宇宙の根本
(全面表示)  戻る


 2.進化論は既に時代後れの思想

 今、世界の主流思想から見るとき、概念と実在が哲学世界の二大主流になり、有神論と唯物論、左翼と右翼の闘争によって世界に及ぼしたその被害は莫大なものです。左翼思想というものは、進化論によって世界的に覇権をもつようになりました。男性と女性という概念が先ですか、愛が先ですか。男性と女性がいる前に、愛という概念が先にありました。愛が先にあったので、男性と女性もそこに準備してその愛の概念に一致するようになっているというのです。それゆえに、概念と実在は分かれるものではありません。このように、概念と実在が愛によって一つになることができる、ということを共産主義は分かりませんでした。
              *
 今まで世の中の学者において進化論が先か、神様の創造が先かということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先ですか。進化論が先ではなく、この愛の概念が先にあったあとにそれがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じて、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合うだけであって、それで根本がそのようになったのではないということを知らなければなりません。
 すべての鳥の種類は、形態がすべて同じです。しかし、種の区別は違います。すずめとほおしろが夫婦になって子を産むことができますか。それはできないというのです。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。とんでもありません。種の区分は絶対的です。
              *
 共産主義も「神様がいる」と言って帰ることができる、そのような思想的概念をどこで取り戻すのかというのです。絶対的に唯物論を、絶対的に進化論を否定することができるように確定しなければならず、心と体が一つになることができるように確定しなければならず、理想的出発を自分から始めなければならないという、このような基準をどのようにしてつくるのか、統一するのかという問題が世界史的問題です。
 共産ブロックが進化論を主張して、創造論は宗教圏が主張して、この二つが闘いました。それで、世界的ブロックが主張したことが、すべて失敗しました。ですから、どこからこれが出発しなければならないのかといえば、世界的基準ではないのです。個人に入っていかなければなりません。個人で誤ってこのような結果になったのですから、個人から唯心、唯物を中心として判定しなければなりません。
 進化論を取り除いてしまい、絶対的神様を中心とした創造論を中心として、絶対的神様を中心とした絶対価値の核を立てなくては、世の中が行ったり来たりするというのです。
              *
 今日、進化論や唯物弁証法、認識論、唯心論、唯物論等によって、世界の思想界は矛盾と混乱に陥ってしまったので、絶対真理を樹立してこそ絶対的価値世界の形成が可能なのです。絶対価値的存在は、永遠、不変、唯一の存在です。それでは、宇宙の中で永遠、不変、絶対の原理が何かというと、原因と結果、主体と対象の関係だという結論になります。
              *
 今日、進化論が事実か、調和の創造が事実か、ということが大きな問題になっているのです。その進化論の方向性は誰が決定するのですか。自分が決定するのですか。発展するその物質が決定することができますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結ぶことができる力をどのように育てることができるか、もっと抱くことができるか、プラスさせることができるかということが問題です。
 それは神様によって可能なのです。そのような問題は、科学も解明することができません。それゆえに、物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望的方向は神様と一つになることです。それが目的です。同じです。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的代表、この物質世界の代表が人間だというのです。
              *
 思考の根拠地はどこですか。ある人は頭にあるといい、ある人は胸にあるといいます。それでは、自分が胸にいるのですか、頭にいるのですか。それだけではないのです。このように見ると、自分が存在するのは結果的なことなので、どのようにして生まれたのでしょうか。すなわち、起源がどのようになっているのでしょうか。これが問題です。自分はどこから始まったのですか。
 一般的に人々は、人間が動物界から進化したと考えます。それは、仕方なく作った方便的な理論です。論理的に連結させるために仕方なく方便的にくっつけたものであって、本当に進化したかということは知ることができないというのです。私たちの精神的底辺がアメーバから始まったのですか。精神的先祖がアメーバなのかというのです。進化論では、アメーバから出発してすべて発展したというのです。
              *
 今日の哲学思想、その哲学思想とは何かというのです。これは、すべて一番下から探求していくのです。ところが、これが、「どのようになっているか」と理論的な追求をしてきましたが、「人間とは何か。真の人間とは何か」ということに対してまだ結論が出ていません。すべての学者、すべての有名な哲学者が人間の問題を中心として考えましたが、この結論がまだ出ていないのです。「人間とは何か。人間の起源とは何か」ということに対して、進化論や創造説による様々な学説を通しても、まだ解決されていないというのです。「こうだ」と言える決定が出ていないというのです。
              *
 すべての経典を見れば、孔子もあいまいです。人格的神を知らなかったのです。お父様を知らなかったのです。生まれた私たち人間の根本であるお父様がいるはずですが、お父様を知らなかったのです。また仏教も万象帰一の法を論じますが、人格的神を知らないのです。
 もしも誤れば、唯物論に陥りやすいのです。進化論に陥りやすいのです。進化論的見地の発展的信仰基準に立つために、これは唯物論に接近しやすいのです。
              *
 フランス革命以後、人本主義思想を中心として啓蒙思想を経て、今の共産主義まで出てくるその過程において、このチャールズ・ダーウィンの進化論を中心として共産主義が一つにつづられ、今までキリスト教を完全に破壊のくぼみに陥れたのです。
              *
 今日の科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力がある前に作用が先だという事実を知らずにいます。作用があるがゆえに主体と対象があるという事実を知らないので、混乱が生じるのです。主体・対象の概念によって事物を判断するときには、進化論が根本的に壊れていくのです。
              *
 最近、進化論のようなものは、アメリカの大きな大学では講義しない所が多くなったといいます。それは当然のことです。「自然にできた!」と言いますが、皆さんが自然にできたと考えれば、それはどれほどむなしいでしょうか! 「自然にできるのですか。自然も主体的な自然がありますか」と言えば、「それは私には分かりません」と言います。
 このような話がどこにありますか。どのようにして主体的な自然があるのですか。「それはそのようになっている。生理作用がそのように、発展現象はそうなるようになっている」と言うというのです。「そのようにですか? なぜそのようになるのですか」と言えば、「それは誰も分かりません。それはそのようになったのでそうなのです」と言うのです。そのような論法は、あり得ないのです。原因がない結果は、あり得ません。因果法則を否定する科学論理というものは、あり得ないのです。
              *
 今、進化論は、流れていった一つの歴史的遺物になっていますが、進化して発展するというでしょう? 進化すれば、なぜ逆にはならなかったのですか。逆さまになることもあり得るのではないかというのです。東にも行くことができて、西にも行くことができて。進化することができる方向を誰が定めてあげたのですか。自分で育ちながら方向を定めるのですか。アメーバから発展して人になる時まで、数多くの高次元の段階を経ていくのに、その方向を、高次元に向かって発展することができる方向を誰が定めてあげたのかというのです。なぜそのように高次元に向かうのかというのです。
              *
 各宗教の経典の欠点とは何かといえば、創造説がないというのです。神様が創造されたプログラムがないというのです。それで、あらゆる論理を中心として論告を書くのです。創造説がないので、創造の方向と創造目的を知らないのです。これだから世の中が自分勝手になり、進化論だ、何論だというものを掲げてきて自分の思いどおりにやってしまい、自分の思いどおりに行動してきたというのです。
 ですから、創造説がどうだということをはっきり知らなければなりません。その次には、方向性と目的性があって、これがこうなのですが、なぜこのような悪なる世界になっているのかという、その理由を糾明しなければなりません。
 その原因を糾明し、聖書とか歴史的な過程において、人類歴史の中で滅びた国がなぜ滅びたのかという、そのすべての起源を解決していかなければなりません。一般常識的な立場で、誰でも妥当性があると公認することができる論理的体制を整えた歴史観がなければならないというのです。
              *
 絶対的な愛の前には、第三の相対者を絶対に付与しません。このような論理が本物ならば進化論はあり得ないのです。アメーバも、それだけでは発展できません。陽性、陰性の内容を通して、愛の門を通じて新しい次元を経ていかなければなりません。すべての宗教の教理は、愛の門を通るという論理、またここには第三者の介入が不可能だという天理を考える時、進化論はあり得ないという結論が出てくるのです。




















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送