を、祝福家庭を通してもたらしてくれました。(447)

 統一教会の親戚は、統一教会の祝福を受けた家庭です。(448)

 十二家庭が一つの型、枠にならなければなりません。互いに疎通し、連絡し、会いたがらなければなりません。(449)

 これからは家庭修練会をしようと思います。また文化生活をするときは、およそ百世帯が入ることのできる土地を買い入れ、アパートを建てて全部が集まって暮らしながら、修練をしなければならないというのです。ただ、いいかげんに暮らしていく姿をそのままとどめていいでしょうか。今から皆さんは、神様が皆さんの家庭に対して望まれる内的外的基準と、皆さんの家庭の生活を一体化させる問題を、深刻に考えなければなりません。(450)

 祝福家庭が鉄壁のように一つとなれば、天のみが主管しうる中心国家として立つことができるのであり、世界はこの運勢の中で新しく動き始めるというのが原理的な観点です。(451)

 「私」でなければお前はありえず、お前でなければ「私」が生きられない。血と肉が因縁づけられた中で、一つの縦的な土台をつくるのが統一の家庭です。ですから、互いが力を尽くして神様の栄光の土台をつくって輝かそうとし、そこに「私」が肥料となり土台になろうと、先を争って立つことのできる生活的な基盤を誇らなければならないのが、統一の理念をもって行く家庭です。(452)


  9、後孫が福を受ける道

 天国は何ですか。通りすがりの乞食たちも入ってきて寝たがり、通りすがりの犬も入ってきたくて門前をうろうろし、飛ぶ鳥たちも来て巣をつくってすみたがり、ふんをするとしても、その家に来てしたがる家庭を築かなければならないというのです。わが統一教会の祝福家庭はそうですか。それでこそ天国なのです。手本にはなれなくとも、村々を回りながらもめごとなどを起こす人となってはなりません。

 そのような天国家庭をつくってこそ栄え、神様も共にいてくださるのです。なぜでしょうか。神様の愛が宿る所には生命をもったすべての存在が集まってくるようになっているからです。また神様の愛が宿る所が、すべての存在の平和な安息所であるからです。

 ここにいる夫人たちは、かわいそうな人が来れば「ああ、わが家の暮らしも難しいのに、なぜ来たのか」と、そうでしょう? 訪ねてきた人が服がなければ、自分の上着を脱いで与え、下着たりとも脱いで与えながらお客様の接待をすることを、義務として感じようとしなければなりません。それでこそ、その後孫たちが重ね着もし、ズボン下もはき、綿入れも着、肌着も着ることができるのです。それでこそ後孫が繁栄するようになるということを皆さんは知らなければならないのです。(453)

 先生の家には、昔から伝わる家訓があります。それは何かといえば、通りすがりのお客様たちを、絶対空腹にして送ってはならないというのです。だから、わが祖父も寒い冬に乞食が来て、「物ごいに来ました。朝飯をもらいに来ました」という声を三言でも聞けば、大変なことになるのです。すぐさま(祖父の)激しい叱責の声が下るのです。そして、自分が食べていたお膳を丸ごと持っていって、食べなさいと言うのです。

 そのように渡して、戻ってこられては祖母を叱りつけるのです。「あなたが乞食になってみろ。寒い冬の日に、人の家の門前に行って御飯をくれということがたやすいか。御飯一杯は何文にもなりはしないが、物ごいをするということがどれほど難しいことか」と言うのを何回も聞きました。

 貧しかったとしても、神様が下さった生命なので、その前に不忠、不孝を残して死ぬことができないから、生命を保存するために、そうしていると考えなければならないというのです。人間の苦衷を人間が思いやらなければ、誰が思いやりますか。

 乞食に御飯を遅く持っていったといって、祖父が激しく叱りつければ、祖母は気に入らなくて「妻が貴いの、通りすがりの乞食が貴いの?」こう言いながら抗議をします。子孫万代を考えれば、乞食が貴いというのです。

 わが祖父もそうしたし、わが父もそうしました。わが文家家門の法度がそのようになっていました。絶対に乞食の口から三言以上言葉が出る前に、ご飯を持っていってあげなければなりませんでした。母があげなければ、父たりともお膳をそのまま持っていって接待をするのです。そうすると、またわが母の性格が男のようで、父とけんかが始まります。

 もし、夫人が訪ねてきた人をよく接待しなかったなら、その責任は家長が取らなければなりません。家長が接待をよくできなければ罰を受けますが、夫人がそうなら、家長が責任をもって直しておけばいいのです。(454)

 かわいそうな人に会えばお金一文を与えながら、「若い人が何たることだ」と言ってはなりません。「少ない一文ですが、これで千倍万倍福を受けてください」。このような言葉はいくらでも言っていいのです。近所に食べられないかわいそうな人がいたら、お米一升たりとも買ってあげるために、夜を明かしながら縄でもなって草履を作り、それを売ってでも同情するという精誠を尽くすなら、後代の子孫たちは万代に誇り得る祝福の場に立つようになります。近所に貧しい人が赤ん坊を生んで飢えているとき、牛でも売って与えることのできる立場に立たなければなりません。神様の側ではすべて兄弟です。(455)

 先生もそうです。韓国の協会長も、外国の食口たちが来ればよく接待しなければならないのです。外国から食口たちが来たのに知らないふりをし、家に行って足を伸び伸びと伸ばして寝れば、その足が腐るというのです。それを知らなければなりません。いくらご飯がなくて飢えて暮らしても、ご飯一杯が生じれば近所の人々と分け合って食べようとしなければなりません。そうすれば、その近所の人々が福を祈ってくれるのです。飢えれば、誰かが夜中に米のかますをこっそり持ってきておくという出来事が生じるのです。そのようになれば、絶対に滅びないのです。(456)

 天が皆さんを慈しむのと同様に皆さんが天を慈しまなければならず、また先生を知ったなら、先生が皆さんを慈しむように、皆さんが食口を慈しまなければなりません。そのような問題において皆さんは何になったかといえば、泥棒のようになった人がたくさんいます。天のものにも手をつけ、食口たちのものも強奪してしまう一番恐ろしい者となれば、皆さんの後孫は七代も続かず皆殺しになります。

 さあ! 皆さんは世話になる人になりましたか、世話をする人になりましたか。もし、世話になる人にとどまっているのなら、発展しなければなりません。なぜなら、そうしてこそ天が協助するからです。(457)


  10、死ぬときも四位基台を備えなければならない

 皆さんが死ぬときに、誰をつかんで死ぬのかということが問題です。創造理想は何ですか。創造目的は何だというのですか。人間を中心としていえば、四位基台を完成することです。創造理想には死ぬ法度があるでしょうか、ないでしょうか。死ぬ法度があれば、その第一法度は何であり、第二法度は何であり、第三法度は何なのか、考えてみましたか。死ぬとき一番近くで見守ってくれる人は誰でしょうか。死ぬとき一番因縁の近い人は誰ですか。死ぬときそばで涙を流しながら泣いてくれる人は誰でしょうか。「子女たちです」。そのほかには誰がいますか。「配偶者です」。そのほかには誰がいますか。「父母がいます」。それでは、彼らが流す涙の中で誰の涙の度数が一番高いでしょうか。「父母が流す涙です」。涙は相対的です。ここには縦横の涙があるのです。誰の涙が一番てっぺんから落ちるかといえば、父母の涙なのです。

 それなら、皆さんは死ぬとき何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱き寄せて死にますか。「しっかり抱き寄せて死にます」。愛の中でも、誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。その次に夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬのも四位基台原則に符合しなければならないのです。(458)

 人々が死ぬときにまず誰を呼びますか。神様を呼びます。最高に難しい立場で神様を求めるのは、その個人においては最高の真実です。死ぬ時、心から神様を呼んで死ぬ者には、許しを受ける道が開かれます。なぜそうなのでしょうか。死の道理がそのようになっているからです。その原則に近い立場で、その原則だけをつかんで死ぬならば、蘇生することのできる道が開くのです。

 それゆえ、すべての人々が死ぬ場に行っては「ああ神様!」と、神様を求めるのです。これは教訓の中でも真実なる教訓です。人が死ぬときは、それでも正しい言葉を語って死ぬのが普通でしょう? そのようなことを見るとき、誰が教えたのか知りませんが、よく教えたというのです。それは正しい言葉の中でも最も正しい言葉です。

 それゆえ死ぬときには、父母にまず侍っておいてから自分の夫や妻を求めてこそ、天道が立つのです。また、自分の妻が夫を呼んだのちに子女たちを呼んで遺言をしなければならず、自分の夫や妻は来ることができないようにし、子女たちだけ来させてはなりません。サタン世界では、今まで妻より子供が先でした。それは人間が堕落するとき、エバが失敗した張本人であるためにそうなのです。けれども、復帰された世界では父母に侍っておき、自分の配偶者を呼んだのちに子供を呼ばなければなりません。それが理想的です。

 ですから、死ぬときも四位基台を備えなければなりません。四位基台を備えられずに死ぬ人は、死の道も正しく行くことができません。それゆえ、死んだのちにも霊魂が行ったり来たりするのです。

 それでは、このような原則を知っている皆さんは、死ぬとき誰をつかんで死にますか。「神様です」。その次には? 「真の父母です」。生まれるときもその方を通して生まれ、死ぬときもその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に生きるのです。その方を通して現れ、その方を通して結末をつけるのです。全部この原則のもとに生きていくのが孝の道理であり、忠の道理なのです。このような孝と忠の道理を尽くした人が、人生航路においてなすべき責任を果たして逝く人だという結論が出てくるのです。人生は、このように暮らさなければならないのです。(459)

 今、皆さんが考えるべきことは、将来皆さんの子供にどのような遺言をするのかということです。どのような遺言をするつもりですか。父母がしないで子供にしなさいと言うことができますか。そのような父母は、子供を利用してしまおうという父母です。ですから、皆さんがまず実践してから、死ぬ前に息子・娘に「私はこのように恥ずかしくない生き方をしてきたので、お前たちもこのように生きなさい!」と遺言をすれば、その遺言は神様が永遠に守ってくれるのです。皆さんは死ぬときに、後孫たちにそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。(460)

 皆さんの家庭において夫婦が遺物を残すなら、子女教育や物質的な財産ではなく、家庭が一つとなって、国と世界のためのその何かを残さなければなりません。(461)

 将来、子供たちに墓を踏まれないようにしてください。「そんなやつが祖先か」と言いながら讒訴します。アダムとエバの墓があったなら、私がまず掘ってしまうことでしょう。(462)

 皆さんは、これから成長する子供たちの前に何を残すつもりですか。「私は民族のために、世界のために生きたことしか残してあげるものがない」と言うとき、これが最も偉大な遺業です。物質や学者博士の看板が問題ではありません。「世界のために生きなさい」、そのような遺言を子供に残さなければなりません。「お前は大韓民国で生まれたが大韓民国の人ではない。お前は世界人であるので、世界のために生きなければならない。それだけでなく、天と地のために生きなければならない」と言わなければなりません。これは天宙主義です。このようなとてつもない理念をもっており、また、聞いて分かったという人がつまらない者になってはなりません。(463)

 将来、皆さんが家庭に残すべき遺物があるとするなら、世界のための骨董品を残さなければなりません。金相哲(三十六家庭)も、神学校で学長を長く務めましたが、世界のための骨董品を残さなければならないのであって、学校のための骨董品を残してはなりません。

 歴史の遺物をどう残さなければならないかを知らなければなりません。学校の博物館には、世界のための功績が盛られた遺物を持ってきて置かなければなりません。皆さんの家庭において夫婦が遺物を残すなら、子女教育や物質的な財産ではなく、家庭が一つとなって、国と世界のための何かを残そうとしなければなりません。

 財産というものは、自分を中心として生きているものの中にあるのではありません。それより高い次元で受けたものだけが財宝になると思います。(464)













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