天総官 文興進様
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第一章 真の御父母様の御家庭と興進様

一 真の御父母様の御家庭の来歴

1 真の御父母様の家庭的信仰基盤

 先生の家門に代々伝わってきた伝統は、おなかをすかせた人を手ぶらで帰してはならないというものです。お客さんが訪ねてくれば、絶対にそのままでは帰しません。祝宴の日に訪ねてくる人をそのまま帰してはならないという、そのような家訓があります。

 韓国全土の多くの人々に御飯を食べさせたのです。私の家は道のそばにあったので、日帝時代、日本人の搾取に耐えることができず、満州に避難していく全国の数多くの人々に、母は何度も御飯を作って食べさせました。

 母が毎日、三、四十人の人に御飯を作って食べさせるのです。生涯そのようにしながら、一言も不平を言いませんでした。(一一一−三〇九)

 私のおじいさんもそうでした。冬に乞食が「御飯を下さい」と言って訪ねてくれば、台所で御飯を食べていた母や嫁がすぐに出ていくのですが、その準備ができていなければ、おじいさんが自分の食膳を持って出ていくのです。乞食に御飯を与えて、自分は食べることができなくてもかまわないというのです。

 韓国全土の人々に御飯を食べさせた、そのような家門は滅びません。韓国全土から歓迎される後裔が生まれるのです。ですから、レバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。

 私もそうです。私も、世界の人に御飯を食べさせるのです。御飯を食べる時、御飯を食べることができなかった人がいれば、私のさじは動かずに止まってしまいます。御飯を食べさせてあげたのは言うまでもなく、先生一代において買ってあげた服だけ挙げてみても、数万着になるでしょう。ところで、いったいなぜそのようなことをしたのでしょうか。愛の平準化、生活の平準化を常に考えなければならないからです。(一四七−三〇六)

 私の父について言えば、法がなくても生きることができる方でした。

 もし、父が急に必要なお金を借りてきた場合、そのお金を返すと約束した日には、利子まで返してあげなければ我慢できない性分でした。どのようなことがあっても、その約束を履行する方でした。約束を遂行するにおいて模範的な方でした。法がなくても生きることができる人だというのです。(四五−一三五)

 私の幼い時に、私の父がしてくださった話をします。

 親戚の中で、頭が良くてずる賢い人がいました。彼がうちの財産を自分の名義に移そうとしたことがありました。その時、私の父がおっしゃった言葉は、「小さな計略ではすべての真理は動かない。真というものは、計略や浅知恵の支配を受けない。大義による、その中心に支配を受けるのであって、そのようなことは何年もせずに明らかになる」というものでした。そのようにしながら、知らないふりをしていらっしゃったのです。(一二四−一九三)

 また、私の父は、四百ページにもなる賛美歌をもっていましたが、それを一度さっと目を通してからは、教会に行く時に持っていかないのです。「お父さん、なぜ持っていかないのですか」と聞くと、「持って歩けば煩わしいのに、なぜ持って歩くのか。なくしてしまったりするから置いていこう!」と言うのです。「それでは、どのようにして賛美歌を歌うのですか」と聞くと、「どのように歌うかだって? 人が歌う時に、それについて歌えばよく、分からない時は、私の前に立っている人のものを見て歌えばよいだろう」。このように言って、一人ですべて賛美歌を頭に入れてしまわれるのです。(一三九−五〇)

 先生は、体が壮健で力も強いでしょう? 私の父も、米俵を一つ、このように持って階段を上がっていました。そのような良い血族に生まれたので、七十歳を越えた今でも、びくともしないのです。(二一一−三一八)

 私の母は活動的で、私の父は学者タイプです。根本的に性格が異なっています。父は、何をするにしても考えてからしました。ですから、合わないのです。そのような二人の間から先生が出てきたので、高い所と低い所、すべてを測定することができるのです。高くても低くても、通じない所がありません。これをすべてハーモナイズさせ、消化することができるので、レバレンド・ムーンになったのです。(一〇七−四六)

 私の母は、性格がとてもすごい人です。むちでたたいて降参しなければ、死ぬまでたたく性格です。私も、その母に似て、頑固かは大変なものです。一度始めれば、降参するまで後退することを知りません。(六三−二三九)

 私の家について言えば、娘が六人で、また兄が一人いました。母は、十三人の子供を生みました。(一六三−二三七)

 私の母は、とても苦労したのです。その多くの子供たちを結婚させるために、木綿を織らなければなりませんでした。木綿を織るためには、綿を摘んでそこから種を除き、糸車に入れて糸を抜かなければなりません。(一四一−三二)

 そのようなことにおいて、私の母はチャンピオンでした。母は力が強いのです。二日あれば、普通の女性が三、四枚織るところを、二十枚織ってしまうのです。私の姉が嫁に行く時は、一日に一反を織りました。忙しいのに待っている暇があるでしょうか。さささっとして織ってしまうのです。私は、そのような性格に生まれついたので、さささっと上手にするのです。その母、その父、故郷の私の母は、私を本当に愛しました。すべての母親が息子を愛すると思いますが、特に私の母は、私を愛しました。それをすべて話せば、涙を流す場面がたくさんあるのです。(一四一−三二)

 私は、種が少し違います。韓国語を話しますが、大韓民国の種と少し違うと思うのです。私は、そのように思います。ですから私は、先祖が少し違うのではないかと思います。少し寂しいでしょう? (二〇二−七七)

 祝福家庭の子女だからといって、先生の前で「なぜ私たちを冷遇するのですか」、このようなことを言うことはできません。先生が生まれるにおいては、そのような皆さんの条件を超えて生まれました。天が私を生まれさせる時の、あらかじめ血統を通じて準備して生まれさせた時のその基準は、祝福を受けた父母から生まれた皆さんの位置よりも優れた位置だというのです。

 先生は、未知の世界をすべて明らかにするために、皆さんが想像できない受難の道を経て、苦痛の道まで歩みました。そのような福は、何の価値もなく相続することはできません。そのような道理はありません。その家門の息子として生まれたのならば、その家門を代表した父母ならば父母、国王ならば国王を誰よりも愛し、その愛した形跡が永遠万代にわたって称賛できる位置に立ってこそ、その代を継ぐことができるのです。これが相続、伝授の原則であって、いい加減にしてはならないというのです。(一三七−二四九)

 私の家は、愛国者の家系です。李承晩博士と崔南善先生と友達だったおじいさんがいらっしゃったのですが、漢学に堪能であり、神学を勉強し、英語も上手であり、私よりも美男子な方でした。外見が本当に立派なので、「あの方は大統領にふさわしい人物だ!」と思っていました。私が幼い時です。七つか八つぐらいの時のことですが、そのおじいさんが日本の警察に捕らえられていき、三年近く監獄生活をしたのちに出てきました。(二〇〇−一九五)

 おじいさんが監獄生活をする間、独立軍の軍資金の調達網に支障が生じ、大変な困難を経験しました。どれほど苦しみを味わったのか、おじいさんが出獄したという消息を聞き、独立軍が、夜中の一時、二時に雪道をかき分けて訪ねてきました。父と母は、私たちのような子供が見てはいけないと言って布団を掛けて寝かせようとし、うどんをゆで、鶏をほふって彼らを接待しました。そのようなことが、数日前のことのように鮮やかに目に浮かびます。その時、私が思ったことは、「国のために生きたのに、なぜあのように立派なおじいさんが監獄に行かなければならないのか。韓国が日本よりも強ければ、このような姿、このようなありさまにはなっていなかったはずなのに……。力がなくてそうなのだなあ!」ということでした。そのような結論を下しました。(二〇一−一四四)

 「人間世界における力をもったいかなる国も、正義の国だと信じることはできないが、天地間の大主人が神様でいらっしゃるならば、その神様は信じることができるだろう」と考えたのち、神様はいるのかいないのかという問題について探究を始めました。神様の実存を知れば、人生の根本問題を明確に解決することができるはずだと信じ、掘り下げていったのです。

 そのようにしていくと、このように統一教会の教主になったのです。この服がどれほど多くの涙にぬれ、手足にはどれほど多くのまめができたか分かりません。平均十二時間以上祈祷したのです。そのようにしなくては御飯を食べることができず、この問題が解けなければ眠ることもできませんでした。(二〇一−三四四、一九九。・四・三〇)

 坡州に祖父の弟の墓を移葬しました。その方は、有名な牧師でした。そして、日本と闘った愛国者でもあったのです。三・一独立運動の時は、北朝鮮においてキリスト教を代表する指導者でした。文章に秀でた方であり、三∴節独立宣言文を作る際、その宣言文を作成した五人の中の一人でした。先生の幼い時を思い起こしてみれば、そのおじいさんは体格が本当に立派でした。先生とは比較にもならないほど立派だったのです。体格の大きな素晴らしい男性でした。進歩的でもありました。日本の憲兵に捕らえられていって二、三年間の監獄生活も経験し、自身の財産をすべて投入して独立運動をした方でした。

 ところで、その当時は、日本人が金融組合をつくって農民にお金を貸し出し、返すことができなければ土地を奪っていきました。そして、多くの日本人を連れてきて定着させ、韓国人は満州に追いやったのです。そのことに韓国の人々は、みな反対しました。そのおじいさんも反対を主導した人々の中の一人でした。それで、その当時の相場で言えば七万円から八万円にもなる自分の兄の土地を、上海臨時政府の軍資金として献納したのです。

 その当時の八万円といえば、大きなお金でした。当時先生が日本に行く時に、三ヵ月分の学費としてもっていったのが百円だったので、大変なお金でしょう。日本の憲兵が知れば大変なことになるので、そのお金をすべて賭博でなくしてしまったといううわさを広めておいてから、夜中に逃げ出しました。それで、北朝鮮に居続ければ大変なことになるということで、一九四五年以前に南側に来たのです。その時、そのおじいさんには、家も何もありませんでした。第一の主要容疑者でした。日本の憲兵が捜し回るので、流れ者のようにさすらっているときに、江原道の族善という所で亡くなったのですが、文氏の姓をもった弟子の山に埋められました。

 そのおじいさんが文長老の夢に現れ、「自分はどのようにして、どのような場所に埋められている」ということを教えてくれたのです。それがとてもはっきりしていたので、教えてくれたその住所のとおりに手紙を出しました。手紙を出すと、すぐに返事が来たので、その墓を訪ねていき、今は、坡州の興進の横に移葬しました。その方は愛国者だったので、霊的に現れて自分が死んで埋められている場所を教えることができたのです。そのように見れば、先生の家門は愛国者の家門だと言うことができるのです。そのような韓国的な立場において、伝統的にはそうだというのです。(一九二−二三〇、一九八九・七・四)

 私のおじいさんの代を見れば、三人の兄弟がいらっしゃったのですが、末のおじいさんは牧師でした。このおじいさんは、三・一独立運動の平安北道総責任者として、全国の責任者たちと内的な計画を行ってきていました。そのようにする中で、五山学校の職員と生徒、および教会信徒、そして五山の住民たちを率いて万歳デモ運動を繰り広げられたのです。この時、主謀者として日本の憲兵に逮捕され、二年間の獄中生活をされました。獄中から解放されたのちも、安らかに故郷で暮らすことができず、生涯異郷暮らしをされました。

 また、私の父の代において、叔父も行方不明になりました。もちろん客死されたのですが、墓があるのかないのか分かりません。

 蕩減は、このような過程を経なければなりません。言い換えれば、悲運の生涯を経なければならないのです。このようにして三代目に至り、初めて正常な闘争の歴史が始まったのです。すなわち、復帰の基盤が生じたということです。

 私の兄は、弟である私には絶対的でした。カインの立場から完全に蕩減できる時代が自然に造成されたのです。兄の信仰は徹底していました。兄は、六・二五動乱が起きることもあらかじめ知っていて、我が民族が解放されるということもあらかじめ知っていました。あらゆる難しい問題を霊界の指示を通して解決するという信仰態度をもっていました。

 兄には病気がありましたが、それは仕方のないことでした。しかし兄は、薬を使って治すという考えは夢にももちませんでした。ひたすら祈祷により、信仰によって病気を克服していきました。そのような信仰基準でその病気を治したのです。

 私の兄は、弟である私に対して「私の弟は、歴史的な弟だ」ということを知っていました。ですから、私が何かを言えば、絶対的に従順だったのです。私が平壌に行っている時、その時は復帰摂理の途上においてとても大きな役事がある時だったので、私が頼むことは普通の考えでは信じられないことでしたが、兄はあらゆる内容を備えて私を助けました。その頼みがどれほど難しいものであっても、そのことを行うのに躊躇しませんでした。

 このような兄と引き裂かれるようになりました。南北が引き裂かれるようになったのです。私の家庭の事情が拡大して国家の事情になりました。兄と弟が一箇所に集まって父母に侍ることができないのと同じように、今、南北が全く同じ事情になっています。

 兄は、間違いなく北の傀儡の手によって殺されました。また、私が韓国の地に来てこのようなことをしているので、北朝鮮の地に残っている私の一家親戚は、この上ない受難と逆境に遭いながら生きる中で亡くなり、また、今でもそのように生きているはずです。

 歴史的過程を中心として見るとき、必ずそのような過程を経なければならないのです。(二九−二〇八、一九七〇・二・四)

 先生と最も親しかった友人、天から祝福してあげ得る立場にいる友人たちは、みな連れていきました。みな除去してしまったのです。世の中において信じ、頼ることができる人は、みな切ってしまいました。彼らの中には、平安北道の人もいて、黄海道の人もいました。誰よりも親しかった友人たちをみな連れていってしまったのです。

 また、兄弟について見ても、私が最も愛した妹を連れていってしまいました。私が監獄に入っている時、何の罪かは分かりませんが、連れていきました。彼女は、私のすぐ下の妹です。私の家庭には娘が多かったのですが、おばの家には娘がいなかったので、おばの懇請により、その妹はおばの家に行って暮らしました。ですから先生は、いつもその妹のために多くの祈祷をしました。

 その妹も、兄に対して絶対的でした。ですから、兄として、妹が喜ぶことならばどのようなことでもしてあげなければならないと考えていたのですが、その基台までもすべて切ってしまいました。妹だけでなく、愛する弟も連れていきました。また、先生の子女の中からも、聖進の弟である喜進も連れていきました。息子で見れば、二番目を連れていったということでしょう。娘も、二番目を連れていきました。このようなことを見るとき、蕩減には許しがありません。先生だからといって例外ではありません。(二九−二〇八、一九七〇・二・四)


2 真のお父様の性格

 皆さんは、人生を生きていくにおいて、このようなことあのようなこと、すべて百科事典に記入できる材料を取得しなければなりません。先生が小さい時は、たくさんけんかをしました。村に行き、大きな者が小さな者にこぶしを振り回せば、私が代わりに引き受けて闘いました。先生は、一度けんかすれば絶対に後退しません。どれほど体格が大きな者であろうと、私に「悪かった」と謝って退くのです。一日だけけんかするのではなく、一年中、三百六十五日けんかをしました。このようにすさまじい人なのです。

 私の話をします。このような話をすれば、先生の過去が露見するので恥ずかしいのですが、それでも仕方ありません。霊界に行けばすべて分かるので、あらかじめ教えてあげます。先生が泣き始めれば、一時間で終わりません。ですから、あだ名は何かというと、「一日泣き」です。一日中泣いて初めて泣きやむので、一日泣き」というあだ名がついたのです。

 また、泣くにおいても、静かに座って泣くのではなく、村中が吹き飛ぶほど泣きました。村のおじいさんやおばあさんがみな出てきて見物するほど、そのように村中を騒がせ、寝ていた人まで目が覚めるほど泣きました。静かに「えんえん」とは泣きませんでした。大変なことが起きたかのように泣き続けました。それで、喉がはれて声がかすれ、最後には声が出ないほどでした。静かに座って泣くのではなく、ぴょんぴょんと跳ねながら、傷ができて肉が裂け、部屋が血だらけになるほど泣いたのです。それほどならば、先生がどのような性格かということが分かるでしょう。

 よくよく見れば、神様は本当に知恵深いお方です。私がそのような性格の持ち主なので、霊界であれ何であれ、一度行くと決心すれば、死ぬまで放さないのです。

 私は気性がものすごいのです。村で面対抗の相撲大会をしたのですが、それは、私が一等を取るようになっていました。しかし、二等になったのです。その時一等になった人は、私よりも四つも年上で、背も高かったのです。それで、「こいつ、私が六ヵ月以内で必ず勝ってみせる」と決心しました。(五〇−二八六、一九七一・一・八)

 アカシアの木は、本当にしなやかで丈夫です。田舎で暮らしている人は知っていると思いますが、春にこのアカシアの木の皮をはがせば、一度にさーっとむけます。そして、皮をはがしたアカシアの木をつかんで、毎日相撲を取ったのです。それは、運動の中で本当に素晴らしい運動です。このようにして、六ヵ月ではなく三ヵ月内で、十目ならば十目倒して初めて眠りました。その前には眠りませんでした。

 聖進や孝進も同じです。外で遊べば、頭が割れようと腰が折れようと、最後までやり抜いてしまいます。それは、お父様に似てそのような性格なのです。(五〇−二八六、一九七一・一一・八)

 既成教会が反対し、大騒ぎしても、先生はすさまじい心で耐えました。「彼らは既に負けた者たちだ」と考えるのです。死ななければそのようにするのです。それゆえに、私が死ぬまでこのことをするのです。統一教会に入ってきた人は、このことをしなければならないということを考えるとき、息が詰まるので、運の悪い人々がここに入ってきたと考えるのです。

 先生は、何かをする時、できないことは最初から手をつけません。事前にそれがすべて分かります。私は、私の行くべき道を知っているのです。「あー、この時はどのような時に入っていくので、このようにしよう!」と、その時に正しく合わせます。時に正しく合わせようとすれば、時をよく知らなければならないのです。私の行くべき道は、きちっと組まれています。そのような時は、休まないでしがみつくのです。(五〇−二八六、一九七一・一一・八)

 先生は、昔、監獄にいる時もそうでした。私は編み物を本当に上手にします。作ることができないものがありません。セーターのようなものも、すべて一人で作って着ました。足袋のようなものも上手に作ります。パンツやすててこのようなものも、私が一人で上手に作りました。私は、女性なしで一人で生きようと思い、すべてのものを研究した人です。生涯独身生活をしたとしても、このみ旨を私の終生の事業と決めて立ち上がった人なので、できないことがないのです。

 私が帽子をさっと編めば、本当にきれいな帽子をかぶることができます。手袋を編んでも、本当に早く編みます。女性の世話にならず、私に必要なものはすべて私の手で解決しようと考えたのです。私は、御飯も上手に作ります。包丁さばきを見れば、素人の腕前かそうでないか分かります。私が包丁を使う時は、とんとんとん、とんとんとんとします。おかずを作るのを見れば、腕が良いのか悪いのかすべて分かるのです。

 先生は、七年以上自炊生活をしました。ですから私は、多くのおかずを必要としません。地方に行けば、おかずを大きな膳に次から次へとたくさん整えるのですが、私は喜びません。一つのものであっても、口に合うように作ればよいのです。先生は、一つのものに対すれば、終わりまで見届けてしまう性分です。おかずもそうです。

 どれほどおかずが多くても、箸はつけてみますが、食べるおかずは一つだけです。私がおかずを作るときは、一つのものだけ買ってきて、作って食べます。簡単なのです。(五〇−二八六、一九七一・一一・八)

 先生が、地方のどこどこに行かなければならないといって、朝出てきてさっと車に乗れば、気分が良くない時があります。そのような時は、車を回して別の所に行きます。

 ですから、先生は誰かと約束することを最も嫌います。幹部たちが何かの時間を決めれば、私はその時間に対して責任をもちません。先生は、常に約束をしないようにします。なぜでしょうか。人間世界において、きょうのあなたと私の約束に対して、いつも一方的にその約束の基準に立つことができるとは限らないからです。それよりももっと大きな問題が今後いくらでも訪れてくる可能性があるので、その大きな問題を前にして約束に従っていては、二つとも壊れるのです。

 ですから、先生は、何でも忙しく行うのです。突然来て、激しく駆り立てるのです。それゆえに、皆さんは困る時が多いでしょう? しかし、そこに拍子を合わせなければならないのです。

 このようなありとあらゆる生活観を立てていくのは、結局、神様を中心として心情的な父を愛するからです。私が神様を愛するにおいて、イエス様に引けを取るとは夢にも考えません。イエス様よりも神様をもっと愛したのかといえば、愛したのであって、引けを取るとは考えません。ですから、最後まで行くのです。先生の性格がそうです。釣りに行けば、釣りのために生まれた人になるのです。それを、自分が喜ぶことのできる終生の事業だと思うのです。陶酔してしまうのです。(五〇−二八六、一九七一・一一・八)

 生涯非難されて生きたいと思う人がどこにいますか。私がこのような素質をもって政界に出ていれば、既に世界的な人物になっていたのであり、既にノーベル賞受賞者になって久しいはずです。私はそのように自負する人です。

 本も、最初のページをさっと見て、中間の何ページかを見て、終わりを見れば、「これは何々だ。この結論はこのようになる」ということがすぐに分かります。早い人です。それゆえに、小説のようなものは読みたくありません。それは、私が毎晩一編ずつ話をすることができる実力をもっているということです。

 監獄のような所に行けば、三百六十五日、座って毎日話をするので、そこにいるいくら立派な人でも、みな「先生!」と言います。そのようにさせることができる何かがあるのです。

 また、日曜学校の先生をしても、私が童話を毎日のように何十種類も作って子供たちに涙を流させ、「きやっきゃっ」と笑わせることもできます。そのような訓練をした人です。山に行けば山の人になり、海に行けば海の人になり、農村に行けば農村の人になるのです。何でもすることができるのです。

 工事現場に行って労働もできます。そのようなこともするのです。なぜでしょうか。知らなくては、人を指導することができないからです。

 今でも、さっと服を脱いで出ていけば、統一教会の文先生はただ壇上においてのみそうだと思っていますが、ユーモアのある話もかなり上手です。座って話をすると、自分の家門に聡をかかせることを忘れて、ゲラゲラと笑っています。そのようにさせる素質があります。

 面の皮も厚いのです。おなかがすいた時は、ある主人が御飯を食べている所にさっと入っていき、あいさつもせずに、がつがつと食べます。主人が何か言えば、「あなたは朝食を食べ、昼食を食べ、夕食まですべて食べたが、私は五食も抜いた! 神様も、食べていない人が食べることは善だとおっしやる!」と言います。「一食くらい譲るのが人間の道理ではないか」と言えば、その主人も恥ずかしく思うのです。

 それゆえに、私たち統一教会員は、箸一つを常に財布に入れて持ち歩きなさいというのです。なぜおなかをすかせて回るのですか。自分は、この地の悪党ではなく、国に被害をもたらす者でもなく、暗行御史と同じ立場で使命を完遂しようとする者であり、天倫を正し、人倫を正すために、天命による道を行かなければならない者だというのに、いつ御飯のために稼いだりすることができますか。理論がきちっと立っているのです。その代わり、時になれば十倍以上にして返せばよいのです。それゆえに、友人がいれば、友人たちはみな、私に秘密の話をします。相談してくる時は、私は夜を明かしながら相談に乗ってあげたりします。私は、そのような人です。そのような素質のある人です。私は、自分のことを知っています。(八三−二〇二、一九七六・二八)

 先生自身がそのように歩んできました。私がこの道を開拓してくる時、最初から新しい服を着てみたことがありませんでした。すべて古着を買って着ました。私自身は、私の体がどうだということをよく知っています。誰よりも豪華絢爛な服を着ることができる資格者にもなり、また着飾るすべを知っている人です。

 しかし、この世で苦痛を受け、御飯も食べることができずに呻吟している人々がたくさんいるという現実を見つめるとき、私の良心が許しません。何かの機会に新しい服を着るようになれば、申し訳なくて外にも出掛けることができませんでした。天性的にそうだというのです。新しい服を着て威張る人を見れば不思議に思います。あの人は、どのような人なのでそのようにするのだろうかと考えたのです。そのような人とは根本的に違っていたというのです。

 先生は、私に属するあらゆる物を寄付し、ただ一つの公的な精神世界を追求するために力を注いできました。そのようにして、精神的な分野において、個人的には勝利的基盤を築きましたが、家庭を中心としてはどのようにすべきか、という問題が残っています。

 愛する息子や妻を中心として、経済問題を超越した立場で国のために苦労させることができるかというとき、「できる」と言わなければなりません。すると、最も難しい時に神様の命令が下るのです。この時が蕩減の時期です。神様は、蕩減させるために、私たちが最も難しい時に、普通の人々ではできない立場でしなさいと命令されるのです。

 実際は、私がこの道を出発する時、ある決意をして出発したのではありません。ここに聖進がいますが、聖進の母親が二十一歳か二十二歳の時です。一家親戚もなく、米はすべて尽きてなくなり、お金も一銭もありませんでした。それで、明け方早く、私がリュックサックを担いで黄海道の白川に米を買いにいく途中で、神様の命令を受けたのです。

 家庭のための道を行くのか、公的な神様のための道を行くのか。ここにおいて、きっぱりと「天のための道を行くのだ!」と、神様の命令に従って以北に行ったのです。そのような峠がありました。

 北側に行っても、家に手紙一通送りませんでした。だからといって、私に気持ちがなくてそのようにしたのではありません。手紙を送れば良くないからでした。きれいに清算するのです。その過程を経ていかなければならないのです。このように、私たち統一教会員も、家庭を捨て、財産をすべて捧げながら行くことができなければなりません。(三三−一五二、一九七〇・八・一一)

 最初、先生がこの道を出発する時、どれほど多くのことを考えたか分かりません。この道のために血の汗を流し、命を懸け、祈祷しながら一生を捧げてきた人です。(二〇−三二二、一九六八・七・一四)

 今まで先生は、神様に対しながら、私が正しいか間違っているかについて考えてみたことがありません。既に死ぬ覚悟をしてこの道を出発したのです。私が死なず、体が倒れなかったので、いまだに私の行くべき道が残っているのであり、経ていくべき約束の道が残っていると考える人です。そのように考えるので、ほかのことを考える余裕がないのです。(二一−二七一、一九六八・一・二四)

 先生も、一つしかない青春をすべて捧げました。一つしかない生命を捧げているのです。私の頭が悪くてそのようにするのではありません。逃げようとしても逃げる道がないので仕方なく、この道しか行く道がないので行かざるを得ないというのです。皆さんが深刻に考えたとするならば、皆さんよりも多くのことを考える先生が、どれほど深刻に考えただろうか考えてみてください。命を懸け、どれほど深刻だっただろうかというのです。(八七−四六、一九七六・四・二五)

 公義のみ旨、世界のみ旨を受け継ぐためには、神様を知り、神様が人間の父母だという道理を知るまではできません。それゆえに、人道によって天道が左右されるのではなく、天道によって人道が左右されるのです。すなわち、人情によって天情が動くのではなく、天情によって人情が動かなければならないのです。ですから、天情を立てようとする人は、人情をなくさなければなりません。天道を立てるためには、人道を吸収しなければならないというのです。(三八−二六〇、一九七一・一・八)

 それゆえに、先生は、私をこの上なく愛される父母に、ハンカチ一枚、履物一足も買ってさしあげられませんでした。今でも、そのようなことを考えれば、人間的には親不孝者です。しかし、先生は、たとえ父母に対しては不孝であっても、神様に対しては、死ぬことがあっても不孝の立場に立ちはしないと、身もだえしながら歩んできたのです。先生は、そのような決意をもってすべてのことを主管してきたので、その決意が成し遂げられるその日までは安息しないという心をもっているのです。(一六-二六三、一九六六・六・一九)

 文総裁は、この原理を探し出すために、どれほど満身創痍になったか分からず、一日に十四時間祈祷することが何年も続きました。その悲惨な姿を皆さんは知っていますか。原理の本には、血と汗と涙がしみ込んでいます。ページごとの内容にしみ込んだ先生の血と涙が、皆さんのような若者たちに訴えているということを知らなければなりません。先生は、若い青春を犠牲にして投入したのです。血と涙が皆さんに訴えているというのです。(二一一−一一二)

 先生は、聖書だけを見て原理を探し出したのではありません。「創世記が堕落の章ならば、黙示録は復帰の章だ。これが生命の木によってこのようになったのであれば、生命の木として復帰されるのである。それが合わなければ聖書は偽りだ」と思いました。なぜでしょうか。種を植えて出てきたものは種に帰っていくので、これが合わなければならないのです。出てくる芽、種から生えて出てくる芽は同じでなければならないのであり、それは上に伸びなければならないのであって、横に伸びてはいけないというのです。

 このような観点から見るとき、今日、原理の教えは、推理的方法を通して摂理史観に一致するというのです。ですから、宗教の中の主流宗教はキリスト教にならざるを得ないということを知ったので、私のような賢い人は、「キリスト教の最も深いところを引き抜いてみよう。根を引き抜いてみよう!」と考えたのです。そのようにして、それを引き抜いているうちに、天地創造がどうであり、神様が何をされ、なぜ愛を好まれるのかということを明らかにしたのです。(一九五−一四〇)

 最初から聖書という冠をかぶって聖書を標本としていたならば、このような道を開拓することはできませんでした。

 妥当な理論を中心として、私たちの心情世界に関係する内容を中心として、最高に深い谷間になり得るものは何かを探知してみるとき、そこにとどまれる錨の中の最高の錨になり得るものがまさしく心情でした。(三二−二四三)

 今まで、先生はどのように歩んできたのでしょうか。先生がこの道を開拓してくるときに慕わしい思いがあったとすれば、神様に対する思い以外にはありませんでした。神様を慕い、公義の主人になり得るこの国の主人を慕い、世界の主人になり得る聖賢を慕い、尊重視しました。神様を無限に尊重視すると同時に、歴史を支えることができる中心的な思想の主人公がいれば、その主人公を尊重視しました。尊重視することのできる対象を探すことに汲々としていたのです。そのようにしている中で見つけた方が、まさしくイエス様でした。したがって、神様を愛し、イエス様を愛し、神様とイエス様が愛したいと思われる万民を愛しなさいというのです。(三七−三三)

 どの程度まで愛さなければならないのでしょうか。自らの意識が朦朧とするまで愛しなさいというのです。その愛に狂ってみなさいというのです。そのようにして滅びるならば、神様はいないのです。極まで行けば、再び戻ってくるようになっているのです。

 レバレンド・ムーンといえば、愛の哲学者になっています。レバレンド・ムーン哲学は愛の哲学なので、愛の哲学はレバレンド・ムーンに尋ねてみなければなりません。では、その愛の哲学を作り出したのでしょうか、発見したのでしょうか。作り出したのではなく、発見したのです。(三七−三四)

 先生は、愛の哲学者です。天地愛の哲学者です。先生の時代になって、初めて愛を中心として、家庭から氏族、世界まですべて解決していきつつあるのです。私が知っているものはこれしかありませんが、いくら霊界を探り、世の中の歴史をすべて探ってみても、これしかなかったというのです。(一四八−二一七)

 また、テストをしてみても、このようにすれば悪魔が退いて神様が歓迎するのですが、これを誰も認めてくれませんでした。それを認めてくれるようになるまでに四十年以上かかりました。(一七一−六九)


二 真のお母様の二番目の息子、興進様

 一度、興進がとてもひどいインフルエンザにかかりました。熱が四一度まで上がり、下がってこないのです。その時はどのようにするのかといえば、赤ん坊を愛さなければなりません。赤ん坊を愛するのですが、原理的に愛さなければなりません。もしそのような立場に、私の赤ん坊とカインの赤ん坊がいるならば、どちらを愛するのでしょうか。どちらに同情するのでしょうか。そのような心が生じるのです。したがって、そのような心が起きて赤ん坊を愛すれば、自分の赤ん坊は間違いなく治るのです。それが原理原則です。(六〇−二一六、一九七二・八・一七)

 今でも先生は、道を歩いていても、かわいそうな人を見れば、財布のお金を残らず与えてしまいます。そのようにしながら、「あー、このようにすれば、天は報いてくださるだろう」と思えば、すべてそのとおりになるのです。それ以上のことがたくさんあります。その場に天が共にいてくださっているということが分かります。

 例を挙げれば、先生の二番目の息子、興進がいます。外に出掛け、寒い冬に風邪にかかってとても熱が出たのです。ソウル市内に出掛けたのちに戻ってくるところでした。日が沈み、真っ暗な寒い晩でしたが、ある子供と母親が何かを売っているのですが、売れなくてぶるぶると震えているのを見て、私の財布にあるお金を与えました。その時のお金で言えば多くのお金でしたが、それを残らず与えながら、「これを与えれば、興進はすぐに良くなるだろう」と思い帰ってきたところ、すべて良くなりました。その時、その場に天が共にいらっしゃったということが分かりました。(九〇−二五七、一九七七・一三)

 私の子供たちは、多方面に素質があります。興進も絵を描いたのですが、この子は、お父様の素質に似たのです。絵を描いてどのようなことが起きたのかというと、学校でみな知っているので、弟が学校に行って「私のお兄さんは絵が上手だ」と言って見せると、子供たちがすっかり魅了されてしまったというのです。

 子供たちが見て、「やあ、本当にきれいだ!」と言って、集まってひそひそしているので、通りがかった先生が見て、「お前たち、どうしたのだ?」と言ったのです。子供たちがみな「文興進が描いた」と言ったのです。するとその先生が、「そうか。私にそれを一つ描いてくれないか」と言ったのです。そのようになりました。

 ですから、学生たちが交互に欲しいと言うのです。それを持っていこうと争い、ただで自分のものにすることができないので、「私は十ドル出す」、「二十ドル出す」と、このようなことが起きたというのです。(一二〇−二八、一九八二・一〇・三)

 私は、あらゆる国の情報を様々な国を通して受けています。それを知らなければなりません。先生は、天を信じているので、思いのままに行動することができるのです。それで、興進が逝きましたが、興進に感謝していることがあります。

 「アメリカ人の警護員は信じられない」というのが興進の考えでした。「銃口さえ向ければ逃げていく」と考えたのです。お父様がどれほど危険な立場にいるかということを知っていたのです。(一三〇−二四五、一九八四・一二九)

 興進の犠牲により、多くのことが成就されました。彼は最も親孝行な息子でしたが、今は、真実で清らかな神様の息子として、神様の懐に抱かれました。もし興進の犠牲がなければ、二つの大きな不幸な事件が発生していたかもしれません。北の傀儡が韓国を武力で侵犯していたかもしれず、地上において先生が生涯を終えていたかもしれないのです。

 しかし、先生が韓国で勝共決起大会を通して勝利したので、彼らは先生をそれ以上侵犯することができませんでした。したがって、韓国で勝利を収めたのと同じ時刻に、興進を犠牲の祭物として要求したのです。(一三〇−二二八、一九八四・二・七)


*真の御父母様の真の孝子、興進様(朴普煕総裁、昇華辞において)

 興進様は、一九六六年陰暦十月二十三日、午前零時三十三分、韓国ソウル市青坡洞においてお生まれになりました。お生まれになる時、ほかの子女様方とは違って特別な苦痛を経られ、三日間、その生死を約束し難い境地において、既に幼い体で十字架の三日路程を経ていかれました。

 そのお方は、成長される時、とりわけ英明で賢く、十歳を過ぎて分別がつき始めてからは、人並み外れて温かい情の持ち主として知られました。友人だちからは尊敬され、兄弟からは愛される、立派な性稟の持ち主でした。そのお方は、ほかの兄弟の方々よりも早く成熟され、十五歳になってからは、体においても心においても「完全な成人だ」と言うことができ、それからは、真の御父母様が抱いてこられた万民救援の理想を深く悟られました。そして、偉大な父母様の体から生まれた真の息子であるという誇りが、骨髄にしみわたっていらっしゃいました。その時から、そのお方は、「どのようにすればお父様とお母様を喜ばせてさしあげることができるだろうか」という考えだけに没頭しながら、昼夜を分かたず、粉骨砕身、努力する姿を、私たちは常に目撃しました。

 興進様は、元来手先が器用であり、美術には天才的な素質をもっていらっしゃいました。彼は、工学を勉強して工学美術を専攻しようという考えをもっていましたが、次第にお父様のなされている仕事を知るようになると、「違う、私もお父様のように宗教指導者にならなければならない! それならば、今から私は歴史と考古学を勉強しなければならない」と決心されたということです。

 興進様は、本当に博愛主義者でした。イースト・ガーデンに来るすべての統一教会の指導者をT人一人親切に慰労し、愛してあげたのであり、彼がもっている良いものはすべて同僚に分けてあげることに忙しくしていらっしゃいました。誰か特定の人だけを好むのではなく、お父様のために忠誠を尽くすすべての人々を好まれ、特別に苦労する食□たちを慰労し、常に、何かを与えることができずにもどかしく思っていらっしゃいました。

 十六歳が過ぎたのち、興進様は、お父様が世界共産主義の潰滅のために先頭に立っていらっしゃることを悟られ、日増しにそのお父様の身辺に共産主義の脅威が迫ってきていることを胸深く体恤されるようになると、自分の身を投じて父母様を保護してさしあげることが息子としての最高の本分だと信じ、実践していかれました。

 先日、そのお方が、祝福家庭の子女何人かを連れてワシントンD・Cにある私の家を訪問された際、彼ら一人一人に、「もし銃を持った凶漢が現れてお父様を撃とうとすれば、お前たちは身を投じてでもお父様を守ってさしあげることができるか」と尋ねられ、彼らから「そのようにします」という確約を受けられたのち、「言うまでもなく、私はお父様の代わりに喜んで死ぬことができる」とおっしゃり、「私が死んでお父様が生きることができるならば、少しもためらうことなく、私は私の命をちりあくだのように捨てる」とおっしゃいながら、御白身も手を挙げて宣誓されることにより、再度決意を固められました。

 事故が起きたその当日にも、一人のアメリカ食□と昼食をとりながら、死という問題について対話されたということであり、その時にも、また興進様がおっしゃるには、「私は、お父様の代わりに死ぬことができる。ただ、私が祝福結婚を受けることができずに若い年齢で逝くとすれば、それ一つが少し寂しいことではあるが、この世において、偉大であられる私の父の代わりに死ぬことよりも大きなことはないであろう」と打ち明けられたということです。それが正に、自動車事故が起きる七時間前のことだったのです。

 一九八四年一月二日、午前一時十五分、興進様が落命されるその瞬間、お父様は興進様に最後にこう語られました。「興進よ、さようなら。お前は霊界に行って古今東西の若い霊たちを動員する総司令官になるだろう。自由世界の霊だけでなく、共産陣営の若い霊たちまですべて動員し、この地上に自由に下りてきて地上のすべての若者たちを悟らせ、立ち上がらせ、天の役軍にする使命をお前は遂行するだろう。父と母は、お前のような孝子をもったことを永遠に誇るであろう」と語られました。

 お父様は、昇華するこの御子息に揮毫を下さいました。その揮毫に、「忠孝之身、天城奉献、天恩大海、永遠安息」と書かれましたが、その意味は、「忠孝の身である興進様を天の城に奉献し、大海のような天の恩恵の中で永遠に安息する」という意味です。
















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