宇宙の根本
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 2.被造世界は神様の二性性相に似て出てきた

 宇宙の根本である神様がいらっしゃるなら、その神様は、主体と対象的な観念をもった存在だというイメージが出てきます。それゆえに、私たち統一教会の「原理」でいう二性性相は偉大な言葉だという結論に到達するのです。主体と対象が作用し始めるところから存続が展開するのです。生まれ始めるというのです。このような根本のもとでなされているので、すべての宇宙は二重的です。二重的になって、授け受ける相互作用をするのです。
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 被造世界は神様の性相に似ています。すべての被造物は、二性性相の分立体として展開されているということを知っています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結しているということを私たちは知っています。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くのです。
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 主体と対象はどこから出てくるのですか。これが出てくることのできる基台がなければなりません。統一教会では、これを二性性相といいます。この主体と対象は、人間自体からつくられた主体と対象ではありません。ここにその基台が必要なのです。その基台が二性性相であり、二性性相の中には本性相と本形状がなければなりません。
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 主体と対象があって、お互いに作用しなければ力が生じないのです。力は、一人で出てくるものではありません。力は、必ず主体と対象があって初めて生じるのです。私が対象である時、私が心に悪いと感じても主体がなければならず、良いと感じても良いと言うことのできる主体がなければなりません。それで、統一教会の「原理」に、「二性性相」という言葉があるのです。
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 「原理」で見ると、神様は二性性相の中和的主体です。主体というものは、何を中心として成立するのですか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要なのです。刺激的な基盤を多方面にもちたいと思って拡大展開させたのが被造世界です。
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 どのような種でも、二つのかけらで一つになっています。豆のようなものも二つのかけらです。神様が宇宙の根本なので、神様の形状に似なければ根本の種になり得ないのです。
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 生命の種は必ず二つになっています。これは天地の道理です。神様は、二性性相としてお一人の人格になっています。種の根本を象徴するのです。種には胚芽があるのですが、胚芽には、根になる部分、芽になる部分があります。自らが存続することができる内容をすべてもっているのです。そのまま置いておいても、完成した実体を構成できるようになっているのです。
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 神様が二性性相になっているので、私たち人間も二性性相になっているというのです。万物もプラス・マイナスの二性性相になっています。神様と人間と万物を合わせて連結させれば七数になります。これは、段階で見れば三段階であり、広げれば四位基台です。この三数と四数が調和をなして統一されれば七数になります。七数は、創造目的完成数です。
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 宇宙は、すべてプラス・マイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているというのです。原子を見ても、陽子と電子になっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性になっています。すべてが相対的になっています。そのように相対的になり、一つの体制圏に収拾されなければなりません。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志に一体化した相対圏がつくられなければ、神様の創造の喜びはあり得ないのです。
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 統一教会で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だというのは、すべて科学的な分析結果によって、間違いなくそのようにいらっしゃるという事実を知っていうのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在するのです。主体がなく対象がないところには力は存在しません。それでは、神様はどのように存在するのでしょうか。神様自体内にある主体と対象の力が授け受けすることによって永存します。
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 「原理」は二性性相を言っています。二性性相は、なぜ必要ですか。二性性相がなければ創造の調和をつくり出すことができないのです。二性性相があるのでお互いに授け受けできるのであり、その一つは骨と同じで、一つは肉と同じなので、授け受けすることによって新しい形態が展開できるのです。神様が二性性相それ自体なので、神様を中心としてその相対世界が生まれざるを得ないというのです。このように二性性相は、創造的妙味を成し遂げるために必要なのです。
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 「原理」でいえば、全体を連結するものが万有原力です。すべてのものに神様の二性性相が入っていって、それがすべて万有原力になっているのです。核心は同じです。
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 男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。
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 アダムとエバ、男性の先祖、女性の先祖です。男性の種、女性の種です。半分の種なのです。すべてのものが一つの殻の中で二つになっています。それで、神様と宇宙を象徴するのです。神様が統一された中には二性性相があるのですが、その二性性相には胚芽があります。種があって核があるのです。
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 神様も無形の主体でいらっしゃるために、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないということが理論的な結論です。それゆえに、神様も二性性相をもっているのです。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界もすべて主体と対象の関係をもって運動をしています。分子で見るときはプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の観念であり、原子で見るときは陽子と電子が主体と対象の観念です。
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 神様は、女性性稟もあって男性の性稟ももっている二性性相によって成されています。神様は、神様の中にある男性の性稟を集めて男性を造られ、女性の性稟を集めて女性を造られたのです。このようになれば自然に主体と対象に分かれ、この主体と対象がお互いに授受作用をすれば、これが再び一つになって作用するようになります。これが正に統一教会の「原理」でいう正分合作用だというのです。この偉大な統一教会の「原理」が、今後哲学において、宗教において問題になるはずです。
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 愛のみ旨を成していくためのものですが、愛を成すことができる存在は誰ですか。神様の中にあるものをそのまま表したような、一つ残らず自分に似た同じ姿の息子と娘を造られたのです。それゆえに、統一教会でいう「二性性相」という言葉は、この地球上で初めて聞く驚くべき内容だというのです。二性性相の中和的主体、これはどういうことでしょうか。天地の道理がすべて入っている言葉です。
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 愛といっても、一人でいる所には通じません。二つが和合する基準を中心として、より高い次元に引き上げるために作動するのです。これが愛の力です。愛が作動する時は、相対という橋がなくてはならないので、万有のものは愛の理想に和合することができるようになっているのです。神様がさらに愛の理想を実践するためには、相対になるようにせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。それで、「二性性相」という名前をつけたのではないですか。
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 全体を糾合して一つの原則的な基本を明らかにしてみれば、主体と対象の関係、ここから存在と作用を起こすのです。主体と対象によって存在し作用すると見るのです。私たち統一教会は、これを中心として二性性相という概念をキャッチしました。それでは、二性性相がただそのままいるのでしょうか。ストップしているのでしょうか、動いているのでしょうか。ではどうして動くのでしょうか。なぜ動くのかというのです。損をするために動くのでしょうか、利益を得るために動くのでしょうか。作用して運動するのに、損をするために運動するという法則があるならば、私たちの理想の作用や希望に向かって前進する作用はあり得ないのです。損をするならば、これがますます小さくなっていくというのです。小さくなってストップしてしまうというのです。しかし、この小さいものが利益のために動くならば、ますます大きくなっていきます。
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 神様御自身は一つの体です。二性性相の主体としていらっしゃるために自体内で愛するといいますが、思考では「男性的主体の位置だ、女性的対象だ」といって愛を感じることができるのかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じることができないというのです。
 したがって、アダムとエバが神様御自身をさて置いて、自分たちの間でもっと衝撃的に愛するのを見る時、愛の主体であられる神様は悪く思われないというのです。なぜですか。その二人が一つになったその場を相対として喜びを感じることができる主体者でいらっしゃるために、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福を感じられるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けることなくしては、その場に行くことができないのです。
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 本来力とは、作用すれば減少するのですが、愛の力だけは作用すれば強くなります。無限に拡散したものは、その中に無限に集約された力があるために引き寄せるのです。
 ですから、循環作用の内的力を自分自体がもっているということを知らなければなりません。そのような論理を適用しようとするので、私たち統一教会では二性性相の論理がどこにでも適用されるのです。文先生に知恵があるので、それをすべてキャッチしておきました。
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 真の愛がどれほど良いかというのです。神様も愛ゆえに生まれました。愛ゆえに生まれました。気分が良いでしょう? 「ああ、文総裁が言うには、神様は愛ゆえに生まれたそうだ!」。神様を捕まえて分析してみてください。神様の二性性相まで先生が分析しました。その二性性相にも、また二性性相があるでしょう? 皆さんもすべて男性ホルモンと女性ホルモンが出てきますね。分からなければ病院に行って診察してもらってください。それゆえに、すべて通じるようになっています。
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 創造原理の二性性相がなぜなければならないか、どのようなものが主体でどのようなものが対象かという問題を根本的に解いて、解いて、これ以上解くことができない時、戻ってくるというのです。いくら掘り下げても戻ってくるというのです。これが千年、万年そのようになるので、仕方なく「ああ、この道しかないな。これ以上探す必要はない」という時、「原理」という言葉が成立するのです。それで、原理というものは変わらないのです。



















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