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宇宙主管を願う前に
自己主管を完成せよ

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一、序

 自己主管完成しなさい。堕落人間において、サタンを中心として、体が主体となって引かれた自分の人生を、神様を中心として心が主体となり、体を主管していく生活を意味します。すなわち、第一祝福の完成を意味します。

 被造世界において、人間は第一に、被造世界の主管主であり、第二に、被造世界の媒介体であり、和動の中心体であり、第三に、天宙を総合した実体相です。それゆえ、自己主管完成(個性完成)とは、すなわち、宇宙主管完成と直結します。

 自分を主管する前に、宇宙主管はできません。自分を主管してからこそ、宇宙主管ができます。自分を主管してこそ、神様を呼ぶことができ、神様の主管圏を願うことができるのが原理観です。アダムは、自分を主管できなかったために、堕落したのです。(一三一―三二二)

 先生がこの道を出発する前には「宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ」という標語を座右の銘にしました。自己主管とは、易しいものではありません。瞬間の誤りを回復するために、百倍の努力と苦痛を我慢して耐えなければなりませんでした。言葉は容易く、百倍であって、事実は天地の間の差があります。たとえ回復したとしても、なかったことにもなりません。(二一六―一五)

 修養をするとき、先生の標語は「宇宙主管を願う前に自己主管完成しよう」というものでした。また、くすぐったいのを感じない訓練も受けました。ある骨の折れる訓練も皆受けました。自己を克服し、自己を主管してこそ、完成の位置に進むことができるのです。(二〇四―二三)

 先生は皆さんに、宇宙主管を願う前に自己主管完成せよといつも言ってきました。この自己主管を完成させるのにおいて、最も大きい障害要因は、習慣化された堕落性です。堕落性を脱がずしては、自己主管を完成することができないためです。

 宇宙主管を願う前に自己主管完成せよという言葉は、容易いですが、先生もそれをなすまで、どれほど身悶えしたか分かりません。(統八六・三―二〇)

 先生が修養しながら、いちばん難しかったのは、火のような性格を克服することでした。それで、いちばんの標語が「宇宙主管を願う前に自己主管せよ」というものでした。(み―四九四)

 宇宙主管を願う前に自己主管するということが、どれほど恐ろしいかという事実を知るべきです。ここにサタン世界の根拠地があり、しこりが残っているという事実を知るべきです。悪が皆さんの前にあるのではありません。米国が悪く、世界が悪いのではありません。皆さんの心にあります。心に。心にあるというのです。(一三一―三二三)


二、自己主管の三大困難

 自己主管は、肉身(体)を中心とした自分の命を、徹底して否定していく生活です。このような自己否定の自己主管においての三大困難(三大怨讐)は、眠りと空腹と情欲です。

 先生は、今までの修養の途中に、三大目標を定めてきました。昔、このみ旨を立ててくるときに、三大目標を定めてきたのです。第一は何か? 宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ! これがいちばん難しいのです。いつでも苦痛の道、十字架の道を行くときは、こいつの「私」というのは逃げようとするのです。そのときは、「こいつ!」と言いながら、コントロールするのです。

 また、こいつの目は、良いものを見ようとして、悪い所に行こうとします。そんなときは、「こいつ!」と言うのです。そして、この口、こいつの口は、全部良いものを食べようとします。そのときは、「だめだ!」とこう言うのです。聞くのも全部良いものを聞いて、自分を主張しようとします。だめだというのです。また、男として生まれ、女を思い、愛の問題を考えます。そうすると「だめだ、この野郎!」と言うのです。「私が自己を主管し、コントロールできなければ、宇宙主管が皆壊れていってしまう」と出てきました。

 皆さんは、それを知るべきです。先生が少年時代にこの道を築いてくるときは、私を主管する前まで、劇場の前も通り過ぎませんでした。飲み屋の前も通り過ぎなかったということを知るべきです。また、扇動するこういう所は通いませんでした。大衆の前に出て扇動し、褒められるのを嫌いました。自己が自己を主管する前には、すべてが失敗です。

 では、いちばん難しいのは何か? 寝る問題です。寝る問題がいちばん難しいのです。その次には空腹なことです。その次に精力問題です。これが、三大怨讐です。三大怨讐。それゆえ、夜を明かしながらも修養の過程で立ててきたのです。一人で生きながらも、修養の過程で立ててきたというのです。皆さんたちが先生を考えるときは、先生は聖人だから皆違うと言うでしょうが、先生は鋭敏であるため、そんな問題にもっと敏感だということを知るべきです。もっと大変だという事実を知るべきです。(一三一―三二一)

 宗教が教えてくれるのは、善の道に行く道であると考えるとき、宗教の教えの内容は一体何か? 普遍的にある内容を教えてくれるのか? さあ、宗教の教えは、この体が喜ぶことを皆拒否するのです。皆拒否します。自分を中心として高まろうとするのは、皆拒否するのです。それで、昔中世でも修道士たちは苦行をしたのです。仏教のような所でも、苦行をすべきだと言うのです。

 さあ、体はお腹が空けば、泥棒をすべきだと言うのです。しかし、泥棒をしてはならないのです。体が、お腹が空けば、泥棒でもして食べるべきだと言うのです。そこで天、善は、「だめだ。死んでも泥棒してはいけない。」と言うのです。このように食べることが重要な問題です。その次に、眠気が来るといって、体面も知らず、恥も自分の威信も知らず、寝てばかりいると、彼は味気ない人です。イエス様がゲッセマネの園で祈るとき、弟子が居眠りしたのと同じように、先生が死ぬようになったのに、体面だの何だの考えず、眠気が来るから仕方ない、そうしてはだめなのです。そんな場であるほど、礼儀を守るべきであり、礼法を守るべきなのです。

 その次には何かというと、情緒的な面、愛の問題をどのようにコントロールするかということです。それが今まで、体が支配することに対する宗教世界の重要なブレーキというものです。それゆえ、自分を全的に否定せよというのです。否定。これは、なぜそうすべきなのか? 堕落したためです。

 「闘争史」というと、皆さんはただ外部で起こることを言いますが、皆さんの内部にもこの闘争史があるのです。皆さん、闘いますか?(はい)。目は目の闘いをし、鼻は鼻の闘いをし、耳は耳の闘いをし、口は口の闘いをし、手は手の闘いをし、心は心どうしで、全部闘うのです。(一三一―二五)


三、眠りの主管

一) 先生の七年間の苦労

 七年間私は、二時間しか睡眠を取りませんでした。私は日毎に原理を続けて話しました。ある食口に、眠気がひどく襲ってきたとき、突然その眠気が吹っ飛ぶほど、大きな衝撃を受けたことがあるそうです。天使がその人に出現して、「何をしているんだ! 先生を見なさい。先生は毎日、汗と涙と血を流して、続けて働いているではないですか・・・。」と叱ったのです。(み―五一九)

 先生は、だれよりももっとたくさん教えようと、夜を明かしながら、一九五七年度から七年間を、一日平均二時間しか寝られませんでした。なぜなら、緊迫した天倫の事情があるのを知ったためです。(一八六―三一)

 先生は、疲れるときにも寝ない。そのようになるまでには、一〇年以上かかった。時間になれば、腹が減るのは間違いない事実だが、腹が空かなかった。我々は、世界で最も大きな戦争をしているという事実を自覚すべきである。(一九六五・九・三〇)

 面白いこととともに、私たちは悪口を言われながらも、面白く過ごしました。そのときは、明け方の二時前には寝たことがなく、一日の平均睡眠時間は二時間でした。そのように、七年間神様のためにあらゆる精誠を捧げ尽くしました。寝られず、食べられず、着られず、迫害を受け、追われ、殴られながらも生きてきました。

 あるときには、ジャガイモ二つを持って先生を呼び、涙を流す人、頭にケガをして先生を訪ねる人・・・、このように統一教会の先生は、口で言えないほど惨めな人間の博覧会の見物をたくさんしました。しかしながら、どうしますか?(一六―三四四)

 先生は、寝坊をする人ではありません。いつも三時には起きるのです。一時に寝ても、二時間の間に何回も起きるのです。起きてから、そのまま寝るのではありません。うつ伏せになって祈りながら寝るのが常です。そんな生活の継続なのです。そんなことをお母さんは、先生とともに暮らしながらも、何年間も知りませんでした。清平へ連れていき、釣りをするので知ったのです。先生は、上の部屋にいて、お母さんは下の部屋にいるので、先生の生活を何が分かりますか。

 今も清平のような所に行けば、そのようにするのです。ですから、お母さんはいつもすまないと思うのです。自分が起きてみれば、いつも祈っているからです。いつ寝るのか・・・。そうだといって、私は倒れないのです。人が寝るとき寝て、遊ぶとき遊び、するときに皆しては、精誠を捧げることはできないのです。食べて残ったもの、使って残ったものをもってしては、神様の前に精誠にならないのです。自分の貴い身を切り、生命を切って行くべきです。それは、間違いないことです。それゆえ、生死を懸けて祈るのです。(五一―二七六)

 先生はアメリカで、平均二時間しか寝ませんでした。一二時に皆寝床に入るようにして、その次に三時半、四時まで勉強しました。時間がないために、寝ませんでした。疲れるひまがありませんでした。七年間は寝ませんでした。皆さんは、一日に何時間ずつ寝ますか? 六時間寝る人は、そのうちの二時間は先生のために使ってください。(み―二一四)


二) 天の伝統を立てなければならなかった先生

 私が伝統のため、どれほど心血を傾けたか、皆さんは知りません。(み―五一九)

 私においては、一二時、二時、三時がありません。また、ご飯を食べる時間もありません。一日に三食食べろと、だれが定めましたか? 私が定めなかったので、そのような基準に順応したくありません。(一一七―一四)

 人が生きていくには、いろいろと方法があります。ところで、このように毎食食べて生きていくべきだという原則を、だれが立てましたか? だれが立てたかというのです。神様がそのようにしろと言いましたか? そのような観を立てるなということです。(三〇―一四五)

 先生が行く道は、それが標準です。人よりたくさん寝るのではなく、歴史的にいちばん寝ない人になるのだと・・・。苦労をいちばんしようというのです。(一三五―三七)

 世界で先生の年に近い人の中で、私ほど寝ない人はいないでしょう。これは、神様のためにです。(九七―三〇九)


三) 眠りをなせない理由

 先生は世界復帰のため計画と結果について、新しい計画を立てようと、夜寝そびれるときが一度や二度ではありません。(二一七―二二)

 今、先生の位置が、皆さんが見るとき、うらやましいと思われるかもしれませんが、過去も今も寂しく孤独なときがたくさんありました。今も皆さんが眠る時間に、神様の事情を考え、夜明かしで祈っています。(統八二・一一―三二)

 この頃は、椅子で祈って計画して、しばし目を閉じるときが多くなりました。皆さんの将来のために、世界のために、神様のみ旨のためにという事実を肝に銘じるべきです。このように二十四時間考え計画を立て、すべきことを指示するありさまが不幸に見えるかもしれませんが、幸福はだんだん近くにやってきていることを知るべきです。(二一七―二二)

 これから天国のみ旨がなされたとき、最高に喜ぶ人はだれだろうか? たぶん統一教会の文先生がいちばん喜ぶでしょう。私はそのように思います。闘いでいちばん喜ぶのは、闘いに責任を持ったその司令官がいちばん喜ぶでしょう。兵士は疲れた一日の闘いをしてきましたが、夜に安心して眠ることができる立場ですが、司令官は夜眠れないのです。(一三二―二九)

 先生自身について、私が率直に話します。私自身が横になって寝て起きると、順にすぐに記憶されるのが、この時間も世界に広がっている統一教会の食口たちは、先生を中心として精誠を尽くす人が多く、先生を中心として生死をかけて祈祷する人たちがいるということです。それをいつも感じている人です。それゆえ、負債を負ってはならないのです。負債を負わないのです。(五一―二七六)

 私たちのような人たちは、昼寝ができないのです。昼寝ができません。いくら疲れても、昨日も約二時間半行きましたか? お母さんが、疲れるからちょっと休めと言っても、心が許しません、心が。何、年が多いと、休むときになったと言うけれど、眠れないのです。私は年が多いですが、私がすべきことは若い人よりもっと多いのです。前よりもっと大きな問題が起こって、すべきことがもっと多いのに、それをだれに任せることができるかというのです。今働くのは、全部だれかに任せないのです。私が指示するのです。全部私が指示するのです。私が指示するのは、ただ指示するのではありません。すでに霊的な何かがあるために指示するのです。それが何のことか分かりますか?(はい)。(一三三―一八一)

 皆さんは楽に眠るかもしれませんが、先生はそうできないのです。(一四二―二八)

 ご覧なさい。人の命に責任を持って、一生に一度だけしかない非常に重大な問題を置いて眠ることはできません。(一七一―四二)

 今回ニューヨークからレンバーまで行きましたが、距離が約二七〇〇キロメートルになります。それを夜昼二〇時間を走りました。こっくりしたら霊界に行くのです。一三時間ずつ運転手を叩いて運転するのです。世の中では二時間して交替し、四時間して交替してと言いますが、私たちはそうはできないのです。横にいる人は、全部グーグー寝ますが、私は寝ませんでした。アメリカの地に私が訪ねて来たのは、私のために来たのではありません。支部に訪ねて行ったのが三時半から四時だったのです。修練生は居眠りしましたが、私は居眠りしませんでした。夜を明かして話しました。(一五二―二五)

 先生は神様の所有である愛の決定物として、個人の公証を受け、家庭・民族・国家・世界から公証を受けるべき公的責任を背負っています。ですから、眠ろうとしても眠ることができず、休もうとしても休むことができず、死のうとしても死ぬことができない位置で、ただ一つの道だけを歩んできたのです。(統八六・二―四三)

 居眠りしてはいけない。居眠りするとサタンがついてくる。(一一―一〇)


四)眠るときも楽に眠ることができない

 眠るときも楽に眠るなというのです。先生がこの道を築いてきたときは、すべてが未完成であるので、仰向けになって眠れず、横になって眠りました。私がお父様のみ旨を知ってから後には、私の体をむやみにさらしませんでした。(二一―二一九)

 中学校、高等学校時代には、冷たい部屋で寝ました。そのときは、今より寒かったのです。そして、夏休みのときには故郷に帰らないのです。故郷を発って初めて迎える夏休みの期間というのは、いちばん懐かしいのです。しかしながら、故郷へ行かないのです。その懐かしさを抱いて、国のために、私が行くべき道のために、精誠を尽くすのです。冬には冷たい部屋で寝るのが常でした。火を付けないのです。布団を被っても四方から吹き込む冷たい風を抱いて、エビのようになって寝ながらも・・・。とても寒いので、私が電球を抱いて寝て焦がしてやけどをしましたが、今それがここに残っていて、そのときをいつも思っています。こうして築いてきた道なのです。(五一―二六二)

 先生は、可哀想で、乞食のような生活をよくした。寒いとき、新聞一枚が絹の布団以上の価値があることを切実に感じた。それは体験してみなければ分からない。事実を言うから事実に通ずるのである。これが必要である。(一五―一三二)

 自分の行くべき道を終わりまで行けないままで、手足を広げて昼寝をしている人を見ると、実に情けない。先生は、監獄でも楽に一度も寝られなかった。(一八―一八四)

 先生は、夜に寝て起きると再びそのまま寝ずに、必ず祈って寝る。このようにしてでも、神様が同情しうる立場に立つべきである。(一八―一三五)

 皆さん! 先生も疲れます。あるときには、部屋に入るなり、布団だ何だ服も脱ぐことができずに、倒れて眠るときがあります。しかし、何時間も経たないのに、起きれば体が軽いからするのです。(一七六―四五)


五) 徹夜祈祷と精誠(補充資料参照)

 皆さんは徹夜祈祷のようなものをするでしょう? 精神を天に全部捧げて、世の中の物情を皆忘れて・・・。その境地が何かというと、眠る境地に入ろうということです。この肉身のカスが全部沈滞すれば、澄んだ水が浮き上がるのと同じように、眠りは私たちが精神修養をして精神を上げ、悪い意識を全部下げようというのです。眠る境地、そんな境地に入るようになれば、皆さんが疲れてそうなれば、うつらうつらするでしょう? そのようなときは皆聞くのです。皆見えるのです。聞くには聞くけれど、確実に聞かず、見るには見るけれど、確実に見ません。そのようになれば、何が起きるでしょう? 夢のような現象が起きるのです。そのとき、何かを教えてくれるのです。分かりますか? それがすべて理論に合わなければなりません。何の話しか分かりますか?(はい)。

 それで、徹夜祈祷をして、すべての肉的なものを断絶させて、精神を統一して絶えず上げることによって、将来に自分の行くべき道であるとか、このようなことが見えて、その次に、それが習慣化されるようになると、全体を調整することができる位置に入るのです。そのようになれば、祈祷だけすれば、目を開けても見ることができ、皆聞くことができる境地まで入ります。二種類を見て、二種類を聞くのです。そのような位置に上がるには、相当な修練、修養が必要なのです。(九一―二七五)

 我々人間が堕落したことで、サタンの血統を受けたということです。サタンの血を受けたのです。それゆえ、動くようになるときは、この血に、悪なる血が動じているのです。皆さん、それが分かりますか? あのガラス管のような所に入れてみれば、濁った水のようです。泥水のようなものです。しかしながら、眠ればこのすべての肉身が休むために、沈むというのです。重いものは沈んで、澄んだ水が浮くのと同じです。本来の澄んだその心は、天と関係を結ぶことができるために、ここに象徴的であるとか、形象的にこれから行くことのできるものを夢の中で天が教えてくれるというのです。(九一―二七三)

 今、天のみ旨を中心とした一人の旗手となり、ありったけの力を尽くして叫ぶとき、その叫びが地だけではなく天に及びうるときになりました。イエス時代よりましなのです。イエス様は、ゲッセマネの園で夜を明かしながら祈りましたが、その三回の祈りにも反応がなかったのです。民族はもちろんであり、ユダヤ教会も反応がありませんでしたが、今我々のときは、それとは違います。自分が死を覚悟して立ち上がるようになれば、反応を引き起こすことができる群が、国家を超えて世界にいくらでもいます。我々は、このようなときに処しているのです。

 それゆえ、一晩を明かすのにも、我々食口のために明かすべきです。自分のために夜を明かす人は、ペテロになるのです。民族のために、世界のために夜を明かしたのがイエス様の立場ではありませんでしたか? 死が前を遮ってくるそのような運命の道でも、彼が心配していたのは自分の死ではなく、弟子たちを心配し、民族を心配したために、天の同情が臨んだのであり、それゆえ復活するようになったのではありませんか。皆さんは、それを知るべきです。そのような時が今です。

 今こそ、我々統一教会の教団が、イエス様がゲッセマネの園で夜を明かして祈ったときと同じように祈る時が来ました。夜を明かして祈るのに、自分のために祈る時ではありません。我々民族のため祈り、世界人類のために祈るべき時です。そのために夜を明かして、そのために共に泣く群は滅びないでしょう。死の道も共に行くことを決意した人は滅びないでしょう。その峠の道が、復活を約束しうる最後の判決を下すでしょう。自分を滅ばせるのではなく、滅びるようですが復活を追求させうる生命の動機を賦与してくれるでしょう。そのような時代が我々の前に近づいてきているのです。(六〇―三〇)

 今、三分の二は越えました。ですから、三分の一しか残っていないのに、何を心配することがありますか? そんなことは心配もしません。そんな問題は、祈りもしません。今まで経済問題では、祈祷を絶対しなかったのです。お金をくれと、私はそんな祈祷ができません。祈祷は、原則的な祈祷をするのであって、祈祷をむやみにすると蕩減を受けます。災いを受けます。我々のような人は、欲を持って絶対祈りません。

 さあ、そう知って、お金がなかったり品物がなかったときには、徹夜祈祷をするように願います。祈祷をするにおいては、自分の嘆きの祈梼だけしてはいけません。大韓民国を中心に、北韓に地に住んでいる民のために祈り、ソ連を中心として共産圏内で今呻吟している労働者たちのために祈るべきです。あのシベリヤ平原で死んでいくかわいそうな人々のために祈れというのです。彼らのために北韓を解放し、そこまで行って解放できる道を築くようにしてくれと祈ってこそ、天が聞いてくれるというのです。

 先生の祈りは、皆公式化されています。多くの祈りはしません。さっと目を閉じて、すっとするようになれば、もう天が共にあることが分かります。ですから、ただみ旨のために走るだけです。祈るより走るのです。考えることより実践するのです。(一六六―一九三)

 皆さん、徹夜祈祷しますか? 徹夜祈祷すべきです。講義する人は、必ずご飯一食を断食してしろというのです。精誠を尽くしなさい。そうでなければ、皆流れていきます。しがみついて訴えよというのです。哀切な訴えをしなさい。親が愛する子に訴える以上、先生が愛する弟子に訴える以上、妻が愛する夫に訴える以上、訴えるべきです。そうでなければ、天が共にありません。世の中にも、そのような心情圈が残っているのです。そのように考えます。(一六六―一八一)


六) 我々は摂理的な時をつかむべきである

 眠りの主管=時間主管=摂理的な時をつかむこと

 時間を主管することができる者が大者である。時間はすべてをもたらしてくれもし、奪っていきもする。時間を主管できる者は、人生を支配する術を知っている者である。(み―九一)

 過去と未来が連結されうる今日が、何よりも貴い。今日この時間に誇りうる何かを持つと言わなければならない。(み―二五二)

 長い歴史を時つことも重要だが、瞬間をうまく送ることが貴重である。寝て、食べて、する、ある瞬間が歴史的な運命が決定される瞬間であるということを忘れるな。一瞬間の失敗が一生の間積んだ功績を崩す。(み―一二一)

 時は、知らない間に訪ね来て、知らない間に過ぎ去る。我々がみ言を受けるその日から私の終わりの日が始まり、希望の日が始まるのである。

 人の生命は有限です。時間は絶えず過ぎ去ってしまいます。ですから、時間を捕まえるべきです。だれでも、摂理的な時間をつかむことができるなら、大きな運がついてくるでしょう。そして、天宙的な観点を持っているべきです。皆さんが天宙的な観点を持っていれば、神様が役事なさるでしょう。(統八五・七―一九)


補充資料 一

 夜、深い夜は、神秘性が強いというのです。それゆえ、復興会をするときにも、昼間に復興会をするよりは、夜に復興会をするのがもっと恵み深いのです。それはなぜそうなのかというと、昼間には我々のすべての感情が分散するためです。すなわち、視聴覚など我々が五官で感じうるすべての感覚が全部分散しやすいのです。しかし、夜にはそうではなく、むしろ集中できます。すべてが私を包囲して、私を際立たせ、そのような圏内に私が自動的に立つために、夜には神様とともに恵みの役事をしやすいのです。神様も役事をよくしてくださることができるというのです。それゆえ、夜に食口たちを連れて庭で話すと、その話しは神秘性を帯びるようになります。また、部落部落を往来しながら、食口たちを家まで連れていってあげる途中で話しをすると、その食口はそれを一生忘れられなくなるのです。その楽しみは何かで形容できないのです。そのような価値性を感じうる生活をする人は発展します。

 皆さんも一二時を越え、一番鶏が鳴く声を聞くときまで、み言を伝えてみろというのです。どれほど神秘的であるか。静かでひっそりとした夜に、町内の犬たちが吠える声を聞いていきながら、み言を伝えてみろというのです。まるであかあかとした日差しを探し、新しい人生の道を打開していくようであり、灯台の光を探し、新しく航海する船長のような気分を感じるようになるのです。周囲が一様に神秘でいっぱいに満ちた世界を、独り行くような勇敢な姿、りりしい姿、荘厳な姿を感じるようになるのです。このような心情的なつながりを持つには、夜の時間を中心として指導せよというのです。それゆえ、夜や明け方にこのような活動を展開する必要があります。

 ところで、その対象が夫のいる女性の場合には、必ず問題が起こります。それをよく理解させて、夜の時間を尊重視させて、夜でも自分の環境を振り切って出てくることができるようにすべきです。このような心情的な原動力を持つことが必要です。そうして、その人々が、いかなる環境でも皆さんが指示する通りについてくることができるようにすべきです。これをまず、み言でそのようにしなければならず、その次には、行動でそのようにしなければならず、心情でそのようにしておけば、その人は伝道できる程度まで育てておかなければなりません。このようになれば、皆さんは、伝道した人を一人も失ってしまわないでしょう。(二九―一九六)


補充資料 二

 今先生が行く道においても、私がどうすることもできない力に引かれていっています。皆さんも統一教会に来ては、ある大きな力が皆さんを追い出しているのを感じるでしょう。苦労して悪口を言われてこそ、むしろ力が出るでしょう。先生もあるときには、足が腫れて動かなくても、「こいつ足め、おまえは神様のためにいかなけりゃならん!」と言いながら、この道を進んでいます。今み言を始めて長い時間が流れましたが、時間観念なく話したら、時間が経つのも知らずに話し、聞いています。皆さんが時間が経つのを知らないでいるのは、神様の愛に酔っているためです。それで統一教会は、夜通しでみ言を聞いて語るのが常でした。(九七―二〇九)

 三人だけ心を合わせて立ち上がれば、寝なくても疲れない。先生は相対者がないときは、人を創造する立場で話す。(一七―三四七)

 土曜日の夜に教会で徹夜をすべきです。(一七―三四七)

 毎日のように恋しく思えない人は、神様に侍れません。皆さんは、これを知るべきです。だれを恋しがるにしても、いつも恋しさに浸っていなければなりません。ところで、一二時になると「さあ、寝よう」と言う人は、神様に心配をかける人です。天国は夜と昼がありません。心情の因縁を抱いて現れるときには、夜が問題ではないのです。(一七―二九三)

 忙しいときに、食べるものを皆食べて、寝るのを皆寝て、いつ天国を立てるか? 今我々はあまりにも忙しい。通行禁止の時間さえなければ、我々食口たちすべてが交替で夜通し活動すべきである。(一三―一三二)

 先生も行くべき道が残っている人です。闘うべき戦争の場が、皆さんよりももっと大きく残っています。夜が来る前から、その夜を予想しつつ、闘ってきたし、朝に恥ずかしい姿を表さないために、一晩中闘ってきたのです。

 このような場に集まった皆さんが、今日その父にお目にかかるなら、どんな心を持つでしょうか? 皆さんは楽に休みたいでしょう。しかし、今はそのような時ではありません。神様の胸痛む恨を解いてあげたい方がだれでしょうか? 民族を愛するその心を持って、民族の行くべき道を築くのに、先頭に立つべきです。開拓者の使命を果たさなければならないのです。(二○―一四一)

 世界がすべて寝入っているとき、ここで我々は統一しなければなりません。神様は、人が皆寝ている静かな時間に、神様のような考えをしている人を通じて統一しようとされます。(一五七―一二)


補充資料 三

 先生は今、刑務所に入るとしても恐れません。そこが天国です。そこから新しく始まるのです。そう、麦飯をやるとしてもいいというのです。腐って匂いのする味噌汁でも持ってこいというのです。それをかけて食べ、千年史を詠みつつ「実にうまいな。だれそれの先祖は、こんな飯を食べながら何を考えたか?」私はこのように考えるため、次元が違うのです。その瞬間はまじめでしょう。また、私が肥桶のそばで寝るとしても、「実によく寝たなあ。私の身の上を輝かせる、これから人類歴史を巻き取ることのできるいい機会が今ではないか。」そのように考えるのです。悪く考えるなということです。先生はそのように考えてきました。今も同じです。

 少し前に、工場を訪問したとき、生産部長が社内の状況を報告しましたが、それが先生に通じませんでした。彼が何カ月もかかると考える仕事を、先生が二三日までしろと指示をしました。ですから、約束した通り成し遂げられなければ、大きくやられるべきでしょう。だからといって、一言言えば、自分の体面だの何だのということになるだろうし・・・。ですから、軽挙妄動できますか? それで、何日かじっと置いてみました。ある日の夕方になると、しり込みして、のそのそしてから、先生の所にやってきて、今日の夕方には仕事ができなかったと言うのです。こいつらが私に間違って会ったでしょう。今から再び出発なので、全部集合しろと言いました。これは公的なことなので、一二時前までにやり尽くせなければ、家に帰れないと言いました。そうしたら、再び仕事をするのでした。ところで、彼らがやるやり方なら一二時でなく、一晩中やってもできない仕事でした。そのとき、作業に入った時間が夜九時ごろでしたが、一〇時、一一時が過ぎ、一二時になるまで放っておいてもやるべきことは皆やるのです。

 先生が命令したため、一二時でなく夜明かしでもするようになっているんですね。顔色が変わったのです。それで、一日でできる仕事をわずか三時間でやり尽くしました。一二時に「カーン」というまでやって、全部終えました。それだからそうなので、やってできないことはないのです。私が基準を立てるには、そうだというのです。人と同じように食べ、同じように着て、人と同じように時間に合わせて仕事をして、いつ人に先立つことができるかというのです。夜昼の別なく努力しなければならないのです。

 私は、今も一二時を越えて家に帰りますが、一二時三〇分ごろ寝床に入って、早朝二時一五分ごろに起きました。起きて何をしようというのでしょうか? 祈祷するのです。四時まで祈祷して、サイレンの音が聞こえると、そのときお母さんの部屋をノックします。それ以前にノックすると、失礼になるからです。四時一五分ごろ部屋に入って、工場に出る準備を急いで、五時三〇分までに工場に到着しました。彼らが出勤するまで三時間ほど待っているのですが、待つその味がどうでしょうか? 実に面白かったのです。人が皆寝ているこの時間に早く起きて、新しい心を持てば、気分がいいのです。「今このように働いたので、今日もこのようにできないときは気合いだ。」と言うと、職員たちが浮かれて仕事をするようになります。そうすれば気分が大変いいのです。疲れるのも、事情によって疲れるのです。気分がとてもいいと、疲れがみんな逃げていくのです。皆さんも一度そうしてみなさい。

 先生もじっと座っていると、眠気が来るときがあります。しかし、若い人たちに仕事をさせておいて、一人で楽に居眠りするのは、良心が許しません。私はそれができません。絶対にそのようにできないのです。しかし、あまりにも疲れたときには、神様に許しを乞い、少し目を閉じるときもありますが、私の勝手に寝ることはしません。いくら疲れていても、その場でそのまま倒れないのです。私が願う目的を必ず達成しておいて倒れれば倒れるのであって、それ以前には倒れないのです。今もそのような基準を持って暮らしています。

 それゆえ、いい居所での経験や生活が、絶対的なものではないのです。新しいものを発見せよ・・・。新しいものを発見すべきです。年をたくさん取った人たちは、疲れるでしょうが、今まで慣例的なことに対して反対の立場に立つようになれば、そこに神様が共にいらっしゃるようになるのです。必ず神様が共にあるのです。(三〇―一四五)





















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