地上生活と霊界
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第七章 我々と霊人との関係

第一節 霊的現象と霊人の解怨

一 善霊界と悪霊界

 霊界は、二つのグループになっています。霊界は、サタン世界と神様の世界になっています。霊界のサタン世界で、善の神様の世界に早く行くことができる道さえさらけ出せば、地上は自然に解決するのです。その道は、どのように行く道でしょうか。霊界のサタン世界に行って、個人、サタン家庭、サタン氏族、サタン国を全部天側に引き継ぐ秘法さえもてば、それが可能なのです。
 霊界にそのような時が来れば、地上にもそれが反映するために、すべての変遷が早くその世界に転がって越えていくというのです。(一三四―一五)

 我々が実践する新しい運動とは、何の主義でしょうか。神様がいるなら、神意による主義です。神様がいるなら、霊界があるでしょう。霊界があるなら、霊界は今まで歴史始まって以来、数多くの我々の先祖たち、今生きている数多くの人たち、これから来る数多くの人たちがみな行ってとどまる所です。
 霊界にも善の霊界、悪の霊界があるでしょう。悪の人たちは、必ず悪の霊界に行かなければならないでしょう。もし神様と何かの関係を結ぶことができる人間が残り得る一つの集合体が霊界なら、その霊界も不可避的に二種類になるのです。これは悪の種類、善の種類です。
 では、いったい悪の種類とは何で、善の種類とは何でしょうか。神様も悪の霊界と善の霊界が和合して、人間世界が和合できることを望むでしょう。それで各自がもった目的も達成すると同時に、各自が全体目的も達成することができる、理想的二重結果の立場を追求するだろうというのです。人間には、二重目的、個体目的と全体目的があります。
 今まで人類歴史は、何を追求してきたのでしょうか。善とは何であり、悪とは何でしょうか。なぜこのように塗炭の苦しみの中に暮らさなければならず、壁にぶつからなければならないのでしょうか。その出発点から、行く過程、終着点の内容が異なるためです。内容を分析すれば、簡単なのです。(一二六―八三)
 霊界がどのように発展し、どのように動き、この地上と関係を結んでいくかという全般的な内容を知らずには、これをはっきりと知ることはできません。霊界というなら、善の霊界と悪の霊界、このように二つに分けることができます。その世界は、実在する世界です。地上世界の人たちには分かりませんが、そこは、確実にある世界です。
 霊界でも、善の霊人たちと悪の霊人たちが闘争しているのです。霊界にも闘争があるのです。善の霊は、悪の霊を扇動しながら良い所に連れていこうとし、悪の霊は、善の霊を何としてでもいい所へ行けないように妨げる闘いを続けています。
 サタンを中心として、悪の霊がつながっていますが、その悪の霊の統治圏内に、今日地球星の人間たちが暮らしているのです。それは、なぜそうなのでしょうか。今まで行った先祖たちは、善の霊も悪の霊も、全部霊界に行っているために、その善の霊も、堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて善の側に立っているのかと、神様が御覧になるとき、完全な善の立場に立っていることはできないのです。
 神様の本然の理想世界、本然の人間になることができる、理想的善圏に向かっていくにおいて、善の霊たちはそこへ前進しようとし、悪の霊たちはそれを妨げようとしているのです。悪の霊界と悪の世界というものは、いつでも通じます。いつでも連絡できます。善の霊は、悪の世界で対立して、反対される立場で生き、死んだ霊なのです。それは、宗教を信じて行った霊人たちです。(一三四―九)


二 霊的現象

 最後に、もし宗教同士互いに戦うなら、どのようになりますか。そのような現象が起こりやすい時代にあります。そのような時代を防備するために、統一教会が生まれたのです。統一教会は、それを防ぐための防備材です。
 それで、宗教戦争時代には、霊肉共に防備するのです。霊界は、地所を占領しているのです。
 霊界には、霊人が何千億もいるでしょう。日本の一億は問題ではありません。それは、足の下のほこりほどにもなりません。数千億、数万億の霊人たちが、地上を占領するための攻略をしてくるのです。ノイローゼ現象がその一つです。
 二〇〇〇年代を越えれば、その時はみな霊的に通じるかもしれません。悪霊に通じるなり、善霊に通じるなり、霊的に通じるようになれば、「戦争をするな」と言っても、戦わざるを得ません。そうする時が来るかもしれません。それを防備しなければならないのが、「統一原理」の使命です。
 高いアンテナには、ピーピー音が出ます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいことは、悪霊だけが動員されて地上攻略をしてくることです。そうした場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球星に満ちたとしても、悪霊に攻略されてしまうのです。それで、神様はそこまで準備していらっしゃるのです。善霊たちを中心として、霊界の基台を広げてきているのです。(五五―三〇)


三 霊界から来た手紙

 この前、李相憲さんの奥さんの閑淑さんから、霊界から手紙が来たのです。その手紙の内容はどのようなものかというと、「霊界がどれほどいいか、祝福がこのようにとてつもないとは思いませんでした。天国の皇族圏内に入ってきているという事実が、夢のような話です。あまりにも素晴らしくて、あなたより私が先に来たのが申し訳ありません。許してください」というものでした。夫より先に死んで、霊界に行ってみると、統一教会を信じて行ったために、豪華絢爛な夢のような事実が繰り広げられたので、あなたよりも先に来たのが申し訳ないと言うのです。あまりにもいいからそうなのです。
 私のような人は賢い人です。その世界がよく分かるために、そのプログラムに合わせるために、一生の間暮らすのではないですか。根源から来たので、根源に帰らなければなりません。
 海に集まった水が水蒸気になって大気中に上がり、雨となって降り、川ができたのではないですか。ですから、本然に帰らなければならないのです。すべては循環運動を通じて生命が連続するのです。循環しなくなれば、全部元素に帰るのです。
 神様はどんな方でしょうか。神様は、宇宙の存在世界の心のような方です。神様は宇宙の心のような方です。
 皆さんは、心を見ることができますか。霊界は心のようなものが体と化した生活の世界ですが、これは時空を超越した所です。そこでは、御飯を思いどおりに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲料水の心配をする必要がありません。服の心配が必要ありません。衣食住のすべてを超越します。
 そこに自動車が必要ですか。自動車工場、食品工場、服の工場、織物工場があるでしょうか。みなありません。そこでは、億千万里を瞬間的に往来するのです。何の力をもってするのでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいとすれば、すぐに現れます。
 愛の速度というものは、最高に速いのです。愛の行く道は、直短距離を通じるのです。それは世の中の愛ではありません。神的な愛です。神的愛が真の愛です。真の愛の圏内に入るようになれば、直短距離を通じる最高の速度で行き来することができるために、宇宙を自分の考えの圏内の舞台として活動することができるのです。先生は、そのようなことをみな知っているために、世の中の万事に対して、悲しい苦痛の谷の道を一人で行きながらも、生涯、開拓者の一線に立って経てきながらも、恨まずに来たのです。今も、死ぬ日まで直行しようと決意をしているのです。
 死ぬようになれば、霊界の軌道があります。レールがあるのです。地上のレールと霊界のレールは、国境を越える線路と同じです。これは狭くてもいけないし、高くてもいけません。合わなければならないのです。そのようなことが分かるのは、宗教の中で統一教会しかありません。いくらキリスト教が何だかんだと言っても、それは分かりません。イエス様が霊界の話をしましたか。
 二十世紀後半期、先端科学を誇るこの時代に、公式的な発達の論理を追求する現時代に、公式的過程を通じた宗教的理論を通じて、神様を実証することができる内容をもった所は、統一教会しかありません。(二一〇―二二五)

 今は、イエス様が反対された時代ではありません。韓国全体が世界的な版図をもった歴史性を中心として、先生をたたえることができる時代が来たために、皆さんは氏族的メシヤの責任を果たさなければなりません。今、一族たちは、瞬間的に姻族の八親等まで復帰されるのです。六カ月に百二十家庭は問題でもありません。今、このような兄の立場に立ったのです。
 天地が開闢するのです。おじいさんが孫になり、お父さんが息子の立場に立つのです。孫が王になるようになれば、おじいさん、お父さんが自分の先祖たちに侍らなければならないのと同じ道理です。メシヤが王権を代表するのです。その国では、すべての聖徒たちが再臨して、キリストの名で王の役割をするのです。ですから、これは氏族的王権になるのです。そのようになれば、国家的世界の版図圏に、王権が同参ができる解放圏になるのです。
 今回、李相憲先生の奥さんの閑淑さんが霊界に行って、そこから送った手紙があるのです。「霊界に来てみると、いいのです。祝福されたら、こちらに上がってくることができるのです。天の皇族が何のことか分からなかったけれど、今来てみると、本当にとてつもなくいいのです。あなたより私が先に、このようにいい所に来てごめんなさい」と言ったのです。そのような所です。
 広大で永遠な世界が本郷に繰り広げられるのに、そこで活動地域を制限され、方向感覚を失ってしまい、かわいそうな行動をする男たちにしたくないから、広い大宇宙でも東西南北、四方を自由に旅行することができる、明らかな解放圏をつくるために、こうするのです。
 後代を準備するためには、何かを残しておかなけれなりません。自分の後孫たちを、豊かに暮らさせるために、国に良いものを残しておかなければなりません。そうすれば、国の人たちが保護するようになります。お金や知識や権力を残しておかずに、愛国的な功績を残しておきなさい。すべての人が「滅びる」と言いましたが、先生は滅び得ない準備を鉄石のようにしたのです。ですから、滅びようとしても滅びないのです。(二一三―一四六)


四 霊人の願い

 霊界に行っている人間たちは、何を願うでしょうか。霊界は、自分が置かれている基準で、すべてを補給され得る世界です。
 自分が願うなら、即時的です。消化して動かすことができる主体的な能力がある人ならば、不可能がない世界です。このような話をすると、「気が狂った人だ」と言うから、私は話をしません。
 もし百万人の宴会をするなら、考えると同時に百万人が広場に現れて、すべての準備が可能であるために、百万人の宴会を瞬間的にすることができるのです。今日、この地上世界がどれほど悲惨ですか。このごろの韓国社会を見れば、失業者が多いではないですか。そのような世界です。何が可能になるでしょうか。原子力の分裂作用において熱が出るのと同様に、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬間的に可能になります。そういうことが、あるようではないですか。(一四一―二七八)

 あの世界は、どのようになっていて、つながっていくのでしょうか。あの世界においても、現在の立場より、あすの立場が良くなるのを願うことは同じです。
 地上で暮らす人間たちが生活する中で、きのうよりきょうが良いことを願い、きょうよりあすが良いことを願うのは、共通真理です。西洋人も東洋人も、昔の人も今の人も未来の人も、誰に限らず、現在生きているより、良くなることを願うのは、共通真理だというのです。これは変わりません。
 霊界に行っているすべての霊人たちも、それと同じなのです。現在より良くなるべきだというのです。地上で生活した時より、良くなるのを願うのです。(一四一―二六九)
 今までの六千年の歴史は、アダム一人を探してきた歴史です。アダム一人を再創造する歴史です。それゆえ皆さんは、先生についてこなければならないのです。エバはアダムが出てこなくては、創造されることができません。それゆえ、たった一人のアダム、たった一人の男性を創造するのです。
 その一人を創造するためには、復帰摂理の途上に生まれては死んでいった数多くの人たちの血と肉が材料にならなければなりません。億千万の霊人たちの恨みが、ここにまとまらなければならないのです。そうして、この実体が登場する日に初めて、激しい迫害の中で血を流して死んでいった殉教者たちは、殉教したことに喜びを感じるようになるのです。
 たとえ霊界にいたとしても、地上にいる実体と関係を結ぶことによって、自分たちにも解放がやってくるのです。このようになっています。それが観念的で漠然としていてはいけません。この自覚を、どのようにするかが問題です。(二九―二七一)

 我々は、そばで誰かが食べていようと、休んでいようと、何をしても関係なく、その道を行くべきです。ずっと前まで、数千名が一様にみな行っているのです。休まず動きながら、精誠を捧げて身もだえしながら行くようになれば、他の人たちもその縄を巻いてくれるのです。ですから、数多くの人たちがそこから落ちるのも、感じるようになるのです。
 マラソン大会をするのと同じです。走ってみれば、一等も出てくるし、二等も出てくるのです。歴史がそうです。今まで数千年間、数多くの霊人たちがその縄にしがみついてきました。その中で、一等になってあの世に行って、その巻く装置と因縁を結んで、丸ごと巻いてやるようになれば、霊界と肉界が復帰されるのです。(三二―一四五)


五 霊人の解怨

 我々は、三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日この罪悪の世の中に生きている人たちを解放し、これから来る後代の人たちも、ここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもって出てくるのです。
 これは膨大でとてつもないことです。このような夢のような内容が、事実として現れればどうなるでしょうか。目が真ん丸くなり、口は限りなく開き、耳はぴんととがるでしょうが、頭は下がるようになるのです。(二八―二〇一)

 統一教会は、何をする団体でしょうか。平和をつくるための団体であり、和解をさせるための団体です。ところで、誰と和解をつけるのでしょうか。イエス様と聖霊が今まで、このことをしています。出産の使命を果たすのです。イエス様と聖霊が果たすべき使命は、息子、娘を出産することです。
 聖書を見れば、「子を産むことによって救われるであろう」(テモテT二・一五)とあります。女性たちは出産すれば救いを受けるとあるのに、既成教会の人たちは「女は赤ん坊を産んではいけないのだ」と言います。そうであるなら、神様が女性に赤ん坊を産む器官をなぜつくったのでしょうか。それは、女性を代表したエバに代わって再び出産しなければならないということを象徴的に言ったのです。
 エバは霊と体を身にまとって本然の母の性稟を結実すべき本性的主体性をもった立場にありましたが、相対的基準に立てなかったこととによって、実体化することなく、神様がそれを再び神様のもとに収めたのです。そうして、それをイエス時代に、主体の前に対象として送ったのです。それで、それには体がないのです。イエス様は体がありますが、聖霊には体がないのです。それで聖霊を、火のような聖霊、油のような聖霊、風のような聖霊と言うのです。
 ですが、母的使命を果たして、我々人間の心に入ってきて感動を与えて罪を洗う役事をするようになれば、きれいになるのです。それは、母が妊娠をして、赤ん坊を育てるのと同じです。そのようにするには、父の保護を受けなければならないように、イエス様の保護を受けて、再び生まれたという条件に立ってこそ、重生になるのです。生まれ変わるという言葉が成立するのです。
 イエス様と聖霊が、今まで休んだことがありますか。休めませんでした。キリスト教が休んでみましたか。休めませんでした。神様は今まで六千年間、堕落した人間を救う摂理において、休んでみたことがありますか。休んでみることができなかったのです。みな休めませんでした。では、統一教会は休んでみましたか。統一教会の先生が休んでみましたか。今も、年が五十歳を越えても、驚いた鹿のように跳んで回るというのです。
 なぜそうなのでしょうか。和解をさせ、神様を休ませ、イエス様と聖霊を休ませ、我々の先祖たちをみな楽にしてあげるためです。
 神様も先祖でしょう? キリスト教で言えば、生まれて死んだ先知先烈たちが全部先祖なのです。宗教で言えば、昔から生まれて死んでいったすべての宗教指導者たちも、全部先祖なのです。そのような先祖たちを解放してあげなければなりません。先祖の恨みを解怨成就してあげなければなりません。(七五―三八)

 先生は目が覚めさえすれば、もう便所に行きながらも考えるのです。寝ても覚めても二十四時間考えるのです。それゆえ、皆さんに借りをつくる男ではありません。借りをつくる男ではないのです。どれほど劣っていれば、責任者が借りをつくるかというのです。
 先生が若い人に負けてはいけないと思うのです。このごろも、船に乗って毎日のように出掛けるのです。アメリカにおいて、これから海に関心をもつ人が無限な繁栄圏をもつようになるということを知っているために、そういうことをしているのです。
 海で死んだ霊界の霊人たちを解怨してあげるために、先生がそのことをしているのです。ある時は、台風が吹くという警報を聞いても、船に乗って出るのです。そのようにして死んだ霊たちが、多くのことを知っているためにそうするのです。私が一九七五年にケープ・コッドに行って何をしたかというと、霊人たちを解怨させてやったのです。解放運動をしたのです。それは、世の中の誰も知らないのです。
 では、反対されるのに、なぜそのようなことをするのでしょうか。それは、霊界の解怨のためにするのです。(九三―九六)


六 霊界統一

 肉的世界はサタンの活動舞台であり、霊的世界は神様の活動舞台になって、いつも食い違ってきました。これが復帰摂理時代に恨の与件として残っているというのは、間違いない事実です。これを食い違えさせてはいけないのです。神様を中心とした心の圏と、神様を中心として治められる体の圏を備えなければなりません。生活圏内でこれをどのように発展させるかというところから、統一基盤の基準が確立されるというのです。(四五―二一三)

 この世界が統一されるためには、霊界から統一しなければなりません。皆さん、霊界が分かりますか。霊界を知らなければなりません。霊界を統一しなければなりません。霊界を統一するのは、たやすいことでしょうか。霊界の統一なくしては、地上の統一がないのです。今日、この地上の戦いが実に大変でしょう? 地上の戦いが大変です。しかし、霊界の戦いは、地上の戦いより難しいのです。このようなことを考えるとき、今日、「大変」という名詞を口を開いて言うことができません。(一五三―五六)

 理想を探していく過程で、霊的なものと肉的なものが一つになるのは、何によってでしょうか。霊的な世界は霊界であり、肉的な世界は地上世界ですが、霊的世界と地上世界が一つになるためには、すり替えなければならないのです。自分のものをもってはいけないのです。全部与えてこそ、あちらが来て、またあちらから全部与えてこそ、こちらがあちらに行くのです。失ってしまった立場に行くのです。(一四七―九四)

 我々がこれから霊界と肉界をつなげるには、まず世界的な信念の自覚、統一的な理念の自覚をして、世界的に打開するための受難の道を甘受していかなければなりません。こうするようになれば、霊界と肉界が自動的に一つになり、ここから統一が繰り広げられます。統一の道を行く方向が決定されるのです。(二九―二八五)

 統一教会が霊界を統一する前に、肉界を統一することができますか。できません。それが原則です。それゆえ先生は、霊界を統一するために、肉界にいる皆さんを死地に追い出すのです、無慈悲にたたいて捕まえるのです。
 そのようになれば、霊界は皆さんに協助せざるを得ないのです。皆さんが悲惨な立場に入れば入るほど、それを中心として、霊界は霊界なりに団結するようになるのです。皆さんが深い立場に入るようになれば、三千万の民族の中で天国圏が繰り広げられるのです。この圏は、昔から地獄に行っている輩までも含まれるのです。(四九―一〇九)


第二節 地上人と霊人との関係

一 地上人と霊人

 この世界は、悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねてこなければならないのです。皆さんは、いつ死ぬか分からないではないですか。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来することができる基盤を地に築いて行かなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
 霊界に行ってから、来ることができなければいけないのです。地上に天国を成せなければ、地上に来れないのです。これは妄想ではありません。そのようになっているのです。永遠をかけて、しなければならないのです。先祖たちが、全部責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこにみな引っ掛かるのです。(一四六―二二三)

 宗教として行くべき道、あるいは、一般の世界が行くべき道が、互いに塀でふさがっています。不信者がどのように信仰する人と和解することができ、また信仰する人が、どのように世紀末時代に来て和合することができるでしょうか。これを解決しなくては、人類は二股に分かれて、新しい一つの世界に入れないようになっているのです。
 もし二股が一つの世界に入っていくことができるというなら、その世界は二股の世界の結果をもたらすようになるのですが、それは絶対的な神様が理想とするものになり得ません。一つであるしかない神様の理想世界に、二つとも到達することができないと見るのです。それゆえ今日、多事多端な世界的事件が問題解決の焦点ではなく、体と心をどのように一つにして、目的に向かって飛躍することができる自分自身を発見するかという問題が引っ掛かっているのです。
 宗教と世界統合を、自分自身から探さなければならないという観点で見るとき、統一教会は、何をする教会かという問題がここに台頭するのです。統一教会は、宗教だけのための宗教ではありません。統一教会は、この世と一致和解して、宗教的活動基盤が、社会的活動基盤に同伴することができる道を探していくべきであり、また、世の中が宗教分野の道を探していくことができ、これが一つになり得る道を模索しなければなりません。ここには、大きな塀が横たわっているのです。宗教と社会が一つになるにおいて、個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に、霊界まで塀で妨げているのです。
 この塀をどこから壊すのでしょうか。故障はどこから生じたのでしょうか。世界の果てで生じたのではありません。個人に生じました。個人が、自分を中心として故障する結果、体と心が分かれました。体と心が分かれて、いく筋も指向する、自分なりの目的をもって行くようになる結果になったのです。ここから問題となるのは何でしょうか。目的をどのように一つに帰一させるかという問題、分かれた体と心をどのように一つにつなげるかという問題があります。
 神様とサタンがいるとするなら、神様とサタンが働いています。神様は、今まで人間を救うための復帰摂理をしてこられ、人間を救うための求道の摂理を指導してきています。それに反してサタンは、神様の摂理に反対してきています。善側の神様は、摂理の方向において一つの理想世界を目的として、毎日毎日より分けていきながら、その目的に接近できる道を推進させていく反面、悪神のサタンは、そちらに行ってはいけないと言いながら、反対の道に妨げているのです。
 一つの境界線、一つの塀を中心として、神様は「塀を越えるな、お前は右に行かなければならない」と言いながら妨げて、サタンは「お前は左に行かなければならない」と言いながら妨げているのです。それで分かれるのです。右に行くための人間の出発が実を結んだのが右翼であり、左に行けというのを世界的に展開させてきたのが左翼です。この左翼と右翼の世紀末的な歴史時代に対するようになる時が、今です。この右翼と左翼は、心と体が戦う結果を表したものです。
 では、これをどのように一つにするか、これが問題です。世界が一つになり、国家が一つになり、氏族が一つになり、家庭が一つになって、個人が一つになるのでしょうか。違います。出発をどこからしなければならないかと言うと、個人からしなければなりません。ですから、この世界において、急がなければならない問題は、個人から一つにする運動をしなければならないのです。それで、宗教の中で現実がつながり、現実の中で宗教がつながって、互いが否定できない自分自身を発見しなければなりません。
 ところで、ここで問題となるのは、悪神が体を支配しているのです。悪神の根は自分の体を中心としており、先生の根は自分の心を中心としているのです。それで、唯物史観と唯心史観に分かれるのです。世の中の言葉は、ただ出てくるのではありません。その時代的な時が来るに従い、罪人は罪人であることを告げなければならないようになっているのです。「私はこうだ」という事実をありのままに告げなければなりません。我々人間が、世界的舞台を中心として一つになれるかなれないかという結果的事実は、善神と悪神が世界の基準で証すのです。自分がそこに包括されており、包容されているために、それを測定できず感じられないだけであって、善神と悪神はそのような立場で、世界舞台で戦っているのです。(一四五―一五)


二 霊人たちの霊界での立場

 今日地上には、四十億の人類が暮らしていますが、霊界には数千億の霊人たちが暮らしています。それゆえ、地上のこの世界と、我々が眺める主体となる霊界が、どのようにつながっているかというのが問題です。我々が貴く思う物質を中心としてつながっているのでしょうか、知識を中心としてつながっているのでしょうか、我々が地上で重要視する権力と同じ内容を中心としてつながっているのでしょうか。そうではないのです。
 なぜかと言えば、あの世界は、物質世界を超越した世界だからです。あの世界は、知識の世界を超越した世界です。時空を超越している世界であるために、きのうの喜びがきょうの喜びになり得、きょうの喜びがあすの喜びになり得る世界なのです。
 このように見るとき、その本質の世界は、今日人間世界に暮らしている我々が必要として、重要視する内容を中心としては動かないのです。霊界の生活のすべての価値的な中心とは何か、それが重要なのです。
 霊界に暮らす人たちは、各個人が霊界の社会に属しています。霊界にも人間世界と同様に、霊界の家庭があり、一族がいて、一つの国があり、世界とつながっています。
 今日、地上に暮らしている人は、好きでも嫌いでも、誰に限らず、死んでとどまる所が霊界です。そこには未開人から文明人まで、歴史時代に生まれて死んだ千態万象の人間の群像が集結しているのです。
 今までの人類歴史が、平和を中心とした人類歴史になれず、幸福を中心とした人類歴史になれず、理想を中心とした人類歴史になれなかったなら、霊界に行っている人たちは、どのようになるのでしょうか。どのように治められるのでしょうか。ここで暮らした人が、あの世界に行って突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう? 生まれもった性格は直しにくいのです。
 このように見るとき、あの世に行っている霊人体たちは、我々が今まで暮らしたのと特別に違うのでしょうか。突然変わるのでしょうか。そうすることはできないのです。ここで暮らしたその形、そのままで収穫されていくのです。
 霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上に暮らしていた人たちの霊人体です。そのように見れば、今日この人たちが暮らしている世の中と、別に違いのない世界なのです。(一四一―二六八)

 霊界は、今まで数多くの部類の歴史をもっています。ところで、この霊人たちは、思いどおりにここに来て働くことができないのです。ふさがっているのです。
 それで、宗教で橋を架けなければ、特定の人以外には、再臨することができないのです。ユダヤ教の中にも派閥が生じました。霊界から下りてくるとき、その主流が直線では駄目なのです。ユダヤ教の互いに違う系統が精誠を尽くすようになれば、その主流が移って、行ったり来たりするのです。
 それゆえ、霊界にいる人が下りて来るには、直線に該当する人以外には下りて来れないのです。再臨役事の協助ができないのです。そうして、一世紀もたてば、またその人も霊界に行くのです。霊界に行って、その次の時代に来るには、やはりこのような原則で下りて来るのですが、特定の霊人たち以外は下りて来れないのです。
 霊界の塀は、だんだん多くなります。だんだん複雑になるのです。その次の世代が全部霊界に行くのです。それで、だんだん壁が大きくなるのです。全部壁です。今の時は、世界的時代なのです。どれほど複雑か考えてみてください。これを探してくるには、どれほど回り回って来なければならないかを考えてみてください。それゆえ、時になったなら、塀を崩さなければならないのです。霊界から下りて来る道と、入って来る道をつくっておこうというのです。このことを統一教会がするのです。(一〇二―二九)

 今まで霊界に行った霊人たちは、全部分かれています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。(二一八―一二五)


三 霊人の数が地上人より多い

 皆さん、霊界がどれほど大きいか分かりますか。霊界にどれほど多くの人口があるか考えてみましたか。今霊通する人たちが言うのを聞けば、一人に対して三千三百二十余名の霊人たちがついて回ると計算しています。我々の側がそのようにいると考えるとき、世の中に負けるでしょうか、勝つでしょうか。
 霊人たちが原子爆弾を怖がりますか。それと同様に、皆さんも銃弾を怖がらず、原子爆弾を怖がらず、国を怖がらなければ、絶対負けないのです。間違いなく勝利するのです。超越しなければなりません。皆さんは反対しますが、私は「行け」と言い、後ろについて行ったのちに、門を閉ざして主人の役をするというのです。みな過ぎれば門を閉ざしてしまうのです。そのような考えをしながら、今戦っているというのです。(八六―一九三)


四 放浪する霊たち

 飢えて死ぬ人より、もっとかわいそうな輩が、神様を否定する人たちです。飢えて死ぬ人は、自分の善意の道理によって、あの世に行くようになっても級がありますが、神様がいないと言う人は、霊界を否定するために、基盤がないのです。霊界で雲のように放浪します。さすらいの霊になるのです。雲が集まって雨が降るのと同様に、集結して全部悪い影響を及ぼすのです。ですから、全部地獄に訪ねていって、地獄を煩わしくするのです。そのようなことをちゃんと知って、これらを生かしてやらなければならないために、このことをするのです。
 その次には、死ぬ人が問題です。今、一日に六万名が死んでいっています。それを父母、子供、兄弟たちが見るとき、胸が絞めつけられ慟哭する出来事が繰り広げられています。ところで、「真の父母」という人が、同情せず、それに対する準備をしなかったなら、地上において在世当時、自分たちと共に生きたという条件が恨みになります。
 私がそのような考えをもって、海洋事業を中心として、万民の食糧問題を解決し得る道を準備するのです。二重、三重に苦労しても、統一教会が一番近い人たちになり、助けてあげることができる道のために、世界的宣伝をして準備をするのです。ワシントン・テレビジョン・センターを造ったのも、みなそれです。募金運動をするつもりです。
 人が百年生きられないのを考えるとき、五十億の人類の中に、一年に五千万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどのようにしますか。サタンが蒔いておいた種を、全部天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今まで四十年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻なことです。あの世に行って、霊たちに会うようになれば、「先生の在世当時に我々に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口たちに話し、未来についても責任をもつという行動を中心として行くようになるとき、「あなたは驚くべき方です。我々を考えてくださった」と言うのです。(二一三―三五五)


五 霊人の区分は心が知ってする

 深刻な心情の立場で話をして、汗を流し、帰ってきて飲む水の味を、世の中の普通の人たちは知らないのです。その味は、どうだったでしょうか。コーラとか、蜜の味とは比較にもなりません。味が違うのです。毎回違います。
 そのようなことも発見しなければなりません。そのようなことを感じなければ、霊感を感得することはできないのです。霊界に対するすべてに感応することができないのです。そのようなことを感じるようになれば、耳が鋭敏になって、あちらで話せば、すぐに何の話をしているか分析してしまうのです。目をつぶっていても、誰が過ぎ去るか、良い人なのか悪い人なのか突き止めるのです。霊感が来るのです。それを知らなくては、霊界の悪神なのか善神なのか見分けがつかないのです。見て分かるのではなく、心が分かるのです。心の目は、見て分かる目よりも、高次的な立場にあるのです。
 皆さんはまだ行くべき道が遠いので、先生がこのような話をするのです。それを知るべきなのです。自信をもつべきではありません。それで聖書には、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ五・三)とあります。同様の道理です。みな通じる言葉です。(九六―一七〇)


六 地上人の暮らしの価値

 我々は、アダム・エバに対して、今まで数千年下ってきながら、数多くの人たちが讒訴したことを知っています。今、皆さんが新しい先祖になるのです。皆さんの後代の前に讒訴され得る先祖になるか、栄光を受け得る祝福の先祖になるか、この二つの道の岐路に立ったのです。アダム・エバが公的な立場に立てなかったことによって、讒訴の条件を残しましたが、より公的な立場に立って犠牲の道を克服していたならば、今日人類の後孫の前に讒訴されなかったであろうことは、当然の道理です。
 皆さんもそのような立場に立ったということを知るべきです。ですから、皆さんはいつも「三世代を代表した私だ」と考えなさいというのです。
 それゆえ、霊界が自分の肩にかかっているのです。皆さんの先祖が、皆さん自身にかかっているというのです。過去、現在、未来を全部このように集めて、二つを合わせて引っ張っていけば、走ってくるのです。そのような使命を果たすべきです。
 ですから、霊界が自分の肩にかかり、親戚が自分の肩にかかり、親戚だけでなく国が自分の肩にかかり、これから来る後孫の前に正しい伝統を立てておかなければならないのも、自分の肩にかかっています。これをいつも考えるべきです。皆さん一人が、うまくできるかできないかによって、霊界に行った皆さんの先祖たちも解放することができ、皆さんの親戚たちも解放することができ、皆さんの後孫たちは解放の選民として決定され得るのです。(六六―七六)

 神様が標準を六千年間合わせようとしましたが、今まで一つの標的にも当たらなかったのですが、今何万年目に撃ってぴたりと当たったのです。その合う時間を考えれば、一番眠気が差す時です。一番眠気が差し、一番疲労困憊する時なのです。神様がその時、居眠りしたり、疲労困憊の状態でいるでしょうか。神様御自身が撃つ時、疲労困憊して眠気が差すか差さないかという時、気を引き締めて撃ったのです。その時、撃ってから居眠りして、疲労困憊して倒れるでしょうか。神様が体面も何もなく「うわ7」と喜ばれるのです。
 霊界では、どれほどあきれるでしょうか。天使世界から見るとき、「天使が過って神様をあのようにしておいたのに」と言い、どれほどあきれるでしょうか。どうか合えと、どうか合えと願ったことが、何万年続いたのに、それがぴたりと的中すれば、霊界はどうでしょうか。
 世界の人たちが、そのような素晴らしい所があるなら、入場券一枚が一万ドルするとしても、買って入るでしょうか、入らないでしょうか。そこにありとあらゆる人たちが来て、「ああ、チケットを買って損した7」と不平を言って出たのに、あとでその町内のある乞食がお金を借りて、物乞いしてチケットを買って入り、神様が標準を合わせるのを見たらどうでしょうか。乞食がそこで踊りを踊るでしょうか、踊らないでしょうか。
 そのようになれば、神様も気分が良くて誇るでしょう。「おい、当たった、当たった7 誰かいないか。誰かいないか」と、このように探すのではないですか。その時、神様がその乞食を見たなら、「おい、こいつ、乞食よ7」と、そう言うでしょう。「ああ、うれしい」と言って踊りを踊られるでしょう。(一〇三―八七)


第三節 先祖たちと我々

一 我々を見下ろす先祖たち

 皆さんが霊界に行ったなら、先祖たちが現れるでしょうか、現れないでしょうか。「うちの孫たちが統一教会に入って、文先生に会ったって7」というところから、天国の宮殿、皇族が始まるのです。今まで天国に宮殿がありませんでした。
 「真の父母」が教えてあげたとおりに、ただ愚鈍に「しなさい」と言われるとおりにする孫と、自分の思いどおりにうさぎの子のようにするすると抜けていく孫娘とを霊界から先祖たちが見るとき、どちらを褒めるでしょうか。うさぎのようにする孫娘を褒めるでしょうか、亀のようにする孫を褒めるでしょうか。亀のようにする人を褒めるのです。
 うさぎは小便をよくします。亀はよく分からないでしょう。亀が小便をするのを見たことがないので、亀はよく分かりません。うさぎは少し行っては小便をして、少し行っては小便をするのです。それはなぜですか。他のうさぎたちが来ることができないように、自分の領土を決定するために、小便をするのです。
 亀のようにしなければならないのです。「しなさい」と言えばして、夜が来ても昼が来ても、歳月が流れても、春夏秋冬を忘れてただまめに行く人は、みな歓迎します。あの世のすべての先祖たちが、皆さんの暮らしをみな見ています。隠れる所はありません。先祖たちが全部見ているのです。霊界に行くようになれば、壁もみな通じるのです。地球の固まりも、みな通じるのです。
 そのような世界に行って、永遠に暮らさなければなりません。神様の愛の対象として造った人間であるために、神様が永遠であられる限り、愛の対象になる存在も永遠に必要だというのです。神様が永遠であられるように、我々も永遠なのです。愛の相対にならなくては、永生がありません。
 あの世では、どんな人が一番高い位置に行くのでしょうか。千年、万年、自分が何度も生まれて、神様のように人類のために生き、神様に同情し、神様を慰めることができる自分になるという人が、神様の前に一番近くに行くのです。良いものがあれば、全部人類のために使おうとする人です。おじいさん、おばあさんは、行く日が近くなれば、良いものは全部息子、娘の前に残してくれるでしょう? 自分が努力したすべての代価を譲ってくれるのと同様に、そのような心を世界人類の前に残してあげると言い、世界の前に譲ってあげると言える生活をしなければなりません。(二一三―一九六)


二 我々が先祖よりより良くあるべし

 先祖が生きてきたこの家の中に、自分の曾祖母、曾祖父が暮らしたその部屋に、うちのおじいさんを産んで、うちのおばあさんを産んで、自分を産んだその部屋に、おじいさん、おばあさん、曾祖父、曾祖母が愛したその愛より、もっと大きな愛を残すことによって、天が見るとき、愛光沢で光るのです。百ボルト、千ボルト、一万ボルト、何億ボルトの光がずっと輝くのです。その輝く光がどこに行くかというと、故郷に行くのです。先祖、先祖、先祖と上がっていくのです。霊界に行くようになれば、神様を中心とした天国に行くのです。その天国が、本来我々の本然の故郷です。我々の本来の父が神様でしょう?
 アダム・エバは、神様の体です。アダム・エバは、横的な父母であり、神様は縦的な父母であるために、我々が横的なこの体を脱いでしまい、縦的に還故郷して、天国で永遠の王として侍って暮らすのです。その王とは誰でしょうか。アダム・エバが堕落しなかったら、神様の体として和して、その体を身にまとって完成して、この地上で神様の愛で直接主管圏と間接主管圏をつなげる責任分担を果たした人の王になるのです。そうすれば、神様は、そのアダムの心においでになり、アダムの霊は、神様の体になるのです。一身になるのです。永遠に神様の愛と人間の愛を共に分けて、それを呼吸するのです。
 それゆえ、神様の愛を受けなければならず、その次には、先祖になったアダム・エバの愛を中心として、誰がもっと本質的な愛に近いかというのが、あの世に行って修行していく永遠の路程です。(二一三―一九〇)


三 墓参りもしなければならない

 おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、墓参りをしなければなりません。神様が墓に埋められたとして、墓参りをしなければなりません。今亡くなられるいう時になれば、慟哭して泣きなさい。おばあさん、おじいさんに侍られなかった恨を、自分一代で贖罪しなさいというのです。
 自分の泣く声を聞いて、天上世界の神様が全部認める立場で、うちのおじいさんを自分を見て、「そうだ。よし」と言える伝令が来るまで、精誠を捧げなければなりません。収穫の時になれば、そのおばあさん、おじいさんをそのまま残しておいてはいけません。春夏秋冬四季の佳節全部に訪ねていって、侍ることができなければなりません。統一教会のお化けになったと思い、流れていく鬼の子だと思ったのに、王孫(注:王の血筋を引く者)が生まれたとたたえるのです。
 父母に侍ったこの地のある王よりも、家庭的に侍らなければなりません。皆さんの父母が王になればいいと思うでしょう? 皆さんの父母が、神様よりも、王よりももっと高ければいいというのが皆さんの心なのです。それがみな許されていたのです。「自分が王宮の道理の法を守ってでも、父母を世界のどんな王よりも幸福にする」と言うことができる王孫の資格を備えて生きなければならないのです。
 そこでは、父母たちが口を開くようになれば、自分の息子を誇らざるを得ないのです。天国の先祖たちもたたえ、後孫たちもたたえるために、ここからその父母を中心として、統一圏が繰り広げられるのです。父母を中心として統一圏が繰り広げられ、おじいさんを中心として侍って統一圏が繰り広げられ、全部が統一圏が繰り広げられるようになります。孫の統一圏、父母、孝行者の統一圏、息子、娘が侍るのに、将来、万世一系の主流の統一圏がここから決定されるのです。統一の種を完全に蒔くことができる基盤になるのです。これをもつようになれば、夢を見ていくのです。(二二〇―三五〇)

 今まで長子権復帰をしたので、先祖たちは全部おじいさん、お父さん、お兄さんの三代を中心として、この長子権、父母権、王権の立場に屈服して、孫を先祖として、おじいさんとして侍るのです。自分の子供をお父さんとして侍らなければならず、自分の弟をお兄さんとして侍ることができる天地開闢、一八〇度ひっくり返る道が繰り広げられることによって、地獄でもこれと同様に、天国に向かうことができる方向に転換されるのです。
 それで、故郷に行って百六十家庭をしなければなりません。故郷を中心として、行ったり来たりしながら、み言を聞かせなければなりません。先祖の根である本家がいいと言えば、分家の孫が全部ついていかなければならないのです。このように百六十軒を訪ねて、一箇所に集め宴会をして、統一教会の宣誓式をするのです。「神様の王子、王女の命令に絶対服従する」と言って、先祖の墓に集まって、先祖の墓の前で即位する王のように侍らなければなりません。
 「我々は『真の父母』によって、新しい血統を引き継ぐことができる先祖になることで、解放圏が繰り広げられる、祝福された氏族になります7 この氏族は、永遠不変の神様の眷属であり、血族になります7」と、このようになれば、サタンと完全に決別します。
 それで、統一教会は、先祖たちに仕えることを許すのです。キリスト教が祭祀をするのを許しましたか。統一教会は、今その伝統を立てなければならないのです。これは、世の中の伝統ではありません。
 天の父母、天の国、天の先祖に仕えるにおいて、その代を受け継いだ氏族的メシヤ圏、伝統的血族を、千年、万年侍ることができる王の領土になるのです。王に侍り、永遠の太平盛大を謳歌できるその国になるのです。その国で暮らして行ってこそ、皆さんの父母、一家、一族が天国に直行するのです。(二二〇―二二二)


四 我々が会うことができる霊界の先祖たち

 自分の家がどうだということを知るべきです。自分の家は、人間たちがこの地上で一生を生きる家の中で、代表的な家です。それだけでなく、霊界まで代表している家です。それが自分が暮らすことのできる家です。そのように暮らした人は、自然に根本の本郷の世界、故郷に自動的に行くことができるのです。おじいさん、おばあさん、誰に会っても、そこでは[藤がありません。
 あの世に行ってみれば、数千代の先祖たちが一遍に集まっています。そこに、地獄に行った先祖たちがいます。何代は地獄へ行き、何代はどこへ行き、先祖ごとに全部級が違います。「ため」に生きた人たちが行く所が天国です。それゆえ、「家和萬事成」は自分によって成されるのです。自分が家庭のために生き、おじいさん、おばあさんに三回だけためになれば、おじいさん、おばあさんも間違ったことが分かるのです。
 モーセがエジプトで奇跡を行いながら、「ため」になろうとしたことが何回ずつですか。七回、十回、十二回以上、全部「ため」にしようとしたのです。「ため」にしようとしたのに、受けてくれなければ、天が導いてくれるのです。天が導いてくれます。自分が「ため」にしたすべての公的な基盤が、他の世界へ行って、成してくれるのです。それで、サタン世界であるこの地上で信仰する人の中に、神様のように「ため」に生きた人たちは、世の中では反対され、迫害されましたが、イスラエル民族が選民圏として選ばれて、荒野を過ぎて本郷の地に入ったのと同様に、自分の本郷の地である神の国で豊かに暮らすようになるのです。
 皆さんは、頭の白くなったおばあさんによく仕えましたか。神様は、白い神様です。高い山には、白雪が積もるでしょう? 神様はきれいな方です。ですから、みな分かるのです。また、そのようなおばあさんは、自分の姑、夫の祖母によく仕えましたか。姑、夫の祖母があの世に行くとき、「私が先に行ってお前がしたように、あの世でお前の来る道をきれいに準備しよう」と、こう言えなければなりません。(二一三―一八二)


第四節 霊的新時代到来

一 超感覚時代到来

 今に超感覚的な時代が来ます。霊通しない人がいない時が来ます。サタン、悪魔が今襲撃していますが、善なる霊たちが襲撃する時が来るのです。そのような道を築くために、私がこうしているのです。子供に対する父母の立場を見ても、愛する立場、愛する心をもって、その子供のためにしてやれる父母がいるからいいのです。
 誰が否定しても、行かざるを得ない道です。死の道は、行かざるを得ないのです。一人で行くようになるときは、どうしますか。荒涼とした霊界が繰り広げられればどこに行くでしょう。国籍がない民族はどこに行きますか。一番恐ろしい世界になります。そこにはサタンが来るだろうし、そこには天使も来るでしょう。
 死んでから目をぱっと開けたなら、霊界があるのが分かるようになるでしょうし、その時、サタンが引いていこうとすれば、どのようにしますか。「おい、お前が先に立て」と言い、こうして飛びかかってくるでしょう。そのようなことが起こるのです。そのような道があると考える時、ここで眠気が来ますか。それは必然的な道です。
 先生は、死後にどのようになるか、そのようなことについて深刻です。私が霊界に行く日には、誰々が泣くだろうというのを、みなつくっておきました。孔子とか、釈迦とか、イエス様とか、彼らの秘密を私がみな知っているのです。
 イエス様に、「あなたはこうして死にませんでしたか」と言えば、「そうだとも。どうして先生はそんなことがみな分かるのですか」と、そう言うのです。そのようなことが分かるので、イエス様と友達にもなることができるのです。
 皆さんやキリスト教信徒は、イエス様を「主様7 主様7」と言うかもしれませんが、先生はそう言わないのです。友達の間柄なのです。このようなことを言うから「異端だ」と言われますが、誰が異端か、行ってみれば分かります。先生が霊界に行くときは、予想外に大騒動が起きるということを知っているために、こういうことをするのです。それが信じられないなら、すぐに祈ってみて、調べてみなさい。これが、統一教会の一つの脅迫のような言葉です。祈ってみて、本当か、本当でないか、大きく違っていたら、このようになりますか。そのような内容がみな準備されているために、そう言うのです。
 それゆえ、その道をついていくには大変ですが、私はその道を行くのです。皆さんはどこに行きますか。準備できていますか。死ぬようになった時には、「ああ、先生、私が死んで霊界に行くからお願いします」と、その時言っては準備できないのです。その準備は、地上でしなければなりません。(六一―三二七)


二 「天勝日」発表で新しい時代進入

 イエス様を中心として見れば、イエス様は蘇生、十二弟子は長成、七十二門徒は完成です。三段階です。これができなければ、皆さんは天国に行けません。本来は、これをしておいて初めて、祝福をされるのです。そうすれば、イエス様も結婚するのです。
 これから、家族が全部信じるようになるとき、おじいさん、おばあさん、息子、娘、孫、三代がこちらを受け持ち、あちらを受け持てば、三代の役割をすることができます。それが繰り広げられれば、父母を復帰することができるから、皆さんは、父母、父母、父母、数千数万代の先祖たちを一遍に、全部復帰することができるのです。霊界から地に再臨することができる時代になります。地上の組織が、霊界の組織までも編成するのです。一つになるのです。このような驚くべきことが起こります。霊界でどれほど喜ぶか、考えてみなさい。
 それゆえ、宗教の勝利の時代が来たのです。霊界の勝利の時代が来たのです。(九六・二五一)

 今は、皆さんが祈ってください。「先生のみ言とともに、『天勝日』である十月四日(一九七六年)とともに、我々の善なる霊たちは、再臨して、この地上にいる悪なる後孫たちを、善なるあなたの懐を通じて天国に導いてください7」と命令すれば、その命令が可能であり得る時代に入ってくるのです。我々は、アダム時代圏内で生きるのであり、霊人たちは天使世界圏内で生きるために、アダムのために天使が協助すべき原理原則のため、動かざるを得ないという結論がしっかりと出てくるのです。(八九―一一三)

 精神的な世界が、どれほど統一圏であるか分かりません。私が「誰かに会いたい」と言うと、二十四時間待てば、その人が来るのです。それが実現されるのです。集中するようになれば、現れるのです。それは、方向性の電波を送るのと同じです。そうするとその人は、受信機のような自分の心の基礎があるために、無性に気掛かりで行きたくてそうなるのです。(七六―一四二)


三 「統一式」と霊界協助

 今日、父母様の御聖誕日(一九七六年陰暦一月六日)には、どのような意義があるのでしょうか。今回、先生が帰ってきて陰暦の二月一日に何をしたかというと、「統一式」というものをしたのです。「統一式」とは何かが、皆さんは分からないでしょう。
 復帰の路程を歩んでいくにおいて、個人完成し、家庭完成し、氏族完成し、国家完成し、世界完成し、これが直線でつながらなければならないのです。
 地上で先生が個人基準を中心として、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準を中心として歩んできましたが、霊界とつながっていないのです。霊界もつながっておらず、統一教会の家庭を中心としてもつながっていません。道は築いておきましたが、この道を中心として、霊界とつなげなければならず、地上とつなげなければなりません。それでこそ、統一の式が繰り広げられるのです。
 統一の式というものは、いつ起こるのでしょうか。今キリスト教が、世界的民主主義国家を中心として発展してきたために、世界的基盤が築かれるようになる時に、初めて統一することができるのであって、その道が築かれなければ、統一の基準をつなげることができないのです。その時までは、国家的基準を中心として世界基準まで向かうだけであって、これをもって決定は下せないのです。それを固着させることはできないのです。
 今まで先生がアメリカに行って築いた基盤によって、今これをつなげることができます。国家と世界がつながり得る時が来たのです。そのような世界的基準を中心として、この霊的基準が世界基盤につながり得るようになる時に、初めて霊界もつながるのです。
 霊界では、大韓民国の霊人や日本の霊人など、みなつながっていないのです。各国の国の霊人たちが、自分の国にだけつながっているのであって、世界的な一つの道に集まって「どこに行け」と言っても、全体が動員するようにはなっていないのです。地上で解決してやる前には、霊界においてこのような整理はできないのです。
 それゆえ、霊界を見るようになれば、日本人と韓国人とが怨讐になります。日本人たちと中国人たちとが、全部怨讐です。国家と国家の間に、どれほど怨讐の霊たちが多いでしょうか。その怨讐の霊たちが全部反対するために、それをつなげなければならないのです。
 それで昨年(一九七五年)五月一日に何をしたかというと、「総解怨式」をしました。全体を解放してあげ、全体を許してやる解怨式をしたのです。サタンまでも解放することができる道を開いてあげたのです。「総解怨式」をすることによって、怨讐を怨讐として対することができず、みな許すのです。先生の立場から見るなら、サタンは怨讐ですが、サタンまで許すようになれば、神様が怨讐として考えないようになり、怨讐がいなくなるのです。
 今は、統一され得る時が来ました。地上と霊界が一つになれば、どのようになるでしょうか。
 堕落によって霊界と地上とが分かれたのです。神様とアダム・エバが分かれたのです。アダムとエバの間に心情的決裂が起きたのです。それゆえ、地上と霊界と一つになった立場に、アダム・エバの家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、世界を中心として、超民族的な構成形態が繰り広げられれば、世界的な統一圏を形成することができるという論理が形成されるのです。
 そのようなことを解決してやらなければならないために、アメリカの地では、駄目なのです。アメリカの地ではできません。
 韓国を中心として、個人基準を築き、家庭基準を築き、氏族基準を築き、民族基準を築き、国家基準を築いて、世界に来たために、韓国が中心国家であるために、先生が大急ぎで訪ねてくるようになったのです。
 それで、「統一式」をしておいてみると、今年の先生の誕生日は、歴史的な誕生日なのです。なぜならば、統一された立場に立って、霊的世界にいる霊人たちは、「真の父母」の誕生日を一度も迎えたことがありません。一度祝おうとしても、祝う資格がないのです。また、世界にいる万民、世界にいる後孫たちが、「真の父母」の聖誕を祝い得る恵沢圏内にいることができないのです。なぜならば、霊的基準と肉的基準が結束できないでいるからです。
 霊肉を中心として、そのような恵沢圏が繰り広げられ、霊界が加担することによって、その後孫を通じて復帰するでしょう? そのような原理的立場で、先祖は天使長型であり、後孫はアダム型になるのです。天使長がアダムを創造する仕事に協助したのです。霊界に行っている先祖が統一されることによって、地上にアダムを創造することに協助できる圏が繰り広げられ、後孫たちに対して干渉することができる時代圏に入るという論理が成立するのです。
 今年先生が韓国に来て、誕生日を祝うこの日は、歴史的な一つの起源を備える日です。言い換えれば、霊界に行った数多くの霊人たちが、「真の父母」の聖誕を祝うことがきる同参の恵沢を受けるようになるのです。
 そうすることによって、この地上にいるまだ統一教会を知らない後孫たちまでも、再創造することができるのです。天使長の協助を通じて、神様がアダムを造ったのと同様に、先祖たちを動員して、後孫のアダムのような立場にいる地上の人たちを再創造して出発することができる時代圏に移るのです。そのような論理があるために、今日全世界の万民も、父母様の聖誕を祝うことができる恵沢圏内に入るのです。(八三―一〇九)


四 「一心式」と先祖協助

 先生自身が、文氏の一族で、族長になりました。先生が強制的に命令するのではありません。自分たちが進んで侍ろうとしました。そのような歴史が過ぎました。先生が、そんなことが分かりますか。会うのは、初めて会ったのです。とにかく、因縁ができて、宗氏一族たちが先生を韓国の一つの父母として登場させるようになったのです。このようなことをするためには、この式がなくてはいけません。
 統一教会で言う「真の父母」の立場は、韓国の民にだけではありません。本来は人類全体の先に行った先祖たちにまでも、「真の父母」の血族として天上世界、霊界に行くべきですが、堕落によって、全部過ってしまいました。アベル的立場が地上であるために、アベルたちが長子権復帰していく道に順応することによって、天上世界を解放させることができます。
 今からは地上が長子権を復帰したために、霊界は我々の動きを押してくれ得る時が来ました。それで、この時間によって、確定づけて宣布する式が「一心式」です。
 皆さんは、霊界の事実を知らないでしょう? このようになることによって、皆さんの善の先祖たちが、一族の会長たちを通じて協助する、万端の準備をするのです。これがXとYのように、地上に連結されます。堕落した世界は、地上が眺める立場と霊界の立場は、互いに違います。霊界がこのように行こうとすれば、地上は反対になるのです。何で経ていくのでしょうか? それが真の愛です。(一九〇―三一四)


第五節 再臨復活と霊人協助

一 過去の先人たちの霊界の位置

 歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なしには見つめることができないでしょう。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために戦うようになるとき、彼と意を共にする同志がいるなら、神様はその場に訪ねてこられて、涙を流されるでしょう。
 神様の悲しみは、我々の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。我々はこれを清算して、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような我々において、生命の中心は神様の悲しみを体恤することです。
 人間たちが知らない霊界の霊人たちを動員して、証させることができる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているために、地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して、天国理念の実現のための地上の仕事に協助するようになるのです。
 霊界の霊人たちがこの地に来れない原因は、この地に嘆息の囲いができているためです。(四―六〇)

 皆さんが今立っている立場は、昔アダムが堕落したその立場ではありません。その峠を越えた立場です。言い換えれば、神様とアダムと直接的に対話することができる時であり、直接的に神様の目的のために、直行できる期間です。
 このような観点で見るとき、三次七年路程になる前の歴史と、三次七年路程になったのちの歴史は、全く違うのです。三次七年路程を中心として、悪の勢力は下らなければならず、善の勢力は上がっていくのです。それゆえ、三次七年路程は、霊界と肉界が交差する時期にもなるというのです。
 霊界を中心として見ると、悪の霊がいるのと同時に、中間の霊がいて、善の霊がいます。蘇生、長成、完成の三段階にとどまるのです。三次七年路程がつながることによって、善の霊たちが地上に連絡することができる道が生じるのです。そうするしかないのです。蘇生、長成圏がサタンの主管圏内にとどまっているために、悪の勢力の版図圏内にいる悪霊たちが主導的な役割をして、悪人たちが世界を全部料理してきました。しかし今からは、霊たちが交差し始めるのです。
 交差するときは、霊界が下りて来ますが、悪霊から下りて来ます。交差する時は、中間霊界を越え、善霊界に越えていく時です。これが越えていく日には、善霊たちと善人たちは上がり、悪霊と悪人たちは下りていくのです。今までは、善悪が互いに上がったり下りたり交差しながら、ごちゃ混ぜになりながら来ましたが、今からは、善と悪が完全に分かれ得る、新しい次元の時代に入ると見るのです。(七五―一九三)

 霊界に行ってみれば、昔、新約時代に現れた立派な人、尊敬されて殉教をした人が、高い所に行くと思ったのに、一番悲惨な立場に行っているのです。死ぬときに「自分がこのように死んでこそ天国に行く」と考えて死んだ人は、天国に行けません。そのように死んだ人は、気の狂う病気にかかって、天国のために自殺したのと同様の心の姿勢になっているのです。しかし、それとは異なって、殉教はしなかったとしても、苦労をしながら、「ああ7 私一人犠牲になって国を天国にして、数多くの人を天国に行かせた」と信じて行った人は、天国に行っているというのです。
 我々は、信仰の本質を改めなければなりません。キリスト教がそのような思想をもったために、多くの波風が立ちました。この波風を打破してしまおうというのが、統一教会の思想です。たたきつぶさなくても、滅びるようになっているのです。ところで、なぜ早くたたきつぶさなければならないのでしょうか。滅びるようになれば、神様の前に全部捨てられるために、これをたたきつぶして救ってやらなければならないというのです。(六四―一一〇)

 皆さんの先祖の中には、地獄に行った人たちがたくさんいます。これを全部解放させなければなりません。この道が父母が行くべき道であるために、皆さんもこのような父母についていくべき道に置かれているのです。それゆえ皆さんは、この道を最後まで行かなければならない運命にあるというのです。
 それで、霊界が我々に協助するのです。個人的に協助し、家庭的に協助し、氏族的に協助し、民族的に協助し、一遍に協助して統一運勢を経ていくのです。世界さえ統一するようになれば、霊界は自動的に合わさることができるようになるのです。霊界にいる霊たちが地上に下りて来ますが、善霊よりも悪霊たちが先に下りて来ます。それゆえ、地上の人には、ノイローゼ現象が起きるのです。このような事実を知らないから、そうなるのが分からないのであって、今悪霊たちが、全部下りてきて、人間世界を侵犯しているのです。
 そして、民主世界と共産世界を中心とした思想の混乱時代が来るとともに、霊界の悪霊たちが下りて来て、霊肉が混乱時期に陥るようになります。そうですが、善霊たちが下りて来るようになれば、悪霊たちの周囲に力が及んでいくのです。地上に下りて来て、悪霊たちをかき分けて、悪霊たちが占領した地を占領するようになるのです。善霊たちが、この地球星を占領するようになる時は、悪霊たちはこれ以上行く所がないから、屈服し始めるのです。
 霊的サタンが地上に来て屈服するようになれば、悪霊までも復帰するのです。それで、終わりの日には、サタンまで復帰しなければならないのです。(五四―二二八)


二 霊界動員と協助

 皆さんは伝道ができない時にも、伝道をしなければなりません。石を海に投げるのと同じです。それで海の水をみな埋めて、山になるまで限りなくするのです。そうすることによって、自分が心情的に育つのです。体は何も変わるものはありませんが、心情が育つのです。
 夜明けに起きて、その町内のために、自分が任された責任地域のために祈って、涙ぐまなければなりません。その道は、心情的でありながら霊界と霊的な因縁を結ぶ道なのです。神様が町内を見下ろせば、全部地獄に行くしかない人間たちであるために、涙を流さざるを得ないのではないかと言って、神様に代わって自分が涙を流すのを自ら感じるのです。神様の心情で涙を流すことができる共鳴力が入るようになれば、霊界が総動員するのです。
 人間として、神様の前に感動的な涙を流さなければなりません。神様が「おお7 有り難いな7 堕落したアダム・エバの後孫は、昔のアダム・エバよりましだな7」と感動して、涙ぐむことができる立場に入らなくては、霊界と通じません。
 「堕落したアダム・エバの後孫として、天に背いた後孫であるお前たちが、こうすることができるか」と言いながら、神様が感動的涙を流してこそ、霊界が協助するのです。そこから霊界が開かれるというのです。それ以下は、絶対に駄目なのです。絶対に駄目です。それが原理です。(九六―二八二)

 皆さんは霊界に行くのがいいですか。地上の皆さんが霊界に行くという心と、霊界の人たちが地上に再臨するという心のうち、どちらがより切なるものですか。原理的に見るとき、皆さんがより熱烈でなければなりませんか、霊界がより熱烈でなければなりませんか。霊界は天使長世界であり、ここはアダム・エバの世界、息子、娘の世界です。息子、娘がより熱烈であるべきですか、僕がより熱烈であるべきですか。
 皆さんが霊界を協助するようになっていますか、霊界が皆さんを協助するようになっていますか。霊人たちが協助しようと待っていますが、なぜ待つのでしょうか。地上に天国を成すために働く所に協助するでしょうか、皆さんがよく食べて豊かに暮らすのに協助するでしょうか。地上に天国を成すために働く所に協助するのです。(一六一―二二七)

 霊界が動員されなければなりません。霊界が動員されなければ、どのように天国を形成しますか。形成できません。天国は「真の父母」から始まるようになっているのであって、今までの堕落した後孫から始まるようになっていません。
 アダムを創造する時、天使長世界の協助を受けたのと同様に、再創造も霊界から下りてきて、全部地上に協助しなければなりません。そうでなくてはいけないようになっています。原理がそうではないですか。復活原理がそうでしょう? 復活原理がただそのまま結果として現れてこそ、真だと言うのです。(一六二―一一五)

 先生が皆さんを貧しくさせてみな苦労させるのは、皆さんが憎くてするのではなく、皆さんを生かしてあげるためにするのです。すべて皆さんを生かしてあげるためのものであることを知るべきです。皆さんを生かしてあげるために苦労をさせるということを知って、有り難く思わなければなりません。そうすれば、天の心情世界、新しい心情世界が繰り広げられるのです。そのようにするのが順序です。そのようにして、心情的結びつきをもってこそ、天の命令なら、どこでも飛んでいくのです。
 「世界を率いていく機関車のような責任を果たす」と言うようになれば、霊界が協助します。そのように考えれば、霊界が間違いなく協助するのです。(九六―二七九)

 皆さんが基準を立てて、統一教会と歩調を合わせていくようになれば、国家的な運勢によって動いた霊界にいる善の霊人たちや先祖たちが、皆さんのために働くでしょう。
 皆さんは、外的に見るに、顔がぺちゃんこで、耳がすっと入って、薄幸に見えますが、霊界では皆さんを「福を呼ぶ」と思っています。さらに、十代の圏内にいる先祖たちは、気が気ではありません。なぜなら、復帰歴史は十代を中心として成されるためです。ところで、もし悪なる後孫が現れれば、十代圏内にいる先祖たちが、「こいつ7 お前が我々を駄目にしたな」と言って審判します。
 それゆえ、善の先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。そのような立場にいる皆さんが、喜んで見事に戦っていく所々で、百戦百勝の戦績を立てる時に、霊界では永遠に喜ぶのです。それゆえ、このような先祖たちは、皆さんを王様に仕えるように仕えるでしょう。
 今日、我々は神様のみ旨の前に「神様の伝統を汚すものか7 神様の威信を汚すものか7」という心で勝利の基盤を築かなければいけません。皆さんは、どんな伝統を立てるかについて、祈らなければなりません。今は幸せな時です。(一四―二〇)


三 霊界と先祖

 先生は、人々の顔を見れば、その先祖が良いか悪いか、大体分かります。ある人は、良い先祖がいて、福を受けるかと思えば、ある人は、悪い先祖がいて、ひどく苦労ばかりするのです。そのような人は、伝道しに任地に出ても、ひどく苦労ばかりします。(三七―一四四)

 自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それゆえ、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。批判するのはサタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定するということを意味するのです。
 批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それゆえに、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことができず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。我々人間生活において行くところにには、直行は絶対できません。じぐざぐに行くのです。
 先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちも全部関係しています。自分自体が素性的に見るとき、善の先祖の素性をたくさんもっているときはこのように行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてそのような時が来ます。そういうときは、必ずこのようにするようになります。批判すれば大変なことになるのです。それゆえ、「判断するな」という言葉も、みなそのような道理から出てくる言葉です。(日付未詳)

 真の愛をもてば、神様が宴会をするその場にいつでも同参することができます。時間と空間を超越するために、霊界に数千の先祖たちがいても、一目でみな見るのです。これを管理して、超越するのは、真の愛の心をもった人だけが可能なのです。神様の相続権を受け得る特権を得ることができる道は、愛の道にだけあるのです。真の愛をもった人が、自分の体をかすめて通り過ぎても、全部喜ぶのであって、反抗しないのです。全部が歓迎するのです。あの世がそのようになっているために、ここでそのような訓練を受けなければならないのです。
 先生がこのようなことを教えてあげるのは、天の世界に行くことができる人、天の世界で呼吸することができ、拍子を合わせることができる人をつくるためです。それでこそ踊りを踊る場で、踊れるのです。そうでなくては、拍子が合わないのです。先生ももう霊界に行くべきではないですか。先生の後ろには、サタンがついて来れないのです。(一四七―一一六)
 神様からの真なる精神を通じて、一つにならなければなりません。人間が根本から生まれたために、根本主体から動機になって、過程的人間の肉体まで動かすことができる基準をつなげてきてこそ、完全な統合になります。そうでなくては、不完全な統合だという結論が出てきます。
 自分たちが勝手に行こうとしても、霊界からブレーキをかけて教えてくれる霊的体験を通じて、すべてを収拾していく背景が確実な現実生活圏内に動いているのです。この事実は驚くべきことです。それで、皆さん一人を中心として見るとき、体は精神を中心として善の先祖たちが全部ぶらさがっているのです。善の先祖たちは、体が悪の世界に行くのを妨害して、善の世界に行くことができるように追い込むのです。(一六二―一〇四)

 この地にすべてを管轄することができる真なる父母と、真なる家庭と、真なる社会と、真なる国家と、真なる世界になっていたら、この世の中がどれほど素晴らしいでしょうか。しかし、そのような世の中になれなかったのです。
 世の中がなぜこのようになったのでしょうか。堕落したからです。大体見れば真になれなかった動機をもって出発し、今まで存在しているこの世界が、堕落した世の中であるために、そのようになったのです。
 人がこの一生だけで終わるなら、どれほど簡単でしょう。人は永生するようになっています。永生するようになっているというのです。それは、良いことは良いのですが、大変なことになりました。人は永生するようになっています。皆さんが霊界に対する体験がないために、知らないからそうできませんが、霊界の体験がある人たちは、昔のアダムから何千年前までの先祖たちにみな会うことができるというのです。(一五九―二七七)

 霊界に行くようになれば、数多くの先知先烈たちと、数多くの先祖たちと会って、討論するのです。「あなたはどこから来たか。地球星のどこか。どの国か。どこだ」と聞いて回想して言うのです。友達同士会うようになれば、自分の昔話をすべてするでしょう?
 霊界に行くようになれば、皆さんの最初のおじいさん、数千数万の先祖たちに会うようになります。ところで、「こいつ、どうやって暮らした」とぞんざいな言葉を遣うとき、気分がいいですか。考えてみなさい。(一四八―三二一)


四 霊人たちの願い

 我々ムーニーが、「ああ、何とかして、私の一生に御父母様を一度喜ばせてさしあげることができないか」という切なる愛の心をもつようになれば、あの世と拍子が合うのです。
 霊界の人たちは、どうでしょうか。先生が何かを一つ食べるところを見たくないですか。霊人たちは皆さんより熱心です。それは事実です。皆さんは分かりませんが、霊人たちは、みな知っています。これからどのようになるということを、みな知っているのです。皆さんは、何も知りません。反対に、あの世は確実に知ってそれを理解するのです。
 霊人たちはどうすれば先生のために献身して、どうすれば先生のために奉仕することができるのかをはっきりと知っているのです。五感全部は、先生から来るそのような刺激的な力を感じるのです。今までは、そのような経験をした時がありませんでした。ですが、今の時は、先生につながれば、そのようなことを感じるようになるのです。(二〇七―九八)


五 再臨復活と重生

1 再臨復活

 イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんがこのようなみ旨を知って、勝利の枝になれば、一つの生命体を成すことができる立場になるために、皆さんの先祖が皆さんに協助するのです。このように、皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。
 イエス様当時には、霊界で条件的に生命体級の復活のための協助をした時代でしたが、今は、霊界が無条件的に生命体級の復活のための協助をする時代です。このような時代が来たために、これ以上の福はありません。もう一度言うと、霊界から協助するということです。(一四―二二)

 世界が、先生に反対しました。私を殺そうとし、統一教会をなくそうと、どれほどそうしましたか。その中を切り抜けてきたのは、私が狂っていなかったから可能だったのです。
 天地の道理に従って、高い綱を神様に結びましたが、その綱を持って引ったくろうとしても引っ掛からないのです。結局は、その戦いがそこに及ばず、教会の戦いが起こり、国の戦いが起こり、亡国の路程に脱落してしまいました。統一教会に反対していた既成教会との戦い、統一教会に反対する政党との戦い、統一教会に反対する民主世界、共産世界との戦いで、それを全部倒したのです。高い所から綱を垂らしておいたから、ここで引っ掛かっているのを切ろうとしますが、自分の力をもって切れますか。統一教会を断つことができますか。哲学でも、宗教でも、霊界を通じても、理論的に我々はやられないのです。
 私がアメリカに行っている時のことです。アメリカに霊通人協会があり、そこの会長であるフォードという人がいます。その人が、アジアにレバレンド・ムーンという、これこれこういう人がいるといううわさを聞いたのです。我々の宣教師が行って宣教するときは、人を訪ねて回りません。霊界に通じる人に原理の本を手渡しながら、「この本がどんな本か調べてみてください。一週間後にまいります」と言っておいて、一週間後に行けば「ああ、先生いらっしゃいませ」とあいさつするようになっていました。(二〇八―一九五)

 我々は、霊界が屈服し得る理論的体系と、実戦的基台を中心として、神様の前に祭祀も捧げなければならないのです。祭祀を捧げる式が、けさの敬礼式(一九九〇年十一月十七日、第三十一回「真の子女の日」)だったのです。
 その場で先生が祈った内容は、時が至ったので、今まで天上世界と地上世界に逆さまに流れていた潮流が、今や正しく流れるべきだということです。天が長子権を復帰したために、これから生まれる次子たちと、今のすべての次子たちは、天の治める圏内にいるのです。それゆえ、長子権復帰以後の次子権時代には、悪魔の活動舞台を天法で許すことができません。
 そして、霊界に行ったすべての霊たちが、今まで地上のアベル圏を利用しました。長子が次子を殺して祭物にしたのと同様に、これからは長子権がここにあるために、霊界までコントロールするのです。
 今は、我々に協助することで自分たちが福を受けるようになっているのであって、反対すれば反対するほど、絶えずどん底に落ちていくのです。天運が急変して入ります。これからは家ごとに先生の写真を掛けろと大騒ぎになるでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで、旗を掲げて、先生の写真を掛けて、その前に毎日のようにあいさつをする人は、自分の先祖たちを復活させ得る役事が起こるのです。
 自分を中心として絶対服従しろと教育するなら、先生がこのような話をする必要はありません。私はそのようなことは嫌いですが、仕方がないのです。
 それゆえ、今まで数多くの雑霊界を通じる霊人たちは、「統一教会に行くな」と言いました。しかし、今からは、釈迦牟尼、イエス様、孔子、マホメットも、「統一教会に行け」と教えなければ、天法に引っ掛かるのです。なぜそうなのでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教であるからです。(二〇八―一五四)


2 重生論に対する質問と答え

 アジアで言うのは、重生論ではなく、輪廻説です。輪廻説は、仏教思想です。それは再臨現象をその一時だけ見て感じるために、そのような現象として見るのです。全体を知らないために、そうなのです。霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けるのを願います。これが霊人たちの要求なのです。
 堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければならないのです。
 本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。ところで、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければならないのです。
 神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こるのです。一段階を越えるためには、カイン・アベルの場合のような蕩減役事が、必ず起こるのです。
 ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があるのです。それは、一日、二日に成されるのではなく、七年とか、四十年、七十年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。
 それゆえ、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていくことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのに、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第二次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。
 その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていくためには、第一次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬようになれば、第二次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。必ず蕩減期間があるのです。
 蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。それゆえ、第二次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです、この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。
 このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こるのです。
 本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。
 このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな越えていかなければなりません。それゆえ、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかったために、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。
 イエス様が、この中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言うのです。それゆえ、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。
 人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはいけない運命にあるのです。それゆえ、このような問題があるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にそのことをしてきているのです。
 このような観点で見るとき、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまるのです。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちが、そのような未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。
 皆さんは、この原理自体が理論的にそのようになっているのだとだけ考えて原理を学ばないでください。この原理自体を探すのも大変ですが、これを実践して、勝利の基盤をつくらずには、皆さんに教えてあげることはできないのです。
 言い換えれば、ノア家庭の内容を知って、アブラハム家庭の内容を知って、ヤコブ家庭の内容を知って、モーセ時代の内容を知って、洗礼ヨハネの内容とイエス時代の内容を知って、それで終わるのではなく、それらのことを知って、全部蕩減して復帰した勝利の基盤を備えるのが問題です。その基盤が備わって初めて、皆さんに教えてあげるのです。
 過去にサタンに負けたものを、勝った立場で復帰しておかなければ、神様のみ旨を成していくことができないのです。今まで復帰摂理を担当してきたノアとか、アブラハムとか、ヤコブとか、モーセのような人たちも、これを知らなかったのです。
 しかし、この地に来られる主は、個人として失敗したのを復帰しなければならず、家庭として失敗したのを復帰しなければならず、氏族として失敗したのを復帰しなければならず、民族として失敗したのを復帰しなければならず、国家として失敗したのを復帰しなければなりません。来たるべきその世界を得る時まで、それらを全部知って、実践することができる代表者です。実践しなくては、成すことができないのです。
 皆さんがメシヤに出会い、その方を信じて従えばどのようになるでしょうか。その方が、個人、家庭、氏族、民族、国家時代を中心として完成する時、皆さんがその方に会えば、皆さんは、個人、氏族、民族時代の恵沢を受けて、国家時代とともに上がっていくのです。ところで、個人時代にいる人が、メシヤを迎えて家庭時代に上がっていくためには、霊界にいる霊人たちと同様に、肉界で蕩減をしなければならないのです。また、家庭時代から氏族時代に上がる時にも蕩減路程を行かなければならないために、結局、統一教会に入ってきて長くなった人であるほど、蕩減をたくさん果たしたということになります。長くなるほど、先生と近い立場にいるという結論になります。
 国家時代まで上がっていくには、縦的に上がるようになります。ここで国家体制を決定して、越えていかなければならないのです。ところが、その過程において、上がっていってこれ以上上がっていけなくなったときは、落ちることもあります。なぜなら、霊界の現象は、いくら高い段階まで上がってきて役事したとしても、同様の現象が起こるのです。ここには、蕩減があるためです。蕩減とは行こうとする所に対して行けないようにすることなのです。反対になることをさせるのです。それゆえ、うっかり過ったら、落ちやすいのです。ここで失敗するようになれば、みな崩れるようになります。
 イスラエルの国とユダヤ教が、イエス様を迎えるために四千年間準備してきましたが、み旨をなせずに死ぬことによって、準備した基台がすっかり崩れたのです。それゆえ、ここから上がったり下がったりする過程で、数多くの犠牲者が生まれたのです。
 それは、神様の主流摂理を通じてすることですが、支流的にも世界の数多くの民族を中心として、このような適用が起こるのです。このような適用が起こることによって、世界的に蕩減が繰り広げられるのです。
 一つの主流としてこのように上がっていくなら、ここに従って全世界的にあるものは別の立場で蕩減が起こるのです。このような蕩減を果たして、収拾していくのです。それゆえ、今まで数多くの宗教が、多くの犠牲を払いつつ、復帰の路程を通過してきているのです。
 霊界の霊人や、宗教家が、最高の善であるこの基準をどのように越えていくか、言い換えれば、国家基準を越えて、どのように落ち着くかということが問題です。メシヤは、蕩減する方法を知っているために、もし国民がまだ蕩減できなかったとしても、彼と共に一つになれば、蕩減期間が短いのです。もし、メシヤと共に国が落ち着けば、すべての個人は、全部ここに適用されます。国家が蕩減を果たしたなら、家庭は家庭なりに世界的になり、氏族は氏族なりに、民族は民族なりに、そして国家は国家なりに世界的に上がっていくのです。このように見るとき、国家を探せば世界復帰がどれほど早いかということを、皆さんは考えなければなりません。
 国を立てておいてこそ、楽園を越えることができるのです。楽園とは何かというと、天国に行くための待合室と同じです。それゆえ、アダム、ノア、アブラハム、ヤコブが、このような過程を通じて復帰してくる時に過ったことが残っているなら、それは全部蕩減しなければなりません。蕩減しなければ、横的に発展させていくことができないのです。
 このような観点から見るとき、国がどれほど重要かが分かります。国さえあれば、落ちないのです。ここでもドイツ人以外の外国人はドイツ政府の干渉を受けるのと同様です。もし、間違えるようになれば、追い出されるのです。追い出されるとき、自分の国家がなければ、どこに行くかというのです。そのときは、行く所がないのです。そのような人は、死んでしまうとしても、どこにも訴える所がないのです。
 サタン世界も同じです。サタン世界において、我々は彼らの怨讐です。神様を信じる人たちは、彼らの怨讐ですから、その国で我々をどれほど憎み、いじめるでしょうか。それだけでなく、彼らが我々を追放しても、あるいは殺しても、訴える所がないのです。このように国が重要であるために、神様も国を探してこられるのです。
 皆さんが国家を探していくには、個人、家庭、氏族、民族、国家まで蕩減しなければなりません。個人的な蕩減路程と、家庭的な蕩減路程、氏族、民族的な蕩減路程を行かなければなりません。そうしなくては、世界を行く道がないのです。このように国家が中心になるために、各国もこのような中心となった国家を通じなくては、この道を行くことができないのです。
 もし、皆さんが国家を復帰できずに死ねば、この地上に再臨しても、せいぜい個人を後援し、家庭を後援することができるだけであって、堂々と権勢のある後援はできません。サタン世界を征服するための戦いをすることができる資格者になれないのです。
 それゆえ、国が生まれてこそ、皆さんは入籍することができます。皆さんは入籍しましたか。皆さんは、統一教会には入籍しましたが、統一された神様の国には、入籍できていません。国がないのに、民になれますか。なれないのです。
 それゆえ、霊界にいるすべての霊人も、その国の人にどのように協助するかということが、望みです。その国さえ存在するようになれば、再臨現象は横的に起きるのです。
 横的に起こるために、自分が苦労すれば、苦労した基盤が残ります。その国を探して上がっていくときは、いくら蕩減しておいたとしても、崩れるようになればみななくなります。このどん底からどこまで上がってきたとしても、崩れてしまえばなくなるのです。これの繰り返しですが、これを横的な基準でするときは、自分の実績は横的に永遠に残るのです。
 言い換えれば、復帰して上がっていくときは、蕩減してなくなる時代ですが、国を探して、横的にするときは、それが蕩減ではなく、実績として残る時代なのです。(五四―二二七)





























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