祝福家庭と理想天国
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第五節 子女教育

  1、家庭教育

 真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくらいいといっても、自分のお母さんお父さんを代身することはできず、また自分の夫や妻、息子・娘を代身することはできません。真理の中の最高の真理は何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは、真理の中心は何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、真理の最高の中心は何でしょうか。人々は、「神様が真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だ」と言いますが、それは何の話ですか。みな同じ言葉です。真理が成立するためには、愛と生命がなくてはならないのです。(565)

 家庭がなければ世界は形成され得ないのです。家庭が誤れば、その国は滅びます。だから、家庭教育はその国が今後福を受けられるかどうかという運命を左右するのです。国のための公的な法理によって暮らしている家庭が多ければ多いほどその国は栄えるのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほどその国は滅ぶのです。(566)

 子女は父母を中心として必ず一つとならなければなりません。カインとアベルのような兄弟間の悲惨な不詳事が消え去るよう、今は、父母に孝行をすることによって、兄弟たちが一つとなることができなければならないのです。そのような立場から、皆さんが手本となり、子女たちを教育しなければなりません。今までは学校教育に依存していましたが、これからは父母が教育をしなければなりません。父母が一つとなって手本を見せてあげることにより、兄弟の間でもその手本に従って相互に伝統を立て、新しい家庭を形成するようになるのです。(567)

 皆さんは、皆さんの息子・娘に何を話してあげるつもりですか。皆さんは公的な生、それも模範的な公的な生を生きることによって、皆さんの息子・娘にそれを見せてあげ、その伝統を受け継ぐことができるように教育しなければならないのです。

 人はもともと、自分の父母から教育を受けるようになっています。学校に行くだけで教育を受けるのではありません。とりわけ伝統を受け継ぐ教育は学校では学べないのです。かえって学校で受ける教育は、お母さんとお父さんの前にすべてもってきて捧げ(=報告し)なければならないというのです。これが何の話か分かりますか。(568)

 人間が育つ成長期間は、どのような期間でしょうか。完全な愛を受けられるようになるための訓練期間です。完全な愛を受けさせるための訓練期間です。それなら、どうしなければならないでしょうか。神様が喜ぶように、神様が行けば(共に)行き、来れば(共に)来る、そのようにしなければなりません。人間アダムとエバには神様しかいなかったなら、アダムとエバは誰と生活をするでしょうか。アダムとエバの子女たちも、父母がするとおり学ぶようになるのです。教育が必要ないのです。

 父母がするとおり、父母が知っているとおりに知っていくようになっています。父母が行動するとおりに従っていくようになっています。父母が喜ぶとおりにするようになっています。そのほかに何かを夢見、何かを行うようになれば、ここには堕落圏が支配するようになるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、神様の取って食べるなという戒めが生じざるを得ないのです。(569)

 子供たちは、すべての存在の価値を父母を通して探します。家庭で育っている子女は誰に似るでしょうか。父母に似ます。その子女たちは誰に従っていくでしょうか。父母に従っていきます。このようになっているのです。(570)

 父母の愛は、自己中心的であってはなりません。息子の行く道が少し危険だといって、行けないようにするなら、その息子は将来意志力も独立心もない無能な息子になってしまうでしょう。無能な息子にするのが決して父母の愛ではないのです。父母なら息子を理解し、息子が行く道が堕落の道でないなら、後援してあげ、激励してあげなければならないのです。(571)

 父母たちが「よし、お前のいいようにしなさい。寝たいなら寝、食べたいなら食べなさい、私はかかわらない」と言うのは、明らかに易しいことです。しかし、真なる父母なら、そのようにはしないでしょう。真なる父母は、子女たちが他の人々を尊敬するように指導してあげたいし、兄弟姉妹同士で争うよりは、より良い生の方式を見せてあげようとするでしょう。子女たちが互いにけんかをするように教える父母がどこにいるでしょうか。(572)

 父母が勉強しなさいといって勉強させるのは、息子・娘のためなので、子供は不平を言いません。父母は子供のために泣きながら祈祷し、胸が痛くて夜も眠れないのです。それが真の父母の心情です。(573)

 家庭で父母たちが童話の本を読んであげ、信仰の心を備えていろいろ面白い話もしてあげ、家庭に対して建設的な面から批判もし、議論もしたりして、子女たちが最も近い友達よりも、自分の父母ともっと近く対せるようにしなければなりません。このようにして、子女たちに信仰を根付かせてあげなければならないのです。(574)

 子供を育てるときは、子供を高めてあげようとしなければなりません。「こいつ、何がどうだこうだ」と言いながら、しょっちゅうしかりつけてはなりません。(575)

 人間の間違った癖や習慣は直すのが困難です。だから、韓国のことわざで「三歳の癖が八十歳まで行く(三つ子の魂百まで)」と言います。ですから、特別に青少年時代に正しい習慣を身につけさせなければならないのです。だから正しい習慣をもたせるために、幼い時から徹底して教育をさせるのです。問題は間違った習慣をもった既成世代をどのようにして正すかということです。ここに大きく、小さく、またはいろいろな形をもった木の彫刻があるというとき、建築に必要な規格品を見本として、のこぎりや刃物、おのなどの道具を利用して合うようにつくることができます。同様に、間違った人間たちの習慣も、愛の秩序を基準として間違った部分を正すことができます。

 れんがが一個だけのときは、ただのれんがですが、そのれんがを建築設計どおり積み上げるなら、ビルや家が造られるのです。人も間違った習慣を直して神様の本然の愛の道と一致させるとき、力が生じ、神様の永遠の愛の軌道で走っていくようになります。ですから、生きている間に必ず間違った習慣を直して、正しい信仰の道を歩まなければなりません。(576)

 皆さんの子女たちが二十歳(=数え年)になる前に、教育と関係を結んで信仰を根付かせてあげなければなりません。言い換えれば、高等学校三年生になるまでに、中学生の時から高等学校の一、二学年の時に根付かせてあげられなければ、その息子・娘は台なしになるのです。それは我が協会で出した統計に現れたものです。十七歳までに家庭や教会において根付かせてあげなければ、その息子・娘たちは社会に流れていってしまうというのです。これは重大な問題です。(577)

 いくら祝福を受けた家庭の子供でも、二十歳になるまでは父母に従っていきます。ゆえに、父母が誤れば子供も誤るようになるのです。(578)

 祝福家庭も、夫が誤ったときには妻がしからなければならず、妻が誤ったときには夫がしからなければならないのです。そうすれば、その家庭は神様の福を受けます。むちを打たれることは、後世を諭すことのできる材料となるのです。このバットがなかったなら、このように間違ったでしょうが、バットの恩徳でうまくいったというときには、むちを打たれて涙を流したその環境が、結局は後世を教育することのできる教本として残されるのです。このような教本を残して死んだ人は偉い人です。(579)

 誤りがあるとき子女を生めばその誤りは遺伝します。(580)

 家法を備えなければなりません。子供の教育基準など、家庭の規範をつくらなければなりません。誤ってから子供たちの追求を受ければ、面目がありません。(581)

 統一教会に来ているおばさんたちは、皆が天の国の法度を知っているはずですから、祝福を受ける娘に、家庭教育をしっかりとしなければなりません。(582)

 自分が生んだ息子・娘は他人に任せてはなりません。父母が体が弱くてほかの人に子供を任せる場合には、子供を自分の長男のように愛してくれる人に任せなければなりません。子供を育てるのは、国と世界のために育てるのだという考えをもたなければなりません。

 先生の子供は精誠を尽くした父母たちが育てなければなりません。(583)


  2、真なる子女教育

 子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が見本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えしないで、父母を敬意し得る立場に立たなければなりません。そうしなくては、子女たちがついていかないのです。

 子女たちが自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするにおいて父母たちが本部で指示する原則を等閑視し、その指示に従って生活しないのに、子女たちにだけ原理原則どおり生活しなさいと言えば、あざ笑うというのです。(584)

 父母になったなら、どのようなことをしても息子・娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。そして、自分自身も正道を行かなければなりません。自分がまず行ってから、子供に教えなければならないのです。子供を教育するためには、自分がまずそうしなければなりません。そうしたのちに子供を教育すべきであり、自分は何もしないで教育しようとするのは、天道と食い違うことです。

 先生が皆さんに話すすべてのことは、先生がまず実践して勝利の基盤を立ててから教えてあげています。信じられなければ祈祷してごらんなさい。うそか事実か、祈祷してみてください。(585)

 祈祷するときには、私がこうするので私の子供もこうするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。自分がまず手本となったのちにこそ、子供をそのような位置に立てることができます。自分がまずそのような位置に立てば、神様は自然にその子供もそのような方向に導いていくのです。ですから、ここで私たちが、私たちを中心としてその方向を変えられなかったなら、霊界に行っても責任追及を受けるようになるでしょう。(586)

 子女たちを教育するとき、お前たちもお母さんやお父さんのようにならなければならないと教育できなければなりません。(587)

 私は今回帰国するとき、孝進と仁進を呼んで、「お父さんとお母さんはお前たちに思う存分会ってあげられないが、これは神様のみ旨のため、祖国のためなのだ。だから、お父さんとお母さんがする仕事を、これからはお前たちもしなければならない」と話してあげてきました。父母の立場から見れば、思う存分会ってあげられないのがかわいそうなのです。子供には、父母と共にいたい気持ちがあるのです。

 「私たちのお父さんとお母さんは苦難を押し切りながらも、神様のみ旨と祖国のために生きている」という思想が、子供たちの心にぎっしりと満ちていなければなりません。「(父母は)自分の利益のために、自分が楽するために生きているのではなく、全体のために生きているのだ」という考えを、子供たちがもてるようにしなければなりません。そういう時に、子供たちの見本たる父母となるのです。(588)

 皆さんは子供たちに「お前のお父さんとお母さんがみ旨のために生きるのを、いいことと思わなければならない。お前のお父さんとお母さんは、普通のお父さんとお母さんとは違う。普通の家庭は、少しだけ困難でも争って別れるのがお決まりだが、私たちはこんなに困難でもそうではない。私たちがこのように耐え、互いに愛し合うのをまねて、お前たちも一層神様の前に感謝し、希望をもって暮らしなさい。お父さんお母さんと一つとなり、み旨のために忠誠と精誠を尽くす所に神様の福が臨むのだ」と訓戒してあげられなければなりません。そうすれば、子供たちがまねて、その伝統を受け継ぐでしょう。そうなれば、子孫万代が栄えるようになるでしょう。(589)

 父母はどうしなければならないのでしょうか。お母さんとお父さんが互いに愛し合うのと同じく、兄弟同士愛し合うことができるよう教えると同時に、「私が国を愛するので、お前たちも国をこのように愛しなさい」と教えなければなりません。そのようにさえなれば、ほかの教育は必要ありません。(590)

 子供は父母の心情を学ぶのです。(591)

 自分の子供を教えるときは「お前、立派な人になれ」と言うだけでなく、「立派な人となるためには、このような道を経なければならない!」と言わなければなりません。

 お父さんはお父さんなりに責任を果たし、兄は兄として責任を果たさなければなりません。姉は姉としての責任を果たさなければなりません。言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことのできる、真なるお兄さん、真なる兄弟、真なる夫婦、真なる親族の因縁を維持していこうとする、法度に食い違わない皆さんとなってこそ、順理的な路程を経て、一国の民となり得る道が生じるのではないでしょうか。(592)

 「お父さん」という言葉は恐ろしい言葉です。「真」でなくては子供を養い生かせないのです。子供に血の功績と善なるものを食べさせなければなりません。誤ったものを食べるときには、涙を流しながら指導してあげなければならず、福を祈ってあげなければならないのが父母です。ゆえに父母は子供に世話をかけないのです。

 「私」が使うお金は、天と地が知らなければなりません。(593)

 父母が、生活が厳しくて思う存分に物質的恵沢を子供に与えられなくても、骨の中からにじみ出る愛の心をもって子供を慈しむようになるとき、彼らが父母に負債を負うのです。だから孝子は、かえって貧しい人の家庭から多く出るのです。父母がそのような伝統を残しておいたので、その子供が負債を負うまいと努力し、そのようになるとき、父母も生きがいを感じます。(594)

 今後、皆さんは父母として子供を抱き、天法に従っていかなければなりません。皆さんの生活がいくら苦しく、皆さんがいくら困難に悩まされながら生きるとしても、子供に涙を見せてはいけません。絶対いけません。

 先生は今まで、多くの子供を引き連れなければならないお母さんに、子供の前で涙を見せてはならないと教育しました。父母として子供を育てるときには、苦しくて涙が出る時がたくさんあります。しかし、いくら苦しくて涙が出そうでも、子供がお母さんとお父さんに涙を流しながら訴えるときには、きれいさっぱり苦しかったことをなかったものとして、「よし」と言いながら、過ぎし日に喜んだお母さんとお父さんの姿に戻らなければなりません。そうできなければ、子供を教育する資格がないのです。(595)

 皆さんの家庭で、子供たちに「うちのお母さんとお父さんは世界のどんな王宮の王や王妃よりも立派だ」と思わせなければなりません。また子供たちに、お母さんとお父さんの仲が世に類例のない親しい仲だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。そうして「うちのお母さんとお父さんは世の中の誰よりも誇らしいお母さんとお父さんだ」と言えるよう、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。(596)

 この世の父母たちを見れば、子供たちがその横で「お母さん、お父さん、なぜけんかするの!」と言っているのに、騒ぎを繰り広げます。その時に、涙を見せなかった皆さんの家庭で育った子供たちが、そのような世の中の姿を見て、「やっぱり、うちのお母さんとお父さんは世の中で一番だな! 本当に立派で神聖な人だな」と感じられるように、皆さんは子供に手本を見せなければなりません。子供たちの骨髄から流れ出る心情を通してあこがれることのできる父母の因縁を立て、無言の中で天の家訓、家法を立てていかなければならないというのです。そうすることによって、子供たちも後代において、「うちのお母さんとお父さんのような立場に立とう」と言うのです。

 このような伝統を何によって立てることができるでしょうか。統一思想を通して立てることができます。このようなことを知って、統一思想の前に絶対服従できる家庭的な教訓を今から立てていかなければなりません。子供たちがこれを見るとき、自然に服従するようになるというのです。(597)


  3、真なる愛国教育

 皆さんは、天の国のためにみ旨の前に忠臣となり得る道理を、皆さんの息子・娘に教えてあげなければなりません。大韓民国なら大韓民国のために息子・娘が泣くときには、お前たちは国なき民族である、お前たちが暮らしているこの大韓民国はお前たちの本当の国ではなく、さらに仕えるべき一国があるということを、手をつかみ涙をのんで教えてあげることのできる父母とならなければなりません。懐に抱いた赤ん坊の息遣いを感じるように、天の気遣いを共に感じながら涙を流し得る場で教育しなければならないというのです。そうしてこそ、恨みを残した父母として教育の幅が加わることでしょう。(598)

 皆さんはこのようなことを知らなければなりません。自分の息子・娘を教育するときに、お父さんとお母さんだけを愛する息子・娘になれと教えてはなりません。「私はこの国を愛する忠臣だ。愛国者だ。お母さんとしての愛国者ではなく、愛国者としてのお母さん、忠臣としてのお父さんだ」と教育しなければならないのです。

 孝行を教えるにも、父母が孝行する姿を見せてあげなければなりません。そうできない人は、秋風に散り落ちる木の葉のようになるのです。(599)

 「お父さんが家庭で孝行するように、お前も孝行しなければならないし、お父さんがその国のために追われながらも闘争の歴史を編んできたように、お前も忠臣とならなければならない」と教えなければなりません。私はこれを、皆さんの前にどのようにして残してあげるかということを、今まで一生の目標としてきました。(600)

 皆さんを愛してくれた父母のその愛の心をもって、皆さんが三千万を愛せよというのです。そのようにしてこそ、国を主管することのできる望みの基が広がるのです。それが原則的な指導方法ではないでしょうか。皆さんは三千万の一員ではなく、三千万の父になりなさいというのです。三千万の母と父になり得る、そのような息子・娘になりなさい。(601)

 もし、父母が子供に「私がお前を愛し、お前のために気遣い、お前のために苦労して汗を流すのは、私のことを考えず、この国を一層愛せよという意味からだ」という愛国志士の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受ける子供は、父母が願う愛国志士となるために努力することでしょう。彼は父母の愛を回想するたびに、三千万民族を考えることでしょう。そして、民族を慈しむ立場で勉強をするであろうし、自分の民族の悲惨さにぶつかるときは、自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。しかし、そのような立場に立っただけで、愛国者になるのではありません。そのような立場に立って、築いた土台がなければなりません。それでこそ、それが国民が千年万年欽慕することのできる要因となるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去ります。このような問題を考えるとき、深刻です。(602)

 皆さんの学校に、どのようにしてでも自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために心を砕く師がいるなら、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら皆さんの手をつかみ、涙を流しながらこのように勧告するでしょう。「私のために順応せずに、国に対して順応しなさい。私のためによくやるよりも、国のためによくやってくれるように望む」と。このような教えを受けた弟子たちは、その師が成せなかった志を成すことでしょう。このように師が自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母が自分の価値よりも国家と世界の価値を貴く思いながら子供のために精誠を尽くすなら、その師の弟子とその父母の息子・娘たちは、棟梁之材(一国、一家を支える重大な任務にある人)となるでしょう。(603)

 教授たちはいつ為に生きてみましたか。先生(=教授)たちは弟子たちのために血涙を流し、骨髄からにじみ出る心情をもたなければなりません。未来の世界を、探し立てていくべき本然の世界を忘却したその無知な群れを前におき、涙なくして壇上に立つことができないのです。億万個の細胞が震えるのです。罪悪感と自責の念を感じながら、壇上で涙を流して生徒たちと後代のために講義してみましたか。レバレンド・ムーンは、今まで血を吐き涙がわき出る中でこの仕事をしました。今まで(文先生を)隣近所に名高い首謀者だと思い、滅びるだろうと思ったのに、今では自分の東西南北の四大門をすべて開けておき、(文先生に)「夜だろうと昼だろうと、入ってきて主人になってください」と言います。あなただけいれば、かぎも必要なく、すべてのものが必要ないというのです。そのような所でだけ、天国が再び春を迎えられます。そのような哲学は今までありませんでした。(604)

 どうすることが国を愛することでしょうか。これに対して教育する人がいません。税金を納めるだけで、国を愛し尽くしたと思っています。これだから、国を愛する道をどこで学びますか。それは家庭でなされなければなりません。それでは、父母はどうしなければならないのでしょうか。お母さんとお父さんは互いに愛し合い、兄弟同士互いに愛し合うことができるように教えると同時に、「お前たちを愛するように、私が国を愛するから、お前たちも国をこのように愛せ」と教えなければならないのです。そのようにさえなれば、ほかの教育は必要ありません。そのように生きることが愛国心だということが分かるようになるのです。このような伝統は、アメリカの国務省がなくなり国防省がなくなったとしても残さなければならないのです。

 そのようにさえなれば、大統領が「さあ、我が国民は今一つとなり、怨讐をたたきつぶそう」と言うとき、すべての国民が一つとなり、どのようなことでもできるのです。それゆえ、国に困難なことがあれば、死ぬべき道を行こうとも、忠誠を尽くさなければならないという教育をしなければならないのです。(605)

 アダムが誤ったこの因縁を、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル民族を中心として復帰してきましたが、全部失敗しました。失敗したこれをどのように復帰すべきでしょうか。スカートをはいたおばさんだといって、家のためにだけ生きてはなりません。皆さんが御飯を食べるのも、子供を育てるのも、全部明日の民族のためにするのでなければなりません。(606)

 一国においてどのような人が愛国者でしょうか。よく食べ号令する立場にある人ではありません。末端の立場でぼろの服を着、塩の汁に麦飯を食べ貧しく暮らしながらも、その麦飯の膳を、通りすがりの外国の人々が見そうであれば恐れ、国の威信を考えながら自分の姿を見つかりそうであれば、こっそり隠れるようとする心をもった人が愛国者だというのです。自分の国家の体面と威信を考えずに、ねたみしっとし、行動してはなりません。たとえ自分がそのような姿をしていたとしても、国家の威信と体面を立てようと、私たちの国には私のような人はいないと言うことができ、自分の国を少しでも美しく価値あるように表そうと心を砕く人が愛国者です。そのような人が死ねば、後孫も愛国者となり、その家に愛国者が生まれるのです。(607)

 息子を生むことを待ち焦がれていた夫婦は、息子を生んだとしても、そのことだけを喜んではなりません。どのように価値ある息子として育てるかという問題をおいて心配しなければなりません。このような心配をしながらその息子を愛する人であってこそ、天理を知る人です。しかしこのような心配もなく、ただ息子を生んだことだけを喜ぶなら、その人は出発から間違った人です。この息子をどのようにすれば国のために必要な人として育てることができるかということを心配できなければなりません。そのような息子として育てるために息子を願ったとするなら、国のために出発したという条件になるのです。これが重要な問題です。(608)

 自分の息子・娘のために祈祷し、その息子・娘が生まれたなら、「お前は私のように息子・娘のために祈祷する人とはならず、民族と国家のために祈祷することのできる人となれ」と教えてあげなければなりません。

 神様が福を与え息子・娘を贈ったのは愛するがゆえでもありますが、皆さんの息子・娘には皆さんの意志があると同時に、神様の意図があるということを知らなければなりません。もし、精誠を尽くして息子を生んだなら、神様はその息子を、国を代身して救ってくれる人として送るようになります。だから、その父母が自分の子供に、国のために行くことのできる道を教育できなければ、その息子を途中で連れていきます。(609)

 愛国者も一朝一夕でなるのではありません。自分の先祖から教育を受けなければなりません。父母から国を愛さなければならないという教育を、骨髄深く染み込むほど受けた因縁がなければならず、そこから生涯の指針を立て、目的を定めなければならないのです。自分が動機となるのではありません。

 どのような愛国者も、自らが動機となって愛国者となったのではありません。必ず自分の先祖から教育を受けたか、あるいは良心の深い所である衝撃的な感動を受けたことが動機となって、生涯路程全体がその動機による結果を求めていくようになるとき、愛国者として登場するようになるのです。これを皆さんは知らなければなりません。(610)


  4、世界と共に生きることのできる教育

 宗教は宗なる教えです。神様の宗なる教えは、人類を教え、人類を愛してみようというものです。それ以外にはありません。だから、真なる父母は子供に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてくれます。(611)

 神様のために、世界のために家庭を犠牲にすることは問題ではありません。先生も息子を捨て、以北に入ったのです。まず神様を愛し、世界を愛しなさい! 神様のみ旨は世界を救うことです。神様のみ旨を中心とした家庭が生まれたなら、その家庭は、家庭のために生きる家庭となってはなりません。世界のために生きるのです。これが私たちの伝統的道です。神様を愛せと教育を受けなければならない、これ自体が恨めしいのです。それは堕落のゆえだというのです。息子・娘に「お前、神様をよく信じなければならない。み旨を貴び、教会をよく守らなければならない」と教育する、それが恨めしいのです。本来はそのような立場ではありません。神様はいつも心の中におられ、すべてを指導なさるのです。人間が自分のお母さんとお父さんを紹介する必要がないように、神様を紹介する必要がないというのです。(612)

 人類は父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。皆さんは誰ゆえに父母を愛さなければならないかを考えてみましたか。誰ゆえに夫婦同士愛し合わなければならず、誰ゆえに子女を愛さなければならないかを考えてみましたか。

 愛することに責任をもってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限なる愛を語られました。最後に残るものは愛だと語られました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕う目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰ゆえに愛しますか。神様ゆえにです。神様ゆえに愛さなければなりません。自分ゆえに愛する者が死んでごらんなさい。そういう人がどこへ行くでしょうか。

 皆さんは子供を産んで、乳を飲ませながらかわいいと言いますが、誰ゆえにかわいがりますか。それは、天と地を代身してかわいがらなければならないのです。この国、この世界ゆえに、神様ゆえにかわいがらなければならないのです。神様の愛に従う天倫の運勢は、世界を越えて天地を包容するために動いています。ところが、その因縁を通して生まれた息子・娘を私ゆえに愛するなら、それは受け入れられないというのです。子供を抱き乳を飲ませる婦人たち、天と地を代身して神様の愛する息子・娘を抱くという徹した心情で自分の息子・娘を抱かなければなりません。(613)

 皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。それを願うなら、公的な人とならなければなりません。子供を教育するにおいて、私の息子・娘としてだけ愛してはいけないというのです。世界の人のための祭物的な息子・娘として愛する父母とならなければなりません。そして、子供を懐に抱き乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表したお母さんの立場で、人類を代表した赤ん坊に乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子供も私の子供と同じだという心情で対するお母さんとなってごらんなさい。そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人となるでしょう。すぐにはだめでも、一代、二代を経ていく間に、必ずその後孫の中に世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これが公式です。そのようになるのです。(614)

 子女たちを教育するときには、どうすればみ旨に対する使命を全うする人として教育できるかを考え、乳飲み子に乳を飲ませるときにも、このような考えをもちながら飲ませなければなりません。(615)

 父母なら誰でも、子供に「お前は国のために、国の偉大なる人物とならなければならない」と教えるでしょう。しかし、今日は世界が我が目前に近づいてくる時です。「お前は国の人物となれ」と教える時代はもう過ぎたというのです。今からは「お前は世界的な人物とならなければならない」と教育しなければなりません。そのように教育しますか、しませんか。そのようにするようになっています。「世界と共に生きなさい!」。皆さんの心理がどうであるか私が知っているので、このように結論をつけて話をするのです。(616)

 私が滅びる場でも滅びなかったので、これから皆さんにどのような教育をさせるかといえば、世界と共に生きることのできる教育をさせるでしょう。これが重要です。歴史は何を探してくるのでしょうか。世界と共に生きられるその時を探してくるのです。皆さんもその時を中心として行き、闘い、努力し、教え、死ななければならないのです。そうすれば、結局その場でも死ぬことは死にますが、再び新しく復活するでしょう。(617)

 善は何ゆえに動くのでしょうか。「私」ゆえにではありません。御飯を食べるのも「私」ゆえに食べるのではなく、天宙ゆえに食べなければなりません。めとるのも「私」のためにではなく、み旨のためにめとらなければならないのです。世界を目標としなければならないのです。経験をするのも世界を中心としなければならないのです。そのようにする人は、無粋なようですが、すてきな人です。七十年または八十年のまばたきするほどの一生を越えれば永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きるのです。永遠に生きる世界の時間圏内に入って、その世界と連結させることのできる道を知るなら、その永遠は「私」のものとなるのです。(618)

 御飯は粟の御飯を食べ、まとった服はたとえみすぼらしくても、ふろしきのようなものを被って座ったとしても、世界を中心として「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生き、このようになった」と言える、幅が広く限りのない話の種をもっている人が暮らしている所なら、そこにいる子供たちは、優秀な人になるというのです。(619)

 今日、この地では多くの人々がお金をもうけようと、夜昼なく飛び回っています。そのような人々を見るとき、そのお金を誰のためにもうけるのでしょうか。そのお金は自分の子供のためにもうけると言うことでしょう。それではその子供は何をするかという問題を考えてみるとき、その子供たちは自分の生存だけのための道を行くのではなく、国のための道を、ひいては世界のための道を行かなければならないということを知らなければなりません。そのような道を行かなければ、その氏族は必ず滅びるようになり、他の氏族の支配を受けるようになるという事実を私たちは知らなければなりません。(620)

 悪に接し得る要因を多くもっているか、善に接し得る要因を多くもっているかということを見るときに、全体は悪に接し得る要因で取り巻かれています。

 悪が行く道においては、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史であるため、教育を受けなくても誰でも行くことができるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったため、今日、人倫道徳を中心として良心の基準の前に見分けていきなさいと教育するのです。

 何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたにもかかわらず、その教育の基準に即した人がどれほどいるでしょうか。悪いことは学ばなくても、誰でも皆できるのです。誰でも皆、満点になり得るのです。

 このような環境の中で生きている私たちに、良心はいつも善良であれといっています。私たちの心はいつも善なる人になりなさいと、休まず「私」を刺激し、「私」に勧告するにもかかわらず、善なる「私」になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、明日も嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息であるので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪なるものとして終わりを告げるのではないかというのです。このような結論をつけるしかないのです。悪から生まれたので、悪でうごめいて悪で逝くのが、今までこの世の中に生まれては逝った数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人間たちの行路だというのです。(621)

 皆さんと摂理はどのような関係があるでしょうか。皆さんは全体を指向する目的の中で生まれたのです。生まれること自体、摂理歴史の中で生まれました。言い換えれば、公的に生まれたというのです。公的な摂理の中で生まれた皆さんであるがゆえに、父母に感謝をしなければなりません。ですから、自分の後孫たちのために、世界と宇宙のために生きなければなりません。皆さんの父母は知りませんでしたが、宇宙を代表する息子・娘を生んで育てたのです。また皆さんも同じように子女を生み育てるとき、このような考えの中で生み育てなければなりません。(622)

 素晴らしいお母さんたちは、子供を懐に抱き、「世界を動かすことのできる善なる存在となるためには、どのような難しい立場でも耐えることができなければならない」とその子供に教えます。それは、お母さんたちが善は滅びないという天理に通じたからです。(623)

 先生の幼い時の母親はそうできませんでした。ただ子供が苦労するのを嫌いました。子供が抱いたみ旨と理想は問題とならず、肉体的な苦痛を受けることを心配しました。先生が神様のみ旨を広めていて、北韓の共産党員たちに捕まって監獄に入った時、千里の道が遠いと言わず何回も面会に来ましたが、母親の心配はただ子供が苦痛を受けているという事実だけにとどまっていたのです。

 母親は、先生が行く道を捨てて、父母に仕え平穏に暮らすことを願いました。それだから、先生は父母のそばを離れるしかありませんでした。興南収容所から平壌に到着して四十日間いたときも、故郷まで二百八十里の道でしかありませんでしたが、父母を訪ねなかったのです。避難する途中に故郷に立ち寄っていたなら、父母と兄弟たちが共に自由を得たかもしれませんが、先生のみ旨を理解できず、むしろ障害になったため、父母と兄弟たちに会わなかったのです。

 故郷に残った父母と兄弟たちは、金日成一味に生命を奪われたでしょう。共産集団は、反動分子の家庭を秋毫の容赦もなく虐殺する殺人集団で、彼らの生理を誰よりも先生がよく知っています。先生は一・四後退の時に、父母と兄弟をあとに置き、平壌からみ旨に従ってきた食口たちと収容所で探し立てた弟子だけを背負い、避難の道についたのです。

 父母と兄弟が先生の道に反対したときは彼らを捨てることができましたが、大韓民国が先生を反対して監獄にまで送ったといって、彼らを捨てることのできないのが先生の立場です。この民族と国家が先生に反対し迫害するのは、先生のみ旨と理想が分からないからなのです。ですから、彼らが迫害しても、彼らを愛し彼らに教えてあげなければなりませんでした。(624)

 神様のみ旨は自分の血肉だけを中心として、自分の家庭だけを愛せよというものではありません。それではこの世界を救うことができません。今日この世界を救うためには、自分が愛する子供を祭物として捧げなければなりません。これが天の摂理なのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(625)

 現在より未来の世界のために自分の息子・娘を神様に祭物として捧げまつることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引き込むことができるのです。アブラハムは、自分の息子を未来の世界のために祭物として捧げました。自分の息子・娘を愛するのは、その時代の何ものよりも未来のどのようなものよりも愛するけれど、万民をその息子よりももっと愛することのできる心があったので、自分の子供を祭物として捧げることができたのです。

 そのような心をもって行くようになるとき、神様はそこに共におられます。そして、ここで天国に行ける人か、行けない人かということが決定されます。皆さん、天国に行ける人はどのような人ですか。自分を中心として欲張る人は天国に行けません。自分を中心としたものを捨て、自分を犠牲にし、祭物にしようとする人だけが天国に行くのです。

 それでは、神様の愛を完全に占領できる人は誰でしょうか。自分の体はもちろん、自分の息子・娘までもすべて祭物として捧げ、万民を救い愛そうとする主体的な心をもった人です。そのような心がまさに神様の心です。

 神様は今まで摂理をしてこられるとき、怨讐を打って推進させてきたことはありません。怨讐を打って摂理することよりは、自分の愛する存在、一番近い存在を犠牲にし、摂理を推進させてきたのです。神様はこのように摂理を発展させてきたというのです。その発展は、天国に向かって発展するのです。(626)

 今日、統一教会は天宙主義を語っています。それでは、その天宙主義とは何でしょうか。天と地と共に生きようというのです。このような話をすれば、皆さんは「やあ! これはすてきなのはすてきだけど、とんでもない話だなあ」と言うでしょう。どうです。夢のような話でしょう?

 統一教会は、既成教会よりも一段階高い世界を追求していこうというのです。既成教会が平面性を帯びていけば、統一教会は立体性を帯びていこうというのです。

 それでは、どこがより偉大でしょうか。このようにいえば、自画自賛かもしれませんが、どちらがより偉大ですか。統一教会と既成教学と、どちらがより偉大ですか。統一教会がより偉大です。天宙主義がより偉大です。統一教会は「天宙と共に生きよう」というのです。

 それゆえ、我が統一教会は三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日、この罪悪の世に暮らしている人々を解放し、今後来るべき後代の人々もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもって現れるのです。(627)

 皆さんは何に責任をもたなければならないでしょうか。第一には霊界に責任をもたなければならず、第二には世界に責任をもたなければならず、第三には後孫に責任をもたなければならないのです。この道が、今日統一教会員たちが背負って行くべき復帰の道であり、統一教会が背負って行くべき運命の道です。(628)


  5、信仰と勉強

 私たちが宗教生活をするのは、お母さんが赤ん坊にお乳を飲ませて育てるように、神様が下さる生命のお乳を飲もうというのです。赤ん坊はおなかがすけばお乳をくれと泣き散らすように、皆さんの心霊が渇くときは、教会を訪ねて生命のみ言を聞かなければなりません。

 真実に赤ん坊を愛するお母さんは、お乳だけを飲ませません。訓練もさせ、運動もさせ、嫌だということもさせなければなりません。大きくなっていくほど、世の中で倒れない人をつくりたいのが父母の心です。そのように、私たち人間も神様を失い、宇宙のすべてのものを失ってしまったために、再びそれを捜し出すためには訓練が必要です。

 宗教がすべてのことを教えてくれ、悪の垣根を越えられる人間になったなら、ここから復活が成り立ち得ます。

 神様が真実に人間を愛しながら宗教を導いてこられるなら、そして宗教を通して復活した人間となることを願われるなら、迫害と圧力がなくてはなりません。それは訓練です。だから個人、家庭、国家、世界が迫害するとしても、その中で勝利できなければ復活することができないというのです。(629)

 子女たちの信仰教育が学校教育よりも重要です。お父様の考えはみ旨を中心とした考えであり、皆さんの考えは個人的な考えです。信じて行う者には創意力が生じます。(630)

 結婚の重要さに比べて、学校や社会では結婚問題に対して教育をしません。問題の重大さに比べて、その教育は大きい比重を占めません。男性は女性に対して、女性は男性に対してよく知らないのに教育しません。結婚以後の問題に対しても教育がおろそかです。夫婦がどうすれば幸福になり得るかという問題や、子女の教育はどのようにしなければならないかという問題も、おろそかに取り扱われています。そのような問題よりは、科学や数学の問題がより大きな比重を占めます。このようなことは、一つの奇形的な教育の現状だと言わざるを得ません。(631)

 きょうの皆さんが明日の皆さんとして発展していくためには、習慣化されてはなりません。今日の統一教会は、三十六家庭から始まり六〇〇〇家庭に至るまで世俗化されています。彼らは世俗的な風習に習慣化されているため、問題があるのです。すべての家庭の父母が、「我が息子・娘たちには勉強させなければならない。勉強をしてこそ出世をする。お金をもうけてこそ子供たちに勉強もさせることができ、そうしてこそ出世することができる」などと考えます。

 先生はそのように考えません。知ってこそ出世するといいますが、そうではありません。国をどれほど愛するか、神様をどれほど愛するかが貴いのであり、どれほど知っているかということが貴いのではありません。知っていることをもってしてはだめなのです。(632)

 知識を多くもたせるために人を創造したのではありません。創造理想が知識によって成されるものではないことを、はっきり知らなければなりません。

 創造理想のみ旨、私たちの理想の目的は、知識や権力またはお金によって成るのではありません。ただ愛によって決定されるということを知らなければなりません。皆さんにただ勉強だけが出世する尺度だと教える父母は、大きな間違いを犯しているのです。(633)

 もしかしたら、皆さんの中には一流大学に通っている、またお金をたくさんもうけていると威張る人がいるかもしれませんが、それは愚かなことです。皆さんが学校で学ぶ知識も重要ですが、それより重要なのが愛です。知識は何日かかけて、また何カ月、何年かかけてもつことができるかもしれませんが、愛は絶対にそうすることはできません。愛は絶対的で永遠な価値であるため、生涯をかけて学んでも全部学ぶことはできません。三十年、四十年学んでも卒業証書をもらうことはできません。この世の知識は何年か学んで専門家となり、博士の学位を受けることもできるでしょうが、愛の領域は無限で無量で、誰もその専門家になることはできず、千年をかけても博士の学位を得ることができないというのです。

 しかし、その代わり愛は飽きがきたり嫌気がさしたりしません。愛するようになれば、この世の何ものよりも幸福でうれしい感情を感じられるのであり、無限に感謝したくなり、堂々となるのです。(634)

 心情によって私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識では無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を包含しても余りあるため、このように偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識で神様を包括できないために、そこから統一教会の心情が偉大だということを知らなければなりません。(635)

 先生は勉強するのもそのような気持ちでします。勉強をするときに、なぜ疲労を感じるのでしょうか。自分のために勉強をするので疲労を感じるのです。しかし、三千万人が死ぬか生きるかという問題がこの一ページにかかっており、この文句にかかっていると考えてごらんなさい。一単語を加えることによって三千万人が生き、一単語を減ずることによって滅びるという心で、もっと精誠を尽くしてその一単語を加えようという深刻な心で勉強してみなさい。頭が悪いのはなぜですか。皆さん、深刻な立場で起こったことを忘れることができますか。命懸けでしなさい。皆さんはどくんどくんと打つ心臓の鼓動の音を感じる時があるでしょう? 深刻であればそうです。そのような深刻な立場で、皆さんは決心したことを忘れることができますか。頭が悪いというのも、すべて程度の問題だというのです。

 心が散漫なために記憶できないのであって、死地で自分が死ぬ時間が近づくのに、生きることのできる妙案が浮かぶという時、その妙案を記憶できるでしょうか、できないでしょうか。皆さんが勉強をする時に、本一ページなら一ページをつかんで、命懸けでそこに投入するのです。私は聖書を見るとき「これが何であるか」と深刻に考えるようになると、その問題を解決するために一年、二年、三年でも精誠を尽くします。「あ、それはこうなのだな」という時まで精誠を尽くすのです。(636)

 立派な人になろうすれば、数多くの師たちの立派な教訓を全部自分のものとしなければなりません。そうでなくては、立派な人となることはできません。幼稚園から小学校、中・高等学校、大学校、大学院を出て学者や博士になったとしても、世界的に権威ある学者たちのすべての知識を全部自分のものとして吸収して、その総合的な価値を自らの生命の要素とし、ここに異色な一つの新しい善の実体として登場する立場に立たなければなりません。そうしてこそ世界的な学者となることができるのであり、世界的な思想家となることができるのです。これは善のみ旨を成していく道においても同様です。(637)

 人が発展するためには、そしてある目的を達成するためには、必ず刺激を受けなければなりません。百という目的を達成するためには、百だけの決心がなければならず、それくらいの時間的距離を通らなければなりません。すなわち、ある期間を経なければならないのです。その時間を経ていくには推進力がなければなりません。その推進力は、しばしば刺激を与えてこそ生じます。刺激を与えなければならないというのです。(638)

 近ごろ祝福家庭、特に三六家庭を中心として先輩家庭の子女たちが続けて進学するようになり、先生に奨学金問題について取り計らってくれるよう望んでいるようですが、それは誤っているのではないかというのです。もちろん理由は多いでしょう。ところが、子女たちの進学問題に父母たちが深く溺れてしまえば、み旨の道を行くのに大きな支障が生じるようになっています。父母は進路だけ提示してあげ、彼ら(子女)をして解決していく方法を選ぶようにしなければなりません。先生も苦学を通して学業を修めました。虎は子供たちに野性を育て、山中の王として育てるために、過酷な試練と残酷な訓練をさせるということを知らなければなりません。鉄の固まりが焼くほど強くなるという原理も、子女たちを教育するのに一度ぐらい考えてみなければなりません。(639)

 人が生きるということは、競争するということです。競争なしには発展できないのです。競争で負ければ悲惨になります。ところで、競争で勝とうとすれば、実力がなければならないのです。実力を備えるためには、準備過程を経て基盤を築かなければなりません。旧約時代の準備過程を経てイエス様が来られ、新約時代の準備過程を経て再臨主が来られるのと同じです。

 学生が準備するということは、勉強することです。特に青少年時代には、大きな夢をもって準備しなければなりません。皆さんは今後統一家の責任者となるべき人たちですが、そのようになるためには何よりも準備が必要です。思想的準備をしてこそ、精神的勝利者となり得るのです。基盤を築き、備えられた実力をもって行動に移さなければなりません。すなわち、闘争を通じた勝利を収めなければならないのです。弱い者は吸収され滅びるのが原則です。自信をもって実践するためには、昼夜の別なく努力しなければなりません。今回の修練会の目的も準備のためなのです。

 先生は米国に渡ってきて、一九七四年から一九七六年の間に最も大きな反対を受けながら、神学大学院を建て、神学者たちを糾合して米国の教会一致のための準備をしてきました。だから、今日のキリスト教と宗教の連合運動が可能になったのです。それだけでなく、先生は経済、文化、言論など各分野で多くの準備をしてきました。準備の中でも、経済的自立が一番重要なのです。そして、指導者は説得力がなければなりません。先生は一生涯準備する生活をしてきました。二十七歳からはみ旨のための闘争の生活をしてきたのであり、四十歳からは立ててきたみ旨を実践してきました。(640)

 先生が今まで二世たちに大学院に行くことを許諾しないのは、神様を愛したのちに、国家を愛したのちに、自分の氏族と家庭を愛したのちに、勉強が必要だとすれば大学院に行ってもいいと考えるからです。

 対外的な活動基準がみ旨の道と一致するためには、愛をその尺度と見なさなければなりません。コリント人への第一の手紙にも愛の章があることを、皆さんも知っているでしょう。信仰と希望と愛の中で、一番は愛であるといいました。(641)

 皆さんが学び身につけたという知識が、これからどこにどれほど役立つと思いますか。どの大学の法科、どの大学の経済科で学んだ知識が、み旨の道を行くにおいてどれくらい必要なものだと思いますか。そのようなものはみ旨の道を行くにおいてはさほど使い道がないのです。第二次世界大戦を引き起こした日本が敗亡した時、どうなりましたか。日本が崩れていく所に、日本の経済学、日本の法学がすべて崩れていったのです。

 ですから、これからはただみ旨を成すために神学を勉強しようと、没頭して努力しなければならないというのです。きょう、この場に集まった皆さんの考え方に問題があります。皆さんは大変な考え違いをしています。皆さんが学んだ経済学に先生が従いそうですか。その政治学を参考にでもしそうかというのです。神様もそうですが、先生もそのようなにおいさえかぐのは嫌だし、姿を見るのも嫌です。(642)

 大学院に行くのは暫定的に禁止します。先生の息子・娘たちが大学院に行かなければ、皆さんも行けないようになっています。原理がそのようになっています。先生の息子・娘たちが行けないので、そのようにするのでは絶対ありません。それは一つの法度です。

 木の枝の芽がまず育ってから小枝や葉が生じるのと同じ道理です。芽が高く伸びてこそ、小枝が伸びたり、木が正常な発育をすることができます。木において大木の芽より小枝が多ければ、その木は何の役にも立たない雑木になってしまうでしょう。それは自然の道理なのです。

 本来はまず伝統を受け継ぐことのできる男女になって、先生の息子・娘たちがまず大学や大学院に入れば、ついて入らなければならないのです。皆さんは孝進兄さんを見て、早く勉強しなさいと激励してあげなければなりません。現在、孝進は統一教会と統一教会員たちが責任を果たすことができなかったために、揺らぐ心を正すことができないでいます。

 皆さんの父母たちは、皆さんがただ良くなることを望みながら、皆さんの教育にだけしがみついてきました。先生の場合はどうですか。先生が子女たちの教育にだけしがみついていましたか。先生は皆さんと世界人類のために、神様のために、今まですべての力を振り絞ってきました。ですから、教育にいつ関心をもつことができたかというのです。ところが、皆さんの父母たちは祝福を受けた家庭として、ただ自分の家庭と子女たちの教育にだけしがみついてきたので、先生と天の前に大きな間違いを犯したのです。それだから、皆さんにも共同の責任があるのです。

 皆さんは孝進兄さんだけでなく、ほかのお兄さんとお姉さんたちにまで特別な関心をもって協助しなければなりません。それが原理の道を行く道理なのです。(643)

 仏教やカトリックのような宗教では結婚しない戒律を守ってきました。仏教には僧と尼がおり、カトリックには神父と修道女がいます。彼らは結婚するのが嫌でそうなのではありません。摂理の時がまだ結婚すべき時ではないからです。同じ道理で、先生が皆さんに大学院に行ってはいけないと言うのも、皆さんを学校に送りたくないからではありません。(644)

 本来、父子という言葉は、本然のお父さんと息子・娘を言います。このような父子がいなければ、その国も成り立たないのです。万人は平和の世界を望んでいます。その世界は、今日、世界の先進国家が追求しているそのような文化を通して成されるものではありません。真の父母を通して成されるのです。真の父母がいくらむしろを掛け、ぼろのふろしきを背負い、模様があせた擦り切れた服を着ていたとしても、また、背たけの千倍万倍もの深い穴から気力が尽き果てて出てきたとしても、人間はその真の父母を中心として神様の心情を学ばなければなりません。(645)

 祝福家庭から生まれた二世たちは、天の国の民として不足のない教育と心情的伝統を相続しなければなりません。ですから、二世たちのための教育の道を準備しています。幼稚園から初、中、高等、大学課程を踏むことができるように教育機関を設立しなければなりません。外国の祝福家庭の二世たちも留学し、共に履修できるようにしなければなりません。(646)

 第二世を中心として、統一文化の新しい幕が開かれるようになるでしょう。そのすべてのものは、真の父母の心情的伝統を相続する内容をもって成され、その他に知識と機能を習得する教育道場となるでしょう。皆さんが何も知らない間に、世界的な蕩減復帰の道が開かれ、そのすべての基準が立てられました。(647)

 皆さんは真の愛の根を探し出さなければなりません。その根をもって地上に芽を出す家庭があるなら、世界を支配することができるでしょう。その家庭から愛が芽生え出れば、人類先祖の文化が創造され始めるのです。そこで使われる言語は、世界の言語となります。現在使用されている言語は何であろうと、すべて必要ありません。英語が審判を受ける時が来ることでしょう。

 いずれにしても、子供になろうとすれば、愛の社会で一父母を通して生まれ、その父母が使う言葉を学ばなければなりません。そうして、その民族を通して新しい世界に向かって出発しなければなりません。そこから愛を中心とした文化が発達することでしょう。その文化は世界的な文化となるでしょうし、他の文化はその地を通過しなければならないのです。そこの文化は世界を代表する文化なのです。(648)


  6、愛は学んで分かるものではない

 お母さんとお父さんが子供たちを愛するのは、学校で学んで分かることですか。そのようなことを教える学校を見ましたか。また、それを学んでみた人がいますか。それは学ばなくとも分かっているのです。男性と女性は、出会って赤ん坊を生む方法を学びませんでした。家庭においても、他人同士が出会い、夫婦の因縁を結んで一家庭を築けるのも、誰かに学んでするのではありません。愛は誰かが教えてくれて分かるものでもなく、「このようなものだ」と、もってきて食べさせてくれてその味が分かるものでもなく、実験をしてみて分かるものでもありません。

 昔も、このようなことを教えてくれる所はなかったし、今から数千万代の後孫にもこれを教えてくれる学校が出てくることはありません。(649)

 皆さんが結婚し、年を取って死ぬまで子供をもてなければ、子供に対する愛は千年万年たっても分からないのです。子女に対する愛は千年万年勉強しても分かりませんが、息子・娘がおなかの中から出てくるや否や、瞬く間に分かるようになるのです。(650)

 赤ん坊が生まれればすぐお母さんのお乳を探すことや、動物たちが生まれて母親のお乳を探すことが、教育と訓練を受けなくても自然に行為に移されるのは、まさに愛の力が作用しているからです。(651)

 真実な愛は、天理法度であるので教育される以前に自然に成り立つのです。けれども、今日、人間社会で真実な愛を見いだせないことや、教育と訓練を通して学ばされるのは、すべてが堕落した結果としてもたらされた悲劇なのです。

 父母の愛は、生まれた子供の顔が醜かったりかわいかったりすることによって大きく現れたり、小さく現れたりしないのであり、父母が偉いか劣っているかによって、父母に対する尊敬と愛を異にする子供はいないのです。あなたの顔が醜いので、私のお母さんではないという子供がいますか。お前は私がたとえ生んだといえども、顔が醜かったので私の子供ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいたなら、彼らは人間でないだけでなく、畜生が間違って人間の体をもって生まれた一介の怪獣でしょう。(652)

 イエス様はどのような方だったのでしょうか。イエス様の論法はどこから出てきたのでしょうか。良いことをして生きよ、正しいことをしてこそ天国に行けるというみ言は語りませんでした。その方は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四章一六節)と言いました。このようにイエス様は、学べと言うのではなく、従ってきなさいと言いました。従っていけば、キリスト教徒たちもイエス様に似るようになるのです。(653)

 皆さんは家庭で愛する方法を学びましたか。どんなお父さんがその子女に「お父さんから愛する方法を学びなさい」と言いますか。そのように教育を受けましたか。また、お母さんもその子女に「お母さんから愛する方法を学びなさい」と言いますか。また、父母が子供を愛する方法を誰に学びましたか。皆さんは誰から新郎・新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが上手にします。本当に不思議なことです。すべての人間たちは、学ばなくても上手にするというのです。(654)

 皆さん、空気があるということを知っているでしょう。皆さんは毎日空気を吸いながら生きていますが、「あ、これは空気だ」と言って生きていますか。毎日呼吸しながら生きていますが、空気を考えもしないで生きています。また、すべての人々が太陽の光を受けて生きていますが、朝夕に日の光の有り難さを知って、あいさつしてみたことがありますか。あいさつする方法を学びましたか、学びませんでしたか。答えないのを見ると、それも学ばなかったようですね。

 水も同じです。誰かから、「水を飲む時はこのように飲まなければならない」と学びましたか。学びましたか、学びませんでしたか。それも学ばなかったでしょう。一番貴いものに対しては学ばなかったというのです。

 それでは、一番貴いという日の光について考えてみましょう。もし、この地球上から太陽が二日だけなくなればどうなるでしょうか。想像でもできるでしょうか。また、空気もそうです。「今、人間たちが大きなことを言っているが、彼らの勢力はどれほど大きいか、私たちが約十五分間だけ地球上から消えよう」と、空気が同盟ストをするならどうなるでしょうか。このようになる日には、世界統一を簡単に成すことができます。統一教会という看板をつける必要がありません。簡単です。十五分でなく、十分以内に世界統一は成されるでしょう。

 皆さんは空気や水を飲む方法を学びましたか。それは学ばなくとも自然に分かるようになっています。この世で貴いというものは、全部そうなっています。神様がおられるなら、それらよりはるかに貴いお方でしょう。人間たちはその方をどのようにして知ることができるでしょうか。同じように、学ばないで神様を知るようになっています。本来は、神様に対することも、学ばないで分からなければならないというのです。(655)


  7、愛を中心とした人生行路

 生命が先か、愛が先かという時、互いに先だと言うことができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値が出てくることができません。(656)

 「私」は誰でしょうか。「私」という存在は、「私」という起源はどこから生じたでしょうか。父母の愛から生まれました。「私」がなぜ貴いでしょうか。父母の愛に同参したからです。そして、そこから宇宙と世界に同参しなければなりません。(657)

 人がなぜ生まれたかということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛ゆえに生まれました。また、愛から生まれました。

 それでは、愛は何ゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは生命の源泉であるからです。皆さんは父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり知識をうたう所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。だから、子供が必要なのです。夫婦が一つとなり、息子・娘という相対がいるとき、完全なのです。(658)

 人間自身も愛を離れては存在することができないのです。ですから、「私」の存在は、愛を元として生きていくといえます。

 すべての万物も、その存在の始まりは神様の愛から出発しています。万物の存在が愛を元として始まったとするなら、被造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在だということを否認することはできないのです。

 人間は愛から出発し、愛によって円熟するため、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。(659)

 私たちの生命の起源がどこにあるのかを見れば、生命が先か、愛が先かが問題です。今までこれを見分けられませんでした。生命が先ではなく、愛が先です。先となったものの前に、次となったものは順応しなければならないので、愛のためには生命を捧げるのが当たり前なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。そうすれば、人生を真に生きる道はどこなのかという結論が出てきます。人生が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認し、天使世界が公認し、万物が、ひいては我が父母が公認できる大宇宙愛の中に現れ、その中で愛し死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。(660)

 人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それなら、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全天宙の中心的な存在として生まれたのがまさに「私」です。愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生において最高の目的です。天宙あるいは世界を制覇することより、自分の家庭で、天宙の中心である愛の使命を果たすことがもっと価値あることです。(661)

 自分のために生きる存在は相対圏を保護できません。創造も、神様が相対のために創造したのです。同等な価値基準と同等な所有の権限を付与する愛、すなわち為に生きながら与えようというのが、人生でどれほど幸福な道でしょうか。神様はそのように為に生きながら与えようという人に天地宇宙を相続させるのです。その道を探していくのが一生の行路です。(662)

 存在するすべてのものは、必ず運動します。これが存在物の基本的な存在法則です。生きて動く生命体はもちろんですが、動かない物体や無生命体もこの運動の法則性をもちます。運動性は無秩序なものではなく、必ず秩序的であり、法則的だというのです。なぜなら、秩序と法則はある目的を前提としなくては考えることができないからです。したがって存在するすべてのものは、必ずある目的によって秩序と法則性をもって動くようになるというのです。

 「私」が生きて動くこと、すなわち「私」が活動するのは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的が何かといえば、愛の世界を具現することです。このように人間は、愛の具現のため、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されるようになります。これはどれほど素晴らしいことでしょうか。(663)

 人間存在の原因は何でしょうか。人間存在の原因は愛から始まりました。それから、人間の存在の目的はどこにあると考えますか。人間存在の目的は愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張し、連結して完成することが目的となるのです。すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そうしながら、その中で完成という枠を備え、ここから愛を中心として前後左右上下に交流することのできる自分自身とならなければなりません。(664)

 私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこでうれしくなければ何の役にも立ちません。生きて生活するのがうれしくなければなりません。生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在以上の新しい何かがあることでしょう。

 それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らに何よりも最も貴いものは何でしょうか。愛です。愛だけがこれと連結させることのできる幸福の要因となるのです。人が目的をいくらよく立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられないときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。(665)

 皆さんは何ゆえに生きていますか。食べるためにと答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするために、または何の目的もない生を生きていると言う人もいるでしょう。

 人間は何のために生きるのでしょうか。人のために生きると言うなら、どれほどすてきな答えでしょうか。人間は愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛の神様の懐に帰るようになっているのが、創造本然の生なのです。(666)

 愛のために生きる一生は、生産的な結実の生であり、愛を知らずに生きる一生は、消耗的な滅亡の生なのです。神様も人間も宇宙も、愛のための生を生きることを願うのが本然の生なのです。(667)

 生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母により愛を受け、愛をもって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生だというのです。ですから、哀しみと苦痛があり得ないのが本来の人生なのです。(668)

 本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に縦横に同時に結合することのできる基準となることによって父母の愛と夫婦の愛、子女の愛が結合することのできる根本位置となります。その位置は全宇宙が集中する位置となり、全宇宙細胞の方向が集中する位置となります。霊界のすべての神々が全部ここに集中します。それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないよう、保護するようになっているのです。ですから、この位置が破壊されるなら、大変なことが起こるようになります。だから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態が統一教会の用語で四位基台というのです。(669)

 人間は胎児でいる時は、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間たちも、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されるだけでなく、生命の本質的要素である愛を神様から供給されているのです。(670)

 すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間たちには愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕しながら暮らすことのできる地上天国や天上天国が建設されることです。(671)

 人間は愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、成長するようになれば、父母の愛だけではだめなので、縦的な愛を中心として横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天地の愛が心棒の位置に根付けば、その次に横的な愛が必要となるために思春期があるのです。思春期に現れる現象は愛の横的な現象です。父母の愛から生まれて成熟すれば、横的に愛し合うことにより総合的な愛の圏内に進入するようになって、初めて愛の中心を探していくことができるようになるのです。(672)

 男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。

 女性が化粧をしたり、マッサージをするのも愛ゆえです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛ゆえなのです。高貴な愛を得るために苦難を勝ち抜いていくのです。(673)

 私たちは生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代を問わずに愛を受けるのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。(674)

 結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び妻も喜ぶことでしょう。息子・娘を生むのは、世界を愛する法を学ぶためなのです。息子・娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結することのできる教育の材料として息子・娘を与えるのです。そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝道を行くのは、霊界に対する教育を受けるためであることを知らなければなりません。

 このすべてのものが愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子・娘が愛を中心として全部連結されているのです。この愛をもてば霊界の千万代の先祖までも上がっていき、降りてくることができ、遠い後孫までも通じることができるのです。血管のような組織が霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だということができます。

 この宇宙において、一番偉大で驚くべき権勢をもった者は誰でしょうか。愛をもって、より僕の道を行った人だという結論が出てきます。これが神様の哲学であり、レバレンド・ムーンの哲学であり、ムーニーの哲学です。(675)

 私は霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は地上で空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けるようになってはいません。霊界で授け受ける愛は、真なる愛なのです。(676)

 皆さんはなぜ結婚しなければならないでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。分かりますか。

 これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐことのできる鼻がない人と同じだというのです。(677)

 皆さんが神様の愛を一度探ってみなさい。実に愛を何と表現することができるでしょうか。それは、さながら暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ちのぼり、虫が出てき、アリたちも世の中を見物しようとちょろちょろと出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりにはコウライ柳がもえいで、カエルは春の日和の新しい歌を歌い、群れになって飛んでくるハチ、チョウが喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境に酔って眠り込むようですが、眠り込まず、気分がよくて永遠にいいと言うことのできるそのような味だというのです。神様が探される理想相対を中心として感じる気分は、チョウが飛び、ハチが飛んでくる花の園のようなものです。これは考えただけでも気分がいいですか、悪いですか。この鈍い男性たちはそれを知らないでしょう。それは気分がいいというのです。

 懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて「ああ、これは久しぶりだね」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分がいいですか、悪いですか。気分が悪いという人がいたなら「えい、こいつめ」と言って、足でけってしまいなさいというのです。懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。「喜びます」。そのようにうれしくてつかめば、手をほどくことができないというのです。

 ここにいる女の子たち、嫁に行って夫が自分を愛してくれれば気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。一度考えてごらんなさい。人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にそれほどうらやましいことはないのです。初めから夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることはいいことです。映画を見るにしても、そのような映画を見たくなります。女性が男性に「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっているのです。
 それゆえ、愛は永遠なのです。愛は二つでなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルを成して愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それがまさに神様の愛なのです。そのような愛をもって暮らすなら、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさい。全部一つになるようになっているのです。(678)

 神様がおられる所には愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたく、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて与えたい所です。ですからそこが天国ですか、地獄ですか。「天国です」。そこではもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになるのです。全細胞がはち切れるような刺激を感じるのです。神様の愛はそのようなものです。

 皆さんがそのような愛を体験すれば、女性たちは嫁に行かないようにし、男性たちは嫁をもらわないようにすることでしょう。その愛に酔えば、アヘンが問題ではありません。お酒が問題ではないというのです。田舎の両班たちは、土焼きの器でどぶろくのようなものを一息に飲んで酔いますが、そのようなものに酔って生きるようにはなっていません。人は愛に酔って生きるようになっているのです。分かりますか。

 皆さんがそれだけ分かるようになれば、愛のために行く道が苦しくとも、苦労ではないのです。自分が愛する人のために精誠を尽くしに尽くし、さらに尽くすのは誇りであり、栄光なのです。(679)

 男女の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう? しかし、神様を尋ねていく道を知り、神様の愛を本当に味わうなら……、その神様の愛はこの世のどのようなものとも比べられないのです。そのような愛を味わった人がいるなら、どのような苦難も彼を占領することはできないし、どのような悲しみも彼を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放の圏があるのではないでしょうか。これを探すことが問題となるのです。(680)

 皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。彼はどこでも何の制限もなくどの方向にでも行くことができます。その反対に愛の経験がない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて、自由が全くありません。

 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的、円で旋回することができます。

 例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わえなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、多少悲劇的な人であり、同じように家庭生活すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するために霊界ではとてもみすぼらしい人になります。また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏で完全な生を生きられないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。(681)

 故郷とはどのような所でしょうか。「私」の心情を四方に、立体的にすべて引き上げておく所です。その心情を何で縛りつけるでしょうか。愛で縛りつけるのです。上にはお母さんとお父さんが縛りつけ、左右には夫婦の因縁が縛りつけ、下には息子・娘が縛りつけ、親戚が……。このように立体的な愛でかちかちに縛りつけている所が本郷です。人は愛を中心とした幸福の起点を最高として望むので、本郷を懐かしがらざるを得ないのです。(682)

 人間はなぜ永世するのでしょうか。なぜ誰でも永世を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象圏の価値を備えることができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないために、「私」は永遠なる愛の対象圏を探すようになるのです。この位置に立つようになるときは、上でも下でも同じです。神様であると同時に「私」となります。愛で一体にさえなれば、神様が「私」のポケットの中に入ってこようとすれば、入ることもできるというのです。(683)

 人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。ですから、大部分の人間は、老いていくほど死に対する恐れをもつようになります。人間が老いていくほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界に対する信仰がないからです。

 人間はこの世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で十カ月を過ごします。おなかの中にいる時、胎児の自由には限界があります。彼はお母さんの栄養をへその緒で引いて育つとき、二本の手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりつぼめたり、二本の足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児には、お母さんのおなかの中が自由天地であり、生の全領域であることでしょう。その胎児は十カ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が今日私たちが生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。ですから、今、私たちはお母さんのおなかの中にいる時の生活の記憶はありませんが、どれほど息苦しく限定された生活だったかを推量することができるでしょう。

 この世に生まれた人間は、胎児の時のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙での生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間は百年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかとは違う人間の世界を知らなかったように、今日地上世界で生きている人間たちは、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。お母さんのおなかの中では人間世界について分からなかったが実在として人間世界があったように、死後の世界もあることだろうと、ただ漠然とした心証をもっているだけなのです。けれども分明なことは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、死後の世界は確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知することのできる五官作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないというのです。(684)

 数千年前の人の心も、今日の人の心も、みな同じように何を慕うでしょうか。心の幸福の世界を追求していくのです。心の幸福の世界を追求すると同時に、心の理想の相対を、心の理想の家庭を、心の理想の世界を追求していくのです。(685)

 皆さんはお父さんとお母さんから生まれました。その次にもっと根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りて、神様から生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は、通過の父母です。だから死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国と言います。

 そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもとに、一般的な法度を通ることのできる愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。皆さんは、このような内容が宇宙の根本であることを知って、生きている間にこのような観念をもち、愛を実践して、合格したのちにそこに行けば、間違いなく神様の元に帰るという結論が出てきます。(686)

 一生の間愛のために生きる人には、万物も祝福を送ることでしょう。花もその家の庭で咲くことを願うでしょうし、一羽の鳥もその家の庭園の木に巣を作り歌を歌うことを望むというのです。それは万物の価値を知っているだけでなく、万物を心から愛してあげるからです。(687)

 皆さんが霊界に行けば、間違いなくやったとおりに返してくれます。ここにいる祝福を受けた家庭は、先生が祝福してあげたので、天国に行く門は開きますが、前進するにおいては、心情の軌道に乗って行けば行くほど、あちらから引き寄せてあげなければなりません。その世界は神様の愛の世界なので、「私」の心情がそれと和動できてこそ入ることができます。だから、今後そのような世界が現れる時が来れば、皆さんは多くの審判を経るべき運命ではないかと(先生は)考えます。(688)

 「私」がなぜ生きるのか考えてみましょう。皆さんは会社の社長になるために生きたり、寝て食べるために生きていますか。そうではないでしょう。また、生きるために生きたなら、そのあとにはどこに行くのでしょうか。御飯を食べたあとには、どこに行くのでしょうか。学校や職場に行きますか。そうでなければどこに行きますか。愛というアンテナを尋ねていくのです。皆さんもそのように考えますか。

 今日、アメリカ式の愛はどうですか。最近、カリフォルニアであった一つの調査によれば、九〇パーセントの人々が離婚をした経験があると答えたというのです。そうだとすれば、それをどのようにして愛だということができるでしょうか。

 貴く価値ある物であるほど変わりません。宝石がなぜ価値があるのでしょうか。金やダイヤモンドは変わらないため、貴く価値があります。この世で一番貴重なものは何でしょうか。金でもダイヤモンドでもない、真の愛(true love)です。

 真の愛は変わらない愛です。そこに異議がありますか。皆さん、アメリカの青年たちの中に父母を嫌う人がいますが、それは父母の変わらない愛を得られなかったからです。

 夫と別れて家庭が壊れたとしても、子供に対する愛には変わりがあってはなりません。それが真の愛です。夫が死んでも、愛する子供のために犠牲になるのがお母さんの愛なのです。そのようにすることによって、夫に対する愛も残され、子供に対する愛も残されるのです。もし夫が死んだとして、子供まで捨て、自分だけのために再婚をするなら、夫に対する愛も壊れるのであり、ひいては、子供に対する愛も壊れるようになることを知らなければなりません。

 夫が死んだとしても、子供のために犠牲になる人は、その愛が残されるのです。夫を失ったという事実によって不幸な妻の立場にいるように見えるでしょうが、息子を通して、夫から受けたそれ以上の愛を子供から受けることができるのです。そのような道が、夫が死ぬことによって継承され得るという事実を知らなければなりません。その息子は、自分のお父さんがお母さんのために与えることのできなかった何倍以上、お母さんのために生きようとするのです。その中に夫と妻の愛よりもっと貴い愛があることを知らなければなりません。

 反対に妻が死んだとしても同じです。妻が死んだとしても、子供を、妻を愛したそれ以上に渾身の力を振り絞って愛さなければなりません。そのように変わらない愛がある所には、永遠に和動することのできる本質的な秩序があるのです。(689)

 愛する人同士は、互いが自分を表さず、相手のために与え、称賛してあげるのです。そのような夫婦が、本当に愛らしく生きていく人々であることでしょう。そのような愛がある所には、電気が流れる電線に「ウーン」という音が出るように、あらゆる音が出るでしょう。愛の雷が落ちるなら、その音がどれほど大きいでしょうか。千年の間寝ていた人も、あわてて目覚めるでしょう。目覚めて驚くのではなく、起きるや否や、踊りを踊って喜ぶでしょう。ある誰かがさせるから踊るのではなく、自動的にそのようになるのです。

 一言で結論を下すなら、すべてのものがなぜ在るのかといえば、真の愛のために存在するということができます。そのような結論が最も論理的であり、普遍で妥当性があり、理想的な結論でしょう。数多くの男性と女性たちは、真の愛のために存在します。歴史の中で「私」のような女性たちが、一度も真の愛を受けられなかったので、それを蕩減復帰することのできる一人の男性に出会うために、「私」がこのように生まれたと考えればいいのです。その時には、「私」が女性の中で最も偉大な女性となるでしょうし、その人になくてはならない最も尊貴な女性になることでしょう。(690)




以上 祝福家庭と理想天国 2004.02.19 裏道














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