地上生活と霊界
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第一章 有形、無形世界での人間の存在

第一節 人生路程

一 人生路程に対する祈祷文

 愛するお父様7 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今まで戦ってきた小さな者を守ってくださったお父様の恩賜に感謝申し上げます。
 この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がないことを思うとき、その立場を無限に恋しがらなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事をみな放棄しても未練の残らない立場にあるということを、私たちは知るべきです。
 今私たちは、お父様の愛で暮らす理想世界、本然を訪ねていかなければなりません。第三の生の自由権限をもち得る解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。
 赤ん坊が胎中にいるとき健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、ということを知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせることができる立場に立つためには、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中であるために、死を覚悟しなければいけないという事実を、私たちは知るべきです。私たちの後孫たちは私たちと同じ立場に立てられては絶対いけない、ということを悟らなければなりません。(四九―三〇八)

 愛するお父様、今まで春の環境を開拓するために、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思うとき、私たちはお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかったことを嘆息し得る息子、娘になるべきです。私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化することができる因縁をもって、そこに完全に吸収されなければならないということを知るべきでございます。
 そうしてこそ、初めて春を迎えて花を咲かせることができるという事実を知るべきでございます。「一生で、どのひと時に春を迎えたことがあるのか」と聞かれるとき、いつだと答えられない、春を迎えられずに逝ったかわいそうな霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶためには、夏と秋を経なければならないように、私たちも一つの実を結ぶためには、そのような過程を経なければならないのでございます。
 一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第二の生を出発できるという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘になるべきです。
 いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第二の生命の母体である種になれることを知るのでございます。
 同様に、私たちの外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約できる母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人がいるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないということを思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨になるほど、内的な価値はより充実するということが保障されるという事実を、私たちが知るようにお許しくださることを切にお願い申し上げます。(三二―三七)

 お父様7 お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶことはできない、ということを知るべきなのでございます。
 今、私たちが、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくるあなたの音声を聞き、失った自分の体を探すことができ、お父様が私一人を探すために、私の背後において艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることのできる私たちになるようにお許しください。(四―二八〇)


二 人が願う目的

 神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔で表したのです。それが創造理想です。
 神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。
 アダム・エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様のように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。(一一九―一〇九)


三 生まれた理由

 今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に連関性を結んでいます。
 では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。
 それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。(一〇四―一二二)

 愛から生まれ、愛から育って、愛から生きて、愛から死ぬようになるときは、生むのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難いことです。
 皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者であるということです。
 皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母様の愛が差してある旗だと思いなさい。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。(一〇三―二五八)


四 瞬間(一日)と一生の関係

 皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
 瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
 このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせることのできる無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(三一―二一八)

 今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。
 一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題であらざるを得ません。
 復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。
 アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができます。
 その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、一時間、カチカチという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
 永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。
 それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
 いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
 このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カイン・アベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
 百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。
 アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のする。……もろももの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記二二・一七、一八)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチカチという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。
 今日、信仰者たちが恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(三七―二一九)


五 幼児期と三段階秩序

 アダム・エバを神様が造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこで出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム・エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。
 赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。
 幼児期とは、どのよう期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくることができる、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。(二二五―一九八)


六 我々の人生の道

 我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、すべての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。それゆえ、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。
 そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。
 一年を押し進めるためには、三百六十日を克服することができる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾ることはできません。このような一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。(三一―三〇)

 今日、この地に暮らしている人間たちは、時間性を外れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。
 人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。(三一―一四九)


七 我々が訪ねるべき本郷

 皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。
 その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則の世界であるために、生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。
 そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。
 それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界を率いてきています。
 そのような本郷の所へ導くべき宗教であるために、宗教は何を教えているのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜」であれと言うのです。数多くの人を高め、彼らのためにする立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。(七八―一一七)


八 人生最高の行くべき道

 人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男も女もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。
 人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。
 欲望の終わりとはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。それゆえ、神様の愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても大丈夫なのです。彼のものが私のものであり、私のものが彼のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。
 そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(三九―二一〇)


九 出生の基準と生涯の基準

1 過った出生の基準

 今日、世の中の人は、自分自身は高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったということを知りません。神様の怨讐であるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。
 堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にその血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような三種類の結実が、正に自分です。
 ですから皆さんは、サタンに属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのす。したがって、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。
 皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。それゆえ、出発が過ってしまいました。
 出発が過ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰って「真の父母」として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。
 それで、出発するとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりもっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。
 我々の先祖が過ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。(二一六―一〇九)


2 生涯の基準

 ここで、生涯とは、永遠の生涯を言います。地上界だけを言うのではありません。それは生きている永遠の暮らしです。
 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。神様の愛の相対が私というものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。
 愛の属性は、主体と対象が一つにすることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついていくことができます。全財産を、みな相続することができます。神様の心情までも、みな相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。これは何とも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。
 それゆえ、神様と同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世界は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。
 我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。だから、霊界に行けば自由なのです。
 それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(二一六―一一五)


第二節 人間の位格

一 神様が人間を創造した目的

 神様は、人間をなぜ造ったのでしょうか。第一は、神様自身が父母の立場に立つためです。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母になるためには、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。
 二番目は何かというと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をすることができないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して三六〇度の球体になってこそ、多くの空間が生じるようになります。
 三番目は、愛の相対圏の永遠性を維持するためです。神様の相対になるのは、アダムとエバだけではないということです。アダム・エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つようになるのです。ですから、神様の相対の位置を永続的に保存するため、人間を創造したのです。
 アダムもエバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女たちは神様を、おじさんと呼びますか、おじいさんと呼びますか。お父さんと呼びます。
 相対というのは、平等なものです。神様の愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。
 そこには、三つの理由があります。一番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父のような顔で、霊的にその形態を得るということです。
 二番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。
 生産工場が自動化され明確に大量生産するようになれば、天国はいっぱいになるのです。ですから、女性は多くの赤ん坊を産むようになっています。(二二二―三三八)


二 人間は、霊界と肉界の媒介体

 本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物を造って、人間を造ったのです。神様を中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、神様と人間と万物が平行的な立場で統一を見るのを願われました。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間であるために、人間は霊界と肉界を接触させることができる媒介体であるです。(六七―一四三)


三 体と心、そして霊人体

 今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。
 一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受ければ、回るようになるのと同じことです。
 すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。
 人間において、体の中心とは何でしょうか? 心です。心を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手にできません。(一三六―一四)

 人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。それゆえ人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来のすべての因縁に代わる存在であるために、天宙的な価値をもっています。
 人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくのにおいて、自分の心を前に侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天がたたきます。今まで天は、歴史路程で人間に良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。
 では、人間の良心は、天倫に一〇〇パーセント似たのでしょうか。そのようになっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわるようになるというのです。これがキリスト教で言われる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしてもつかむことのできない時代ということです。
 今日、我々は、物質を多くもっていてもいけません。なぜなら、神様が人を造るとき、体と霊人体を造りましたが、霊が中心であるからです。(四―二六八)


四 完全作動と共鳴

 共鳴とは、振動するときの周波数が同じことをいいます。
 人間は、永遠に生きることができる我々の内的人と、地上天国に暮らすことができる外的人が、愛を中心として共鳴することができなければなりません。共鳴するときは、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。
 同様です。霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和するようになるときは、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。
 それゆえ、目が完全作動するときは、目を開くようになれば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、一〇〇パーセント響きわたります。
 同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。(一七一―一〇三)

 人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男もそうであり、女もそうです。男も女も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば四人だと言うことができます。分けておけば四人ですが、これがどのように一つになるでしょうか。
 神様は、なぜこのように四人に造られたでしょうか。神様の真の愛を中心としては、完全に一つになるのです。真の愛で完全に一つになるのです。
 皆さんには、霊的人、統一教会で言う霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。
 では、霊人体と肉身はいつ一つになるのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じように共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するということです。
 それゆえ、体と心を一〇〇パーセント共鳴させ得る圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛です。(一三八―二五四)


第三節 人間の生命の本質

一 霊的なものが人間の本質

 ある一つの核心があれば、それを中心としても相対的な存在が必ずあります。陽子を中心として電子が回っているのと同じように、神様と人間との関係もこれと同じです。電子のような我々人間の心が、陽子のような神様の心の核心と関係を結んで作用しているため、神様が人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。
 我々が真理のみ言を探せば、神様の生命が躍動すること、神様の愛が和動するのを感じることができす。このように、真理の道を経て、神様の生命と愛を探していくのが、価値あることです。
 パウロが言ったのと同様に、世の中の光になることができる自分になったのも、中にある神様の愛のためです。
 真理は、永遠不変です。では、我々はこの悪なる世の中で、どのように善悪を分別しながら真理を探していくべきなのでしょうか。自分を中心とした心を捨てて、いつも低い位置に下りなければなりません。聖書でも、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と言いました。
 人間の本質は、霊的なものです。それゆえ、あの世に行けば、そのような人間の本質が人のためになるようになっていることを、もっと実感するようになるでしょう。ところで人間は、どうして自分だけのためにという心で万事に臨んでいるのでしょうか。
 これは、すべての人間が、天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているためです。(二―一三七)

 今我々は、霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんは、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがおいしくなければならないでしょうか。自分が生き残って神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が、肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として暮らす生活の味が、肉的な力をもって暮らす生活の味よりも、もっとおいしくなければならないのです。(一三一―二一一)


二 万物の霊長であるという意味

 万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう。人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局神様と直結させて霊長だと言うのです。
 万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。
 皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長と言えば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係について言う言葉です。
 それゆえ、霊長は、神様と通じるのです。しかし、人間が万物の霊長だといって、すべてが霊長ではありません。霊長になり得る人は、別にいます。その霊長になり得るクラブに加入できる資格者は、少なくとも個人のために生きる人ではありません。全体のために生きる人です。神様は、そのような人を中心として願いを成そうとされるのです。そうなれば、誰の天国になるのでしょうか。神様の天国ではなく、その人の天国になるのです。(三二―一三六)

 人は、どのようにすべきでしょうか。永生しなければなりません。悪なる世の中で、八十年ほど暮らしますが、犬が死ぬことや、人が死ぬことには、違いはないと考えるかもしれませんが、それは違います。人は霊長であるために違います。
 万物の霊長になり得るのは、何のためでしょうか。年を取らない心のためにそうだというのです。万物は、みな変わり得ます。純金も変わります。風化作用により、減少します。ですが、心だけはそうではありません。変わらないところにおいて、最高の権威をもっています。(一五九―二七八)

 万物の霊長だということは、何を中心として言うのでしょうか。お金を中心として、知識を中心として、権力を中心として言う言葉ではありません。それは、神様の最高の愛を中心として言うことです。(二一〇―三〇九)


三 内の人と外の人

 人間の本然の因縁とは何でしょうか。神様の絶対的な愛の圏内で、互いに完成した愛を楽しむことができ、褒めたたえることと尊敬の価値を現すことが、本然の因縁です。そうする中で、天の因縁と地の因縁が、すっかり和合して、一つに調和して現れたのが人間です。それゆえ、見えない心があり、見える体があるのです。
 本来の因縁をもって生まれたなら、体と心が分かれて一つになるのです。
 皆さんも、内の人と外の人が互いに闘っています。この闘いは、いつ終わるでしょうか。約十年ほど過ぎれば終わるでしょうか、死んでも終わらないのでしょうか。神様が人間をそのように造ったなら、その神様は一つの目的をもった神様ではなく、二つの目的をもった神様です。そのような神様は、混沌とした神様だというのです。
 宇宙のすべての法則は、前後左右が行き違いなく秩序整然と一つのはっきりとした目的があります。これを見るとき、人は本来このように創造されたのではないのです。それで、体をほうり投げて、本然の心を探さなければなりません。(四四―一九四)

 我々人間の肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本務です。
 皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。どうせ肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。我々は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくのと同じ立場にすがってはいけません。
 皆さんは、肉を救ったという立場で、霊肉が合わさった実体を備えて、より甲斐のある立場から出発しなければなりません。(二〇―三二六)


四 地上生活の目的は霊肉完成

 み旨とは何でしょうか。結局、人間の霊肉を完成させることです。自分自身を中心として、過去は霊的であり、今日は肉的です。過去は霊的であり、現在は肉的であるということです。二つの世界の侵犯を受けました。現在の立場がサタン世界だから、サタン世界に勝った肉になるべきであり、過去のサタン世界に勝った、霊的基盤を築かなければならないのです。過去と現在に勝利すれば、霊肉をもつことができる基準が、未来に対する祝福に広がるのです。(七三―九六)

 我々が知るべきことは、霊界が主体ではなく、肉界が主体だということです。完成させるのには、霊界が主体でなく、肉界が主体です。肉界の完成は、霊界と肉界の完成なのです。ですから、肉身生活が貴いというのです。(九一―一七八)


第四節 肉身生活の高貴性

一 肉身生活は霊界生活のための準備

 神様が、万物と人間を造られ、良しとされたのは、互いに闘うなということです。体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。
 自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全にその根を抜いて征服したということです。天国へは、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地で事故になったので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべきことをみなできなければ、永遠に地獄に行きます。
 それゆえ、地で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。(六五―二九四)
 この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間が惜しいというのです。そうなると御飯を歩きながら食べ、寝るのも、歩きながら寝て、遊ぶのも、歩きながら遊ぶのです。そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。(八〇―二二六)

 私がたとえ制限されたこの地で八十年くらいはいるといっても、我々の舞台は世界の祭壇です。それゆえ、ここにある万物は、世界の万物であり、自分の体は、世界人類の体であり、自分の心は、世界人類の心です。そのような心情は、神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。(七五―一六六)

 偶然に物事が起きるのではありません。準備というものは、たやすいものではありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備です。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間であるというのです。(一四七―一八八)

 我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界につながるべきです。
 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべき所とはどこでしょうか。もちろん、我々は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれ、青春時代を過ぎて、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日のように人生を終えます。しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に迎えるべき世界が永遠だということを知り、準備するのです。ゆえに、一生の期間は、永遠の世界に入るための準備する期間です。
 学生を例に挙げて言えば、一学年に単位を取るべき、学校で制定する単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかという対照によって、学校で認められる学生になるのです。
 しかし、単位に達しなければ、学校が立てた価値基準から遠ざかるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになります。
 我々が肉身世界で暮らすのは、まるで学校で定めた単位基準に合わせようとして準備する期間と同じです。我々は、一生の間に積むべき実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として生涯路程を行っているのです。(一四〇―一二一)

 皆さんは、すべてを自分のために消化してはいけません。神様のために、天地のために消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対のために消化するということを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。
 一生の間、自分を中心として暮らせば、全部が心配です。しかしながら、「ため」に暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず「ため」にしてみれば、自分は真空状態になるために、真が訪ねて入ってきます。
 我々統一教会の誇りとは何でしょうか。第一が真の愛であり、第二が 「真の父母」です。これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。第三が真の子女であり、第四が真の氏族です。これが我々の四大目標です。(二〇三―一〇一)


二 肉身生活の貴重性

 自分が解放されれば、神様が解放されます。家庭が解放されれば、天国の家庭がそうなり、この地上がそうなら、天国がそうなるのです。それゆえ、聖書に「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)とあるのです。このような二重構造の一体性で解明されます。
 皆さんは、肉身を使ったこの期間が、どれほど貴いかを知るべきです。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させることができるのは、肉身を使っているこの期間しかありません。
 神様と万物を合わせても、この肉身世界と換えることができません。なぜでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ、完成されないからです。人間の体がどれほど貴いかを知るべきです。我々の肉身は、宇宙とも換えることができません。聖書の「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)という言葉も、それで成立するのです。(九一―一九一)

 肉身生活は八十年ほどにしかならない短い生涯路程で、歴史的に絡んだすべての善の圏を収拾しなければならないのです。
 この短い肉身生活に因縁を結ぶべき善の圏が膨大だということを知るこの心、良心は、どれほどせきたてるでしょうか。死ねばできないのです。生きている間に本郷の地を訪ねて、祖国の主権回復をすべきです。そのようにして天の主権者に侍り、その国で生きていってこそ、天上天国に行くのです。(一五五―二七)

 霊界、無限の世界は永遠です。そのような世界に行くためには自分自体をどのように収拾すべきでしょうか。そんなことを考えてみましたか。肉身生活をする間に収拾しなければなりません。これを正すことができるのは、この時しかないのです。それを正すのは、絶対自分のためにしては正す方法はありません。自分のためにして正す方法があるなら、統一教会の文先生が、今まで絶対苦労しなかったのです。(五九―五〇)

 統一教会が提示する原理の道は、千年、万年過ぎても行くべきです。生きている間に行けなければ、億千万年の永遠の霊界に行ってからでも行かなければなりません。(一三五―二九七)


三 習慣性が重要である

 今日、我々はサタン世界の習慣を捨てて、神様の新しい秩序を確立しようというのです。(二一三―一九)

 皆さんは、キムチとコチュヂャン(注:とうがらしみそ)が好きでしょう? (はい)。西洋人たちは、キムチとコチュヂャンが好きですか? 見ただけでも逃げるのです。(笑い)このごろも、優れているという輩のアメリカ研修を続けていますが、今回も二百三十名ほどが行きました。行って、ホテルでキムチを出しておいて食べるから、西洋人たちが、「ああ7 これは何のにおいだ。何かのにおいより、もっとひどい」と、こう言っては逃げていくのです。しかし、韓国の輩はどうですか? 「ああ7 蜜の味よりいい」と言って、舌なめずりをするのです。
 習慣性を打破するということは、とても大変です。その言葉は、今まで皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性をもって生きてきましたが、その習慣性が固着したものです。そのように固着してしまったその習慣性は、韓国人たちがキムチ、味噌、コチュヂャンを食べる習慣性よりももっとひどいのです。
 これは歴史性をもっているのです。悪魔が出発したその日から、根が刺さった習慣性をもっているますが、これをどのように抜いてしまいますか。
 穴を掘って根まで埋めようとしても、埋められないのです。深刻な問題です。天国に行くには、神様を中心とした習慣性もたなければなりません。(二一三―二〇)


四 肉身生活の標準

 先生の生活は、神様のために生きる生活です。この世界のために生きる生活です。自分のために生きるという考えをしてはいけません。それで皆さんは、神様と「真の父母」と人類のためにしなければなりまん。
 神様と「真の父母」と人類を結ぶためには、自分を中心として四位基台をつくるためには、真の愛がなければなりません。神様も真の愛を願い、「真の父母」も真の愛を願い、人類も真の愛を願います。真の愛を中心として、真なるこの宇宙を相続することができる人になければなりません。これをいつでも考えなければななりません。
 それゆえ、今まで皆さんがどれほど天が願う生活と一致したかということを、比較しなければなりません。そして、人類を代表した自分になるべきです。父母を代表した自分になり、神様を代表した自分になるべきです。そのように生きた人は、霊界に行っても、地上のどこへ行っても、境界線がないのです。
 自分が千名の友達と共に食物を食べたい場合、そのような環境も、愛を通じた世界でだけ可能なのです。神様が創造主の能力を行使するとき、その愛を中心として造ったのです。
 霊界の世界では、真の愛がつながれば、すべてを調節することができ、すべてを創造することができます。それが我々の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、みな不可能なことなのです。(一四七―一一五)


五 肉身を使って記録される

 皆さんの生涯の中で、もし三分の二以上が口で言えない悲惨な生活をしたとするなら、その三分の二の生活をすべて取り除いてしまうことができますか? 取り除くことができません。必ずついて回るのす。(三四―一三九)

 蕩減、なぜ必要ですか。復帰するためです。復帰とは、再創造でもあります。それゆえ、皆さんは価値のある生涯を残さなければなりません。ある人は、「ああ、年を取ったらイエス様を信じて、死んだら天国に行こう」と、このように言っています。しかし、年を取れば、何かを正すことは難しいのです。
 それゆえ、若い人でなければならないのです。それで、二十歳に入ってくるより、十五歳に入ってくるのが良く、十五歳のときよりも、赤ん坊のときから知って大きくなったというのが、もっと価値があるのです。
 皆さんの中に、水がいっぱいになっていれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂粒が混じっているし、小石が混じっています。大雨が過ぎたのちに、川辺にありとあらゆる汚いものが引っ掛かっているのと同じで、皆さんの中にもありとあらゆる汚いものが混じっているのです。
 ですから、振り回して、みな排泄しなければなりません。濾過装置を経なければならないのです。したがって自分があってはいけないのです。自分があれば、引っ掛かります。水自体に砂粒のように汚い 塊 が混じっていれば、流れることもできず、引っ掛かるようになっています。
 霊界に行くようになれば、そのような装置、レントゲン写真のようなものに照らされるだろうと考えてみませんでしたか。神様も、そのような濾過装置を経た人たちを必要とします。(九七―六〇)


六 地での暮らしがあまりにも重要である

 皆さんは、霊界に行って、保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。
 皆さんの家庭の基準がみな違います。それで、行くのにも、みな自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。では、皆さんの先祖たちが、息子、娘たちが、「なぜそうしたの? なぜ、そのようにうまくできなかったの? それは何?」と言いながら讒訴します。皆さんは、そこに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。そのように易しいことではありません。それで、地ですべきなのす。先生が「しなさい」と言うことをみなしなければなりません。
 ボルトがあれば、これに合うナットを作って満たさなければなりません。ナットが合ってこそ、満たされるのです。分かりますか。それが合わなければいけません。
 この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかありません。地上生活を永生に例えれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。
 いつもそのような主流思想をもって、センターに立って一切を調節し、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、個性完成をなすことができません。(二〇七―九九)


七 肉身を使って責任分担遂行

 皆さんは暮らしながら、神様を思い、「真の父母」を思わなければいけません。そうすることで、愛によって心身が円満で、安全な、満足な圏内に暮らすようになるのです。
 そのような生活をした人は、霊界に行けば、そのままになるのです。地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様7」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
 責任分担は、それほど重要なのです。それで先生が責任分担という原則を立てたのです。皆さんが毎朝鏡を見るとき、男として女として生まれて、責任分担をどのように果たすかを考えなければなりません。それは深刻な問題です。五官が、責任分担を完成した愛に酔っていると思うのです。感覚のすべては、愛の実体圏に立つためのものです。(二一八―一二八)

 責任分担を遂行するには、皆さんはどのようにしなければならないでしょうか。責任分担を果たすことができる人になるためには、どのようにすべきでしょうか。サタンの情、サタンの血筋を受けて、生まれたすべてを否定する立場に立つべきです。(一三九―二五六)

 人間が霊界に行けば、どのようになるでしょうか。神様の体になります。アダムは、神様の体になるのです。コリント人への第一の手紙に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(三・一六)と記録されているのと同様に、神様が臨在し得る聖殿、家です。
 では、神様とどのように似るのでしょうか。責任分担完成段階に至って、神様が臨んで一体化がなされるのです。(一三〇―二二)


第五節 祝福と永生

一 永生問題を知るべき理由

 なぜ今、世の中の家庭が壊れていっているでしょうか。また、お母さん、お父さん、子女が、怨讐になるでしょうか。真の愛がないためです。
 一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。
 間違いなく永生するということを知るようになれば、他の人が「罪を犯せ」と言っても犯さないのです。「自分のために生きろ」と言っても生きません。これを知らなければ、既成教会を信じても、何かの宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛、生命を投入せずには、駄目なのです。(二〇五―二六一)

 我々の教会が原理で武装しておけば、永生問題が確実になります。この永生問題とつながらなければ、社会革命も不可能です。現在の立場で暮らしていることよりも、もっと疲弊して没落した環境に陥るなら、誰もがその場に行かないのです。
 しかし、永生問題、永遠の生命の問題となると、環境的与件をすべて克服することができるのです。宗教は、それで偉大なのです。永生問題が懸かっているのです。永生の概念だけしっかりと立てておけばできます。
 今まで宗教は、習慣性で結ばれた文化背景を消化できませんでした。越えられませんでした。なぜそうでしたか。永生という概念をつくっておけなかったからです。
 キリスト教は、環境が変われば変わるほど、なぜ揺らぐのでしょうか。永生という概念がないからです。永生問題に自信がないのです。生命を差し出して、環境を越えていくことができるかという問題について見るとき、皆そこに所属して、四方を見回しながら現在の生活に落ちていっているのです。
 その人たちに永生の概念を入れなければ、中間に落ちるのです。では、永生の概念を入れるのは何でしょうか。人です。これは、統一教会だけが完全に入れることができるのです。
 信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。このような信念さえもつようになれば、それはほっておいてもいいのです。人は、四十を越え、五十を越え、死ぬ日が近づくと、永生に対し、深刻になるのです。年を取るほどに、だんだん深刻になるのです。
 愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れれば、年を取るほど、だんだん深刻になるのです。それゆえ、宗教理念だけが、これから世界を料理することができるのです。環境が頻繁に変わっても、悲喜劇がぶつかってこようとも、永生の概念さえ徹底すれば問題にならないのです。
 それゆえ、問題は、永生という概念をどのように入れるかということです。
 神様はアダム・エバを、愛の対象として造りました。それは間違いありません。そのために、愛の対象となって生きるべきなのです。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。
 真の愛の力が偉大だということを知れば、「行くな」と言っても、行くようになっています。
 それゆえ、永生の概念だけ入れれば、みな終わるのです。これを入れるにも、理論的に一致し得るとき、心にどかんと響き、体まで一番近い級で一つになり得る時が、青少年期だというのです。
 そして、十五歳以前は、堕落前の本性基準を一〇〇パーセント活用し得る時です。十五歳以前は、アダム・エバが堕落する以前だから、本性基準が生きているのです。それゆえ、青少年の時に、神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避の関係を知るのです。その関係が不可避だということを分からせるためには、永生概念を入れなければならないのです。
 これさえ入れれば、我々統一教会の二世たちに、「他の道を行け」と言っても行きません。それゆえ、世の中を早く救い、すべて天国に連れていかなければなりません。それが自分の所有になるのす。その持っていったすべてで、あの世での等級が決定されるのです。ですから天国は、今完全に空いています。(一九九二・四・一五)


二 永生の道

1 一生と永生問題

 皆さんは、どれくらい生きそうですか。全部「七十年、八十は生きるだろう」と、このように考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、八十歳に死ぬとか、百歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、「ああ、私は若いので、今後少なくとも四十年、五十年は生きる」と、そんな欲をみなもっているでしょう。それが神様に保障されましたか。皆さんは、できるだけ一年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にみな準備すべきです。このような観念をもって生きなければなりません。できるだけ短くつかむほど、幸福です。短くつかむほど、損害を見ないのです。その期間に真になるように、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。
 では、その短い期間に、神様を愛してみましたか。神様と一つになって愛したいのに、愛することができないのです。神様は、「愛せよ」と言われるのです。そのように生きて死ねば、それが永遠の生命の主体になるのです。
 皆さんが、二年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。それゆえ、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間にみ旨のため死のうと、天のため死のうと思えば、永遠に生きるのです。同様な道理です。独身のときに死ぬと思って、愛する妻を迎えるようになれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男が、復活して結婚することができる日をもつようになれば、どれほど喜ぶでしょうか。
 さあ、皆さんは、何歳まで生きて逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ立場に進むならどうしますか。天が自分を褒めることができる何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配しようにも、心配する間がないのです。
 一生と永遠の問題で、一生を短くつかむほど価値があるのです。個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛することとは何でしょうか。全人類を愛するための教材なのです。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世界へ行って、すべての人を愛するための教材だというのです。(一〇二―一二二)


2 人間は永遠の生命を追求

 永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが、信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、神様の喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが、信仰の道です。それゆえ、信仰生活をする我々の個体が、どれほど前進的愛と生命力をもって生きるかというのが、何よりも重要な問題です。
 五官を通じて感じる感覚の一切が、生命、愛とどの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれほど価値をもっているかという問題が左右されるのです。それゆえ我々は、我々自身が生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、そのような立場に立っていられないならば、それは停止したり、でなければ後退するのです。(三二―一九)


3 永生と宗教

 人は永生するのです。宗教は、今まで地球星でなくならず、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人の一生が問題ではなく、永生すべきであるためです。
 人が生きるには、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は百年くらいの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で生存を続けることができるのです。
 それゆえ、厳然と永生しますが、そうでないとしても今まで苦痛の中でうめいて生きてきた人類に同情し、助けるためには、仮想的な永生論であっても主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を推理し抜かなければならないのです。そのような面でも、宗教が必要なのです。
 それで、皆さんの永生問題とともに、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題がつながっているのです。(一六二―二六四)


4 永生しなければならない理由

 神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。このごろ、一人の人間の生命の価値がどれほどになりますか。何文にもなりません。本来、そのような無価値な人間ではありませんでした。宇宙とも換えることができない高貴な価値がありました。
 今日、すべての文学世界について見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が、永遠、不変、唯一なので、その前に対象の愛の立場に立つようになるときは、永生するのです。永生という理論が、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。(一四二―一四三)

 真なる人とは、どんな人でしょうか。神様と内外で一つの体になって、子女の立場で完全に愛されることができる人が、真なる人です。そのような人が暮らしていく生活を、真の人生の道だというのです。
 人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は、神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も私になるのです。
 神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。
 人は永生すべきです。なぜでしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象であるためです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたがるのです。愛する妻が死んだので、その妻のハンカチを持って独身で生きた人もいませんか。インドのネルーのような方は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
 それなら神様が、一人しかいないこの上なく貴い息子、娘を造るとき、百年ぐらい生きたのちに滅びるように造られたのでしょうか。違います。それゆえ、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それゆえ、愛の力は、時日が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすれば授け受けするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きくなるのです。そこでは、うれしかったらうれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して、無限の喜びとして発展し得るのです。そのような世界が、我々が理想とする国であり、神様がいらっしゃる天国です。
 では皆さんは、永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分に貴いものがあれば、避難する時それを持っていきますか、持っていきませんか。持っていきます。それを誇りたがりますか、誇りたがらないですか。誇りたがります。では、それを一日、二日誇ってやめますか。やめません。自分が死ぬようになれば、それを自分の後代に永遠に残したがるのです。
 それは、神様も同様です。神様が永生される絶対者なら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで人々は、昔から永生するのを願うのです。それゆえ、絶対者である神様は、永生の価値をもった愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。(三九―四二)

 我々人間は、神様が造られた傑作品として、神様に似ました。神様が永遠であられるので、我々も永遠の性稟をもたなければいけないために、我々の心は老けないのです。
 それゆえ、人は永生すべきです。永生してこそ、その傑作品の存在価値をもつことができるのです。それで万物の霊長なのです。ここで、霊が出てくるのです。人は、永生しなければなりません。ですから、我々が八十年ほど生きて、死ねば終わりだとは考えられません。(一五九―二八一)


5 永生のための人生

 人は誰でも、各自自分なりに生活しています。「生活」するとは、一日一日暮らすことを言い、「生涯」は、一生の人生、一生を生きることを言います。さらには、宗教をもった人たちは、永生という言葉を使っています。永生というものは、一生ではなく、永遠の人生を生きることです。
 生涯路程を永生にどのようにつなげるかということが重要ですが、それをすべきなのが、生涯の責任です。また、永生ということは、一日一日の生活をつなげてこそ決定されるのです。皆さんの一生というものは、日々がつながったものです。
 生涯の価値的な内容は、どこから決定されるのでしょうか。生涯をみな生きて、決定されるのではありません。一日一日の暮らしの日々が、決定するようになっています。それゆえ、うまく暮らさなければならないのです。
 では、いったい、うまく暮らすこととはどういうことでしょうか。うまく暮らすのは、生涯のすべての路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょうをうまく暮らしたというのは、自分の一生で誇らしくあり得る記憶の日です。「うまく暮らす」ようになれば、生涯路程において、必ず一番価値があるように暮らす日でしょう。価値があるように暮らした日があれば、生涯の中でその日は、忘れられない日になるでしょう。(一九七―一八六)


6 永生論理とは

 それで、永生の論理をどのように探しますか。神様は、知恵深いお方です。もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができない神様だというのです。
 絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験することができない、深刻で、あきれる、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。本然の願いだった息子、娘を犠牲にして、御本人が夢見た希望の理想形態を再現させたものとして満足するのではなく、それを抱いて、千里、万里移動しながら、もっと輝くように装って、もっと美しく表示することができなければならないのです。万宇宙をそのように造ったのです。(二〇四―一〇一)

 大気が一〇〇パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。神様は、知恵の王です。そのように自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるのです。
 投入して、投入して、また投入するところから、永生の論理が繰り広げられるのです。「ため」にするところは、滅びません。(二〇四―一〇七)

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすると、それは間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆、唯人最貴」という言葉が出てくるのです。これは何でしょうか。創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーも、永生するという論理が生じるようになるのです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから繰り広げられるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重な話です。男に永生があり、女に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるというのです。(二一八―二一一)


7 一番重要な永生問題

 今日、キリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生は、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとすれば、心臓の動脈と静脈のような、循環器官が恒常的に動かなければならず、神経系が恒常的に動かなければならず、大脳、小脳のすべての作用が恒常的に動かなければならないのです。そうするには、莫大な消耗が繰り広げられます。(一二一―一七二)

 寝床に就くとき、脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものは、この世にありません。それで、この世の中で永生問題を決定づけること以上に深刻なことはありません。(一〇―二四九)


8 結局人間は永生に帰結すべし

 新しい潮流の波である「真の父母」の愛の道理を植えて、堕落の恨を解消し、神様が君臨することができる真の愛の家庭を築いてこそ、天国に直行し得るようになるのです。
 地上天国と天上天国のレールは同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走ることができるのと同様に、地上と天上の世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐための道が、真の愛の道です。それゆえ、個人が行く道、家庭が行く道、全部つながらなければなりません。方向が一致しなければならないというのです。
 それゆえ、一生の間、自分がするすべてのことは、全部真の愛のための実績として、自分の後ろに永遠に固着されるために、あの世に行くようになれば、一生の間残された功績にふさわしいその級に自然にとどまるのです。(二一一―二八八)


9 信仰と永生問題

 どのように永生するでしょうか。キリスト教徒たちは「イエス様を信じれば永生する、救われる」と言うが、とんでもないというのです。愛でだけ救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真なる人だけが神様の愛の同伴者であるために、真の愛をもてば永遠に暮らすことができるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上に暮らすようになるときに、自分がどこで暮らすべきか分かるようになります。
 大洋を通う大きな船が破損する危険が生じれば、その船の中に暮らしていたねずみたちは全部陸地に逃げるというのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏をわきまえていくすべを知るのに、ましてや万物の霊長である人間はどうでしょうか。
 なぜ、そうなったのでしょうか。堕落のためです。この堕落の仮面を悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血筋をどのように解脱するでしょうか。この解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係ない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。(二一五―五三)

 九十歳を超えた母親は、七十歳を超えた息子がどこかに出掛けるとき、「車に気をつけて、いってらっしゃい」と言います。九十の老年になるほど、そのように毎日のように繰り返しても、疲れません。それは、永遠に続いても疲れません。そのようにさせる原動力とは何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の世界である神様の愛に属していればどうでしょうか。
 このようになるとき初めて、真なる神様の対象圏を確定づけることができます。神様の愛が永遠不変なことを知るようになるとき、我々人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させることができるのです。愛を中心として永生するのです。(一四三―二三〇)


10 統一教会と永生

 先生は、統一教会の教徒たちに、苦労をたくさんさせようとします。苦労させても逃げません。なぜ逃げていかないのでしょうか。永生があるために逃げないのです。統一教会で離れられないのは、永生があるためです。(二〇四―八二)

 人々にはみな欲望があります。全部神様の息子、娘になろうとします。孫も嫌で、神様の婿も嫌で、神様の息子、娘になりたいのです。誰でも欲望を成就、完成する所は、家庭なのです。(二二一―二五)


11 永生に必要な観念

 皆さん、「自分は永生する人だ。真の愛を実践する人だ」という姿勢で生きるべきです。ですから何をするのでしょうか。「永世のためだ」と「永世を訓練することだ」と、考えなさいというのです。皆さんには、永生と真の愛との観念は、いつも必要です。永遠に必要なのです。(二一六―一二七)


三 愛と永生

1 愛と直結した永生

 我々は、永生を願っています。永生を願うのに、変わらないものとは何でしょうか。愛です。他のものはみな変わります。環境的に変わるのです。では、愛はなぜ変わらないのでしょうか。
 愛は、すべての生命力の中心であるために、変わらないのです。愛は理想的な与件の中心に位置を占めるためです。中心は、その周囲が全部なくなる前には、なくならないということです。愛は宇宙の中心になっているために、愛と一つになれば、神様が残っている限り残っているのです。(一五七―二六七)


2 真の愛と永生

 真の愛とは何でしょうか。結婚するとき、結婚相手が自分より良い人を願います。自分の息子、娘が、自分より良いことをを願わない父母はいません。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。神様が愛の相対が自分よりより良いのを願うのです。
 絶対的な神様が我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子、娘にだけ、絶対的に行えと命令できるでしょうか。できません。神様が愛の相対を自分よりより良いのを願われる原則から見るときに、人間の価値が最大の価値です。愛は中心として神様より高い価値があるということです。
 それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それが不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。
 高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、引かれて回り、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたがりません。これは、万民が共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。
 愛のために人間を造ったというときは、神様が永遠で、絶対的であるがゆえに、人間自体も永生をもつというのです。これは、自然的な論理です。それゆえ、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。(二一一―二七二)

 真の愛により、永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程、目的などすべてのことが、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。
 自分の体と心の完成は、真の愛によって、根本的に可能になっています。理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、神様も永存しています。
 永生は、愛によりつながるのです。それで、永生の環境を成すには、愛の環境を中心として生活しなければいけません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として、実体的な体恤をしなければいけないのです。(二一八―一三四)


3 絶対必要な真の愛

 神様は霊界のどこにいらっしゃるでしょうか。絶対的な中心、愛の中心にいらっしゃいます。その愛は真の愛であり、直短距離を通じます。
 皆さんは第一に、神様を知らなければならず、第二に、永生を知らなければならず、第三に、真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上投入します。一〇〇パーセント以上投入するところに永生があります。真の愛をもたなくては永生がありません。永生しない人は、神様に会うことができません。(二〇五―一二九)

 これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一は利他主義、第二は真の愛、第三は永生に世界が収拾されるのです。
 真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。「真の父母」が成立しなければ、永生はないのです。
 なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあります。この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。
 第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)ということです。「隣り人を自分を愛するように愛せよ」というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第一は、サタンを屈服させることができず、第二は、サタンの環境から抜け出すことができず、第三は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。
 サタンの環境からは抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。しかし、真の愛は生命を超越するのです。
 男女が生まれたのも、利他主義です。男が生まれたのも女のためです。これは、絶対的な真理です。永遠の真理です。なぜ、そのように生まれたのでしょうか。真の愛のためです。
 男もそうであり、女もそうです。世の中では、「二人で永遠に一つになりたい」と言いますが、二人が一つになって何をするでしょうか。神様を占領しようというのです。真の愛でなければ、神様を占領できません。
 皆さんの家の中で、主人には誰がなるでしょうか。その家の全体のために、一生を生きていく人が、中心者になるのです。神様の代わり、父母の代わりに中心者になるのです。
 百名の友達がいるとき、その百名のために一生の間を生きれば、その友達百人からあがめられる中心になるのです。ですから、永遠の世界で、永遠に「ため」にする主人がいれば、永遠の主人になるのです。その方とは誰でしょうか。神様です。ところで、その方は我々の父であるために、すべての宇宙が「私」と共にいるというのです。そこに永生があります。そうでなかった所には、永生がありません。
 それで、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とあります。それはどんな言葉でしょうか。死を越えるべきで、越えなければ生きることができないという言葉です。(二〇五―二五八)


4 愛と関係した死後の世界

 皆さん、考えてみなさい。神様がおられますか。(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか。(ありません)。なぜありませんか。時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか。過去も、現在も、未来も、同じだということです。そのようになっても、嫌であり得ない作用を引き起こすことができる、神様が安息され得る本来の基礎とは何でしょうか。そのようなことが問題になります。
 それは何でしょうか。全知全能であられる能力をもって可能でしょうか。駄目なのです。神様の知恵、全知全能、分からないことがないことをもってしては、駄目だということです。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も、「愛」と言えば「そうか7」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。
 我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるためです。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものであるために、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。
 球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦で、横は横になって和合ができなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が繰り広げられません。愛だけが統一することができるのです。
 それゆえ、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論です。(一四四―一九九)

 神様は、人間を率いてくださろうとします。神様も息をするのです。愛の呼吸をされるのです。愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるのです。
 愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになっているために、男や女が「ああ7 私、嫌だ」と言えません。拍子が合えば、互いが愛さなければならないのです。一方向です。全部神様を中心とした一方向だというのです。(二〇一―一九一)


5 「ため」に生きてこそ永生する

 おじいさん、おばあさんも、千年、万年後代の後孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生できるその公式的路程は同じです。
 永世へは、「ため」に生きた人たちだけがパスすることができるます。(二〇三―一九三)


四 祝福と霊界

1 愛の威力

 霊界も肉界も、愛によって動きます。真なる愛を中心として、環境的与件は拍子を自動的に合わせるのです。(一八五―二〇)

 過去の人も、現在の人も、永遠にできる資格とは何でしょうか。我々人間世界で必要とするそのすべての欲求の要因とは何でしょうか。それは愛です。つまらない愛ではく、真の愛です。
 では、真の愛とは何でしょうか。縦横を通じて、どこでも九〇度に合うのです。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南型の家にも合い、北型の家にも合い、五色人種、文化背景、すべての宗教背景が全部違ったとしても、合わなければなりません。それが何でしょうか。真の愛です。(一八〇―八六)

 今日、この世には、多くの人たちが暮らしています。その人々の中で、統一教会で言う祝福という意味を知る人は、多くありません。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その言葉を中心として、今まで祝福行事をしてきました。
 これから、人類はどこに行くのでしょうか。すべての人類は、祝福の門を通らずしては、天国に行くことができません。数多くの人たちが、既成教会を信じますが、その既成教会自体も祝福という門を通らずには、天に行くことができないのです。
 このように言うと、既成教会では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な言葉をたくさん言う」と言うでしょう。統一教会で言う祝福は堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題になるのが、この祝福です。
 今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」と言うと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じるというのです。しかし、本来の神様の理想について見るとき、天国は一人で行くようになっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入るようになっています。(一四三―二三五)


2 夫婦の霊人体

 我々は、愛の理想を探していく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、愛の理想を横的な世界に扶植させるべきです。種として蒔くべきです。ここで愛の心を授け受けしながら育つのです。大きくなるのです。
 こうして、愛の実を結んで、その夫婦が霊界に入るようになるとき、神様の永遠の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体になるのです。神様と一つになるのです。(一四四―二二四)

 皆さんは、真の愛の論理をたくさん習わなければなりません。我々統一教会の霊神(注:草創期からいるおばあさん)たちは、五十になったのに、顔を見れば四十代のようです。五十歳を越えたのに、人々でいえば大体三十代しかならないように見えます。ですから愛するほど若返るのです。
 人はこの地上で、殻(体)は老けていきますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど、霊人体は若くなるのです。どういう意味かというと、人間が長く生きれば生きるほど、内的人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女になるのです。その殻は服のように脱がなければなりませんが、若返ってくっついたらどうしますか。
 ですから、外的な殻は、老ければ全部駄目になりますが、内的な中身は、丈夫になって未来の相続者になり、美人になるのです。それゆえ、秋の栗のいがのようになるのです。秋になり、丈夫だった栗のいがが、熟れれば、殻はぶよぶよになって割れ、栗の実が落ちるようになっています。それと同じです。(一六四―一〇二)


3 結婚と霊界

 キリスト教では、神様を愛すると言いますが、漠然としているのです。聖書で言うには、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ二二・三七〜三九)とあります。そうなればいいのです。
 神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。
 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。
 したがって、結婚はなぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男女であるために、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。
 しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなくてはいけないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
 その道は、「ため」にする目標を中心として訪ねていかなければ、方向が異なってしまいます。(一三八―九八)


4 祝福家庭の霊界の立場

 我々統一教会の信者たちは、霊界が確実にあるということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。多くの体験を通じて、否定しようとしても否定できないのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するまで、多くの体験過程を経てきました。それゆえ、霊界がないと言うことのできない立場にいる人たちが、統一教会の信者です。
 では、霊界の中心とは何でしょうか。霊界は絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神がいるなら、その神は、宇宙の起源になる方です。彼によらないものがありません。彼に属しているために、彼に属した全体は、彼と共に感じ、彼と共に因縁をもって過ごしているのです。
 そのような愛の圏が成される所には、サタンはいません。それゆえ、サタン世界は、自分を中心として愛するのです。天が一番ではなく、自分が一番です。天を否定し、地を否定して始まるのです。
 しかし、その反対に、天を認めて地を認め父母の平均的愛のもとで一つになれば、サタンが主管することができないと見るのです。それが本然のアダムの位置です。その基準を回復しなければなりません。
 ある町内に、統一教会の夫妻が住めば、その町内で話題になければなりません。先生がどこへ行っても話題になるのと同じです。「あの夫婦は、この町内に実によく来た。あの奥さんは、この町内のすべての男たちが好み、おばさんたちがみな好む。子供たちまで好む」と、そうでなければなりません。
 それができなければ、霊界に行って再び帰ってこなければならないのです。帰ってくるには、先生がサインをしてあげなければいけないのです。祝福を受けた家庭たちが、地に勝手に来ることができますか。先生が祈祷をしてあげてこそ、可能なのです。それで、まず行った人たちが、みな縛られています。今まで統一教会の祝福家庭は、みな縛られているのです。
 それゆえ、地が問題です。(一四〇―一二三)


5 祝福は約束

 統一教会の祝福家庭は祝福を受けたとき、永遠の家庭として暮らすと約束しました。先生は、永遠の家庭を治める人です。永遠の国を治める人です。永遠の国の家庭を設定するのです。その約束を守る人が、家庭はもちろん、永遠の国を引き継ぐのです。(二〇五―三五九)


6 祝福の栄光

 真なる女は、どうあるべきでしょうか。真なる男を中心として、男がしようというとおりにしてあげなければなりません。家庭のために奉仕して、氏族のために奉仕するようになれば、その周囲が全部拍手するようになります。
 皆さんは、先生が好きです。なぜ好きでしょうか。苦労しながらも皆さんを生かしてあげようと、人類を解放させてあげようとするからです。先生が苦労しなければ、皆さんが霊界に行って、億万年待っても祝福を受けられないのです。不可能なことなのに、先生が苦労して、価値ある祝福の版図が繰り広げられたというのです。これは天の霊界とこの地上世界に、栄光なもので、華やかなことです。(一六二―六八)



























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