天総官 文興進様
(全面表示) 戻る INDEXへ


四 興進様の御臨終と「統一式」

1 興進様の御臨終と「統一式」の意味

 興進が逝く前に、病院で「統一式」を行いました。「お父様とお前は一つだ。お父様とお前は一つなので、お父様が生きている限り、サタンがお前を思いどおりにはできない」というのです。このようにして、祭壇に載せることにより、サタンが統一家に侵犯しようとしたことをすべて防御するのです。霊的世界の勝利版図を、神様がイエス様を中心として霊的世界で祭物として捧げたことと、地上で父母様の愛を受けた息子を祭物として捧げることを連結させるのです。そのようにすれば、それは地上世界で成し遂げたことになります。霊的世界の版図基盤の上に、地上世界の版図、父子関係の肉的実体圈を中心として、霊的世界版図の父子関係の天国理念を連結させるのです。そのようにすることにより、どのようなことが行われるかというと、天上世界と地上世界に橋が架けられるのです。(一九六−二六三)

 先生は、興進が逝くことを知り、すぐに「統一式」をしてあげました。ユダヤ教とキリスト教と統一教会が一つであり、その次には、日本とアメリカとドイツと韓国が一つであり、自由世界と民主世界が一つだという式をしたのです。父母が一つになり、家庭が一つになり、祝福家庭が一つになり、統一教会が一つになり、キリスト教が一つになり、民主世界が一つになり、天と地が一つになる「統一式」を挙行したことを皆さんは知らなければなりません。

 自由世界が一つになり、共産世界まで一つになる「統一式」をしたのです。民主世界と霊界までもです。

 しかし、サタンはこれを知りませんでした。条件さえ引っ掛ければ、すべてうまくいくと思っていたのですが、これを知らなかったというのです。イエス様を殺しましたが、復活の能力によって新しい道を開拓したのと同じです。

 その次には、興進が逝く前日に「統一式」を終えてから、すぐに祈祷したこととは何でしょうか。「お前が地上を離れても、地上にいるのと同じようにお前の養子を選んであげ、息子の班列に同参させてあげよう」と祈祷で約束をしました。

 そのようにしようとすれば、地上で祝福をしてあげなければなりません。そのようにしなければ、そのことが不可能なのです。その時の約束です。神様は、地上を救うためにメシヤを送られたのですが、今日真の父母は、霊界を救うために、霊的世界を救うために、真の父母の代わりに全権大使として愛の王子を送ったということを知らなければなりません。なぜお父様が地上にそのような世界的基盤を立てようとするのでしょうか。イエス様もその場に行くことができませんでした。神様が歴史始まって以来初めて「私の息子」と言って愛することができるティーンエージャーをもったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 そのようにすることにより、初めて神様が愛することができるということを知らなければなりません。また、先生がこの地上の基盤を中心として愛しているというのです。それで二つの世界が連結するのです。

 堕落した世界は、堕落の愛の圏内に、原理結果主管圏内に行ったので、真の父母の愛の因縁は今までなかったというのです。ところが、これが初めて霊界に出現したという驚くべき事実を知らなければなりません。(一三一−一三、一九八四・二・二〇)

 息子が死ぬその瞬間に、レバレンド・ムーンは狂人のようなことをしました。一つになれないユダヤ教とキリスト教と統一教会をすべて統一する式をして、その次には、韓国と日本とアメリカとドイツが一つになることができなかったので、「統一式」を行い、「興進君が一人でこれをすべて背負っていくのだ!」と言ったのです。

 ユダヤ教とキリスト教と統一教会が縦的に一つになれず、ユダヤの国とアメリカと韓国が横的に一つになれなかったのです。それから、摂理的に見る時、韓国、日本、ドイツ、アメリカが一つになれずに今すべて反対しているのですが、これを蕩減しなければなりません。それで全体を合わせて蕩減する祭物として捧げたのです。

 今からは、孝進と私たちの家庭が、すべて統一圏を中心としていくのです。ここで終わらなければという、そのような祈祷をしたのです。神様の代わりに、真の父母の代わりに、サタンの目前で宇宙史的な勝敗を決定する瞬間に立っているのです。

 興進が真の父母の愛をもって逝き、真の父母の愛圏をもった大使として天国に送るのです。このような深刻な立場で、先生は、興進が死んでいくということを考える余裕がなかったのです。どのようにこれを立てるのか、それが問題でした。

 それゆえに、「祖国創建」という標語を立てることができ、「愛勝日」を宣布できたという驚くべき事実を知らなければなりません。今から、先生と完全に一つになる時には、世界的な復活圏、五旬節が成されるというのです。

 世界百二十カ国が復活し、先生の家庭を中心として尋ね求めてくるというのです。(一三一−一九六、一九八四・五・一)

 興進が死ぬ時、死地でさまよっていました。昏睡状態だったので、その酸素マスクさえ外せば死ぬのです。医師の判断で、すべての面において希望がないところにまでいきました。極地までいったのです。このように見れば、一人の興進をおいて、サタンが向こうにいて、こちらはお母様がいて、お父様がいて、神様がいらっしゃいます。今のところは天の側にあるのです。息が止まる前までに、仕事をすべて処理しなければなりません。その酸素マスクを私の手で外さなければなりません。お母様もそれを見なければならないのです。

 その場で少しでも悲しみの涙を流してはいけません。祭物に対する未練をもってはなりません。「あなたは祭物になってみ旨の道を行くのだ」と言うのです。わずかでも心情的な寂しさがあり、涙が先立ってはなりません。人間的な情緒が先立ってはならないというのです。天情が先立たなければなりません。

 神様が涙を流される時も、神様を慰労するために「神様、そのようになさらないでください!」と言いながら涙を流せば許されるのです。自分が涙を流しては祭物になりません。それは言葉だけではなく事実です。何日か前からその準備をしました。それが「統一式」です。

 「あなたは、今お父様と一つになった。心情的に生涯を通して一つになった」と言うことができる、そのような条件を残すことができなければなりません。興進は、この家庭の次男として、サタンの攻撃の第一標的になっていました。私はそれを知っています。このすべての条件を越え、お父様が責任をもって勝利の覇権の内容を樹立しなければ、天下が崩れていくのです。どれほど深刻か考えてみてください。息子が死ぬことは問題ではありません。とても念頭に置くことができないのです。天地が溶けだすのです。天地が溶けだすというのです。(二八〇−二五九、一九九七・一・二)

 興進が離れる前に、これをすべて収拾してあげなければなりません。父として収拾してあげなければならない責任があります。息子が背負った十字架を神様が収拾してこられたように、これをすべて収拾し、「統一式」をしてあげなければなりません。

 今息子が死ぬというのですが、そばにいる息子、娘たちは泣いたりわめいたり大騒ぎしていても、「統一式」をしてあげるのです。

 「統一式」をしてあげるのですが、どのようにするのでしょうか。何でもつかんで式をしてあげるのではありません。生殖器をつかんで式をしてあげなければなりません。愛のみ旨を成すことができずに逝く息子に、愛の「統一式」をしてあげることにより、イエス様と直結することができるのです。お母様も、それは知らないのです。そのように死んでいく環境で、「統一式」をしてあげることにより、悪魔が見つめる立場をすべて越えるのです。泣くことが問題ではありません。息子が死ぬのが問題ではなく、泣くことが問題ではありません。それを知らずに、横では「神様が愛されているのに、なぜ興進がそのように死んだのか」と不平を言うそのような局面でした。

 神様が愛する家庭なのにこれはどういうことかと、すべてを恨むそのような局面で、それをすべて退けて、お父様として息子の行くべき道を収拾してあげました。(二一二−九三、一九九一・一・二)

 興進君が祭物の立場で犠牲になっていったので、その祭物を見て祭司長が涙を流してはいけません。祭司長は、万民の罪の代わりをした第一の立場である祭物を前にして、涙を流してはいけません。その罪の基準に立たなければなりません。祭物が汚れてはいけません。それゆえに、先生は、興進君が逝ったあとに涙を一滴も流しませんでした。それはお母様も知りません。このように理論的にきちんとすれば、サタンも讒訴できないのではないですか。そうではないですか。そのような立場で死体を凝視しながらも、涙を流してはいけません。心で痛みを感じてもいけません。「当然そうなるべきである!」と考えるのが義人の行く道です。

 自分の息子だからといって、どうしてこうなるのかと考えてはいけないのです。死ぬのが問題ではなく、死ぬ前に霊界の道を築いておかなければなりません。地獄から道を築いて垣根を崩さなければなりません。

 地上世界において、すべての垣根を崩すことのできる条件を立て、統一的基準で証をもち、真の父母の名によってきちんと愛の橋を架けてあげたのです。そのような内的な蕩減の因縁を担い、父母様の愛を通して送ってあげた人は、興進が最初です。喜進でもないのです。その時は、国家基準も越えることができませんでした。家庭基準で闘ったので、その時は来ることができないのです。(一七一−二六八、一九八八・一・二)

 興進君が逝く時に、私が「愛天日」を定めながら、天国と地の世界がこのように、このように回っていくと言いました。息子が死ぬ時に、息子が四十分以内に死ぬとしても、私は息子が死ぬという考えは夢にもなかったのです。考えなかったのです。どのように天理の大道を明らかにするかということが問題でした。息子のために涙を流してはいけません。

 そこにふさがった垣根を、すべて壊してあげなければなりません。歴史的時代にユダヤ教からキリスト教まで縦的にふさがり、横的にふさがったものをすべて解き、そこに立て札を立ててあげなければならなかったのです。それが簡単ではありません。死ぬ前にすべてやっておかなければなりません。そのようにしなければ無駄死にになります。(一七〇−二〇〇、一九八七・一・一五)

 興進は死にましたが、地上世界と霊界にいて、死なないで愛の復活圏を成し遂げるはずだと私は考えます。彼は死を通してそこに行きましたが、彼の死を通して愛を復活させるというのです。霊界をつかみ、地上をつかんで、愛の復活圏を宣布したのです。このようにすることにより、死亡圏と決別するのです。

 それゆえに、昇華式の時も悲しんではならないというのです。すべての儀式の時も同じです。

 それで、興進が地上から入っていく間、先生は霊界と肉界を中心として特別な式をしたのです。その過程を話そうとすれば複雑です。(一三〇−二〇一)

 興進君を中心として、このような歴史的なすべての過程を清算して統一させなければなりません。霊肉が分かれて闘いが起きました。先生の時代に、霊肉を中心としてキリスト教の霊的世界と実体世界が一つにならなかったために闘いが起きたので、これらすべてのものを統一して、一つの条件祭物として提示することにより、勝ったという条件を立てるのです。

 それを中心として悲しみません。涙を流せば、サタンが讒訴できる条件が残るので、涙を流してはいけません。

 それで、この韓国に送る時まで涙を見せなかったのです。送って祈祷する時に……。そのあとには、涙を流してもかまいません。この背後に連結された事実、理解できない背後を、それを知っているということも驚くべきことですが、これを実践して、悪魔が侵入できないこのような道を先生一人で築いてきたのです。その功績の基台の上に立った祝福を受けた者たちが、どれほど恐ろしい立場にいるのかを知らなければならないというのです。(二一二−九三、一九九一・一・二)

 興進が逝く時、医師が来て通告するには、一時四十分になれば逝きます」と言うのです。その時、父である人が、息子が死ぬという通告を受けて他のことは考えませんでした。行くべき道を築いてあげるのです。「あなたがかきわけて行かなければならないこの道を、お父様が責任をもってあげよう。このような道と、このような峠を越えていく時、このようなことがあるので、このような問題をもっていきなさい」と言うのです。道をすべて築いてあげるのです。愛を中心としてです。これは、私でなければ解けません。私以上の愛をもたなければ解くことができないというのです。サタンもこれに背くことができず、神様も解くことができないのです。私が地で決定することは、天上世界でも決定されるのです。(一六八−二九五、一九八七・九・二七)

 興進が霊界に行く時も、先生は涙を流しませんでした。死を支配しなければなりません。「お前は死を支配しなければならない。愛によって死を克服しなければならない」と言ったのです。私がこれらのすべてのことを知らなければ、興進は無駄死にだったのです。死ぬ前にしなければならない手続きがたくさんありました。それを解決するのに忙しかったのです。息を吹き返すのを願うよりは、それを解決することに忙しかったというのです。そのようにしたので、霊界に行って偉大なことをすることができたのです。それは、偉大なお父様に侍ったのでそのようなことができました。(一三九−六三、一九八六・一・二六)

 私は、興進が死んだのち、三日間涙を一滴も流しませんでした。父も道理を果たさなければなりません。千里遠征の未知の世界に行く息子の版図を築いておかなければ、後代にあの世に行く人々が霊界で生きることができないということを知っていたので、愛の十字架に対して、死の立場を越えなければなりません。一呼吸すれば、男の悲痛で歴史的な曲折が流れ出てくるのですが、涙をこらえてそれを越えなければなりません。興進を元殿に安置したのちに、祈祷しながら彼のために父母の責任として涙を流してあげるというのです。これは深刻です。(二三一−一〇〇、一九九二・五・三一)

 興進が殞命(注:命を落とすこと)するその瞬間、一九八四年一月二日、午前一時十五分、「興進よ、気をつけて行きなさい。お前は霊界に行って古今東西の若い霊たちを動員する総司令官になるのだ。自由世界の霊たちだけでなく、共産陣営の若い霊たちまですべて動員し、この地上に自由に降りてきて、地上のすべての若者たちを目覚めさせ、立ち上がらせて天の役軍にする使命をお前が遂行するのだ。お父さんとお母さんは、お前のような孝子をもったことを永遠に誇るであろう」と祈祷しました。(一三〇−九三)


2 「統一式」によって霊界と地上世界が一つになった

 興進が行く道は、愛によって死亡圏に勝ったという道です。死亡圏に勝ちました。死の境地において、愛によって死亡圏に勝ったので、涙を流してはいけません。

 それで、式をすべて終えて祈祷してあげたのちに、お父様が直接酸素呼吸器を外してあげました。酸素呼吸器を永遠にそのように置いておくことはできないのです。式をすべて終えてから、「お父様が責任をもってお前の行くべき道をすべて築いておいたから、お前の行くべき道は難しくないはずだ」という祈祷をしてあげました。このような責任を果たして霊界に送りました。このようにして送った興進です。(二四二−二七八、一九九三・一・二)

 死んで行くべき道を再度開放するのです。私の代わりに行くのです。そして、天上世界にいるイエス様の兄の立場まで占領するのですが、どれほど複雑ですか。死ぬ前に「統一式」を行って、この進路をすべて開いてあげ、霊界のふさがった垣根をここで掃いてしまおうというのです。それで、堕落していない本然の立場で霊界を知って行った息子のように、お父様が案内するので、既にイエス様の兄の立場に行っているのです。夢のような話です。そうなるようになっていますか、なっていませんか。それを誰が知っていますか。知らないことをすべて知って基盤を築き、地上世界の真の父母の血族として、真の父母の愛を受けた息子として霊界に行ったのです。十七歳、アダムとエバが堕落した年齢で行きました。

 イエス様は、真の父母の愛の関係が結ばれませんでした。興進が行くので、イエス様が興進君を愛し、霊的世界の実体圏をもって息子と一つになることにより、霊肉の世界が地上にすべて連結することができるのです。(二九七−二四六、一九九八・一二・一)

 イエス様を父母様の家庭に心情的に結んであげることにより、出家して三十歳まで哀れに育った、そのすべての恨みを晴らさなければなりません。恨みを晴らすにはどのようにするのでしょうか。イエス様の代わりに興進が生きたというのです。ですから、この十代、二十代の環境を中心として、青春時代を連結させてあげなければなりません。十代と二十代を連結して統一の儀式をしてあげなければなりません。完全にイエス様を解怨成就してあげなければならないのです。

 エサウとヤコブが四十歳で蕩減されましたが、根本に入っていって蕩減したように、イエス様が三十歳で死んだのですが、その願いとは何ですか。本然的真の父母の家庭で生まれることでした。ですから、興進がどれほどうらやましかったでしょうか。真の父母の家庭に興進が連結することにより、すべてのものを蕩減した立場に立つのです。なぜなら、一九八三年に既に真の父母は、地上で国家的基準と世界的基準を蕩減した基準に立っているので、世界的勝利版図の立場に立った父母様なのです。ここで成長した息子を送り、イエス様と興進君を連結させて統一しておくことにより、今まで、旧約時代、新約時代、成約時代に真の父母の家庭と因縁を結ぶことができなかったすべての人は、初めて父母様の家庭と連結されるのです。(二一二−九三)

 地上と関係を結ぶことができなかった霊界が、興進君とイエス様が一つになることにより、地上と連結して通じるようになるのです。そのようにすることにより、今日統一教会の動きが世界的な時代に越えていくのです。そのような関係になったというのです。

 イエス様が亡くなったのが三十三歳です。三十三歳で亡くなったので、キリスト教の霊的救援摂理も、亡くなった三十三歳以後の人々は恩恵を受けることができますが、それ以下の人々は恩恵を受けられない立場にいます。このような観点から、少年が成長すれば霊的救援の恩恵を受けるとしても、実体恵沢圏がないというのです。

 しかし、興進君は、十七歳の時、満十六歳で霊界に行くことにより、アダムがこの地上で堕落したその時と連結するのです。霊界にも少年少女が大勢いるのですが、教育するのがとても難しいというのです。難しい霊的基盤の連結を、興進君が行って開いてしまうというのです。地上にこのような基盤を築いてあげることにより、霊界のすべての霊人たちも興進君に従っていくことができるのです。堕落以後の霊人たちも、興進君を神様のように侍り、主のように侍るようになるならば、地上に連結することができる基準になるのです。赤ん坊から霊界全体が連結することができる内容が決定するというのです。(二五九−一八〇、一九九四・四・六)

 霊界には、あらゆる人がいます。平面的に見れば殺人者もいて、階級で言えば地獄のどん底に行く人もいて、あらゆる人が散らばっています。統一教会にも、その子孫がすべて来ています。そのような者たちが、すべて反映されて入ってくるというのです。

 そのような者が、霊界の基準で見れば、すべて階級が垣根でふさがっているというのです。それをすべて崩さなければなりません。崩すにおいては、あの天上世界圏にあるからといって、そこから壊して下っていくのではありません。悪なる所から善の側に復帰しなければならないので、地獄の一番底から上がっていかなければなりません。それを興進君が崩し、私とイエス様の前に立つことができる霊界の総責任者になったのです。

 そのようなすべての段階を経て、垣根を壊して引っ張ってきたのです。興進君が祭物となった目的は、霊界を救援することにあるのではなく、地上救援です。もちろん、霊界救援も間接的な、第二次的な救援ですが、まず霊界の垣根を壊してこなければなりません。霊界全体が興進君を心で恨んではなりません。地に来ることができず、心で興進君が地に対して「私たちの怨讐だ」と思えば、その怨讐の地域には行くことができないのです。それゆえに、怨讐のどん底から上がってこなければなりません。上がってきて、道主まで屈服させてこそ霊界の統一が起きるのです。それで「統一式」をするのです。

 霊界統一、地上統一、宗教統一、これは、家庭を中心として、韓民族と世界人類を代表して「統一式」をしてあげたので可能なのです。それゆえに、イエス様を信じ、宗教を信じる人々には、「新しいメシヤが現れた!」とすべて教えてあげるのです。

 「霊界に新しいメシヤが現れた」と教えてあげたのです。それを知っているので、霊界が収拾され、興進君の手によってすべて垣根が崩れたのです。垣根をすべて崩しておいて体を借りてやって来たのです。(一七一−二六五、一九八八・一・二)

 私の目から涙が落ちれば、興進は行くべき道を行くことができません。そのような立場で「愛勝日」を設定した私が、福を受けて人類の功臣になり、天国の生余録に、第一に記録される勇将になりなさいと教育したのです。「前線で死んだならば、男らしく死んだはずだ」と思いながら、行く道を祝福してあげたのです。私が間違ったとは考えません。

 公的なことにおいては無情な先生です。私が興進君をそのような立場で送ったので、その昇華式を中心として霊界と肉界に橋を架けることができ、私が用意した霊界解放の王子の立場に立たせることができたのです。そのような冷静な父母の心情をもたなければそれは不可能です。私が冷静なので、神様が同情されるのです。私が無慈悲なので、天では慈悲がなければならないと考えるというのです。(一六九−三二一、一九八七・一・一)

 統一教会は何かというと、神様の心情を議論しています。「神様を解放しよう!」と言っています。既成教会は、そのような話をすると、私たちを異端と言います。皆さん、優秀な大統領でも、自分の息子が今死んでいったとすれば、その死んだ息子に大統領の権威をもって、「大統領の息子が死んだので、お前の父は涙を流すことができない」と言っても、隅のほうに入っていって痛哭し、さっとふいて出てくれば通じますが、そうでなければ、死んだ息子の霊が、「この人は父ではなかったのだなあ」と言うのです。

 死んだ霊が生きているならば、その父を助けますか、反対しますか。世界の大統領であろうと誰であろうと、自分が愛する息子が死んだ時は、涙を流さなければなりません。

 統一教会の文先生は、興進を失った時、涙を流したのですか。なぜ流さなかったのですか。偽者のお父様だからですか。どうしてですか。この世が問題ではありません。霊界の行くべき道を築いてあげなければならないからです。霊界の行くべき道を築いてあげるにおいて、神様に喜びの報告をしなければならない立場にいるのに、涙を流して「私の息子、娘を愛してください」と言うことはできないというのです。

 「天理の道理がこうなので、霊界と肉界がこのようにすることにより、橋を架けるために木が必要だが、その木のようなものが興進なので、彼を使用して橋を架けた」というのです。

 そのような時は、言葉で言うのではないのです。すべて終えて、韓国にすべて送っておいてから、父として最後の涙の祈祷をして送らなければなりません。父の役割を果たしましたか、果たせませんでしたか。

 この前、興進君が地に現れて代わりに役事する時に、興進が語るには、「自分がお父様に負った負債が、お父様から受けた功がどれほど大きいか、霊界に行ってみて知った」と言うのです。「自分がどのような苦労をしても返す道理がないので心配だ」と言います。そのような話ができる内容を整えてあげるために、父として永遠の道を築いてあげる責任を果たさなければならないという本然の事実があることを知ったので、堕落圏内では涙を流す立場ですが、それを解決しなければならない懇切な父母の立場に残っていなければなりません。(一九六−一八、一九八九・一二・二四)

 このような話をして自慢するのではありません。皆さんが尊敬する先生という人は、青春時代をそのように過ごしながら、神様の愛の涙が私の目の前に落ちるのを一度でも見ることができれば、どれほどうれしいだろうかと思いました。それが願いでした。「あなたによって解怨成就した。万民、万国に対する恨が解けた」と言って喜びの涙を私の前に見せてくださるならば、生まれた人生の目的をすべて達成したということだ、と思いながら今まで耐えてきたのです。

 それゆえに、監獄でも、血を吐く立場でも、私は泣かなかったのです。興進君が逝って昇華式をする時まで、涙を一度も流しませんでした。血が飛び散る痛みを感じながらも。千人、万人の息子を捧げて天の恨を解くことができるならば、神様の前に自分自身の何であっても犠牲にできるというのです。息子が死ぬ立場にいて、天の同情を願う涙を私は流すことができません。どのようなことがあっても流せません。逝ったのちに、済まないと思って涙を流したことはありますが、それは昇華氏が終わったあとでした。父としての責任を果たしたからです。

 私がこれを知らなければ、興進が死ぬ前にサタン側のすべてのものを整理し、「統一式」でそのような蕩減的な条件を立てなかったならば、興進は悲惨な死を遂げるのです。(一三七−二九〇、一九八六・一・三)

 歴史的な蕩減の意味で興進君が逝ったということを知ったので、興進君を考えなければなりません。興進君をいつも考え、それから兄、孝進も興進を愛さなければなりません。興進が逝ったのちに、あれほど痛哭して「お父様、これはどういうことですか!」と言ったのを覚えていますか。

 弟が死んで悲痛でしょう。「お父様、そのように祈祷したのですが神様が分かりません!」と言ったのですが、これは自分の考えです。この背後には、天地がどのように祈り目をつけて越えていっているのかを考える時、厳粛なのです。

 先生がそのように考えていれば、どのようになっていたでしょうか。興進君は無駄死にするのです。お父様に間違って出会い、生まれていれば、無駄死にするのです。どこかに行って訴えることもできないのです。天上世界との因縁というもの、死んでみると、このような福がなかったということを発見したのです。先生が知っていたので、そのように内外の行くべき道を教えてあげたのです。死ぬ前に、「私がお前を結婚させることを研究して、養子まで選んであげよう。お父様は約束する」と言いました。それで、死ぬ前に手首をつかんで約束の条件を立ててあげたのです。

 結婚しなくては養子をもてません。それで、「お前を結婚させ、養子を選んで、お前の継代を地上に残してあげよう」と約束したのです。「今からは、お前が行くべき道、天上世界の死の道を行っても、お前を妨害する者はいないだろう」という解放の公約を立てておいて送りました。死ぬ息子に対する整理を考えられなかった先生だということを知らなければなりません。今それを知った興進君は、「偉大なお父様だ」と思って侍っているというのです。有り難いお父様だというのです。ですから、興進君の代わりに孝誠(注:孝行すること)する道が皆さんに残されたのです。父母様を保護する責任が皆さんに残っています。

 そのようにすれば、皆さんには間違いなく、父母様の愛の所有版図圏内に連結する、自然的愛の相続的所有権が臨在するはずです。(一三七−三〇五、一九八六・一・三)

 神様を愛して、世界を愛するという、自らの公的な召命に対する責任を完遂するまでは、私的な感情を中心として生きることはできないのです。それゆえに、受難路程四十年歴史を経ましたが、神様がなぜ文先生を捨てないで、このようにつかんでこられたのでしょうか。心情圏が違います。私が息子をより愛すれば、サタンに引っ掛かって倒れるのです。お父様がいなければ無駄死にするのです。そのために、涙を流しながら息子の正道をふさぐことはできません。冷静なのです。涙一つ流さないのです。そのように深刻です。神様が見つめ、サタンが見つめるとき、恥ずかしい立場では正義の道、法を立てることはできないのです。(一四八−一七一、一九八六・一〇・八)

 私、文先生は、「お金を下さい」とは祈祷しません。出世しようとして祈祷はしないのです。J三大目標とは何でしょうか。第一が宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさいということです。それから第二は、絶対的な信仰をもちなさいということです。第三は、絶対的愛をもちなさいということです。これが三大目標です。私のするべきことにおいて、サタンがうそで欺いても、私は絶対的な信仰をもって事実を確認する時まで行きます。

 それゆえに、「サタン、お前も最後には私を正道に案内しなければならない!」と、このように信仰します。私には疑問がありません。何百の疑問の峠を越えていくことができる信仰です。それゆえに、アブラハムがイサクを播祭として捧げること、それは何でもないのです。そのように考えなければなりません。神様のみ旨のためには、私の息子、娘が死の場に行くことは何でもないのです。(一三九−六三、一九八六・一・二六)


3 「統一式」の時の真の御父母様のみ言

 み旨的に、歴史的に見れば、アベル的な存在が祭物として逝く確率が高いのです。すなわち、摂理史的にアダムを個人的な人類の先祖として見るとき、イエス様はアベル的な存在でした。それでイエス様は、十字架の祭物として逝くようになったのです。同じように、父母様の家庭でも興進(アベル)が逝くようになったのです。

 新年になる前にこの式を挙行することは、宇宙的転換期が来るからです。すなわち主権転換になるのです。前回、韓国で宣言した代表七十二カ国は、世界を代表する国家数です。そして、韓国、日本、アメリカ、ドイツ、この四カ国は横的な代表国家です。すなわち、歴史的なアダム家庭を復帰するのです。

 今興進が逝くことにより、共産侵略を阻止しました。七十二カ国を代表として立てることにより、東洋文化と西洋文化が融合されました。国民はアベルで、主権者はカインです。今回、この病院が積極的に協肋して、医師がみな涙を流して感動を受けたことは、カトリックが大きく肋けた条件になります。そして、七十二カ国の代表の中には、特にユダヤ教徒が多かったのです。今後東西の宗教、政治、芸術が一つになる契機が今回つくられたのです。

 興進が逝くことにより、今後、霊界と自由に往来するはずです。これで全世界が統一教会の祝福を受ける時が来るようになります。今回興進が逝くことにより、霊肉の世界が戻ってくるようになります。反対していた政府が支持に変わるようになります。摂理的に見るとき、一九八四年は三十年の私生涯が終わり、一九八五年からは公生涯に入るようになるのと同じです。

 興進が生かされて、逝くようにしてください! 二十四長老を中心として天国を建設するようにしてください! 真の父母と真の子女が一つになって勝利の印を押し、興進の霊肉を受け入れてください! ユダヤ教、キリスト教、統一教会が一つになることを受け入れてください! 神様の世界になるようにしてください! これから一九九〇年まで、七年間攻勢をかけて統一世界になるよう、神様、真の御父母様、祝福してくださいますように! このようにアベルが逝くことは、家庭が責任を果たせなかったからです。したがって、今後家庭が一つになるようにしてください!

 聖進と孝進の間を、興進が祭物になって逝くことにより、円満に解き、復帰されたエサウとヤコブになるようにしなければなりません。興進が祭物になって逝くことにより、父母が完全に一つになるようにしなければなりません。お母様は、お父様に服従さえすればよいのです。(一三〇−九三、一九八三・一二・三一)


五 「愛勝日」、「昇華式」、「元殿」という言葉の意味

1 「愛勝日」宣布、愛のみが死を超克

 私たちが一月二日を「愛勝日」に決めたのは、過ぎた一日を記念しようとして立てたものではありません。「愛勝日」に決めたその日は、摂理史または歴史路程に必然的に現れなければならない日です。

 人間が歴史を通じて闘っていく問題、また人間を救援するための神様の歴史的摂理、この重要な問題が介在しているのでこの日が立てられたのです。どれほど人間が努力しても、また霊界でどれほど神様の摂理を推進させたとしても、地上と天上世界を連結させることができる「愛勝日」という日が立てられなければ、人間世界の問題や霊界の問題、摂理的な全体の問題が解決しません。

 このような論争は、どこから由来するものなのですか。由来するその根源はどこでしょうか。それは堕落に由来するのです。もし人類始祖が堕落しないで完成していたなら、完成したその場で愛の理想が実現していたのです。

 愛の理想が実現されるということは、すなわち人間たちが愛を中心として完全に完成すると同時に、神様もこの愛を中心として創造理想を完成することを意味します。愛というものは、神様でも一人で成し遂げることはできないのです。愛を成し遂げようとすれば、必ず相対的基盤がなければなりません。

 神様が人間を造られた理由は、愛の理想を成し遂げるためでした。神様の前に対象になる一つの永遠の実存者として、永遠の実体として造られたのです。神様の愛の理想を人間と神様が共に完成するために、必然的な関係をもって造られたのです。これは運命的な存在です。運命的といえば、行くまいとしても行かざるを得ない、避けていくことはできないということを意味するのです。

 ゆえに、ある方法を通して避けていくことができる道ではなく、これは必然的であり、行かなければならない道です。人間と神様の関係を中心として必然的な目的成就、運命的完成点に向かっていくにおいて、その中心となるのが愛です。

 愛を通して生きるようになるとき、人間世界では幸福が始まります。また、人間自身が成そうとすることの完成や理想実現というものは、愛の基準を離れてはあり得ないのです。それゆえに、万宇宙のすべての存在は、愛を土台として生きていきます。創造されたすべての万物の出発はどこからだったでしょうか。神様の愛を中心として始まりました。ゆえに被造世界の中心である人間は、より一層愛を中心として出発したというのです。愛によって出発して、愛によって完熟したその基準を通して、愛を通して社会生活をし、愛を完成させて霊界に帰るようになっているのです。(一三七−二〇七、一九八六・一・三)

 皆さんが知っているように、今まで霊界に行っているすべての霊たちと真の父母の血族が、霊界に行って直接的に関係を結んだことがなかったのです。そして、霊人たちの願いは何かというと、真の父母と心情的紐帯を地上で結びたいということです。しかし、それは結ぶことができないので、地上にいた息子を送ってくれれば、霊界に行ったその息子と関係を結ぶことにより、すなわち、興進を通じて地上に降りてきて、キリスト教を協肋して消化する運動をすることができるというのです。そのようにすることによって、イエス様を中心としてキリスト教霊界が地上に再臨し、霊界全体が再臨できる環境ができてくるのです。

 きょうは「愛勝日」です。「愛勝日」というものは、結果主管圏と直接主管圏です。これは、アダムとエバに連結してなされたのです。ところが、堕落することにより、これができませんでした。本来は、この結果主管圏内から真の父母を通して直接主管圏内に行き、それから霊界に行かなければなりません。そのまま霊界に行くというのは、本来の原理にはありません。堕落することにより、すべてこの道を行きました。

 それで、ここから連結される橋を架けてあげなければ、彼らは来ようとしても来る道がないのです。このように来ては、地上世界の善なる圏を協肋するのは難しいというのです。この世界で精誠を尽くして祈祷すれば、来て少しの間仕事をして、また離れなければなりません。縦的な面ではこのように協肋することができますが、横的には協肋することができないというのです。このような運動はしましたが、横的なものはできないのです。

 それでは、この横的な運動をどのように展開させるのでしょうか。これが問題です。横的運動は、真の父母を通じた真の父母の管理圏内にあります。それゆえに、これを主管する立場に父母がいるのと同時に、息子も主管することができる権限を受け継ぐようにして、その息子を霊界に送るのです。送るのは、連れてくるためです。送る目的が連れてくるためなのです。(一六一−八〇、一九八七・一・二)

 私が興進の死体をおいて天の愛を立て、サタン世界において決断を下して天が勝利したという日が「愛勝日」です。それゆえに、「愛勝日」をしっかりつかんでいくところには、サタン世界が自然屈服する圏が展開するのです。その権限は絶対的なので、それをもっていく人は、長子の権限によって天のお父様の代わりに、真の父母の代わりに、お兄さんの代わりに権限を行使することができます。これは、先生の話ではありません。創造理想の観であり、原理が提示する観だというのです。(一七一−二八九、一九八八・一・二)

 愛は死亡圏に勝ちました。死亡に勝つということは、間違いなく死亡の門を開けるということです。それで興進君が亡くなったのち、三日目に「愛勝日」を立てました。

 死んだ息子をおいて泣いてはいけません。父母が涙をぽろぽろ流してはいけません。そのように無情な道です。それゆえに、先生が興進を天に送るとき、涙一つ流しませんでした。お母様は私に従っていくので、そのようなことを知りません。このようにして昇華式を経て死亡圏を分別するのです。(一六四−二七六、一九八七・五・一七)

 「愛勝日」がどれほど偉大な日ですか。それで、興進君が亡くなった日を記念することよりも、愛を中心として復活した日を興進君も願うはずなので、昇華した日を「愛勝日」として代わりに記念するのです。興進君に対する観と「愛勝日」に対する観をはっきりと知らなければならないというのです。(一七一−二九三、一九八八・一・二)

 原理は二つですか。霊界の原理と地上の原理は違いますか。原理は一つですが、どこで統一されるのですか。地上で統一されなければなりません。イエス様も霊界に行っていますが、愛の心情的所有基盤が出てこなかったので、地上世界に来ようとしても来ることができないのです。ただ、来ることができるとすれば、愛を中心とした霊的所有基盤になっている聖霊基盤と一つになったその基盤を通してのみ往来するのであって、その他の実体圏世界とは関係をもつことができないのです。

 それでは、実体圏、神様の愛を所有するための決定基盤を誰から連結させることができたのであり、はんだづけすることができたのでしょうか。興進君を通してこのような蕩減的条件を立てることにより、実体的愛の所有圏を通過したという条件の資格を与えられて再臨復活していくのです。それが原理です。原理を知らなければ、それが何の話か分からないのです。こうでもあるようであり、ああでもあるようだ、ではいけません。先生が話すのは間違いない話ですが、皆さんも間違いなく悟らなければなりません。

 それで「愛勝日」とは何でしょうか。霊界と肉界が、今まで愛を中心として連絡できなかったのです。そして、サタンの死亡圏が勝手にこの世を支配したのです。死にさえすればすべてサタンが連れていったというのです。

 今は愛の伝統を立てたので、地上世界で真の父母と関係した死は、サタンが勝手に引っ張っていくことができないというのです。ここから天国に直行できる道が生じます。引っ張られていって、ここにまた帰ってきて再臨していくのではなく、「愛勝日」を立てることによって、地上世界から天上世界へ直行できる天国の門が開くというのです。(一三七−二九六、一九八六・一・三)

 愛だけがすべてのものを消化できる内容になります。死も愛で消化するのです。それで、統一教会で「愛勝日」という言葉を使うのは、死を消化しようということです。自分の愛する息子が死んだにもかかわらず、それをどのように愛をもって消化するのでしょうか。死は悲しいものですか。その愛する息子が、ここで途絶えるのではない、そのように考えるのです。(一三七−三一四、一九八六・一・五)

 天地にふさがったすべての垣根が崩れて、天と地が和するその日が「愛勝日」です。愛が勝った日です。その愛はどのような愛ですか。息子を祭物として、彼を忘れて神様を愛することができ、天国に行くことができる理想的な妻を愛することができ、理想的な息子、娘を愛することができなければなりません。その死体を横にしても、そのようにするというのです。そのようにしなければ、「愛勝日」が出てきません。はっきりと知らなければなりません。

 死んだ息子だけを考えることもできます。神様を恨むこともでき、人間として怒りを爆発させることもできます。しかし、その息子を越えて天を考え、父母を考え、妻を考えなければなりません。死んだ息子を越えて、その息子を忘れて息子、娘を愛することができなければなりません。それゆえに、死亡の主権が天国の生命圏の前では何の力の作用もできなかったという基準で分かれるのです。「愛勝日」には、天だけを考えなければなりません。二つの世界に分かれるのです。

 「愛勝日」を設定してあげることにより、原理結果主管圏と直接主管圏内からサタンの愛によってふさがれたものを抜いてしまったのです。抜いてしまって神様の愛をもつようになれば、地獄でもどこでも境界線がなくなるのです。あのどん底にまで好きなように下りていくことができるというのです。そして、上がってこなければなりません。天の世界の人にサタン世界の人が屈服するようになっています。それで「愛勝日」です。天の愛が歴史に代わって、過去、現世、未来の圏まで、その代わりにサタン世界の死亡圏を抜き出して打ってしまわなければなりません。それでこそ、それが勝利であり「愛勝日」です。(一七一−二七二、一九八八・一・二)

 霊界と肉界は、何のために分かれたのですか。真の愛がないために分かれました。ところが、真の愛を中心として、興進が父母様と連結することができるように順応することにより、ここで霊界と肉界の統一圏ができていったのです。原理的です。これをはっきりと知らなければ、「愛勝日」を守る意味がありません。

 「愛勝日」というのは、死亡圏に勝ったということです。愛が何に勝ったのですか。サタンの死亡圏に勝ったのです。死亡圏に勝ったので、先生と興進君は霊界と肉界の道を往来することができます。(一九六−二七〇、一九九〇・一・二)

 死亡圏を越えて今から入っていく世界は、真の父母によって宣布された「愛勝日」の壁を中心として、これ以上は入ってこれないようにする条件を立て得る時になりました。先生を愛する限り、自分たちの生命よりも先生をより愛する限り、サタンはここから侵犯することができません。それは、興進が皆さんの代わりに逝ったからです。その上に、興進以上に父母様を愛する私になれば、そこにいるサタンは全く身動きができないのです。そこからサタンを「キック!」するのです。

 今まで、愛はサタンが支配しましたが、これからは神様が支配します。どれほど偉大な日ですか! 先生のみ言をはっきり知らなければなりません。

 今からは、皆さんが死んでも、サタン圏では死にません。死んでもサタン圏から抜け出すというのです。それで、私たちの葬式やすべての式は、根本的にサタン世界と異なるのです。このように、この「愛勝日」がどれほど必要か分かったでしょう。(一三〇−二〇六、一九八四・一・一五)

 興進の死体をおいて、天と地、神様とサタンを分け、サタン世界に愛の踏み台、根を植えたのです。その愛の根を誰が植えておきましたか。真の父母が植えておきました。立石父母の責任をもった先生が、これを確実に抜いて愛の枝を開拓しておいたのです。ですから、今からは、皆さんが愛の因縁の踏み台をつくり、地獄のどん底でもどこでも行かなければなりません。皆さんが父母様と神様のために精誠を尽くして忠臣になり、愛国者になり、孝子になり、死の祭物として捧げていこうとするところでは、天下が頭を下げる権限をもつようになるのです。そのようなことができる特権をもった、という事実を知らなければなりません。(一七一−一八〇、一九八八・一・二)

 神様は、私がみ旨をすべて成して死に、共同墓地へ行くとき、私が死んだと泣かれるでしょうか。み旨をすべて成して、神様の前に一生の間苦労して哀れに生きたので、「ああ、かわいそうなお前が死んだのだなあ!」とおっしゃるでしょうか。「安らかに死になさい、息子よ。安らかに死になさい。責任を全うしたあなた一代の命は、歴史的な万国の、人類のすべての罪に責任をもっていくのだ」とおっしゃるのです。そうして、神様を解放しておいたのちに私が死ぬようになる時、涙を流さなければなりません。神様を解放させられない立場で、救援摂理に呻吟している神様が、私が死んだのちに、私に対して涙を流すようにはしないというのです。

 私が死んだのちに、そのような不孝者になることは嫌だというのです。私は、そのように考えています。三日間、興進の死体の前で、毎日のように過ごしながらも涙一つ流さなかったのです。それは、私が行く道があり、私がすることがあり、万人を代表して天情の道理をすべて果たすためです。それゆえに、愛によって死亡世界に勝ったので天が勝ったというのです。それで「愛勝日」というのです。一週間そのようなことをしました。愛を中心として結んでおいてこそ、サタンがこの愛の前には、「あ!」と声を出して逃げていくというのです。死ぬことが問題ではありません。(一八〇−四二、一九八八・八・二〇)

 興進も、先生がすべて責任をもって道を築いてあげたので、霊界に行ってイエス様が頭を下げ、イエス様の兄と同じ立場で、中心となった立場で仕事をしているのです。先生がこのようなすべての天上の法度を知り、それを教えてあげたので、そのことをするのです。それゆえに、今回興進が逝っても先生は泣かなかったのです。私が指導者として天理を知っている立場で、歴史的なこのような新しい伝統を立ててあげなければならないので、このような「愛勝日」を定めたのです。(一三二−二七二、一九八四・六・二〇)

 人々に本心があるならば、どこに従っていかなければならないのか、すべて分かります。それが純然な愛の理論です。共産党と闘うのは、共産党をなんとしてでも生かそうというのです。今回興進が逝かなければ、「愛勝日」を立てることはできませんでした。神様や人類、あの霊界全体が見るとき、レバレンド・ムーンは、神様の愛に代わって、今日怨讐に対して勝利したという立て札を立てたということを、皆さんは知らなければなりません。

 サタン自身も、「あなたは、やはり天の人です」と言います。愛する息子を死の境地に押し出しても、涙を流さずに公義の立場で誇らしくしていくのを見るとき、サタンさえも尊敬せざるを得ないと思います。死亡圏が天の生命を打ちましたが、愛の力ですべてカバーして越えていくのです。興進は逝きましたが、父によって愛が残ったというのです。愛をもってそのようになったのです。(一三〇−一六二、一九八四・一・八)

 苦労することは好きですか、嫌いですか。好きなはずがないでしょう。嫌いでしょう。私も嫌いですが、しました。なぜですか。世界のために腰が曲がるほど働いてみて、息が詰まり、喉から焦げたようなにおいがするほど耐えました。生涯を生きていくにおいて、何もなかったでしょうか。うれしいことばかり生涯路程にあるはずがありません。息が詰まって悲惨な立場もあるというのです。例えば、興進君が霊界に行く時、それ以上悲惨なことがあればどのようにするのかというのです。そのようなことがある時に天を恨むならば、家庭や一族が滅びる時に一〇〇パーセント天を裏切る背信者になるのではないかというのです。

 今すべて終わり、最近になって私がそのようなことを考えながら、申し訳ないと思うのです。良いことばかりが生涯にあるのではないのです。したがって、昇華式という式があるのです。泣いたりわめいたりするところに、どうして昇華式があるでしょうか〇そのような意味で、興進が死んでから一週間以内に「愛勝日」という日を策定したのです。深刻な立場です。涙を流してはいけません。

 今まで、数多くの父母が来ては行ったのですが、真の父母が行く道は、そのような世界の数多くの人々が行った道とは違います。謙遜にひざまずき、喜びの心をもって神様の栄光を称賛でき、息子の死を前にして行動することができる決意がなくては、「愛勝日」、天が勝ったという基盤は築くことができないというのです。名称は皆さんが「愛勝日」といいますが、その背後はどれほど複雑か知らないでしょう。(一四四−二九八、一九八六・四・二六)

 すべての各国代表、世界代表、百二十の布教国を代表して全体が集まったのですが、「先生のみ言を中心として完全に統一され、愛の主管圏を越えていきます」と誓うのですか。これからは解放です。これからは、先生が解放の立場に行くのです。これから新時代への転換時代が来るのです。それで今日、このような「愛天日」を通して、「死の恐怖もすべて愛によって消化しなければならず、監獄の恐怖も愛によって消化しなければならない」と祈祷した事実を知らなければなりません。統一教会を中心として、死を愛によって消化して、今日法廷、地上地獄を愛で消化するという式を、先生が今捧げたという事実を皆さんは知らなければならないというのです。

 「愛勝日」と「愛天日」を立てることは、真の御父母様がいなければ不可能ですが、父母様が現れて歴史時代にこのようなことをすべて成し遂げ、後代の人々が行くべき道を高速道路にしてあげました。それで、歴史を通して永遠に「愛天日」を愛し、「愛勝日」を称賛しながら記念しなければならない重要な日であることを知っていなければならないので、この時間に宣布するのです。父母にとっては、息子が死ぬこと以上に悲惨なことはありません。地獄の恐怖など、このすべての困難を中心として、愛によって消化できる特権的な日を決め、このような勝利的な立て札を立てたということを知らなければなりません。「愛だけが、愛だけが主管してくださいますように!」と、こうでなければなりません。(一三二−九九、一九八四・五・二〇)


2 昇華式と死の正しい理解

@ 死は新次元への昇華だ

 霊界と肉界は、何のために分かれたのですか。真の愛がないために分かれました。ところが、真の愛を中心として、興進が父母様と連結することができるように順応することにより、ここで霊界と肉界の統一圏ができていったのです。原理的です。これをはっきりと知らなければ、「愛勝日」を守る意味がありません。

 このようなものがふさがったので、興進君が逝くことにより、この死亡の垣根を、死の垣根を壊してしまったのです。それで「昇華式」と言うのです。死は落胆や気落ちすることではありません。落ちるのではなく跳躍するのです。昇華するというのです。それで統一教会の食口たちは、死に対する恐怖をもってはいけません。死は、このような自然循環法度によって訪れるのです。より良い世界へ移してあげるための手順なのです。

 それで、このようなすべての死亡圏を打開して、分かれた霊界と肉界を統一することを、先生と興進君と先生の家庭がすべて一つになってするのです。(一九六−二七〇、一九九〇・一・二)

 今日まで、人間が死んでいくということが何かを知らなかったのです。

 それは悲しみではありません。それは、次元の低い世界から次元の高い世界へ愛の橋を通して移動することだと見るのです。それゆえに、「昇華式」と言うのです。次元高く昇華するものだということです。それは、愛においてのみ可能です。(一三七−三一六、一九八六・一・五)

 サタンの愛によって死亡圏が生じました。死亡圏というものは、往来できる道がないというのです。死亡圏が生じた所に興進君をこのように送ることにより、死亡圏が途絶えていったのです。死亡の愛ではなく、真の愛を中心として死亡圏に勝ったのです。この中に父母様の愛を中心とした杭を打ち込まなければならないというのです。それで、父母様を中心として愛の杭を打ち込みました。この杭を中心として、どこでもこちらに来ることができます。いつでも往来が可能です。この道をふさぐものは何もないのです。死亡圏に勝ちました。天の愛の力をもって興進君が犠牲になることにより、それを条件として、先生が特別な条件を立てて祈祷した基盤の上に立ったので、これを死亡圏がふさぐ道はないというのです。

 この条件を立てて興進君を送るのです。三日間は霊が離れません。三日まではここに定住します。三日以内にそのことをしなければならないのです。(一六一−八〇、一九八七・一・二)

 霊界に行くことは悲しいことではありません。解放のラッパの音と共に天国の旗を掲げて、足取りも堂々と百戦百勝し、錦衣還郷する旗を掲げて、民族と人類の歓声を受けて堂々と入っていくことができる還故郷の道です。悲しいのではありません。統一教会では泣きません。それを「昇華式」と言います。

 私たちのような人は、命を差し出して生きるのです。既に覚悟した身であり、天の前に誓った身であり、客死の運命でも恨がないというのです。神様がその場に訪れて私の体を収めてくださる孝子になり、国王がその場に訪れて収めてくださる忠臣になったとすれば、聖人になったとすれば、聖子になったとすれば、それ以上の福はないというのです。そのようになれば、その倒れた所は名勝地になり、天下のすべての万民を蘇生させることができる祝祭の基台であり、記念の基台になるのです。そのような悲しい立場によって数多くの後代の若者たちが新しく生まれて、その国に代わって活火山のように爆発するというのです。そのような材料を統一教会はたくさんもっています。

 皆さんは、天国に行くことができる息子、娘を生んでみたのですか。神様と真の父母の名によって戸籍謄本をあげるのに不足なことがなく、救世主が必要なく、堂々と神様の名によって、自分の父と母の名によって天国の戸籍に入籍してみたかというのです。できなかったでしょう? 神様の国がありません。神様が訪ねようとする家庭もないのです。個人もなく、家庭もなく、氏族もなく、民族もなく、国家もありません。(二二七−二六〇、一九九二・二・一四)

 地上でも愛を呼吸する人は、死んだのではなく生きているのです。腹中で呼吸をする時は、未来の空気世界のパイプを設置して生きています。生きていますが、へその緒に連結した胎をすべて破壊し、死んで生まれるようになる時には、新しい次元、高い次元に生まれ変わるのです。これがどれほど変化するかというのです。高い次元で空気の供給を受けて出てくるというのです。

 ここから出てきて何を発展させるのですか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるというのです。御飯ばかり食べていてはいけません。御飯を食べることは死んでなくなっていくのです。水を飲んで生きることはすべて死んでなくなっていくのです。それは第二の存在です。ここで、この期間に、何を満たさなければならないのでしょうか。この期間に、新しい愛の人格を形成しなければなりません。

 新しい「私」のために、いずれ壊して行かなければなりません。死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結したこの器官を壊し、愛の要素を受け継ぐのです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛、このすべての愛を中心として、皆さんの一つの内的な構造が育っているというのです。愛の力は統一圏の力です。この統一圏の力は、どこでも及ばない所がないのです。神様の愛がある所は、あっという間に及びます。

 皆さん、これがこのようになるということを知っていましたか、知りませんでしたか。いつその伝達装置を設置しましたか。同じです。この宇宙の真の愛を、愛の神経器官がすぐに分かるというのです。愛は、学ばなくても主管することができるのです。(一三九−二一四、一九八六・一・三一)

 愛の道場で訓練されなければならない人生だということを知らなければなりません。それで、死を克服しなければなりません。第二の生命を促進させる変化的過程が死です。今までの天地において、死亡圏に勝ち、新しい世界への飛躍であり昇華なのです。それで昇華式です。

 統一教会は、泣いたりわめいたりしてはいけません。違うというのです。彼がどれほど地上世界で愛を受け、愛の道理に符号する宇宙保護圏に連結できるかということが問題です。世の中の万民が、彼の残した愛圏をその場に行って伝統として受け継ごうとする運動が行われなければならないのですが、その運動の本拠地がどこかというと、統一教会だというのです。アーメン!統一教会に入ってくれば、過去とは異なる愛を感じるのです。春風が吹くというのが違います。サタン世界は、どんなに春でも、冬の風が冷え冷えと吹きますが、統一教会は、どんなに冷え冷えした冬でも春風が吹きます。夢があります。夢と流れがあるというのです。(一三九−二一四、一九八六・一・三一)

 今まで、堕落した世の中においては、死というものが最も恐ろしいものになっていました。これをすべて除去しなければなりません。神様を中心とした世界では、死亡圏は悪いものではありません。けって飛躍するためのものです。水平世界から垂直世界へ飛躍的な発展をするための変化を起こすのが死です。人間世界は、この平面世界しか分かりませんでした。垂直的世界を伝授できる出発、その舞台を継承していくのが死です。それを知っているので、統一教会の食口たちは、死を恐れてはならないというのです。

 死は、垂直世界をすべて相続するための第二の出発です。平面ではありません。地上世界では、平面生活で愛の世界を描いておいたのですが、人は地上で暮らしてから、垂直的神様を中心として愛の世界に入っていくのです。なぜそのようにしなければならないかというと、死に勝たなければならないからです。死に勝った愛の主権者にならなければなりません。

 それゆえに先生は、興進君が亡くなった時、涙一つ流しませんでした。涙を流せば問題が大きいのです。落命する前に、「統一式」ですべて収拾してあげなければなりません。(一三六−八一、一九八五・一二・二〇)

 生まれて生きていくにおいて、横的な愛に拍子を合わせるよりも、縦的な愛に拍子を合わせるために移動するという世の中では、死も消化できる能力がなくては、愛が大宇宙を、霊界と肉界を支配できないのです。その愛の力を通じれば、死も消化できるというのです。

 今日、人間が死んでいくということがどういうことかを知らなかったのです。それは、悲しみではなく、次元の低い世界から次元の高い世界へ愛の橋を通して移動することだと見るのです。ですから、統一教会では死を「昇華」と言い、その式を「昇華式」と言うのです。(一三−三一六、一九八六・一・五)

 統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはいけないと教えます。それゆえに、死を「昇華」と言います。(一九九−三五三)


A 死はより良い世界へ移してあげるための手順

 韓国語では、「死ぬ」というのを「帰る」という意味の言葉で表現します。どこに「帰る」というのですか。人生が出発した本来の場所に「帰る」という意味です。はるか遠くの歴史の起源を越えて「帰る」というのです。人類の先祖の根源であるその世界に「帰る」という意味です。すなわち創造主がいらっしゃるならば、その創造主がいらっしゃる所に「帰る」という意味です。そこから出発したので、そこに帰っていくというのです。

 宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっている雪が溶けるようになれば、その水が小さな渓谷を通って流れるようになり、さらに様々な川を通って大きな海に流れていきます。大きな海に流れていくようになったその水は、水蒸気になってまた戻るのです。このように、循環運動を通じてより高い所に、より喜ぶことができる所に戻ることを願うのです。

 それでは、私たちが行って永遠に生きなければならない所はどこでしょうか。私たちは、地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かっています。世の中に生まれれば、十代、二十代、三十代、そして中年、壮年、老年時代を経るようになります。このように、青春時代を経て、壮年時代を経て老年時代を越えていきながら、暮れる太陽のように一生を終えるようになります。

 しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって暮らす一生は少しの間であり、死んだのちに私たちが迎えなければならない世界は永遠だということをよく知っています。それゆえに、地上においての一生というものは、永遠の世界に行くための準備期間なのです。(生と死に対する理解、一九九八・一二・一九)

 人間が死ななければならない理由は、肉身では制限された愛だけしかできないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもって現れようとすれば、制限された肉身だけではできません。それゆえに、無形の霊にならざるを得ないのです。

 さらには、真の愛の理想を全天地と共に同一化するためなのです。したがって、死は、苦痛の道ではなく、宇宙的真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、追って歩く陸地の世界から、ふわふわ飛び回って暮らすことのできる世界へ移ることです。(人間が行くべき生涯路程、一九九九・一・一七)

 全宇宙を自らの舞台にして、真の愛で旅行を楽しむことができる資格者になり、そのような世界へ入門するために死ぬ道を行くのです。ですから、死ぬのは正に新しく生まれることです。(人間が行くべき生涯路程、一九九九・一・一七)

 人は、神様に似ることができる体をもって生まれなければならないという結論が出てきます。神様と人間は、共に永遠に生まれることができる日を待ち焦がれます。そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、その日が正に肉身を脱ぐ死の日です。

 それでは、人間は、死を歓迎しなければならないでしょうか、あるいは悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。

 それでは、何のために私たちは死ななければなりませんか。神様の真の愛、すなわち「ため」に生きる愛のために死ぬと思わなければなりません。したがって、肉身を脱ぐということは、無限な神様の愛の活動圏に私たちが同参するためであり、神様の愛の世界のためだという結論です。(人間が行くべき生涯路程、一九九九・一・一七)

 人間は、いずれ死ぬようになります。私たちは、善なる自我を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。母の腹中で胎教をきちんと受けてこそ、健康で善なる赤ん坊が生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活においても、きちんと準備しなければなりません。神様の形状を手本として、神様の心情を手本として、神様の偉大な神性を手本として育たなければなりません。育ってから、また命を懸けて越えていかなければなりません。したがって、どれほど恐ろしい暴風雨が吹いても、私たちは、最後の峠を越えなければなりません。うまく境界線の前まで行っても、そこで倒れてはいけません。

 私たちがこのような人生の境界線に立つようになる時に、果たして何をしなければならないのでしょうか。決意して走っても最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていては途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になることができないのです。(生と死に対する理解、一九九八・一二・一九)

 統一教会では、なぜ「ために生きなさい、愛のために生きなさい」と言うのかというと、このような生活をしてこそ、自分が死んであの世に行って第三の私を生かすことができるからです。なぜ第三の私が必要なのですか。この世で、この地球上でどこかに行こうとすれば、飛行機に乗って行かなければなりません。どれほど制限が多いですか。ここからあのフロリダに行こうとしてもそうです。霊界ならば既に往復しているのです。地の果てに行ってきているというのです。太陽にも行ってきます。太陽、宇宙まで行ってくるというのです。

 それでは、この膨大な、何千億光年にもなる膨大なこの宇宙を、光よりも速く往来することができるものとは何ですか。愛の連絡船だというのです。愛の光です。太陽の光がどれほど速くても、愛の光にはかないません。愛の周波の活動圏内では無限大に活動するので、制限された人間が無限拡大の大宇宙を活動舞台にしようとすれば、体ではできません。物体ではできません。体ではできないというのです。ですから、体を破裂させて第三の私として出生するのが死なのです。その死は、悪いものではなく良いものです。制限された私が、無限大に飛躍的で跳躍的な私になるのです。

 革命的にこの宇宙に向かって飛躍できる時代に入っていく王子になるためには、「ため」に生きる愛をもって体験しなければなりません。指先やつま先の細胞まですべてそのようになってこそ、その世界に行って細胞が完全に呼吸するというのです。「ため」に生きる愛を中心として生きなければ、あの世に行って窒息します。すべて死にます。息が詰まってしまい、目が見えないのです。すべてのものがそうです。(一三二−二七二、一九八四・六・二〇)

 皆さん、死ぬことを嫌うでしょう? 死ぬことをなぜ嫌いますか。神様がそのようにされたのですか。人は誰でもみな死ぬようになっているのに、誰でも死ぬように造られたのが人なのに、死にたくないと思うように造られたのでしょうか。神様が私たちのお父様ならば、私たちを理想的世界へ導かれるのです。

 先生のような人は、霊界をよく知っているので、世の中に対する未練がありません。なぜ未練をもったのかというと、広がった人類を救わなければならない責任があるからです。先生は、今未練がありません。死を恐れない男です。ですから、大きなことをするのです。ジャンピングしても死にません。死ぬようですが、刑場に行って絞首台に上がっていき、首をくくって「ああ、私は死ぬ、ああ、落ちる!」という時、神様が足を支えていらっしゃいます。それで、他の世界に行って第二跳躍の世界へ進み始めるのを知っています。

 そのような喜びを知っている人が、監獄が恐ろしいでしょうか。とんでもないことです。

 統一教会の葬式は何ですか。その葬式は何かというと、「葬」という字ではありません。それは、将来の「将」という字だと私は考えます。亡骸を、礼を尽くして埋める式ではなく、希望の世界に行く式、「将来式」だというのです。韓国語はカイン・アベルになっています。統一教会式に言えば、地獄のような世の中で暮らして天国に入っていくのですから、そのような希望以上の希望がどこにありますか。ですから、将来式というのです。葬式ではなく将来式です。

 死が恐ろしいですか、良いですか。死のように興味津々なものはありません。制限されたその限界の世界から無限の世界へ跳躍するのが死です。(一九六−五五、一九八九・一二・二四)

 なぜこの世で愛を強調するのかというと、あの世に行って合格者にならなければならないからです。腹中で成長する時に、鼻と目と口と呼吸する器官がきちんと準備されてこそ、その後の世界で空気を吸収できるのと同じように、私たちは、生きている時にあの世のペースに合うように、すべての作用をすることができるように訓練しておいてこそ、あの世に行って自由人となり、呼吸しながら千年、万年無限な世界で、永遠の世界で、神様に侍った愛の圏内で生きることができるのです。そのペースに合うようにしようとするので、必然的に地上生活はそのようにしなければならないということを知らなければなりません。死んでみれば知ることができます。

 人が生きることの中で、第一の復活、第一の出生が腹中の生活です。第二の出生は今です。それから、第三の出生は、神様のところに帰ることです。自分を越えて世界の人のために生きるようになる時に、私が無形の神様のそばに帰ることができるのです。それは愛だけが可能です。あの世にいっても、その愛の理想の神様を標準として、そこに同化することができるその訓練を受けていく時には、神様のようになるのです。神様の友人になるのです。(一三二−二七二、一九八四・六・二〇)

 皆さんも、肉身を脱いで死ぬことが嫌だと思っているかもしれませんが、実際に死んで肉身を脱ぐと、私たちは、霊人体として第二の出生の幸福で楽しい関門を通過するために、さっと飛んでいくのです。(一九七−二六一)


B 昇華式は興進様から始まる

 昇華式は、興進が逝った時から生じたのです。その時に成立したのです。病院で酸素マスクをしているのを、先生が外さなければならなかったのです。霊界へ行くべき道をすべて整理しておかなければなりませんでした。そのようにすれば堕落圏がありません。それゆえに、興進が以前来て役事しながら、「お父様に対する負債は返す道がない」という話をしたのです。

 真の父母の家庭で育った青少年として霊界に行ったのは初めてです。興進が行ったのは、霊界の再臨主と同じように、霊界のメシヤとしていったのです。それでそれと一つになることにより、高い所に上がっていくのです。(二二五−一三六、一九九二・一・五)

 興進君が行くことにより、この死亡の垣根を、死の垣根を崩してしまうのです。それで「昇華式」と言うのです。死は落胆ではありません。落ちるのではなく跳躍するのです。昇華するのです。統一教会の食口たちは、死に対する恐怖をもってはいけません。死は、このような自然循環法度によって訪れるのです。より良い世界に移してあげるための手順なのです。昇華というものは興進君から始まったのです。二九六−二七〇、一九九九∴・二

 統一教会によって天国の門は開きましたが、まだ先生が行っていないので、天国に入っていった人はいないのです。興進君もイエス様と出たり入ったりしていますが、まだ待っているというのです。それは理論に合う話ではないですか。レバレンド・ムーンがつくり上げて適当にする話ではありません。

 私が探し、探して、汚物までひっくり返して探してみると、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで、天国の王座まで直通できるただ一つの道があるというのです。その道の方向は、愛の旗を持って合図をしなければ、その他の合図では通じません。行くことができないのです。皆さん、天国に行く自信がありますか。先生を通じれば、愛の自動車に乗ることができます。そのようになれば、天使は愛の自動車を好んで天国に案内するのです。曲がりくねっていますが、そこは高速道路になっているというのです。(一四〇−四五、一九八六・二・一)


3 元殿という言葉の意味

 「元殿」は、本来の家という意味です。「殿」という字は、王宮やそのような所に使う文字です。ですから、天上世界でも地上世界でも、初めて現れた勝利の王子が、行ってとどまることができる場だという意味で「元殿」という名が出てきたのです。そのような内容を知らなければなりません。(二五九−一八〇、一九九四・四・六)

 「元殿」という言葉は何ですか。アダムとエバが死んで本宮に入ることを意味するのです。宮と通じることを意味します。「元殿」といえば宮です。アダムとエバが横になることができるその園に、代わりに横になったのです。イエス様と真の御父母様の代わりに横になったので「元殿」と言うのです。そこに行って祈祷すれば、天の恩賜に接するというのも、天の宮と未来の宮と連結する立場だからです。それが連結する立場には、息子が祭物となって統一教会が立てなければならない蕩減条件を解消させたその基盤があるのです。

 それゆえに、そのような忠臣たちの血涙を通じた勝利の基台の上に宮が立つのと同様の意味があるのです。(二一二−ー九六、一九九一・一・二)

 私は、興進には「碑石文を書くな」と厳命しました。以前に、そのことを尋ねてくるので、いくつか説明してあげました。興進は、元殿に入っていきましたが碑文がありません。なぜですか。故郷を訪ねていって父母の碑文を立てることができなかった人です。先生の話が正しいですか、正しくありませんか。

 先祖解怨して息子、娘を生かさなければならない責任があるのです。国を取り戻して、国を中心とした忠臣の称号で、父母に対して先祖を解怨してあげなければならない責任があるのです。そうだとすれば、今まで間違ったすべての碑文を片づけて、勝利の天の永遠祝福宣布と同じように、「私たちの父母は善の先祖でした!」という碑文を残してこそ、自分の息子、娘に手を付けるというのが原則です。(二二〇−一四九、一九九一・一〇・一六)


















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送