宇宙の根本
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 2.神人愛理想の根本原理

(1) 神人一体をどのように解明するのか

 先生が最も苦心したこととは何でしょうか。神人一体をどのように形成するのかという問題です。理論的にどのように説明するのかというのです。これが解明されなければ、理論的体制が定着できません。人間の愛の根本的位置が設定されなければ、すべてのものがずれていくのです。
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 神様の愛と人間の愛が問題になります。神様の愛と人間の愛は、色が同じか違うかという問題です。大きな問題です。神様の愛と人間の愛がどこで結びつくのでしょうか。これが結びつかなければ、神人愛一体の拠点を見いださなければ、神様も人間も共に定着できないのです。神様が喜ばれるので人間も愛を通じて喜ぶ、そのような場が異なる場合には大変なことになるというのです。
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 先生が根本問題を追及する時、神人一体圏はいったいどこなのかを、ずーっと考えました。これは重大な問題です。これを解決せずには、出発点と終結点が合わないのです。そのような中で、雷のようにぴかっと悟りがありました。真の愛は直短距離を通るというのです。その一声がすべてを解決しました。天地が真の愛で連結するならば、直短距離を通るというのです。言い換えれば、垂直は一つです。水平に対して九〇度以外にはありません。これは最高の直短距離です。
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 結婚は、なぜするのですか。愛を完成するためにするのです。横的に左右、東側と西側を男性と女性だとすれば、その男性と女性の真の理想というものは直短距離を通るので、直面に対して横的な愛の直短距離というものは中央に一点しかありません。これは、九〇度以外にはありません。これがこのように横になれば、楕円形になるのでいけません。すべて同じではありません。平等な位置にすべてが同じ基準として立つのは、九〇度以外にはありません。神人一体にする愛の結集場所というものは、九〇度以外にはないのです。
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 「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が九〇度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することによって、すべての根本的な難問題が解決されるのです。
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 文総裁が宇宙の根本を追求していくときに最も苦心したのは、愛がどのように動き、どのように定着するのか、という問題でした。愛は直短距離を通るという、この一点を解明することによって、すべてのことが解決されるのです。愛が上から来るとすれば、天が高くて地が低いので、真の愛が天から地に訪ねてくる時にどのような道を通ってくるでしょうか。最大の直短距離なので垂直です。これは垂直一つしかありません。直短距離です。愛が一番早く、直短距離を通るという時に、天上世界と地上世界の接着地は、完全水平の中の一点しかないというのです。二つではありません。絶対的に一つです。
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 アダムとエバは、見えない神様の二性性相として来たのです。見えない二人が一人の方のような位置に立っているのです。真の愛を中心として一つになっているというのです。そのようになっているものが男性格位と同じようになっているので、その男性格位に対して相対的立場に立った息子、娘を再現させて、彼らが成長し、愛を中心として夫婦になる時、上にいらっしゃった神様がその位置に共に降りてこられるのです。それは、一つは見えない父母の位置に立ち、一つは見える父母の位置に立って、愛して一つになるためなのです。
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 人間が完成すれば神性をなして、天のお父様が完全なように完全で、神様的価値をもつのです。神様は絶対者ですが、真の愛の理想は一人で成し遂げることはできません。愛の理想は必ず相対を要求するためです。
 私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、お互いにどのような関連をもっているのかを知らなければなりません。万一、神様が真の愛の絶対的な対象体として人間を立てず、ほかの方法を通じて御自分の真の愛の出発と完成をなそうとされたなら、どうなるでしょうか。神様と人間の真の愛の理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的は異ならざるを得なくなります。
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 アダムとエバは、いったい誰ですか。その位置は、人類の横的な理想の愛を中心として和合する位置であり、九〇度を合わせる位置であり、焦点を設定する位置です。その位置もまた、この前後、左右、上下、どこに合わせても合います。それは何を意味するのでしょうか。神様は、二性性相の主体であられるので、その愛の焦点を合わせたアダムとエバの心の中に神様が入ってこられ、堕落していない人間の先祖の結婚式は、神様の結婚式になるのです。
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 人間完成の出発点はどこですか。これは、神様にも最も貴く、人間にも最も貴く、この宇宙のすべての存続の根源になることができるのです。創造当時のあらゆる要因の根本になることができるのです。それは愛です。愛のために生まれたというのです。その愛はどのような愛ですか。真の愛です。その真の愛には、目や口や五官が離れることはできないのです。それを中心として回るようになっていて、それに従って往来し、上がっていくにもそれに従って上がっていき、降りてくるにもそれに続いて降りてくるようになっているというのです。
 それゆえに、私たちの五官を一つの焦点に結びつけることができるのです。その力とは何ですか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもないのです。それはただ愛しかありません。そうではないですか。
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 縦横がどこで一つにならなければなりませんか。天地合徳がどこで展開するのでしょうか。縦的な基準の前で展開するのです。愛が行く道は直短距離を通ります。これがどこで定着するのかという問題が、非常に苦心した問題でした。宇宙の根本を解明するときに、縦的な愛と横的な愛があるということを知りました。
 なぜ知ったのでしょうか。垂直にさっと上がっていくことができません。そのようになれば、私が全く身動きせずにぴたっとここに立たなければなりません。そこを離れて縦的に愛すれば、私がぴたっとこのようにならなければなりません。これがどこに行って回るのかというのです。回ることができないのです。このような問題、どのように連結させるのかという問題、天地の愛があれば、その愛はどのように合徳するのかという問題が、大きな問題でした。しかし、一つ知ったこととは何かというと、愛は直短距離を通るということでした。
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 神様が願われることも、真の愛による神人一体です。神人一体、神様と人との一体圏です。神様が喜ばれる理想の基準と人間が願う基準がずれれば、大変なことになるのです。真正面で一体にならなければなりません。水平に一体になり、垂直に一体にならなければなりません。これを前後左右九〇度に合わせれば、上弦と下弦と右弦と左弦、十二箇所をすべて九〇度の角度で、どこに合わせてもぴったり合うのです。
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 神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのかという論理を、今まで誰も分かりませんでした。これが分からなくては、天のお父様という言葉は荒唐無稽です。関係ない言葉です。アダムとエバは神様の何ですか。体です。それゆえに、アダムとエバが名づけるとおりになるというのは、どのような意味ですか。その体に神様が入っていってつけられるのです。完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。霊界に行ってみれば、それをはっきりと知ることができます。知ることができないこのような理論が、すべてあてはまるのです。それゆえに、皆さんが神様の愛を占領してこそ、その欲心がいっぱいに満たされ、「もう、いっぱいだ」と言うのです。
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 神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバが結婚する時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛をなすのです。神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母です。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれたので、心は縦的な私になり、体は横的な私になるのです。
 このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になるのです。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係になって、神様のすべてを相続することができるのです。このような子女が真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になることができ、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性は、一体となり、神様の相対として神様の理想の愛を完成させるようになるのです。すなわち神様は、真の愛を中心として、人間を無限の価値者として完成させることによって、神様も真の愛の完成をなし、永遠の理想の愛が宿る創造理想世界を完成されるのです。
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 真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通じてのみ完成するのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。
 人間は、神様の最高、最善の愛の対象として造られました。それゆえに、人間は、創造物の中で唯一神様の実体をもった対象です。無形の神様の前に見える体として生まれました。人間は、完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかに、いつでも入ってきてお住みになることができる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的理想は、人間を通じた父母と子女の縦的関係によって実現し、完成します。
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 神様はどこに入っていかれるのですか。神様は、アダムの心の中に入っていき、エバの心の中に入っていかれるのです。二性性相でしょう? この二つが一つの根を中心として入っていって打ち込まれるのです。そして、息子、娘で連結されるのです。愛で連結して、心と体を中心として、霊を中心として根を合わせて、ここから生まれた愛の息子、娘が地獄に行くでしょうか。誰かが勝手にできません。絶対的な体、絶対的な心、絶対的な霊、絶対的な男性、絶対的な女性が、絶対的な神様の愛を中心として、生命の起源であり、愛の起源であり、血筋の起源である生殖器を中心として統一が展開するのです。

(2) 神人一体の拠点

 神様の愛と人間の愛がどこで会うのですか。その結着点は、愛の結着点、生命の結着点、血統の結着点になるのです。そこでなければ、愛と生命と血統を連結できる道がないのです。その場所はいったいどこですか。どのような生殖器で、どこに使う生殖器ですか。男性と女性の生命が連結されるところです。男性と女性の血統、血が交差するところです。神様の生命、神様の愛、神様の血統、そして男性と女性の生命、男性と女性の愛、男性と女性の血統が、この一点を中心として連結されるのです。これを中心として子孫が生まれるのです。
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 神様の絶対愛と人間の絶対愛が出会う点とはどこでしょうか。一点です。それはどこですか。結婚して初夜、生殖器が一つになる場です。そうです、神様に会うと考えてみましたか。どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの起点と、人間のアダムとエバが理想として願う愛の起点が、一つになることのできる点が、一点ではなく二つの点になる時には、愛の方向と目的が二つになり、永遠に神様の絶対愛とは関係を結べない人間になるので、愛のために造られたというのは偽りだということになります。
 そこから私が生まれるのではないですか。男性と女性がそこから生まれるのであって、キスするところから生まれるのですか。そこから男性と女性の生殖器が絶対的に一つになることを願うでしょう? 夫婦間で絶対的に一つになってみたいですか、適当に一つになってみたいですか。その場は何かというと、女性が愛を受けるためには、夫だけではなく、霊的に神様に侍る位置に立たなければならないのです。見えるアダムの生殖器は、内的には見えない神様の生殖器だというのです。女性の生殖器も、見えない神様の生殖器であり、見える生殖器はエバの生殖器です。見えないものは縦的であり、見えるものは横的に一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。
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 アダムとエバの結婚式の日が、その場を中心として神様の結婚式の日になるのです。一つの縦的な結婚式であり、一つの横的な結婚式になるというのです。すべて生殖器を中心として、男性と女性が絶対愛に着地すると同時に着地の中心に来るので、神様の愛を中心として一つになるのです。そのようになったならば、神様のように心を中心として統一がなされたはずです。
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 絶対的に変わらない、そのような愛の位置に神様が臨在されるのです。神様が生殖器に臨在されるのです。神様が愛の根源であり、生命の起源です。男性の生命、女性の生命、血統の起源ですが、神様と人間は、どこで愛と生命と血統が結集しますか。この場所しかないのです。
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 アダムとエバの結婚式は、内的には神様の結婚式です。二重の結婚式の場だというのです。それを結束させるものが、男性と女性の生殖器です。それがなければ、自分の生命も生まれないというのです。それによって一族も、人類の歴史も続いてきたというのです。神様の理想世界も、その門を通過した子供たちが、愛された子供たちが連結させていくのです。そのようにして神様の国もつくられていくのです。
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 アダムとエバの結婚式とは何ですか。誰の結婚式なのですか。神様の結婚式です。もし、そのようにしていればどのようになりますか。そうなれば、どのような結果になったでしょうか。そのセクシュアル・オーガン(生殖器)が第一に何になるのかということです。
 神様の愛の王宮になるのです。愛の本宮になるのです。そうです、家庭は王宮だというのです。これが愛の本宮です。一般家庭は王宮であり、これは縦的な愛の本宮です。どれほど貴いところなのかというのです。
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 アダムとは何でしょうか。堕落しないで完成していたならば、神様の体になるのです。エバも、やはり神様の体になるのです。神様の体になるのですが、男性はプラス側の体になり、女性はマイナス側の体になるのです。そして、二人が何を中心として結ばれますか。愛を中心として、生殖器を中心として結ばれるのです。内的な心の中に神様が入ってきているアダムとエバは神様の実体ですが、彼らが生殖器を中心として愛するようになれば、どのようになりますか。神様は誰を通じて愛するのですか。心は何を通じて愛しますか。体を通じて愛するでしょう? 同じように、神様が堕落していない完成したアダムに入られ、神様の家のようになったところで、神様が主人となった中で、二人が愛するのです。分かりますか。
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 神様とは、いったい誰ですか。神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした、縦的な父母だというのです。完成したアダムとエバは、真の愛を中心として横的な父母です。その二つの父母が一体となるのです。愛するその場所で、縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。それが男女の生殖器です。
 それによって、神様御自身が神様の息子、娘を生むのです。神様の子女です。皆さんは、二つの父母から生まれたのです。その縦的な父母の相対的な立場に立ったのが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身です。肉身は横的な自分自身です。縦横が何によって一つになりますか。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘わずに一つになるのです。
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 神様を「お父様」と言う、それはいったい何のことかというのです。創造理想の根源を知らなければなりません。神様は誰ですか。お父様です。皆さんは誰ですか。子女です。皆さんは子女ですが、それでは、皆さんは神様に似ましたか、誰に似ましたか。神様に似ました。神様には目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。耳がありますか、ありませんか。あります。その次には体がありますか、ありませんか。神様に生殖器がありますか、ありませんか。そのようなことがすべて問題になるのです。このようなことを、すべて理論的に解決しておかなければなりません。
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 夫婦が愛する器官とは、どのようなものですか。神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのですか。この一つになる出発点が二つになれば、方向も二つであり、目的も二つなので、神様と人間は喜ぶことができないという結論に到達します。神様が人間を愛の対象として造られたならば、神様の愛と人間の愛が接触できる出発点が同じでなければなりません。その同じ点とは、どこですか。心情ではありません。女性や男性に一番重要な器官とは何ですか。生殖器です。神様が創造される時、最も精誠を尽くしてつくられた器官です。
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 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式だというのです。そうあるべきではないですか。愛の対象を自分より高く造ろうとされた神様が、どこに行ってお会いになるのでしょうか。どこに行って一つになられるのでしょうか。鼻で一つになるのでしょうか。どこでしょうか。問題が大きいというのです。ですから、女性がもっていて、男性たちがもっている生殖器というものは、神様が臨在できる本然の園です。神様の愛が初めてそこで完成するというのです。凹凸が一つになるその場で人間完成、すなわち女性完成、男性完成と神様完成が、愛を中心として展開するというのです。
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 心と体が一つになって、その生殖器を中心として一つにならなければなりません。出発地は一点であるべきであって、二点になれば方向も二つになります。人間の愛と神様の愛が接触して定着することができる寄着地(経由地)はどこかといえば、内的夫と外的夫が愛によって結ばれる生殖器だというのです。あの凹凸で結ばれるのです。
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 人間が成熟して結婚するということは、神様の愛と人間の愛が関係を結ぶことを意味するのです。何を中心としてですか。愛の器官を中心としてです。霊的に見るとき、アダムの生殖器は神様の内的な生殖器であり、エバの生殖器も神様の内的な生殖器です。そして、相対的に女性の生殖器と一つになるのです。
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 神様の結婚式が、アダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生まれるのです。愛のすみかから出発するのです。男性と女性の生殖器を中心として、堕落しないで出会うその時間が、地上天国と天上天国出発の起源地です。三大王権を樹立すべき基地がそこです。その場でなければ、愛のすみかを成すことができません。
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 アダムの結婚式は、神様の結婚式です。これが天の最大の秘密です。気がついてみると、統一教会の文教主が生殖器解剖学の代表者になりました。生殖器ですべて一つになるのです。それなくしては愛が分からないのです。それ以外には、男性の生命と女性の生命が結ばれる場所がありません。そこで女性の血と男性の血が出会います。そこから歴史が連結します。そこから良心が出発します。そのようになっているのです。
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 神様が御覧になるときに、女性は本来誰でしょうか。女性は、神様とどのような関係ですか。神様は、愛のために人を造られたのです。愛のために造られたのに、その神様の愛と人間の愛が相反しなければならないでしょうか、一つにならなければならないでしょうか。それでは、一つになるとすれば、どこで一つにならなければなりませんか。どこですか、考えてみましたか。それを考えなければなりません。セクシュアル・パート(sexual part)だというのです。
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 「絶対セックス」です! 絶対的に心と体が一つになっていない人が、絶対セックスになれますか。生殖器も二重です。絶対セックスなので、私の生殖器は神様の生殖器であり、完成したアダムの生殖器です。神様に生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。なぜ笑うのですか! 分からなければ「分からない」と言い、あれば「ある」と言ってみなさい。あるでしょうか、ないでしょうか。動機がないのに結果が現れることはできません。人間は結果的存在なので、結果がそのようになるためには、動機的内容がなくてはならないのです。理論的です。
 神様も生殖器があります。その生殖器がどこかに行って、二重的人格である神様も二重的なものが必要なので、内的人格の神様の位置、外的人格の体の位置が必要です。体の立場は誰ですか。完成したアダムです。心の立場は誰ですか。神様です。結婚式をして二人が一つの家で爆発するのです。
 初愛のアダムとエバが生殖器を合わせる初夜に、精子と卵子が泳いでキスし始めるときは、神様とアダムとエバは別々でしょうか、同一でしょうか。
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 神様と真の父母を中心とした愛の伝統が、すべての出発点であることを知らなければなりません。神様の愛と人間の愛のトゥルー・ラブが、どこで一つになって出発するのでしょうか。生殖器です。どのような種類の生殖器ですか。真の生殖器です。神様が願われる生殖器です。そのような結論が出てきます。
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 神様と人間の愛が連結されるところを本郷の地にして帰ろうとするのです。そこがどこかといえば、男性と女性の生殖器です。神様の愛と人間の愛がどこで始まるのでしょうか。アダムとエバの生命と愛と良心と血統の根である神様は、間違いなく縦的な立場から横的な位置のアダムとエバ、彼らの性相と形状が一つになったその中にすっと入っていかれるのです。ですから、アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式なのです。男性と女性がもっている生殖器は、神様を解放して神様を完成させる器官です。ですから、神様がお父様になるのです。縦的なお父様、横的なお父様は完成したアダムです。
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 皆さんがその長い棒をいい加減に扱ってはいけません。それに侍って生きなければなりません。それが最も貴いのです。神様が見下ろしているのです。神様がそこに臨むのです。そして、皆さんの妻のものは神様の夫人、女王のものであり、皆さんの夫のものは神様のスティック(棒)と言いましょうか。神様と一緒にぶらさがっていると考えなければならないのです。それは二重ではありません。心と体のように、神様が心ならば、皆さんは体になるのです。神様は見えませんが、その生殖器と一緒にいらっしゃるのです。私たちの体にそれがぶらさがっていますが、それは二つが一つになってぶらさがっているのだと考えなければなりません。
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 夫の生殖器が神様の生殖器だと考えてみましたか。どれほど近づきますか。神様をどこか天のてっぺんに置いて信じるのではありません。自分の心の中に入ってきているのです。一つになっているから分からないのです。
 堕落することによって、男女の生殖器がこのよこしまな死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮になったために、天道を破綻させた魔物になったために悪いものになりました。これが今まで歴史に隠された秘密でした。堕落していなければ、男性と女性の生殖器は、愛の根本であり、愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮になるのです。そこで縦的な神様の愛、横的な真の父母の愛が一つにならなければなりません。
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 真の愛は直短距離を通るために、横的な人間、アダムとエバの愛も直短距離を通る道は、九〇度の道しかないのです。そして、ここで一つにならなければなりません。ここで爆発して、アダムとエバが神様と生命一体、愛一体、血統一体、このように和合した喜びとともに爆発して、蘇生するところから生まれるべきなのが私たち人類です。これがアダムとエバの子女になることであり、神様の孫になることです。そうなっていれば、なぜ地獄に行くのですか。宗教に何の必要性がありますか。そのままそのように生きれば、すべて天国に行くのです。
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 神様は縦的な位置、中央なので縦的であり、アダムとエバは横的なので、二人がどこで一つになるのかといえば、生殖器という基準を中心として一つになるのです。それゆえに、愛の源泉である神様がその場に臨むことができ、生命の源泉である神様がその場に臨むことができ、血統的根源が神様なので、その場からすべてのものが始まるのです。
 それゆえに、生命の根源地であり、愛の根源地であり、血筋の根源地である、これをつかんで引っ張れば、すなわち血筋をつかんで引っ張れば、先祖の血筋がすべて出てくるのです。ここで生命をつかんで引っ張れば、先祖の生命がつられて出てきますか、出てきませんか。また、愛のひもをつかんで引っ張れば、つられて出てきますか、出てきませんか。そのように造化を集約させて、それを連結させることができる本部とはどこかといえば、最も貴いところだというのです。男性になれる性格、女性になれる性格、何がそれを分けるのかといえば、生殖器です。
 それでは、男性の生殖器と女性の生殖器を、誰が先にこれと因縁を結ぶためにつくったのでしょうか。アダムでもなく、エバでもありません。神様です。聖書に、悪魔は淫乱の神だとあります。なぜ神様がそこまで嫌ったのですか。自らの理想的本基台を完全に破壊させてしまったからです。ですから、これは全宇宙からの追放を予告しているのです。
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 男性と女性の生殖器は、どれほど貴いでしょうか。これで堕落したために、この人類の全体の理想を破綻させてしまいました。その主人は二人ではありません。絶対的に一人です。女性が結婚して一人の夫に三角地帯を許すようになれば永遠です。それゆえに、男性の生殖器、女性の生殖器は貴いのです。神様の愛と人間の愛は、どこで会うのですか。
 神様が創造理想の愛のために天地を造られたのですが、その愛の対象が人間です。皆さんは、愛の対象が自分より優れていることを願うでしょう? そう願うでしょう? 何千倍ですか。「千倍を願うか、万倍を願うか」と尋ねれば、「万倍を願います」と言うのです。「万倍、十万倍か」と尋ねれば、「十万倍です。億万倍です」と答えるのです。
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 神様も、被造世界の誰が愛のパートナーになると思いますか。そのパートナーとは何ですか。男性一人だけでパートナーになりますか。女性一人だけでパートナーになりますか。神様は何のパートナーを願われるのでしょうか。お金のパートナーではなく、知識のパートナーではなく、権力のパートナーではありません。愛のパートナーを願われるので、男性と女性の生殖器が一つになったその場を中心として神様に会うことができるのです。

(3) 真の血統の根は神様

 人間が堕落していなければ、神様は内的な父と母になり、アダムとエバは外的な父と母になります。内的な父母の息子、娘として愛の種を受けて生まれた人間になるはずだったのですが、悪魔の愛を中心として堕落することによって、悪魔の血筋を受け継ぎ、悪魔の愛、悪魔の生命、悪魔の血筋を受けた人間になりました。
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 神様は、見えない内的なアダムの位置にいらっしゃり、また見えない内的なエバの位置にいらっしゃいます。アダムは、人類の前において、内的なお父様に侍る実体の父として立とうというのであり、またエバは、内的な母の神様に侍る実体の母として立とうというのです。このようにして縦的な基準から横的基盤へ拡大させようというのです。
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 エバは、未来における神様の愛の夫人です。神様自体は縦的ですが、横的な相対がいません。縦横を結んで、もたなくては生産できないのです。神様は縦的にいらっしゃいます。縦は垂直で、垂直は一つしかありません。垂直の世界は生産できません。生産できる環境は横的な基盤です。ここには四方、三六〇度があるので、面積があって生産圏が展開されるのです。神様は、一人でいてはいけないので、天国を成す民族を生産するためにアダムとエバという体を造られたのです。
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 本来、堕落していなければ、エバは神様の夫人になり、アダムは神様の体になるのです。神様の体になったアダムと神様の体になったエバが愛することによって、神様と人の天地合徳が展開し、男性と女性、陰陽の合徳が展開して初めて縦横に結びつき、愛によって新しい生命、新しい血筋が絡み合わなければなりませんでした。
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 アダムとは誰ですか。神様が根ならば、アダムは新しく出てくる枝と同じであり、芽と同じです。神様とアダムは一つの体です。生命の根も神様であり、愛の根も神様であり、血統の根も神様であり、良心の根も神様なので、神様が先に愛を感じなければなりません。根が先に感じて、幹が愛を感じなければならないのが原理です。
 アダムとエバは相対的愛の位置にいて、主体は神様です。神様の愛は、アダムとエバが結婚して初日に愛するその時間、出発地から一つになっています。ところが、一つになると感じられないのです。一つになっているために感じられないだけであって、既に神様は、愛と生命と血統の因縁を中心として、創造理想の喜びを感じるというのです。その喜びに反応して男性と女性が愛しながら喜ぶのです。これは、アダムとエバが結婚して夫婦が合徳することをいうのです。
              *
 神様は、愛の源泉であり、生命の源泉であり、血筋の源泉です。このように思うとき、男性の愛と女性の愛が合徳し、男性の生命と女性の生命が合徳し、男性の血と女性の血が合徳するところとはどこでしょうか。男性と女性の秘密の場所、生殖器です。それで、人間世界における大礼の中の大礼が結婚です。
              *
 神様と私たち人類の始祖であるアダムとエバの関係について考えれば、私たちの生命の起源は神様です。私たちの愛の主体も神様で、私たち一切の生活的な標準も神様です。
              *
 アダムとエバの結婚は、神様と人間が結婚することです。同じように、皆さんも人間として神様と結婚するようになっています。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。私の中にいらっしゃいます。
              *
 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。アダムは誰ですか。神様の長男です。平面の中の平面で横的です。神様は縦的です。その一家で横的に発展することができるのは、長男から始まります。神様とアダムは、愛を中心として父子一身です。それでは、愛はどこで一つになるのでしょうか。縦的なアダムとエバの結婚式で一つになります。成熟してお互いに思い慕うのは、縦的なものを取り戻すためなのです。
              *
 愛を中心として、アダムとエバに神様が入ってこられて内的な父になり、アダムとエバは神様の体になって内外の神様になるのです。神様は、宇宙を創造された内的な神様であり、人間は外的な神様になるのです。彼らが夫婦になって天国の王宮を創設することが創造の遺業です。宇宙の王権を中心とした王宮を設定して、アダムとエバを中心とした皇族編成がなされれば、地獄はあり得ないのです。
              *
 神様とアダムが内外に一つになれば、神様は内的な神様であり、アダムは外的な神様になります。内にいる神様は内的な神様であり、外にいるアダムは外的な神様になるのです。
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 神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした縦的な父母だというのです。そして完成したアダムとエバは、真の愛を中心とした横的な父母です。この二つの父母が一体になるのです。愛するその場所で縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。そこが男性と女性の生殖器です。そのようにすることによって、神様自体が神様の息子、娘を生むのです。
 皆さんは二つの父母から生まれました。その縦的な父母の相対的な立場に立ったものが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身であり、肉身は横的な自分自身です。それでは、縦横が何によって一つになるのでしょうか。真の父母の愛、創造主の真の愛によってです。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘いません。
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 神様が創造当時、理想として願われた真の愛、偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになることのできる、このような神人愛一体の家庭を築いたならば、今日私たちは、天国だ、地獄だと心配することもなく、そのまま天国にみな入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛で一つになって一点から出発しなくては、神様の真の愛と人間の真の愛が異なった二つの愛の出発になってしまうので、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は探し出すことができないのです。
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 既成教会と統一教会が違うのは、統一教会は、愛を中心として神人一体を定着させるということです。既成神学では、神様は神聖なもので人間は俗なるもの、罪なるものとして定義しています。そうであるなら、神様の愛と人間の愛がどのようにして一つになることができるでしょうか。それは話にならないというのです。絶対的な神様は何でもできると考えているのが問題です。したがってキリスト教の行く所には、たくさんの血が流れてきました。神様の命令を名目に侵略し、奪取したのです。独裁者を出したのです。世界はそのようにはなりません。神様の本性から見るとき、そのようにはならないのです。




















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