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宇宙主管を願う前に
自己主管を完成せよ

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心と体の統一方案

 統一は皆さんの体と心から始まり、男女が一つになり、神様が願われる理想家庭が成されるのです。統一したところに平和と幸福と自由があるのです。体と心が戦うところに何の自由があるでしょうか? まず自由の基盤を築いたそこに、理想の希望の世界がありうるのです。問題は、自分の体と心をどのようにして一つにするかということです。一つになった上に理想世界、自由、幸福、平和、夢、希望が可能です。(一九七二・七・一六)


一、相反した二つの目的を持った人間

 我々個人は、相反する二つの目的の方向を持った人間になりました。これはだれも否定できないでしょう。心は善のところに行くのを願うのに、体はその反対に行けというのです。「私」という人は、間違いなく心と体が合わさってできた私なのに、この二つが戦っているのです。

 そのような個人、すなわちそのような男とそのような女が合わされば家庭になります。ところで、内の人と外の人があるために、夫婦が会うと、四人の形が生じ、別個の異なる行動をするようになるのです。もし、一家庭に八人の家族がいると、その八人家族は、相反したエバ家族のような方向を持った家庭になるということです。また、一つの家庭を中心として見るとき、家庭家庭同士相反した立場に立つようになるのです。このようにして、一つの氏族なら氏族、宗族なら宗族、民族なら民族、国家なら国家、世界が分かれるのです。ところがありがたいことは、数百筋、数千筋に分かれないで、大きく二つに分かれたのです。これが不思議なことです。

 それゆえ、善悪の本質を見るとき、それは根本的に異なるということが分かります。善は全体の利益を追求するのです。悪は全体も何もないと言い、自分個人だけのためにするのです。悪なる人には家庭も、親族も、国も、世界もないのです。その反面、善なる人は、自分よりも家庭、家庭よりも町内、町内よりも国、国よりも世界のためになろうとします。

 今まで歴史は、自分のためにする面と、人のための公的な面を中心として、戦いでつづられてきたのです。神様がこの世を見るときは、この体を中心とした悪の根拠を破綻させ、根を抜いてしまうことが絶対的な要求なのです。その反対に、良心だ何だというものを無慈悲に破綻させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求なのです。

 それゆえ、そのように戦いながら歴史をつづってきました。良心を主にした神様の側と、体を主にした、神様はいないと言いながら、ただ食べてみようという物質を主とした悪の側が、対立して戦うことから見て、この世の人類は、このように唯物主義と唯心主義に分かれざるをえないという結論を下すことができるのです。もし神様がいなかったら、このような結果の世界は到来しえないのです。悪は、嫉妬、分裂、闘争を強調して、自滅を招来させるのです。

 このように見るとき、理想だ統一だということが、どこから生じるのか? 結局は、世界よりも根本に帰っては「私」ということです。根本に帰っては我々ということです。個人なのです。(五三―一一)

 我々個人について見ると、二つの目的を持って生きているということを我々は知るようになります。心が願う目的がある反面、体が願う目的があります。体と心が歩調を合わせていくのではなく、いつも互いに戦うのです。前後、あるいは左右にめちゃくちゃになりながら、互いに戦うのです。このように一生の間戦っているのです。これは、我々自身はもちろんであり、過去に生まれては死んだ数多くの先祖たちもそうです。これから我々の後孫たちも同様なのです。すなわち、心と体が戦っているということです。心は善を行えと体に追求しています。可哀想な人がいれば、助けてあげようとし、自分が貧しくても貧しく暮らす人のために犠牲になり、助けてあげなければならないと強調しています。しかし、体はそれと反対の方向を取っていこうとしているのが我々は分かります。

 そのような立場で、我々個人が絶対的にすべきことが何かというと、体と心が戦う自分自体内において、心を中心として体を完全に征服し、体の勝利の基盤を築いてからでなければならないのです。そうする前には、善を主とした一日の生活と一年の生活、あるいは、一〇年の生活と一生を残すことはできないのです。善だけを主にすることができる「私」として、変わらない私にならなければなりません。そのような一人の「私」になることが、何よりも重要です。(四一―五九)

 体と心が完全に行き違って、体はこちらに行こうといい、心はあちらに行こうというのに、統一できますか? 皆さんの体と心は、毎日のように戦います。友達にして仲良く暮らしますか?(戦います)。戦え、戦え! では、皆さんはどちら側に立っているか? 二つの側にともに立っています。体が好む側に行こうという一つの徒党と、心の好む側に行こうという一つの徒党があるので、皆さんには二つの徒党があります。(五九―一七七)


二、核戦争よりももっと恐ろしい戦争

 心と体の戦いは、大東亜戦争よりもっと危急であり、核戦争よりももっと恐ろしい戦争です。その戦争は、休戦でもありますが、ここには休戦もなく、終戦もありません。我々の人生がこの地上に存続し始めたその日から、終わるときまで、我々の心の根本には休戦もなく戦争が統いているのです。このような人たちが家庭をなし、宗族をなしたので、もっと戦うようになり、このような民族と民族が合わさったので、もっと戦うようになり、国家と国家が合わさったので、もっと戦うようになりました。(一九―二八七)

 今までの人類歴史は、戦争でつながった歴史でした。ある一日も、戦争が終わる日がなかったのです。その戦いの根拠地はどこか? 体と心です。体と心が戦いの根拠地になることにより、個人・家庭・宗族・国家がそのようになったのです。

 世の中の戦争の中で、最も大きな戦争は、ヨーロッパ戦争や世界大戦ではありません。「私」を征服するための戦争以上、大きな戦争はありません。この戦争は、六千年も続いているのに、まだその戦いが終わっていません。終わりましたか、終わりませんでしたか? 続けて罪悪の包みだけを更に大きくしてきたのです。そうして、六千年罪悪の歴史が、皆さんに終結しています。では、この罪悪の歴史をだれがひっくり返してしまうでしょうか? 皆さんでもだめなので、それよりもっと大きな力を持ったメシアが必要なのです。神様の息子が必要なのです。(二一―一八九)

 皆さんが自分一個体を悪から救うのが、どれほど大変ですか? 現在の統一教会の食口において問題となることは何か? 体と心を中心として、「私」一人を完全に解放させることです。これがどれほど難しく、その戦いがどれほど熾烈か? この戦いは、米・ソが互いに競争してやる戦いとは比較になりません。民主世界と共産世界が戦うことは問題でもないということです。それよりももっと大変だということです。この戦いは、我々個体から起源しているのです。

 このように、個人に二つの輩がいて戦うのと同じで、家庭も二人の輩であり、社会も二人の輩であり、国家も二人の輩であり、世界も二人の輩なのです。これを族譜で明らかにしようとすると、一つは悪の個人であり、悪の家庭であり、悪の社会であり、悪の国家であり、悪の世界であり、また一つは、善の個人であり、善の宗族であり、善の国家であり、善の世界です。このように、きっぱりと分かれました。片方は神を主とした宗教圏内に立っている側であり、他の一方は神様を否定する物質圏内に立っている側です。人がそうなのです。(四一―六三)

 世界のどんな苦難よりも、どのような艱難よりも、その何らかの戦争の被害よりも、体と心の戦いにより生じた被害がもっと大きいのです。心の敗戦による山のような悲しみの敗残物が積もっているということを皆さんは知らなければなりません。一日にも何回ずつ、体との戦いで心がしばしば負けていますが、人々はそれを知らずにいます。しかし、道を歩いていて突き出た石につまづいて倒れたことは一年、いや一生の間忘れず「何十年前にここで私が倒れて足が折れたな」と言い、よく覚えています。言い換えれば、心と体の戦いにより、心が負けたことを忘れてしまい、考えもしない人が多いのです。

 このようなことを考えるとき、皆さんがいくら声を大にして叫んだとしても、それ自体は敗残兵の立て札を持っている姿なのです。しかし、本来は心と体が戦って、心が勝利することにより、いつも体を主管するようになっています。それなのにそのようになれなかったため、心と体が各々違う方向を追求するようになったのです。(一九―二八五)

 では、戦争の中で最も恐ろしい戦争は何か? 自分を中心として戦う戦争が歴史上いちばん恐ろしく、永遠に統く戦争であるということを知るべきなのです。何、第二次大戦が問題ではないのです。永遠の戦争をしている「私」であるのです。永遠の戦争の一線の舞台に立った「私」であるということを知るべきです。(一二一―二六)


三、神様が宗教を立てた目的

 今までは、堕落した人間の心と体が戦ってきましたが、その比率が互いに似たり寄ったりでした。その比率が一〇対八程度でした。体に対している環境は、世界全体と接していますが、心が対すべき道は一つの道しかありません。堕落した世界に対する人間の体は、時事刻々と環境に占領されてしまいましたが、心は一つの道に従ってきたのです。それゆえ、現実世界は現れる結果を取り締まってきたのです。悪いことをしようとするとき、心に恐怖が来るようになります。そうしてそのことを行うようになると、今まで積んできたものが崩れます。これを見るとき、心は肉身の行動をいちばん最初から、序盤から干渉しますが、中盤に至っては肉身に支配されるのです。それゆえ、外的な比率で見ると一〇対八程度ですが、環境のために心がいつも押されてくるのです。

 では、神様は宗教を立てて何をなさろうとされるのか? 外的な環境に備える恩賜を下さろうとするのです。与えるには、ただ与えるのではありません。精誠を込めてこそ下さるのです。その国の国運を左右する君主が、精誠を込める以上の精誠を込めなさいというのです。命をかけて精誠を込めなければならないのです。

 精誠を込めるようになるとどのようになるか? 神様の恵みが来るのです。祈祷生活をしてみた人は分かるでしょう。祈祷生活をするようになると、大きく偉大な力が来るのです。それで祈祷する人の目は、その力により肉界だけでなく霊界までも透視するのです。

 神様は超自然的実体の理念圏を人間に因縁づけてくださるために、宗教的な基盤を中心として摂理してこられました。人間の本質的な感情を刺激させて、そのような圏内に行くようにする欲求を起こさせるのです。そうして、人間を超現実的な善につなげようとされるのです。そのようなことをしてきたのが宗教です。

 それゆえ、信仰者たちは、殉教が起こり、首が切られると言ってもいいと言って信仰の道を行くのです。現実的な感情を超越しうる、超現実的な感情を実質的に広範囲に感じるために、彼らが死線を越えながらもその道を行くのです。ですから、この道を行く人たちは、千ぐらいの力を八千ぐらいの力に増大させるべきです。そこに神様を迎え、力を増大させて体を打てというのです。

 戦うには力が勝敗を決定します。宗教は世の中での体の欲望と、社会要求によるすべての一切を妨げるのです。それゆえ、現実的な全体を否定して立ち上がった宗教であってこそ、純粋な宗教であり、理想的な宗教と言えます。

 宗教は、否定することです。それゆえ、全部捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好むものを皆捨てろというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てろというのです。食べて、寝て、好むことを、皆捨てろというのです。人は本来、食べて寝なければいけません。そして好まなければなりません。ところで、そのすべてが肉身を通じて死亡の行路になっているので、これを追放しろというのです。体に爆弾を爆発させるのです。

 原子爆弾を爆発させるのです。木っ端みじんにして、全部占領しろというのです。体は高められるのを好み、楽な場を好みます。また、でこぼこしたものは嫌い、ふっくらとして、つるつるして、ふんわりとものを好みます。我々は、この体の好むものを好んではいけません。

 ですから、我々は、むくむくとしたもの、でこぼこしたもの、固いものなど、体が好むものと反対になるものを好まなければなりません。体は高められるのを好み、人のお金を奪ってよく食べたら喜びます。人がどうなっても、豊かに暮らせば喜びます。ですから、そのような根性を全部叩き壊さなければなりません。高められるのを好む体を低めよ、温柔謙遜であれ、犠牲奉仕せよというのです。(一八―六六)

 人類歴史に宗教が必要なら、その宗教により何をすべきだろうか? 肉身により歴史が滅び、肉身により社会が滅び、肉身によりこの人類が滅びたためです。従って、この肉身は、怨讐の母体であり、罪悪の根本の根であるということを痛感しなければなりません。

 このように、体を打つのが、今まで宗教の根本であったので、イエス様は四〇日断食を通じてむごたらしく体を打たれたのです。体は高められるのを願い、前に立つことを好むのに、宗教は体に、服従しろ、従順になれ、死んで祭物になれと教えます。全部反対に教えます。なぜそうなのですか? それは、心を打つためのものではなく、肉身を打つことで世界的な血筋を持って生まれていくためです。(一八―三二二)


四、心と体を統一させるための二つの方案

 本来人は、神様を中心として生まれたのに、堕落したことによって二人の主人を持つようになりました。人が二人の主人を持つようになりましたが、どのようにして持つようになったのか? 血統的に変わったということです。それゆえ、まず、宗教がすべきことは、心と体を統一させることです。ところで、何を中心として統一させるのか? 天意を中心として、天情に従って心が一つになった基盤の上に、体を屈服させなければなりません。宗教は、体を屈服させる方法を教えてくれるのです。(三八―二六九)


(一)体を主管しうる第一の方案

 では心と体を統一させるための第一の方案は何でしょう? 体を叩きつぶすことです。体を打てということです。体がしようとすることの一切を完全に否定しろというのです。どの程度否定しなければならないか? 完全に否定しろということです。死んだという立場まで否定しろということです。それでイエス様が、「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言われたように、このように逆説的な論理が適用されるのです。

 体が完全に死んで、心化され、心が完全に生きている形態の立場に立つことができなければ、一つに完成することができません。言い換えれば、体を完全に殺そうとする人は、心が完全に生きる人であり、心を殺そうとする人は、体は生きていますが完全に死ぬということです。それでイエス様が「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」というみ言を語られたのです。

 また、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければ、私の弟子になれない」と言われました。これは、だれよりもイエス様をもっと愛せというみ言なのです。父母よりも、兄弟よりも、妻子よりももっとイエス様を愛せと言われたのです。なぜか? イエス様は神様の前に天情の代表者として来られたので、天情と遠く離れている人間に天情をつなげるためには、この世的な肉情を中心としてはいけないからです。父母や妻子や兄弟は、肉を中心とした関係です。この肉情を絶たなければ、天情についていくことができないため、天情についていくには、この肉情を否定して行かなければならないのです。それゆえ、自分の父母よりも、妻子よりも、兄弟よりも神様をもっと愛する人は、天国に行くことができるのです。

 天国に行くことができる基準が何か? 天国に行くことができる公式的なチケットをどこでもらうのか? 自分の父母よりも神様をもっと愛し、自分の息子娘よりも神様をもっと愛するところでもらうのです。そうしなければ天国に入ることができないというのです。

 天国に入ろうとするなら、肉情を除去させなければなりません。第一の目的は、強制的にでも叩きつぶせということです。それゆえ「温柔謙遜であれ」と教えるのです。では、体が温柔謙遜ですか? 体は絶えず上がろうとして、おごりたかぶろうとします。食べさせると、絶えずもっと食べようとし、休ませてやると、絶えずもっとためにしてくれと言います。従って、体は悪の基盤であり、悪の根であるのです。悪と善の根が変わったのです。

 それゆえ、この悪の根を抜かなければなりません。そうするには、体がしようとする通りにしては絶対にだめであり、悪なる所には行ってもいけないというのです。そうでなくては、天道と天情の道理を越えることができないのです。人情と人道は、すべてのことでサタンと悪を中心として出発させやすいために、これを否定しなければいけないのです。

 悪を否定しうる第一の方案は、肉身を拘束することです。それで断食祈祷をしろというのです。断食祈祷をしながら精誠を尽くせば、体がスッと元気がなくなって、動くこともできないようになります。そうなれば、心が体を支配することができるので喜ぶのです。その次には、犠牲奉仕することです。自分を殺せというのです。これは全部肉身が嫌がる行動です。それゆえ、真なる宗教は、肉身とのすべての関係を否定するところから出発するのです。そのような結論が出てきます。分かりますか?

 皆さん、すべての宗教の教典をご覧なさい。よく食べて、豊かに暮らせという内容がある教典がありますか? そのような教典は一つもありません。宗教は犠牲奉仕、温柔謙遜になれと教えます。それゆえ、死にながらも人のために福を祈ってあげることができるのです。これは体ではできません。そのようなことが肉体を叩きつぶすことだというのです。

 心と体が対等なために、けんかをするのです。そのため、体を弱くすることによって、心が勢力を得て、弱くなった体を何カ月間か率いて越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは、心がしようとする通りにせざるをえないようになるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、ただ放っておいても、帰ろうとしても帰れないので、良心を主にした絶対的な立場で生涯をつづっていくことができるようになるのです。これが宗教生活の目的です。(三八―二七〇)


(二)体を主管しうる第二の方案

 その次に、体を主管しうる第二の方案は何でしょう? 心と体が似ているのでけんかをするのです。レスリングの世界チャンピオンと、幼稚園の子供と相手になりますか? それはけんかにならないのです。結局、互いに似ているために問題になるのです。それで、第二の方案は、心に力を吹き込むのです。分かりますか? 心に力を吹き込まなければならないのです。この二つの方法以外にはありません。

 そうするには、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。精誠を積み上げれば心の門が開きます。その心の門が開きさえすれば、とても強力な力が出てくるようになるので、体のようなものは問題にもならないのです。皆さんは、それを知らないでしょう。心と体が似ているのに、心の力が体の三倍だけになっても、体は問題になりません。体はただそのまま置いても問題にならないのです。従って、心の力を圧縮させて、体を一時に引いて行くことができなければなりません。それゆえ、悟りの世界では精誠を尽くすのです。

 皆さんは、道に通じるという言葉を聞いたでしょう。道に通じるようになれば、心から強力な力が出てきます。それゆえ、体がしようとすることをすればするほど、むかむかして気分の悪い匂いが出るのです。考えただけでもとても気分が悪いのです。道に通じた人は、心に強力な力が出てくることによって、ただそのまま置いておいても、体は心がしようとする通りにするのです。このような二つの方法以外には。体を調整する方法がありません。それで神様は、体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げておられるということをはっきりと知るべきです。

 これが今までの宗教の教えです。従って、統一教会も今そのような公式通りに進むのです。このようにするようになると、自然に人間として行くべき高次的な立場、神様の愛を中心とした神様の息子であることを自ら自覚する立場に入るようになるのです。そのような立場に入るようになれば、一つしかない神様の愛を受けることができるため、釈迦牟尼が「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分の権威に及ぶ人がありません。一人自らの価値を讃えることができる栄光の立場に入るようになるのです。言い換えれば、神様の愛を一人で受けることができる息子になり、神様が創った被造世界と神様と関係しているすべてを自分のものとして相続されうるようになるので、一人で高いと自覚する立場に入るのです。このような立場まで行って、神様の愛の圏内で暮らすため訪ねていく道が人間が行くべき道です。(三一―二七二)


(三)心と体を統一させる方法

 人の心と体を統一する方法は、二つしかありません。一番目は、この体を木っ端微塵にして占領する方法であり。二番目は、体を打たずに統一する方法です。

 そうするにはどうすべきか? 今まで心は、ほら吹きのように一度も体と対等に戦ってみられずに何度も負けてきました。それは、心の力が弱いためです。ところで、この心に注射して力を二、三倍ほど増やすと、どのようになるでしょうか? そうすれば、体を引いていく程度は問題ではないのです。熱心につかんで引きながら行けるのです。自動車のチューブにすっかり空気を強く吹き込めば、大きくふくれあがるように、心にも力を強く入れればどのようになるでしょうか? 力が強くなりますか? その次にこの心と体が戦えば、どちらが勝つでしょうか? このように、無慈悲に体を叩いて占領する方法と、心に力を加える二つの方法があるのです。(一八―三二八)

 体と心をどのように一つにすべきか? 統一。どのように一つにするかというのです。一つにする道は、二つの方法しかありません。体を絶対身動きできないように拘束して引っ張っていくことと、体に力がいくらあったとしても、その力よりもっと強い力を心に入れて引っ張っていくのです。この二つの方法しかありません。宗教は、この二つの道を追求するため、体を抑制して、体を拘束して、その次には祈りを通じて力を受けて、その強力な力で体を引っ張っていこうとするのです。宗教生活をする人は、それを日常生活で体験するのです。いくら力がなくても、神霊の役事さえあれば、天の霊が臨めば、力が出てくるのです、力が。(一六一―一五)


五、体と心の統一の基準は愛

 統一の基準は何か? 何が統一の基準になるかということを、皆さんが知るべきなのです。それは、愛を中心としてできるのです。そのように見るようになると、愛は二重構造からなっていると言うようになると、これが愛を中心として一つは上のもの、一つは下のもの、霊的な心は上のものであり、体は下のものになり、一つになって共鳴するのが愛というものです。

 それゆえ、皆さんの体と心の中には、だれが入ってきているかというと、神様が入ってきているのです。皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在するというのが原理の教えなのです。では、神様がなぜそこに臨在するかというのです。愛の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則が愛から始まるために、相対的な愛があるために、臨むという論理が成立するのです。

 「人の体は神様の聖殿である。」このように言います。聖殿は、どんな所ですか? 働く所ですか? どんな所ですか? 聖殿と言うようになると、安息所という言葉と通じます。では、休むには何の中で休むのですか。愛の中で安息するのです。では聖殿は何か? 神様の愛の中に休みうる所です。我々人間が願う理想があるなら、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないだろうか。これを知っているのです。そのような心の愛を持った所を心情の世界と言うのです。それは溢れる泉の水と同じなので、汲み出しても汲み出しても終わりがありません、終わりが。なぜ? 神様がそこにおられるから、終わりがないというこのような論理を、我々は立てることができるのです。皆さんもそのような人になれば良いでしょう?(はい)。

 そのような人を見れば、泣いていた人も口を開けて喜びますか、ああと言ってもっと泣くでしょうか?(喜びます)。泣いていた人も近くに行けば行くほど、その懐に抱かれようとし、泣くまいとし、恐ろしい顔をしていた人も笑おうとしてですね。じっとしていた人も、手を動かそうとし、自然にそのようになるのです。それは良いですか?(はい)。それゆえ、愛がなくては、体と心が一つになる道がないのです。これを我々は知るべきなのです。(九一―七七)


六、真なる愛だけが体と心を一つにする。

 さあ、愛がある所では、上がってもいいし、下がってもいいし、中にいてもいいという論理が成立します。愛する夫が、自分より高いと言って嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか? 一つです、一つ。一つになれば、勝手に低い所から高い所へ上がることもでき、高い所から低い所へと降りてくることもでき、中間にいることもでき、どこでも行けます。ここは制裁がありません。そうですか?(はい)。

 今、世の中では、「この世界は一つの世界になるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ。」こんな言葉をたくさん言います。

 では、一つになるには、力を与えながら「やあ」と言うと「やあ」こうなって、力で一つにするのか? でなければ、何かの組織力を持って、この頃は何かの組織社会だから、強力な組織力で一つにするのか? その次には、ある思想を中心として一つにするのか? そうできる一面はあるかもしれませんが、それは我々の本性として「体と心が全部歓迎をして、これでなければだめだというそのようなものには絶対なれない。」というのです。体と心が「これはいい。このようなものは私が願うものだ。これは永遠な理想の基準で私が侍って暮らすことができる。」と言えるようになっていないのです。それはお金でもだめだし、知識でもだめで、何でもだめなのです。

 では、一つになりうる根本が何か? 高い人や低い人や、東西洋はもちろんであり、黄色人や白人や黒人や、どの国でもみな好みうるものが何か? それは愛です。真なる愛で一つになること以外にはないということが、最後の結論であることを、皆さんは知るべきです。そのようですか?(はい)。自分の体と心が親しくなって、一つになって、喜びうることは・・・。お金を見て体と心が喜びますか? それは永遠に喜べないのです。

 我々の五官が全部集中して、一つにさっと固まって、笑って踊りを踊りうることは真なる愛の理想以外にはないという結論です。それをだれが否定しますか? 否定すれば、それは愛ではありません。それゆえ、霊と肉が我々の心と体がすべて一つになりえ、ともに共栄しうることは、真なる愛の境地以外にはないという結論を下すことができるのです。(九一―一四一)

 自分自体のこの心と体が、いつ一つになりうるか? これが問題です。お金をもってしてもだめで、権力をもってしてもだめで、すべての知識をもってしてもだめで、考えでもだめです。絶対だめです。では、何をもって一つになりうるか? 神様の愛なら一つになりえるのです。こういう結論が出てきます。全知全能の神様の愛ならば、そうできる能力がなければなりません。(九四―二六三)

 霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を見出さずしてはこれが一つにならないのです。それが最も理論的だということです。その場を皆さんが越えていって、天が祝福してくれる、その祝福を願って行かなければならないのです。(九一―一八四)

 皆さんの体と心が、神様の愛を中心として生きていかなければなりません。ご飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、考えと行動をするときも、神様の愛を中心としてすべきです。体と心が神様の愛を中心として生きる人にならなければなりません。しかし、皆さんの体と心が怨讐になっています。神様の愛を中心として根を下ろさなければならないのに、サタンの愛で先に根を下ろしたためです。そこから体と心が分かれて戦っています。(一九八六・二・一)

 本来は、人間の心と体に神様の愛が入って、内外に矛盾や相入れないこと、または闘争がない結果をもたらさなければなりませんでした。しかし、人間が神様から離れていって、サタンを中心として外的に愛したのが動機になって、体と心が相入れない立場で闘争する結果がもたらされたのです。そうして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる、神様の愛に背いて出てくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから、外的な愛、すなわち、サタンの愛を除去して、そこに本然の内的な愛である神様の愛を相続して、体と心を糾合させなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が起こるのです。(三七―一七九)

 皆さんは、たぶん体と心が一つにならなくて、愛の力で爆発しないでいるということを知っているでしょう。堕落したためです。人間が故障したのです。人間が堕落しなかったのに、体と心が一つにならないはずはないのです。従って、人間にはこの実存の矛盾した極限状況を、どのように克服するかというのが問題であらざるをえません。これが問題です。それを何で克服するのか? 愛の力で克服しなければなりません。愛の力によってのみ克服することができます。(一九八一・五・一六)

 救いの摂理というのは、堕落のために生じたのです。本来何を願ったか? 愛を願いました、愛を。愛を願ったのです。その愛は、真の愛です、真の愛。真の愛が何かというのです。皆さんが、真の愛に接するようになると、五官(目・耳・鼻・口・皮膚)が一時に笑うことができ、一時に全部を感じることができるのです。さあ、上の肉身が笑い五感を感じるなら、心はどうですか? 真なる愛に接した心はどうですか? 心があれば、心はこうなってぺちゃんこになっていて、体はこうでしょうか?(いいえ)。どうでしょうか? どうですか? すべてがそこから一致するのです。行動の一致がどこから成され始めるかということを、理論的に問いただしてみるとき、真なる愛から行動の一致が起こるという論理を立てることができます。そうでなくては、神様の理想だとか、人間の理想とする統一を見出すことができる基点がないのです。(九一―七五)*



「宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ」 以上
1997年3月25日 初版 発行























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