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宇宙主管を願う前に
自己主管を完成せよ

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四、空腹の主管

一)先生は三〇歳までお腹が空かなかった日がなかった。

 今日皆さんは、すべて美しい服を着て、美しく装っていますが、私は三〇歳までお腹の空かない日がありませんでした。ご飯がなくてではありません。食べるものがあれば、かわいそうな人にあげるべきであり、着るものがあればかわいそうな人に分けてあげなければならないためです。

 学生時代には、黒石洞からソウル駅まで歩いて通いました。友達は全部電車に乗って通いましたが、そのとき電車代が一〇銭でした。私の行く道は、友達と違いました。その一〇銭を駅前に行って乞食にあげながら、「私が今あげたこのお金は少ないですが、これが千倍万倍に膨らんで、このかわいそうな民族が解放の日をもたらしうるようにしてください」と祈りました。私たちは、塗炭の苦しみに陥ってうめくうら悲しい民族の事情を知り、地と汗がにじんでいる民族の受難の歴史を知り、自分の一家を知り、自分の父母を知らなければなりません。(統八三・一二―一四)

 先生が、一九四一年度に日本に留学に行くために、釜山に向かってソウル駅を発つとき、ソウルを眺めながら、かわいそうなこの民族をだれが責任を持つかを考え、涙をたくさん流しました。今も漢江べりに行くと、かわいそうなこの民族が解放される日のために、涙を流し捕まえて祈ったその岩が残っています。しかし、解放はされましたが、この民族は、まだかわいそうな民族として残っています。

 地下室で人の知らない中で、涙で神様に訴えた時代は過ぎ去り、今は天地のために天の事情を暴露させ、血を吐いてでも訴えるべき時が来るなというのを感じながら、その道を歩んできたのです。(二二―一二一)

 統一教会の先生は、三〇歳前まではお腹の空かない日がありませんでした。お金がなくてそうなのではありません。そのように生きなければいけないので、心が安らかでないので・・・。私が三〇歳前までは、学生時代にも新しい洋服を買って着たことかありません。古物屋に行って古着を買って着ました。そして、その残りでかわいそうな人を助けてあげた人です。あるいは愛国者の家庭に夫が辱めを受けたり、難しいことがあると、名もなく助けた人です。そのような生活をしてきたのです。(五一―二六二)

 三〇歳までは、私がお腹の空かなかった日がありませんでした。分かりますか?(はい)。わざとこのような生活をしました。服は全部古物屋で買って、匂いのするものを着たのです。なぜ? 女性がついてくるからです。そうでなくてもくっつくのが多いのに・・・。徹底していたのです。また、口をききませんでした。私が口をきかないで暮らしたのです。私が口を開くときは天下が回ると考えたために、むやみに話さなかったのです。その過程では、私の行くべき道が忙しく、準備するのが忙しいのです、準備。その次に、口を開き始めるなら天下が・・・。(一三三―一七〇)

 先生は、三〇歳近くになるまでお腹が空いた生活をしたのです。いつもお腹が空いた生活をするのです。お腹が空かない日がなかったというのです。そのような生活をしたのです。お腹が空いた人を同情しながらも、私はお腹が空いた時間を讃えなければなりませんでした。それは深刻なものです。お腹が空いた時間には、深刻なのです。いちばん深刻なのです。ご飯がなくてそうするのではありません。わざとその道を行くのです。責任を果たせない人が、匙(サジ)を握ってご飯を勝手に食べられないというのです。私が準備すべきそのすべての課題をする前には、眠れないというのです。そんなざまで何ら他に考える余地がないのです。心はそれでも、もっとやれとさせるのです。

 私は、三〇歳までは二食でした。み旨を知ってからは二食にしました。三食を食べなかったのです。それゆえ、統一教会の教会員たちは三食ができないようになっています。ところで、こいつら、ご飯三食皆食べて、人と同じに皆寝て、昼寝をしたいのがみんな寝る? 私がそんなことができませんでしたか? 私の服を全部私の勝手に買って着られない人なのです、三〇歳まで。

 先生は、三〇を越えるまでお腹が空かなかった日がありません。神様に誓った基準が定まらないのに、どうして楽に食べて寝て着られたでしょうか?(一九八八・一〇・三)

 三〇歳前には自己主張をするな。(一三三―一七〇)

 皆さん、学校の先生の中で勉強を厳しく教えてくれる先生が良い先生ですか、ただいい加減に教えてくれる先生が良い先生ですか?(厳しく教えてくれる先生です)。ところで、厳しく教えてくれる先生を好きな学生は一人もいないでしょう?(はい)。厳しく教えてくれる先生が良い先生なのに、そんな先生を好きな学生はいないということです。反対です。反対なのです。そうかと言って、二つ共になろうとすると滅びるのです。その学校は滅びるというのです。反対作用をすることによって発展できるのです。若い人たちの前では、必ず制裁が必要なのです。自由は必要ありません。分かりますか? その言葉がそのことなのです。

 若い人がする通り、大学も出られないで、社会の経験もない人の言葉通りしたら、国を売るのが常なのです。家に入っても、学校でも、まだ世の中を知らないのです。全部知らないのです。習っていくことがたくさんあるので、三〇歳前には自己を主張するなというのです。(一三三―一七〇)


二) 空腹を我慢してきた理由

 天を感動させうる場に立て。お腹が空くとき、私をつかんで祈らず、天をつかんで祈れ。「お父様! 今日まで復帰の道を行くための子女たちがどれほど飢えましたか! そして、それをご覧になるお父様はどれほど悲しまれたでしょうか!」(道―三三二)

 天の父を思えば、一時も休むことができず、寝ることができず、お腹いっぱい食べられず、血と涙が乾く日がないのである。(統八二・四―二四)

 先生が、お腹いっぱいご飯を食べるために統一教会を作って、今日まで悪口を言われて、迫害を受けて、我慢してきた人だとお思いですか? 一生を振り返っても、ある日一食お腹いっぱい食べて、一晩楽に寝てみたときがありませんでした。私がお腹がいっぱいで、楽な生活に溺れたら、人の空腹を忘れるかと思って、ずっとお腹を空かせてきたし、苦労を嫌がらないで、先頭に立ってきたのです。(統八二・四―二三)

 先生は、人が飢えるのに私だけよく食べると、そうはしません。今はよく食べようとしてもよく食べることもできませんがね。(一七―二〇)

 胸の痛いことを、統一教会の文先生は受けないと思いますか。先生自身も落ちたご飯粒と豆粒を体面なく拾って食べたい、行動までしたい境遇まで至ったときもたくさんありました。(一二七―三二)

 先生は世界的なことに一人で熱中して、悪口を言われながらやってきました。お腹が空いて倒れるような境地でも「この腹の奴、行くべき道を行かねば!」といいながら歴史にない激闘をしてきた男なのです。(統八六・〇一―五九)

 先生はいい服もあります。しかしながら、必ずいい服は着ないのです。着ていた服でも着るのです。また、ネクタイが数十本になりますが、締めないのです。地味にして歩くのです。なぜそうなのか? 私が果たすべき責任をまだすべてなしえていないのです。責任を果たせない立場に立って、ご飯をよく食べたといってげっぷをしてはいけないのです。伸びをしながら、「ああよく食べた。」と言ってはいけないのです。サタンが讒訴するのです。公的な基準を中心としてすべきことなのです。(五一―二九二)

 お腹が空いたといって食べることに執着すると、僕の子にしかなりません。いちばんの怨讐が食べること、寝ることです。(一一―九)


三)食べ物に対する心の姿勢

 先生は、熱いご飯を食卓の上に上げておいて食べる度に、昔監獄にいるときのことを思いながら、今まで感謝した心を持って生活しています。(一七―五一)

 先生の食事を担当する人が言うには、先生が不思議なほどに分かるというのです。精誠を込めて作ったおかずは食べてももっと探し、精誠を尽くさずに作ったおかずは、いくら美味しいおかずでも食べないのです。仕えてみれば、先生は気難しいのです。舅のうちで気難しい舅でしょう。(一八八―一五七)

 昨日も日本の食口が、日本のミカン箱を持ってきました。私が日本のミカンが美味しいということを知っています。しかしながら、昨日それを見ながらも手を付けませんでした。精誠の込められた品物は、むやみに扱ってはいけないのです。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。毒薬よりも・・・。(五一―二七六)

 ご覧なさい。電灯の光があると、虫たちは全部電灯の光の方に行くでしょう? 同じなのです。微々たる昆虫も電灯の光に向かって行くのに、万物の霊長たる人間が生命の光がある所へ行かないようになっていますか? ついて行くようになっているのです。それゆえ、お腹が空いたと思うとき、ご飯を食べても「ストップ」といって考えて食べろというのです。匙を持っても「ああ、腹減った。飯の奴、よく来たな。」そう言ってはいけません。ご飯を食べても蕩減原則を中心として「お前はだれに食べてもらいたいのか? お前はカインよりもアベルに食べてもらいたいだろう?」と言って聞いてみると「そうです」と答えるのです。

 では、「この部屋にお腹の空いた人がたくさんいるのだが、お腹の空いた人の中でだれのお腹に入りたいか?」と聞くと、よりアベル的な人のお腹に入りたいと言うのです。そんな人がいるのか? お腹の空いた人はたくさんいますが、公儀の仕事をして疲れて来た人にご飯を持っていってあげれば引っかからないのです。仕事をしないで遊んでいた人たちより・・・。この世もそうではないですか? 同じでしょう? なぜそうしてこそ通じるかというと、公法に引っかからず、免れうる道がそこにあるからです。歴史はそのように・・・。もう分かるでしょう。(七四―三三五)

 さあ、では自分が善なることがはっきりと分かり、悪なることがはっきりわかりますか? 真理を知るべきです。真理を知れば真でないことから解放されるのです。聖書に「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」と言いましたが、真が分かるかというのです。それゆえ、善であろうというのです。善を追求する人は、体を打たなければなりません。存在するために続けなければなりません。

 我々の日常生活で、人々はいいものがあると、まずいいものに手が行くのです。いいものをまず食べようとするのです。これを本質的に見るとき、サタン側の悪なる食べ物を食べるのか、善の食べ物を食べるのか自分に尋ねるのです。自分が何かを食べるにも、善なる食べ物を食べるのか、悪なる食べ物を食べるのかという二つです。食べ物というのは、宇宙の共有、共同の品物です。共同の価値を持った品物だということを知るべきです。その食べ物が言うとき、だれでも自分を食べればその人に善なる食べ物になって、より価値ある栄養素を作ってあげるのに、悪い奴が食べるために、悪い栄養素になってしまうというのです。

 このように見るとき、自分が着る服もそうです。服が言うに「ああ、私は善なる人に着られるべきだ。悪なる人は嫌だ。」そう言うのです。問題が深刻なのです。もちろん、日常食べて暮らす一切もそうなのです。考えることも、今日話す言葉にも善悪があるのです。すべて二つに現れるのです。考えることもそうであり、行動することも同じなのです。(一三一―二四)

 ご飯を食べることも、自分のためではなく、目的を中心として食べなければなりません。このご飯を食べたら自分が世界のために走るという思いで・・・。(統七三・一一―二四)


四)衣食住生活の蕩減の原則

 ―まず食べさせてから食べよう(食)

 ―まず着せてから着よう(衣)

 ―まず買ってあげてから買おう(住)

 最小限一人(家庭)でも自分の生活理想の基準を立てて生活しよう。あげるときは、民族と国家と世界全体を代表した位置に置いて、最大の至誠を尽くしてあげなさい。先生は、一人で高級食堂に行ってご飯を食べられない人です。いい寝床に行って安心して眠れない人です。しかし、お客さんが訪ねて来たら、いい御馳走をもてなします。(統七九・〇三―一〇)

 私が、あるときは、中国料理の店に行って、中国料理を一度食べたらいいと思いますが、先生の体面で一人で行って食べることができますか?(笑い)それゆえ、原理原則通り「おい、腹の減った食口がいたら、どっさり食わせてやらなければならない」と言って、一緒に行って食べるのです。そうして一緒に行った食口が食べながら「ああ、いいな」と言うと私も蕩減復帰になるのです。(笑い)全部原理原則なのです。(七四―三三五)

 今朝、私がお母様に話しました。私に報告しないで使っているお金があったら、そのお金がどれほどになると、私にすぐに報告しなさいとね。すぐに言いなさいと言いました。先生に報告せずにお母様が手をつけてはいけないのです。それはなんのことか分かりますか?

 知らないうちに、家の中が欠けて出ていき、歴史が横道にそれていくのです。愛する人だといって、家の中の食口だからといってそのまま寛容できません。それで、お母様に訓示するには「あなたがつける装身具とか、すべてを買うのはいいけれど、それをうちの子供たちに伝授するためなら買うな」と言いました。食口たちに来いと言って買ってやったのは言いません。いくらを使っても・・・。

 そのように訓示してみると、約婚の指輪までどこに行ったのか、みんな分けてやりました。それは間違いなく、この次に我々が死んだら、全部博物館に帰ってこなければなりません。子供たちにやらなくても、世界の子供たちの手を経て皆入ってくるようになっているのです。

 お母様の服は多くありません。先生がしょっちゅうやれと言うからね・・・。生まれつきだから、またそのようにしてしまうのです。あまりにもあげるから心配です。(笑い)近くにいる輩はただもらおうと、この駄犬のような女たち! 近くにいる女たちはもらって着ようと思ったらいけないのです。わざと全部刺し子に縫った服を着てくるのです。ニューヨークに来るようになると、よくない服を着てくるのです。お母様に服を一着もらって着ようとね。そんな女たちは雷に打たれるでしょう。(笑い)

 ご覧なさい。私がうちのお母さんに足袋の片方も買ってあげられませんでした。この世にない親不孝です。うちの聖進も、お母さんが入ってくるときまで、私がお金一銭をやったり、パン一切れも買ってやりませんでした。君たちは、飢えるようになれば全部食べるものを供給してやり、反対する奴等までも人知れずご飯を食べさせて生かすというこんなことをしながらもね。そのようなことをしたことは知らないでしょう? そのようなことをしながら、全部助けてやりながらも、私の子供にはしなかったのです。皆さんはそのように暮らしましたか、暮らしませんでしたか? この頃私は、公式席上に出るときにもなるべくネクタイを締めないようにします。

 皆さんは、今衛星国家内で地下運動をする食口たちがいるということを知るべきです。死刑宣告を受けた食口たちもいます。それをだれに言うかというのです。それを考えてみなさい。彼らは、自分が愛する子供を犠牲にしてでも「解放の責任が私にあるのに・・・。」このように考えるのです。彼らがだれを信じて死んでいきますか? だれを信じて死んでいきますか? ただ先生一人を信じて死んでいくのです。

 夜も昼も、雨が降っても風が吹いても、その人たちに全部お金を補給します。第三国を通じて国境を越えるそのようなことをしています。中国にも地下印刷所まで全部作っておきました。この野郎たち! あんたたちは、自分の子供たちのために、自分のご飯を食べるために駄犬のように働いていますが、彼らはみ旨のために人知れず地下組織編成のため、今まで働いているのです・・・。

 皆さんがいつこんなことを考えてみましたか? 自分たちがこのような外国人たちの世話になっているのに対して、恥ずかしさを知らないでいる人が多いのです。世話になって復興する国はありません。援助を受けて豊かになった国があったことはありません。先生は一生の間、だれかの支援を受けてしたのではありません。私の手でするのです。

 それゆえ、今政治をする人が私のところに訪ねてきても、私が嫌がる人です。訪ねてくるほどの人々は、皆来られないように、私が除外してしまいました。名のある人として、私の世話にならない奴はいません。訪ねて来れないのです。

 文先生がそのように愚かでないのです。君たちは全部学費のために、あるいは、子供たちを食べさせて生かすためにこうしていますが、そんなことは私の眼中にもないのです。私がここに座って、皆こう言ったので、協助してくれるのです。皆さんの顔は、皆明るいですね。何をよく食べたのか。統一教会の食口たちは、見るには皆切れ端になるべきであるようなのに、顔を見ると皆明るいのです。それでも先生を信じて心配はしない様子でしょう?(一三六―八九)

 先生自身もそうです。今ある家やそれ以外の全部を、私のものだとは思いません。そのどんなものも公的に処分するのに問題がありません。先生に、お金が何百万ウォン、何千万ウォンが預金されている通帳があったとしても、公的になくすのには問題ではないというのです。神様のために使うのを、自分が使うことより嬉しく思わなければならないのです。絶対的にそうです。このような絶対的な基準を立てなくしては、天の家庭になりえないということを、皆さんは知るべきです。(二三―三二〇)

 私は今も印象に残ることが何かというと、現在我が統一教会のある幹部に、「おい、お前の部屋を空けて、誰々にやれ。」と命令してみたのです。「お前が暮らしている部屋をなにがしにやって、お前はこのようにしろ。」と言ってみたのです。そうしては、じっと置いてみたのです。それができなければ、点数が0点なのです。部屋を愛するのか、食口を愛するのか? 問題はそこなのです。

 自分を愛すべきか、食口を愛すべきか? 自分を愛して救われる道がありますか!(ありません)。カインを復帰せずしては、アベルは救われる道がないというのです。そうでしょう? カインは怨讐であり、サタンです。サタンを愛さずしては、サタンを屈服させずしては、天国に行けないのです。それで、怨讐でない自分の愛する兄弟を愛せというのに、それもできないでしょうか?

 それゆえ先生がそんなことを・・・。先生は、み旨のために全部を変えた人です。飢えている怨讐、統一教会の怨讐と噂になった女もいるし男もいますが、その人たちが、食べるものがなくて私が人知れず米を買って送りました。我が統一教会の食口が飢えているのに、何のことか分かりますか? 食口たちは、自分の子供たちなのです。自分の囲いの中にいる自分の側だというのです。食口たちは飢えて死んでも、私は引っかからないのです。食口が飢え死にしたら、天の同情がありますが、怨讐が死んだら、私が引っかかって入るのです。私が怨讐を愛する前に、彼らが死んではいけないのです。統一教会に対して過激に反対する何人かは、統一教会のみ旨が成されるときまで残っていて欲しいというのが先生の願うところです。死なないのです。そんな人は、何人いますか? そんな人たちを助けてあげるのです。

 助けてあげるにおいても、使って残ったもので助けてあげるのではありません。最も貴いもの、真ん中の一切れを切ってあげることをしなければなりません。天が許すときは、自分の妻まで譲りうる雅量を持つべきなのです。なぜそうなのか? 神様がサタンの前に自分の相対を残してやった以後、今まで一人でやってこられたのではないかということです。そうでしょう? 品物が問題ではないのです。(五一―二八九)

 私がこれから家を買うということは・・・。汝矣島に世界本部を建てる土地を準備しておき、大学を建てることのできる一〇余万坪の土地を買っておきました。また、世界修練所として使う一二〇万坪以上の土地を買っておきました。このようにしておいたので、今私が家を買っても大丈夫なのです。今は私の番です。その家は皆さんが買ってくれるべきなのです。

 皆さんが家を建ててくれるのを願うのは、私がお金がなくてそう言うのではありません。先生が位置をつかむ歴史的な基点において、それでも韓国人がまず家を建ててくれてこそ、その権威と威信が千秋万代に立つようになるからです。それでもある者は、これを考えていますか? 私にはすぐに家を買うことのできるお金があります。しかしながら、理知が違うのです。今も子供たちは子供たちなりに別に暮らし、お母さんはお母さんなりに暮らし、私は私なりに別に暮らしています。一度会おうとすると、服を着替えて行ったり来たりしなければならないようなことをしているのです。ですから、皆さんの威信が立ちません。このような問題について見るとき、家はできるなら皆さんの手を経て買うべきなのです。そうしてこそ神様の前に皆さんの威信が立つのです。皆さんが今まで親の家を買ってあげようと、ありとあらゆることをみんなしたかもしれませんが、韓国人に残してあげうるこの一時の特権を外国人に残してあげたくないのです。何のことか分かりますか?(五一―二九三)

 先生がこのように暮らすから、皆さんは先生より豊かに暮らしてはいけないのです。そうすべきではありませんか? ご飯を先生よりよく食べてもいけないし、服を先生よりよく着てもいけません。原則がそのようになっています。皆さんが服をよく着て、ご飯をよく食べることを先生が嫌でそう言うのではありません。先生がなぜそう言うのか、今祈祷してみなさい。

 一家の生計のためです。一家の生計のため、皆さんもここに入ってきてご飯を食べるのです。この世だったら追い出される人がここにたくさんいます。ただ行ったり来たりしながら、仕事もしないでご飯を食べるひとが多いのです。それでも見て見ないふりをします。みんな知っていますが、先生を見ると恥ずかしがるから、わざと先生が見て見ないふりをするのです。皆さんに職場はありますか? 何がありますか? それでご飯を食べさせてあげるのです。そのように何力月間かいたのに、後で引っ越しするのに、お金がなくて行く所がないと言うのです。それで家まで求めてあげたことがあります。なぜそうするのか? 先生がこの土地に来て伝統を立てていかなければならないからです。先生の財産は一つもないと言ってもいいのです。先生は伝統を残していくべきです。先生が預金をして何をしてということは、これから祝福家庭たちが暮らせなくなったらいけないので、彼らのためにすることです。先生が祝福してあげたから、豊かに暮らすようにしてあげるべき責任が先生にあるのです。

 これからはお金もたくさんできるでしょう。それゆえ、お金が問題にはなりません。皆さんは先生と同じ道を経ていくべきです。神様にどのように仕えて、天の家庭がどのようにすべきかという問題を考えながら、皆さんの道を行くべきです。(二三―三二一)

 親に世話になってはいけません。世話になったら、世話になった以上自分がそれを子供の前に加えればいいのです。親の前に返せないものを、子供たちの前に何倍すると言うべきです。子供がいなかったら、それを町内の子供のような人に自分がしなければ、と言うべきなのです。心で世話になって、実際の生活で世話になっていった人は、天国に入れません。自分のためにして世話になっていく人は、天国に入れません。そのような人は僕にしかなれません。頭を下げて暮らさなければなりません。主人にはなれません。主人の子供になれないのです。それは確実ですか?(はい)。

 ですから、世話にならないために、自分に食べるものがあれば、いいご飯を作ってかごに入れて頭に載せて、道行く人々に「どうか召し上がってください」という風潮の時代が来るのです。分かりますか? 子供たちを愛せなかった人は、いい家を建てておいて、「子供たちの代わりにうちに来て暮らしてください」と、そうしうる時が来るのです。そうしうる環境が展開すれば、どれほどいい世の中だろうか考えてみなさい。自分の貴いものをあげようとし、為にしようとし、残していこうとし・・・。

 それゆえ、昼に尽くせなかったら夜にでもすべきなのです。眠れないのです。そうであれば、その国がどれほどすばらしいでしょうか? 分かりますか、こいつたち。(はい)。大概の概念が分かりましたか?(はい)。(一三三―一四二)

 統一教会の人たちは、人よりもう一つすべきです。山の頂上に上がるのにも、上がってそのまま休むのではありません。統一教会の食口たちは、人より一歩でももっと歩いてから休むべきです。これが統一思想です。勉強をしても、人より一分でももっとしろというのです。人が一〇頁の本を読んで寝れば、一一頁読んで寝ろというのです。一頁でももっと見ろというのです。会社で仕事をするにも、人よりもっとしろというのです。出勤をするのにも、出勤時間が八時なら八時以前に出動できなければなりません。退社するときも、人より一〇分でももっと遅くしろというのです。もう一つしろというのです。作業場や、あるいは何かの仕事でもそのようにしろというのです。始まりは人より少し早くして、締め括(くく)りは人より後にしろというのです。そうすると、食べるものはどのようにすべきですか? 仕事を人よりもう一つするから、食べるものももう一つ食べなければならないなあ。(笑い)人が一〇さじ食べるなら、自分は一一さじ食べるべきでしょう? そんなことを誤解して、もう一さじ食べようと目を鋭くしてはいけません。(笑い)(四八―一一四)

 統一教会の文先生は、今までの生活哲学が、後で食べて先にさじを置くというのです。ですから、さじをまず置けますか? さじを持つときは後に持ち、置くときはいちばん先に置くべきなのです。以前にある人が証すのには、いつも先生がさじを先に置き、自分はさじをつかんで自分の腹と戦ったというのです。(笑い)そうしてみると、ご飯を食べる場面で、その人たちは弟子になり、自分は師の位置に上がるのです。ご飯を食べる度に頭を下げるのです。それはそうすることができますか? 理解できませんか? そうできるでしょう?(はい)。それが統一思想です。皆さんは、それを知るべきです。(四八―一一六)


五)天の人はどこへ行っても飢える法はない

 天が愛する人は、どこへ行っても食いはぐれる法がありません。先生は今まで、ご飯を考えてみたことがなく、私がお金を稼いで暮らそうという、そういう考えはしてみませんでした。そうかといって、ご飯がありませんか? どこへ行ってもご飯が待っています。(一五九―四五)

 お腹が空くときは、人の家がご飯を食べるところに行き、挨拶もせずにがつがつ食べます。主人が何か言うと「あなたは朝昼みな食べたが、私はいつからか五食を食べませんでした。ですから、神様も、食べなかった人が食べるのが善だと言ったから、一食ぐらい譲るのが人間の道理ではないですか?」と言うのです。私が悪党でなく、国に被害を被らせるためでなく、暗行御史(李朝時代、王命によりひそかに地方官の治績や非行を調査するために派遣された臨時の官職)と同じ立場で、天倫を正し、人倫を正すために天命により現れた人なのに、私の行く道が千里の道のようなのに、いつ暮らせるほど稼げますか。理論がしっかりと立っています。(一八五―三〇)

 生まれたばかりの昆虫の幼虫も、生きようと食べるものを探すのに、万物の霊長が習って食べるものを探し、習って死ぬこと、生きることを探して・・・。そのようになっていません。(五六―一五三)

 祝福を受けた家庭が、商売をしないと暮らせないと、人のように暮らすべきだとあがいてはいけません。だめなのです。絶対にいけません。もし、お金を自分の欲から持つようになると、後で泥棒に遭ったりなくしたりするようになります。でなければ、強盗されるようになります。そうか、そうでないか見てご覧なさい。神様が認めない財産を持とうと思っては絶対にいけません。(二一―三二〇)

 堕落人間は、自分の存在目的のために、心配しないで存在するために、必要な要件のために心配している。しかし、天は公的な目的のために衣食住を顧みず苦労する人には、必ず干渉してくださる。(み旨の道―一二九)

 マタイによる福音書六章二五〜三四節に、それだからあなたがたに言っておく、何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことでおもいわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

◇ 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

◇ あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

◇ また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

◇ しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

◇ きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

◇ だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

◇ これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

◇ まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

◇ だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。


六)十一条生活

(一)十一条の意義

 十一条は選ばれた子女たちの基本の道理です。神様の数である一数を捧げることで、九までも捧げたという条件が立てられ、この一〇の一数は残りの数よりもっと貴く思うことを知るべきです。

 キリスト教の十一条を見ると、そこには本当に恐ろしい内容があるのが分かるようになります。十一条を出すべきだという聖書の句もあります。十の中で一つを神様に捧げろというのです。「しかしながら、神様が見えるか、十一条が何か」と言う人がいますが、十一条は何かと言えば、一つぐらいだけ行って十まで行こうというのです。もし、皆さんが皆さんの親の誕生日の祝いや還暦の祝い、あるいは、王様の誕生日を迎えて祝ってさしあげるために、牛も捕まえて、豚も捕まえて、あるものないもの皆作って捧げるというとき、その方々がそれを全部食べるでしょうか? 違います。もらうものを皆もらいますが、皆食べられずに、ごく少ししか食べられないのです。しかし、このように少しだけ召し上がりましたが、皆召し上がったという条件が立てられるのです。

 これと同じように、十一条は、自分が所有している物質の中で、十分の一を神様に捧げることで全体を捧げるという意味を持っているのです。父に全体を捧げませんが、その中から一つを精誠を込めて捧げることは、そのような意味から価値があるのです。そのように一つを捧げることで、残る九つも貴い品物として取り扱われるようになるのです。このように、十一条を捧げて暮らす人は、絶対滅びる法はないのです。日が経てば経つほど、彼の倉庫が増えるようになっているのです。

 *聖書 申命記一四章二二〜二九節
     民数記一八章二一節


(二)聖徒たちの基本の道理

 教会の十一条生活も食口が十家庭あれば、引導者ひと方を養わなければならない。そうできないと天民権を持つことができない。

 十人暮らせば天の人一人を扶養すべきである。


(三)十一条生活

 十一条は全ての面にある。学校も十教室の中で一教室は、可哀想な子女たちのための無料奉仕の教室に使うべきである。

 聖日は十一条の日なので、自分の日ではない。それゆえ、天の命令通りに服従する日なのである。天のものを自分のものとして使おうとするのは罪である。

 自分の子供の中の一人を天の前に捧げるべきであり、そうできなければ人の子供でも勉強させて天の前に捧げなければならない。


(四)教会の品物を重要視すべきである

 これからどんな問題が起きるか? 物質的問題、人格的問題、心情的問題、この三つの問題が起きるのです。堕落が何かというと、物質と人格と心情のこの三つの問題に関係したのです。分かりますか?(はい)。では、どのようにすべきか? 自分のものより教会のものを重要視すべきなのです、自分のものまでも、より重要なものに隷属させるべきなのです。分かりますか?(はい)。

 自分の品物がだれを通じて来たか? お母さん、お父さんを通じて、自分の努力を通じて、自分に直接入ってきたものです。そうでしょう? み旨を通じて入ってこなかったというのです。では、み旨を通じて入ってくることができる道は何か? 教会を通じて因縁づけられなければならないのです。それゆえ、自分の品物を教会の品物と一致させることのできる心の基盤になるべきです。(五一―二八九)

 皆さんがここの本部に出たり入ったりしながら、窓をどれほど愛し、ここにどれほど多くの精誠を捧げたかというのです。ここの女たち、本部に来て掃除をしてみましたか? あなた、掃除をしてみた? おばさんたちは、してみましたか? 自分の家の居間の床はたくさん磨いたでしょう。それではいけないのです。(五一―三八八)

 自己の私的な物質を、公的な物質よりもっと重要視する人は、天道に違背する人です。私的な自己の人格を、公的な人格よりもっと重要視する位置は、み旨に違背する位置です。(五一―二九一)


 *参考:公金は毒薬よりもっと恐ろしいものである。

 公金は種である。蒔けば実を結ぶべきである。結ばなければ皆奪われる。

 お金を扱うのにおいては、人格が先立つべきであり言行深思が一致すべきである。

 先生の財布から出ていった公金は、むやみに使っては困る。

 公金について不徹底だと、追放される。見ていろ。先生は、皆知っているが、時を待つ。

 皆さんは先生に献金をするといいますが、先生はそのお金をもらいません。先生はもらわない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたか? それを私が知り、それについて恥ずかしくない主体的な立場に立たずしては、もらえないのです。本部に献金したお金を、勝手に出して使うのは恐ろしいことです。毒薬より恐ろしいのです。心の姿勢がそうであるために、与えてからもまた与えたい心が、神様に宿るのです。分かりますか? ところで、ただ人が来れば手のひらだけ眺めるのです、何か持ってこなかったかと。そのような教役者は滅びるのです。皆さんはそれを知るべきです。(五六―二七六)

 教会のお金でもって、食べて豊に暮らしてみろというのです。皆さんの後孫が引っかかってしまうのです。世界の人を犠牲にして、一介の民族が豊に暮らせないのです。それが善の行くべき道であるにもかかわらず、逆行しているという事実を知るべきです。ただ飯を食べては皆滅びるのです。毒薬よりもっと恐ろしいのです。(一三六―八九)

 私は数億のお金を持っていますが、そのお金を私の財布に入れようと思ったことがありません。私があるときはそのようにお金を口癖にしたりもしますが、それは私のために使おうとするのではないのです。我々の先祖たちの精誠を集めて残した基盤の上に、後代に残すことのために・・・。先生が在世の当時にしたことは、歴史的な遺物になるのではないか。だから、お金があれば何を残すのか? 後代のためのものを残してやるべきなのです。君たちを苦労させるのは、後代のためにさせるのです。皆さんは、これから何か残しておいて行くべきなのです。ですが、皆さんができないから、私が代表的にするのです。私の財布にはお金がありませんが、一日に何百万ウォン、何千万ウォンも使っています。そのようなことをしているのです。それは何のためか? 皆さんのためにするのです。未来のためにするのです。(五一―二八八)























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