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罪と蕩減復帰
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第三章 蕩減と復帰の公式

 一 母性復帰から見たリベカ、タマル、マリヤの役事

  1.エバの堕落とリベカ、タマルの欺きの役事

 堕落は母の胎内から始まりました。それゆえ復帰も母の胎内からなされなければなりません。そこが悪の根源地となり、出発点になったので、復帰においてもその原点に戻らなければならないのです。それで神様は二人の兄弟を立てて、長子権を復帰する摂理を行うことになったのです。すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長子の位置に上がらなければならなかったのです。しかしカインはアベルを殺してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復でした。すなわち復帰された立場はおろか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
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 考えてみてください。エバが堕落するとき誰をだましましたか。神様をだましました。神様に隠れて、神様に相談せずに勝手に神様を否定する立場で堕落したのです。次に、アダムは自分の夫であると同時に神様の息子です。父子を否定する立場で堕落したがゆえに、アダムを失いました。このようになったのを蕩減復帰するために神様はリベカを立て、神様の代わりに父イサク、アダムの代わりに息子エサウ、この二人が分からないように祝福を奪ってくるのです。言い換えれば、逆になったものを取り替えるために、リベカはヤコブを通して、失った祝福の長子の嗣業を奪ってくることのできる条件をもつようになったのです。条件です、条件。その実体を得たのではなく、条件を得たのです。
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 天使がエバを誘惑しましたが、今度は逆に、エバが誘惑するのです。そのようなことを蕩減復帰しなければなりません。ですからタマルは 舅 と関係を結ぶことになったのです。関係を結ぶ時の約束で、やぎの子をやるというのを、印と紐と杖の三つのしるしとなるものをくれと言って受け取り、保管しました。「私のはらんだ子の父親が誰かということを確認させるためには、たとえ死ぬとしても、それを残して死ななければ」という覚悟で、タマルは証拠物を受け取って保管したのです。
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 マリヤも、エバとほとんど同じではありませんか。自分の夫であり、兄であるアダムと父である神様、神様と兄と夫をエバが欺いたように、タマルもそのようにしたのです。自分の未来の夫となる人、そして舅、夫と兄とすべての兄弟を欺いたその内容は、すべてエバの行為と一致する蕩減の内容となるのです。それがタマル自体を中心として、マリヤを中心として相似しているのです。
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 エバが三人の男性を欺いたように、いつも三人の男性を欺くのです。リベカが三人の男性を欺いたでしょう。神様、自分の夫、自分の息子を欺きました。またタマルも三人の男性を欺きました。舅と一番目の息子、二番目の息子を欺きました。またマリヤは誰を欺きましたか。マリヤも神様、そして自分の父母、自分の夫。同じです。エバが父を欺き、兄を欺き、夫を欺きました。アダムが兄であると同時に夫です。同じなのです。
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 マタイによる福音書第一章に四大遊女が出てきます。そこにバテシバが出てくるでしょう。タマルが出てくるでしょう。その次に遊女ラハブが出てくるでしょう。次にはルツが出てくるでしょう。四大淫女が出てきます。彼女たちはみな淫女です。夫がいるのに他の男と関係をもったのですから淫女ではありませんか。聖書を一度読んでごらんなさい。よく読んでみなさいというのです。それゆえイエス様は正妻を通して生まれることができないのです。めかけを通して出てきたのです。
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 聖書は聖なる経典であるのに、許されないような内容がたくさんあります。そうではないですか。ヤコブがリベカと一つになって、兄エサウと父を欺いて祝福を受けるというようなことがどうして起きたのでしょうか。またタマルが舅と関係を結んで生まれたペレヅとゼラを中心として、ユダの支派が祝福を受けるようになったのはなぜかという問題、人類の道徳観では解決できないこのような問題があるのはなぜかということです。
マタイによる福音書第一章には四大淫女が出てきます。タマルとバテシバとラハブとルツが出てきます。マタイによる福音書は創世記に匹敵するものですが、歴史時代において最初のページにこのような女性たちを中心として清くない汚点をもつ女性たちがこのように出てくるのはなぜかということです。このような問題は、すべて堕落原理を知らずしては解決する道がありません。謎として残っているのです。ところが文総裁の時代になって初めてそれをすべて明らかにしたのです。


  2.タマルを中心とした腹中根本復帰

 考えてみてください。カインとアベルが、エサウとヤコブが生まれてすり替えようとしました。そこにはいつも母子協助が必要なのです。エバがアベルを擁護したのです。次にエサウとヤコブ時代には、リベカがヤコブの側になり、うそをついて助けたのです。ところが、神様が祝福をしてくださったのはなぜかという問題については誰も知らないのです。そしてヤコブの時に双子として生まれてすり代わったのです。それでも駄目だったので、ぺレヅとゼラを中心としてタマルの腹中から出るときに争って、すり代わって次子が長子を押し退けて出てくるということが起こったのです。これはすべて、本然の父母の血統的基準に接近するための運動であったという事実を知らなければなりません。
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 神様はリベカに「二つの国民があなたの胎中にあり、二つの国民があなたから分れるであろう」(創世記二五・二三)と言われたのです。二つの国に分かれるということです。一つの国は天の国であり、もう一つの国はサタンの国です。ここから争って血統復帰をしようとしたので三代を要したのです。腹中で争ってひっくり返して、腹中から血統を継承したという基準を立てなければならないのです。ヤコブが三代目にして外的に勝利しましたが、内的な勝利の基盤はタマルの腹中から生まれたぺレヅから成されたのです。これが復帰の原則です。
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 タマルの役事を中心として考えると、タマルは天の天道を引き継ぐために自分の生命を懸けたのです。文総裁と同じように生命を懸けたのです。そしてヤコブは天使と命懸けで戦いました。ももの骨が折れても一晩中手を離すことはありませんでした。それはどういうことですか。ももの骨を打たれなければなりません。ももの骨を誤って用いたことが淫乱ではありませんか。それゆえ、我々統一教会では結婚をしたあとで蕩減棒儀式をするのです。蕩減棒儀式とは何でしょうか。どこを打つことですか。腰を打つことです。この腰を誤って用いたのではありませんか。この聡明な文総裁がどうしてそんなことをするのでしょうか。しかし仕方がないのです。
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 昔、天使長がエバを誘惑したのとは反対に女性が舅を誘惑して、天命を賭けてアブラハムの理想を相続するために、自分の身は肥しとなり、今にも石に打たれ死んだとしても……その当時ユダヤの法は寡婦が子をはらむと石に打たれて死ぬというものでしたが、それを覚悟の上でした。どういうことか分かりますか。「ユダヤの血統を残すことが私の願いであり、そのためにはこうするしかない。殺すなら殺しなさい」という志を立てて、死を覚悟して進んでいったのです。祭物的死を覚悟して決断して勇み立ったタマルのこの役事は、驚くべき女性の役事となったのです。
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 イエス様の先祖が、そこから生まれたのです。これは驚くべき事件なのです。これを考えると堕落論を否定することはできません。なぜ神様がこのような摂理をしなければならないのでしょうか。人類は腹中から汚れたので、腹中からすり替える転換点を立てなければならないので、タマルがそのような悲運の運命の中に立ったのです。
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 さあ、歴史始まって以来、初めて兄と弟が腹中ですり代わるということが起こったのです。ユダの時になってタマルという不法的な行動をした女性によって、初めて歴史が正されたという事実を私たちは知りました。このようなタマルの勝利の伝統を受け継ぎ、信じて進む人にはサタンが侵犯することができないという起源が、ここから始まるのです。タマルのような心情的歴史的伝統を受け継いで、ユダの支派の伝統を受け継いで信じて進む人には、サタンが侵犯することができないのです。すり替えられたことを中心として、伝統が受け継がれてきたのです。
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 タマルという女性は神様の血統、すなわち祝福というものを重要視した人物です。血統を受け継ぐためには、どんな冒険でもするという歴史的な代表の女性です。これはどんな位置と同じかというと、エバの位置と同じです。エバは人類の母として神様の直系の伝統的継代を受け継ぐべきであったにもかかわらず、これをないがしろにして破綻させたのです。それを復帰するためには、エバの上を行く女性が出てこなければならないのです。死んで滅びることをものともせずに、ひたすら神様の祝福を受ける血統の代を残すことを、自分の生命よりも価値あるものと考える女性が出てこなければならないのです。そのような女性がタマルです。
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 ユダはタマルの舅でしたが、父の立場にありました。父と娘が一つとなることによって彼女は妊娠しました。結局タマルは舅によって息子を妊娠したのです。創世記第三十八章を見ると、ユダには三人の息子があり、タマルはその長男の妻でした。彼女の夫は死に、このような場合、ユダヤ民族の慣習ではその二男によって息子を生まなければならないのですが、二男も死に、三男は幼なすぎました。それでタマルは神様の復帰してきた血統を継承することが何よりも重要であり必要なことだと思い、舅ユダによって子を妊娠するという最後の手段を使わざるを得なかったのです。その時、彼女は誇りも捨て、生命までも投げ出す覚悟をしました。彼女は遊女の衣をまとい、舅が通る道端に座って、農場に行くユダを誘惑して関係を結んだのです。
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 タマルは舅と血縁関係を結ぶために生命を投げ出しました。今すぐにでも石に打たれて死ぬかもしれないし、二つの家門がすべて打ち殺されるかもしれないというものでした。タマルはそのような状況の中でも、自分の体面と威信を捨てたのです。自分の夫が死んで、夫の弟を迎えたのですがその弟も死にました。ところが三男は幼くて、彼によっては天の祝福を受けた血統の代を受け継ぐことはできませんでした。そのような立場でタマルは、自分の威信と体面を捨てて生命を犠牲にしてでも天の祝福を受けた代を残さなければならないと誓ったのです。タマルのその心、それが貴いのです。
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 エサウとヤコブのときを考えてみると、リベカの腹中から闘ったのですが、先に生まれたエサウはサタン側です。ヤコブは生まれてから長子の嗣業を奪ったのです。ところがペレヅとゼラはタマルの腹中で闘い、ペレヅが長子の嗣業を奪い返したのです。母の腹中は息子、娘の生まれる根本ですが、その根本からすり替えられたのです。生まれてから替えたのではなく、腹中から替えられたのです。
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 腹中ですり替えられて先に生まれた息子に向かって、サタンは「お前は私の息子だ」ということはできないのです。腹中ですり替えられずに先に生まれたならばサタン側ですが、腹中ですり替えられて先に生まれたならば天の側なのです。タマルの腹中で闘ってペレヅがゼラを押し退けて生まれたので長子の嗣業を奪ったのです。ですから生まれつき長子なのです。ペレヅは必然的に次子となるべきであるにもかかわらず、長子の立場で生まれたので、善が先に生まれたということができます。
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 天の祝福が貴いものであるがゆえ、天の選民思想を残すことは重要なことです。それゆえその血統を受け継がなければならないのですが、自分の夫は死に、夫の兄弟がいないというのです。ユダヤの風習では兄が死ねば弟が兄嫁をめとらなければならないのですが、弟は死んでいないのです。それで血統を受け継ぐために、仕方なく遊女の衣をまとって舅を欺いて子をはらんだのです。どういうことか分かりますか。サタンの世界に行って奪ってこなければなりません。それゆえ舅は夫の代わりであり、兄の代わりです。そのような立場に立てて長子権を……アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、四代すべての祝福を受け継ぐために、タマルは生命を懸けて断行したのです。
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 サタンがどこに子の種を蒔いたかというと、子宮に蒔きました。それゆえ、ペレヅとゼラも双子として生まれたのです。一つの腹中に二つの種が蒔かれたのです。ですから双子なのです。タマルの腹中から生まれる二人の子がペレヅとゼラなのですが、その兄が先に出てこようと手を出したときに赤い糸を結んだのです。これはのちに、再臨の主の時に、共産主義世界から全権を代表した独裁者が先に現れることを意味するものです。それで第二次大戦時代はヒトラーのような独裁者が現れ、ソ連にはスターリンのような人物が現れたのです。スターリンは一九五三年に死にました。その時から中国とソ連が分かれたのです。先生が獄中から解放されて出てから三年目に死んだのです。歴史はすべて偶然ではありません。


  3.イエスの路程におけるマリヤの使命

 タマルは複数の男性を経て息子を生んだので、駄目なのです。ですから養子です。それゆえ、タマルのそのような志操を受け継いで、処女の身で精誠を尽くして神様の前に召命を受けることのできる女性がいなければなりません。そのような処女がいなければなりません。その処女がマリヤなのです。
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 マリヤはその時代において、自分の生命を懸けて神様のみ旨を誰よりも一生懸命追求する女性でした。あたかもタマルのような志操と忠節を尽くし、貴い天の血統を残すためにはいかなる冒険も強行することのできる大胆な立場に立っていた女性が、すなわちマリヤでした。天使ガブリエルが現れて、マリヤに遠からず懐妊するであろうと予告したとき、マリヤは「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」(ルカ一・三四)と答えました。天使が再び「神には、なんでもできないことはありません」(同一・三七)と言うと、マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(同一・三八)と答えたのでした。
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 イエス様はどのようにして生まれたのでしょうか。イエス様は血統を清めてこられました。兄弟から生まれ、双子時代を経て、エサウとヤコブを通して長子権を復帰し、タマルの腹中でペレヅとゼラの歴史に例を見ない、熾烈な闘いを通してひっくり返し、順序を変えて、血統転換を子宮でしたのです。先に出る兄を押し退けて出てきたのでペレヅと名づけられました。兄ゼラを押し退けて先に出てきたということです。タマルの腹中から兄ゼラの手が出てきたとき、産婆が赤い糸を手に結んだのは、今後この世界の継承者が現れるとき、共産主義が先に現れるということ予示したのです。これを退けて長子権復帰ができなければ、世界が統一されないのです。
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 タマルのような立場にあったのが、ヨセフの婚約者マリヤです。マリヤも母を欺き、父を欺きました。そして自分の夫ヨセフを欺いて子を妊娠しました。アダムとエバがそうして堕落したので、蕩減復帰原則がそうなっているのです。婚約時代に天倫に背いたので、マリヤはタマルの伝統を受け継いで、子宮に神様の伝統的歴史を受け継がなければならないのです。神様の祝福を受けた血統を尊重するマリヤは、自分の生死を越えて、自分が死んだとしてもそうしなければならなかったのです。ユダヤの法では、処女が妊娠すれば石に打たれて殺されることになっていました。そうでしょう。女性はみな、生命を捧げる覚悟をしなければならないのです。
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 ヨセフと婚約をしたマリヤという女性は、エバと全く同じです。アダムとエバが堕落したとき、どのような立場にいたかというと、婚約した立場にいたのです。アダムとエバが婚約した段階で堕落したのと同じなので、それを蕩減復帰するためにはリベカの伝統を受け継ぎ、タマルの伝統を受け継がなければなりません。そうして血統を清めた女性を代表した基準において、それを相続することのできる位置に立った人物がマリヤだったのです。
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 蕩減復帰原則によってこのように欺いたマリヤは、その時代の法からすれば石に打たれて死ななければなりません。石に打たれて死ななければならないのに、妊娠したイエス様を殺すわけにはいかないので、天がヨセフに「ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」(マタイ一・二〇)と伝え、ヨセフは仕方なくマリヤを迎えたのです。
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 天使長の血を受け継いだので、天使長と同じような人物を通してイエス様を懐妊させたのです。聖霊によって身ごもったですって。そんなばかげたことはもう終わりにしなさいというのです。蕩減復帰原則がそうなっているのです。神様が特別に愛する天の側で、一〇〇パーセント永遠に変わらない天の側の忠臣になることのできる天使長のような人物を立てれば、サタンが天使長の位置から去っていくのです。ですから、天使長級の天の側の人物を通してイエス様を生んだのです。このようにしてイエス様は長子として生まれたのです。堕落した長子権から新しい血統へと清められ、天の側の長子権として生まれたのです。それゆえイエス様を信じる人が神様を中心として神様の愛に接することになるので、その血統はサタンとは異なるのです。
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 ヨセフとマリヤが婚約したのは、アダムとエバが婚約段階にいたのと同じ立場です。それで神様は、婚約した関係にいるマリヤとヨセフの間からマリヤを奪わなければならなかったのです。神様がマリヤを奪わなければならないのは、失ったエバを復帰するためです。それでヨセフは、誰の立場ですか。天使長の立場です。ヨセフは元来、アダムの立場に立たなければならないのです。しかし、どうしてヨセフが天使長の立場ですか。堕落した後孫なので、種が違うからです。すなわち、根が違うというのです。ヨセフは堕落の種をもっているというのです。それゆえこれをひっくり返すには否定しなければなりません。それではその種は、どこから出てこなければなりませんか。神様から出てこなければなりません。
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 その子がどんな子かと言えば……。堕落した世界において、アダムのような立場の人が初めて成熟して天の側の天使長の立場に立つことのできる代表者になって、天の側の天使長の種を受け継いで本然の種以上の立場に上がってこそ神様の直系の子女ができるのです。ですからイエス様のお父さんは誰ですか。お父さんが違うのです。ヨセフではありません。天の側の天使長圏ですが、堕落した天使ではありません。だからと言って、神様が来て赤ちゃんを生んであげたのではありません。サタンは天使長でしょう。天の側で忠臣になることのできる、堕落した天使長以上の天使長格でなければなりません。サタンが讒訴できる位置ではありません。サタンが讒訴できない血統的土台とその種の内容がなければなりません。堕落は落ちて下がっていきましたが、再び上がることのできる心情圏を受け継いで、神様の息子の権威を受け継いでくるのがメシヤだというのです。複雑だというのです。それで、初めてこの地上に神様の初愛を受けた長男が生まれたのです。
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 イエス様が歴史的な背後のもつれたすべてを蕩減することができる過程を経ていくためには、母の絶対的な支持が必要でした。ガリラヤのカナの親戚の婚礼で、イエス様の母がぶどう酒がなくなったと言った時、イエス様が「婦人よ、あなたは、わたしと、なんのかかわりがありますか」(ヨハネ二・四)と言ったのは気分が良くて言った言葉でしょうか。「親戚の婚礼で何をばかげたことを言っているんだ。母としてすべきこともせずに」とはねつけたのです。それが分かりますか。
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 イエス様は公的に立った人物なので、公的なすべての規約を、天法に従って結婚するようになっているのであって、適当に出会って生活する男と女のようなわけにはいかないのです。歴史の方向に照準を合わせ、その摂理の時代に照準を合わせなければなりません。蕩減復帰のためにはそれが絶対に必要なのです。それが合わないがゆえにイエス様は結婚できなかったのです。
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 万王の王権をもってくるイエス様は、どのように来られましたか。血統を転換させ、勝利的な伝統を受け継いで来ました。それゆえ、マリヤの腹中に妊娠してもサタンは「それは私の息子だ」と言うことができないのです。タマルの心情的伝統を受け継いだ歴史的な基準の上に、国家的次元でマリヤが懐妊したので、エバの過ちを蕩減復帰したのです。それと同時に、歴史的願いである女性の行くべき道の前に結実の場に立って血統転換、長子復帰完成基準の心情圏の上で懐妊したので、腹中からサタンが自分の息子だと主張することができないのです。タマルにおいてペレヅは、生まれてから天の長子として主張することができるのであり、腹中では主張することができなかったのです。
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 イエス様が、仏教の釈迦牟尼、儒教の孔子、イスラム教のマホメットのような方と違うところは、どこでしょうか。血統を清めて来られた方は、歴史上イエス様しかありません。そこが違うのです。釈迦牟尼とイエス様のどこが違いますか。マホメットとはどこが違いますか。イエス様が釈迦牟尼やマホメットと違うところは、血統を清めて来られたということです。それがメシヤの特権です。そこが違うのです。歴史においてこのような歴史が繰り広げられることによって、イスラエルの国に初めてイエス様を中心としたキリスト教の出発がなされたのです。こうして真の父の立場に立つのです。
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 イエス様は万民に対して、このように宣布しました。「誰よりもわたしを愛しなさい」。誰よりもというのは、堕落した世の中を意味するものです。堕落した世の圏内は、堕落した愛の基準のもとにあるということです。その基準を越えなければなりません。ですから集約すれば、過程を中心とした自分の母、父よりも神様を愛するべきであり、本然の父母であるメシヤのために生きるべきであり、自分の妻や夫よりもイエス様を愛するべきなのです。それはどういうことでしょうか。蕩減復帰原則において、サタン側の愛を凌駕することのできる愛が、初めて出発することのできる基準を立てて宣布したということです。
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 祝福というのは、男性と女性の二人が出会うことではありません。イエス様はザカリヤの家庭、ザカリヤの族属、ザカリヤの一族の者とヨセフの一族の者、二つの家門、カイン・アベルの関係にある氏族的基盤の上に立たなければなりません。これが、イエス様の結婚の立場です。ところが、これができずに死にました。それゆえ、これを蕩減復帰するためのものが祝福です。イエス様とヨセフの家庭は、アベルの位置を意味します。そしてザカリヤの家庭は、カインの位置を意味します。
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 イエス様と洗礼ヨハネとの関係は、カインとアベルのような関係です。イエス様と洗礼ヨハネとは兄弟です。明らかにされていませんが兄弟です。洗礼ヨハネは最初の妻から生まれ、イエスは二番目の妻から生まれました。最初の妻から生まれてはいけません。それゆえ終末には淫乱が蔓延するのです。女性が身を売るという風潮が広がるのです。女性を解放しなければなりません。最初の夫ではならないのです。終末には放蕩な女、淫女、通りの女を通して偉大な人物が生まれるのです。どういう意味か分かりますか。めかけは堕落した世界から愛を奪ってくるのです。ですから今日、本妻であれ何であれ、めかけが逆に勢力をもつような時代になってきているのです。なぜそうなのでしょうか。最初のものはカイン側の愛であり、二番目のものは天の側の愛であるので、二番目のものを通して役事するのです。それゆえヨセフといった人物もイエス様も、二番目です。分かりましたか。


 二 真のお父様の歴史的蕩減路程

  1.蕩減路程を行く心構え

 私が四十年前に、四十年後にはこれこれこういう時が来ると言いました。その時は本当に小さな存在でした。服がなくて、二重のパジ(注:ズボン)も大切に表地と裏地を別々に青く染めてはき、上着がないので米軍の青い作業服を着て、靴は運動靴、その運動靴も日本人がくれたものでした。そのように三カ国の服を着て歩いたのです。そんな身なりで歩きながらも「これはみな蕩減復帰のためだ。蕩減復帰するためにアメリカのぼろ、韓国のぼろ、日本のぼろを私が着て歩くのだ」と言ったものです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。
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 私たちの教会は蕩減復帰の道を歩んできました。蕩減復帰をするために事情の多い道を経て、先生は今までこれくらい基盤を築いてきました。滅びることなく、サタンの鼻にかかって釣られることなく残りました。この基盤は誰のために築いたものでしょうか。自分のために築いたのではなく、人類のために築いたものです。これを統一教会のものとして残してはいけません。人類のためのものです。統一教会は今後なくならなければなりません。一つの主権の中に入っていかなけなりません。それがすべての宗教が望むところです。
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 イスラエル勝利圏の出発者ヤコブからキリスト教文化圏まで、四千年基盤を築いてきたものが失敗したのを、レバレンド・ムーン一代の四十年間で、どんな辱めを受けても、これを元に戻し蕩減復帰しなければなりません。それが四十年荒野路程でした。
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 イスラエルの歴史は、ヤコブからイエス様を経て今まで四千年の歴史です。この四千年の歴史を四十年で蕩減復帰できなければ流れてしまうのです。すべて壊れてしまうのです。四千年の歴史を四十年に圧縮して、すべてを蕩減しなければなりません。全世界が反対するのです。一つの国も例外があってはなりません。それはユダヤ教から、キリスト教から、アメリカから、共産党まで、すべてが先生に反対したのです。
           *
 イスラエルの路程は蕩減復帰路程です。モーセに従っていけばいいのです。しかしモーセは六十万の生死の圏に責任を取って天と地を抱いて倒れたのです。モーセがシナイ山で四十昼夜を徹夜断食しながら石板を受けようとしたことは、どれほど悲痛な事実でしょうか。モーセが安楽な立場にあったでしょうか。あなた方は何ですか。今までやくざのような格好をして。大家に来て暮らしながらも、その大家の歴史も知らず、何をするのかも知らずに、何も知らずに目を気にして飯を食い、人目ばかり気にしてきたのです。みな恥ずかしい事実を知らなければなりません。
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 荒っぽい人を見ると、足も大きく手も大きいのですが、先生の手足を見ると、苦労をしないお方だというのです。このように貴い体をもって生まれた方が苦労をしてはならないというのです。自分で考えても、苦労をしてはならないお方が苦労をしたという事実がおかしいのです。それは蕩減復帰を知らないからです。
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 皆さんは偽物です。偽物、偽物なのです。本物になることが易しいと思いますか。溶鉱炉に何百回も出たり入ったりしなければならないということを知らなければなりません。蕩減復帰、心情圏の復帰のために自分の息子、娘を刑場に送る父親となるとき、涙なしにはできないのです。アブラハムもそうでした。天理の大道を切り開き、神様のために、神様を愛の圏の中に解放するためには、このまま座っていてはならないのです。今日このような位置を備えたのも、偶然にそうなったのではありません。血の涙の出るような、血の涙が凝り固まってたまるような、そのような過程を経て統一教会の基盤が築かれたのです。その基盤を知れば涙なしに座ることはできず、痛悔の念なしには座ることができないという事実を知らなければなりません。
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 私は一生の間苦労してきましたが、私は豪華な高い位置で歴史を蕩減していこうというのではありません。私が享受することのできる福をあとに残しておいて、皆と苦労を共にし、先生が高く上がるそのような民族的な尊敬心も皆さんと同じ立場で、国家の解放とともに歓喜の一日を望むのが先生の希望だということを知らなければなりません。
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 監獄に入る人はみな、監獄に入るときから絶望と落胆の思いをもちますが、ここに立っているこの人は、監獄生活のあとにやってくる結果はどんなものであろうか、ということに相当な関心をもちます。皆さんは蕩減復帰を学んだので分かると思います。この峠を越えれば何が起こるか、今受けている苦痛が問題ではなく、その苦痛のあとに来る新しい歴史的な一つのプレゼントが何であろうかということを、いつも考えていたことが今も記憶に新しいのです。
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 責任分担を完遂できなかった私たちの先祖の罪により、サタンの愛の領域が天国の門前の境界線まで連結し、死亡の深い淵が生じたのです。それで先生は、世界から反対を受けながら国家基準を越えて蕩減復帰路程を行くのです。こうしてアメリカが民主主義世界のキリスト教文化圏を中心として本来の水平線、直接主管圏と完全に一つとなった位置で、世界的蕩減条件を立てた基台の上でカイン・アベルが蕩減復帰してきたのです。
           *
 蕩減復帰の道は厳粛なものです。間違いなく四十年間に失ったものを取り戻してくるのです。四十年前にキリスト教とアメリカが一つとなり、韓国を抱いて統一教会を支援したならば世界復帰は七年以内に終わったことでしょう。今日このような問題を四十年かけて、ヤコブから再臨時代までの四千年の再蕩減歴史を四十年間かけて家庭を引っ張って蕩減復帰し、監獄に入ってでもありとあらゆる苦労をし、これを一つにして清算しなければならないという使命、召命を受けたがゆえに、先生は生命を投げ出してその道のために闘ってきたのです。そのような歴史路程にこの者たち、あれこれ考えては勝手に遊んでこのようになったのです。悔い改めなければなりません。今からそのような人とは、私は会いません。これからは法で治めます。法で。
           *
 蕩減の道を歩みながら不平を言ったとするならば、既に消え去っていたことでしょう。蕩減復帰の道がどのようなものか、私がよく知っているからです。蕩減の道においては、世界的な迫害を受けなければなりません。万民が個人的立場から、世界五十億の人間が一対一ですべて反対する立場で、私が敗者にならないためにその反対する五十億の個人、彼ら以上のことをすべて成すという度胸をもたなければならないのです。そうでなければできません。
           *
 第二次大戦直後に、世界はすべて長子権復帰することができたはずでした。キリスト教が統一教会の文先生と一つになっていたならば、今日のような四十年の歴史は生じませんでした。共産主義は既になくなっていたはずです。先生の言うことさえ聞いていたならば、韓国は分断されることはありませんでした。キリスト教を中心として神霊な団体が、すべて私の言うことを聞いていたならば……ところがエデンの園を復帰するために準備されたすべての団体が、この世的な考えをもつことによって、洗礼ヨハネのような運命へと流れていってしまったのです。そうして解放以後、統一教会が反対を受けることによってこれを再び収拾するためにキリスト教の二千年歴史、ヤコブからの四千年の歴史を繰り返すということを、四十年間に蕩減復帰してきたのです。
           *
 先生は一人で蕩減復帰するのです。この世は知らないのです。こうして個人復帰、家庭復帰、このことをしてきたのです。サタン世界が蒔いたとおりに実ったのですが、この実った世界にメシヤが来て、これを再び救わなければ救う道がありません。解放直後、先生と一つとなりさえしたならば、七年路程を中心として一時に個人カイン、家庭カイン、氏族カイン、民族カイン、国家カイン、世界カイン、全体カインを蕩減復帰することができたのに、信じなかったので四十年延長されたのです。
           *
 先生がキリスト教とアメリカ、韓国の反対を受けることでどのような立場に立ったかというと、国のない一人の人になったのです。国がないのです。国がないと同時に民族もなく、氏族もなく、家庭もない孤児のような立場に落ちてしまったのです。ここから四十年の間に取り戻して、国家的、世界的霊的版図基盤の上に立たなければなりませんでした。しかし、霊的版図だけではならないのです。霊的版図基盤をキリスト教文化圏から引き継いで、国家基準の実体文化圏を再び取り戻し、その基盤の上に世界の実体キリスト教文化圏をすべて蕩減復帰しなければならないのです。
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 イスラエルの歴史は、ヤコブの時代から始まりました。イスラエルという勝利した伝統的な歴史を世界的勝利の基盤に、キリスト教文化圏を通して統一圏がつくられていたのに、これが反対することによって分かれたので、四千年を四十年で再び蕩減復帰しなければなりません。もしこれを四十年でなすことができなければ問題は大きくなります。この四十年間が歴史上大変遷の時代なのです。ですから、サタンが最も脅威を感じていた第二次大戦の直後に、サタンが全面的に後退するはずだったのですが、すべてがサタン側に立つことによって天が全面的に後退し、サタンが世界を全面的に支配し、天の側の統一教会を責め立て始めたのです。
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 僕の僕から始めるこれは、内的蕩減分別路程なのです。サタン世界のすべての縦的な蕩減条件をすべて立てれば、サタンが攻撃しようとしても攻撃する条件がないのです。ですから先生自身が僕の僕から僕に、僕から養子に、養子から庶子へと、このように蕩減復帰してきたのです。その次は息子復帰、母復帰をしなければならず、アダム復帰をしなければなりません。男性として最高の位置に上がり、女性として最高の位置に上がったという条件を立てて初めて父母の位置に上がるのであり、ただ上がっていくのではありません。内的蕩減条件、これを確実にしなければなりません。
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 復帰のためには、人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固とした主体性をもって進まなければなりません。人がどんな道を行こうと、私の行く道は忙しいのです。横からどんなことを言われても、そこに神経を遣っている暇はありません。夜寝る時間がありません。落ち着いて、楽に座って食事をする余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなければ復帰の道を行くことができません。
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 先生は生涯命懸けで闘ってきました。この世なら苦痛を避けて通ることができますが、これを避けることもできません。腕力や暴力をもってできることではありません。原理原則に従ってなさなければ、四方から押し寄せる矢を避けることができません。このような闘いは、神様が天地を創造されることよりも、もっと困難なことではないかと思われます。そのようなことをしながらも蕩減を立て、内的な基盤を築いてきたということは、皆さんは夢にも考えることができないことでしょう。そのような基盤を礎にして転換点を築いたということは、天宙的な勝利だということができます。
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 私が今死んだならば、私のように神様を愛し、私のように人類を愛する人がこの地にいるだろうかという懸念が先立ちます。そのような意味で私が長生きしなければならないのです。先生は皆さんの中からそのような人が早く出てくればどんなにいいかという目で、皆さんを見つめているということを知らなければなりません。神様がこのレバレンド・ムーンに祝福してくださるとすれば、神様が私にそのような人を下さることが一番のプレゼントであり、祝福であると考えるのです。今まで不信され苦難を受けてこられた神様を、先生以上に愛し、先生以上に人類を解放するために努力するという人がこの時間に現れるならば、きょうは栄光の日なのです。
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 ある霊通人が、文先生が偽物か本物か祈祷していて痛哭したのです。我知らず痛哭するのです。一日、二日、毎日痛哭するのです。どうしてでしょうか。文先生を知るには痛哭する心情を知らなければなりません。それを知らずには文先生が分からないのです。誰かが私に向かって一言ったならば、私は千年の恨を抱いて痛哭できる事情をもっているということを誰が知っているでしょうか。私が神様を知らなかったとすれば、それほど悪口を言われることはありません。神様をあまりにも知っているという罪によって……私だけを信じるしかない神様がどれほどかわいそうなことでしょう。二千年間のもつれた歴史を、二十年間で蕩減復帰しなければならないのです。ですから容易でしょうか。容易に言うことができるでしょうか。
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 蕩減原則をもって、歴史時代に神様が悲しまれたすべての事情と苦痛を解いてさしあげなければならないのです。そうしてこそ、その子が、過ちを犯して神様を苦労させた不孝者だということを知り、父母に仕えるにおいて不孝をした以上に、孝行の限りを尽くすことのできる真の孝行息子となるのではないかということです。それゆえ神様に仕えるにおいて自分のすべてを犠牲にして、御苦労される父母様の労苦を、歴史時代にどれほど苦労されたかを知らなければなりません。一歩一歩少しずつこのように清算することのできる時代になったので、神様に侍り、皆さんが今からでも神様の苦労を代わりに背負い、神様を解怨成就してさしあげなければなりません。
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 救世主はいったい何をしに来るのでしょうか。政治をするために来るお方ではありません。今日キリスト教で言うには、主が来ればすべて空中に上げられ、自分たちは連なって引き上げられ、地上の人々はみな……。違います。そうではありません。審判するというのですが、救世主は審判しに来られるお方ではありません。その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来られるのです。人類の父母として父母の心をもって来られるお方が、病気で死にそうになって呻吟している息子、娘を見て「お前はあの地獄に行け」と突き放すことができるでしょうか。堕落したこの世の父母でも、自分の子が死んでいく悲惨な姿を見ればのどを詰まらせ痛哭して、自分の生命を失ったとしても、子を生かすためならどんなことでもしたいという気持ちが先立つのです。それが父母であるのに、本然の父母の心情をもって来られる救世主はいかばかりでしょうか。審判というのは考えられないのです。そうではありませんか。
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 さあ、先生と神様が会うとしたら、笑って会うでしょうか、痛哭して会うでしょうか。考えてみてください。私が思うには、昏睡状態に陥ると考えられます。涙を流すとすれば体面があり、死ぬとすれば体面があるからです。体面がありません。四十年の生涯をやったとはいえ、誇るものは一つもありません。恥ずかしいばかりです。そのように思うのです。
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 統一教会の文先生という人が現れたので幸いです。人間の百五十万年という歴史的な恨がもつれ、絡み合ったものを元に戻すために、どれほど苦労したか知れません。限りなく転がっていくこの歴史的な悲惨な姿を、天の前に戻すための道を、誰が切り開くかということが問題です。統一教会の何年かの歴史の上に数千年の歴史が展開され、数十万年の歴史が背後でかみ合って動くのです。悲しみの歴史を、統一教会が蕩減の悲運を負って取り戻してきたということを忘れてはなりません。
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 私がこの地に人間として生まれ、本然の地上の万物を神様のように愛し、動物を神様のように愛し、人間を神様のように愛したがゆえに神様の愛の相対になったのです。神様から出発したので神様に帰るのです。神様は皆さんが生きている間に、何億万倍も素晴らしくなることを願っておられます。それゆえ御自身よりも素晴らしい息子となって帰ってくることを願っておられるという事実なのです。
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 先生の名前には興味深いものがあります。「文」という字をこのように早く書けば父という字になります。そして「鮮」という字は羊と魚を意味します。このように父を中心として陸地と海を合わせたものなのです。次に「明」は日と月です。海を一つにし、陸地を一つにする、カインとアベルを一つにする統一的真理を教え、日と月が一つとなる統一的真理を教えてくれる方とは誰かというと、神様だというのです。神様は知恵の王です。知恵の王であると同時に、神様は父母なのです。


  2.真のお母様を選ぶこと

 キリスト教を通して二千年の間再臨主が来ることができるようにしたがゆえに、キリスト教文化圏を中心として、第二次大戦直後にキリスト教とアメリカを中心とした勝利的基盤の上に先生が立ったならば、先生が苦労をしたでしょうか。その当時に先生を受け入れたならば誰がお母様になっていたでしょうか。聖進様のお母様が駄目ならば誰がなったでしょうか。イギリスの女性です。み旨からしてイギリスの女性です。イギリスの王宮が先生と関係を結ぶのです。そこはキリスト教文化圏ではありませんか。アメリカはイギリスが生んだのです。ですから李博士(注:李承晩)がなぜ西洋の女性を妻にしたかというと、そのような象徴的な意味があったのです。それゆえキリスト教が反対することによって、お母様が福を得たのです。
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 エバ復帰のために、七数を蕩減復帰しなければなりません。お母様を一九六〇年代に立てて一九六八年まで七年路程を経て「神の日」を定めるまで、お母様は迫害の時代に入ったのです。それで統一教会の女性たちはみなお母様を虐待して、あらゆる謀略中傷をする期間なのです。そのことをお母様は知らないので、お父様の言葉に絶対服従してこそ越えることができるのです。「ああしてこうして私の言うとおりにしなさい」と。ですから聖婚式ののち三年間は外に追い出して、三年を経てから先生と一緒に部屋の中に入ったのです。これはすべて事実です。我々統一教会員はそれが分かりますね。蕩減です、蕩減。個人蕩減路程、家庭蕩減路程を経てくるのです。
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 「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を立てて「神の日」まで……一九六〇年度から七年路程を経て一九六八年に心情一致圏を中心とした「神の日」を定めることができるようになったのです。お母様も長成期完成級から完成期完成級まで七年路程が残っているのです。そうしなければ心情圏が同じにならないのです。それゆえ先生は一九六〇年に結婚しましたが、七年を経て一九六八年の一月一日に「神の日」を定めたのです。原理的なのです。七年路程は誰にもみなあるのです。祝福家庭も七年路程を行かなければなりません。例外はありません。七年路程をみな行かなければなりません。祝福家庭が七年路程を行くことができなければ天国には入ることができません。統一教会に家庭楽園級が生じるのです。すべてが理論的なのです。
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 お母様を迎えたのは解放後十四年ぶりのことでした。一九六〇年度です。なぜ十四年なのでしょうか。人間始祖が長成期完成級で堕落したので二次の七年路程を経るという立場で、すなわち第三次七年路程を前にして第二次七年路程の終結時代に堕落したからです。ですから蕩減復帰原則によって十四年の迫害の路程で韓国に着陸して、統一教会という祭壇をつくり、既成教会と大韓民国と闘いながらお母様を選んで立てたのです。お母様を立てたところから初めて地上に着陸したのです。
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 お母様は二十歳を過ぎていてはならないのです。それはなぜでしょうか。アダムとエバがティーンエイジャーの時に堕落したからです。その時に堕落したのでお母様はそのような年齢でなければならないのです。どんなにもどかしいことでしょうか。この複雑な統一教会、統一教会を動かすために、お母様を選ぶのに大学を出た博士のお嬢さんもぞろぞろいて、目をぎらぎらに燃やして先生の相対になろうとありとあらゆる工作をしているのを眺めながら、何も知らないティーンエイジャーの女性を探さなければならない運命も大変なものです。仕方がないのです。蕩減復帰の原則があるがゆえに勝手にはできないのです。
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 蕩減復帰の原則を知っているがゆえに、四十になるまで槍柄のように年を取らなければならなかったのです。そして年の多いお嫁さんをもらえるわけでもなく、十八歳……十八歳を越えてはならないのです。統一教会に大学を出た博士、学士がぞろぞろいて、目をむいて射て捕らえようとするような女性の群れがおおかみのようにほえている所で、それにかまわず何も知らないお母様を迎えたのですから、どれほど大変なことになったことでしょうか。
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 結婚してからは妻の母(注:洪ハルモニ・大母様)に「三年間は絶対に正面の門から出入りしてはならない。母親だからといって訪ねてくるな。エデンの園でエバには母親がいなかった。正門を通ってはならない」と言ったのです。こんなことがあっていいのでしょうか。この世から見れば、妻の母親の前で婿たる者が「お母様の部屋に入るときは絶対に後門から入らなければならない。正門から来てはならない、三年間」と言ったのです。それゆえ私が最も恐ろしいのです。見た目にはただ……。
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 お母様は、エバがアダムを通して造られたように、何も知らないところから来なければなりません。親戚が多くてはなりません。三代がついてくるようではならないのです。縦的な基準において駄目なのです。正常的ではならないのです。今のお母様がまさしくそのようなお母様です。そうではないですか。兄もなければ父親もなく、一人です。母と娘の二人しかいません。また、そのお母さんは、主に仕えるために精誠を尽くすことにおいては韓国の代表です。主が肉身をもって来られるといって、腹中教から従ってきた人々なのです。また、知るところによるとお母様は、そのようなあらゆるエバ的な責任を果たした韓国の歴史を代表するおばあさんたちから祝福を受けていたのです。


 三 八段階蕩減路程と八定式

  1.縦横の八段階の蕩減復帰路程

 六千年の歴史は個人から家庭、氏族、民族、国家、世界へと来た歴史なのです。統一教会は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の愛復帰まで八段階を経るのです。祈祷するとき、八段階を中心としてするでしょう。お父様、個人復帰完成し、家庭復帰完成しました。それがどういうことかというと、個人復帰完成は最も中心にあり、家庭復帰完成は氏族の中に、氏族復帰完成は民族の中に、民族復帰完成は国家の中に、国家復帰完成は世界の中に、世界復帰完成は天宙の中に、天宙復帰完成は神様の愛の中にあるのです。すべて神様の愛を中心として天宙的に一つになれという意味なのです。
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 皆さんの体が、サタンの支配から逃れて神様と一つとなっていますか。自分を完全に否定しなければ、サタンに打ち勝つことができません。ですから三年半苦労をしなさいというのです。乞食、僕の僕から上がっていかなければなりません。縦的に僕の僕から僕、養子、庶子、直系子女、次には母、父、神、このように八段階です。また、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神、これも八段階です。ですから縦的に八段階であり、横的に八段階です。それが原理観です。先生の言葉ではありません。


  2.サタンの活動と八段階の勝利

 サタンが今まで歴史的に個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神、この八段階を中心としてついて回るものは何でしょうか。「神様、あなたは原則的な主人であり、神様の息子、理想的なアダムとエバ、すなわち真の父母というのは原則的な息子であり、その原則的な父が私を天使長としてつくったがゆえに、天使長の私が堕落する前に神様の愛と神様の息子の愛を受けられるというのが原則だった。そのように愛し尽くさなければ、あなたが原理的な父として原理的な息子を愛する立場に立つことができないのではないか」と言うのです。これが問題です。
私が堕落したとしても、あなたが私を愛してくれなければ私の所有を、本然のエデンでアダムの愛、神様の愛の圏内で主管することのできたすべてのものを取り戻すことはできないということです。個人的には、神様とアベルが一つとなり私を愛して、個人的な愛の条件をもって取り戻すことができるのであって、そうでなければ取り戻すことができないというのです。次に家庭もそうであり、氏族、民族、国家、世界もそのような立場にあり、天地もそのような立場にあると主張するのです。それがサタンが私たちの胸ぐらをつかむ、何というか、首を絞める綱なのです。
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 統一教会の原理は一つの原則的な道であり、その道を原理の道といって、そのまま入っていくことはできません。八段階を経ていくべき運命の道なのです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神まで八段階です。八数は再出発数です。その次に再出発は出てこないのです。
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 歴史上数多くの苦難の道がありましたが、先生の歩んできたこの八段階の苦難の道は、歴史時代にあった道だという事実を知らなければなりません。だからといって困難さゆえに「神様、私はこの立場を耐え忍ぶことができません」と、涙を流してはならない蕩減の道であったということを知らなければなりません。天国へ行く人は、涙を流しながらその道を行ってはならないのです。涙を流すところを喜びをもっていくことのできる基盤ができていなければ、天国の足場はこの地上世界に残らないという天理原則があるのです。
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 蕩減復帰は、肯定の条件が少しでも残っていてはなされません。絶対否定の条件によって蕩減条件が立てられるのです。そのように絶対否定の基準が個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神に至るまで立てられなければなりません。それで八段階が充足されれば人類歴史の理想郷に連結されます。その段階ごとに必ず絶対否定の過程を経なければ、神様と通じる理想郷を連結することができません。
           *
 「その八段階というのはレバレンド・ムーンがつくったものだ。私には蕩減は必要ない」と言うかもしれませんが、とんでもありません。人間の責任分担が事実ならば、人間の責任分担によってこのような形態の過程があるのです。堕落しなかったならば一度に、二十一年間自動的に越えるはずなのですが、このように壁で遮られているので一つ一つ処理しなければなりません。一度に処理することができないのです。サタンがいるがゆえに、一つ一つ処理して代置していくしかないのです。堕落したがゆえにサタンが生じ、蕩減条件が生じたのです。その蕩減条件は人間の責任分担があるがゆえに不可避な過程なのです。
           *
 復帰路程は個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様の愛復帰まで、八段階を経なければならないのですが、一度にそうすることはできません。アダムとエバが堕落しなかったならばそのまま完成したはずですが、これが歴史時代において僕の僕に落ちたがゆえに一度に上がることができないのです。それゆえ段階を開拓しながら続けていくこの過程には、過程ごとに必ず蕩減条件が必要だったのです。蕩減条件を立てることによってサタンが分立されます。サタンゆえに蕩減条件が必要なのであり、サタンがいなければ蕩減条件は必要ないのです。
           *
 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神までの八段階を上がっていくには、どのように行かなければならないのでしょうか。どこからこの茎を探し出すかというと、横に出て個人勝利をしなければならないのですが、心を中心として横に上がり、カインと闘って勝たなければなりません。このように八段階をカインと闘い、屈服させて上がっていくのです。なぜでしょうか。私にはサタンが付いているからなのです。これを知らなければなりません。
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 先生はこの世の天地の中でこのような蕩減法を知り、個人から愛の焦点を合わせて家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛の焦点を合わせてきました。そのたびにサタンがこれを撃破しようとありとあらゆることをするのです。それゆえ宗教は迫害の道を行くのです。涙と血を流さなければなりません。一番高いところに上ってはならないのです。日陰にいなければならないのです。そこが安全地帯です。サタンは驕慢なので、困難なところを嫌います。それゆえ最も悲惨なところが安全地帯なのです。
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 アダムが個人の立場で堕落したのですが、彼は全体の中心なので、復帰は世界を中心としてしなければなりません。復帰するときには、一時に復帰することができません。一つ一つ復帰していかなければなりません。個人の位置を整備し、家庭的な環境と氏族、民族、国家、世界、天宙的な環境まで整備をしなければなりません。すべて八段階を経るのです。理想世界を求めていく人間は、必ずやこのような問題を解決してこそ愛の主体である神様に出会うことができるのです。どこかがふさがっているならば、その基準以下では通じるかもしれませんが、それ以上の世界では通じません。それは絶対的な神様と一つとなる道を得ることができないのです。ある段階まで行けば、蘇生圏と長成圏の霊界までは霊人の協助を受けることができますが、神様と通じることは困難なのです。
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 僕の僕から僕へ、養子へ、庶子へ、直系子女へ、母へ、父へ、神様まで八段階です。八段階が残っているのです。きちんと分かっていなければなりません。統一教会の責任者となる前に、その国の僕にならなければなりません。そうしなければ解放の道がありません。僕の僕になり、養子の扱いを受けなければなりません。庶子の扱いを受けなければなりません。そして直系子女に……こうして上がっていくのです。この段階に上がるときは必ず蕩減がなければなりません。サタンと決闘して神様の公判による勝敗を決定しなければ蕩減路程を行くことができません。家庭蕩減路程を歩まずに氏族蕩減路程を行くことができますか。とんでもありません。氏族蕩減路程を歩まずに民族蕩減路程を行くことができ、民族蕩減路程を歩まずに国家蕩減路程を行くことができ、国家蕩減路程を歩まずに世界蕩減路程を行くことができ、世界蕩減路程を歩まずに天宙蕩減路程の道を行くことができるでしょうか。はっきり知っていなければなりません。
           *
 先生のことを言うと、個人アダムであると同時に家庭アダム、氏族アダム、民族アダム、国家、世界、天宙アダムの歴史を結び合わせてきたのです。僕の僕からずっと縦的に八段階を上がっていくのです。また八段階を上がるだけではなく、横的に個人、家庭、氏族、民族、世界まで、すべてを抱かなければならないのです。世界五十億人類まで、世界まで縦横を中心として蕩減路程をすべて経て上がっていくことによって、サタンが讒訴することのできない解放圏を成就するのです。その道は容易でしょうか。
           *
 今までの人類歴史は八十五万年と言われています。約八十五万年と見るのです。その期間、宗教運動は未開な時から迫害を受けてきたのです。それでは、このような歴史は誰がそうさせるのでしょうか。神様です。神様なのですが、僕の僕から段階的に分かれてくるのです。それでは僕の僕の中では、僕が主人となるのです。主人が僕を使うのではなく、僕が主人を使うようになるのです。そうなるには、このように天国の僕の主人になるには、サタン世界をすべて合わせた僕の迫害を受けて勝利しなければなりません。それゆえに死ぬ覚悟をしなければならないのです。それで死のうとする者は生きるという言葉が出てきたのです。
 僕の僕から僕の位置に上がり、次に僕から養子の位置へと上がるにも必ず迫害があるのです。ここも同じです。七段階まで。神様まで八段階です。それではこの迫害を誰が受けるというのでしょうか。人は変わりますが、神様は変わることがありません。ですからこの世界の宗教の中には僕の僕の宗教、僕の宗教、養子の宗教、庶子の宗教、息子の宗教、母の宗教、父の宗教、真の父母の宗教があるのです。一番最後には父母の宗教が出てくるのです。終末には真の父母を中心とした真の父母の宗教が現れるのです。統一教会という言葉ができ、宗教を統一するというのは、真の父母の内容をもった宗教の教理を通さなければそれが不可能なのです。


  3.八定式

 縦的な蕩減と横的な蕩減、八段階の蕩減がすべて終わったので、去年(一九八九年)八月三十一日(陰暦八月一日)を中心として八定式というものを、西洋社会でも最も高いアラスカに行って行いました。最も高い所です。そうして九月一日に天父主義を発表しました。天父主義です。愛援主義であると同時に父母主義です。父母主義とは愛そうということです。愛することは、サタンが反対することができません。統一教会が行く道の前にサタンが反対しなければ、あっと言う間に世界的なものへと展開されるのです。
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 八定式とは何か分かりますか。それは何ですか。縦横です。縦的に上がるには僕の僕から上がったのです。横的には個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に広げていくのです。縦的な基準が立たなければ、横的な円形を描くことはできません。円形がすべて一つの八段階にぴったりと合わなければならないのです。これを一九八九年九月一日にアラスカで終えたのです。アラスカは「アラッスムニカ(分かりましたか)」という意味です。
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 国家的基準と世界的、天宙的基準を中心として八定式を既に宣布することによって、縦的に天が思いのままに往来することができ、横的に天が思いのままに地球星のどの表面までも自由自在に通じることのできる時代が来たので、地球村という言葉が生まれました。地球村だけでなく、地球家族を訴えている統一教会、地球家族的役事が地上に展開し得る時代が来ました。世界全体が、昼と夜に二分されていた世界が、今は一日生活圏内に入り、すべてのものが瞬間的に世界と通じることのできる時代になりました。
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 八定式が終わったので何をすることができると言いましたか。父母権が解怨成就されるのです。ですからこの時が来るがゆえに、先生は父母の立場から皆さんを氏族的メシヤの立場に立てて、イエス様の立場の解怨成就、アダム家庭の解怨成就をするのです。皆さんの一族を通して、父母の過ちの基盤をすべて解消することによって初めて、すべての人が生まれた故郷が、天国の故郷の地へと転換されるのです。
           *
 アラスカで先生が、一九八九年八月三十一日に宣布したのが八定式です。そうすることによって世界人類の前に蕩減が必要のない時代に越えていくのです。それは何を意味するかと言えば、先生が行く所や統一教会の信徒たちが行く所には迫害時代がなくなったということです。これからは天の国に王国をつくるとか、私たちだけで様々なことをやっても、誰も讒訴できません。それで、その基地として定着する式が八定式です。
この八定式を基盤として一九八九年九月一日に天父主義を宣布しました。八定式が終わるまでは長子復帰時代です。長子復帰時代です。今こそ完全に長子権が復帰されたのです。長子権も天の側に復帰されることによって、サタンが反対できない世界的頂上圏に上り立つのです。これから私たちは強く大胆に押せばアメリカも押され、共産世界も押され、韓国も押される時が来ました。日本も押されるのです。ですから強く大胆でありなさいというのです。
           *
 八定式は縦的な蕩減歴史的路程、横的な個人、家庭、民族、国家、世界蕩減路程、八段階の縦横の路程を経て、定着することで、長子権復帰がなされ、この地の世界の人間の前には蕩減の路程が解消されるのです。八定式をすることによって、そうなるのです。長子権が復帰され、父母様が抱くことによって父母の愛の圏内から長子権復帰のための歴史時代の戦争史、闘争史がなくなり、愛によって和合することのできる蕩減の必要ない時に突入したのです。そのようにするためには八定式をしなければなりません。八定式をすることによって、その息子、娘を、長子と次子をもった父母が、このような子供たちを許してくれたので、その次には父母の許し圏の時代が来るのです。
           *
 八定式を宣布したアラスカは有名になります。今回私が帰るときに、北極の中央に教会を建てるように言いました。ソ連の共産党が反対すれば、私が責任を取るというのです。ちょうど北極の中央に私たち統一教会が世界万民のための祝福の基盤のために一生の間生きて、死ぬ前には北極の統一教会に来て四十日精誠を尽くして逝かなければならないと言えば……。考えてみなさい。氷山の世界に理想都市ができるのです。そうすれば何百里の道、何千里の道もすべて空中から補給して……。そのように一度やってみなさい。それは素晴らしいことです。それは今日の科学の力をもってすれば何でもありません。今から組立式にして……。そこに飛行場を造り、住もうとするのに何の問題がありますか。それで観光地コディアックに基地を造っておいて……。考えてみなさい。歴史時代にない関門になるのです。





























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