地上生活と霊界
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第六章 我々と霊界入籍

第一節 人生の結実と生霊体

 我々の生の一代というものは、わずかの間です。この一代が、永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば、無限に延長され、反面、これを折ればも、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じように、上がったり下がったりするのです。
 皆さんは全部、先祖たちに代わって先祖の顔を被って出てきた復活体です。その歴史は、どれほどになるでしょうか。何十万年になったと言われます。そのように長い歴史過程が、結局は自分一人をつくるために苦労してきたのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから我々は、歴史的な結実体です。
 このような結実体が、虫が食って穴がぽかりと空いた果実であればいいでしょうか。開いてみると、真っ黒な種が、ころころと転がって出てくるリンゴがいいですか、その種が、べたべたして付いているリンゴがいいですか。
 皆さんをぽっかりと裂けば、よく熟した種が出てくるでしょうか。皆さんの二世が間違いなく、天の実になると思いますか。皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか。
 六千年の人類歴史の結実体が、熟さずに落ちる果実のように落ちていいでしょうか。「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹けば落ちるだろう。先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません」と言っていいですか。ここにそのような輩もいるでしょう。反面、「先生がおのでぶん殴って、自分を思いどおりに揺すっても、自分で下りる前には、絶対落ちません」という群れもいるでしょう。皆さんはどちらの輩に属しますか。(四六│一五五)

 人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要だということを我々は知っています。
 ある個人が生まれ、成長して、実を結ぶためには、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、最後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。どのような国も必ず創建期があり、次には繁栄期があるのです。その次には、夕方のような期間を必ず経ていくのです。
 一つの生命体として、自体内で生命が実を結ぶことのできる内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見ることができないのです。
 それゆえ、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得るすべての与件を受け継ぎ、その結実のための動機となる自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体となることができるのです。
 人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。かといって、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経たのちには、正しく実効を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。
 例えば、穀物は種が蒔かれて、芽が出て、育って、実を結んだのちにこそ主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的において必要で、収められる過程を経なければならないのです。
 それゆえ皆さんは、皆さん自体にそのような願いを引き継ぐことができる内的要因を準備して、内的要因を中心として外的な環境に再び適用しなければいけないという立場にあることを知らなければなりません。これは、守勢的立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。
 柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見ただけでは、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのかないのか、よく分かりません。その葉があまりにも青々としているために、実があるのかないのか、感じられないのです。実は、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば、実の中まで赤くなります。そうして、葉はみな落ちても、その実だけが一際輝きながら、木についています。
 統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見るとき、一九七〇年代が結実の時代だとするなら、葉のようなすべての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残ったところに、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、そのような柿の木の実のような存在になり得るかということが問題です。
 このような実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが一〇〇パーセント評価することができるのです。そうするために、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時まで、どれほど苦労の過程を経たことでしょうか。
 その実は完熟するまで、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したという事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足りず未熟なままで実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境をみな克服したのです。
 その木が実をたくさんつけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。そのような実だけが残ったならば、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎えるとき、自らの価値と威信と権威を立てることができるのではないだろうかというのです。
 木に花がたくさん咲き、実もたくさん結んだでしょうが、それらが全部落ちてしまって、秋になったのに一つの実も結べず枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どんな木の実とも比較できないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実をもって、数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。
 現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、神様が我々に、ある結実を要求しておらるのです。先ほど言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。
 これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今まで激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どんな結実になるかということが、大いなる問題であらざるを得ません。
 このような立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、ということを点検してみなければならないでしょう。
 実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだということは、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多いために、その実を中心として数十あるいは数百本の木をもつことができます。
 一つの木の実は、その木が十年過ぎても、二十年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続してもらわなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。
 そして、実が育つ過程に、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つように置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられるときまで、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれよりもっと暴風雨が吹きつける時や、どんな試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。
 このような観点から見るとき、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくては、完熟した結実を見ることができないのです。(三六│一〇)


第二節 審判と公認

一 審判の種類

 怨讐を愛さなくては行くことのできない道が、原理の道であるということを御存じの神様が、終わりの日に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。神様は、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教で言う、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。(三一│一六七)

 師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるということを知るべきです。ですからみ言に対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるということです。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。
 その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成すための活動ができなければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。
 まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、すべての法度を守り、実体を成した人たちが審判するのです。一生懸命にした人たちが審判するのです。それが審判です。み言どおりにしないときは、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴するのです。皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人たちが審判するのです。
 皆さんは、どのように行くべきでしょうか。サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。そのように行くのが正しい方向です。
 讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで、うそが通じますか。仕方なくするのは、しないのと同じです。神様と先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じようにです。このように、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身になるのです。
 皆さんは、神様と先生と食口たちが歓迎し得る人になるべきです。それで皆さんは、むいてみたとたんに栗の実のようでなければなりません。我々は、神様のために、「真の父母」のためにそうならなければなりません。そのような仕事をするのです。霊界に行って、神様のために「真の父母」を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。
 それゆえ、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。このようになる日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、なぜ悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探すためなのです。愛を探すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためなのです。皆さんがこのような訓練過程を経ないことには、いくらの人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。
 その時の審判主は誰でしょうか。神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の命令だという事実を知るべきです。(一〇三│二三六)


二 天国に行くパスポートを準備せよ

 誰にも最後の日が来ます。サタン世界で最後の理想世界を立てるためには、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。
 天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家がたくさん現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せることができるのです。
 パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないというのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けないようにするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立までしなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何をもって分立するでしょうか。蕩減の道を通じて分立しなければなりません。
 学者も大統領も、例外ではありません。蕩減の道は、探して行かなければなりません。蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、みな引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落ということを、ひっくり返すために必要なことなのです。
 白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるということを知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(一二九│一八三)

 霊界には、イエス様とか孔子、釈迦のような立派な人たちがいます。聖賢たちも多く、偉人たちも多く、立派な人たちが多いのに、何をもって上がっていきますか。
 またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人が多く、公的に犠牲になった人たちがどれほど多いでしょうか。それなのに、何をもって、どのように上がっていきますか。
 ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場まで踏んで上がることができますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人は歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どのように上がっていきますか。
 そこを通過するためには、証明書が必要です。証明書がなければ通過できません。「私は文学博士の学位をもって行く」と、そのように言って行くことができますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。
 私がなぜこの堕落世界で、この悪なる世界で反対するのを突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらうためです。この世的なことではありません。私が世の中に出ていったなら、誰もうらやましくないほど出世をしたことでしょう。そのような能力をもった人です。(一四六―三三〇)

 イエス様は、天国は相続しましたが、この世は相続できませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それゆえこの世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続したのちに、この世のカインが保証する証明証をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明証をもらって行かなければならないのです。
 堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。このような原則が解けなかったために、今までの六千年の歴史が、繰り返しの連続だったのです。ですが、今分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)というみ言があります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度まで愛すべきでしょうか。怨讐であるカインまで愛さなければなりません。(三四│二七八)
 人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こいつ7 お前と組んで私がこのようになったから、お前を屈服させて、私は帰る」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受けることはできません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行くことはできないのです。
 どのようにしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利したとき、その立場でサタンが涙を流しながら、「あなたと私は永遠に違う」と認めました。(二四│三三七)

 カインを屈服させるためには、終わりまでカインを愛し切らなければなりません。そのような人でなくては、カインを救うことができないのです。
 皆さんが天国に行くには、サタンの証明証をもらわなければなりません。サタンの証明証とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない7」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。
 それゆえ、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、そのようなことをしようというのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれたことです。怨讐を愛せというのです。彼らのために福を祈ってやらなければならないのです。そのようにしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰ができないのです。父母に帰ることができないのです。(四八│三一六)
 キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方の津液を受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。そのようになると、歴史時代のすべての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今まで結ばれている歴史的な条件が、その場で全部なくなるのです。
 沃土、暖かいねぐらのような基盤ではなく、砂利の多い土地のような所で、接ぎ木されるというのです。
 今までサタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならないためです。それは神様がしてくださるのではありません。神様が自由にしてくださるなら、六千年前にすべてしてくださったのです。
 刑務所から出てくるために、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それゆえ、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくることができないのです。それゆえ、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてやろう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。
 統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けると言っても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(一七│一二四)

 天国に行くパスポートを、何もせずにもつことはできません。ただ座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測ったのちにこそ、本物になるのです。(一二九│一八六)

 天国へは、どんなにきれいで純粋な心をもっていたとしても行くことができません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。
 滅びゆくこのアメリカに行ってくるためにも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入ることよりも難しいのです。あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それゆえ、統一教会でなく、統一大学です。天国の大学だというのです。ですから、先生が地上で指示したすべてが、あの世に行く時において条件になるのです。「これができなくては行けません7」と、このように言えば、先生を見て「何もしないで命令だけするのではないか」と言うでしょうが、先生はそれをみな実践して命令するのです。なぜそうなのでしょうか。「真の父母」なら、教えてあげなければならないからです。
 先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談できません。ここにドクター・ダーストが来ているとしても、復帰摂理路程を相談できないのです。相談するようになれば、天使長が讒訴するのです。天使長は、人間を堕落させた張本人です。それゆえ、神様と先生以外は知らないのです。
 今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は、統一教会を誰かがなくすことはできず、先生を誰も監獄にほうり込むことはできないのです。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生むことは、忙しいことではありません。皆さんは、いつ死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆることが、たくさん起きるのです。いつ、どの瞬間に行くか分かりません。
 祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視して、自分たちだけでおもしろく暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出ることができますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいるために、世界圏にまで上がることができていません。長成期完成級にいるために、世界を越えなければなりません。そのような過程にいるために、越えなければならないのです。
 先生が、霊界に行くことができる道をみな準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。
 先生は無能力な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は、踏まれることを嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。そのような基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どのように行くべきかということがはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんは、お嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。
 自分が生きるということは、霊界に拍子を合わせるためのものです。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々、統一教会を信じていった人たちが霊界に行くときには、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。
 先生が今まで教えたことすべてが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんがすべて入れるわけではありません。(一四六│三三七)

 「悪魔を追放しよう7」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙してきた悪党、サタンのしてきたすべての行動を、公儀の裁判長である神様の前に、検事となって讒訴しようというのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようというのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には、弁護士がいません。しかし、人間には弁護士がいるのです。
 イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。
 イエス様の名で善なる立場に立てた人たちは、悪魔が引いていくことはできません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私は文先生がこのような方だとは知らなかった7」と言っているのをたくさん見ました。夢のような話です。皆さんの従う先生は、そのような人です。高次元の世界、五次元世界以上の理論をもっている責任者なのです。私に従おうとすれば、そのような内容を知らなければなりません。(一四九│九八)

 我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、ほかの国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入ることはできないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴できないのです。(一四八│二八七)


第三節 霊界入籍

一 天国市民が楽しむ自由

 女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行くようになっているのです。外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行くようになれば、神側に近づきます。内的に行くすべを知る人は、外的な側にも思いどおりに行くことができますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来ることができないのです。
 では、統一教会の人たちは、どのような人になるのでしょうか。内的世界にも入るすべを知り、外的世界にも出ていくすべを知り、また、出てから入ってくるすべも知り、東西南北を訪ねていくことができる人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうというのです。
 外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善なる霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来することができれば、地獄にも行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。
 神様は、地獄に自由に行くことができます。手続きを踏まずに行くことができます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。(一一六│一七七)


二 霊界に行くときもっていく贈り物

 霊界の神様の前に行くときに、もっていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、そのようなことではありません。そのようなものは贈り物にはならないというのです。そこには世界のため、神様のための愛をもっていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第三章十六節に、「神はそのひとりごを賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛するために来た人です。
 それゆえ、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないということなのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、神様がどうでということは考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺めるとき、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、神様を愛さなければならないのです。(九八│三二九)

 いくら殺人強盗だとしても、証拠物がないときは、判事でもどうすることもできません。強盗が、「私が殺人をしたのをいつ見たか」と立ち上がれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だにできません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、そのようなものが証拠だと思いますか。そのような証拠をもって何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないということです。
 皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のためだと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行きながら、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。
 皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が、皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人たちであるということを忘れてはいけません。
 皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっとかわいそうです。乞食たちは時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。
 このような責任を完遂するのに、神様が「十年間にせよ」と言ったなら、十年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どのように短縮させますか。神様が計画した十年という期間を、七年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を収拾することはできないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を負って行く人たちにならなければなりません。
 そのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はみな終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なため、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされるすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
 自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。
 ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(三二│七一)


三 三大主体思想と入籍

 心は、神様の代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。ところで、これまでこの心を、どれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾するためにどれほど犠牲になってきましたか。
 蔑まれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えをもって明け方にどろぼうでもするようになれば、「おい、こいつ7」と、再び忠告するのです。皆さんがそのような心を、どれほどもてあそびましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。
 父母の前で堂々とできない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、神様の前に恥ずかしい自分です。そうであるために、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。
 本郷では、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、宇宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「ため」にする愛、「ため」にして忘れることができる愛の本質があるがゆえに、この三大主体思想が天国を代表するのです。
 自分自身が、その三大思想を全部備えるなら最も理想的ですが、それを全部備えられなくても、「真の父母」の立場に立てば、主は右、主人は左に立つのです。それゆえ、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真なる父母になるなり、真なる師になるなり、真なる主人になるなり、いずれか一つの立場だけにでも立つようになれば、天国入籍は問題ないのです。(二〇九│一五四)


四 入籍の条件

 堕落とは何かというと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。
 我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。
 もしそのようにつながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法をもっては、処理できないようになります。アメリカ人たちを韓国の国法をもって処理することができますか。国籍が違うからできません。
 そのような圏内に入れば、その圏内の法だけが適用されるようになります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどのようにしても適用されないのです。サタン世界の法が適用されないのですから、結局はこの世の法をもってしてはいけないということです。ですから、地獄には行かないようになるのです。
 人は一度生まれたなら、一度は死ななければならないのです。それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。統一教会員は、霊人体があるということを知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。
 これから、皆さんに問題となることとは何かというと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。統一教会に入ってきて何をしたか、その記録の内容が何かというのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしいことです。今に、そういう時が来ます。
 これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。そのようなすべてのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行くための蕩減条件になるのです。あの世に行って、皆さんがその道を行くために、心で体恤しながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかということが問題になるのです。
 救いの道というものは、今まで生きてきた、そのままの習慣的生活を通じて得ることができるものではありません。完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は、復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それゆえ、再創造されるためには、堕落する前と同様に、本然の位置、ゼロの位置に帰らなければならないのです。
 そこには、意識もなく、習慣もなく、金氏とか李氏とか、自分の姓もないのです。そのようなゼロの位置に帰らなければなりません。天の創造本然の基準から見ると、造られたすべての万物は、ゼロから出発したのです。
 ところで、人間が堕落することによって、天国に行く途中、その道に反することが人間世界にあふれているのです。これを切ってしまわなければなりません。それは言葉ではできません。すべての民族が、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血統と因縁を結んで歩んできた歴史的文化背景の中で、習慣性、あるいは風習が混在しているために、これはそのままでは除去されないのです。
 聖書は、「死なんとする者は生きん」と言いました。歴史的な論理がそれで成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。自分の生命を投入しなければならないのです。それで、このすべてを洗濯すべきです。言い換えれば、蕩減して、復帰しなければならないのです。そのような過程が、絶対に必要なのです。
 堕落世界で所有していた習慣性とか、罪悪性が残っている限り、神様と関係を結ぶことはできないのです。(二一三│九七)

 皆さんが霊界に行くとき、一週間以上神様のために断食ができなければ、あの世に行って入籍ができません。なぜでしょうか。神様は、六千年の復帰歴史路程で苦労されたので、それを考えながら断食をしなければならないのです。それで、統一教会では、七日断食期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、神様の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためなのです。(一七│一八三)

 我々はどのように暮らすべきでしょうか。その方法は、個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天地、天地は神様のために、神様の愛のために生きることです。このように生きて、死んでいくのです。
 我々は、他の人たちとは違うのです。伝統がしっかりと立っているのです。なぜそうでしょうか。伝統を立てなければ、あの世に行って入籍する所がありません。あの世がそのような組織になっているから、そこに合わせなければ、入籍することができないのです。
 堕落していない本来の人として再現して、帰らなければなりません。そのような人にならなければ、入れません。これが原理観です。(一三一│五六)

 皆さんは、天国に入籍をしなければいけません。アブラハムは、神様の近くに行くため、祭壇の上に自分と共に万物を捧げました。万物を失ったために、それを復帰の条件とし、人を失ったために、アベルの位置に立って、万物をアベルの立場に立ててカインに条件を立てさせ、神様に捧げるのです。そのようにして初めて、神様は受け入れてくださるのです。(一五│一五三)

 皆さんが入籍するのに先立って、絶対的人間として生まれるためには、どのようになるべきでしょうか。これをはっきりと知らなくては、絶対的に完成品に代わり得る位置、すべてに勝ち、自分の主体性を天の前に主張することができるその位置に訪ねていくことができないのです。
 我々人間は、神様を中心として生まれました。どこまでも出生の動機は、創造主です。創造主によって生まれたのです。創造主の何によってできたのでしょうか。これが問題です。創造主がダイヤモンドが好きで、ダイヤモンドを任せるために我々を造ったのか、権力が好きで、権力を相続させるために造ったのか、知識が好きで、すべて知識を伝授するために造ったのでしょうか。始まりの起源、出発の起源とは何でしょうか。これが問題です。
 絶対的な神様が起源となり、彼によって内的に因縁を結んで生まれた自分を主張したとしても、これから本郷の地に帰るプログラムを正確に知らなければ、その進行上のすべては未完成として結論づけられるようになっています。
 自分の出生の動機は、どこまでも我々の父母によるのです。父の生命、母の生命が、自分をつづって出生させたのに、二人の内外の人格を伝授されるにおいては、生命同士がぶつかって出てきたのではないのです。生命に先立って、このことをつなげる根元的な作動があったのですが、その作動の動機とは何かというと、愛というものです。
 生命が貴いか、愛が貴いかという問題について見るとき、生命は第二の位置にあるのです。愛が第一の位置です。
 入籍のために本郷の地に行くべきですが、本郷の地に帰ることは簡単ではありません。手続きを踏んで、完全に合格しなければなりません。どの窓口に行っても、どの地へ行っても、大韓民国のどこへ行っても入籍することができる窓口があります。そこへ行けば甲という人、乙という人、丙という人、ありとあらゆる男女が入り口に座っていても、その人が判を押してあげなければならないのです。(一七七│三〇五)


五 霊界の族長になる人

 神様と一つになったなら、カインを愛さなければなりません。神様の愛を受ける立場に立ったなら、心を尽くして、命を尽くして、思いを尽くして神様を愛するのと同じように、氏族と民族と国を愛さなければなりません。これが地上の第一の戒めです。天国の戒めではなく、地上天国の戒めです。天上天国の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)ということですが、地上天国の一番の戒めは、「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、あなたの国とあなたの民族を愛せよ」ということです。
 それゆえ、神様の愛をどのように植えつけるか、神様の権能と天国の畏敬性にどのように因縁づけるかということが問題なのです。そうするには、自分を中心として、横的に広がった舞台をもたなければなりません。そのような人が、霊界に行って、神様の威厳を永遠に相続することができる支派長や族長、祭司長になるでしょう。(三四│七〇)

 これから神の国を中心として、入籍時代が来ます。十四万四千の群れに入ると言うでしょう? 十四万四千とは何か分かりますか。入籍時代に向かっていくには、自分の氏族圏が、天国の故郷の地と同じ立場にならなければなりません。それでこそ天国の入籍時代に、氏族的に入籍するのです。
 個人の救いの時代は、過ぎるのです。一国の大統領が、統一教会に入教して宣誓すれば、その人たちも天国の眷属になり、教会が提示する礼式を経てさえいけば、みなサタン圏から脱するのです。(二一九│一〇〇)

 いつか我々が考えるべき重要な問題は、自分の体と心を統一して、妻と一族を結ばなければならないということです。体が蘇生なら、夫婦は長成、氏族は完成です。それゆえ、皆さんの氏族を一つにしなければなりません。南北統一されれば、その次には、入籍が起こります。
 そのような時代に、恥ずかしくないように、同参することができなければなりません。その時は、皆さんが統一教会に入ってきた以後の歴史を、みな記録しなければなりません。間違っていれば、あの世で引っ掛かります。何をしたかというすべてを、いちいち明らかにしておいて、それを踏んで越えていくとき、この事実が自分をつかむようなことがあってはいけません。讒訴条件にならないように、記録を残しておいて越えていってこそ、初めて入籍時代に入るのです。(二一三│二〇六)





























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