祝福家庭と理想天国
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第四節 真なる父母と子女

  1、真なる父母と子女

 父母は子供のために存在するようになっています。もし、父母のために父母がいるとすれば、父母という言葉は出てきません。これからは我が統一教会の原理を中心として倫理観が形成されるのです。父母はどう存在しなければならないのでしょうか。子供を生んだ父母は、子供のために存在しなければならないのです。それが倫理の第一条です。それは説明の必要がありません。息子のために存在しようという立場は、不幸な立場ではなく幸福な立場です。(465)

 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰りたいと願うからです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じ悟るようになるのです。これは本然の発露なのです。子供をもてない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛まで悟ることができないため、その人がもっている愛はいつも不完全なものとなるでしょう。(466)

 父母は、自分が最も好きなものをまず与えたがるのです。最もいいものを与えたいのに与えられないのは、管理ができないからです。それを与えれば、もらった者が害を被るというのです。刃が研ぎ澄まされて、よく切れる刀を与えたくとも、与え損なっては、その人自体が滅び、その家族が滅び、全体が滅びるのです。それゆえ与えないのです。父母の心は、いつも最高のものを与えたがるのです。皆さんは父母のこのような立場を知り、見習って、父母が伝道に行きなさいと言う前に、本人が悟って出掛けたがる立場に立たなければなりません。(467)

 自分の子供に間違ったことを教える父母はいません。しかし、師は弟子に間違ったことを教えることもできます。怨讐の立場にある師であれば、滅ぼすように教えることもできるというのです。師には二種類あり得ます。兄弟にも二種類あり得ます。けれども、父母はただ一つです。いくら悪い父母だとしても、子供には正しく教えてくれるのです。(468)

 お母さんとお父さんが子供に勉強させるときに、「坊や、我が家はこんなに貧しいので、お前は母さんと父さんの運勢を変えるために勉強しなさい」と言う父母と、「お前が勉強するときは、母さんと父さんのことは考えずに、お前の兄弟と家庭のためにしなさい」と言う父母がいるとするなら、どちらの父母が善なる父母ですか。そして、「お前の家庭は考えずに、国のために生命を捧げて闘うために勉強しなければならない」と言う父母がいるとき、家庭のために忠誠を尽くしなさいと言う父母と、国のために忠誠を尽くしなさいと言う父母と、どちらが善なる父母ですか。「国のために忠誠を尽くしなさいと言う父母です」。それは間違いないでしょう?

 それでは、「お前は世界のために生命を捧げ尽くし、人間たちが果たせなかった聖人の道理を果たしなさい」と教え勧告する父母がいるとすれば、その父母と、国のために忠臣となりなさいという道理を教えてくれる父母のうち、どの父母がより善ですか。「世界のために生きなさいと言う父母です」。世界のために犠牲になりなさいと教えてくれる父母が、より善なる父母だというのです。これを皆さんは知らなければなりません。統一教会はこの観念がしっかりと備えられています。(469)

 皆さん自身は誰のものですか。父母のものであるとともに息子のものです。そうなれば、父母は誰のものですか。父母は子供のものであると同時に神様のものです。

 それゆえ皆さん自体は、まず神様のものとなり子女のものとなったのちに、皆さん自身のものとなるのです。そうなる時、初めて完成するのです。それゆえ、父母を敬うその法度が地上に残っており、人間生活に残っているのです。ここから父母を敬い、子供を愛せよという言葉が出てきたのです。

 父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子供を愛してごらんなさい。そうしてこそ「私」という人が四方をわきまえようとし、上も下もわきまえようとするのです。(470)

 皆さんは父母によって生まれました。それゆえ、生まれてから話すことのできる対象は誰でしょうか。父母です。そうではないですか。自分が生まれて一番先に話すことのできた人は誰でしょうか。お父さんとお母さんです。それ以外に誰がいるでしょうか。自分が呼ぶお父さんとお母さんは、昔、人間が本然の立場で呼んだお父さんとお母さんです。面白いことです。皆さん、お父さんとお母さんを千遍、万遍呼んでごらんなさい。お父さんとお母さんの味がどのようなものかを探ってごらんなさい。その味は無窮無尽でしょう。お父さんとお母さんを呼ぶのに、そのお父さん、お母さんが答えないでしょうか。呼べば答えるようになっています。なぜなら、主体と対象がそのようになっているからです。(471)

 新郎がいいか、息子・娘がいいかと言うとき、新郎よりは息子・娘がいいのです。夫婦は別れることもできますが、息子・娘とは別れることができません。族譜から取り除いたとしても、血筋を受け継いだため、別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れてしまうこともできますが、息子・娘は時間がたてばたつほど、一層懐かしく会いたくなるのです。このような事実は、子供をもってみた人なら誰でもよく知っているでしょう。サタン世界で生きている父母たちも、それだけは否定できないでしょう。それゆえ、神様も息子・娘を好まれるのです。(472)

 統一教会の人々は、結婚をしても新郎新婦に会うのではなく、お父様を中心として三位基台を成すのです。新郎新婦の関係より、父母と子供の関係を一層重要視します。式をしたあとにも、新郎新婦はけんかを一回すれば別れることもできるでしょうが、お父様と息子・娘は絶対に別れられないのです。

 それでは、そのお父様が息子・娘にうまく出会ったのですか、息子・娘がお父様にうまく出会ったのですか。どちらですか。その息子・娘がお父様にうまく出会ったのです。このように息子・娘はお父様にうまく出会ったのに、それが大ばか者なら、息子・娘を見て喜ぶべきそのお父様はどれほどかわいそうでしょうか。

 神様が六千年の間失っていた息子・娘を捜し出したというのに、六千年の間この上もなく苦労して捜し出したその息子・娘がこの姿、このありさまだとは、神様の心情はいかばかりでしょうか。六千年の間苦労のつえを突いて捜してこられた神様が「むしろ、捜さなければよかったものを……」と言ってお嘆きになる「私」の姿となっていなかったかと考えるとき、皆さんは自信がありますか。(473)

 祝福家庭の皆さんは死ぬ前に、そして子供を生む前に、家庭的伝統を立てなければなりません。これは、子供を生んでから精誠を尽くそうとするのではなく、生む前から精誠を尽くしなさいということです。子女たちが、我が父母はある面でだけは「他のどんな父母よりも勝っている」と言うことができなければなりません。外的な面で不足すればするほど、ある独特な面での権威をもたなければなりません。

 子女たちが「天下に我が父母しかいない」と言うことができなければなりません。

 世界の人々が模範家庭を探して韓国を訪問するでしょう。その時に、見せてあげるものがあり、語る言葉がなければなりません。(474)

 皆さんは真の父母という言葉を使いますが、真の父母という名称は、息子・娘を愛してこそ可能なのです。苦労する時も、子供を愛する時も同じことです。霊界に行っている人々が「あのような父母はいない」と称賛しなければなりません。真なる父母は、とどのつまりは自分の息子・娘を苦労させてでも人類を愛さなければなりません。そうすれば、歴史的な主人になるというのです。皆さんの子供は神様の息子・娘、この宇宙の子女とならなければなりません。そうして、神様の愛の相続権をもたなければなりません。そうしてこそ、神様の苦痛を解いてあげることができるのです。(475)

 お父さんはどのようにならなければならないでしょうか。友の中の友とならなければならないのです。お父さんが現れれば、友を捨ててお父さんに飛びつかなければならないのです。そして、師の中の師とならなければならないのです。その次には、心情において中心とならなければならないのです。

 それゆえ、できるなら「私たちのお父さんは大統領よりも勝っている。一番です。神様の次だ」、このように考えなければなりません。「どんな友達とも取り換えられない私たちのお父さんだ。どんな師をくれても、取り換えられない私たちのお父さんだ。私は愛する妻を捨てるとしても、お父さんは捨てられない」。このようにならなければなりません。

 今、私たちの譽進を見れば、自分のお母さんほど大きくなったのです。今までどんなに遅く帰ってきても、部屋に訪ねていってキスしてあげたのです。できるならば、子供たちに対してそうします。物心がつくときまで、あるいは眠れないとき、お父さんが来て自分をこのようになでてくれれば、何かを感じることでしょう。そのような何かが必要です。このような生涯の伝統をつくらなければなりません。

 それゆえ、「この世の大統領なんか問題でなく、うちのお父さんが最高だ」、このようにならなければなりません。「先生なんか問題でなく、友達なんか問題ではない」、これでこそいいのです。(476)

 先生はどこかへ行って家に帰ってきたら、必ず眠っている子供たちの顔をなでてあげます。父母の役割を果たすのは易しいことではありません。そのようにして「うちのお父さんが私を愛するように、私も息子・娘を愛さなければならない」ということを、自動的に植え付けてあげるようにします。また、「うちのお父さんが世界で一番だ」ということを知らせなければなりません。(477)

 お父さんやお母さんがどこかに行って、いないとき、その子供たちが父母を慕いながら歌を歌うようでなければなりません。(478)

 幼い子供が外から帰ってきたとき、お兄さんやお姉さんがうれしそうに話しかけ笑ってあげても、もしお母さんがいないなら、その子供は「家に誰もいないの?」と尋ねます。実際には楽しく親しいお兄さんやお姉さんがいてもです。それはお母さんがいないからです。つまり、お母さんが愛の主体者だからです。愛の中心、中心軸がそこにあるので、みんな満たされて無心に行動することができるのです。(479)

 ここにいる中年以上の皆さんに「昔、若かった時に自分の相対を求めるに当たって、自分より劣った人を求めたかったですか、それとも自分より優れた人を求めたかったですか」と尋ねるなら、答えはその誰もが同一のはずです。劣った人ではなく、優れた人です。それは、東西の誰に尋ねても、そのような結論が下されるでしょう。さらには、愛する父母が子供に対するときは、その子供が父母である自分よりも劣ることを望む父母はいないのです。

 ある美男・美女が結婚をして、初めて赤ん坊を生んだのに、その赤ん坊の顔が父母の顔に比べればこれは何でもない、なるままになった顔だったとしても、その父母に対して「あなたの赤ん坊はあなたよりも出来がいい」と称賛すれば称賛するほど、その父母は気分がとても良くなるのです。それは間違いありません。(480)

 人は誰でも立派な息子をもちたがります。それでは、立派な人に育てるためには、どのように教育しなければならないでしょうか。ある人々は幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、そこで教育すればいいと言うかもしれません。しかし、教育は一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せるとき、すなわちその代身者として立てるときには、父母の心と一致させるようにして、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。(481)

 父母は子供が自分より勝るとき、幸福を感じます。それゆえ、女性として生まれて、自分よりも劣った息子・娘を生むことになれば、天の国に入る体面がなくなります。お母さんとお父さんが自分を愛する以上に、自分の息子・娘を愛することができなければなりません。また、子女もこのような考えをもつとき、自動的に愛の世界が現れ、天国が成ることでしょう。(482)

 父母の愛が永遠に持続するためには、その伝統を継承する誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちをそのような伝統の相続者となるように教育しなければなりません。そして、その伝統をより高い価値に向上させ得る方法が、私たちには必要です。

 各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならず、その伝統を継承するだけでなく、未来に向かって発展させなければなりません。そのような伝統は、いつも自らの子女たちが自分たちよりももっと優れていることを熱望する父母たちのいる、真なる家庭でのみ出発できます。このような熱い望みをもった父母たちは、絶え間なく子女たちに注意を傾け、激励してあげることでしょう。そのような父母たちは、子女たちが彼らよりも立派になり得るその日を待ち焦がれながら、子女たちに可能な限り最善の与件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母たちは、子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするでしょうし、甚だしくは子女たちを父母よりももっと立派にしてあげる方向に喜んで強要したりもするでしょう。

 それに対して、子女の反応はどうあるべきでしょうか。子女はそのような父母に「あなたは独裁者です。だから私はあなたが嫌いです。私は干渉されるのは嫌だから、ただほうっておいてください!」と言うべきでしょうか。そう言うのが子女たちとしての姿勢ですか。でなければ「お父さん、お母さん! 私たちは父母の意志を悟ったので、父母の伝統を大切にし、最善を尽くしてその伝統を相続するだけでなく、それを発展させていきます」と言うべきでしょうか。(483)

 どのような父母も家庭の責任を任せるために、自分の代身者を立てるときは、自分よりも劣る者を立てることを願いません。なぜでしょうか。子供が自分より優れてはいけないと考える父母は、絶対にいないからです。また、国を中心として見るときも、やはり同じです。国の主権者は、自分の理想の代身者が現れることを望む主権者とならなければなりません。家庭においても国家においても、その誰に限らず、自分より立派で、自分よりもさらにあらゆるものを備えている後継者が現れることを望まなければならないのです。これは歴史の変遷を超越して、永遠に近い要求条件です。

 子供が父母より勝ることを望むのは、家庭の要求です。民族も同様です。それにもかかわらず、今までの主権者たちは、そうではなかったというのです。今までは、自分を凌駕し得る人がいるといえば、いつも首を斬りました。そのような悲惨な歴史がつながってきたのです。(484)

 その国が栄えようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。歴史を相続しなければなりません。年取った人を好む人は歴史を相続することができますが、相続するには幼い時から相続しなければならないのです。それゆえ、子供たちは昔話を好みます。幼い子供たちは、木でいえば新芽と同様なので、歴史的なエキスをそっくりそのまま受けなければならないからです。昔を好むことは、そのような意味に通ずるのです。

 鼻水をだらだら流しながら泣いている子供たちに「泣かないなら、昔話をしてあげよう」と言えば、すぐ泣きやんで「して」と言います。それは本当に好きです。お乳を飲む時間以外では、それが一番いいようです。なぜそうでしょうか。歴史を相続して受け継ぐからです。天地の道理がそうなっているからです。(485)


  2、真なる子女の道理

 皆さんは父母の愛に報いなければなりません。父母が子供を育てるときに、父母は食べられなくとも、食べる物があれば自分のひもじいおなかをわしづかみにし、舌をかみつつ飢えを克服していきながら、それを子供に与えます。その愛は父母のために、そのようにすることのできる子供として育てるためのものです。

 父母がまず苦労の路程を行ってこそ、子供が父母を慰労することのできる苦労の路程を行くのです。父母のその苦労が元となるのです。皆さんがまず父母を慈しむことのできるそのような心情をもってこそ、皆さんの息子・娘たちもそうすることができるのであり、そういう息子・娘をもってこそ、善なる血族として残され得るというのです。自分自身だけを主として、父母を知らないとするなら、その人は絶対に孝子となることができないのです。

 それでは、どのような人を孝子というでしょうか。父母が子供のためにしたと同じように、子供が父母にすることができれば、その子供は孝子だと言うことができるのです。それは、天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くして育てたにもかかわらず、その子供があずかりしらないと言うなら、その家庭は滅びるのです。授け受けする道理において、相対的基準が造成されてこそ返ってくるのであり、またそのようになって初めて、神様がその場に臨在なさることができ、天国を成していくことができるのです。

 それでは、天国に残され得る子供はどのような子供でしょうか。父母の愛情によって負った負債は自ら返さなければなりません。父母が年取ってもうろくしたときは、自分が幼かったときに大便を漏らし小便を漏らしたのをふいてくれたその父母の心ですべてのことに耐え、困難を感じないで父母に侍ってこそ孝子となるのです。分かりますか。(486)

 父母を知ったなら、その父母の前に何をしなければなりませんか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければなりません。また、その父母を中心としてその国の忠臣とならなければなりません。その父母が国を率い、世界を率いてきたからです。忠臣となる前に孝子とならなければならず、孝子となる前に真の兄弟をおいて誇ることのできる食口とならなければなりません。食口は兄弟の間に讃揚することのできる圏を表した名前です。そうではないですか。

 それでは、孝子とはどのようにするのでしょうか。昔、男性と女性が結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した以上の孝行をしなければなりません。嫁ぎ娶る前には、真の孝子孝女となれません。真の孝子孝女には、結婚してこそなれるのです。嫁ぎ娶って夫婦となって、その父母の前に、夫の誠心に妻の誠心をプラスさせ、二人で父母を敬う誠心の土台を備えてこそ、真なる孝道圏が成立するのです。

 忠臣も一人でなるのではありません。統一教会でいう忠臣は、一人でなることができないのです。家庭を築いた夫婦だけが忠臣となることができます。それゆえ、皆さんが忠臣という立て札を立てるためには、孝子を生まければなりません。(487)

 子供が父母から「上手だ(=ほめ言葉)」と言われたとして、その基準を中心として行動し世渡りするのは愚かなことだというのです。父母が上手だと言うのは、父母が望む愛の圏内に子供を接近させるための、一つの方便として利用するのです。(488)

 父母がやれと命令をしてやるのではなく、自分の意志によってやり、父母の心を知って、その理想までも責任を果たそうと志願することのできる子供が現れなければなりません。そうして初めて、全人類のお父様として復帰摂理全体に責任を負った神様の秘密を相続させ得る基盤が、地上に立てられるようになるのです。(489)

 サタンは自分の誤りには気づかず、他人の誤りにだけ気づきます。しかし、神様は自分が誤れば、口を開くことができない方です。ですから、皆さんも家で何か問題があれば「ああ、私が間違っていました」と言いなさい。父母に食ってかかったり、ブレーキを掛けてはなりません。自分を主管しなければなりません。そうすればするほど、神様は共にいてくださるでしょう。(490)

 子供が父母に負債を負うまいと努力するようになるとき、父母もやりがいを感じます。(491)

 自分のお母さんとお父さんに世話になってはなりません。(492)

 皆さん! 父母は子供のために生命までくれました。子供も父母のために生命まで捧げなければなりません。生命は愛から生じたので、本質的な愛の前に生命線を犠牲として行くのが理論的な結論です。矛盾した理論ではないというのです。(493)

 愛の伝統の中で育った子女たちが、自分たちの父母が離婚を願うとき、それに対して無関心でいることができるでしょうか。絶対にそうできません。

 子女たちは皆、「私は父母の子女です。私は父母の結合体です。私のために父母はどんな妥協でもしなければならず、私にとって立派な父母となってくださらなければなりません。私には父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者たちに、父母とは彼らの子女たちのために離婚する権利がないと、父母の責任を教え悟らせてあげなければなりません。

 父母は子女に対する愛ゆえに、離婚を考える権利すらないのです。若い皆さんが、この国で離婚反対運動を展開しなければなりません。(494)

 統一教会の皆さんには、離婚した父母たちを再び捜し出す仕事をしようという話も成り立ちます。神様の愛を中心として、皆さんのお母さんとお父さんを捜し出さなければなりません。(495)


  3、伝統を相続してあげる父母となろう

 人は伝統の中で暮らすようになります。イギリスにある伝統が立てられたなら、国民たちはその伝統の中で相互関係を結びながら暮らすようになります。その中で愛したりもし、喜んだりもします。ところで、そのような伝統が立てられる普遍的な場は、死と生が交差する所です。言い換えれば、受難の場、苦痛の場で伝統が立てられるというのです。具体的に言えば、一国の伝統は、滅びるか栄えるかの場で、滅びずに残されるようになるとき立てられます。

 伝統は困難な場で立てられますが、個人のための困難な場ではなく、全体のための困難な場です。

 子供たちが父母の所有を相続するときも、同じことです。父母の精神的な遺産と物質的な財産を相続するためには、父母の苦労を理解し、父母の苦労よりも苦しいという場を克服できるとき、真なる相続者となることでしょう。真の相続者は、父母の相続物を消耗させる人でなく、全体のためにうまく活用しようとする人です。これは至極当然な事実です。(496)

 真なる父母は、愛の伝統を継承させようと心を砕くことでしょう。それは東洋人であれ西洋人であれ、関係ありません。種族を超越してすべての父母たちが立てようとするのが、まさに普遍的な愛の伝統です。人は誰でも自らの家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。

 東洋、西洋にかかわらず、すべての人々はそのような人生を渇望します。このような場合に、伝統は本質なのです。なぜなら、伝統だけが未来と連結されているからです。伝統の重要性さえ悟るとするなら、どのような犠牲を払ってでも、その子供たちに伝統を継承させてあげたいのが、全く当然な父母の道理なのです。(497)

 父母が、今後育っていく息子・娘に、父母の思想をどのように伝統的に植え付けてあげるか、これが問題です。神様には、復帰摂理のために六千年の間ご苦労されながら、サタン世界から御自身の子女たちをどのように選び出すかということが問題となるのと同様に、皆さんには、サタン世界でどのように息子・娘を教育するかということが問題です。このような二重の十字架を、皆さんは甘受しなければなりません。(498)

 先生が心配するのは、どうすれば統一教会の名を後世に残せるかということではなく、どうすれば先生の伝統を受け継ぐ人々を後世に残せるかということです。それゆえ、今まで伝統を重要視せよという教育をしてきているのです。(499)

 未来を豊かに暮らすとはどういうことでしょうか。「私」が豊かに暮らすことが問題ではありません。後孫を教育しなければなりません。後孫の前に手本を残さなければなりません。今まで、統一教会を指導する私自身もそうですが、皆さんも荒野路程を歩み、避難民として落ち着くことができませんでした。今から私たちは定着しなければならず、定着しようとすれば闘って勝たなければなりません。カナン七族を滅ぼしたように、闘って勝たなければ定着はできません。この民族を中心とした闘いで勝たなければなりません。(500)

 のちに、皆さんの子女たちが、「お母さんはその時に何をしたの? 伝道したの、逃げ回ったの?」と尋ねるとき、誇れるか、恥ずかしがるかをいつも考えなさい。学校が休みの時(=夏休みなど)、子女たちに皆さんの昔の伝道地を訪ねさせるのも、子女たちに教育となります。スクラップ・ブックを持って子女たちに教育するとしても、先生の立派な点を教育しなさい。(501)

 今後近い将来、皆さんの子女たちが「母さん父さんはその時何をしたの? 立派なことをしたの?」と尋ねるでしょう。そうすれば皆さんは「一度そこへ行ってみよう」と言って、子女たちを連れて昔の伝道地を訪ね、「あの時、母さんはお前を抱いてここに座り、父さんはあそこに座った。そして、あそこ、あの家で御飯をもらいながらみ旨を伝えたんだよ。だから、(あの家は)こんなに福を受けるようになったんだ。その時、母さんと父さんに反対した家はあんなに暮らし、助けてくれた家はこんなに暮らしているんだよ」と、教訓を与えることができなければなりません。(502)

 子供たちが「うちの父母はいくら難しいことがあっても、それを実行する。時間を超越している。また、環境を超越している。貧困を超越している」と言うことのできる父母とならなければなりません。また、子供たちが父母の命令ならどのような環境でも行動することのできる伝統を、家庭に立てなければなりません。そうして、子供たちが「この道は父母が行った道だから行かなければならない。すべての与件で見るとき、実行できることではないか」と言えなければなりません。また、夫婦が父母のためにすることを、その子供たちにもまねさせなければなりません。そして、後世たちを教育させ得る基準を立てなければなりません。(503)

 み旨のために生きて傷つくことは、のちのちまで自分にとって教育となり、後孫にも立派な教育となります。(504)

 皆さんが精誠を尽くして一文、二文集めたものは、宇宙を与えても取り換えることのできない愛が、そこに宿るのです。そのお金を使う妻が、とんでもないことを考えることはできないというのです。皆さんは、後代の自慢の種とならなければなりません。我が父母が天の心情をもってみ旨のために生きたということを知るようになるとき、刺激を受けないはずがないのです。

 子女たちを教育するとき、お前たちはお母さんお父さんのようにならなければならないと、教育できなければなりません。皆さんが伝道期間中、食べられず貧しくとも、ぼろぼろの服を着たとしても、恥ずかしいことではありません。後代にとって、千金万金を与えても買うことのできない教育資料となるでしょう。(505)

 昔、先生は興南刑務所にいましたが、労働しながら着た服以外は持って出てこようとしませんでした。肥料工場で強制労働するとき着た服なので、塩酸アンモニアが染み付き、ひざが破れて継ぎ、その上をまた継ぐ、継ぎはぎをしてぼろになった服。そのうえ臭いがしてひどいものでした。それは、乞食の服の中でも最たるものです。あかが染みて、扱い損なえば粉々になるのです。

 それは統一教会で歴史的な記念物となるものでした。それを捨てることができず、布団の綿を抜き、その中に巻いておきました。

 北韓から出てくるとき、持ってきた財産といえば、ぼろの包み一つ、それを興南から平壌まで背負って出てきました。そうして、平壌で、ある食口にあなたが持っているすべてのふろしき包みはみんな捨てたとしても、それだけはよく保管しておくようにと言いましたが、持って避難しているうちに失ってしまったというのです。

 それ一つだけ持っていれば、その時の先生を説明する必要がありません。天下を与えても取り換えることのできない貴い宝物を、億千年、口を開いて雄弁に語ったとしても感銘を与えられないかもしれませんが、それだけ持っていれば感銘を与えることのできる、そのような宝物を失ってしまったことを考えると、今も胸が詰まります。同様に、み旨を中心とした公的な生活をする時に経験したことに対して、多くの材料をつくっておかなければなりません。(506)

 苦労は素晴らしいことです。ですから私たちは、千秋万代の後孫が誇ることのできる伝統を立てておかなければなりません。(507)

 今後、皆さんが後代において社会に出て語るとき、教材となり得る骨子のような伝統を立て、何も言わずに教育できなければなりません。そのように考え、この期間がどれほど貴いかを知って精誠を尽くさなければなりません。(508)

 皆さんはどう考えるか知りませんが、我が祝福家庭の息子・娘たちが、三代をどのように先生と共に暮らせるかということが大きな問題です。分かりますか。三代が共に功臣となるなら、天下にない、あの天上世界の功臣となるということを考えてみましたか。

 ですから、自分の息子・娘たちを抱いて出てきて、今から教育し、そのような思想を投じるために精誠を尽くさなければなりません。(509)

 先生の年がもう六十に近づいてきました。私は死んでいきますが、伝統を残さなければなりません。皆さんを、私より熱烈な一生をもって立たせ、闘い前進する勇士にしようというのが先生の考えです。父母が子供に伝統を継がせるためには、そのままほうっておいてはなりません。苦労をさせてでも、伝統を残せるようにするのが父母の責任であり、愛です。それゆえ、苦しくとも、先生は皆さんを犠牲の道に追い立てるのです。(510)

 神様のみ旨の道とは何でしょうか。個人を犠牲にして氏族を救うための道であり、氏族を犠牲にして民族を救うための道です。大韓民国が天の前に立てば、大韓民国を世界の前に祭物にして、世界を救おうとするのがみ旨の道です。世界を犠牲にして、あの天上にいる我が先祖たち、霊人たちまで救うためのものです。霊界と肉界を犠牲にして神様の解放を願うのが、今日、堕落した悲しい歴史であることを私たちは知りました。このような立場で召命を受けたので、私たちは死ぬとしても行かなければなりません。

 行くには、そのまま行ってはなりません。伝統を残して行かなければなりません。何の伝統を残さなければならないでしょうか。血涙を流しながらも、人類を愛するために苦労したという伝統を残さなければなりません。

 その次には何を残すべきでしょうか。後代のための教育をしなければなりません。そうして、いい後孫を残していかなければなりません。それゆえ、皆さんが子供を生むのは、「私」のためでなく、未来の世界のためであるということを知らなければなりません。

 伝統を残さなければならず、その次には善なる立派な後孫を残さなければなりません。小心者の後孫ではなく、自分より強く大胆で立派な後孫を残さなければなりません。そのようになれば、その国は滅びるべき運勢圏にあるとしても滅びないでしょう。滅びるべき立場で新しい圏が立てられるのであり、追われる立場で新しい勝利の旗が付いてきているという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 残すべきその伝統は、大韓民国だけでなく、万民が喜ぶことのできる伝統とならなければならず、善なる後孫をも残さなければならないというのです。これができないとき、天の前にもっていくべき礼物がなくなります。(511)

 夫婦が死ぬとしても、天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにあるのでしょうか。自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために、国のためになければなりません。それが結局は、自分の子供のためになる道なのです。それでこそ、子女たちが神様の運勢と世界の運勢と共にあり、国の運勢とも共にあり得るからです。ですから、祝福を受けて生んだ貴い子女たちが苦労をするとしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなく神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。(512)

 皆さんは一代のために生きる家庭になるのではなく、世界と永遠のために生きる家庭とならなければなりません。また、愛の土台を広げ、万民の心情を集めてろうそくの火をともし、香をたき手を合わせて祈り、天と地、万民と共同の因縁を結んで生きて死のうという家庭とならなければなりません。そのような家庭となれば、どのような患難が近づいても、神様がその家庭を保護してくださることでしょう。天が種子として残しておくというのです。(513)


  4、子女に対する父母の愛

 神様の愛を受けられる立場はどこでしょうか。愛は一つです。ですから、その立場もまた一つしかないのです。愛を受けられる立場があり、愛を受けられる道があるなら皆さんは行きますか、行きませんか。それが何かといえば、父母の前にある子供の立場です。(514)

 父母が子供を愛する愛のその起源的な動機はどこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とした愛は変わる愛なのに、そこから生まれた息子・娘を中心とした愛はなぜ変わらないのでしょうか。これはその男女を中心としてなされた愛ではありません。変わらない愛は、横的な夫婦の因縁によってなされたものではなく、縦的なある流れの起源を通して関係するようになったものであるに違いありません。そのような縦的な主体は誰でしょうか。そのような主体を私たちは神様と言うことができます。

 その愛は、夫婦が勝手にできる愛ではありません。その愛の前に、「私」がしたければし、したくなければしないというような立場に立つことはできません。それは、切ろうとしても切ることができません。横的な因縁をもっては、どうタッチすることもできません。それゆえ、父母が子供を愛するその愛は、永遠不変です。

 今日、民主社会において、個人主義思想が膨脹したこの時、子供たちが語る言葉は新時代と旧時代では次元が違うと言います。子供たちはそのように変わりましたが、その父母の心は、旧時代だとか新時代だとか唱えるとしても、「お前がそうだから、私もそうでしょう」とはなっていません。父母の愛はそうではないというのです。それは動物でもそうです。子を愛するにおいては、自分の生命を凌駕するのです。(515)

 父母の愛がなぜ貴いのでしょうか。これは縦的な愛ですが、縦的な愛で終わるのでなく、横的な愛が宿るように努力するので貴いというのです。父母の愛は、子女が誤りはしないかと、生活を通して子女の道しるべになろうという内容を備えています。

 それは何でしょうか。縦的な愛は必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛もこのような原則によって、神様の愛を中心として縦横に集約され成り立ったものです。このように縦横の要素に責任をもったのが父母の愛なので、自分の貴いものをそのまま子供に与えようとするのです。そのまま受けさせ、縦横に広げようとするのです。愛の本質はそのようなものです。(516)

 お母さんの愛やお父さんの愛は、人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世で大きな位置を占めている人も、自分の子供の前ではどうすることもできません。父母の愛は子供の前において無条件的であり、無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。それゆえ、父母の愛を受けられずに成長した孤児たちは、何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。

 孤児たちは、寝る家があり、食べる物があるとしても、彼らの胸の中にいつも物足りなさと恋しさがありますが、それが何かといえば、父母の愛です。ですから、彼らが孤児院でいくら楽しい時間を過ごしているといっても、それは心から幸福な時間ではないことでしょう。幼い孤児たちが歌を歌い、踊りながら遊ぶ時も、自分の父母を思って恋しがり、眠る時、目を覚ましている時にかかわらず、父母に対する愛を恋しがるのです。それは、すべての人間が愛の懐で成長するようになっているからです。

 何千年か前に生きていた父母が子供に対する愛も、今日の父母が自分の子供に対して注ぐ愛も同じものです。歴史の変遷の中でも変わらないでいるのは父母の愛です。(517)

 何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機として愛され円満に育った人なら、愛がどのようなものであるかということが分かるようになります。お父さんとお母さんを愛しているので、父母の間の愛がどのようなものであるかということを、父母を通して学ぶようになります。それが子供たちには二つとない喜びとなるのです。愛を体恤することは、父母をもった立場でなくては成し得ないことです。

 一人の息子は、父母を通して男性の愛を受けることができ、女性の愛も受けることができます。お父さんは世界的な男性を代表したものであり、お母さんは世界的な女性を代表したものです。単にその時代だけでなく、歴史をおいて見れば、彼らは数多くの歴史的な男性であり、歴史的な女性です。誇りたい女性がいるとすれば、それはお母さんだと言いたいのであり、父親の立場も同様です。そのような立場が父母の立場なのです。

 この世に優れた男性がいるなら、自分のお父さんと比較するようになるのであり、優れた女性がいるなら、そのお母さんと比較するのが子女の立場です。また、子供の立場から父母に対する心も、やはり同様です。愛することのできる心があるというからには、最高の心情を注いで父母に対したがるでしょうし、どのような時でもそのように対してあげるのではないですか。このようなことを考えてみるとき、父子の関係は宇宙の根本であらざるを得ません。

 喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるとすれば、それ以上の悲しみの場がないということを、私たちは結論づけることができるのです。父母に対するその喜びは、世界を代表した喜びとならなければならず、子供に対する喜びは、父母においては世界を代表した欲望を充足させる場であらざるを得ません。他の問題をすべて忘れてしまったとしても、父母として幸福に暮らすために望むことはただ一つ、子供と共に暮らしたいということです。(518)

 私たちが愛というものを中心として見るときに、父母が子供に向ける愛の限界点はどこでしょうか。父母は子供が幼い時にだけ愛してあげようとするのでなく、生涯を通じて、ひいては永遠を通じて愛そうとするのです。愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによって一層価値を感じることのできる父子関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かが、その関係圏内から発生するというのです。そのような因縁が備わっていない父子の関係は、ある一時に必ず中断されてしまうのです。(519)

 皆さんは愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受け、養われ育ってきたことを(私たちはみな)知っています。父母はその子供が年取ろうと若かろうと、いつもその子供を愛するようになっているのです。

 もし、七十歳になる息子がいるとしても、昔自分が育てたその基準をもって、いつも子供を眺めるのが父母の心なのです。年齢は多くなっても心情は少しずつ近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど、息子を慈しむ心が一層広くなることを、私たちはこの世で子供に対する因縁を見るときによく分かるのです。だから、父母のいない人はかわいそうです。ひいては孤児とも言うのです。

 孤児がなぜかわいそうでしょうか。愛を受けようとしても受ける道がないからです。また本当の意味で愛することのできる道をももつことができません。孤児が普通の人と違うのは、生まれながらにして受けるべき父母の愛を受けられず、物心がつくころから父母を思慕し、同情し、欽慕することのできる心情的因縁を感じることができない点です。ですから、愛を中心として受けることができ、与えることができるその道は、父母が最初なのです。(520)

 子供に対する父母の愛は、そのまま生活的な因縁だけを通して生じる愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れることができず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。だから、生命の余力が残っている限り、父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じるとき、父母からは子供を愛する心が自然にわき出てくるのです。あの子は「私」の息子だから愛そうという、意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりもその因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているため、愛すまいとしても愛さずにはいられないというのです。このような事実は、私たちが家庭生活でよく感じていることです。(521)

 ある父母に息子が四人いるとすれば、その父母がその四人の息子に愛の差をつけるでしょうか。長男だからこれくらいの愛を与え、弟たちはそれぞれこれくらいの愛だけ受けなさいと、その差をつけるかというのです。

 お乳を飲ませる時、子供たちに差をつけて飲ませる父母はいません。それは、子供たちに血と肉を供給してあげることです。ですから、すべての子供たちにいちいち供給してあげるようになっています。お母さんは乳飲み子がお乳を吸うのを見て喜びます。子供がお乳を飲みながら、お母さんの首をつかむのも、とても喜びます。お母さんは、子供に自分のお乳を与えながらも喜ぶのです。お乳を与えるといっても、きょうまではいくらで、明日からはいくらだと、お金を請求するお母さんは世の中にいません。

 もう一つ面白いのが何かといえば、そのお母さんの顔に女らしいところが一つもなく、顔も醜いといっても、息子・娘を愛するときは深刻です。お乳を飲む赤ん坊に対して愛するときは、誰よりも深刻だというのです。自分の赤ん坊を愛するにおいて、誰に負けるでしょうか。負けないというのです。(522)

 いくら父母が苦しい立場にいるとしても、愛する子供が「母さん、おっぱいちょうだい!」と言えば、胸元を開けて愛する子供にお乳をくわえさせるのです。事実、子供は父母が苦労するのに、乳首をくわえて吸っているので、盗みをするのと同じですが、その父母は、子供がお乳を飲むのを見るだけでもいいのです。真の愛の圏内に入っているということは、まるで台風圏に入っていて、その台風の影響を受けるのと同じです。(523)

 父母は愛する子供のために骨髄が溶けるほど苦労をするとしても、疲れを知らないのです。なぜでしょうか。愛するからです。自分の血肉を削り与え、その値打ちがいくらなのか帳簿に記録しておきますか。しないでしょう。むしろ、根こそぎ与えることができずにもどかしく思うのです。

 ここのおばさんたちもそうでしょう? 赤ん坊にお乳を飲ませるのに、飲まなければなぜ飲まないかともどかしがります。それは、実際にはホースを持ってきて当て、自分の血と肉を抜いて持っていくことではないですか。考えを変えれば、泥棒の中で最高の泥棒ではないですか。それでもお母さんは、赤ん坊がお乳を飲まなければもどかしがるのです。なぜそれほどにまで好むのでしょうか。愛の法度だからです。(524)

 自分の胸元に吸いついている赤ん坊に父母の愛を感じさせ、また赤ん坊を抱くことによって自分の幸福よりも天地が平和の境地に入っていくのを感じ、全体の雰囲気によいものが芽生えるということを感じるとき、その赤ん坊がいくら吸いついても、さあさあ飲みなさいと言える雅量が生じるのです。それゆえ、父母は子供を無限に愛することができるのです。ある面から見れば、その赤ん坊がホースを当て、血肉を吸ってもっていく怨讐だというのです。しかし、そのように考える人はいないのです。それはなぜかといえば、お母さんとしての新しい望みの刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ん坊によって見いだされる新しいことが多いからです。そのようなときには通ずる何かがあります。その境地は、誰かが思うままにすることができないのです。それはどういうことかというと、絶対的な愛を中心として、神様を慈しみ、全体を慈しむ愛をもって誓う立場は、何よりも強い基準となるというのです。その基準に立たずに、言葉でだけ聞いて、見て、約束するのはいけません。いつでも変わり得るのです。東西南北は異なり、春と秋は異なります。春に植えたものが秋の季節になっても、その生命の因縁をそのまま受け継いで、正常な生命を中心として完全に一致する生命の種として残されるときは、春夏秋冬を包括できる基準をもつことができますが、それが欠如すれば、全部分散されてしまうのです。(525)

 子供をたくさん育てた父母は、何だか知らないけれど愛の心情が広く大きいのを私たちは垣間見ることができます。子供をたくさん育てる人は、悪い怨讐を討つことができないのを、自ら感じることのできる人となるのです。それほど広い土台に立っており、広い法度をもって際立っているのではないでしょうか。最高の愛の主体たる天と「私」が関係を結ぶにおいて、今までの個人と家庭と氏族と民族と国家と世界をすべて飛ばして、「神様と私だけが愛し合おう」このように考えやすいのです。天はそれを望むでしょうか。私一人だけを中心とした、そのような道を望むでしょうか。天が父母なら、その父母は公平な心をもち、主体的な立場で共同的な愛を分配したい心をもっていなければならないのです。そのような心があってこそ、十人なら十人の父母ではないでしょうか。これは当然の話だと言わざるをえません。(526)

 父母は自分の息子・娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子供の多い父母が農村で、あるいは工事現場で骨の折れる仕事をすること、貧しいけれど背負子を担いで草取りをし、畝間あるいは田んぼで草取りをするのは、千年万年、子供の幸福のためなのです。父母の額から流れる苦労の汗水は、自分のためのものではありません。その汗の結実が、子供を愛する心とともに絡み合うようになれば、そこには新しい創造の歴史が始まるのです。いくら畑で草取りをし、現場で背負子を担いでも、その足取りには新しい歴史が宿っているのです。(527)

 父母が子供に「おい、なにがし、苦労したことを少し話そう!」とは言いません。「私がお前のためにこのように涙を流したのだから、お前も一度流してみて……」そうではありません。そのようなことをすべて超越するのです。これを統一化させ、帰一させ得るものは、ただ父母が子供を愛する心、子供が父母を愛する心をもってのみ可能なのです。それは否定できないのです。人間が金力をもって、人力をもってすべてやってみましたが、到達すべき所には及ばなかったというのです。このような凄絶な絶望の壁にぶつかった運命を眺める私たちにおいて、この問題を克服することのできる一つの案あるとすれば何でしょうか。「お前と私と話してみよう」という事由をもってはだめでしょう。(528)

 妻がいて愛したというならば、それだけで終わるのではありません。妻を愛する内容をもっているなら、その愛の内容を、子供がいれば、子供への愛にプラスして愛したい心があるのではないでしょうか。それでは、子供を愛する心があるなら、その心が妻を愛する心よりも低い位置で愛したいでしょうか。そうではないでしょう。愛する子供だから、妻に愛を感じた刺激的な本質を一層加重して、新しい面で子供を慈しみ、愛したいのです。愛するにおいては、過去に妻を愛した真摯な立場より薄らいだりはしません。一層真摯に、深い立場で、より一層価値ある愛の内容を追求しながら愛したいという欲望があるときは、そのような道に行くことを誓うのではないでしょうか。(529)

 この世でも還暦を越えて生んだ息子、すなわち晩年に得た子、七代続けての一人息子が死ぬと考えれば、絶望の中の絶望でしょう。若ければまた生むこともできますが、晩年に得たその七代目の一人息子がうまく育たずに死ぬとするなら、七代圏を継承しようとした先祖たちの心はどれほどでしょうか。

 先祖たちは自分の後孫、自分の血筋を通して世界にない万福を受けたがります。ですから、子供が死ぬなら、その父母は後を追って死にたいでしょう。ところで、アダムは七代目の一人息子どころではない、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムを中心として家庭を築かせ、天地の大業を立てようとされたのに、そのアダムが死んだのです。神様の心はどうだったでしょうか。このように事が失敗したとき、どうだったでしょうか。「私」が結婚したいのに結婚できないときの切なさと比較できるでしょうか。父母は千年万年共に暮らしたいのに、七代目の一人息子が今悪い病気にかかり、命が寸刻を争っているとするなら、その父母の心情はどうでしょうか。皆さんの息子・娘が今、息を引き取ろうとしていると一度想像してごらんなさい。父母は声を張り上げますか、声を張り上げませんか。その父母は、死にゆく子供を生かす方法があるなら、体面と威信をすべて捨ててその方法を使うでしょう。ある怨讐がいて、彼の永遠の僕となるとしても、自分の息子・娘を生かすことができるなら、父母はそのようにするでしょう。それが理解できますか。その子供を生かす方法があるとするなら、父母は威信や体面を考えないのです。(530)

 夫が死の間際にいて再び生き返るなら、その妻は生き返った夫を、前よりも千万倍も貴く思うでしょう。それだけでなく、愛する子女が死んだのに、再び生き返る可能性があるなら、その父母は子女を生かすために自分の死も辞さないでしょう。その父母は、死んだ子供が再び生き返って出会う喜びと、一身が犠牲となる悲痛さを比較して見るとき、自分自身が犠牲となることよりも、子供が生き返る喜びのほうが強いというのです。このような力は、ただ愛が内包された立場でのみ成立するのです。皆さんは、日常生活を通してこのようなことを感じたでしょう。(531)

 今日、私たちの理念を知る人は、息子と嫁が互いに愛し合うのを喜び、讃揚しなければなりません。自分の息子を嫁が好めば、踊りを踊りながら喜ぶべきなのに、なぜ妬み嫉妬するのですか。息子が生まれた日の喜びの中には、息子に対する愛とともに嫁に対する愛もあるというのです。二人がかわいく並んで愛し合うのを見るとき、それを神様の立場でいえば、神様はアダムとエバが互いに好きになるのをごらんになられ、「やあやあ、通行の邪魔になる。どけ!」と言って嫌がられるでしょうか。高速道路上だとしても「いくら交通のじゃまをしてもいい!」と、神様自身がよけていくようになっているのであり、押しのけていくようになってはいないのです。(532)

 全人類が求めていくべき最後の真の愛の定着地、言い換えれば、神様の真の愛の基準点を私たちはどこで探し出すことができるでしょうか。

 新しい「父母の愛」、これがまさに人類が探していくべき最後の愛の定着地であらざるを得ません。「真の父母の愛」これによって人間は、初めて永遠不変で絶対的な真の愛の基準点を探すことができるのです。

 ここから人間的な愛が次元の高い愛に昇華されていくことができ、また天の真の愛と連結され得るものだと私は思います。(533)


  5、子供は父母の愛を受けなければならない

 子供として生まれたなら、父母の愛を百パーセント受けなければなりません。そうでなければ不安が生じるのです。皆さんもそうではないですか。父母が子供を愛するとき、その父母の愛の包みを数字で表示してはいけませんが、父母が一千ほどの愛をもっていながら、子供に九百の愛を与え、百ほどの愛は残しておいたとすれば、いくら愛を受けたとしても子供は愛されなかったように思うのです。九百の愛に、残り百ほどの愛をすべて満たしてあげて、初めて愛を受けたと満足感を感じるというのです。

 皆さんがこれから結婚し、花嫁や新郎となる人が「あなた、私を愛してるの」と尋ねたとき、「九九パーセントだけ愛してやる」と言ってはいけません。「百パーセント愛してる」と言わなければならないのです。それはなぜかといえば、愛だけが全部の因縁を結ぶことができ、愛だけが全体を与えることができ、全体を受けることができるからです。全体を与え、全体を受けてこそ一致するのです。そうなってこそ一つとなるのです。ここで統一ができるとするなら、完全統一ではないかというのです。(534)

 アメリカでは、生まれたばかりの赤ん坊が病院の育児室から出てくれば、家に来て、すぐに他の部屋に移ります。赤ん坊たちは、父母と共に眠ることはあまりありません。だから父母の愛のぬくもりを感じることができません。また、母乳を飲ませることもあまりありません。父母と共に眠らなければ、子供たちは愛玩動物とあまり異なりません。皆さんの子女をそのように扱ってはなりません。

 二、三人の子供たちが父母のもとに来て共に寝るのは美しい光景なのです。それはいいことです。彼らを受け入れなさい。もし場所がなければ、一方の頭はこちらに、ほかの頭は反対にしてお休みなさい。もう少しうまく配置してごらんなさい。子供たちは体の大きな父母の間で眠るのは不便なようですが、気分がいいのです。子供たちは父母の体温を感じなければなりません。(535)

 現代社会で青少年問題が、大韓民国だけでなく世界的に物議を醸し出しています。それでは、彼らがそのようになった動機がどこにあるでしょうか。その動機の八〇パーセント、九〇パーセント以上が情緒的な問題にあります。それはよい父母をもつことができないところから、よい兄弟をもつことができないところから、男女関係で欠如した事情などが原因となって、そのような結果をもたらしたというのです。このような事実をおいて見るとき、このすべての病弊を是正することのできる基準となるものは何でしょうか。これはやはり家庭にあるというのです。(536)

 今日、青少年問題であるとか、すべての社会問題の内容を暴いてみると、その由来が全部そこから始まったのです。そうだといって、彼らに父母がいないのではありません。父母がいるにはいますが、父母の心が息子・娘の心深くにないというのです。言い換えれば、父母の情が子供たちの骨髄に深く刻み込まれていないのです。ですから、そこから父母と子供の間に溝が生じるというのです。(537)

 心に愛をもたずに憎しみをとどめながら成長すれば、大きくなっても事故を起こしやすいのです。気立てが優しく善良な乙女は、嫁に行っても、いい環境をつくることができますが、気難しくて意地の悪い乙女は、嫁に行けば不幸になりやすいのです。私たちはよく、自分の不幸な環境を前にして、なぜ私だけが不公平に生まれたのかと、恨む人をたくさん見かけます。けれども、それは不公平でそうなったのではなく、自分の先祖が誤ったのを償うために蕩減の祭物としてそのように生まれたということを知らなければなりません。


  6、愛のむち

 ヨハネの黙示録を見れば、冷たいか熱いかでなければならず、生ぬるくてはだめだとあります。愛の世界で生ぬるい態度はだめなのです。愛の心をもてば、むちを持ってもいいというのです。子供を育てるとき、愛を与えたのに失ってしまったときは、冷たく対してあげるべきときもあります。皆さんが誤ったとき、しかってあげなければ分別力を失うようになります。先生は優しそうに見えても、一方では恐ろしいということを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし、善に対しては、何千度の溶鉱炉のように熱いのです。(539)

 最近、学校で先生が学生を殴ったという理由で監獄に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもう滅びたな」という思いをもちました。自分から進んで「殴ってでも善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。皆さんが先生に殴られて不平を言いますか。

 「統一教会員になったことだけでも憤懣やるかたないのに、その上殴られる」と不平を言いますか。

 韓国のことわざに「憎い人にはご飯をもう一杯あげ、かわいい人にはむちを取れ」という言葉があります。正しい伝統を継がせるためには仕方がありません。父母の愛のむちを通して痛さを感じ、その愛の前に涙を流すことのできる人とならなければなりません。(540)

 愛のためにはむちまでも貴いのです。愛の中でなされるものは、むちであれ、苦痛であれ、受難の道であれ、全部が貴いのです。愛だといっても、いいことだけいうのではありません。(541)

 世の中でも子供が疲れているといって勉強するなという父母は、本当に子供を愛する父母ではないというのです。むち打ってでも、眠らず勉強しろと言わなければなりません。なぜそうでしょうか。今うまく行かせようというのでなく、将来うまく行かせようというのです。父母は子女の未来に大きな夢をかけてそうするのです。(542)

 自分の子女をより良い道に導くためにたたくことだとか、または友達が悪い所に行こうとするとき殴るのは、善であり、愛です。このようなすべての原則を知って、個人からすべてのことが善なる基準と一致しなければならないのに、まだそうできないことを知らなければなりません。(543)

 子女を生み育てるにおいては、真の愛をもって育てなければなりません。そうして、家庭が一つとなり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だと言います。それゆえ、父母は子供の成長を見守りながら教育をし、正しく成長せよと「愛のむち」を取ることもあります。間違ったという理由で父母にしかられたり打たれたといって、不満をもったり抗議してはなりません。それを教訓としてひそかに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していくべきでしょう。そのような人は正しく成長し、神様がおられるセンターに接近していくことができるでしょう。(544)

 愛をもった父母にむち打たれたり、しかられたとしても、その子供はうれしいのです。(545)

 この前、先生はある人をしかったことがあります。涙を流しましたよ。その人のことが記憶に残っています。次回もしかられて涙を流すかどうか見なければなりません。そのように三回、四回目も涙を流せば、「ああ! 私はその人にはしかれないな」このように考えるでしょう。蕩減条件の道はそのように行くのです。父母が子供をしかりとがめるのは憎しみではありません。深い愛情ゆえにそうするということを皆さんも知っていると信じます。

 愛というものを中心としてむちが行き交ったとしても、たたいてから痛哭する父母に対して、子供が食ってかかって悪口を言うことができますか。だから、調和の両面的価値をもったものが真の愛です。死んでも、また死のうとするのが真の愛です。(546)

 皆さんが家で、あることで妻に大声を出しても、妻は「はい」と答えます。ほかの誰がそのようにするでしょうか。自分の妻だから「はい」と言うのです。もし、隣近所のおばさんを見てしかりつけるなら、明らかに腹を立てるでしょう。ですから、自分が関心をもってその人を好きになれば好きになるほど、深く干渉するようになり、とがめたとしても良心の呵責を受けないのです。そうでしょう?

 人が親しくなればなるほど、賞金を与えるのではなく、「こいつ、なぜそうした」と言って、むしろひどい目に遭わせるようになります。隣近所の青年であれば、しくじっても知らないふりをするでしょうが、自分の子供であれば、「ふくらはぎをまくれ」と言って、たたきながら「こいつ、それは正しいことか、間違いか」と言うようになります。それはたたくよりも、思ってあげるほうが多いからです。しかし、思ってあげる以上にたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも多くたたけば怨讐となります。怨讐の中でも大きな怨讐になるというのです。(548)

 夫が離婚をしてから妻をたたけば、大変なことになるでしょう。そのような人を見ましたか。そのようにしては、刀で刺されます。離婚する前には、妻が夫をぞんざいに扱ったと言いながら夫が妻をたたけば、妻が悪口を言われますが、離婚した後であれば、夫が悪口を言われます。愛するといっても、棒を手にしたことよりも、もっと愛することができない立場でたたいては、全部崩れていきます。けれども、それ以上愛する立場でたたけば大丈夫です。つまり、十ほど愛して五ほどむちでたたけば、五ほどの愛が残っているのでありがたく思うというのです。(549)

 不良のような子供を悔い改めさせるためには、子供が受け入れなくても、昔の愛よりももっと大きな愛をもって愛せば、悔い改めて立ち直ることができます。しかし、子供に対して自分が育ててきた功を誇りながら、とがめれば、三回くらいで、その子供はふろしきをまとめるのです。けれども、その子供に対して骨髄が溶けるほどの涙を流してより大きな愛をもって愛するとき、その子供は立ち直るのです。より大きな愛は小さな愛を全部消化統合させることのできる主動性があるのです。(550)

 昔、6・25動乱が起こったとき、避難する途中で私は次のようなことを多く見ました。お母さんが五歳くらいの子供をおぶって立っていましたが、物心がついていないので、戦争が起こって避難するのも分からず、どこかに行けると鼻唄を歌いながらうれしそうについて出発するのです。ところがおぶっていたお母さんは力がなくなって子供を下ろして歩かせました。すると、子供は「お母さん、嫌、私はおぶってくれなきゃ行かない。おぶって、おぶって」と言うのです。

 このようなときに、子供を愛する父母はどうしなければならないでしょうか。おぶってあげなければなりません。それが正義です。しかし、おぶってあげれば二人とも死ぬのです。それでは、どうしなければならないでしょうか。歩かせなければならないのです。歩かないと言えば脅かし、ほほをたたいてでも行かせなければならないのです。そうして避難所まで行かなければならないのです。

 皆さんがその父母ならどうしますか。捨てて行きますか、殺しますか。でなければ、強制的にでも引っ張って連れていきますか。どのような方法が一番いいでしょうか。捨てることでしょうか。それが嫌ならどうしますか。どのようにしてでも引っ張っていかなければなりません。耳をつかんで切れたとしても、鼻の穴に鎖を通してでも引っ張っていかなければなりません。

 それが本当の愛です。そのようにして無事に連れて到着すれば、自分の友はすべて死んだのに自分だけ助かった、「ああ、お母さんありがとうございます」と言うのです。ところが、耳が裂けたことが美人の顔に傷となって嫁に行けないと不平を言う女性がいるなら、雷に打たれて死ななければなりません。その裂けた耳を見れば見るほど、「お母さんの愛は偉大だったな、父母の愛は恐ろしいな」と、千年万年、自分の父母を尊敬し得る標的とするのです。

 皆さんは「先生が御飯だけ食べれば、私たちを苦労させようとする」と言うでしょう? そうです。私は皆さんに対して情けがありません。仕事をさせるときは情けがありません。しかし、共に暮らすときには情けがあるというのです。

 仕事をさせるときには、無慈悲に鼻に鎖を通してでも引っ張り出さなければなりません。困難で行けないと言えば、むちでたたいてでも追い立てなければならないのです。これは正当な方法です。この話、理解できますか。そこのおじいさん、李ポンウン長老、理解できますか。「はい、理解できます」。白髪の老人もたたいて追いやってでも行くようにしなければなりません。何十年共に暮らしたおばあさんに失礼になってでも行かせなければならないのです。これが私たちがすべき仕事です。

 なぜそうでなければならないのでしょうか。神様の最高の愛を受け得る圏内に入っていくためにです。今まで、どのような宗教者も越えられなかったその基準を越え、どのような団体も尽くせなかった精誠を尽くし、どのような国も備えることのできなかったその国の形態を備えて、神様が今まで愛したくてもある団体を愛することができず、ある国を愛することができず、ある世の中を愛することができなかった、その愛をすっかり独り占めにするためにです。それゆえ、これは正当な教育であり、正当な作戦なのです。これに異議がありますか。そのようにして滅びるなら復讐しなさい。私はそのように生きてきても滅びませんでした。(551)


  7、後孫のために精誠を尽くそう

 神様が求めるその家庭の基準は、皆さん自身の家庭にだけ局限されたものではありません。神様が探し立てた家庭は、世界に行くことができるというのです。国家を代表することができ、世界を代表することができ、天を代表できる家庭をつくるために求めきた歩みが祝福の歩みであるので、天の父母の家庭を通して祝福を受けなければなりません。そして、祝福を受けた後に、精誠を尽くす家庭としての正常な道を行くときに、その息子・娘たちは統一教会の大運をもって生まれるでしょう。

 そのお父さんとお母さんがいくら足らないとしても、彼らの子女たちは天の運勢をもって生まれるというのです。ですから、天の運勢をもって生まれ得る後孫を、どのようにして残しますか。それは父母が精誠を尽くす基準に従って、その内容が決定されるということを知らなければなりません。すなわち、国のために、世界のために、天のためにどれくらい忠誠を尽くし、どれくらい切実に至誠を尽くしたかによって、これから生まれる後孫の運命が左右されるということを知らなければならないのです。(552)

 神様が望む家庭、教会が望む家庭、皆さんが望む家庭、そのような家庭から精誠を尽くして生まれる子孫は、立派に生まれるでしょう。

 父母はこの上ない苦労をしても、天の運と先生の運に従って生まれるでしょう。(553)

 祝福の中で一番いいことは、お金でも名誉でも権力でもなく、息子・娘が立派になることです。祝福の中で一番いいことは、息子・娘が天の愛を受けられるように生まれることです。それが立派に生まれることです。(554)

 三代が自分以上にだんだん発展するようになれば、そこでは天において一世代を飛躍することができるのです。福の中の第一の福は、お金でも権力でもなく、天の愛の中で立派な息子・娘をもつことです。(555)

 父母は自分の後孫のために精誠を尽くさなければならないのです。自分の後孫たちもすべて祝福してあげ、豊かに暮らせるようにしてあげて逝こうと言わなければなりません。そのような家庭は滅びません。そのような団体があるなら、その団体は滅ばないのです。そのような団体を責任もって指導する立場にある人は、明日のより大きなみ旨のために、神様と新しい因縁を結ばなければなりません。そうでなく、自分が一人で責任をもとうと先走って失敗すれば、神様に祈祷もできなくなるのです。祈祷するでしょうか。どのような面目で祈祷しますか。神様の前にこうだと言う祈祷もできないというのです。(556)

 父母の前に孝子なら、子供を生んでその孫を父母に抱かせてあげなければなりません。それなら、どのような息子・娘を生んで抱かせてあげるべきでしょうか。自分のお父さんより、おじいさんをもっと重要視し得る息子・娘を生んで抱かせてあげるべきです。自分よりも福を受けられる息子・娘、天の前により近くなり得る息子・娘が生まれるようにしなければなりません。そうしてこそ復帰摂理が発展するのです。自分より劣った息子・娘が生まれれば滅びるしかないのです。皆さんはこのような内容を注視しなければなりません。(557)

 神様の心情を誘発することのできる一番よい方法は、精誠を尽くすことなので、三代が同じ心をもって精誠を尽くせば、神様が共にいてくださり、その後孫が滅びる道理は一つもありません。(558)

 ある人は「私が統一教会のためにこれくらい働いたのに、先生なぜ私を分かってくれないの?」と言いますが、それは考えるべき問題です。精誠を尽くしてくれば、その人のために祝福してあげるのでなく、後代のために祝福してあげるのです。(559)

 福を無限に受けたいなら、無限に耐えて準備しながら、当代だけでなく数千代を経るとしても福を受けるために耐えることのできる教訓を残していかなければなりません。(560)

 堕落した人間においては、自分の家を建てる前に教会を建てて、それから自分の家を建てなければなりません。それで先生は、自分の家を建てる前に教会の土地を手に入れました。そして、後代のために生きなければならないので、大学の敷地を買っておいたのです。そうだといって、自分がよい生活をするために買っておいたのではありません。今の皆さんのためではありません。(561)

 統一教会を信じて従う後孫たちを愛しているので、学界と政治界、経済界、言論界、思想界にまで関心をもち、投資と経営をしていることを知らなければなりません。(562)

 皆さんは、メイフラワー号がニューイングランドに到着したときのことをよく知っておられます。冬に到着しました。十一月に到着したので、寒くて食糧がなくなり、みんな飢えて死ぬ事態が起こりましたが、彼らが立派だったことが何かといえば、食べるものがないのに、次の年の耕作のためにその種子を残しておき、飢えて死んでいったというのです。そのような事実を皆さんは知っておられます。

 彼らは、未来において神様が自分たちの行くべき道を開いて、自分の民族を通して神様が願う祝福の国と自由天国を成してくださることを願ったので、将来の後孫のためにその種子を残しておかなければならないという心をもち、死の道も喜んで行ったのだと思います。このような苦労の道をたどりながら、後代のために福を祈ることができたのは、その人々にただ神様を愛する信仰心があったから可能だったのです。(563)

 私たちは善の行路を開拓すべき開拓者です。このような開拓者として踏み出した歩みが神聖なので、その過程も神聖でなければならず、その結果も神聖でなければなりません。最後に倒れるとしても一つの種として埋もれ、そこから一つの新しい芽が芽生えるときは、尾根の岩の裂け目に立った木ではなく、沃土で育つ木となり、自分が望んだ結実を自分一代で取り入れられなければ、後孫を通してでも取り入れようという望みをもって生きる人とならなければなりません。このような心をもち、未来の幸福のために闘う人は恐ろしい人です。未来の勝利のために自らを犠牲にしようという群れは恐ろしい群れです。もしそのような民族があるなら、その民族がたとえ少数だといっても、未来の二十一世紀、あるいは三十世紀、五十世紀には、世界を支配するようになるということを、皆さんは知らなければなりません。(564)













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