地上生活と霊界
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第二章 死と霊界

第一節 人生必然の道

一 永生と距離が遠い体

 地球も息をして運動をするのです。皆さんの細胞も息をします。
 皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になった所で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に暮らさなければなりません。神様が御自身を見せてあげたいと思われても、皆さんの体では神様を見ることはできません。ですから、霊人体が必要なのです。
 見えない精神の中心になる神様ゆえに、神様は相対的存在である人間に、自分の永遠の理想圏を全部与えたいのです。(一一一―一一二)


二 大部分の生涯

 今、我々は、知る知らないにかかわらず、あるところに向かって行っています。私が動いている時間にも行っていて、休んでいる時間にも行っているのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって今行っているのです。これは、否定することのできない事実です。
 一生を経たのちに、自分はある所へ行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢に引きつけられ、率いられていっているということを、否定することができないのです。
 では、どうせ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かって傾いていて、自分の心情はどこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決できなかったとしても、我々はどうせ行くべき運命に置かれているのです。
 我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望までも共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と、解決点と、目的観を提示しておかなければなりません。
 それで、行く歩みをつかまえて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「お前はどこへ行くのか」と聞いてみて、これを解決しようと闘ってきた人たちが、聖賢、賢哲であり、数多くの道主たちです。彼らはそれを解決するために出てきたのですが、今まで「私の体はこのような所に行き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走っていく。ゆえに、全天下に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け7」と、自信をもって命令した人はいないのです。(八―一九四)

 宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を、一つに統一された平和の世界を、数千年前から待ち望んできたのが宗教です。
 では、宗教人は、どのように生きるべきでしょうか。自分の夫婦だけでおもしろく生きることより、もっとおもしろく生きることができるのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きることです。そのような家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるを得ないのです。
 明洞の街を過ぎてみると、若い男女たちは仲むつまじいのです。それは誰のためにそうなのでしょうか。一度しかない若い青春時代なので、楽しむためにそうだと言うのですが、それでいいというのです。では、その楽しむことにおいて、主人は誰でしょうか。これが深刻だというのです。皆さんは、いつまでも楽しむことができますか。二十代から楽しく六十、七十、八十歳と過ぎるようになれば、楽しいはずはないのです。
 しかし、統一教会式は違います。食べるのも何のために食べますか。世界のために食べるのです。悪なる世界をなくすために食べるのです。見るのも、悪なる世界を討ち払うために見るのです。悪の側になるために見るのではなく、悪を討ち払うために見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違います。(三六―七二)

 もし、人を、何日間かいてなくなる、そのような存在として創造したなら、神様は絶対者ではありません。神様は、人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。
 人間が神様の喜び得る対象なのに、神様が永遠であるなら、人間も永遠であるしかありません。そして、永遠な神様は、永遠の世の中を相手にするのです。
 ところで、人々は「八十年生きればいいのであって、死んでしまえば終わりだ」という考えで、今まで生きてきた人たちがたくさんいます。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、「どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないか」という考えをもちました。志を抱いたことがある人であればあるほど、「人生とは何か? 人間はなぜ生まれて旅人のように行くか」と言い、「人生は苦海」とか、「草露の人生」とかと言いました。しかし、永生できるなら、そのように悩む必要はないのです。(三九―二二九)


三 死は人生必然の道

 皆さんは、いつかは霊界に行かなければなりません。間違いなく霊界に行くのです。
 大韓民国に訪ねてくるのに、金浦空港に降りるといって金浦空港に来たのではありません。金浦空港からどこへ行くのでしょうか。全羅南道に行くか、慶尚南道に行くか、平安道に行くのか。平安道に行って、またどこに行くのでしょうか。郡を訪ねなければなりません。また郡でもどこへ行くでしょうか。面を訪ねていかなければなりません。また面に行って、どこを訪ねていきますか。里です。里でも、ある班を訪ねていかなければなりません。簡単ではありません。
 自分の居所を確定づけられない人間たちが出世して、何をするのでしょうか。問題です。
 神様が霊界から呼び出し命令をすれば、文先生もきょう偉いとしても、あすの夜に連れていけば行くのであって、他に方法がありません。どんなに大きな声を出しても、行くのです。私が声を大にしながら行くときには、正しい言葉を言って行くのです。国が行くべき道を提示しなければならず、世界が行くべき道を提示しなければなりません。過ってやれば死ぬのです。(一七七―四二)


四 生命の主人は神様

 先生の起源は何でしょうか。私ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。
 自分の生命を超越的な動機に結びつけなければなりません。自分の生命の出発は、自分から始まったのではありません。絶対者であられる神様から出発したのです。自分を超越的な動機に結びつけるようになれば、死んでも超越的な過程で、神様のみ旨によって死ぬようになるのです。(三六―六四)


五 生涯はあまりにも短い

 人間は、何千年、何百年生きるのではありません。百年ほど生きて、みな死にます。
 数多くの歴史時代を経てきながら、多くの我々の先祖たちが死んでいきましたが、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところで、個人を中心として現れたなら、全部滅びました。全体を滅ぼしてしまうのです。
 そのような人生の暮らしをしてきたために、問題が起きたのです。ここで一番問題になるのは何でしょうか。自分を中心としたすべての測定方向を、どのように全体測定方向に代替するか、自分第一主義を強調したのを、全体に利益になり得る面で、どのように投入するかということです。
 それで、個人主義、自体の利益を追求する人生行路の出発を、ひっくり返えさなければなりません。ひっくり返すには、ただそのまま、何もなくひっくり返してはいけません。
 一着しかない服を着ているのに、これを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ぐまいとするのです。春夏秋冬の服を持って、春に冬の服を着れば、春服を持っていき「これは冬の服だ、脱ぎなさい」と言い、夏に春服を着れば、夏の服を持っていって「脱ぎなさい」と言うべきなのです。そのようなことを知らなかったのです。代替し得る、より価値があるものが何かを知らなかったのです。(二〇〇―九一)

 この地上には父母がいて、師がいて、親戚たちがいます。この地には、そのような因縁を結んでいくことができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、全部神様を中心として全体のために暮らすのです。位置が全部区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行くことができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どちらにせよ人間は死にます。
 生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、あまりにも短いのです。霊界の時間では八時間にもなりません。永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもならないのです。
 ですから、真の愛の力は偉大なのです。早いのです。真の愛の速度は、我々が認識できないくらいです。(二〇五―六五)


第二節 死に対する理解

一 「亡くなる」という言葉の意味

 間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界はあり、我々人間は、どうせ霊界から生まれたために、霊界に帰らざるを得ません。
 我々韓国の言葉の中で、おもしろい言葉は「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、帰ることではありません。出発した本処に帰るということです。その出発が共同墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るということです。
 人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ということを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るのです。
 それは何を言うのでしょうか。創造主がおられるなら、その創造主がおられる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るのです。
 宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。
 循環運動をします。帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くあり得る所に、もっと良くあり得る所に帰るのを願います。
 誰も小さくなるのを願いません。しかし、すべての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がって、だんだん遅くなり停止するようになります。(一一四―二六九)


二 我々が行くべき所

 我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。
 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれれば、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
 しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界への準備するための期間です。(一四〇―一二一)


三 亡くなる日は貴い日

 アダムが生まれた日と成婚の日、そして、亡くなった日を記念する、世界的な統一圏が形成されていたなら、そのような日々を記念する人類は、一つの兄弟になり、一つの民になったでしょう。すなわち、一つの世界に暮らす人間になることができたということです。そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は、人類歴史に継承されたであろうし、その時に形成された文化は、永遠に継承されたことでしょう。(三一―二三一)


四 二つの死

 皆さんがいくら「死なない」と言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。
 霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために早く死ぬ人がいます。
 もしある町内で、屈指の若者が三人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、三人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。
 神様が、千人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族はその人のような恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。
 昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。一段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。(三三―一〇)

 この地上に生まれた人間たちの中には、希望をもって生きる人たちがいて、希望をもてずに生きる人たちがいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあります。
 我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分に一番いいものと思って育ちますが、母の懐を離れ友達と付き合って、友達が一番いいものと思って過ごします。しかし、結局は友達とも別れてしまうのです。
 それで、人間たちは、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれないのです。
 人間たちが多くのことを希望しますが、その心が薄れてなくなってしまうのです。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢が多くなるに従って、その希望する心がだんだん弱くなっていくのです。
 地上に生きている人間たちの中に、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失う恨があっても、それを離れては生きられないという確固たる信念をもって生きていく人は多くありません。人間は、そのように生きて、最後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着するようになります。
 人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。
 人間が自分を中心として見るときは、希望をもったようですが、死の峠を越えることができる希望をもてずにいます。そのような希望をもてなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのでしょうか。そうでなければ、死もあざ笑って、一つの希望を探して行くのでしょうか。これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければならない、重要な問題です。
 今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利することができる一つの希望です。我々にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。
 反面に、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
 天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。それゆえ、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立つことができる永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。(六―四四)


五 死の意味

 「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きると言う人は分かりません。死の窮地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。(七四―二四三)

 今日世の中には、睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人がたくさんいます。それは、女が多いですか、男が多いですか。女が多いのです。なぜ女が多いのですか。女は一方的にしか考えるすべを知りません。男はどんなに不細工でも、ああだこうだと考えるすべを知っています。女は決心が一つしかありませんが、男はああだこうだと引っ掛けて、死に得る道を避けていくのです。ですから、女より男に自殺が少ないのです。(二二二―七〇)


六 死は三世界を連結する過程

 自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいし、神様は自分を連れていきたいのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。それで人は、再び神様と似ることのできる体を着て生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。
 では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためにそうするのです。
 神様の愛の中で生まれることが、死ぬことですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎えることができる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第二の出生の瞬間です。
 そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限の世界の愛のために活動する息子として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこんな話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶことができないないためです。
 人は、蘇生、長成、完成時代を経ます。腹中の水の世界、地上の地球星世界、その次には天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中時代、このように三時代を経ます。
 人は生まれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中に暮らすために、水を吸って送り出さなければならないため、赤ん坊はホースをおなかにつなげて生きるのです。
 赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが入り口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれというのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆い被せて寝れば下痢になりません。
 腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか。この口です。絶えず上がるのです。
 では、へそに緒をつけたのを、どのようにすべきでしょうか。切ってしまうべきです。
 同じです。空気の世の中で、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身をすすっているのです。そうして、肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。
 胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母の代わりの神様と、愛を分かち合うことができる霊界に生まれなければなりません。
 水の中の時代があり、陸地の時代があり、飛んでいく時代があります。今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか。飛んでいくというなら、世界で一番の注目の的になります。
 地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きたのです。腹中で呼吸するときは、パイプの仕掛けを通じていました。生きていますが、へそにつながった胎盤を破壊して生まれ出るようになるときは、新しい次元、高い次元に上っていきます。高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。
 腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。水を飲んで、皆このように生きるのは、全部袋、水袋です。全部死んでいくのです。それは、第二の存在です。地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
 この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛がないためです。それで、一人で独身暮らしをするを、「かわいそうだ」と言います。
 死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体につながった器官を壊して愛の要素を受け継ぐのです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛、愛を中心として、一つの内的な構造が育っているのです。
 それで、神様の法則のとおりに胎内で正常的な赤ん坊として育つのと同様に、地でよく育つべきです。
 とんぼの卵が初め幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地ではい回っているときには食べるだろうと思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。
 昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。
 死が第二の出生の、幸福なる関門です。
 死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は空気中で、胎内のように泳ぎ回って暮らすのと同じです。空気のおくるみの中で、生きているのです。死ぬということは、別に変わったことではなく、第三の人生へと出生することです。その瞬間が、死ぬ瞬間です。(一一六―一七二、四九―二八五、一三九―二一四)


七 死ぬ前にすべきこと

1 最後の境界線を越えよ

 どうせ一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨がたたきつけても、最後の峠を越えなければなりません。うまく進んで、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんは、このような境界線に立って何をするのでしょうか。皆さんは統一教会に入ってくるのは、うまく入ってきました。皆さんの姿は、各自で自分勝手にできていますが、よく入ってきました。しかし、気をしっかりして走っていっても終わりまで行くか分からないのに、慌てたなら、行って途中で終わってしまうのです。最後の決勝点まで行き、境界線を突破しなければ勝利者になることはできないのです。
 人として生まれるのは、価値のあることです。後ろから反対し迫害したとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても、関与する余地がありません。一歩一歩運命の道を経ていく人が、最後の境界線を越えることができるのです。皆さんは、そのように行かなければなりません。(二四―七七)


2 形状と心情と神性に見習え

 我々は、いつか肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それゆえ、この世に生まれた我々は、死を覚悟しなければなりません。また、善なる自己を永遠の世界に第二の自分として立てるためには、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれるのと同様に、この地上世界での生活は、腹中での生活と同様なのです。
 それゆえ、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習って育たなければなりません。育って、また生命を懸けて越えていかなければなりません。(一四―一七)


3 罪を犯すな

 皆さんは「心がまっすぐだ」という話をします。電信柱がまっすぐだというとき、一直線に立っていることを言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人は立って歩くのです。垂直にならなければなりません。
 自分の心を完全に垂直になるようにすべきです。そして体が水平線になるのです。遠心力、求心力があるべきです。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それゆえ、自分を探さなければなりません。
 自分が「自分だ」というときは、神様が「そうだ」と言うべきであり、「真の父母」が「そうだ」と言うべきなのです。その次に、親戚、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。
 これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪をたくさん犯した人は、北極に送るという時が来るでしょう。
 伝染病患者を隔離するようにするのです。(二〇二―二八〇)


4 世界のために生きて死ぬべし

 先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労したのではありません。世界的な分野で、どのように責任を果たすでしょうか。そのために、死ぬことができなければなりません。
 このようなことを考えてみるとき、皆さんは世界のために生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どんな立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な場に立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、氏族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。統一教会は、今、氏族を編成して、民族を編成していっています。
 それゆえ統一教会の先生は、死んでも、どんな立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国までそっくり抱いて、世界のために死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるために、その道を探していくのです。(三四―一九三三)


5 多くの仕事をせよ

 皆さんは、どの版図で働くでしょうか。お金が必要なら、お金をかせいで、人がいなければ、人を育てるために寝ずに、食べずにしなさいというのです。誰かに助けてくれと、絶対言うなというのです。本部にも絶対そうせず、助けてあげなければなりません。普通の人の三倍以上をすべきです。
 それゆえ、私が七十年を生きたとしても二百十年生きるのと同じです。皆さんも百歳まで生きると思わずに、七十歳まで生きても三倍働くようになれば、二百十歳まで生きることになります。十倍するようになれば、七百年を生きるのです。二十倍するようになれば、千四百年を生きるのです。一生の間、二十四時間を働くのです。そうしてこそ、霊界に行って実を結び、愛の所有が多くなるのです。愛の財産が多くなるのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広くなるのです。(一〇二―三八)


6 公的な仕事をせよ

 天の法度とは何でしょうか。公儀を優先することです。私的なことはサタンのものであり、公的なことは神様のものです。皆さんは、公儀のために行くべきです。そのような路程で、すべての人たちがいくら反対したとしても、自分に損害を受けずに、難しい道も生命力をもって行く人がいるなら、彼は春を迎える天国人になるでしょう。(四七―二七二)

 皆さんが市場に行って見ても、店の主人が自分の欲ばかり張るようになれば、お客が物を買いに来ないのです。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治め得る方法と秘訣を知らない人は、一人もいません。それゆえ、「知らなかったので天国に行けなくなった」と言い訳をすることはできないのです。なぜでしょうか。公的か、私的かということは、教えてあげなくても分かるのです。
 例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんにおいしいもちを全く同じに分けてくれたのに、皆さんは皆さんの分をみな食べて、お姉さんは食べずに真心込めて保管しておいたとします。それを、寝てからそっと起きて、一人で食べようとすれば、「こいつ7」と言うでしょう。そのような気がしないなら、人ではありません。そうなるべきなのです。なぜでしょうか。皆さんの心は、公的なものを追求するためです。私的なことについていけば、滅びるのです。
 本来、天法に従っていけば、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。本来あるものとは何でしょうか。これは、神様に本来からそのような心があるので、人間にも本来からあるようになったのです。自分が作った法でないということです。「良心よ、私がこのようなためにこうだ」と、そう言いますか。「私の考えがそうであるために、そうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配することを見るとき、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。(三一―二四一)

 今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外にひっくり返って行ったり来たりして、結局は私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活のためにこれを歯を食いしばってやらなければなりません。そうして行ったり来たりして私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。それゆえ、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければなりません。(三一―二四一)

 皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するのに、自分の息子、娘だけ愛するなというのです。世界の人のための、祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を 懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をやるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいというように対そうとするのではなく、人の子も自分の子のようだという心情で対する母になるべきです。そのような母のお乳を飲んで育つ赤ん坊たちは、必ず偉大な人になるでしょう。すぐには駄目でも、一代、二代を経ていく間、必ずその後孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。(三一―一六八)
 では皆さんは、私的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減のために公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物になるのです。そのような群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。
 では、そのような主管を前にしている我々は、残った時をどのように埋めればいいのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自体の生活で、個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかということが問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってというすべてが、誰のためのものでしょうか。自分のためのものでしょうか、神様のためのものでしょうか。また、問題になるのは、それが公的な生活か、私的な生活かということです。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かということも問題になるのです。
 公的な道を行くために誓うべきです。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場まで進まなければなりません。それゆえに、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどのように体得するかという問題が、信仰者が重要視すべき問題です。
 罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。
 では、永遠に善であり得、永遠に繁栄することができ、永遠に福を受けることができる立場とはどこでしょうか。滅びることを避け得る立場、罪となることを避け得る立場、悪くなることを避け得る立場とはどこでしょうか。それは、正に公的な立場です。御飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。このように、一切を公的なことと関連づけて暮らさなければなりません。そのような人は、地獄に行こうとしても行くことができないのです。(三一―一六四)


7 愛を体恤すべし

 皆さんは、自らが「私だけだ7」と、自分だけを考えればいいのでしょうか。皆さんは、皆さん自身だけで存在しているのでしょうか。皆さんから、お母さん、お父さんの要素を抜き出して、供給されたすべての万物の元素を抜いていけば、皆さんはなくなります。それゆえ、「私」という存在とは何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。
 それで、今日地上時代には、「宇宙の母、万物の母」です。これが地です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれます。他の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つようになるときに、腹中で呼吸するのに、何で呼吸するでしょうか。へそで呼吸します。へそが母の体とつながったホースです。
 しかしながら、第二世界、空気の世界につながったことを知っています。腹中で暮らしてから、けってしまって出てくれば破壊です。そのときは、泣くのと同時に何につながるのかというと、ひよめき、鼻の穴で息をするようになっている、空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。では鼻の穴をふさいで生きることができるでしょうか。息ができなければ死にます。二重構造になっています。
 腹で空気の世界に出てくるときは、腹中世界で暮らしたへその緒と水袋をみな破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、何が出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口で元素を補給されて生きているのです。
 腹中から出て、この体は何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、どっと出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてすべきことは、愛というものを体恤することです。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれて、サインカーブと同様に、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。
 そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第二の腹中世界をけってしまい、第三の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちています。それゆえ、皆さんは、今この地上世界で愛の息をすることができるパイプ装置をしなければなりません。それで、霊界の体験が必要で、霊的愛を感じることができて、呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
 この地球星の母の腹の中をけってしまって立ち上がるとき、皆さんは愛の呼吸器官で息をするのです。第三の愛を受け継いでこそ、永生を得るというのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。神様に帰るのです。愛の呼吸器官につながって、霊界に帰りますが、神様の本体に帰る道が残っているのです。種が出てきたなら、それは本体から出てきたために、結果を結んで本体に帰るべきです。
 それで、人生行路は、旅人の行路ですが、ここで備えるべきものとは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。母と父の愛をよく受けられなかったのが堕落だから、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭をなして、横的な環境を、東西南北に多くの家庭たちを並べておかなければなりません。それで、彼らが縦横をつなげることができる真の家庭の形態をなして、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながるようにするとき、愛でつながったその世界を天国というのです。(一三九―二一二)


八 霊界に行く前に残すべきこと

1 愛の墓を残すべし

 普遍的に人は永生を中心として十年、百年だけでなく、千年、万年、億千万年を考えるようになります。人が死ねば、動物と同様ですが、それを残して何をするでしょうか。このごろは、宗教を信じないで、神様を知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残して何をするでしょうか。アメリカの愛国者になって、記念館に入っていても、アメリカが滅びるようになるときは、消えるのです。名前を残して何をするのでしょうか。ですから、滅びたり繁栄したりする歴史時代に残ったとしても、良いというものも、悪く扱われるのです。(一〇三―一六)

 地上に生きている神様の息子、娘を残すためのものが、神様の目的です。それゆえ、自分が霊界の神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、自分も神様と同じ立場に立つようになるのです。それが聖書の「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」というみ言の意味です。(一四六―二二三)

 生涯に何をすべきなのでしょうか。愛の墓を残すべきです。愛の墓を残していこう7 愛の墓の中で暮らせば、恨がありません。墓のような所で、いくらじっと暮らしても、愛の中で暮らせば恨がないのです。我々が暮らしながら愛の墓を残せば、人生は永遠において成功するのです。そのように皆さんが暮らして死ぬときは、霊界で神様が息子、娘を連れて歓迎に出てくるでしょう。そのときには、指輪をはめられなかった手なら、天国のダイヤモンドをはめてくれるだろうし、服を着れなかったなら、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれるでしょう。(九七―一六九)


2 霊界の所有権は伝道で決定

 霊界での自分の所有権とは何かというと、天国の民をどれほど連れていったかということです。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべき時が来ました。一日に何百万が伝道される時が来ます。統一教会には、そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬか生きるか、人生とは何か、空中にさまよい歩きながら、落ち着くことができず、狂ったように回って自殺する人がどれほどたくさんいますか。(二一八―二二七)

 霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、その懐に入ろうと列をなすようになります。その人は、あの世で尊敬されるのです。千人、万人に囲まれて、「あ7 この人と一緒に暮らしたい」という声を聞くようになれば、その人はそれほど領土が大きい金持ちになるのです。
 あの世の金持ちは、どんな人でしょうか。愛のために投入した人が金持ちなのです。
 伝道とは福を集めることです。愛の福を集めるのです。天のものを奪っていったサタン世界のどろぼうたちに、主人が愛で探すのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという、愛の心で訪ねていき、愛に因縁づけられたすべての福を取り入れるということです。
 冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから、自然に金持ちになるのです。(二〇五―三四七)

 霊界に入っていくとき、お金を持って行くのではありません。サタンの息子、娘を収拾すべきです。一人が百二十名以上収拾しなければなりません。天国の民をみな失いました。それを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。
 霊界の十二の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから天の民を探さなければなりません。そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫と妻以上、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに交差する過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数の比例に従って、あの世の栄光の立場に、神様の前に近づく条件が成立します。(二一一―三五二)
 これから、霊界に行くとき、何をもっていくかというと、お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。これから皆さんがすべきこととは何でしょうか。神様が愛することのできる息子、娘を、どれくらいたくさんつくるかということが問題です。人々が赤ん坊を産むとしても、何人かしか産むことができません。それは、誰もができることです。
 復帰過程で経ていくべきこととは何でしょうか。皆さんがサタン世界で、神様が愛することができる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖とつながって、また、先祖を解放させることができる道が繰り広げられるのです。これが復帰路程において、自分が取ることができる最大の贈り物です。
 いくら教区長をしたといっても、信仰の息子、娘がいなければ、あの世に行くとき、空き缶を持って行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていないために、そうなのです。
 天国は、無限の世界なのに、そこでは愛の心情でつながることができる橋がなければならないのです。それゆえ、自分が伝道した人が世の中にたくさん広がっていれば、霊界に行っては、それほど広く往来することができる道が生じるのです。全部が自分と因縁を結ぼうとします。
 地で解いてあの世に行くようになれば、霊界で解くことができる相対的関係になっているから、膨大な活動基盤になるのです。それが全部、自分の所有になるのです。それゆえ、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じることができるのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。
 御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。それゆえ、天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
 それゆえ我々が、早く世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子権がサタンの基盤ですが、神様の基盤として逆さまになれば、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言うことを聞いて、ついてくるようになっています。絶対服従する位置に行くようになれば、神様の愛とともに、アダムの愛の圏内にあるために、自然に天国に入るのです。原理がそうなのです。
 地上で人間が、この責任を果たせないことによって、裏返しになったために、人間がすべきことは、裏返したものを再び解かなければならないのです。蕩減復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がどれほどとてつもないことかを知るべきです。それゆえ、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。統一教会という看板をつけては、何の役にも立ちません。
 イエス様がエルサレムに上ったとき、いちじくの木に実があると思って行ってみたのに、実がなくて、それを呪うことによって、いちじくの木が枯れて死んだのです。ちょうどそのようになるのです。うわべだけ良くてどうしますか。それゆえ、自分が祝福家庭を何家庭つくったかということが、皆さんに収穫となるのです。
 百二十名、何百名を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子、娘を愛するというのはあり得ません。原理を見ると、百二十名を伝道しなければなりません。百二十家庭は、イエス様の世界国家を代表したのです。四百三十家庭は、一国を中心として、その中にある名字と同じです。四千三百年を中心とした四百三十家庭です。それは名字と同じように、国民が天国に入ることができる門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。
 これは、空論ではありません。理論です。歳月をそのまま送るなというのです。青春時代に息子、娘を産んで、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。
 それゆえ、誰でも国に何かを残すのを願い、世界に何かを残すのを願い、天地に何かを残すのを願うのです。同様な道理です。それゆえ、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それゆえ、み旨の道で「嫌だから辞める」と考えることはできません。
 先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任をもつということは何のためでしょうか。その環境で、苦労する人たちを救ってあげるということです。苦労する環境で、自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくることによって、収穫になるのです。霊界に行くとき、これを全部公的なものとしてもてなされるために、その人は天国の一番高い位置に行くのです。
 国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、これをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の実績を残し得るかということが問題です。そのようになるとき、世界は早いうちに復帰されます。それゆえ、精誠を尽くして育てなければなりません。
 先生もそうです。先生が今までみ言を語るようになれば、五時間、六時間ずつしますが、そのようにしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。十五分話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人たちに、来たすべての人たちに、いろいろな例を挙げて分かりやすく説明して、その人たちをその圏内に共に同参させようとしてそうするのです。目的は、春が来るようになれば、何としてでも種をたくさん蒔こうということです。種をたくさん蒔いておけば、たくさん生えるのです。
 では、種を蒔くには、どこに蒔かなければならないのでしょうか。汚れない場に蒔こうとすべきです。汚れない場とはどこでしょうか。青少年たちです。分かりますか。その時一度植えておけば、一生もつのです。その時一度植えておけば、抜いてしまうことができません。
 人は、どの時が一番鋭敏でしょうか。小学校の時が一番そうなのです。中高等学校に行けば、だんだん希薄になるのです。大学に行くようになれば、その隣町を経ていくのと同じです。旅をしてきて何かをするようになるのです。一番難しいのが小学校の時です。その次に中高等学校の時です。時がたつほど、だんだん薄らぐようになります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。
 子供たちと遊びながら、童謡も教えてやり、話もしてやれば、それが自分の将来のための永遠な財産を積むのです。年取った人たちも、会いさえすればみ言を証すのです。統一教会の指導者たちは、このようなことがよくできていません。
 バスに乗るようになれば、十人に、どこに行くのかと聞きながら、親しくなればもう一度会って話をしようと言って、また会えば原理のみ言を伝えるのです。いくらでも伝道することができるのです。材料はいくらでもあるのです。伝道しようとするなら、自家用車に乗って回ることより、バスや地下鉄に乗って回るのが良いのです。通勤時間に一つのコースだけ行っても一年十二カ月を毎日通ってみると、顔が分かるようになります。ですから、あいさつするようになれば、互いが受け答えすることのできる人脈がつながり得るのです。そのような道が通じているのに、なぜ歳月だけ送るのかというのです。
 御飯を食べることよりもっと重要なことが、天国の民を取り入れることです。それが我々には、うまくいっていないのです。それが本職です。この地上に生きる我々の本業です。生涯にすべきことの中で、それ以上貴いものはありません。就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、みな流れていくのです。あの世で、お金は何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要でなく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かるのです。一週間以内に、何でもみな通じるのです。
 そして、あの世では、権力が必要ありません。霊界で必要なのは愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それゆえ、愛を中心として感化力をもてなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行っては、本質的に和合をせず、反発するのです。それは地獄に行くのです。
 皆さんが、今まで統一教会に入ってきて、暮らしながら働くと言いますが、どの立場で働いたかを考えなければなりません。方向がどこで、位置がどんな場なのかをいつも考えなければなりません。そのようになって、祈祷すれば、神様が自分と共にされるというのです。そのようになって、目をつぶりさえすれば分かります。祈祷をしなくても分かるのです。どこかに行って話せば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人に行けば、自分がずっと引かれて入っていくのです。
 全部が相対的です。花も、自分と相対し得るものを引っ張る力があるのです。自分の主体や対象になれば、引っ張るのです。初めて会ったと言って、相手にならないのではありません。磁石がそうです。その本質は、永遠に不変です。それと同じように、そのような所に行くようになれば、心がうれしく、言いたくなるのです。その境地に入れば、話すまいとしても口が開くのです。
 皆さんが、これからあの世に行って、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを探すために、今まで苦労した神様の前に行って、何と言うでしょうか。神様は創世以後、今までアダム完成者を探してきました。そして皆さんは、原理を知りました。これは数千、数万の民を救うことができる武器です。今まで神様が人間に教えることができず、知らないうちに摂理されました。それに代わって、地上で神様の理想の仕事を我々がするのです。我々には原理で数百、数千のアダムを教化して連れていくことができる道があります。
 ですから、生命とつなげなければなりません。永生問題は、深刻なことです。春になれば、娘たちが山菜を摘みに探し回るのと同様に、自分が要求するものがどこにあるかを探し回るのと同様に、皆さんは一生をそのように生きていかなければなりません。そうして、相手が現れれば、夜通しで彼のために原理のみ言を伝えてやるという心をもたなければならないのです。一度会って感動を与えるためには、精誠を尽くさなければなりません。
 皆さんがすべきことは、天国に連れていくことができる息子、娘を探すことしかありません。いくら億千万の金をもって、豊かに暮らしても、そのようにみな流れていくのです。自分のすべての物質と知識と生命まで、投入してでも、しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、「一遍に投入して天国の民をつくる」と言うべきなのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。
 ここの統一教会の長という人たち、肩に力を入れて誇り、そのように考えるかもしれませんが、恥ずかしいことです。自分を中心として、いくつの生命を救ったかが問題です。
 皆さんが、どれほど永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかということは、どれほど天国の民を収穫して取り入れたかという問題にかかっているのです。それを取り入れる鋤が今まではありませんでした。知らないからできなかったのです。ですが、皆さんには背負子があります。熱烈にみ言を伝えるようになれば、爆発的な収穫を収めることができるのです。しかし、そのような内的な実力をもって歳月を送っているので、神様が雷を落としたいはずです。
 夜十二時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願いますが、「ああ、私は眠りたいです」と、そう言えません。その立場は直行する立場です。
 永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それゆえ、今まで私は、統一教会に反対する人を呪うことができませんでした。天は、自分と関係を結び、決定づけるのを願うのに、その人が落ちれば、我々の統一教会の責任だというのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対するようになりましたが、その反対される環境を早く克服すべきことが、我々の責任なのです。それができないことによって、被害を受けるすべての環境は悲惨なのです。
 それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を産めば、お乳を飲ませなければなりません。それゆえ、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはいけません。先生も一生をそのように暮らしています。誰が夜十二時にここに入ってきても、その人が行きたがらなければ、自分が座り続けるのであって、「行け」とは言いません。その人は、必要なものがあるために行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をそのように暮らすのです。絶対事務的ではありません。霊界はいつも覚めています。
 皆さん、統一教会員たち同士けんかをし、一人でも落ちれば、その被害は大きいのです。その人がこれからみ旨を知って、天の前に自分の責任を果たすとき、何千名、何万名を救うことができる、自分よりましであり得る、驚くべきこともあり得るのです。ですから、人事措置を誤れば、全部引っ掛かるのです。それゆえ、自分が低い所にいて、みな高い所に置こうとすれば、引っ掛かる所がありません。それが謙遜だというのです。
 しかし、誤れば下がります。夜に妻と子供たちがいる部屋に入るとき、父として責任をもって、夫として責任をもたなければなりません。夫がうまくすれば、あの世で妻が自分についてくるのです。もちろん、その父の家に入るためには、訓練過程がありますが、ただそのまま行くことができれば早いのです。あの世は、許しのない世界です。その世界に拍子を合わせるために、今準備をするのです。
 そのことのためには、飢えてもしなければならないのです。「御飯を食べてきて、しよう」と言ってはいけません。今ダイナマイトの導火線に火がついて、爆発するはめになったのに、御飯を食べてはできないのです。深刻なのです。それゆえ、永生問題をどのようにつなげるかということが問題です。
 電気で言えば、全部送電所を経て、配線器具につながってこそ明かりがつくのと同じです。発電所の電気がここに来ているのです。つながってこそ残ります。
 それで、信仰の息子、娘を自分の息子、娘よりももっと愛し、信仰の息子、娘は、信仰の父母に、自分を産んだ母よりももっと「ため」にしなければならないのです。自分を産んでくれたのは、サタン世界の父母ですが、信仰の父母は天の世界の父母のために、自分を産んでくれた母よりももっと「ため」にしなければならなりません。そして、信仰の息子、娘たちは、全部自分を救ってくれた人の子供たちを精誠を込めて育てて、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうなのです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。
 それゆえ、永生問題とつなげなければ、すべてが無駄です。彼らがみ言を聞いたとして終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場にまで出させなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道するようになれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で、迫害を超えていくことができれば、その人は、既に生命の道に入るのです。祝福を受けるところまで行けば、終わるのです。
 そして説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら、話さなければならないのです。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾くようになれば、それは偽者です。(一九九二・四・一五)


3 息子、娘をたくさん生むべき理由

 統一教会の人たちは、神様を知らない人がいません。霊界を信じます。愛から始まって、神様から分かれて出てきて、結局は神様に帰る路程です。
 霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男が女になり、女が男になることができるのです。愛は一体だと言います。女の中をのぞいてみれば、男が入っています。その夫が入っているのです。神様の二性性相と全く同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたために、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まったために、このはしごに乗って入らなければなりません。結局終着点は、神様と共にするのです。
 霊界では赤ん坊を産みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を産む必要がないのです。横的な基盤が必要であるために、人間を、体として造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は、全部この地球から行くのです。このように考えてみれば、今産児制限をなぜすべきなのか分かりますか。それは、天命によるものです。悪なる血統をこれ以上繁殖させるなというのです。
 統一教会の祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかということが財産です。信仰の息子、娘より、自分が生んだ息子、娘がもっと価値があるのです。信仰の息子、娘は、祝福という関係を知りません。そのような息子、娘をどれほど残していくかによって、天国で自分の位置が決定されるのです。(二〇五―九九)

 完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で「真の父母」を中心として、可能なのです。霊界ではありません。それゆえ息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民になるのです。皆さんの息子、娘が、理想的な天国の民になるのです。ですから、皆さんが息子、娘をたくさん産まなければなりません。本来は十二方向以上にならなければなりません。それで、先生が十二方向以上を願います。(二一七―一三〇)

 息子、娘がいなければ、天国が繁栄しません。ですから祝福家庭たちは、地上で産児制限してはいけません。飢えて死んでも、全部霊界に行きます。飢えて死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。それゆえ、サタン世界は産児制限しますが、統一教会では産児制限をしてはいけません。
 先生がみ旨のために苦労しましたが、飢え死にはしませんでした。我々は飢えて死ぬような場に行っても、生きることができるのです。そのような訓練が、みなできているのです。
 絶対的な愛のために、すべてを犠牲にするようになるとき、神様も調節することができ、サタン世界も調節することができ、天運も調節することができるのです。調節するのは何でしょうか。神様がついてくるということです。神様がついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるのです。(二〇一―一三三)
 皆さんは、地上で子女を立派によく育てて残していかなければなりません。将来、その子女はすべて霊界に行くのです。霊界に行って、天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかというとき、地上ではつらいことでしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道になるのです。
 地上では、教育とか、食べさせることの問題で、とても苦労します。しかし、霊界では、食べるものは問題ありません。着ることは問題ありません。暮らすことは問題ありません。できるだけたくさん、たくさんいればいいと思うのです。(二一八―三一九)

 霊界に行けば、繁殖がないのです。神様は、縦的な父母の立場でいるために、一点しかないのです。(二二一―二〇四)

 神様がすることとは何でしょうか。世の中を救うことです。霊界に行ったすべての次元の高い人たちの仕事とは、地の仕事です。地とはどんな所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。
 一人が子供を約百人ずつ産んでも、天国は広いので過剰生産ということはありません。あの世は、いくらでも収容することのできる世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくらいつくって率いてくるかということが問題になります。真なる天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料になるというのです。(二〇二―四〇)


九 死の前での姿勢

 イエス様がみな教えてくれました。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と教えてくれました。世の中に、そのようなでたらめな言葉がどこにあるでしょうか。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。
 では、死ぬのはなぜ死ぬのでしょうか。死ぬ目的とは何でしょうか。生きるためにです。生きることには何かの目的があるのです。生きていく人間の目的は、全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのは、何のためでしょうか。神様の息子になるためです。神様を愛するために、首を差し出せということです。その首が一つしかないのに、差し出せというのです。どこに行って死ぬべきでしょうか。あのどん底に行って死ぬのではなく、最高の立場で死ななければなりません。
 それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下の、一つしかない天国で死ぬのです。
 では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。死ぬのにも場所があるのです。つまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでも駄目なのです。最高の立場、神様の心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国が一番です。天下が、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。(三四―一八四)

 今日、我々は最後の復活の一日、希望の一日を願っています。すべての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむことができる希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができます。その希望は、神様と共に、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために、神様と共に迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。
 このような時が、我々の前に来るということを考えるとき、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心をもたなければなりません。そのような切なる心が、皆さんからわき出なければ、その希望の一日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができないのです。
 それゆえ、真の生活をするという人は、「私がどんな姿で死ぬのか」ということを考えるのです。八十年生きて死ぬその時間になってやっと、「私はどんな姿で最後の一日を飾るだろうか」と言ってはいけないのです。イエスは死の場に行って「すべてが終わった」、「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはりその方は、人生行路に勝利された方でした。
 皆さんは、これからある一日に死ぬようになります。そして死を前にして過去を回顧しながら、そのとき、どのような一言の言葉を残して行くか、ということを考えなければなりません。
 この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで最後です。
 今日まで神様のみ旨を奉じて、神様のみ旨を立ててきた数多くの人たちは、どのような人たちがいるかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきました。
 皆さんは、死に逢着するようになっても、それを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つようになるだろうという希望と、心で憧れた本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。神様の理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つことができる存在になるということです。
 世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべては、みな過ぎ去って、あとには死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望をもった人であってこそ、この天の前に立つことができます。
 今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。
 我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこのすべての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないというのです。
 では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるでしょうか。違います。心がそのような方向に動き、心情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。
 人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行った人がいれば、彼は普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったのです。そうなったので、死の道も行くことができるというのです。
 皆さんの憧れることが、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれなければ、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、どうせ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。
 では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。それは人が天の希望を抱く者です。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人になるべきです。天は、このような希望の息子、娘たちを探しておられます。
 このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたら、天がその泣き叫びに答えまいとしても答えざるを得ないのです。(六―五三)

 み旨のために「死なんとする人は生き、生きんとする人は死なん」というこの言葉はどういう意味でしょうか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。
 では、死ねばどのようになるのでしょうか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、我々が堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、我々の生命が、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、神様と因縁が結ばれるのです。
 生命と死について見るとき、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。
 サタン世界では、どうせ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることはできないのです。
 では、聖書で言う、「死」とは何を言うのでしょうか。神様が、永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せというのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉が、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは、復帰の正常的な論法です。
 それゆえ、生命を差し出すことができるかというのが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発するとき、生命を差し出すことができる覚悟ができているかを考えました。
 先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬとき、どのように死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時は、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば生きるかを考えたのではありません。
 大韓民国を中心として、役事しなければならないために、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこでしょうか。怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟である北韓に行ったのです。
 先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北韓を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身になるのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。
 先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準で、すべてを探すことができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生き甲斐を探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、「ありとあらゆる重労働をする立場に入っても私は負けない、他の人はみな死んでも私は死なない」という信念をもってきたのです。
 統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか。自由党時代の特務隊長金昌龍殺害事件の首謀者である、許大領(大佐)が死刑を受けるときに、「今回のことを計画して指示した者として恨がないか」と聞くと、彼は「何の恨もない」と言いながら男らしく死んでいきました。そのような殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較してみなさいというのです。比較してみながら、自分は果たしてどのように死ぬだろうかと考えなさいというのです。
 怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるでしょうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。恨みを抱かずに死ななければならないのです。どうせ死ぬからには、恨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈ったのは、偉大なことです。(三四―四七)


十 霊界に入るとき

1 死が差し迫ったとき

 人生の勝敗は、何十年の期間によって決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の十カ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間です。ところで、十カ月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎えるようになるのです。
 十カ月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾るためです。言い換えれば、出生を見通す目的の一瞬のために、腹中時代があるのです。それゆえ、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤るようになれば、悲運の結果を迎えるようになります。(三一―一八五)

 この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。
 その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。
 このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そうできる過去をもった人は、必ず民族が従ってくることができる因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。
 では、それはどのような事情でしょうか。ある民族に、当面した問題を解決できない悲惨で非情な時があるとき、その問題を自分が責任をもって解決するために、命を懸けてそこにぶつかった時があったなら、それはその過ぎ去った時の中で忘れられない一時であるでしょう。
 生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖なる時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮できないようになっています。
 善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。我々の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。
 過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。
 そのような過去を懐かしがりながら、民族を思うようになるとき、希望の民族はこのような民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がそのような過去を懐かしがるようになるとき、人のために犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下すことができるのです。「私がそれのために戦ってきた過去があるために、必然的にそうすることができる未来がなければならない」という内容をもって、神様の前に行くというとき、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になります。
 聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってあるようにしようとした人です。


2 霊界に入るとき

 我々人間が暮らす生活を見ると、生まれてみな同じ生活をします。転がっていっていますが、これがだんだん弱くなるか、だんだん強くなるのでしょうか?
 自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが十年になり、二十年になり、三十年の生涯路程を経て、五十、六十、七十、八十年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなります。これが問題です。作用すればだんだん小さくなるようになっています。自然力学世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さくなるのです。
 それゆえ、入力、入ってくる力、電気で言えば入ってくる力が、どのようなモーターを回しても、作用をしていくときには小さくなるのです。ここには、必ず消耗が起きます。
 このように見るとき、我々は一生の間、停止していることができません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。動くのに、正しく動くか、間違って動くか、いろいろあります。
 では、人間が行くべき、自分が転がっていくべき方向とはどこでしょうか。どの方向に行くのでしょうか。それを知らずに転がっています。岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれない立場で転がっていく生活をするというときに、それがどれほど危険千万なことか。どれほど不幸なことか。どれほど不安定なことか。これが問題です。
 霊界に入るようになれば、今日我々人間たちが、空間と時間圏内の内容をもって測定したすべてのものでは、相関関係もなすことができません。その世界は、時空を超越した世界です。(一四一―二七〇)

 霊界に行くようになればどうでしょうか。心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準があるために、一番最初にあの世に行く時は、祝福された人たちも、ある時は分かれます。なぜでしょうか。心霊の程度が違うからです。(一六四―六二)

 皆さんは、天国の何になるでしょうか。大使になりますか。その大使館で使いをする僕になりますか。大使にならなければなりません。大使になるのは易しくありません。死ぬことがあれば、彼が先に死ななければなりません。
 私たちは、霊界があるということを知っています。この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界でしょうか。神様が良いと言うことができる構想で、すべてが可能な世界です。(一〇七―五六)

 皆さんは、天国に行く時に、礼物として持っていくものがあるでしょうか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいったふろしきを開いておくことができるでしょうか。
 統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか。それだけの苦労もせずに、どうして国のため、世界のためだと言いますか。「苦労をしたにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。
 まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを開いておいて、「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女たちが嫁に行くときは、一包みずつ持っていきながら、天国に行くときは、ひょいひょいと体だけ行くことができますか。(三二―七一)

 皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「そこで絶対的に必要な存在だ」と言うことができる自主性がなくては入れない所が、天国です。
 家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、やはり「自分が絶対的に必要だ」と言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。(一九―四五)

 霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点のようなものです。霊界はどれほど広大か知れません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代に、これこれこういう心情をもって、地上で生まれて暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきてみろ7」と言えば、瞬く間に現れます。そのように、直感的感覚が現実化する世界です。
 一度に百万名の宴会をすると言っても問題です。「私がこのような理想的な愛の喜びを、みなに分けたくて、晩餐会をもとうと思いますが、女はこのような服、男はこのような服を着て現れろ7」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願うとおりに現れます。そして、おなかがいっぱいになれば、残ったものはどのようになるのでしょうか。
 そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、愛の心情の基準に相応する、そのような家を自分が願うとおりに、いくらでも造ることができます。(二二四―一〇五)

 凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明とは何でしょうか。それは、自分のためのものではなく、希望の民族を描き出すことができるのです。それゆえに希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。
 皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみるようになるとき、一年はこのように行き、一年はあのように行くだろう、あるいは十年はこのように行き、十年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。(三一―三〇八)

 皆さんが「七十になっても私はこのように行く」ということを一度考えてみましたか。「年が八十になって死ぬ瞬間にも、私はこのように行く」ということを考えてみましたか。死ぬ場でも、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをし、これからもこのようなことをすることができる私が死ぬが、お前たちが代わりにしてくれ」と言える証拠物を提示できなければなりません。
 それを言葉だけで言ってはいけません。彼が死んだときに人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」と、そのように言えなければなりません。(七三―一一六)


3 霊界の手続きに必要な証明書

 皆さんは、最初にどこで証明書をもらってくるのでしょうか。「私はこのようになった。このようなことをした。これが勝利の証明書だ」と言い得る証明書をもらうべきでしょうか。
 そのような証明書を自分自身が使うことはできません。では、誰が使うのでしょうか。初めには、サタンが使います。神様は使うことができません。サタンから、その勝利の証明書をもらわなければいけないのです。イエス様は、それはよく知っていらっしゃいます。それで、三年の公生涯路程の出発のときに、四十日間サタンを呼び出して証明書をもらう戦いをされました。それが三大試練でした。
 イエス様が三大試練を勝利すると、サタンは「あなたは、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるを得ません。そうでなければ、私の活動舞台をすべて天の側にすぐに捧げなければならないためです」と言ったのです。
 それゆえ、皆さんは、まずサタンに証明書をもらい、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要です。(一五―一二一)


十一 死んでみてこそはっきり分かる

 皆さんが、祈祷で霊界と通じるようになれば、霊界では後孫たちを天の前に近く立てるために努力しているということを知るようになるでしょう。しかしここでは、先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。
 それゆえ、死んでみてこそ分かるのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみれば分かります。しかし、死んで生き返ることができればいいですが、死ねば終わりです。ですから、人々は、統一教会の文先生が恐喝をしても、とてもすてきな恐喝をする、誰もできないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んでみなさいというのです。先生が何か言うことがなくて、このようなことを言っているのではありません。(二二―三三八)

 神様の最高の愛は、どこで発見するでしょうか。王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、神様の最高の愛を占領し得る道があります。
 先生が共産地下の監獄にいるとき、言葉を話さなくても霊界から伝道しました。それで、先生のために死を覚悟して、どんなことでもできる弟子たちをもっていました。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくることができる道が、いくらでもあったというのです。そのような立場に神様が共にするのです。(九一―一七五)


十二 「ため」に生きれば神様の近くへ行く

 霊界は三段階になっています。霊界では、誰が高い所に上がるのでしょうか。より「ため」にした人です。
 自分のためにした人は、反対の世界が繰り広げられます。それも同様に、三段階です。「ふん7 我々はお前のようなのは嫌だ7」と反対するのです。自分のために生きた人は、全部反対し、人のために生きた人は、全部歓迎します。
 地上に生きて霊界に行った人たちで、高い所に行く人たちは、全部人のためにした人たちです。世界四十カ国なら四十カ国を回りながら、自分の母と家庭を拡大したような心情で「ため」に生きた人たち、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心をもった人たちが、高い所に行くのです。
 それで先生は、「私は一人の男として、歴史時代の孝行者を代表した総大将であり、愛国者の総大将であり、聖人の総大将だ。神様の息子という名前をつけたすべての人たちは失敗したが、私は勝利した息子として生まれた」と考えます。そのように言えるようにしてくれるものは、たった一つありますが、それは何でしょうか。簡単です。絶対「ため」に生きることです。与えて忘れ、「ため」にして忘れてしまって生きる人だけが、その世界を消化することができます。
 皆さんが天国に行く輩か、地獄に行く輩か、はっきり知るべきです。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。
 死を避けることができる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。(二〇三―一〇〇)

 これからどんなことが起こるかというと、自分の財産を天のものとして捧げるための仕事が繰り広げられます。
 「ため」に生きなければなりません。全体のために、より大きいことのために生きなさいというのです。世界のために、神様のために、人類を解放するために生きなさいというのです。自分によって、新しい血筋に転換させなければなりません。
 血筋が引っ掛かっているために、今まで神様が無力な神様になりました。今は、転換時期に入ってきたので、自由天地が訪ねてくるのを知って、皆さんが善の種を植えなければなりません。自分がどのようにすべきか、よく分からなければなりません。これから、メシヤの一族、天国の国民、永遠の天国とつながり得る、永生をもった群れになるべきです。(二〇三―一八七)

 これから何の競争が起こるでしょうか。互いが「ため」にしようとすることです。なぜでしょうか。天国では「ため」にする人が高い位置に行くために、その高い人のために自分がなれば、その人に乗って飛躍できるからです。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)に行けば、人工衛星の発射台がありますが、そこで人工衛星が発射されて空に飛んでいくのと同様に、そのようになるのです。
 その人のためにすることは、神様が創造して相対を造ったのと同じであるために、その人の愛の対象圏に立つというのです。誰かについていって、「ため」にするのも、みなそのためです。
 先生のためにするのは、先生を利用しようしてしまおうということです。先生の愛の対象になって、飛躍して、神様を占領しようというのです。
 人工衛星が出てきたのは、今日信仰者たちが跳躍して、天国にどのように行き、何千里、何万里をどのように行くかということを表示するものです。
 どうせ、人間は本然の故郷に帰るようになっています。世の中の故郷もあるでしょうが、それよりも本然の故郷に、永遠の故郷に帰るようになるとき、そこで歓迎され得る内容を備えられなかった人は、悲惨なのです。グループに入れないということが、どれほど途方もないことかが分かるでしょう。(二一三―一九四)

 今までは家庭がありません。しかし、今から家庭の組織が始まるのです。全部分かれていったのです。なぜでしょうか。文化背景が異なり、心情的背景が異なり、暮らす風習が全部異なるので、みな分かれたのです。
 ですから、家庭とは何かというと、新しい風習と新しい文化をつくって、習慣化する所です。しかし、家庭がないから、社会があり得ません。一国の社会がありません。その次には国がなく、世界がないのです。
 それゆえ、今主流を成しているのが宗教です。仏教圏とかキリスト教圏とか言って、ここにとどまるのです。他の国の人同士は共にいられませんが、宗教圏は共にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願ってきて、一つの神を祭ってきたために、共にとどまることができるのです。しかし、すべての宗教が神様の圏に属しているのに反して、すべての国は神様の圏に属していないのです。
 統一教会から、個人が生じ、家庭が生じ、氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤが出てくるのです。個人が行く道が家庭につながり、家庭が行く道は氏族が行く道につながるのです。
 では霊界は、どんな世の中なのでしょうか。真の愛を中心として、他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きる所です。ここの地上でも、一〇〇パーセント人のためにする人は、「私を踏み越えて行け7」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領より、その国の民のためにもっとする人がいるなら、その人が大統領を踏み越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るようになるときは、全部怨讐になるのです。
 霊界に行っても同じです。より大きなことのために生きるというときは、自然に通過するのです。より大きなことのためになれば、自然に通ずるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。
 では、行くのにおいて、家庭もそのまま通り過ぎて、すべてが歓迎し得るその方向の内容とは何でしょうか。それは「ため」に行く、愛の道しかありません。
 この二つは、地上のサタン世界でも妨げられません。この二つは、サタン世界も絶対順応しなければならないのです。いくら悪徳な父母、いくら悪い者でも、真の愛をもって自分のために与えようとする人は、すべてが歓迎するのです。(二一五|一七四)


十三 審 判

 皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しろという命令が下るだろう、ということを考えてみましたか。いつかは大審判の法廷に出廷しろという命令が下るのです。
 その法廷を管理して支配するためには、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事は神様であり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。(一七―一七七)


第三節 高い霊界に行くには

一 宗教人たちの標準は霊界

 宗教を信じる人たちが、信じない人と違うこととは何でしょうか。彼らは一生の間、霊界を標準として信じます。宗教というものは、神様に会って生活しようとするところから始まるのです。
 すべての教祖たちが、残していった経書の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありませんでした。これは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がおられる所を中心として、我々が関係を結ぶことができる内容を教えてくれたのです。(一八七―二八六)


二 霊界での所有権決定基準

 昔、我々は、麦飯もなく、食べられずに冷たい部屋で震えていた、そのような日が多かったのです。かえって、そのような日が神様の前に近かったのです。その時は、国を心配し、世界を心配しました。すべてが大きくなって、すべての基盤が拡大されるに従って、「私」という人を、無数の人が、どのようにすれば喜ぶのかを考えたのです。
 知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、そのようなものはみな流れていくのです。死ぬとき、みな置いて行くのです。もって行くべきものは、神様の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したのです。人類を愛し、神様を愛したことが最後に残って、あの世の所有権決定の基準になるのです。(一二七―三八)

 復帰の道には、値引きというものはありません。我々がこの世に来るときは、一人で来ましたが、行くときは一人では行けないのです。多くの人たちを連れて行かなければなりません。(一四―一〇五)

 皆さんが霊界に行けば、伝道した人の数によって、皆さんの霊界の所有権が決定されます。自分は責任者だった、という看板を持っていくのではありませ。(一二五―一七)


三 人を愛すべし

 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないのです。地獄は見ながらも食べることができない所であり、知りながらも行うことができない所です。
 それゆえ、神様の愛を中心として、霊界と肉界が一つになり得る、このような価値的な中心を立てておいて、神様の愛を中心として、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことができないのであり、天国を所有することができません。(九一―一七三)

 霊界に行って、誇るべきこととは何でしょうか。先生は霊界に行ったのですが、「お前は地上で何をしてきたか」と神様が尋ねるならば、「お金をたくさん使ってきました」と言うことが誇りではありません。どれほど人を恋しがり、愛して生きたかということが誇りです。(一八七―三一〇)


四 神様をもっと愛すべし

 あの世で必要なことは、ほかでもありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛さなければなりません。それが原則です。
 あの世に行けば、金もうけをしますか、億万年眠りますか。億万年眠るのも、金もうけも必要ありません。自分の程度によって、食べることはいつでもできます。(一二六―一四二)


五 家庭の基台を成すべし

 なぜ息子、娘がいなければいけないのでしょうか。必ず愛がなければなりません。神様がいなければなりませんし、夫婦がいなければならないし、男女がいなければなりません。その次には、血が混合しなければなりません。神様の血、愛の血、縦的な血、横的な血が混合して生まれたのが後孫です。それゆえ、後孫をもたなくなれば、あの世に行っても、遊んで休むことができる場がないのです。
 夫妻が八十になって、九十になるまで二人だけで、額を突き合わせて暮らしながら「幸福だ」と言いますか。おもしろく暮らすことはできません。息子の嫁がいなければならず、孫がいなければなりません。おじいさん、おばあさんは、孫を連れていって抱かせてあげれば、それ以上の幸福はありません。孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を成せず、東西南北に拍子を合わせられないのです。(一九七―三二)

 仕事をしてから「ああ、大変だ」という考えをする余地がありません。「ああ、大変だ。眠れなくて疲れてだるい」という考える余地がないのです。そうすれば、霊界が開かれます。霊界が見えるのです。皆さんが目を開けて霊界を見、霊的に御飯を食べれば、一日御飯を食べなくてもおなかがすかないのです。そのようなことが起こります。体が軽く、一日中走っても疲れないのです。
 そのようなことを体験すれば、世の中がおもしろいのです。横的に、息子、娘を産んでそうするために必要であって、事実上世の中にいる必要がないのです。あの世に家庭を連れて入らなければならないために、仕方なくこうしているのです。(九一―一七六)


六 心情圏の伝統を中心として暮らすべし

 霊界で宗教が必要でしょうか。必要ではありません。そこでは長老派とか、カトリックとか言う必要はありません。神様との生活圏内に入るのです。ですから、宗教は必要ありません。
 では、何が必要でしょうか。貴いものが必要ですが、その貴いものとは何でしょうか。神様の愛を受けられることが貴いのです。
 今日、統一教会では、心情圏ということを言いますが、心情圏の基地とはどこでしょうか。神様を中心とした、真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛が普遍化し得る世界が、心情圏の世界です。
 そのような本然の世界では、夫婦を主にするのではありません。天地、天宙を主にした夫婦の愛なのです。それゆえ、天宙をもっと重要視するのです。また、夫婦の愛をなしますが、世界を主にした夫婦の愛をなすべきです。
 ですから、その世界に合格し得る愛の基盤をどこで築くか、どこで探すかということが、この上なく深刻な問題です。それゆえ、今日統一教会は、この世でそれを築こうとするのです。数多くの宗教、この世で貴いという、数多くのその何かと異なり、世の中で初めてこのようなことを始めた所が、統一教会です。ここでは何を教えてくれるのでしょうか。心情圏の世界における合格者になることを教えるのです。
 では、あの世に行くようになれば、民族を愛する数多くの人、数多くの夫婦、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちが、みないるでしょう。しかし神様の本然の心情圏の伝統を中心として生きた人は、一人もいません。(一二六―一三九)


七 あの世にパスするチケット

 今からでも、何かのことを出発させるときは、神様を中心として出発すべきです。これが原則です。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化して、どれほど一致するかということが、地獄から中間霊界、楽園、天国にまで、全部つながるのです。
 そうかといって、世界的に有名な学者だからと言って、霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行けないのです。それゆえ、宗教界は、すべてを捨てて行けと教えるのです。みな捨てて行かなければならないのです。そのような論理が成立します。
 では、何が一番貴いものでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、世界のためにどれほど苦痛を受け、涙を流したかということが、あの世にパスできるチケットです。
 それを神様の立場から見れば、神様は、うれしい神様でしょうか。うれしい神様だと思う宗教は、頭もなく、ただ常識外れの輩です。一番悲しい方が神様なのです。その神様が、今まで涙を流し、苦痛を受けたなら、それは神様自身のためではありません。神様が造ったこの宇宙のために、堕落した人類のために、今も涙を流しているということです。なぜそうなのでしょうか。心情の神様であるためです。(九七―一七二)

























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