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南北統一と世界平和への道
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ワシントン・タイムズ(1991年12月7日付)
 金日成主席、韓半島統一について会談

 最後の共産主義国家の一つである北朝鮮の金日成主席は、昨日、かつて投獄したこともある、強烈な反共主義統一教会創始者の文鮮明師と韓半島の統一について会談した。

 彼らは、核兵器は韓半島において「製造することも配備することも」あるべきではない、金主席と韓国盧泰愚大統領の頂上会談が統一問題解決のために必要である、ということに同意した。

 会談には尹基福・海外同胞援護委員会委員長と金達玄副首相も参席した。文師の側近の朴普煕氏は平壌からの電話で、文師は金主席に「私は友人となるために来ました。我々は主義と信条においては違っても、血は水よりも濃いという事実を確認しました」と述べたと告げた。

 北朝鮮主席は、その訪問に反対した政府役人らを退けて文師を招待したと述べた。彼は、猪狩りをするためにまた来てくださいと再度の招待をし、文師は金主席をアラスカの海での釣りに招待した。

 三時間にわたる会談は、東海岸の工業都市咸興に近い金主席の公館で開かれ、文師の七日間の訪朝を結論づけた。これは文師にとって四十一年ぶりの帰郷となった。昼食会の間に北朝鮮主席は、招待されれば「訪米し、ブッシュ大統領に会う用意がある」と述べた。 

 この会談の場所は、数人のプロテスタト牧師らが文師を異端として共産党に告発した後、一九四八年に送られた強制労働収容所から数マイルしか離れていない。韓国動乱の始めに仁川に国連軍が上陸して解放された後、文師は無一文で、また徒歩で、南韓に脱出し自由になった。

 金日成主席は昨日、文師と尹委員長の間で離散家族の再会の準備を整えることで一致したことを支持した。一〇〇〇万の韓国人が、ソウルと平壌の敵対する政府によって非武装地帯を越えることも、手紙を出すことも禁じられているのである。今まで北朝鮮政府は、双方がまず政治的・軍事的に同意すべきだと言ってきたのである。

 文師と尹委員長は「一〇〇〇万の離散家族の痛みを和らげるために共に人道的プロジェクトを実施する」ことで一致した。手始めに、彼らは「離散家族が会い、手紙を交換できる場所を設置する必要がある」と述べた。           (英文より翻訳・抜粋)



月刊『ワールド&アイ』(1992年2月号)
 血は水よりも濃い


 去る十二月六日、統一教会創始者であり長年の反共主義者である文鮮明師は、北朝鮮の金日成主席の招待により平壌で会談した。この歴史的会談で、文師は経済的に窮乏した北朝鮮の経済援助を行うこと、さらに非武装地帯によって分断されている離散家族の再会のために尽力することを約束した。「血は水よりも濃い」ということを確認しながら、この宗教指導者は南北両国家の統一のために喜んで命をささげる用意があると言明した。世界を驚かせた北朝鮮訪問で、文師は健在な二人の姉妹と親族にも会い、四十一年ぶりに故郷を訪問したことになる。                      (英文より翻訳)



月刊『世界女性』(1992年2月号)
 南北和解時代の劇的な出会い


  ―世界平和連合文鮮明総裁と金日成北韓主席との一五〇分間の会談記―
■去る十二月六日咸興市興南麻田にある主席公館で歴史的な出会いの場をもった文鮮明師と北韓の金日成主席。共産主義の没落を予言していた文師と徹底した共産主義国家である北韓の金主席との出会いは、南北和解時代のシンボルとして評価されている。昼食を兼ねた二時間半にわたる会談で、金主席は文師にパルチザン(遊撃隊)時代のエピソードや個人的な趣味などを紹介し、アメリカ訪問への希望も打ち明けた。

 文鮮明師と金日成主席との会談は、咸興市郊外の麻田にある主席公館で開かれた。そこは金主席がたびたび訪れる休養地で、外国の国家元首級を迎える所。波がうねる東海やその水平線の上を飛ぶかもめを一望に見下ろすことができ、建坪四〇〇坪規模の一階建ての石造り。会議室、食堂、休憩室などがある。食堂からは大きな窓ガラスを通して美しい海の景色が一目に入る。

 大理石でできた室内の飾りも立派だった。牡丹が刺繍されている薄緑のカーペットは、素朴にモールディングされた薄い黄色の壁と調和していた。天井は高く、壁に飾っている大きな金剛山の山水画が珍しい雰囲気をかもし出していた。

 この日の昼食会は終始和やかな雰囲気で、金主席が文師のために準備した特別なメニューがきれいに用意されていた。金主席は席に着くや否や、食卓のメニューを紹介し始めた。漢江や臨津江で取れる魚の話から始まり、話題が凍ったじゃがいもの素麺に移ると、自分のパルチザン時代によく食べたものだと紹介した。

 二人の話はさらに進んで、金剛山開発や景色のこと、お互いの趣味のことに移った。文師と金主席は互いに似ている点が多かった。背丈や体格が似ていたし、言葉つきも北韓の方言で、声色まで似ていた。特に釣りや狩りが趣味だというところまで似ていた。

 二人は昼食会を通してさらに人間的に親しくなった。金主席は文師の故郷定州の家についても関心を示した。文師は、「祖国統一と故郷訪問」が今までの願いだったが、今回「故郷訪問」の願いがかなったから、残ったのは「祖国統一」であると、北韓訪問の感想を述べた。そして文師は金主席をアメリカへ招待したが、金主席は是非訪米してみたいと答えた。

 アメリカの政治学者であるスカルピノ教授は、文師と金主席の会談を「二人のメシヤの出会い」と言い、また「二人の教祖の出会い」とまで言う人もいた。

 今回の二人の出会いは、変化している韓半島の理念のH藤を克服し、わが民族における和解時代のシンボルとなった。
 「来年四月花が咲いたら、釣りでもしに来てください」。文師を見送る金主席の最後のあいさつであった。                   (韓国語文より翻訳・抜粋)



週刊 東大新報(1991年12月11日付)
 文鮮明師と神主義
 共産主義崩壊の予言と思想的超克


 今年八月のソ連共産党の解体宣言を契機に、前回、第一弾として「共産主義の崩壊を予言した人々」を取り上げた。共産主義に反対の声を上げ、それ故の迫害にも屈せず敢然とした行動を貫いた事実には、各々に大きな価値を置かざるをえなかった。そして世界的宗教指導者・文鮮明師の「勝共」運動は、中でも民族主義を越えて世界次元で展開し、崩壊後の救済策までを具体的に提示するという卓越性を示していた。しかも調べていくと共産主義の興亡に関する予言が具体的な年代にまで及び、驚くべきことにこの的中度がソ連史上で確認されるのである。


 数理的予言がソ連史上で的中


 具体的に年代までも予言

 一九六七年六月といえば、成田闘争や東大の安田講堂封鎖など、七〇年安保改定に的を置く国際的共産主義運動がまだ頂点に達する以前、世界共産革命の前夜だと思われていた時であるが、その時すでに文鮮明師は次のように予言している――「共産主義は、国際的共産主義から民族的共産主義になり、さらに分党的共産主義になる」「共産主義は八代を越せない」。さらに一九七二年四月には、「共産主義は七十年目にして滅び去る。共産主義が始まった一九一七年から六十年間持続してピークに達し、その後は下り坂になり、七十年目には絶滅する」とも予言している。

 ソ連の最高権力者は、レーニン、スターリン、マレンコフ、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと受け継がれ、ゴルバチョフがちょうど八代目である。ゴルバチョフは一九八五年三月に書記長となり、八六年二月、第二十七回党大会で新しい党綱領を採択し、これを踏まえてその一カ月後からペレストロイカの思想を打ち出し始めた。

折しもその直後、四月二十六日にチェルノブイリ原子力発電所の事故があり、ゴルバチョフは、経済分野だけでなく社会全体のペレストロイカが必要だと発言。七月にはついにハバロフスク演説で「ペレストロイカは革命だ」と断言した。

 それから、八八年十二月にワシントンでINF全廃条約に調印。八九年六月、西独訪問時に「ブレジネフ・ドクトリン放棄」の共同宣言をし、それから東欧六カ国の自由化がすさまじい勢いで進展。十一月九日、ベルリンの壁崩壊。十二月二日、マルタで冷戦の終結宣言。十二月二十二日には最も強固であったルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊した。

 九一年の八月十九日にはソ連共産党指導部によるクーデターが起こったが、三日天下に終わり、ゴルバチョフは書記長を辞任。ソ連最高会議は共産党の活動を当面禁止し、共産党の資産は各共和国と市が接収し、KGBと軍も全面的に改編、縮小された。国家の最高権力としてのソ連の共産主義はここに文字通り絶滅の運命にさらされたわけだ。時にロシア革命から七十四年目。文師の予言よりも四年長く生き延びたが、八七年には自由主義経済を一部導入、八八年には複数政党制を認めるような決議がなされていることも考え合わせると、ゴルバチョフが共産主義の事実上の否定であるペレストロイカを「革命」だと宣言した時に、すでに共産主義の命脈は尽きていたと言ってよい。

 文鮮明師は単にこう予言しただけではない。七六年九月十八日、米国建国二百年を記念して五十万人を集めて統一教会が行った「ワシントン大会」の席上、予言の実現を前提として、「次の目標はモスクワで大会を開くことである」と宣言したのである。ところがその前年には、南ベトナムの首都、サイゴンが解放軍によって陥落。さらにカーター米大統領(当時)の容共路線のため、アフリカ、中東、ラテン・アメリカなどの赤化が著しく、アフガニスタンにまでソ連が侵攻する事態となった。しかし、文師は信念を曲げず、精力的で忍耐強い勝共運動を続け、八五年七月には早々と、韓国ソウルで開催された「第一回国際勝共連合学術会議」において「共産主義の終焉」を宣言するに至ったのである。

 ワシントン大会での宣言は、九〇年四月十一日、文鮮明師が主催する第十一回世界言論人会議がソ連の要請でモスクワで開かれた折、ゴルバチョフがその会議に参加した元国家元首四十一人らと共に文師夫妻をクレムリンに招待し、ゴルバチョフと文師が約三十分間にわたって単独会談をするという形で、見事に実現された。

 その後、約三千名のソ連学生がアメリカ、レニングラード、ハンガリーなどで文師の理念――統一原理――を学び、上級二十一日研修会まで行われた。さらに九一年四月二十九日から五月八日までの十日間、ソ連の十五の共和国から副大統領、副首相、連邦ならびに共和国最高会議代議員など最高の有力政治家、知識人ら約二百五十人が、文師の創始した啓蒙機関、カウサ・インターナショナルの招待でアメリカで一堂に会し、統一原理をテーマにして三日間討論を行った。

 一言にしていえば、文鮮明師は単に共産主義崩壊を正確に予言しただけでなく、その予言を実現するためにあらゆる手段を使って運動し、さらにそれを救済するために全力を投入したのである。その点が単なるオカルト的な予言との根本的な相違である。どうしてこのようなことが可能になったのであろうか。

 共産主義体制の崩壊はその思想的欠陥に根本原因があるために、それを超克した思想がなければ、本質的な救済は不可能であろう。その点、文師の崩壊の予言からその後の救済策に至るまで、根底には「神主義」および「頭翼思想」という思想が貫かれている。以下、共産主義思想の欠陥とそれを克服する「神主義」の内容について、簡単に紹介してみたい。


 マルクスの経済学公理は現実離れ

 マルクス主義の思想的破産は、ソ連での七十余年にわたる壮大な実験の失敗で誰の目にも明白なものとなった。しかし、その欠陥は今のところ、経済や政治学的角度から検討されているにすぎないように見える。例えばマルクス主義経済学は、(1)消費者は異なった財の効用を比較できない、(2)財とサービスの価値の唯一の尺度はそれゆえそれらの生産に支出された労働時間である、(3)社会主義のもとではその労働時間は国家の経済計画で規定され評価される、さらに、(4)労働のみが唯一の価値の源泉であるから土地その他の天然資源は有限であっても本源的な価値を持てない、という四つの公理で構成されている。ソ連の経済は、この現実離れした四つの公理に完全に忠実に運営されてきた。

 そのため、生産は社会のニーズとは無関係になされ、労働の質が問題とされないためにみな意欲を失い、怠け者となり、無責任になった。また天然資源が無駄に使われ、経済が破綻するとともに、特権階級と一般庶民との富の格差が増大する等々、あらゆる矛盾が一斉に吹き出すようになったのである。

 こうして見ると、確かに、現在のソ連の悲劇をもたらした外面的原因の一つは経済学上の誤謬であるかもしれない。しかし、その誤謬がなぜ生じたのかを分析すると、そのもっと奥により深い動機が見えてくる。


 復讐心から社会転覆狙った共産主義

 共産主義思想の原点であるマルクスは、ユダヤ教の名門のラビ(教師)の家系のドイツ人であったが、その父は弁護士で、職を保持するためにキリスト教に改宗。そのため、マルクスはユダヤ人からも非ユダヤのキリスト教徒からも白い目で見られて育ち、また左翼思想のゆえにプロシア政府から執拗な弾圧を受けた。このような経過から、マルクスは次第にキリスト教、ユダヤ教、プロシア政府、そしてさらには現代社会全体に対して強い怨念を持ち、その復讐として、社会体制を暴力によって根本から転覆させようと考えるようになったと推定される。

 マルクスは社会転覆という目的を達成するため、現代社会の支配者である資本家階級に絶対逃れられぬ罪状を突きつけ、労働者を団結させて必勝の信念を持たせる必要に迫られた。彼がリカードの労働価値説を改作して、極度に独断的な搾取理論を構築したのはそのためだと思われる。すなわち、「価値は労働者の労働力だけによって生み出され、資本家は全く価値を生み出さず、その価値を労働者からもっぱら搾取するだけの存在だ」としなければならなかった。それで初めて、「資本家は殺されても仕方のない全くの害虫だ」ということになるのである。

 ソ連の不幸は、このマルクスの真の動機を見抜けず、復讐と権力奪取のための手段として捏造した虚構を真理だと誤認し、その虚構に基づいて社会全体を構築しようとしたところにある。ただしその背景として、共産主義の確立者、スターリンなどにも、マルクスと同様の、あるいはそれ以上の屈辱、怨念、復讐心、権力への野望などがあり、マルクスの思想がその願望達成にこの上もなく役立つものであったということは見逃せない。そう考えない限り、一九三二〜三三年にソ連の全農家から穀物を没収し、一千万人以上を餓死させるなどという残忍な仕業をした理由が理解できないであろう。


 神主義により物心両面を救済

 では、こういう破壊衝動に由来する間違った経済学的公理の上に築かれた、破滅的なソ連社会を立て直すにはどうしたらよいか。このままでは、経済復興のためだけにでも莫大な歳月が必要となるばかりでなく、仮に経済を立て直したとしても、アメリカのような精神的退廃を招く危険性がある。現に今、ソ連では、ペレストロイカとグラスノスチによって西側のフリーセックスが流入、蔓延し、性的退廃には目に余るものがある。

 マックス・ウェーバーはマルクス主義の代案として、価値相対主義に基づく個人の主体的責任を強調した。しかし、価値相対主義はまた新たな矛盾・H藤・堕落をもたらし、個人主義は利己主義を生み出すであろう。ウェーバーは西欧自由思想の一つの頂点をなすものだが、この「個」を中心とする西欧型発想には限界があると言わなければならない。

 これに対し、文鮮明師がソ連学生に与えたのは、この経済・精神両面の危機を一挙に打開しようとする根本的な方策、すなわち「神主義」であった。それは、無神論の代わりに宇宙の創造神に対する信仰を再興し、神に由来する真の愛を土台とする家族的秩序を形成するというものである。

 文師は、「もし、愛と叡智そのものである神が実在し、その神が最後まで読み切った完全な目的と構想をもってこの宇宙を創造したのでなければ、問題解決の保証はない」と考え、この神の本質と目的の何たるかを必死に祈り求め、「神と人間の関係は親子関係である」との啓示を得たという。また文師は、「神は愛することを通じて喜びを得ようと欲せられ、その愛の完全な対象として、すなわちわが子として人間を創造された」と説いている。

 ここで、文師の説く「神主義」の骨子を紹介すると、以下のようになる。

 (1) 神は宇宙を創造された後は、自分を顧みることなく、ただ他のため、宇宙と人間のためだけに生きておられる。人間はまずこの「ために生きる」という神の心を自分の心とし、さらにその心と体(行動)とを完全に一致させることによって、神に完全に似た実子とならなければならない(個性完成の祝福)。

 (2) このように神と完全に似るようになった完成された男と女とが、次には、神の祝福のもとに結婚して、父・母・子女から成る家族全体を神に似たものとし(子女繁殖の祝福)、最後にその神に似た家族を氏族、民族、国家、世界……と生み殖やすことによって、宇宙全体を神に似たものとしなければならない(万物主管の祝福)。

 (3) この創造目的は本来全く矛盾なく、人間始祖の時に実現可能のものであった。しかしその始祖が神の戒めを守らず、神から離れ、以後代々神に対して罪を犯し続けたので、本来の神と一体の状態にまで戻ってその理想を実現するためには、その罪をすべて償わなければならず(蕩減復帰)、そのためには再臨のメシヤ――イエスの役割を受け継いでそれを完成する人――が必要となる。

 文師は、この方策を具体化するのは、ソ連のようにすべてが失われたところの方がむしろ早いと考える。文師の教えを聞いたソ連学生の多くがにわかに希望を抱き、その思想の普及に情熱を燃やすようになったのはこのためである。

 そして九一年十一月末、文師はついに師の共産主義解放プログラムの最後の拠点、平壌にまで入った。物心両面の復興の速度において、元共産主義圏は自由主義圏より早いかもしれない。文師はこのように共産主義からの救済プログラムを見積もっているようである。





















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