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南北統一と世界平和への道
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第四章 共産主義を越えて

共産主義を越えて

  統一思想研究院副院長 大谷明史

 疑いもなく、ソ連邦の成立と消滅は二十世紀最大の世界史的な事件でした。ここ数年間の劇的な共産主義の崩壊の現実を目の当たりにした多くの人々は、歴史の大変革期を目撃し、身震いするような興奮を覚えたことでしょう。しかし、この歴史的なドラマの背後には神とサタンの熾烈な闘いがあったのです。

 (一) 文鮮明先生の勝共運動と共産主義崩壊への軌跡

 一九三五年四月十七日、文鮮明先生が山上でお祈りをされていると、突然イエス・キリストが霊的に現れて、「神のみ旨を成就するように」と、使命を告げました。文先生が十五歳の年でした。そのときすでにソ連では、スターリンがマルクスのいう地上天国・共産主義を標榜しながら独裁体制を強化し、世界赤化を目指していました。


 キリスト教と政府から追われて

 一九四五年八月十五日、日本から解放された韓国において、文先生は神のみ旨を成就するためにみ言を語り始められました。しかし準備されていたキリスト教と政府が文先生に反対する立場に立ったために、一九四六年六月六日、共産主義の支配下にある平壌に行き、そこで伝道を始められました。

 間もなく文鮮明先生は共産党によって逮捕され、生死の境をさまようほどの拷問を受けられました。そして四八年五月より五〇年十月まで、興南の収容所で、苛酷な強制労働に服されました。そこは、どんな健康な人間でも必ず二、三年で死んでいくという最悪の環境でした。しかし、神のみ旨を成就するためにあらゆる苦難を耐えられた文先生は、国連軍の進撃によって解放されました。そして三十八度線を越えて南下するとき、「私が必ず責任をもって北韓を解放します」と、神の前に悲壮な決意で祈られたのです。共産主義がいかに残虐なものであるか、そして共産主義政権下の人民がいかなる苦難を受けているか、身にしみて理解しておられる文先生でありました。

 一九六七年、全米にベトナム反戦の波が広がり、日本では、間もなく「東大紛争」や「成田闘争」が始まろうとしていました。世界共産革命の前夜だと思われていた時です。その時、文先生は次のように語られています。「共産主義は、国際共産主義から民族的共産主義になり、民族的共産主義は分党的共産主義になる」。また「共産主義は八代を越せない」と。


 国際勝共連合の設立と世界的大会の開催

 キリスト教に指導されたアメリカを中心とする民主世界が共産主義問題を解決できないため、共産主義は世界赤化を目指してどんどん膨脹していました。そこで文先生は一九六八年に、韓国と日本で国際勝共連合の設立を提唱されました。また文先生の指示により、数年前より文先生の弟子である李相憲氏が勝共理論を執筆していましたが、この年『新しい共産主義批判』として出版されました。そして国際勝共連合は共産主義の誤りを指摘しながら、内外の左翼勢力との激しい闘いに突入していったのです。

 一九七二年、米軍は北ベトナムへの爆撃を再開しましたが、北ベトナムの攻勢はますます激しくなっていました(翌年、米軍はベトナムから撤退を余儀なくされます)。同じころ、日本の連合赤軍による「浅間山荘事件」や、日本人ゲリラによるイスラエルのロッド空港での乱射事件があり、人々を震えあがらせていました。この年、文先生は「サタン的共産主義の歴史は七十年目にして滅び去る。共産主義が始まった一九一七年から六十年間持続してピークに達し、その後は下り坂になり、七十年目には絶滅する」と語られています(なお文先生は、しばしば「共産主義は七十二年目に滅びる」とも語られています)。

 一九七五年四月十七日、カンボジアの首都プノンペンが解放勢力・カンプチアによって制圧され、政府軍が降伏しました。続いて、四月三十日、南ベトナムでは、解放軍が首都サイゴンに進攻し、政府軍は無条件降伏しました。三十年にわたる死闘が終わり、ついに共産勢力が政権を握ることになりました。共産勢力は正に破竹の勢いで進撃したのです。日本国内でも、解放戦線を支持しながらベトナム戦争反対を叫んでいた左翼勢力は最高に盛り上がっていました。その時、このままではアジア全体が共産化されてしまう危機的な状況を迎えていたのです。

 この危機に対処すべく、文先生は六月七日、ソウルのヨイド広場で「救国世界大会」を開かれました。世界六十か国の代表千余名を含む一二〇万人の大集会となりました。そこで文先生は「共産主義は神を否定する恐るべき思想であり、人類を誤った方向に導くものです。これに打ち勝つには、真理に立脚した次元の高い精神的理念と思想武装によらなければなりません」と訴えられました。この大会を契機として、アジアは共産化の危機を乗り越えることができたのです。

 一九七六年九月には、米国の建国二〇〇年を記念して、統一教会の「ワシントン大会」が開かれましたが、そこで文先生は「モスクワ大会」を宣言されました。それはソ連で間もなく共産主義が後退し、宗教活動を受け入れるようになるという予告でした。しかしその年は、前年のサイゴン陥落に続き、カーター米大統領の容共路線によって、ソ連の世界的な赤化戦略が目覚ましい成果をあげている時であり、だれも文先生の宣言を真剣に受け止めようとはしませんでした。


 最高度に高まった東西の緊張

 一九八三年は、東西の対立が最大に高まった危機的な年となりました。当時、ソ連は翌年の米大統領選でレーガンの再選を阻止すべく、あらゆる手段を構じていました。八三年三月にレーガンがSDI(核ミサイル攻撃防御システム)の開発を指示すると、ソ連はアンドロポフ書記長(六七年以来、長きにわたってKGB議長を務め、八二年十一月に書記長に就任)を中心として、宇宙を舞台にした核戦争「スターウォーズ」が始まったと世界に宣伝し、密かにアメリカに対抗しようとしていました。

 九月一日には大韓航空機がソ連上空でスパイ機と誤認されて、ソ連のミサイルによって撃墜されました。十月に入るとビルマのラングーンで北朝鮮工作員による爆弾テロが起こり、韓国の要人が多数犠牲になりました。さらにベイルートでは、イスラム過激派による米・仏軍への襲撃があり、合わせて三〇〇人近くが犠牲になりました。十一月には、米ソのINF(中距離核戦力)制限交渉も暗礁に乗りあげ、米ソはそれぞれ戦略ミサイルの配備を急ぎました。このように東西の緊張が最高度に高まっている時でした。

 一九八五年に英国に亡命したソ連の大物スパイ(英国のKGBの責任者であった)オレグ・ゴルジエフスキーが『タイム』誌(九〇年十月二十二日号)に語ったところによれば、一九八三年十一月、世界は核戦争の一歩手前にまで近づくという終末的危機(ハルマゲドン)を迎えていました。ソ連は西側の核攻撃が迫ったという妄想にとらわれて、アンドロポフの指令による「ライアン計画」が発動され、先制核攻撃をかけるべく、緊張は極に達していたのです。


 共産主義の終焉宣言

 このような時、文先生はシカゴで第十二回科学の統一に関する国際会議(八三年十一月二十四日〜二十七日)を開かれていましたが、世界の危機的状況を素早く感知されました。そして会議が終わるや否や、直ちに韓国の八大都市で全国勝共大会を開くことを発表され、帰国の途に着いていた七十二か国の学者たちに、韓国訪問を招請されたのです。世界の学者たちが集った勝共大会(十二月十四日〜二十三日)は韓国内の左翼勢力の激しい妨害があったにもかかわらず、大成功を収めました。そしてこれは世界の共産主義が敗北する転機をつくることになったのです。さらに、数年前より李相憲氏によって、文先生の思想である統一思想に基づいて、共産主義を、より体系的、学術的に批判し、その代案を提示する作業がなされていましたが、急ぎ完了し、翌年二月一日に『共産主義の終焉』(日本語版)として出版されました。

 間もなく二月九日、アンドロポフが死去しました。そしてアンドロポフの死とともに、ゴルジエフスキーが語っているように、ソ連において、核戦争への妄想がおさまっていったのです。アンドロポフを引き継いだチェルネンコが在位十三か月で死去すると、八五年三月には、共産主義の独裁体制を改革しようとするゴルバチョフが登場することになりました。

 ところが文先生は八四年七月より八五年八月まで、不当な脱税容疑により、アメリカ政府によってダンベリー刑務所に収監されることとなりました。これは宗教的、人種的、思想的偏見による宗教迫害でありました。しかし文先生は獄中より、「ワシントン・タイムズ」紙を通じて、ニカラグアの左翼政権と闘う自由戦士コントラを強力に支援されました。それは、民主党の反対によってコントラ援助の法案が議会で否決され、苦境に陥っていたレーガン政権を助けることになったのです。

 さらに獄中より指示され、八五年七月、ソウルでは国際勝共学術セミナーが開かれ、「共産主義の終焉」が宣言されました。また同年八月、ジュネーブで開かれた第二回世界平和教授アカデミーの世界大会において、「ソ連帝国の崩壊」が宣言されました。また時を同じくして、『共産主義の終焉』の英語版 [THE END OF COMMUNISM(1985. )]が出版され、理論面からも世界に向かって共産主義の終焉が宣言されたのです。

 しかしその時は、共産主義が崩壊するとは、ほとんどだれも考えていませんでした。八九年に至ってようやくフランシス・フクヤマ(米国務省政策企画部次長)が民主主義は共産主義との戦いに勝ったとする『歴史の終わり』という論文を発表し、国際的な反響を呼びました。また同じころ、元米大統領補佐官のブレジンスキーが『大いなる失敗、二十世紀における共産主義の誕生と終焉』を著し、共産主義が崩壊に向かっていると述べました。しかしその時、すでに共産主義の崩壊は目前に迫っていたのです。


 共産主義の崩壊

 八九年の末に至り、東ヨーロッパで一斉に共産主義が崩壊を始めました。ドイツでは十一月九日にベルリンの壁が崩れ、翌年十月には東西ドイツが統一され、四十一年間の分断の歴史に終止符が打たれました。

 九〇年二月七日、ゴルバチョフ書記長はソ連共産党の一党独裁を放棄する宣言を行い、ソ連共産党はそれを採択しました。間もなくゴルバチョフは、脱共産体制に備えて大統領に就任しました。九一年八月、保守派によるクーデターが失敗し、ゴルバチョフ大統領は共産党書記長を辞任し、ソ連共産党の解体を勧告しました。その時、一九一七年のロシア革命以来、七十四年間にわたってソ連を支配してきたソ連共産党が事実上崩壊したのです。

 さらに十二月に至り、スラブ三共和国が中心となり、ソ連邦に代わって「独立国家共同体」を創設することを宣言しました。そして十二月二十五日、ゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任し、ソ連は名実ともに完全に消滅することになりました。一九二二年にソ連邦が成立して以来、六十九年の歴史に幕が下ろされたのです。

 このようにして、文先生が予言されたごとくに、まさに「ソ連帝国の崩壊」と「共産主義の終焉」が現実のものとなったのです。文先生が「共産主義は八代を越せない」と言われたように、レーニン、スターリン、マレンコフ、フルシチョフ、ブルジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと引き継がれたソ連の最高権力者は、八代目のゴルバチョフで終わりを告げたのです。また「共産主義は七十二年目には滅びる」といわれたように、一九一七年より七十二年目の一九八九年に至って、共産主義の崩壊が突如として始まったのです。

 では、なぜ共産主義が地上に現れて、かくも劇的に崩れていったのでしょうか。


 神のみ旨の勝利

 神の摂理から見れば、共産主義が地上に現れたのは、人類歴史の終末期において、神を中心とした天国が現れる前に、サタンがそれをまねて偽りの天国を実現しようとしたからです。そして共産主義が崩れたのは、文先生が荒野路程四十年間の苦難を越えて、神のみ旨を実現されたからにほかなりません。そのためにダンベリーの牢獄を越えて、四十年路程が終わらんとする八五年八月十五日の直前に、「共産主義の終焉」と「ソ連帝国の崩壊」を宣言されたのです。神のみ旨の勝利によって、共産主義は崩壊したのです。


 (二) マルクスの思想の変遷

 共産主義は科学の旗を高く掲げながら、地上における「ユートピア」――搾取のない社会、自由な社会、富のあふれる社会、悪徳の一掃された社会――の実現を目指し、世界中で多くの人々を共産主義運動に巻き込んできました。ところが共産主義革命により現れた社会は、ユートピアではなくて共産党の独裁社会であり、革命により、また革命後の粛清により大量の虐殺が行われ、歴史上にも例をみないほどの恐怖政治が行われたのです。

 ソ連では、二〇〇〇万人とも、五〇〇〇万人ともいわれる人々が殺されています。ソ連人民代議員の歴史学者ロイ・メドベージェフによれば「粛清の犠牲者は四〇〇〇万人になる」ということです。中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュによる虐殺なども、歴史に例のない悲劇でした。

 共産主義が人類歴史にこのような悲劇をもたらした根本的な原因はどこにあったのでしょうか。いうまでもなく、共産主義革命はマルクスの思想に基づいて行われたものです。したがって共産主義の誤りの根本原因はマルクス主義そのものにあったのです。ではなぜマルクス主義=共産主義思想がそのような悪の根源を内包していたのでしょうか。その問題を思想的に分析してみなくてはなりません。共産主義を越えて真の理想社会を実現するためには、それはどうしてもなされなくてはならない課題なのです。

 京都大学名誉教授の勝田吉太郎氏も次のように述べておられます。「今、われわれがなすべきこと、それは[川に落ちた犬をたたく]ような仕方で共産主義に居丈高に政治的ばり雑言を浴びせたり、ツバを吐きかけたりすることではない。むしろマルクスの思想体系 ――共産主義という名の無神論的社会主義が、なぜかくも長期にわたって人々の魂を呪縛したのか、いったいマルクスの思想のどこに人間存在に途方もない災厄をもたらす悪の根源が潜んでいたか、といった哲学的反省を加えること、これがいま知識人に求められている作業ではないか」。

 では共産主義思想を形成するに至ったマルクス(一八一八〜八三)の思想の変遷の要点を紹介しながら、マルクスの思想の本質に迫ってみたいと思います。以下は、李相憲著『共産主義の終焉』(一九八四年、光言社)に基づいて解説したものです。
 思想が成立する条件には、哲学者を取り巻く家庭環境、社会環境、思想的環境などがありますが、それよりもさらに深いところにあって思想を推進する動力になっているのが心理的要因です。したがって若きマルクスが、思想家として登場する際の、彼の心理を知らなくてはなりません。


 第一の心理的撃発

 カール・マルクスはユダヤ人のラビの家系に次男として生まれました。父ハインリッヒは弁護士でしたが、プロシア政府がユダヤ教徒を公職から排除する条例を出したために、彼はユダヤ教を捨ててキリスト教に改宗しました。続いて、カール・マルクスら七人の子供たちも改宗させられたのです。

 そのような状況の下で青年マルクスは、ユダヤ人としてキリスト教のプロシア社会から差別され、またユダヤ教を捨てたことによりユダヤ社会から蔑視されていました。そのため彼は孤独感、疎外感、劣等感にあふれていましたが、それが転じてプロシア社会と宗教に対する反抗心、復讐心、憎悪心が彼の中で燃えていました。そのような心理のもとで、マルクスは差別され、搾取されている人間を解放しようと立ち上がったのです。

 一八三五年にボン大学に進んだマルクスは一年間、法律を学びましたが、その後ベルリン大学に移り、哲学を学びました。そこでマルクスはヘーゲル哲学に接近しましたが、プロシア社会の変革を目指すヘーゲル左派に属しました。ベルリン大学の卒業に際して、マルクスの希望は大学教授への道でした。ところがマルクスが頼りにしていたヘーゲル左派のブルーノ・バウアーが、当局によってボン大学の教授任命を拒否され、一八四一年には大学から追放されてしまいました。それとともに、マルクスの大学教授志願の道も挫折してしまったのです。これがマルクスの思想形成における「第一の心理的な撃発」となりました。つまり、これが「引きがね」となってマルクスの思想が新しい段階に飛躍したということです。

 そこでマルクスは政治評論の道を目指すようになります。一八四二年四月、「ライン新聞」に職を得たマルクスは、十月に二十四歳の若さで編集長に就任しました。そこでマルクスは言論の力によって政府を正しながら、ヘーゲル哲学の目的である自由の実現を達成しようとしたのです。


 第二の心理的撃発

 ところがプロシア政府の弾圧によって「ライン新聞」は休刊に追い込まれてしまい、彼は一八四三年三月に編集長の職を辞すことになりました。それから六月には、ユダヤ人社会とは相入れないプロシアの貴族の娘イェニーとの結婚を強行し、母と姉から断絶してしまいました。マルクスの母ヘンリエッテは、夫や子供たちの改宗に反対し、最後にやむなく改宗していますが、夫の死後、再びユダヤ教に戻るという厳格なユダヤ教徒でした。母はマルクスの結婚に強く反対し、結婚を強行したマルクスに対して遺産分配を拒絶するようになります。その時のマルクスの心理は、プロシア政府に対する憎悪心と反抗心であり、家族と断絶した孤独感でした。これがマルクスの思想形成における「第二の心理的な撃発」となりました。

 そこでマルクスは、政府や官僚に期待をかけるヘーゲル主義の立場を捨てて、人間主義の立場から「立身出世にあくせくしている官僚によっては自由は実現できない」(『ヘーゲル国法論批判』)と結論しました。そして、人間の解放は政府や官僚の力によってなされるのではなくて、市民社会の一般の人間によってなされなくてはならないと主張しました。

 このマルクスの主張は、ヘーゲル左派のフォイエルバッハの人間解放の公式にならったものでした。フォイエルバッハによれば、人間は動物とは違って理性、愛、意志などの本質をもっていて、しかもその完全性を願っています。ところで個人としての人間は不完全な存在ですが、個人としての人間を越えた類としての人間の本質(類的本質)は完全なものです。そこで人間は類としての本質を対象化させて、それを崇拝するようになったのです。それが神にほかなりません。その結果、現実の人間は非常に利己的で無力な存在になってしまったのです。これが彼のいう人間疎外です。すなわち人間の本質を神によって失ってしまったことが人間の疎外でした。したがって喪失した人間性の回復すなわち人間の解放は、神を否定することにより、人間が自分の中に人間の本質を取り戻すことであると主張したのです。

 マルクスはこの人間解放の公式にならって、人間は国家や官僚に期待をかけることによって人間の本質を失って(奪われて)いるのだから、国家や官僚に委ねるのではなくて、市民社会における現実の人間が自分の中に人間の本質を取り戻さなくてはならないと主張したのです。

 一八四三年十月、妻とともに追われるようにして文化と革命の中心地パリへ旅立ちました。そこでマルクスは、フランスの初期社会主義や初期共産主義思想の影響を受けます。そして漠然とした「現実の人間(市民)による人間の解放」という立場から、一歩進んで「プロレタリアートによる人間の解放」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)を主張するようになりました。

 さらにパリで経済学を学んだマルクスは、ブルジョアジーによるプロレタリアートの搾取という経済的な構造が、人間の差別の根本問題であると考えるようになり、「私有財産の止揚(否定)による人間的本質獲得のための共産主義」(『経済学・哲学草稿』)を主張するに至りました。しかし、その時の共産主義は、あくまでヒューマニズムの立場に立つものであり、暴力的なものではなかったのです。

 マルクスは「私有財産の止揚は、すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である」(『経済学・哲学草稿』)と述べており、私有財産の止揚による類的存在(フォイエルバッハのいう人間の本質)の奪還、すなわち疎外からの人間性の解放を目指したのです。


 第三の心理的撃発

 ところがプロシア政府の圧力により、一八四五年二月、マルクスはパリを追われブリュッセルに亡命することになります。プロシア政府の執拗な追及と経済的な困窮により、ついに彼の怒りは爆発し、激しい復讐心に燃えるようになりました。これがマルクスの思想形成における「第三の心理的な撃発」となりました。その年の暮れに、彼はプロシア(ドイツ)国籍を放棄しましたが、それは彼の復讐の固い決意の現れであったと見ることができます。マルクスのドイツ国籍の放棄に関して長野敏一氏は『マルクスの深層研究』の中で次のように述べています。

 だが、われわれは、――心理学に興味をもつほどのものは――この事件をそう軽々と見逃すことはできないのである。一人の人がいままで自分が生まれ、育ち、大きくなってきた祖国を、そう心易く、路傍の石でも拾い、道ではなでもかむように、たやすく捨て去ることができるであろうか。われわれは決してこれを肯定することはできない。マルクスは国籍を離脱するに当たって、ドイツとの決定的な絶縁を、というよりは敵対を決意したのであろう。国籍離脱という事件は、決してそのまま単独な決意や断行ではなくして、より大なるマルクスの決意と将来の予定行動との一環である。それはドイツを「革命」すること、ドイツを「顛覆」することである。マルクスはこのような決意と予定行動のために国籍を離脱したのである。 

 ドイツ政府とその政府を支えるブルジョアジーに対して激しい敵愾心を燃やすマルクスは、ついに暴力革命を決意するようになります。『ドイツ・イデオロギー』では、共産主義者の使命は「現存する世界を革命し、既成の事物を攻撃し変更すること」であるといい、『哲学の貧困』では、革命は「肉体対肉体の衝突」すなわち暴力的な闘争であるといいました。そして、一八四八年の『共産党宣言』では、世界に向かってプロレタリアートによる「暴力的な社会革命」を宣言しました。

 ブリュッセル以後は、パリ時代までマルクスが抱いていたヒューマニズム的な人間解放の精神は影をひそめてしまいました。彼にとって、暴力による社会革命が最大の課題となったのです。パリ時代の主張であった私有財産の「止揚」(アウフヘーベン)という言葉が私有財産の「廃棄」(アプシャフング)という強い調子に変わったのも、暴力革命の決意を反映したものでした。

 それ以後、マルクスは経済学の研究に没頭し、その成果を一八六七年に『資本論』(第一巻)として発表しました。『資本論』は純粋に科学的な研究であるかのように装っていますが、それは明らかに資本主義社会を打倒することを合理化するための理論でありました。その中でマルクスは「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」と誇らしそうに宣言したのです。マルクスの心理的撃発に伴う思想の変遷をまとめれば次のような図になります。(図:省略)


 (三) マルクス主義の悪魔的要素

 プロレタリアートによる暴力的な権力の奪取を全面に押し出したマルクスは、そのための方法として唯物弁証法を立てて闘争を合理化し、暴力を積極的に肯定しました。そして、革命と共産主義社会の到来がだれも押しとどめることのできない歴史的必然性であることを人々に説得するために、マルクスは唯物史観を構築し、『資本論』を著したのです。さらにプロレタリアート独裁論を立てて、共産政権による独裁の道を開きました。このようなマルクスの思想と、それを革命的実践に応用したレーニンの思想に基づいて、二十世紀に至り、ソ連、中国、東ヨーロッパなどで革命が起こり、共産政権が誕生したのです。

 しかし革命によってできた社会は、人間の解放された自由な社会、経済の繁栄する豊かな社会ではなく、かえってより一層人間性が蹂躙され、自由が拘束された社会であり、経済的に破綻した社会でありました。それは階級のない社会ではなく、共産主義官僚という「新しい階級」による人民に対する苛酷な支配の行われる社会であり、支配者は人民を強制的に労働に駆り立て、権力によって富を自由にしました。官僚の間には汚職が蔓延し、絶望した人民は無気力になり、アルコールになぐさめを求めました。マルクスの初期の目的であった自由の実現と人間の解放は完全に失敗したのです。

 このような結果をもたらした原因はマルクス・レーニン主義にありますが、根本的な原因はマルクスの人間解放の思想(人間疎外論)にあったのです。なかでもマルクスがパリからブリュッセルに亡命する時の「第三の心理的撃発」が、その決定的な契機となっています。その時、マルクスの思想はヒューマニズムの立場から離れて、悪魔的要素を帯びるようになったのです。


 憎悪と復讐心の凝結

 ブリュッセルに亡命したマルクスの中で、憎悪と復讐の心は、人類(労働者)に対する愛や人類(労働者)を解放しようとする正義の心を凌ぐものとなっていました。一八四七年六月、ロンドンで「共産主義者同盟」の第一回大会が開かれましたが、同盟に加入したマルクスは、同盟の前身であるドイツ人亡命者の組織「義人同盟」のスローガンが「人間はすべて兄弟」であったのを、「万国のプロレタリア、団結せよ」に取り替えました。それは「自分としてはどんなことがあっても兄弟になりたくない多数の人間がい
る」とマルクスが言明したからだといわれます。

 また森和朗氏は『マルクスと悪霊』の中で、その時のマルクスの心理を鋭く分析して、次のように述べています。「[万国のプロレタリア、団結せよ]――このあと一年足らずでヨーロッパ世界を震撼させることになる有名な言葉は、マルクスの労働者への友愛の所産ではなく、彼の人間への憎悪と差別が凝結したものであるのだ」。そして『共産党宣言』における「彼ら[プロレタリアート]を眺めるマルクスの目は心なしか冷たい光を放っている」。と見抜いています。結局マルクスにとって、プロレタリアートはブルジョアジーを破壊してくれるための勢力にすぎないのであって、破壊の後は、マルクスを中心とした共産主義者が意のままに支配するということだったのです。このようなマルクスの心は、この世を支配しようとするものであり、悪魔(サタン)に通ずるものとなっていたのです。


 マルクスの人間疎外論

 では、マルクスは人間疎外についてどのような結論を下したのでしょうか。マルクスは「資本家が労働者から労働生産物を奪ったこと」を人間疎外の本質であると見ました。さらに資本家をしてそのように駆り立てた元凶は、「吸血鬼のように、ただ生きている労働の吸収によってのみ活気づく」資本であると見ました。そして資本を有する資本家は「最も恥知らずで、汚ならしくて、卑しくて憎らしい衝動」の持ち主であるとされたのです。

 その結果、マルクスは資本を成立させている資本主義社会と、資本の所有者である資本家を打倒し、絶滅させれば人間は解放されると考えました。しかし問題は、資本そのものにあるのではなく、それを所有する人間の心にあったのです。また資本は、資本主義社会のみに成立するものではなく、共産主義社会も含めて、いかなる社会においても必須のものであったのです。したがって、マルクスの人間疎外論は完全に間違っていたのです。


 暴力の肯定

 次に、人間の疎外を解決するための方法が問題でした。マルクスはまず唯物弁証法を立てて、闘争を法則化し、暴力を崇高なものにしました。そしてレーニンは「資本主義の崩壊の全過程や社会主義社会の誕生には、暴力が必ず伴う」と言いました。マルクス主義の悪魔性をするどく追及したロシアの宗教思想家、ベルジャーエフは「新しい人間の魂は否定的情熱、憎悪、そして暴力によって形成される。これがマルクス主義の悪魔的要素であり、弁証法と呼ばれるものである。悪は弁証法的に善へと移行し、闇は光へと移行する。レーニンはプロレタリア革命に奉仕する一切のものは道徳的であると宣言し、それ以外の善の定義を知らない」といっています。この暴力の崇拝によって、革命と革命後の粛清により、大量の人々が虐殺されることになったのです。

 マルクスやレーニンはテロの必要性も宣言しました。マルクスは「古い社会の血なまぐさい死の苦しみと新しい社会の血にまみれた産みの苦しみを短くし、単純化し、一つにまとめる手段はたった一つしかない……革命的テロリズムだ」と言い、レーニンは「われわれはけっして原則上テロを拒否しなかったし、また拒否することはできない」と言っています。今日まで多くの無実の人々の血を流したテロリストたちの父はマルクスであり、レーニンであったのです。

 独裁論の樹立

 共産主義者による暴力的支配をさらに合理化し、徹底させたのが「プロレタリアート独裁論」の樹立です。マルクスは「[資本主義社会と共産主義社会の間の]過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」と言い、レーニンは「プロレタリアートの独裁のうちに、まさにマル
クス学説の本質がある」と言っています。

 ところがプロレタリアートの独裁とは、搾取してきたブルジョアジーに対する、搾取されてきたプロレタリアートの独裁ではなくて、実は民衆(プロレタリアート)に対する、プロレタリアートの前衛であるという共産党の独裁を意味するのであり、ひいては共産党の指導者である個人の独裁を意味していたのです。(ブルジョアジーは粛清されるか、思想改造された後、プロレタリアートの一部に組みこまれます。)その結果「歴史上かつてないほど完璧な権力を民衆に対してふるう階級[共産主義特権階級]」が生まれることになりました。そして共産党の独裁は、革命後の過渡期のみならず共産政権が続く限り、続くことになったのです。さらにソ連の崩壊が示しているように共産党の独裁が終わるということは、共産政権の終わりを意味していました。


 (四) 真の愛による人間の解放

 マルクスは人間解放のために立ち上がったのですが、憎悪心、復讐心にかられて暴力革命の道へ進んだために、人間を解放するよりは、より一層人間性を蹂躙する結果になってしまいました。ベルジャーエフも次のように語っています。「[初期マルクスにおいて]新しいヒューマニズムの可能性があった。彼は非人間化に対する反抗から出発したが、後には彼自身が非人間化過程におぼれた」。

 今日、「ソ連の崩壊」と「共産主義の終焉」を迎えましたが、このような結末を迎えた根本原因は結局、マルクスの人間観の誤りにあったのです。したがって、真に人間を解放するためにはマルクスの人間解放の原点に帰り、人間の解放の道を新たに求めなくてはならないという結論になります。

 真の愛に基づいた思想

 マルクスの思想を克服し、またそれに対して代案を提示できるのは復讐ではなく、敵をも許す真の愛に基づいた思想でしかありません。それは文先生の提示された頭翼思想(ヘッドウィング)にほかなりません。頭翼思想は、共産主義と民主主義を抱擁しながら新しい平和の時代へと導くものです。頭翼思想は、神主義(ゴッディズム)に基づく思想であり、統一思想ともいいます。

 ところで共産主義は、資本主義社会の矛盾や病弊を指摘し、糾弾するという点では見事であり、資本主義社会を正す上で有効的であったということは高く評価しなくてはなりません。共産主義は「資本主義に対する告発状」であったのです。しかしそこには資本主義社会を否定するだけで、それに代わる代案がなかったのです。共産主義社会という理想像はあっても、それは単なる幻のようなものであったし、またそれを実現するための方法が間違っていたのです。ここに理想社会に対する明確なビジョンと、それを実現するための正しい方法が必要となります。それを実現しうるのが、すなわち頭翼思想であり、統一思想なのです。

 共産主義は、今日まで多くの人々と、特に正義心の強い知性人たちを引きつけてきました。それは、彼らが共産主義の持つ悪魔的要素に気づかないまま、理想世界を約束するその理論に引かれたからです。

 文先生も次のように語っておられます。「彼らが思想的にどんなに賢い人々なのか分かりますか? 共産主義理論も自分勝手になっていないのです。理論的に見た時に否定できない内容を備えていたので、世界的な知性人層を全部、掌握していったのです」。

 そこで共産主義の持つ悪魔的要素を取り除いて、神を受け入れるようにせしめて、神を中心とした理論にすればよいのです。そうすれば、それは頭翼思想に包含されるようになるのです。例えば、文先生は共産主義の弁証法に対しても、「闘争的弁証法でなくて和合的弁証法にすればよい」と語っておられます。

 文先生とゴルバチョフ大統領との会談

 一九九〇年四月、ソ連は文先生と統一運動を受け入れて、モスクワにて世界言論人会議が開かれました。そして文先生とゴルバチョフ大統領の歴史的な会談が実現しました。かつてソ連は、文先生とレーガン大統領とローマ法王を主要な敵と見なして(なかでも文先生を最大の敵と見なして)、テロリストを通じて暗殺を謀ったほどでした。一方、文先生は勝共運動を通じて、ソ連による世界赤化の道を遮ってこられたのです。しかしゴルバチョフはKGBを通じて徹底的に統一運動を調べました。その結果、文先生の真の意図は、ソ連を滅ぼそうというのではなく、暴力と独裁という誤った共産主義を正し、ソ連社会を救おうとされていることをゴルバチョフは理解したのです。

 こうして一九七六年のワシントン大会において宣言された「モスクワ大会」が現実のものとなったのです。その後、文先生は独立国家共同体(旧ソ連)の学生、教授、政治家等に、共産主義に代わる新しい理念を教え、経済的に破綻した社会を復興し、発展せしめるために尽力しておられるのです。

 北朝鮮訪問と金日成主席との会談

 ゴルバチョフ大統領との会談に続いて、文先生は一九九一年十二月、突如として北朝鮮を訪問され、金日成主席との歴史的な会談を実現されました。かつて北朝鮮の監獄で、三年近く拷問と苛酷な強制労働を受けられた文先生にとって、金日成主席は恨みの相手であり、また金日成主席にとって、勝共運動の推進者であった文先生は「悪の頭目」であって、ともに相入れない関係にあったのです。しかし文先生の真意は、北朝鮮を打倒することではなく、破綻した北の経済を支援しながら南北の平和統一を実現するということでした。そのことを金日成主席は理解し、文先生を受け入れたのです。文先生は北朝鮮から帰られる時、北京で次のように語られました。

 私は北朝鮮に対して恨(恨み)が多いと言えばだれよりも多い人間です。私は宗教指導者だという事実と一貫した反共の信念のため、北朝鮮政府から到底話すことのできない圧迫を受けた者です。私は到底形容することのできない拷問を受け、三年近くの興南監獄生活で多くの罪なき囚人たちが死んでいくのを見ました。一言で言えば、私が今日、健在だということはひとつの驚くべき奇跡であり、ただ神様の特別な加護と恩賜によるものでした。

 しかし、今回、私は統一教会の創始者として真の愛の精神で北朝鮮に行ってきました。真の愛というのは「愛することができないものまでも愛する精神」です。イエス様も「汝の敵を愛せ」といったではありませんか。

 平壌に入っていった私の心情は秋の空のように晴れ渡ったものでした。怨讐の家に行くのではなく、私の故郷、私の兄弟の家に行くようでした。「許せ、愛せ、団結せよ」という私の終生の心情を持って北朝鮮の地を踏みました。

 文先生が示されたのは、正に真の愛による人間解放の道でありました。このようにして一九五〇年十二月、北韓の地を離れ、南下される時「私が必ず北韓を解放します」と神に誓われた、その誓いが実現に向かって大きく前進することになったのです。






















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