宇宙の根本
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四 進化論か創造論か

 1.進化論の根本的な誤り

(1) 種の区分は厳格、第三者の介入を絶対排斥

 歴史はいつからですか。進化を始めてからですか、その前からですか。進化とは何ですか。すずめとほおじろはいとこです。全く同じです。骨なども全く同じだというのです。色が少し違うだけであって、生殖器と目も全く同じです。だからといって、すずめの子とほおじろの子と、雌と雄を取り替えて、愛して子供を産みなさいといって子供を産むことができますか。千年、万年すれば子を産むでしょうか、産まないでしょうか。猿とチンパンジーとで子供を産むことができるか、千年、万年試してみなさいというのです。
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 すずめとほおじろとは兄弟です。どうですか。猿と人間に比較すれば一〇〇パーセント理にかなった話です。
 それでは、すずめとほおじろをペアにすれば新しいものが生まれますか。全く、学者という人々が考えるには、雄と雌が愛して子を産んで発展したという論理を否定して、外形的形態の構成が同じだから進化したというのですか。皆さん、生殖器官がどれほど複雑ですか。魚は雌と雄がくっつきません。陸地に出てきて変わるのです。
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 この太陽系の地球が何億年になったでしょうか。何億年も回っているのに寸分の違いがありますか。毎日そのようにぴたっ、ぴたっと合います。同じです。また、アメリカのすずめと韓国のすずめと巣を作るのが同じですか、違いますか。答えてみてください。同じですか、違いますか。同じです。これは進化論的に見るならば、すずめが巣を作るのも発展しなければならないのではないですか。学んでいないのに、どのように何千年、何万年そのようにするのかというのです。それはどのようにして知るのですか。つばめはつばめで違い、すずめはすずめなりに、うぐいすはぴたっと枝にぶら下げます。それもみな知らないでしょう? 鳥の世界を知っていますか。皆さん。
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 オランウータンの雄と愚かな女性を捕まえて結婚させて、万年祈祷をして精誠を尽したからといって人の子が生まれるでしょうか。赤ん坊が繁殖すると思いますか。答えてみてください。猿の子孫、共産党の者たち! オランウータンを人間の女性と結婚させて、共産党世界が祈祷して、あらゆる力を加えたからといって子が生まれると思いますか、生まれないと思いますか。分からないなら共産主義を主張するなというのです。進化論を主張するなというのです。明確にして暮らさなければなりません。
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 アメーバから猿まで行こうとするなら、数千種の愛の門を通じて上がっていかなければなりません。進化論は、数多くの種の愛の門を通過して上がっていかなければならないことを省きました。そのように行くことができますか。種を通じなくても思いのままに上がっていくことができますか。鳥が昆虫と通じることができますか。鳥が動物世界に通じないで上がっていくことができますか。愛の門、愛の関係を通して大きくならなければならないという事実はすべて抜いてしまって、骨が同じだからといってそのようなことをいうとは話にもなりません。産むほど、より良いものが出てくることができますか。より悪いものが出てこなければなりません。ここで問題になるのが何かというと、彼らが愛の関係を知らなかったということです。
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 種の区分は厳格だというのです。アメーバから猿まで数千種がいるのです。進化論は、数千種の段階をすべて無視して、そのままこれを通ろうとするなら、すべてその種の雄、雌の門を通じて何千回も産んで子が出てくるのに、一度にすっと出てきたと考えるので、「これは間違っている」と言うのです。愛の門を通過しなければならない、ということを否定したのです。数千種の愛の門を、アメーバがどのようにすべて通過して人になることができるのかというのです。骨が同じだから同じなのですか。同じような骨はいくらでもあります。狂った話はやめなさいというのです。
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 今日、この進化論を考えてみる時、種の起源を話せば、一つの種が生まれるにはそのまま生まれるのではありません。必ず雄と雌がいなければなりません。これは、鉱物世界も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが一つになって、一つの物質を造成するようになっているのです。必す雄と雌の陽陰になっているのです。
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 再創造は、環境の創造、主体と対象の創造、その次には対応的な発展、このようになるのです。進化論もこのように発展しなければなりません。ただ発展するのではないのです。主体と対象が一つになり、より大きなものに吸収され、必ず愛の門を通らなければならないというのです。このような原則によれば、愛のないアメーバからこの人間世界までは数千段階を経て行かなければならないのに、そのような愛の門をただ越えていくことはできない、このように思うのです。
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 今日、進化論がいうには、アメーバが発展して、進化して人になったといいます。ここで考えなければならないこととは何ですか。雄雌が人間にまで到達するためには、数千段階の愛の道を通らなければならないということです。それを知らずにいます。種別の限界は厳格です。ところが、それがそのまま進んでいって進化するのですか。
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 皆さんの中で、愛する妻の前に他の男性が来て介入することを喜ぶ人がいますか。動物もそうであり、植物も同じです。いないというのが普通ですか、絶対的ですか。絶対的だというそこには、他のものが入ってくる場所がありません。種においては、そのレベルが完全に違うというのです。ところが、アメーバは雌と雄の愛の門を通じて出てきたのですが、どのように違う種類を連結させて出てくることができたのですか。そのまま上がっていったのですか。必ず愛の門を通らなければなりません。それを無視して進化ですか。西洋の人たちは猿のような姿なので、進化論を主張したのです。そうなのです! 頭の色もそうで、毛もすべて狼のように褐色ではないですか。
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 愛は絶対的です。二人だけです。第三者の介入を願いません。このように思う時に、アメーバから人にまでなるとすれば、何千段階の愛の過程を通して連結するのです。存続するのです。愛がなければすべて壊れるでしょう。一年しか生きることができません。そのようなものですが、愛というその部分を通して、これが、連続的な系列的存在が残されるのです。その愛の門に第三者が介入して、まだらなアメーバを願いますか。猿と人と結婚式をして、千年くらい生きれば子供が生まれるでしょうか。生まれないでしょうか。千年ではなく万年たってもできません。話にもならないたわ言はやめなさいというのです。
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 昆虫の世界もそうです。このようなことが原則ならば、進化論は成立しません。相対圏、対象の路程を通したアメーバから猿まで、何千、何万回の愛の門を通じた雄雌の関係を無視すれば、連結されないというのです。すずめもそうです。冬のような時は、相対のようなのが分からないので、いたずらをしてそれぞれ他のプラスになっていますが、春になって巣を作り、相対圈をつくった時には絶対的です。第三者であるすずめに対しては、雄と雌が共に絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。なぜですか。自分の相対圏を壊し、宇宙法圏の侵略者になるために、それを排斥するようになっているのです。
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 植物の花を見れば、自分の種があるのに違ったものを中心として他の種子には変わりません。変わらないのです。それを見れば種の区別が厳格だというのです。それゆえに、アメーバから猿に進化したという進化論の論理は、形成することができないというのです。種の区別が厳格なのに、どのようにして数千種類の種の協助を受ける体制において連結させて発展したかというのです。進化論では愛の力を認めません。その愛の力を通して繁殖が可能なのです。愛の力がなければ、どのようなものも繁殖は不可能だというのです。どのように、アメーバから猿まで愛の力が正常に通じることができますか。そのようなことは、いかなる場合でもあり得ないのです。
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 アメーバから猿まで進化したとするなら、アメーバから猿までそのまま行くことができますか。数多くの異なる種を越えていくためには、どのようにしなければならないのでしょうか。愛の峠を通らなければ越えていく道がありません。新しい大きな種が出てくることはできないのです。数千、数万の雄と雌の愛の過程を通してこそ越えていくことができるのです。種の世界において、原則的なプラス・マイナスの概念が愛を中心として第三者の侵犯を容認しないなら、アメーバの世界からより高い一段階に越えていくことはできないのです。
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 進化は別種が出てくることだといいますが、愛の関係を中心としないでは他のものが出てくる道理がないのです。種の区別は厳格です。
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 進化論は、一度に壊してしまわなければなりません。自分勝手に理論をくっつけて進化論を議論したのです。人が猿の子供ですか。この者たち! 人間は、千年、万年天に侍るようになっています。猿なら何の猿ですか。猿と人は四十七の種類が進うのです。質的変化は起こり得ないのです。種の変化はあり得ません。だからといって、今日でも猿と人が暮らして人が生まれますか。猿が生まれますか。生まれません。種の起源というものは絶対的です。
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 宇宙は、なぜペア・システムになっているのでしょうか。自然にできた、あるいは進化論でもいいです。進化論の前に散在している事実は何ですか。男性と女性の生殖器、繁殖器官があります。そこに進化があるのですか。進化があるなら、男性と女性の愛する方法が変わらなければなりません。昔の人と今日の人とでは、それが発展していなければならないというのです。昆虫世界においても、虫が愛する方法が昔と今日とでは変わらなければなりません。鳥もすべて変わらなければならないというのです。そのような内容を中心として論ずることができるのです。生命の起源である愛の器官を中心として、その本拠地が進化的内容によって発展するようになっているのですか。狂っているというのです。
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 愛の世界の種別区分の厳格さは、天宙のいかなるものも犯すことができないのです。春になってすずめの雄と雌がカップルとなり、これから卵を産もうと巣を作り始める時には、第三者としてどのような鳥の種類も、どのような獣の種類も絶対に介入を許諾しないのです。皆さんの中で、結婚初夜に自分が最も愛する友人をそこに参加させたいと考える男性と女性がいますか。進化論は真理ではないというのです。嫁に行く女性が、母親以上にこの世で近い人がいないので、「死んでもお母さん、生きてもお母さん! どんなことがあってもお母さんと一緒に暮らしたい」と考えますが、それでもそのようにはならないというのです。そのような女性でも、夫を迎える初夜には、「お母さん、今夜お願いだから一緒にいてください」とは言わないのです。そのような女性がいますか。第三者の介入は絶対に必要ありません。それが本来、人間が迎えなければならない愛の伝統的で公式的な基準だったのです。
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 皆さん! 生殖器官がどれほど複雑ですか。そのような構造的発達形態……。それを言えば、すずめとほおじろとせきれいは、その形がぴたっと同じです。では、すずめとせきれいとくっつければ何が生まれますか。それは可能ですか。この者たち、すべて訳が分からないのに言っているのでしょう。私が問い詰めれば、いくらも語らないうちに返事もできなくて、うんうんうめくのです。この者たち! 雌、雄! アメーバからこのように生まれたとするならば、どのようにしてこのような雌と雄、凸凹が生じたのですか。なぜそれを通って授け受けして初めて子供が繁殖するようになっているのですか。それは誰が設定しましたか。進化論者がそのようなことを設定しましたか。
 内的な力、生命の起源とは、偉大な宇宙観でも包括できない生命の連合基盤を通して生成が展開するという内容を知らずにいます。猿と人とは四十七箇所が違うそうですね。この二つが結婚すれば子供を産めますか、産めませんか。昔、学生の時に共産党の者たちに尋ねてみると、全員答えることができなかったのです! このようなことは、きょうも数百種類の話をすることができますが、時間がありません。そのようなでたらめではいけないというのです。
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 進化が構造的形態の同位性によってできるのですか。違います。なぜですか。アメーバのような場合においても、より高い次元のものになるためには、雄と雌の愛の道を通じることなくしては不可能だということを知らなければなりません。ほおじろとすずめは、姿が同じです。しかし、それらが進化することができますか。足も同じで、くちばしも同じです。姿が同じです。見ても区分することができません。だからといって、ほおじろの雌とすずめの雄をペアにすれば発展しますか。白人男性とオランウータンの雌を結婚させれば何が出てきますか。子供が出てきますか、出てきませんか。進化論者、答えてみなさいというのです! 生殖器を通らないでは発展するものがないということを知らなければなりません。今晩、帰ってから研究してみてください。生殖器がどれほど複雑か知っていますか。すべての構成に必要な神経要素が、すべて集中しています。
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 今日の世の中の人たちは、人間が進化、発展したと信じていますが、アメーバに対する例だけ挙げても、それらも雄一つだけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用して初めて、より発展したものが出てくるのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高い級に発展するためには、雄と雌の愛の過程を通らなければならないというのです。多くの愛の過程を通って出てこなければならないというのです。そうでなくては発展があり得ません。皆さん、すずめとほおじろとは似ています。毛色が若干違うだけであって、彼らの骨をおいて見れば完全に同じです。だからといって、すずめとほおじろとペアをつくっておけば子供が出てきますか。進化論者、答えてみてください。一度してみなさいというのです。出てきません。また西洋の人々を見れば、比較的毛がたくさんはえているのですが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性とを結婚させておけば人が生まれますか。とんでもない話です!
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 種の区別は厳格なのです。したがって、進化論者たちの話のように、猿が人間の先祖ではありません。アメーバから人まで出てくるには、そのまま出てくるのではありません。数万種類の愛の過程を通します。愛の法度は動物世界でも同じです。第三者が介入することを絶対容認しないのです。ところが、どのように段階的に進化することができるのかというのです。力の作用においては、入力より出力が小さいのです。作用すればマイナスになるのに、どのように大きいものが出てくることができますか。そうではありませんか。だからといって、大きくなることができる第三の力に自分が加入することができる能力をもった存在でもないのです。
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 アメーバのそばに他の者が来て、見つめるのを喜ぶでしょうか。それゆえに、連結性をもつことができないという論理を否定できません。進化という意味を話す前に、雄と雌の生殖器を除去する時には、進化論が根本的に壊れていくのです。進化する前に雄と雌がいたので、進化することができる相対的要因の運動が展開したのです。
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 雄と雌の愛の器官が進化して、そのように合うようになっているのですか。この進化論が問題です。それが連結してアメーバのペアと、それから中間のペアと接触できる道ができていますか。横的にだけでなく、すべてに、どこでも接することができるかというのです。とんでもない話です。雌雄の世界は、既に愛という概念を中心として生じたので、進化とは関係ない次元なのです。
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 愛の世界では、自分の相対以外には第三存在を絶対容認しないのが天理原則です。すずめも虫も、すべてそうです。それでは、進化論を中心として見る時、アメーバから人まで行こうとするなら、その愛の系列が何千段階ですか。昆虫だけでも数千種ではないですか。植物から動物までも数千種です。
 ところが、その数千種がアメーバからそのままさっと人になったと考えているというのです。とんでもないことです! 数千段階を経なければなりません。種の区別は厳格です。アメーバから進化して人になったというのですか。でたらめな者たち!
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 すべての存在物は、すべてペア・システムになっています。進化論者に、「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何というのですか。「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った者たちです。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄と雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人たちです。では、あなた方は雄と雌を知っているでしょう。それがそのまま生まれたのですか。
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 環境には必ず主体と対象がありますが、一つになって対応的な主体・対象関係をもたなければなりません。環境の主体・対象から対応的な主体・対象関係に発展していくのです。ですから、一人では生きることができません。それゆえに、心と体は主体・対象関係です。主体が対象を見分けられなければ因縁がないのです。元素世界において、これが相対的に合わなければ、いくら実験室でくっつけようとしてもできません。ペアであれば、きちっとくっつきます。置いておくだけでもくっつきます。
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 種の区別は厳格です。かえるに似た鳥がかえるの世界に行って、「あなた、私とペアになろう」と言う時、「そうしよう」と言うのですか。逃げますか、闘いますか。あり得ないのです。進化論は、アメーバから猿まで行くときに何を否定したのかといえば、愛の門を経ることなくしては新しいものが生まれることができないという事実を否定しています。数千代の愛の門をすべてアメーバが経てきたというのです。そのようなことができますか。気が抜けるにしてもほどがあります。それゆえに、文総裁の前に共産主義が壊れていくのです。事由が先か、存在が先か、このような問題も気になることは気になるというのです。精神が先ですか、物質が先ですか。皆さんは学校で進化論を学んだでしょう? それは間違いでした。進化論は間違っているというのです。今から私が革命をするのです。
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 再創造の環境では、プラス・マイナスの対応世界で発展する過程があって、雄と雌の概念が進化論よりも先だということを知ることができたでしょう? 愛の種の区別は厳格で、第三者が介入できないのです。進化論によれば、アメーバから猿まで行こうとすれば数千段階を一度に跳躍しなければならないのですが、そのようにすることができる道理はありません。千万種類の愛の門を通過してこそ、発展的なその種を連結させることができるのに、一度に跳躍して猿が出てくることができるというのですか。絶対不可能です。これだけ知っておいてください。
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 もし進化論を認めるならば、アメーバから人まで何千段階を越えていかなければなりません。段階が同じだといって、そのまま通過できません。ここは、何千種類の愛の門を通じて連結しているというのです。愛には、第三者の侵入を許す法がありますか。ありません。嫁に行った初夜に「お母さん、頼むからここで一緒に寝ましょう!」と言う新婦を見ましたか。夫もそうです。「お父さんがいなければ嫌だ!」と言っていた男性でも、初夜に「お父さん、ここで一緒に寝ましょう!」と言う男性はいないというのです。愛は第三者の介入を願いません。動物界でも同じであり、昆虫世界も同じです。このように思う時、猿は猿を産むのであって、猿のような種類から人間のようなものが出てくる道理はありません。
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 化学実験室で元素を研究する教授が、「やあ! こいつ、この元素とあの元素と一つになりなさい」といくら命令してもできません。自分の相対圈が成されなければ絶対に一つにならないというのです。作用しません。自分が相対の主体になってこそ一つになるというのです。このようなことが原則なのに、無責任に進化論をこの宇宙形成に当てはめたのですが、それはでたらめです。ここで私たちは、「すべての存在に内的作用の力を起こすことができる本然の宇宙力がある」ということを認めていくべきだというのです。
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 猿と人は種子が違います。猿が文化的な生活をしますか。人は、生命が始まった時から宗教が付いて回りました。しかし、猿が「文化をもって世界を統一しよう」と言いますか。他の国を占領して自分の国にしたり、国境線をつくって「お前の国だ、私の国だ」と言いますか。そうですか、そうではありませんか。人とは種類が違うというのです。猿が神様を賛美しますか。猿は、ただ食べることを喜び、食べて繁殖すればそれで終わりです。人と狼では全く違います。進化論を主張する学博士という人々は、猿が人として進化したと意地を張って詐欺を働いているのです。統一教会では、彼らの主張が誤っていたことを明らかにして正さなければなりません。

(2) 力の作用法則と進化論の虚構

 今日、進化論を適用しているのですが、アメーバならアメーバが繁殖していくにおいて、アメーバよりも大きなものが生まれるためには、現在のものよりも大きくなるためには、他の力が加えられなければならないというのです。力がプラスされなければならないというのです。アメーバ自体が、自分で力をプラスさせながら発展することができますか。自分自体がそのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。
 もう少し上がっていって、より大きなものになることができるならば、ここにもっと大きな力をプラスしなければなりません。それでは、自分自体で力を創造してプラスさせることができる能力はないのに、どこからどのように来るのですか。そのような論理が成立しますか。ミスター金ならばミスター金、ミスター朴ならばミスター朴がいる時、「私は、モハメド・アリのようなものは問題なく握って片づける」、そのようなことができますか。そのようにしようとすれば、ここにより大きな力が加えられるか何かすべきで、そうでなければいくらやっても限界線を越えることはあり得ないのです。ミスター朴が「突然変異によって私の力が大きくなればアリをたたきのめすことができる」と言ってそのようになることができるでしょうか。そのようなことができますか。
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 力の公式的な原則を見れば、人間において入ってくる力と出ていく力とを同じにすることができますか。力が入ってきてこのように作用したのに、作用しようとして入ってくる力と作用したあとの力とが同じになることができますか。ここには消耗が生じます。そうではないですか。運動をすれば消耗が生じるでしょう? ですから、入ってくる力と同じにはなり得ないのです。作用したあとには、常に力が小さくなるものです。進化論者たちは、作用したあとに力がもっと大きくなるというのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世はひっくり返ります。それゆえに、第二の力が必要です。
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 進化論者たちは、アメーバが順次進化して高等動物である猿になり、その猿が進化して人になったといいます。ところが、皆さん考えてみてください。人が人以上の力を発揮しようとするなら、その力をどこからか補充されなければなりません。力の原則がそうです。力が作用するようになれば必ず消耗します。ここに力を補充してあげてこそ、再び作用するようになるのです。
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 主体と対象が作用して現在よりも劣るようになれば作用しないのであり、より良くなり得るお互いの目的を発見すれば作用するのが原則になっているというのです。この問題を中心として進化論を見れば、進化するところにおいても、より良くなり得る目的的なその何かをもつことができないときには発展できないということを考えることができます。発展するためには、横的により強い力が加重されなければなりません。そうでなくては発展できません。その力は、作用することができる目的と対象がなくては絶対にできないのです。
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 進化論の矛盾は何ですか。アメーバが進化、発展するためには力が必要です。どんどんと大きくなっていくためには第三の力が必要です。「私は上の段階、高い段階の物に生まれる!」とするなら、ある何かをそこにプラスしなければなりません。力が加えられなければ大きくなることはできないのです。第三の力が必要だというのです。アメーバがより大きくなっていくことができる力を創造していきながら育つことができるのか、生きていくことができるのかというのです。そのようなことはあり得ません。
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 進化論では、どのように発展するというのですか。進化論は、入力と出力の法則と反対です。世の中にこのような原則がどこにありますか。進化論は絶対に大きくなることでしょう? 進化とは小さくなるということですか。進化論では、アメーバが自然発生してどんどん大きくなって上がっていき、猿に進化発展して人に進化発展したといいます。進化論によれば、それが大きくなるのですか、小さくなるのですか。しかし、力の原則においては、入力と出力が同じ時、絶対に大きくなることはできません。小さくなるのです。力の消耗が起きるというのです。
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 力学の世界では、入力・出力圏を中心として作動すれば、必ずロス(損失)が生じることになっています。落ちていくようになっています。ところが、進んでいくことができるという論理がどこから出てくるのかというのです。「進化」ということ自体が、進んでいきながら変わるということ自体がプラスするという言葉ですが、それがどこでプラスされたのかというのです。投入した入力よりも出力が大きくならなければならないという論理をどこから探し出すのですか。作用すればロスが生じるので、入力は出力より大きいのです。このような立揚では、進化という論理は形成されないのです。
 三点加入をそれ自体が投入できず、それから運動する世界では、入力よりも大きい出力を自分自体で発生することはできないのです。このようになれば、無限の動力が出てくるのです。その次の問題とは何でしょうか。今日、進化論を考える人々が、性関係を、プラスとマイナス、男性と女性、雄しべと雌しべ、プラスイオンとマイナスイオンが一つになり、その運動を通して出てきたということを忘れてしまいました。アメーバから人まで来ようとするならば、何千段階の愛の門を通らなければなりません。ところが、これがただ自然になったと考えています。突然変異が起きてそのようになったと考えますか。でたらめな者たち! すべての種の原則は厳格なのです。第三者の介入を許す存在はありません。
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 進化論を主張しようとするなら、進化できるようにする力をどこからか補充することができなければなりません。そうでなければ、核の変革形態を自分自体に成し遂げて連合できる自制力がないというのです。それゆえに、進化は不可能だという結論です。
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 主体と対象があれば、必す目的があって方向性があります。ところが、進化にどうして方向性と目的があり得るのかというのです。進化論では、このような理論を適用できないのです。それゆえに、この目的観、方向性によって共産主義を壊してしまわなければなりません。このでたらめな理論をもって世界を蹂躙してしまおうとしたのです。アメーバが作用すれば、入ってくる力よりも作用が小さいはずですが、どのようにして大きくなるのかというのです。どのようにして大きいものが出てくるのですか。アメーバにおいて、入力より出力が小さいので、大きいものが出てくることができるようにするためには、第三の力が投入されなければなりません。そうでなくては進化論の根拠が壊れていくのです。アメーバ自身が第三の力を投入できる能力がありますか。このでたらめな者たち!
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 進化論を語る時、進化するアメーバ自体が進化の出発である三点をつくり出せるでしょうか。作用しようとするなら、運動しようとするなら、三点で回っていきながら、回転することができる四点基準を経ていかなければなりません。三点から四点を経なければなりません。円形で授け受けして運動しようとするなら、三点から四点を経なければなりません。ところが、アメーバ自体が再び自己の位置に戻ってくることができ、三六〇度に循環させることができる力をもつことができるのですか。もてません。
 それでは、三点の力は誰が加えたのでしょうか。それは、理論的に、他の違う力が含まれなければならない、という事実を知らなければなりません。ですから、進化する時、進化の方向がどのようになるのですか。その方向性を誰が決定するのかというのです。進化するアメーバ自体は、方向性を備えることはできません。それを思うとき、突然変異というものは気違いのたわ言です。それを誰が受け入れますか。最近では、進化論というものは、既にごみ箱に入ってすべて腐ってしまったというのです。何というのでしょうか、肥料の山のように考えているのです。
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 今日では、物理学が発達し、すべての原子にも意識があるという二元論を主張しています。この論理は、統一教会の二性性相原理のみ言と同じです。次元は違っても、すべての万物が聞き分けるというのです。そうではないですか。それでこそ細菌のようなものも生きるのです。そうではないですか。細菌のように見えもしない、何千万分の一にしかならない大きさで生きている細菌に耳がありますか、ありませんか。目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。そこに生殖器がありますか、ありませんか。すべて備えているというのです。
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 神様もこの世界を創造される時、三点から始めました。このように思う時、進化論というもの、「進化」という言葉を私たちが認めることはできません。アメーバが作用するならば、作用するところにおいて三点基準を自分自ら選ぶことはできないのです。その三点基準は、もう一つ別の力によって形成されるのです。このようにして運動すればするほど、そこには必ず円形を経て運動したその点数を加えて球形運動を経ていくのです。
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 進化論を信じる絶滅分子たち、ここに進化論を信じる者たちがいますか。教授という安物がそのようなものをよく信じるでしょう? それがなぜそうなのでしょうか。ペアにならないものを、いくら力を通してやっても、神様だとしても、和合作用もしないのはもちろん、一つにもなりません! なぜですか。これが宇宙の法です! なぜですか。愛の理想を中心としてつくられ、相対性を分け与えたために、宇宙はペア・システムになっています。アメーバから人になりますか。
 直線上では調和がありません。このようなことを理論的に話そうとすれば、時間がたくさんかかります。直線世界でどのようにして三点をつくり出すのですか。三点、四点、四角形をどのようにつくるのかという問題、ここから調和が成されます。円形はどこから出てくるのですか。直線からは出てきません! アメーバが三点自体を策定して、それを形成することのできる自力がありますか。ありません! 運動すれば直線でするのです。
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 アメーバを中心として、数千階段が愛の法ですべて積まれているのに、それがどのように愛の門、男性と女性の愛の門をすべて越えていくことができますか。できません。進化論の問題とは何かといえば、第三はどこから来たのかということです。愛の峠を越えてのみ種の繁殖が可能なのに、その門を通っていったのか、そのまま越えていって猿になったのかというのです。その次には、進化論というものが、雌と雄、このすべての鉱物において、元素世界においてもプラス・マイナスがあるのですが、プラス・マイナスの相対的概念より先にあったのかという時、それはあとだったというのが事実です。それでは、この宇宙の主体・対象関係を認めざるを得ないというのです。これは、自分の正道以上に越えていくことができないということです。
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 直線上には調和が成されません。直線は何かというと、二点を連結したものです。創造されるためには、三点四点、スペースが必要です。この三点を誰がつくっておいたのですか。直線自体が知ることができるのかというのです。答えてみてください。上の三点に下の三点を誰がもってきて置いたのかというのです。それとともに、宇宙のすべての発展をするのです。その話は、運動というものは主体と対象がなければならないということです。それゆえに、主体・対象がなくてはなりません。また、それからもう一つは何ですか。力学の世界では入力が出力より大きいのです。それでは、アメーバが運動するところにおいて出力が大きいという論理がどこにありますか。上がっていくのではなく、落ちていかなければなりません。そのような意味で、進化論はすべて整理しなければなりません。
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 直線上には調和がありません。三点からすべての球形世界の調和基準が展開するのです。進化論には、三点を提示することのできる能力がありません。それゆえに、創造を無視することはできない伝統的な内容があることを知らなければなりません。直線上の点にはそのようなものはないのです。
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 宇宙の創造から見るとき、直線世界でどのようにして三点の基準を立てるようになったのかと考えてみるならば、進化論の観点で宇宙が始まったという結論を下すことはできないということを知ることができます。三点を中心として始まったというのです。三つの点があるというのは、必ず相対を中心として見るとき、それを連結させてあげる核があるということを意味するのです。
              *
 進化論は、既に過ぎた廃論です。方向性がありません。このようなことを中心として見るとき、方向性が設定されたということは、プラスとマイナスの二つに、相対圏にすべて共同的な利益をもたらすことのできる道が決定したのです。中道であると同時に正道の道を行くのです。二つとも喜ぶことができる道を行くのです。進化論者たちは、入力と出力の関係に対する論拠に解答できませんでした。しかも、方向性を提示できませんでした。第三の力を加えて、より大きいものを引き込むことができる内容的力を、アメーバ自体が介在させる自主力をもったのかというとき、もっていないのです。話もするなというのです。その方向性は愛の方向性です。
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 進化論を結論づけて越えていこうとするなら、進化することができるためには、アメーバが大きくなれる第三の力を自分で創造しますか、補給されますか。アメーバが進化して大きくなるためには、現在の状態から大きくなろうとすれば第三の力が加えられなければなりませんが、自分が創造しながら大きくなりますか、他人の力を受けて大きくなりますか。創造することができなければ、力を受けたという論理を否定することはできません。また、そして、無条件に骨が同じだからといって進化するのですか。そのような狂った者たちは、いてはいけないというのです。精神病者です。
 アメーバから猿まで行くときには、数千種の階級があるということを知らなければなりません。種の区別があるということです。それは何かというと、すべての種は、男性と女性、雄と雌の愛の門を通じてのみ出てくるようになっているというのです。ところが、数千種の愛の門を通過するということを忘れてしまって、骨が同じだ、似ているといって進化したということができますか。その数千の門の、階級の愛の峠をすべて越えていって発展したのかという話です。
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 生まれる時に、目を閉じて生まれますか、目を開いて生まれますか。では、私がいつ目を開けると思って開けましたか、自然に開けましたか。また、お母さんのおっぱいを飲むという教育を受けましたか、受けませんでしたか。ところが、どのようにしてそのようになりましたか。そこには見えない磁石のひもがあります。作用するすべてのものに、原則的な道があるというのです。このように思うとき、すべての作用というものは、偶然に展開するのではないということを私たちはここで知らなければなりません。今日、進化論者たちは、「宇宙が発展した、自然発生だ」とこのように言うのです。ところが、どのように自然発生するのかというのです。どのようにしてそのまま自然発生することができるのかというのです。原因もなく、動機もなく、過程もなく、結果もなく発生することができるのかというのです。
 動機が最初であり、原因が最初であり、その次が方向です。それでは、なぜ方向が出てきたのかというのです。存在それ自体が、「私はこのように行くべきだ」ということを意識していきますか。目はなぜ開かれるのですか。目を開ければ、開けるや否や中を見つめますか、外を見通しますか。なぜそのように見なければならないのかというのです。そのような方向性がどこから出てくるのですか。どのようにしてそのようになるのかというのです。存在するものは、方向に従っていくために存在するということを私たちは知ることができます。
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 私たちは、目一つにしても答えることができないのです。今日の弁証法や進化論をもってこのことを話すことはできないというのです。皆さんは、今後共産主義者と闘わなければなりません。今から進化論と弁証法を壊さなければなりません。進化論さえ壊してしまえば弁証法は壊れるというのです。今の闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は「物質が第一である、物質が最初である」と言い、民主世界では「意識が先だ」と言います。目がどのように生まれたのかという時、目がただ生まれたいと思って生まれた、と考える者は狂った者です。鼻はじっとしているのに、なぜ目は動くのですか。「なぜ目が動くのですか」と言う時に、「動きたいから動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。
 目の目的は見ることです。見ることに目的があるので動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻はほこりがくっついてもじっとしているのに、目はなぜこのように絶えずぱちぱち瞬きするのかというのです。なぜですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水蒸気をまいてあげるためにそのようにするのです。まゆ毛はなぜ生えているのですか。ほこりを防ぐために生えています。「なぜそのようになっているのか」と言う時、「そのようになってみたいと思うからそのようになるのだ」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。それは、そのように簡単ではありません。それが「ただそのようになった」と言う者がいれば、「この者たち、狂った者め! たわ言を言うな!」と、このように言うのです。

(3) 愛の論理から見るとき、進化論は間違っている

 進化論を解決しなければなりません。進化論が問題です。進化論のコンセプトと実在は、共産主義が問題とするのです。見えないものが貴いのです。神様が見えますか。良心が見えますか。愛が見えますか。人間に最も貴いのはこの三つです。見えない三つの貴重なものが神様、良心、愛です。良心があることはみな知っているでしょう? 「良心はない」と言う人がいますか。「愛はない」と言う人がいますか。しかし、目には見えません。見えないのでどのようにするのですか。どこにでも入っていくことができて、どこにも一つになることができるのです。見えたら入っていくことができますか。見えないので細胞の中にも入っていくことができるのです。通じない所がないということです。それは論理の根源を探すことができます。愛だけは誰も制止できないのです。真の愛は、宇宙が制止できず、妨げることができないのです。
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 進化論が先ですか、雄雌の概念が先ですか。どちらが先ですか。実在が先ですか、愛に対するコンセプトが先ですか。これは深刻な問題です。共産党を押し倒すためには、進化論を克服することができる論理をはっきりと知らなければなりません。アメーバが現象世界以前にいたでしょうか、その以後にいたでしょうか。アメーバから人間までの発展の連結体制を成すにおいては、どのようになっているのですか。愛によって実体が発展するという概念は無視して、そのまま進化によってアメーバから人になったという、そのようなばかな論理が世の中のどこにありますか。
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 中世時代から今まで、歴史を経てきたキリスト教文化圏が最も混乱したものとは何かというと、人本主義思想です。人本主義思想を中心として出てきたチャールズ・ダーウィンの進化論が、キリスト教を滅ぼすことにおいて、首を締めてつるし上げるのに主導的な役割をしたのです。「神様はいない」と言ったのです。環境圏内において、主体と対象になるのが雄と雌の相対概念です。雄と雌、人でいえば男性と女性のコンセプトですが、このコンセプトが先でしょうか、進化論が先でしょうか。環境には主体と対象があるのですが、そこには進化がありません。環境の中には必ず主体と対象があります。鉱物世界でも電子が陽子を中心として回っているのです。分子なら、プラスイオンとマイナスイオンが一つになって運動しているのですが、それらが進化論よりも先にあったでしょうか、あとにあったでしょうか。先です。先にあったというのです。
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 進化論が先ですか、宇宙の雄、雌の概念が先ですか。主体と対象が先ですか。鉱物世界にもプラスイオンとマイナスイオンがあり、主体と対象によってすべてペア・システムになっているでしょう? 植物世界もそうでしょう? 雌しべと雄しべがあり、主体と対象の相対的関係です。動物世界はどうですか。雄と雌になっています。宇宙の天理です。不変の天理です。これを人間の力、ある自為的な力をもって種別に対する雄、雌を変更させることができるものは、この地上に永遠に誰もいません。いれば大変なことになるのです。
 進化論を片づけてしまいなさいというのです。進化論がある前に、そのような雄、雌の思想があったということを知らなければなりません。宇宙の神秘な秘密の中に隠された秘密、そのような秘密であり、今まで人間が知らずにいたのが雄、雌の概念であり、この概念が宇宙を形成したという、主体・対象関係で宇宙を形成したということを知らなければなりません。進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。雄、雌の概念です。イエス様がこの地に来て雄、雌の概念を革命しようと言いましたか、言いませんでしたか。
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 進化論を中心として見るとき、どのように進化したのですか。自分だけがいて、アメーバだけで進化したというのはでたらめです。あなたがなければ発展がないというのですか。自分だけがいれば発展するのですか。あなたと私とで喜ぶことができるその内容を中心として発展するのです。発展は、あなたと私の間の相関関係において、理想的な授受をすることによってより次元の高い発展が展開されるのです。
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 進化論では、アメーバから人まで発展したと見ます。発展がどれほど複雑ですか。一段階より高い生物がそのまま環境に適応して発展してくるのではありません。一段階高い存在の位置に上がっていくためには、必ず雄と雌、プラスとマイナスの愛の過程を通してこそ成されるのです。ところが、進化論では、このような問題を無視しているというのです。雄から雄に行って再び雌に行き、また雌に行って、このように生きることができるのかというのです。その方向性を見れば、必ず愛の門を通じて次元の高い存在になるのです。ところが、進化論者たちはそれを知らずにいるというのです。進化するためには愛の門を通過しなければなりません。
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 進化して男性と女性になったという言葉が問題です。愛という観念が進化する前にあったのでしょうか、進化したあとに生じたのでしょうか。どうですか。前ですか、あとですか。前です。今では、細菌までも夫婦があるというでしょう? アメーバではなく細菌です。何十万倍、何百万倍に拡大して見ることができる細菌の世界にも夫婦というものがあるというのです。その細菌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか。どうですか。おもしろいでしょう? 万物がペア・システム、相対になっているということ自体は、愛を中心として成されたものです。このことを考えてみれば、愛の感性とは進化する前からあったという話になります。それならば、アメーバから人間まで進化するのに、何億段階の雄雌交流の等級をどのようにして越えることができるのですか。これは、既に理論に合わないのです。そのような理論は、今ではもう古くなりました。進化論は大変なことをしでかしているのです。これは、歴史上「神様はいない!」といって神様を否定する共産主義が発展した基台になったのです。
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 宇宙は、どの方向に向かっていますか。その方向性をつかむことができなければ目的観が出てこないのです。共産主義者たちは、進化論を語るので目的観がありません。しかし、すべての存在物は、既に主体と対象になっていれば、必ず愛というものを中心として作用します。ですから、それを連結させていく道が愛の道です。愛の道を訪ねていくのです。
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 今日、進化論もこのような原則で発展するものとして説明しなければなりません。二つの心が合って、お互いにより大きな目的によって刺激を受けなければなりません。刺激を起こし、その目的を中心として二つが追求してこそ、より高い所に行くことができるというのです。ですから、必ず主体と対象がなければなりません。その二つの間に起きる刺激とは何かといえば、愛だというのです。
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 進化論に愛の論理がありますか。なぜ凹凸が生まれたのかという理論的な根拠を語っているのかというのです。それでは、進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。どちらですか。雄、雌が先です。雄、雌が先ですか、愛の概念が先ですか。どちらですか。愛ゆえに雄、雌が生まれたのです。
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 宇宙の根本がどこから始まったのですか。進化論ではありません。それを知らなければなりません。進化よりも先に、創造の概念がある前に雄と雌がいたということを知らなければなりません。雄、雌はなぜ生じましたか。愛ゆえにです。愛、これが公式です。
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 すべての存在物は、すべてペア・システムになっているというのです。進化論者に「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何と言うのですか。「自然に生まれたのでしょう」と、また「雌がなぜ生まれましたか」と言えば、「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った人です。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄、雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人々です。そうです、あなた方は雄、雌を知っているでしょう? それがただ生まれたのですか。
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 主体と対象の相対圏は宇宙が保護します。このような理知で進化論を見れば、どのようになりますか。アメーバからそのまま行くことはできません。必ずプラスとマイナスが一つにならなければなりません。この一つになったものは、また一つの大きなプラスになるかマイナスになるのです。このようになり、ある存在は上に上がっていって、ある存在は下に下りていくのです。このようにしてその全体的な一つの主体的性格の基準の前に、自分に合う相対的主体性に該当するプラス的対象存在ならばプラスに行ってくっつき、その大きい主体に対してマイナス的対象存在ならばマイナスに行ってくっついて、もう一つの大きなプラスになるかマイナスになるかして、より大きな世界に向かって発展していくというのです。
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 進化論をどのように撃破しますか。学者を中心としてその進化論が問題です。進化する前、猿の雄、雌も進化してそのようになりましたか。どうですか。雄、雌は進化してできましたか。すべてのものが、鉱物世界はプラスイオンとマイナスイオンであり、植物世界は雄しべと雌しべであり、あの昆虫世界の小さな虫もすべて雄、雌ですが、この雄、雌は、進化して生まれたのですか。
 進化論者に雄、雌が生まれた起源とは何かと尋ねてみてください。それを何だと答えますか。繁殖するためであり、愛するためだということを否定できません。
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 進化は、どこから始まったのですか。これが問題です。今日の若い知性人たちは、この問題に引っ掛かり、このわなから抜け出すことができずに、すべて地獄に行っているのです。進化はどこから始まったのかといえば、アメーバから始まったというのです。進化なのか、神様が創造した調和なのか、この二大論理が文総裁によってきれいに整理されます。進化論は、神様を否定する共産党の無神論が作り出したものです。進化論は、科学世界に途方もない被害をもたらした怪物です。それは処断しなければなりません。進化がアメーバから始まったとするなら、それより何十万倍、何百万倍も小さなそのような世界を顕微鏡で見ることができますが、そこにいる菌の雄、雌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか、あとにいたのでしょうか。
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 一つ知らなければならないことは何ですか。進化論よりも愛というものを中心として雄、雌が先にあったのでしょう? この進化論が問題です。進化して雄、雌が生じましたか、進化する前に雄、雌が生じましたか。愛という内容を中心として実体が生まれたのです。愛ゆえに生まれました。男性と女性、雄と雌が一つになるのは愛のためです。進化というものはあり得ないというのです。進化する前に愛のコンセプトがあって実体が生まれたので、進化という言葉は、男性と女性、雄と雌にはふさわしくないというのです。愛ゆえに生まれました。
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 進化論を主張する前に雄、雌、愛の概念が最初にありました。それは、進化論以前にありました。男性と女性は、愛ゆえに結婚して一つにならなければなりません。一つになるのは何のためですか。それは愛の目的を得るためなのです。ここには進化論の内容も何もないのです。
 創造の公式的な一致観を認めることはできますが、進化して雄自身がどのようにして雌になるのかという観念、また雌自体が、女性である私が男性になるという観念をどのようにもつのかというのです。そのようにはならないというのです。自分自体ではなりませんが、そのようになった結果論から見れば、その動機は愛という観念であるということを否定できません。雄、雌を考える時、進化論は絶対に成立しません。結局、雄、雌は何のために生まれたのでしょうか。愛ゆえに生まれたというのです。
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 宇宙には進化という観念がなかったというのです。増加するという観念は、本来愛を中心にして始まったのです。愛の観念から進展の編成を展開させるのが神様の創造理想です。進化論に先立つ愛の観念を考えてみても、そこに連結する雄、雌の内容をどのように進化論によって理解させることができますか。愛の感情は進化する前からありました。それは自分とは関係ないのです。男性と女性が生まれる前から、存在前からあったのです。したがって、観念が先だというのです。愛の本宮とは何ですか。本宮が何か分かりますか。
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 進化論という言葉が出てきたので、一言話して次に行きましょう。鉱物世界にプラス・マイナスの概念があります。動物世界にも雄と雌がいて、植物世界は雄しべと雌しべがあります。すべて雌雄関係です。それから人間世界は男性と女性です。
 ところが、男性と女性がいたずらに生まれたのですか。それは、何のために生まれたのでしょうか。これは、すべて主体・対象関係です。授け受けするために、運動するためだというのです。それ自体の愛を中心としてこのようになったのです。
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 進化論がキリスト教を破壊させるのに、どれほど貢献したか分かりません。しかし、今、進化論を私の手で握りつぶすことのできる時代が来たというのです。進化論を信じますか、信じませんか。文総裁の話を信じますか、進化論を信じますか。今、整理して越えていかなければなりません。これはうそだというのです。愛の力は何千万代を経るのに、アメーバがそのまま何千段階の愛の門を通って人になることができますか。アメーバ自体がそのような能力、飛翔天することができるそのような資質をもつことができますか。


















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