天一国主人の生活
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第一章 創造の原動力は神様の真の愛

一 真の愛は神様のみ旨がとどまる中心

 神様は、真理の大王、善の大王、真の大王、愛の大王です。では、神様は、もともといらっしゃったのでしょうか、お生まれになったのでしょうか。神様も大きくなってこられました。それを知らなければなりません。それをどのように知ることができるのですか。神様の本性に似たすべてのものが、小さな細胞から育ってくるのと同じです。それでは、神様は何によって大きくなってこられたのでしょうか。愛ゆえに大きくなってこられたというのです。絶対的な愛を中心として大きくなってこられました。愛の主体が神様であり、人間はその愛の対象です。

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 神様は、真の愛のために天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、神様お一人でもつことはできません。お一人で愛を感じることはできません。もちろん、御自身の中に愛はあるのですが、円満に和合する喜びが充満した愛は感じることができません。いくら美しい花が咲いても、香りが出なければならず、いくら香りをもっていたとしても、風が吹いて初めて香りが飛んでいくのです。ですから、風のように相対的な刺激の対象が必要なのです。

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 真の愛は、神様が創造される時の根源的力です。原動力だというのです。それゆえに、神様も好むのは、真の愛だというのです。神様も、私たちのように御飯も召し上がり、目もあり、鼻もあり、すべてあります。そのようなお方ですが、そのお方が喜ばれることとは何かというと、私たち人間たちが喜ぶ黄金の塊ではありません。それは、いつでもつくることができます。それから、知識も同じです。神様は、全知全能のお方です。知識の大王であり、能力の大王です。

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 真の愛の深さは、神様がお生まれになる時の、その底まで包括するという話です。どれほど深いか分かりません。神様が存在し始めた根源から始まったので、どれほど深いか分からないのです。一生の間生きても、すべてそこまで行けないので、あの世界に行っても、それに向かって永遠に発展するのです。ですから、夫婦でけんかをして別れるというのは考えることもできません。

 神様御自身も育ってこられたというのです。神様がその深さまで、出発とともに根源と一緒にいらっしゃったのです。根源は、神様が先ではなく愛が先です。「神様は二性性相になっている」というのですが、なぜ二性性相ですか。愛ゆえに二性性相を大切に保管するのです。

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 真の愛は、神様が思いのままにお出ましになることができる橋になるのです。すべての四肢五体が、いつ愛を中心として表面で一つになってもOKであり、内面で一つになってもOKです。北でも、南でも、東でも、西でも、天国でも、地上世界でも、どこでも同じです。愛を中心として和合することができ、愛を中心として自律的に和動することができるのです。それは、愛だけがもっているものです。

 体制においても同じです。党を神様の絶対的な代わりとして立て、完全に一つになろうとするのは、神様を中心として一つになるということです。

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 神様も、真の愛に対しては絶対的に服従します。真の愛を中心としては、神様も生命を捧げようとされます。男性や女性も、真の愛があれば、なぜ命を捧げようとするのですか。愛が生命よりも先だからです。神様がなぜ存在し始めたのでしょうか。愛ゆえに存在し始め、愛するために存在されるというのです。愛という概念がなかったならば、神様も生まれる必要がなかったというのです。

 それゆえに、神様からつくられたすべてのものは、ペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムであり、レベルは低くても、陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史上初めて発表したのです。神様御自身も真の愛を絶対視され、それに絶対服従しながら生きようと思われるその起源を発表したのは、レバレンド・ムーンが歴史上初めてです。それは、観念ではなく事実です。このように神様は、真の愛を求めるために創造されたのです。

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 真の愛というものは、神様を介在させることなくしては成立しません。神様が介在されなければ、真という言葉、真という男性、真という女性、真という家庭、真という真理、真という愛がないというのです。神様が介在してこそ、それらが可能なのです。

 神様は、真理の大王であり、善の大王です。真の大王です。愛の大王様です。それゆえに、神様を介在させない所には、善なるものがあり得ないのです。仕事もそうです。神様を抜かして行うのは詐欺です。信じることができません。すべてのものがそうだというのです。神様を介在させることによって、真の基準、永遠の基準が設定されるのです。

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 それでは、真の愛と偽りの愛を、何によって分別することができるのですか。自分を中心として「ため」に生きようとする愛は、悪魔と通じる愛であり、相対を中心として「ため」に生きようとする愛は、天地の道理と通じ、神様と通じる愛です。ここに境界線があるのです。

 神様の愛は、与えて、与えて、与えても忘れてしまうのです。それが真の愛です。年を取ったおばあさん、九十歳になったおばあさんが七十歳を越えた息子に、「おい、なにがしよ。きょう外に出たら車に気をつけなさい」と言って、相変わらず昔の幼い時の息子と同じように接してあげるというのです。毎日のように繰り返すその話を、九十歳を越えるまでしても疲れません。千万年たっても疲れないのです。そのような愛が真の愛です。

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 自分の生命までも投入して、また投入するという位置、与えて、また与えても忘れてしまうことができる位置においてのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫きます。死の世界も貫いて上がっていくのです。

 生命の世界も、硬い心でも、どこでも貫いていくことができるというのです。愛が通ることのできない所はありません。愛は、秘密の部屋も通ることができるのです。

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 最も速い速度をもったものが愛です。真の愛は、神様の創造能力と一致した力です。ですから、その愛をもっていれば、地の果てから神様に、「来てください」と言っても来られるというのです。醜い孫娘でも、指を少し動かせば、おじいさんが彼女に従っていきます。愛は、そのように偉大だというのです。これが真の愛です。

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 愛というものは、ただそのまま出てくるのではありません。神様の愛を通じなければ、栄光が出てこないのです。その人が栄光を享受するというのは、自分一人でいる愛をいうのではなく、億万長者になって金の畑に座っていることをいうのではありません。

 愛の因縁を完全に備え、変わらない幸福な位置にいることを、栄光を享受するというのです。栄光は、神様の愛を除いてはあり得ないというのです。責任を完遂したのちに、完成段階の基準を経たのちに神様の愛を受けるようになれば、栄光は自動的に訪れるのです。

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 真の愛は、神様よりも貴くなり得るのです。それは何の話かといえば、神様でも愛の相対は、何千万倍も立派であることを願うというのです。それは逆にいえば、真の愛の対象は、神様より貴いというのです。皆さんも、相対が皆さんより立派であることを願うのが愛です。

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 真の愛は、神様の愛です。霊界に行けば、真の愛の色と味を感じることができます。そのような世界が霊界です。その真の愛と和合すれば、通じない所や聞こえない所がなく、すべて通じるのです。真の愛の主人である神様の産毛があるならば、その産毛も真の愛に属しているので、少しだけ動いても天下がすぐに知るようになります。鋭敏だというのです。感情が宇宙的感情にまで、すべて通じるというのです。

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 愛を中心として、人間たちが神様、創造主以上の位置にまで上がっていける特権を許諾したその道を歩んでいくことができ、従っていくことができる方向を教えてあげるので「神主義」というのです。

 「神主義」は真の愛主義ですが、真の愛主義は、堕落した生命を犠牲にして投入することができる道を訪ねていかない限り、その道に到達できないのです。それで聖書は、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と、逆説的な論理を教えてくれたことを知らなければなりません。

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 愛の道を尋ね求めていく人は、どのようなものを備えなければならないのでしょうか。神様の愛、神様と父母、そして私が一つにならなければなりません。それで初めて真の愛だというのです。これが、神様のみ旨がとどまることのできる中心です。私がそのみ旨と一つになることのできる中心です。


二 神様と真の父母と一体を成し遂げるための真の愛

 本来、心と体は、離そうにも離すことができず一つでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を包む器でした。ところが、人間の堕落が人間の体を悪魔に差し出したのです。それから、人間の体は悪魔の僕になりました。

 人間の良心は、神様を代表する心です。良心は、自分のために存在するのではありません。天の義のために存在します。良心は、常に善に向かって走ろうとします。ここに体は反抗します。体は、自分だけ楽をしようとし、利己的であり、本能的要求によって肉欲を表そうとします。良心は、この体を叱責して心に順応させようとします。ここに、常に血を流す葛藤と闘争が一つの体の中で起きるようになります。

 しかし、神様を自分の中に迎え入れなければ、誰も自分の体を征服することはできません。ただ、神様の真の愛と真理の力を中心として、主体である心は、対象である体を率いて神様と一体理想をなすようになっています。これが宗教のいう完成した人間です。

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 神様を中心として、神様はお父様であり、私たち人類の先祖は息子、娘でした。その真の愛が出てくるためには、神様と一つにならなければなりません。一つになるのが原則です。一つになるための原則とは何かといえば、従順にすることしかないという結論が出てきます。神様が人と一つになる日には、神様のものが私のものであり、神様であり私であり、私であり神様だというのです。神様と一つになり得るのは真の愛だけです。

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 真の愛と和合すれば、彼は神様の体になり、細胞になります。神聖な神様の肢体になり、一体のようになって永遠に愛を呼吸し、愛を食べて生きることができるのです。そのような世界を天国といいます。真の愛を中心として一つになったことを、聖書は話さなかったのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四・六)、そこには愛が抜けています。

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 真の人とは、真の愛で暮らす人です。真の愛は、与える愛であり、永遠にセンターのために生きるという愛です。これが神様の核心です。真の愛は、神様の愛です。神様を永遠に愛そうとすれば、私は真の愛の所有者になるのです。

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 真の愛は、神様とだけ関係を結んだ愛です。自分とか大韓民国とか、また世の中の習慣性、風習、国民の伝統性、このようなものがありますが、そのようなものと関係を結んだ愛ではありません。神様とだけ関係を結んだ愛です。人間が堕落したために、神様とだけ関係を結んだ愛になることができなかったのです。サタンと関係を結んだというのです。それが家庭だけではなく、家庭を越えて氏族、民族、国家、世界まで、地上世界、天上世界までそれが拡大されているというのです。今日、私たちが堕落した人として生まれ、生きている環境に染まったすべての習慣や伝統は、神様と関係ないのです。これを否定して、これを解決することが、どれほど難しいか分かりません。

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 真の愛は、神様までもコントロールすることができます。真の愛を中心として一つになれば、所有権が生じます。愛する相対のものは、私のものだというのです。愛のパートナーは、いつ、どこにおいても取り替えることはできないのです。絶対的な愛の主人です。

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 真の愛には、神様の心と体を絶対的に統一させ、一つにすることのできる力があります。神様も人と似ているとすれば、心と体があるのではないですか。心と体は、何を中心として一つになっているのでしょうか。知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。ただ、真の愛だけが神様の心と体を完全に統一させるのです。

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 私たち人間は、欲心が多いのです。しかし、神様の真の愛圏に、さっと入っていけば、欲心がすべてなくなります。真の愛圏内には相続権があります。ですから、愛の主体である神様までも私のものです。神様に属したものはあとにして、神様の心と体も私のものになります。一体になります。神様と私が一体だというのです。

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 真の愛は、神様の一体圏に属するもの、神様に支配されるものであって、サタンに支配されるようにはなっていません。皆さんの堕落圏は、そのようになっていません。したがって、垂直である神様の心情圏の円形は残っていますが、血統を誤って継承したので横的円形が九〇度になっていません。七五度、または一五度、このようになっているのです。その差によって、良心の呵責を受けながら、苦悶を避けることができず、圧迫を受けています。

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 真の愛は、ダイヤモンドより貴重です。そのアンテナから強い電波が送出され、自分の方向に従って触れ、出会い、キスをするというのです。それが真の父母のアンテナです。決して変わらないで、最後まで消滅しない貴重なものです。それで、全霊界の善の霊たちが真の父母を通して、新しい自らの明るい道を行こうとするのです。

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 世の中で最も悲しいことは、真の父母を失ってしまったことです。真の父母を失ってしまったことが、どれほど悲しいことかを知らなければなりません。そうしてこそ、真の父母に会うことが、どれほど喜ばしいことかを知ることができます。

 それで、私が皆さんに一つ一つ指導するのです。神様の真の愛は、真の父母を通して出てくるので、真の父母には天使世界も支配されるようになっていて、すべての万物世界も支配されるようになっています。世界がその愛圏内にあることを、いつも考えなければなりません。

 真の父母は、世界の人が冷遇する立場で生まれなければならず、世界が反対する難しい立場で生まれなければならず、万物世界のどのようなものよりも貴い立場で生まれなければなりません。天使世界の天使が反対しても、それを克服してこなければならず、神様が反対しても、それを克服してこそ、それを越えて新しい理想的なものが出てくるようになるのです。

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 真の愛は、女性から始まるのではなく、神様を通して、男性を通して来るのです。それゆえに、女性に生命の種を植えようと、男性たちが女性を尋ね求めて歩くのです。女性は器です。完全に空の器です。空の器とは、その器に入っていくものと対等な価値をもつのです。

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 人間に真の愛と偽りの愛というものが生じたのですが、偽りの愛とは何であり、真の愛とは何でしょうか。偽りの愛は、サタンと関係を結んだものであり、真の愛は、神様と関係を結んだものです。では、男性も女性も真の愛を願いますか。

 本来は、真の愛を願うのが人間ではありません。堕落したために真の愛が必要なのです。堕落したのです。これが問題です。

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 女性が女王になり、男性が王になるには、真の愛を中心としてなるようになっています。真の愛を中心として女王、または男性の王が生まれるようになっているのであって、真の愛がなければ生まれることができないようになっているのです。真の愛は、最高の位置で会うのです。最高の位置で二人がぴたっと一つになり、ここに神様が連結するのです。結婚するのは、最高の男性世界と女性世界を成し、神様を占領するためなのです。二つの世界を占領するためだというのです。男性や女性は半分にしかならないので、完成するために結婚するのです。真の愛は、神様と一つにするのです。

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 神様と人がどこで一つになるのでしょうか。結婚式の時に一つになるのです。本然の真の愛の中心である神様を中心として、ぴたっと一つになるのです。それは何かというと、神様がアダムの心に入っていき、エバの心に入っていくという意味です。アダムとエバの結婚式は、神様の体の結婚式です。神様の結婚式です。

 外的な位置が体であり、内的な位置が心です。それで、直接的に神様が私たちのお父様です。神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命です。神様の血筋が私の血筋です。

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 夫婦は、すべて違う所から来て結ばれるでしょう? しかし、夫と妻が父母になって私を生み、父子の因縁を残すようにしたのですが、その横的な要素の中で、一つは他の所から来ました。それゆえに、夫婦は別れても、父子の関係では別れることができません。縦的なものは一つしかないのです。これを知らなければなりません。天地間に、本然の真の愛を中心として、人類歴史を引き継いであげ得る血統的伝授の道は、垂直の位置一つしかないのです。垂直の位置が、なぜ必要なのですか。垂直に入っていけば影がなくなります。正午になれば影がなくなるでしょう? 神様と人間の理想的な愛の理想を中心とした垂直関係ができませんでした。

 それゆえに、この宇宙の中で、人間と神様が真の愛を中心として垂直的な直短距離で連結できる道とは何でしょうか。このように連結できる関係は、父子の関係です。直短距離は、垂直以外にはありません。少しだけ違っても垂直ではありません。直短距離なので垂直です。その垂直を中心として、父母は東西に直短距離で連結しています。

 それから、兄弟も前後に直短距離です。これが九〇度です。これを面で見れば二十四面です。全知全能の神様がそのような理想的構想力をもたれたので、垂直と水平が九〇度を成し遂げ、前後、左右、すべて九〇度を成し遂げた球形の中央に、宇宙の真ん中にいらっしゃるのです。神様は、何を中心としていらっしゃるのですか。真の愛を中心としていらっしゃいます。神様に尋ねてみれば、それしかないとおっしゃるのです。

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 真の愛は、通じれば絶対的になることができ、唯一的になることができ、永遠不変になることができるというのです。真の愛に一致した人は、神様に対して相対の位置に立つことができます。唯一的な神様、絶対的な神様、不変的な神様、永遠の神様にいつでも相対できる環境圏内に入っていくというのです。

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 私たち統一教会員の関係は、自分の兄弟より近いのです。このように、今後世界は、前後の世界が一つになり、その次には夫婦が一つになり、左右の世界が一つにならなければなりません。上下、前後、左右が一つにならなければなりません。

 上下、前後、左右、これは何ですか。上下は子女の道理、前後は兄弟の道理、それから左右は夫婦の道理をいうのです。このようにして完成すれば、霊界の神様の位置に上がっていき、神様に帰らなければなりません。それは、真の愛だけができることを知らなければなりません。

 真の家庭は、このような公式的基準に訓練され、完成したアダム家庭を拡大させたものなので、この世界に拡大させれば東西が一つになるのであり、それは、男性と女性が一つになったのと同じです。男性を中心として、主体を中心として相対が一つにならなければならず、前後が一つにならなければならず、上下が一つにならなければならないというのです。そのようになれば、原理的な内容を中心として、真の愛によって一つの世界が間違いなく完結するのです。

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 神様を中心とした真の愛の道が、天国に行く道です。偽りの愛の終着地が、いわゆる地獄です。今まですべての宗教は、それをはっきりと分かりませんでした。地獄と天国のバウンダリー(境界線)を知らなかったのです。今明らかになりました。堕落した愛を復帰して再出発することが、天国の出発だというのです。


三 神様の愛の絶対対象は人類の先祖アダムとエバ

 新しい万物をつくっておいたそのエデン、新しい万物と共に永遠の福楽を享有しなければならない主人公のアダムとエバ、そのアダムとエバを立たせておいて、新しい心情的な理念を抱いて見つめていらっしゃった神様、その神様には、一瞬でも貴重でない時がなかったのです。アダムとエバが挙動するその一瞬一瞬は、表現できないほど深刻な瞬間であり、表現できないほど貴い因縁の時間だったというのです。

 成長するアダムとエバは、日が進むに従って理知と知能が明るくなり、神様の本性に代わるにおいて不足なものがありませんでした。彼らは、神様から造られる新しい世界に対して、神様の心情に代わって見ることができ、聞くことができ、触れることができる資格者に間違いなかったのです。

 神様は、アダムとエバを見つめられながら、彼らの動きが神様御自身の動きであり、彼らが話す言葉は神様御自身の言葉となり、また彼らが聞いて、見て、感じるすべてのものが、神様御自身が聞いて、見て、感じるものになることを願われました。そのような関係と因縁圏内にいるアダムとエバは、神様が心中で描かれた、神様の全体に代わる存在だったことに間違いないというのです。

 アダムとエバのためにつくられた万物を抱いていらっしゃる神様は、アダムとエバを立てておいて、どのような一日を待ち焦がれ、慕われたのでしょうか。六日目までにすべて万物をつくり終えられたのですが、アダムとエバを完成した姿で創造されなかったということは、アダムとエバと神様の間に、必ず何か残っていたということです。神様が願われたのは、造っておいた状態のアダムとエバでもなく、彼らが成長する姿を見つめるその期間でもなく、アダムとエバを通じて成し遂げようとする一日であったことを知らなければなりません。

 この一日を迎えるその瞬間、神様も喜ばれるはずであり、アダムとエバも喜ぶはずであり、万物も喜ぶはずなので、万物もその日を待ち焦がれ、人間もその日を待ち焦がれ、神様もその日を待ち焦がれられるのは間違いないのです。

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 私たちの先祖アダムとエバは、神様の愛の懐で育ち、神様の至聖、至大な愛の心情のもとで育てられました。しかし、いくら育つ姿がかわいくて、暮らす環境が自由だったとしても、彼らがもっていないものがあったのですが、それは何だったのでしょうか。許諾してくださった万物がなかったわけでもありません。使いがいなかったのでもありません。それは、アダムとエバが神様の息子、娘になり得る心情の因縁を結べなかったということです。それが恨です。

 神様が無限の創造の理念とともに享受することができる希望の世界を立てられ、アダムとエバによって天下万象が自由自在に主管される姿を見て喜ぼうとされたのは、彼らを愛されるためだったのです。外的なある条件が貴いからではなく、御自身の心血が彼らに浸透していて、御自身の骨肉が潜在していて、忘れようとしても忘れられない心情の流れがアダムとエバに向かっていたがゆえに、アダムとエバに天地のすべての万物を許諾されたということを、私たちは知らなければなりません。

 しかし、アダムとエバは、堕落することによって神様に背きました。万物に背いたのでもなく、施してくださった祝福に背いたのでもなく、背いてはいけない一つの原則に背いたのですが、それは何でしょうか。それは、神様と心情の因縁を結ぶことができる基盤です。心情の基盤に背いたのです。それが堕落です。

 神様は、アダムとエバを見つめるたびごとに希望の心情が燃え上がり、彼らを見るたびごとに、彼らが自己完成して幸福な生活をすることを思われて幸福の感情が燃え上がり、神様がつくってくださった天地万物を彼ら自身がつくったもののように主管して、楽しみ、なでてあげることを願われました。しかし、そのような希望の心情は、アダムとエバの堕落によって、すべて途絶えるようになったというのです。これが、私たちの先祖が過ちを犯した罪状の中でも、容認されない、とても大きな罪状だということを知らなければなりません。

 しかし、神様は、堕落した人間をそのままほっておくことができないのです。なぜですか。本来、人間を永遠の基準である原理的な法度によって造られたがゆえに、その基準を無視することはできないからです。堕落したアダムとエバを無にしてしまいたい心は切実でしたが、彼らを無にすれば、六日間でつくられた全被造世界の原則を無にすると同時に、永遠の基準まで無にしなければならない立場になり、永遠の主体であられる神様の実存まで侵害されざるを得ない立場になるので、これを知っていらっしゃる神様は、アダムとエバをもう一度救援する摂理を始められたのです。

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 サタンは、エバと愛の関係を結び、ひいてはアダムまで堕落させました。すなわち、エバがアダムを主管したのです。それゆえに、今までこれを蕩減させるために、歴史的に数多くの女性が男性たちに蹂躙されてきたのです。女性は寂しく思うかもしれませんが、それは事実です。

 それでは、神様は何のためにアダムとエバを造られたのですか。聖書を見れば「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントT三:一六)と記録されています。体が堕落して救援歴史を経なければならない人々も、体を何だと言うのですか。「神の宮だ」と言います。神の宮とは、神様が臨在される場所をいうのです。

 堕落して救援歴史を経なければならない人が、神様が臨在できる聖殿になるとしても、堕落していないアダムと比較すれば、堕落していないアダムが良いというのです。それでは、アダムの心に神様が入っていってそこにいらっしゃるのでしょうか。言うまでもなく、百年でも千年でもいらっしゃるというのです。

 それでは、アダムは、そもそも何でしょうか。アダムとエバが何も分からない間抜けならば、神様が創造された天地万物を主管することができないのです。すなわち、天地を創造した技術者のような実力がなくては、主管できないというのです。それでは、誰が主管の能力を下さるのでしょうか。正に神様であられます。すなわち、神様がアダムの心と体に入っていき、アダムをコントロールして初めて正しく動くというのです。

 このように考える時、神様の体になるように造られたアダムが人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには、実体、すなわち体があってこそ見聞きできるので、神様の実体になるように創造された存在がアダムだというのです。それでは、エバは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。したがって、アダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻をもらうなどとんでもないと思うかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体であり、エバは実体をもった神様の妻として造られたのです。

 そのようなアダムとエバは、どのようにしなければならないのでしょうか。見えない神様の内在的な性稟にそのまま似て一体を成し、愛の実を結ばなければなりません。そのようにすれば、その息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘だというのです。真の愛を通してアダムの息子であり、神様の息子をつくらなければなりません。ところが、正常な軌道で愛の因縁を立てられなかったことが億千万代の恨の歴史であり、今日この悲惨な堕落の歴史だということを皆さんは知らなければなりません。

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 神様が王ならば、アダムとエバは、神様の初代王子、王女です。神様の相対として、天宙のすべてのものを相続し得る神様の初代王子と初代王女が、私たちの最初の先祖であるアダムとエバだったことを、はっきりと知らなければなりません。このように、王族心情圏に一致する生涯を終えて入っていく所が天国です。これを今まで歴史始まって以来、どの宗教家も分からず、誰も分かりませんでした。

 ところが、既成教会では、「イエス様を信じれば、すぐに救われる」と言います。そのようなばかな話はありません。心情圏、長子権において、アダムとエバは、初代の長子と長女でした。初代の真の父母であり、地上王国の初代の中心人物でした。その王を中心とした王族が地上に残っているならば、今この世界はどのようになっていたでしょうか。神様の理想を中心として、すべてのものが準備されていたはずですが、堕落することにより、サタン圏を中心として数百、数千の民族が分裂し、闘いの渦中で王族圏を制圧してきたのです。それが堕落の結論です。

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 無形の二性性相の主体としていらっしゃる神様の男性格性稟を実体として展開し、神様の内的性稟を見えるように実体として展開して相対的に造ったものがアダムであり、神様の内的な女性格性稟を実体として展開したものがエバです。別の言い方をすれば、神様の内性的なすべてのものを投入して実体化させたものが人間の体だというのです。

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 エバゆえに、本来の理想的なアダムとエバが二人とも壊れたのです。それゆえに、理想的「後のアダム」として来られたイエス様の前に、堕落したエバ、すなわちマリヤがイエス様の妻になるエバを復帰してあげなければなりません。復帰するには、マリヤ一人ではできません。創造主がアダムを中心としてエバを造る時も天使長が協助したので、復帰歴史完成のために、「後のアダム」を型としてエバを造る時も天使長が協助しなければなりません。そのようにすることによって、エバが復帰されるのです。

 そして、イエス様と復帰されたエバが一つにならなければなりません。天使と天使長の立場である僕たちが、アダムの立場であるイエス様を中心として、エバの立場である娘を創造したとすれば、その娘は堕落していない神様の娘ではないですか。マリヤとヨセフが、その神様の娘とイエス様を祝福してあげなければなりません。ここで、神様の娘と神様の息子が一つになるのです。

 主管性転倒問題は、エバが行ったことなので、女性が責任をもたなければなりません。それゆえに、マリヤが天使長も復帰してあげるべきであり、アダムも復帰してあげるべきであり、エバも堕落前のエバに復帰しなければなりません。マリヤが、このすべてを復帰しなければなりません。ですから女性は、主管性を転倒しなければなりません。マリヤは、天使長とアダムとエバ、この三つを復帰するだけでなく、神様の心情まですべて探し立てなければなりません。

 それをすることによって、神様のみ旨と人類の目的が成し遂げられるのです。神様が四千年間願ってこられたみ旨と、人類が今後天国を成すことのできる起源が、ここでできるのです。ですから、これが人類の目的点となってきたのであり、神様の目的点となってきました。

 アダムとエバが愛を結び、愛を完成すれば、そこから完全なものへの出発がなされるのです。それゆえに、主管性転倒を必ずしなければなりません。

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 もしアダムが堕落しなかったならば、アダムとエバが成し遂げた家庭は、神様が喜ばれる家庭であると同時に、人類始祖において最高の幸福を感じることができる基台になったのです。苦痛とか失望とか、あるいは嘆息などを見たり感じたりせず、喜びと幸福だけを感じて永遠を希望とし、神様の直接主管圏内で神様の主管を受けたのです。ところが、アダムとエバの堕落により、このようなすべてのことが誤ってしまいました。

 したがって、それを復帰しなければならないのですが、それをそのままでは絶対に復帰できないのです。必ず、創造原則によって復帰していかなければなりません。これが原則なので、今までの復帰歴史を見れば、再創造歴史を通してそれをなしてきたことが分かります。エデンの園には、天使長がいて、エバがいて、アダムがいて、神様がいらっしゃいました。別の言い方をすれば、神様を中心として四位の形態を備えた位置だったというのです。そのような位置で堕落したので、復帰するにおいては再創造原則を通さなければなりません。それで、今まで復帰歴史は男性が担当してきたのです。

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 ユダヤ民族がイエス様を受け入れなかったために、イエス様は、一人で国家と世界のために自らを犠牲にすることに決めました。イエス様は、家族を離れなければならず、孤独に生きなければならなかったのです。しかし、神様の愛を受けました。結局彼は、堕落したアダムとエバの救援のために堕落していない兄弟が犠牲にならなければならなかったように、人のために自らを犠牲にしました。

 すべての人が堕落したアダムとエバの位置にいました。彼は、彼らのために自らを犠牲にしました。祭物になりました。自分を殺そうとする人々を呪わなかったのです。むしろ、神様に彼らを祝福してくださるように願われ、祈られました。それゆえに、イエス様は、神様と堕落したアダムとエバの間に仲保者として立ったのです。

 イエス様は、堕落していないアダムとして亡くなりました。そして、全世界、人類の救援のための公式的な道を行きました。それで、彼に従う者は誰でも救われる、代表的なアダムになったのです。

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 もしアダムとエバが成熟し、完成していたならば、彼らは、夫婦の愛によって一つになることができたのです。彼らは、肉体的だけではなく、霊的にもお互いに愛するようになっていました。その場において、アダムは、お父様であられる神様と縦的に一つになることができ、エバは、お父様と娘の立場で神様と一つになることができました。その時、アダムとエバが望んだ位置は、一つになる位置でした。そして、神様とエバも一つになってアダムを望んだのです。

 横的には神様とアダム、そして、神様とエバ、三人がいます。この三人は、完全に一つになることを望みます。それでは、どこで彼らが会うのですか。あの上ですか、でなければこの下ですか。違います。彼らは、横的に出会って一つになったのです。もしアダムとエバが横的に一つになっていたなら、彼らはどのようになったでしょうか。完全に一体になったのです。何も彼らを離すことはできなかったはずです。

 これを成したのちに、初めて愛の位置に対する欲望が生まれます。男性と女性には、これが唯一の道であり、唯一の目標です。それは、神様とアダム、そして、神様とエバが一緒にいたいと思う唯一の位置なので、最高の位置です。神様とアダム、そして、神様とエバが一つになることができなければ、彼らはその場を占有することができないのです。その時から、神様を中心としたアダムとエバの間の授受関係が疎遠になります。

 このような観点から見るとき、私たちは、神様が縦的にだけではなく、横的にも創造していらっしゃることが分かります。これがアダムとエバを中心とした創造理想、神様の理想です。

 アダムが神様と一体になり、エバが神様と一体になれば、彼らの間ではどちらも、「私のほうがあなたより貴い」と言うことができないのです。より貴いものも、より貴くないものも存在せず、ただ完全な一つのものだけが存在するのです。しかし、様々な理由で、神様とエバのすきま、そして、神様とアダムのすきまが生じるようになりました。

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 アダムとエバが成熟して成婚式をすれば、彼らは神様を中心として直接的な愛圏内で一つになるのです。ここで中心は、誰ですか。神様です。そのようになったとすれば、私たち人間は、実体をもった神様の体になるのです。そのようにしてアダムとエバが一つになっていたならば、彼らは神様の体であり、人類の父母であり、神様の中心になるのです。いくら全知全能の神様でも、相対なくして喜べば、「狂った神様だ」と言うことができるのです。

 絶対的な神様の前に、私たち人間は、相対的存在です。絶対的な愛を中心として一体にならなければなりません。そのように、神様とアダムとエバが一体になっていれば、そのアダムとエバを中心として生まれた息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘です。そのようになったならば、神様の血族としてこの地上に家庭を築き、氏族を成し、民族を成し、国家を成し、世界を成していたはずであり、永遠であられる神様の愛を中心として結ばれたその因縁は、断ち切る者がいないので、その国自体が神様の愛を基盤とした地上天国になることを皆さんは知らなければなりません。

 アダムとエバが堕落していなかったならば、アダムがエバを愛するのは神様の代わりに愛することであり、エバもアダムを愛するのは神様の代わりに愛するという観念がここで形成されるのです。それゆえに、アダムとエバの生活は、神様の生活を表示するものになります。

 アダムとエバが喜べば神様も内的に喜ばれ、アダムとエバが悲しめば神様も内的に悲しみを一緒に感じられるようになっています。愛は、神様のものであり、アダムのものであり、エバのものだからです。一つの愛なので、そのようにならざるを得ないというのです。

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 本来、堕落していなければ、左翼と右翼はありません。統一です。「頭翼思想」や「神主義」は必要なく、そのまま天国に行くのです。救世主も必要ないのです。アダムとエバから「頭翼思想」によって神様の前に行くのであって、再び戻る必要は何もありません。すべて天国に直行するのです。アダムとエバが堕落していなかったならば、天国の王子、王女として天国に行くのです。アダムとエバは、神様の王孫でしたが、堕落したためにそのようになれなかったのです。

 アダムとエバとは誰かといえば、神様の体です。エバは、神様の実体の夫人です。神様は、霊的に縦的なお父様になります。垂直的なお父様、縦的なお父様です。皆さんの心には、その二つの父母の血統を受け継ぐことのできる本然的基準があるので、堕落したとしても永遠に変わりません。

 創造主は縦的な父母として、横的な父母を縦的な愛の相対として造られたのです。それゆえに、アダムとエバは、神様の永遠の愛のパートナーです。神様の相対です。アルファとオメガだといいました。神様から愛を始めたので、戻れば神様の友人になるのです。あとで神様に戻らなければなりません。

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 アダムとエバは、誰を中心として結婚生活をしたのでしょうか。神様がそれを干渉されたでしょうか─アダムとエバが息子、娘を生みましたか、生みませんでしたか。生みました。カインとアベルを生みました。カインとアベルを生んだのですが、神様が「おい、アダムとエバよ! お前たちは一緒に暮らして息子、娘を生みなさい!」とおっしゃって生んだのがカインとアベルですか、自分勝手に生きながら生んだのがカインとアベルですか。自分勝手にして生んだのです。自分勝手に生んだのですが、誰が喜ぶでしょうか。サタンが喜ぶのです。アダムとエバは、サタンを中心として結婚したのです。これを否定できません。

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 韓半島がアダム国家ならば、日本はエバ国家です。韓国がなぜアダム国家ですか。地理的に見るとき、韓半島は男性の生殖器と全く同じです。ちょうどローマがそうです。地中海が女性の陰部と同じで、イタリアが男性の生殖器と同じです。ですから、二つが一つにならなければなりません。このような地域は、いつも文化が離れられません。一つの文化が帰着して離れることができないのです。

 なぜなら、愛の基盤の上に立ったのと同じ立場だからです。地政学的なすべてのものを見ても、ローマと地中海は、男性と女性が一つになったものと全く同じだというのです。

 今から父と母に代わって総合的な文化時代が訪れてきます。これは、アダムとエバが堕落した時に失ってしまったものを再び取り戻す場なので、その周辺国は、一緒に堕落した三天使長の立場です。アダムとエバ、三天使長と同じです。韓国を中心として三天使長は、中国とソ連とアメリカです。アメリカは、天の側的な天使長であり、サタン側的な天使長が、中国とソ連です。台湾とインドもそうです。これがちょうどそのような立場にいるというのです。

 アダムとエバが家庭を失ってしまったその時に、アダムとエバを失ってしまい、三天使長がすべて堕落しました。それを復帰しなければなりません。それゆえに、韓半島において、ローマ教皇庁ができないことを収拾しなければなりません。ローマ教皇庁は、来られる主のために備えるというみ旨をもっていましたが、失敗しました。

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 日本は、サタン側の国です。天照大神の国を、天国のエバとして完全にひっくり返さなければなりません。次子権を日本人以外の第二世に、奪って返さなければなりません。韓国と日本は、アダム国家とエバ国家なので一つだというのです。一つにしなければなりません。日本が日韓併合する時には、銃刀で一つにしようとしましたが、文総裁は、自由の環境で、愛で一つにするというのです。

 エデンの園において、女性は一人であり男性は五人ですが、アダムは目がぼーっとしていて女性を奪うことができないのです。そのようにしようとすれば、息子、娘をすべて抱かなければなりません。息子、娘をもってこそエバを取り戻せるのです。息子、娘をすべて結婚させたので、エバは行く所がないのです。

 日本自体が国家的にこのようなことをしなければなりません。そのようにすることによって、世界を代表したエバ国家が出生し、それがアダム国家と一つになる日には、天使長国家であるアメリカまで加担して、三つの国が一つになるのです。

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 「成約時代」と言うとき、「成約」とは、アダムとエバを創造して、アダムとエバの家庭を完成することをいうのです。すなわち約束を成すことです。

 そして、アダムとエバの本然的な基準に帰らなければならないのですが、堕落の血族、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の五十億人類と、歴史時代に霊界に行った数多くの先祖までぶら下がっています。いくら歴史時代に忠誠を尽くし、精誠を尽くして神様を愛したとしても、それはすべて過ぎていってしまい、み旨を成せる成約時代に達し得ない忠誠であり精誠だったというのです。

 神様は、アダムを造られ、アダムからエバを造られたので、神様が責任をもつべきことは、アダムを再び造ることです。神様はアダムを造らなければならず、地はエバを造っておかなければなりません。そして、エバを中心としてカインとアベルの二人の息子を失ってしまったので、これを取り戻すのです。そのように種を蒔いたので、それを収めなければなりません。

 母を中心としてアベルは右側であり、カインは左側だというのです。三角形の線と同じになるというのです。地でそれを準備しなければなりません。それをどのようにすれば解放することができるのですか。個人的にカインとアベルを蒔いたのであり、アダムとエバを中心として母と息子、娘が植えたので、これを世界的に蕩減しなければなりません。

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 真の愛の礎石を、誰がおいたのですか。人間がおいたのか神様がおいたのかという問題の答えは、神様です。人間が生まれる前に鉱物をつくられ、植物をつくられ、昆虫をつくられ、すべてつくっておかれたのです。聖書を見れば、一番あとで人間を造られたのであり、最後に造られたのがエバです。

 それゆえに、結局神様は、誰と連結するのですか。女性と連結しなければなりません。神様が礎石をおいた目的は、地上でアダムとエバが一つにならなければならないからです。アダムとエバが一つにならなければなりません。それでは、アダムとエバは、横的な面において、プラスとマイナスを中心としてどこに行って一つになるのでしょうか。男性と女性が一つになるのです。男性と女性は、凹、凸で一つになるのです。

 神様は心的存在と同じなので、アダムの心に性相が入っていき、エバの心に形状が入っていき、彼らが結婚式をするようになるのです。結局は、私たちの心と体が一つになることと同じです。神様と私たちの心が一つになることが、霊肉一体と同じ立場に立つのです。霊肉一体の男性と霊肉一体の女性が神様と一つになって結婚式をするのです。結婚式は、一日、一時に一双で結婚するのです。その結婚式は、アダムとエバの結婚式であると同時に、神様の結婚式だというのです。

 それで正分合です。正で分かれたものが合わさるときは、それらだけで合わさるのではありません。アダムとエバだけではなく、神様から一つになるのです。

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 縦横を中心として運動することにより面積が生じるのですが、この面積の中で、神様の真の愛を中心として、アダムとエバが内外に同じ姿を備えるようになります。そして、私たち人類の先祖の位置で初愛を結ぶことにより、永生的で内的な神様の存在と、この肉的で一生的な存在が一つになるのです。それで、神様の心の血筋と体の血筋を受け継ぐことにより、その子女は、神様とアダム完成のすべての基準を受けるようになり神様が永生されるので、私たち人間も永生するというのです。永生論理がここから展開するのです。

 それゆえに、愛でなければ人間が神様の形状を受け継ぐことはあり得ません。神様御自身が人間の形状、体の形状を受け継ぐことはできないというのです。そのように愛が重要なのです。それで、神様の愛の理想を完成させるのに絶対的に必要なのが、絶対主体の前の絶対対象だというのです。その対象的な存在がアダムとエバです。

 ここは、内的な形状であったものが実体として分かれ、再び完全なアダムとエバを中心として愛によって一体となることにより、結局は、心的実体である神様がここに内的に入ってこられ、体的な実体であるアダムとエバが愛で一つになるのです。ここにおいて神様もアダムの形状に似て、アダムも神様の内的な形状に似て地上に定着するのです。これが家庭の基盤です。これを知らなければなりません。これが宇宙の根本です。


四 真の愛の初舞台は真の家庭

 神様は、真の愛でアダムとエバを造られました。そのアダムとエバは、神様の本来の性相と形状が展開した実体です。神様の見えない性相と形状が実体として現れたのが、創造されたアダムとエバです。それゆえに、大きくなって上がっていかなければなりません。大きくなって神様と一つにならなければなりません。完成したアダムとエバになっていたならば、彼らの心と体が自動的に一つになるのです。

 しかし、堕落のために彼らの心と体が闘ったのです。今まで、これが分かりませんでした。神様の創造理想どおりに人間が完成したとすれば、心と体は闘いません。闘う人になったということ自体が、「神様はいない」と否定し得る条件になるのです。

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 真の愛は、一人では成すことができないのです。相対がいなければなりません。皆さんも、自分の相対が自分よりも立派であることを願いますか。誰でも、自分の息子、娘が自分よりも立派であることを願うというのです。そのような心は、神様から来たのです。

 それゆえに、神様も、愛の相対が神様より立派であることを願っていらっしゃる事実を知らなければなりません。愛の相対が横的にも縦的にも自分より立派であることを願う本然的起源は、神様にあったというのです。

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 女性の心と男性の心が一つになり、女性の体と男性の体が一つになれば、神様の形状になるのです。そのようになれば、その中心に神様が臨在し、永遠に定着することができるというのです。正分合作用が三段階を経て、心的基準と体の基準が一体理想を成すのです。

 愛の一体、縦横に理想世界の一体圏が成されるというのです。心身一体という概念に、すべてのものが統合されるのです。

 愛が一体となることにより、実体の神様として地上に定着し、繁殖した家庭が神様の家庭になり、神様の一族になり、神様の民族になり、神様の世界になるのです。そのようになれば、堕落による心と体の闘いがすぐになくなります。神様の性相と一つになっているので、自然に神様の愛が臨在して男性と女性の相克がなくなるのです。衝突なく、自動的にお互いが愛することができるようになるのです。そこに神様が臨在され、家庭で心的な存在となり、夫婦は体的な存在として一体を成し遂げるのです。

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 真の夫婦というものは、真の生命体を中心として、男性と女性が真の愛によって結束した夫婦です。そのような夫婦が真の夫婦です。社会は、そのような因縁を連結しなければなりません。兄弟圏の心情を横的に拡大した相対圏が真の社会、真の国家、真の世界です。人間は誰しも、自分自身が宇宙の代表になりたいのです。

 真の愛を背景とする因縁を中心として見れば、すべてが平等なので、それに背く者は、立つ位置がなくなるのです。唇は、真の愛によって連結します。それゆえに、生命、愛と血統、これが自分自身です。

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 真の愛の第一故郷は、真の家庭です。真の家庭とは何ですか。そこには真の父、真の母、真の夫、真の妻、真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。

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 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り、子女はその真の愛に無限に感謝するようになり、父母は大きな喜びでその犠牲を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力は、授け受けする作用を発展させ、真の家庭で、そして、真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところで、永生の理想世界が顕現するのです。

 しかし、このような真の愛が欠如した家庭と国と世界は、抜け殻にすぎず、むしろあらゆる不信と反目と不倫の納骨堂になってしまうのです。人間の純粋な真の愛が成長して完成する場は、真なる家庭です。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛、そして、真の兄弟の愛が共に完熟して実践される真の愛の初舞台は、真の家庭です。

 真の父母の真の愛を通して神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通して真の国と真の世界人類に対する普遍的真の愛を訓練させる、平和世界の基本核の場が真の家庭です。それだけでなく、父母と子女間に受け継がれる真の愛を通して、過去と現在と未来の世代が一貫した真の愛の価値観によって連結していくようになる、歴史的連結の輪の基本単位も真の家庭です。

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 おじいさんとおばあさんは、父と母のために死を覚悟して、命を懸けて愛する、これがどれほど幸福ですか。また父母は、息子、娘のために命を懸けて愛するというのです。どれほど幸福ですか。

 皆さんは「愛のために死ぬ」と言うのですが、孫がおじいさんのために死ぬことが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために、愛を中心として生命を捧げようとする家庭が真なる家庭だという結論が出てきます。

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 神様が最も好まれるものとは何ですか。神様が最も好まれるものとは真の愛ですが、真の愛が最も喜ぶ相対的基準は何かといえば、アダムとエバの家庭です。この家庭は、理想的な神様の立場に立てられたものです。

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 レバレンド・ムーンが教えてあげる真の愛の道、真の愛の男性と女性が行き、真の家庭が行き、真の国が行き、真の世界が行く道は、絶対的です。一つしかないのです。二つではありません。それを教本として、すべての人が向かい合える所が家庭だというのです。

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 祝福を受けた夫婦がけんかをすれば、どのようにするのですか。夫婦がけんかをすれば、自分の息子、娘を呼んでおいて、その次には信仰の息子、娘を呼んでおいて、許しを請わなければなりません。カインとアベルが、行くべき伝統に背いたのです。ですから、自分の息子、娘と信仰の息子、娘がアベルとカインの立場であり、彼らが一つになれずに反対のことをしたので、カインとアベルの子女に悔い改めなければなりません。そのような時が来るというのです。共同運命です。息子、娘が間違えば、父母に許しを請わなければなりません。もし夫、父が間違えば、その息子、娘と夫人に許しを請わなければなりません。それが真の愛を中心とした真の家庭です。

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 宗教は、神様を尋ね求めていくのです。神様の教えを尋ね求めていくのです。それを成し遂げるのは、神様ではなく人間です。相対的な愛を尋ね求めていくのですが、どこでそれを定着させるのかといえば、教会でもなく世界でもありません。正に家庭だというのです。家庭に真の愛の種を植えなければなりません。真の家庭によって拡大するためなのです。そこには宗教観念がありません。





















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