宇宙の根本
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 2.人間は万宇宙の愛の中心

(1) 神様の愛の対象として造られた

 人の価値は、どれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年慕うことのできる存在が人です。統一教会の文先生が見るとき、これが宇宙の根本だというのです。これが、内外関係になったので縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が展開されるのです。その中心には神様が臨在されるのです。
 心の深い谷間の位置に、一つにしっかりと結ぶことができるその場は、縦横の中心位置です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型から出てこないのです。縦的なものがどんなにあるとしても、横的なものは出てこないのです。それで、人をこのように造らざるを得なかった、ということを皆さんは知らなければなりません。
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 神様は、絶対的な創造の観を所有した絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中で、何をもってしても取り替えることができないものです。価値として見れば、相対的存在とは、神様を与えても取り替えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが、相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは、神様を与えても取り替えることができないのです。神様を与えてみれば、神様一人になるのです。神様が残るのです。それゆえに、神様御自身を投入して、神様御自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。
 それで、神様を与えても、取り替えることができない対象の価値的存在として造られたものが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的な存在として人間を造ってくださったのです。
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 神様は、人間を愛ゆえに造られました。人間はなぜ造られたのですか。愛ゆえに造られたのです。人間が万物と異なるのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。
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 人は、誰に似たのでしょうか。神様に似ました。ですから、神様が愛を願うのも、結局は人と同じだ、このように思うのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状によって現れ、形状の表示が象徴として現れるというのです。
 統一教会の「原理」ではそのようにいっているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状である存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるというのです。そのような作用を何がするのですか。愛だけがするというのです。
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 「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴い)」と言いました。万物の中で人間が中心だというのです。何を中心として中心ですか。愛を中心としてです。知識とか、お金とか、権力というものは問題ではありません。
 神様は創造主なので、そのようなものはいつでも造ることができ、もつことができます。しかし、愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人では神様でも成し遂げることができないというのです。
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 神様が天地を創造される時、誰のために造られたのですか。神様のために造られたのではありません。愛の対象のためにです。それでは、神様の愛の対象とは誰ですか。「万物之衆 唯人最貴」と言いました。人だけが神様の愛の対象として造られたというのです。愛の本質的内容を分析してみる時、属性には相続権があり、同位権、同参権があるために、愛に接すれば、いくら気高い神様、いくら偉大な神様、いくら宇宙的な神様といっても愛に乗せられるというのです。
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 今日の統一教会の教えは、神様も愛が必要だというものです。いくら全知全能で遍在する全権の神様でも、愛は相対的に訪ねてくるのが原則なので、愛の相対圏を備えなければなりません。その相対がアダムとエバです。
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 神様がいくら立派で、絶対者で、全知全能の方であっても、一人では良いことがあり得ないのです。「幸福」という名詞は、あるいは「良い」という形容詞は、一人で設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位置にいてこそ、「良い」、「幸福だ」という言葉があり得るのです。一人でいながら「幸福だ」と言う人はいないのです。
 したがって、いくら全知全能の神様でも、一人では幸福になることはできません。例を挙げれば、歌を上手に歌う音楽家がいて、一人で歌を歌ったとしましょう。幸福でしょうか。相対がいなければなりません。授け受けしてこそ良いのです。同じように神様も、「良い」と言うためには、必ず神様一人でいてはいけないのです。

(2) 人間成長の道は神様御自身の展開過程

 人間創造とは、神様御自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。ここで神様が興味を感じられ、刺激を感じられるのです。人も同じです。画家が傑作品をつくるために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際に形状に展開させることです。自分の骨髄の奥深くまで絞り出して投入するのです。
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 人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。
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 アダムとエバをおいて神様が愛したのは何ですか。アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、神様もそのように育ってきたということを意味します。神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。
 神様は、無形の神様です。無形の神様がそのように大きくなってこられたというのです。それで、兄弟のように、夫婦のように、また息子、娘のように創造してこられたというのです。
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 アダムとエバを神様が造られたとすれば、どのような段階から造られたのでしょうか。アダムとエバを成人した人として造ったと考えることはできません。赤ん坊から造られたというのです。神様は、赤ん坊を身ごもった母が抱いて育てるのと同様の過程を経て造られたという論理を立てなくては、この三段階の秩序に通じた存在の形成ということを説明する道理がないのです。幼児期があったというのです。それから長成期があり、完成期がありました。これは天理の道理です。

 アダムとエバに幼児期があったのですが、その幼児期はどのような幼児期だったのでしょうか。無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
 それでは、赤ん坊から生まれ育ち、成熟して結婚することができる位置まで、父母になることができる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てることができます。
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 愛する夫婦、アダムとエバが子女を生むということは、神様の無形実体の性相と形状が、愛をもって一つになって創造され、父母の立場に立ったのと同じです。第一の見えない神様が見える第二の創造主としてアダムとエバを造られ、実体の第二の神様の立場に立ったアダムとエバが、再び息子、娘を生むことによって父母の立場に上がっていくのです。そして、その幼い子女を通して、実体のアダムとエバの乳児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代等、神様が経た過去を再び実体として展示するのです。それで、それを触ってみたいと思われ、愛してみたいと思われるのです。子女は第二の自分自身です。
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 結婚した夫婦の立場は、途方もない立場です。歴史時代に人類が望んだ子女としての希望峰が花咲く立場であり、兄弟として花咲く立場であり、夫婦として花咲く立場です。このようにして夫婦として愛した神様が創造を始められたように、息子、娘を生んだそこからアダムとエバが創造するのです。実体的創造主の立場となり、自分を中心として平面的創造主の立場で息子、娘を生むのです。第三の創造主を造るのです。それが子女です。
 それゆえに、父母は、子女を神様の代身の実体父母の立場で神様の子女を養育するのです。そのようにしてこそ、見えない無形の神様が子女を養育したということを自分の実体で感じるのです。神様もそのように大きくなられたというのです。神様も子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代として発展してこられました。見えない神様の過去史を中心として、自分の息子、娘を生んで育てながら、神様の見えない赤ん坊時代の第一の創造主、無形の創造主の姿を見るのです。
 第二の創造主、見ることができる創造主の立場で赤ん坊を育て、兄弟として育て、夫婦を成すようにすることは、神様がアダムとエバを息子、娘として、兄弟として育てられたように、無形の内的要求の実相をすべて実体的にアダムとエバを通して平面途上から見るためなのです。これが息子、娘だというのです。
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 神様が創造主として歴史的、内情的原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を実体的に展開してくる過程がアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから始まるのですか。完全に小さな細胞が一つとなって大きな細胞になるのと同じように、赤ん坊が十カ月間で育つ過程を経ていきながら、男性と女性の形態に分かれて出てくるのです。なぜそのようになるのでしょうか。そうでなければ、生命遺伝をどのようにするかという論理に対して解釈する方法がありません。遺伝的内容をどのように展開させるのかという論理を立てることができないというのです。それゆえに、一つの本質的な無形の形態と有形的な形態の本質が、一体的内容の因縁を中心として横的に展開することを必要とするのです。
 別の言い方をすれば、主体の前に相対圏が必要だというのです。内的性相は外的形状とすべての根源的な面において、一致することもでき、通じることもできる内縁があります。それゆえに、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、神様の内的なすべての存在が表現されて現れるので愛さざるを得ないというのです。それが私であり、私が現れた実体だというのです。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。
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 神様が愛を見いだす対象を造ろうとされる時、誰に似るように造られるでしょうか。神様に似るように造られます。その神様に似るように造られるなら、神様の中にあるように男性性稟がなければならず、女性性稟がなければなりません。自分に似ているのですが、自分の本性相からすべて抜いて、見えない性相、見えない思考の形態を実体として展開させたものが人間だというのです。それゆえに、聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形に人間を創造されたというのは正しいというのです。
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 神様と人間の拍子が合って和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の姿どおりに音律を合わせることができ、自分の姿どおりにすべてが象徴的、形状的に踊り、すべてがこのようにすることができる、そのような喜びの世界が本然の園です。そのようになれば、万物も「ああ、私が生まれたかいがあるなあ」と言うでしょう。例えば、神様と人間が愛の祝宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びをお互いに分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界の限りなく小さな万物が願う所願ではないだろうかというのです。
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 いくら真理だとしても、真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結しているのです。それゆえに、万物を見て神様を知り、アダムとエバが神様の形状なので、アダムとエバを見て神様を知るというのです。なぜですか。アダムとエバは、縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二人とも完全にぴたっと男性と女性の愛を、東西南北を通して世界の軸に合わせるようになる時は、神様と霊界が通じて万世界がすべて通じるというのです。

(3) 人間は被造万物の中心

 神様は誰に似ているというのですか。私たち男性と女性に似ています。皆さんの心は見えないでしょう? 心を見たいですか、見たくないですか。神様も同じです。神様が霊的な立場で見れば同じなのです。神様には体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されていないので、今まで体がなかったというのです。体がありません。心のような宇宙に心のような主人、心のような先生、あるいは管理者、心のような父母でいらっしゃいます。
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 すべての万物は、神様の息子、娘を造ることができる土台だというのです。関係して連結することができる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあります。植物世界もすべて雄しべと雌しべがあり、動物世界も雄と雌がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された最高の傑作品が人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させ、男性と女性の性相、そのすべてに形状を付与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべて表して橋渡しするようにし、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。
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 神様が被造物の中心である人間を必要とされるのは、お金のために必要とするのではなく、知識のために必要とするのでもなく、権力のために必要とするのでもありません。ただ愛ゆえに必要とされます。そうではなく、神様一人で愛を受けるという立場に立つようになれば、愛してくれる何の存在もありません。結論がそうなので、神様は、必ずこの世界に自分が愛することができるそのような対象者を造らないといけません。このように思う時、被造世界においてその愛の対象になることができる、そのような度胸の大きな存在とは誰ですか。全宇宙を創造された神様の前に相対的な条件を備えることができる存在は、人間しかいないのです。したがって、皆さんは、「私は宇宙の主人です。宇宙で第一である」と言うことができる度胸をもたなければなりません。
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 神様は、喜びを加えて、喜びの刺激を連続させるために万物をつくられました。瞬間的な喜びを感じるためにつくられたのではなく、被造物に対するたびごとに胸深く入り込んでくる喜びの刺激と幸福を感じるために、最高の心情を注いでつくられたのです。神様は五日間万物をつくられたのち、六日目の日に喜びの心情で人間を造られました。自身の形状を型として造った私たち人類の先祖は、限りなく美しい存在であり、限りなく貴い存在であり、限りなく誇らしい存在であり、限りなくうれしい存在であり、限りなく光栄の存在であり、限りなく愛したい存在でした。
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 神様は、全知全能の方であられるがゆえに、知識も必要なく、能力も権力も必要なく、金銭も必要ないのです。それでは、神様において必要なものとは何でしょうか。それは、神様が愛することができる一つの対象です。その対象は、被造万物の中で最も貴く、最も霊長である人間以外にはいません。「神様が最も好まれるものが人間だ」と言ったのですが、神様はなぜ人間を好まれるのでしょうか。神様も愛が必要なためです。愛というものは、一人では、あるのかないのか知ることができないのです。
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 見えない神様の形状を、私たちの体に象徴的にすべて投入したというのです。目は誰に似たというのですか。神様です。それゆえに、顔の中で見れば、目は深い所にあるというのです。それで、すべてのものを観察するというのです。それから鼻は、アダムとエバを象徴します。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。それゆえに、四掛ける八で三十二(四×八=三十二)、三十二の歯をもっているというのです。世の中の万物を中心として、四数を中心としてです。それから、耳は四方を象徴します。この首から上は天国です。天国の情報の場があります。
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 皆さんの生命の根はどこにあるのですか。堕落していない父母にあります。それでは、堕落していない善の父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるので、神様が自らの二性性相を展開して、神様の形状どおりに万宇宙を造って人間を造られたのです。
 アダムは、神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは、神様の女性的性稟を展開させたものです。このように思う時、私たち一般の人々が普通「天のお父様!」というのは、一人のお方なのでそのように言うのですが、その一人のお方という概念の中には「天のお父様、お母様」という概念が含まれているのです。
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 もし人間先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一体となり、神様と同じ位置に立って、神様の創造の偉業を受け継ぎ、神様が創造後に喜ばれたのと同様の位置に立つようになっていたのです。神様と人間との間にそのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。
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 神様がお父様になり、人間は神様の息子になったとしても、お父様は上にいて息子は下にいる、上下関係のような気分がするというのです。その時に、私たち人間はどのように考えるのでしょうか。「お父様、お父様が座っていらっしゃるその席を私に一度下さい。私もお父様の位置に座ってみたいのです」という欲望が私たち人間にはあるというのです。
 ここで神様が「なんだこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし、神様は、そのようにはできないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっているということを知っているので、「早くそう言いなさい、早くそう言いなさい」と言われながら、その席までも私たち人間に下さるのです。その席まで人間に与えて、神様は、私たちの心に臨在なされ、私たちの心を聖殿として定めていらっしゃるというのです。
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 心身一体になれば、宇宙の力が保護してくれます。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟、このようにすべてが因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。ですから、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成すようになれば、そこでも通じるのです。どこにでも通じるのです。
 サッカーをする時、ボールが転がっていって途中で止まれば、どのようになりますか。その表面全体が一つになることができる所は、垂直線に通じるのです。それで、球形体を理想的な存在だといいます。表面のどのような所でもその垂直線が安着することができます。それで、転がり回るのです。どこでもすべて良いために、そうなるというのです。それで、心身一体圏、九〇度になれば、どこでもすべて合います。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人を問わず、どこでもすべて合うのです。
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 本性の心が行くべき道を行けば、宇宙が一つになるのです。そのような何かがなければなりません。そのような位置に入っていけば、自分の心と話すようになるのです。そのような境地では心と話をします。何かをしようと考えれば、すぐに答えが出てきます。そのような境地まで行くのです。そのような境地にいる人が、自分の行くべき道を知らないでしょうか。既に行くべき道が明確で、宇宙のすべての作用の力が助けるようになります。手を引っ張っていって試験場に入っていくようになれば、すぐにすべてのものが協助します。それでこそ大きなことができるのです。
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 私たちが自然を見て、「ああ、私には四季は必要ない。私は春だけが必要だ、夏や秋や冬は嫌いだ」と言うことができますが、神様に尋ねてみれば、「私は四季のすべてが好きだ」と答えるというのです。それゆえに、嫌いでも夏を好むことを学ばなければなりませんし、秋と冬を好むことを学ばなければなりません。雪が降る冬になれば、神様は、白い雪が世界的に積ったのを見る時に喜ばれるのです。「ああ、私も良い」と言うのです。そのように言わなければなりません。
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 神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起き、雷が鳴る時は、「ああ、私はあれが嫌いだ」と言うなというのです。
 神様は、「ハハー、あれはキスして結婚しているのだなあ」とこのように考えるというのです。そして、嫌いだという人々に「ハハハハ、こいつめ! 悪いやつめ!」と言われるのです。

 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真の愛や、真の理想や、真の幸福や、真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどちらに置かれるでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこに置くのかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。
 それで、真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心にして対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心にして主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきかという問題を考えられた神様が、主体の前に対象が「ため」に生きなさいと言う立場にその理想的起源を立てるならば、神様がそのようにすると同時に、すべての人も、自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、同じようにするというのです。それでは、一つになる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。
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 一つになることができ、平和の起源になることができるその道はどこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は、「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。それゆえに、真の愛は「ため」に生きるところから、真の理想も「ため」に生きるところから、真の平和、真の幸福も「ため」に生きる位置で成立するのであって、「ため」に生きる位置を離れては探すことができないのです。これが、天地創造の根本だということを私たち人間は知りませんでした。
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 男性と女性が生まれたのは、男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生まれたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのではないのに、自分を主張します。「私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界は展開するのです。
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 自らの価値を自分から追及するよりも、相対から、すなわち相対的基準でその価値を追及できる道を探求する人は、不孝な人ではありません。いつでもどこでも、心情の基台は相対圏をもつので、孤独ではなく、幸福になることができるのです。
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 調和というものは、一人で展開する道理がありません。楽しいということも、一人で展開する道理がありません。幸福もまた、一人で展開する道理がありません。絶対者だとしても、一人ではできないのです。必ず、自分に対応することができる相対的な条件がなければなりません。絶対者の前には絶対的な相対者がいなければならず、絶対的な主体の前には絶対的な対象がいてこそ、幸福や、調和や、喜びや、踊りや、歌というものがあるのです。
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 今日の既成教徒たちは、「全知全能の神様は元から栄光の中の栄光の主体であり、幸福の中の幸福の主体であり、すべての愛と生命の主体なので、それによらないものがない」と大声を張り上げています。しかし、いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、仕方なく不幸になるのです。神様も絶対的な立場に立つことができる一つの対象を探せなければ、滅びるしかないのです。いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、やむを得ず不幸だというのです。したがって、神様が滅びないためには、仕方なく相対的な存在を造らなければなりません。




















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