文鮮明先生の平和思想
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 1

三 平和と愛の哲学

 宇宙の根本において、何か先でしょうか。生命が先でしょうか、愛が先でしょうか。このように考えるとき、それを突き詰めていけば、生命が先になることはできません。神様は、生命の源泉ですが、生命の源泉でおられる神様が存続されるところは、どのような基盤の上で生きることを願われるのでしょうか。神様は、平和の基盤の上で生きることを願われるのです。それでは平和の基盤の設定は何かするのでしょうか。生命がするのでしょうか、他の何かがするのでしょうか。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認定することができる秩序的段階を超越したその何かです。それは何でしょうか。真なる愛です。(一七三−八四、一九八八・二・七)

 宇宙の理想的核とは何かというと、愛です。平和の核です。宗数的に見れば、キリスト教では愛を主張し、仏教では慈悲を主張するでしょう? 儒教でいえば、仁義礼智、仁を主張します。「仁」という字は、二人を意味します。それは、おのずから愛を意味するのです。天も二人です。(一六四−一五三、一九八七・五・一〇)

 愛がない所には平和もありません。愛がない所には幸福もありません。愛がない所には喜びもありません。このような立場に立つので、神様は愛だというのです。宇宙の中心となる位置は愛を通して成し遂げられ、中心がなければ存在はあり得ないので、すべての存在を表象する神様は愛だ、そして人間は愛だという言葉に代えても過言ではないというのです。(七六−四七、一九七五・一・二六)

 愛の相対者を見ながら笑って暮らす人は、年を取らないというのです。この愛の力こそが宇宙を春の愛の花園にするのです。したがって、超民族的神様を中心とした新しい平和の春の天国に向かって出発する時が遠くないというのです。(八六−三三〇、一九七六・四・一八)

 愛の核的な存在が神様です。人間がこの神様に似た相対的存在となるためには、神様の素性に対応し得る素性をもたなければなりません。それゆえに、人の心は、神様の核的な内容と同様の性稟に代わり得る素性をもたなければなりません。その根はどこでしょうか。愛の本質に根をおいているのです。その愛から平和が出て、その愛から幸福が出て、その愛がら喜びが出てくるのです。お金から出てくるのではありません。(三五−五七、一九七〇・一〇・三)

 理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造は、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなどの活動すべてを意味するのです。

 今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活面においては神様に似たということができますが、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福はあり得ないので、ここで数々の悲惨な光景が展開するようになるのです。(六五一二五九、一九七二・一一・二六)

 愛には上下がありません。ですから、その愛の主管圏内に存在するようになるときには、いくら端にいたとしても全体を所有し得る権限があるのです。愛の世界には差別がないというのです。いつでも無限の平和と無限の平等と無限の公的な価値をもっているので、大きい小さいということや上下は問題にならないのです。

 それは、永遠に連結されるのであり、永遠に授け受けするものなので、その基準から一つだけが立ち上がっても、そこには全体が統合されないものがなく、応じないものがありません。ですから、そのような基準に立脚した愛を中心とした勝利的主管者の立場にまで行かなければなりません。今まで、人間がそのような立場を取り戻すことができなかったので、私たちがそのような立場を取り戻そうとしているのです。(一四−二四九、一九六五・一・一)

 父母と子女の関係においても同じ道理です。赤ん坊は、母親のお乳をがき分けて食らいつくのですが、愛を抜きにしてそのようにすることができますが。できないというのです。しかし、赤ん坊に父母の愛を感じさせ、赤ん坊を抱くことによって自分が幸福だということよりも、天地がすべて平和の境地に入っていくことを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽生えることを感じるようになるときには、その赤ん坊がいくら自分の胸に食らいついたとしても、それを許し、「早くしなさい。早くしなさい」と言うことができる雅量をもった心が生じるのです。それゆえに、父母は、子女を無限に愛することができるのです。(四九−五〇、一九七一・一〇・三)

 愛は、作用すればするほど大きくなっていくのです。自然の力では、その戦法はありません。この愛の力も一種の自然の力ですが、これは立体的な力であり、増進的な作用なのです。これは、人にだけ適用されるのです。動物にはありません。これがあるがゆえに万物の霊長であり、これがあるがゆえに宇宙と関係を結ぶことができるのであり、これがあるがゆえに平和の王国を夢見ることができるのです。(一九−三四、一九七一・一・一六)

 一人だけがうまくやったからといって平和は来ません。男性と女性の力が一つになって回っていかなければならないのです。回っていくときには、中央に向かって突進しなければなりません。中央に向かって突進する力は、愛の力です。相対が現れれば、愛そうという心が生じるのです。(一九−三〇五、一九六八・三・一〇)

 一時的な目的を中心とした統一は、誰も願いません。統一されたとしても、永遠であることを願うのです。それでは、永遠を中心として一つになり得る、その要素とは何でしょうか。愛だというのです。愛は、統一の基盤です。それは、永遠に追求していくことができる幸福の基台となるのです。愛がなければ幸福はありません。愛がなければ平和はありません。愛がなければすべてのことが相克となり、愛が充満するようになるときには、すべてのものが和合するようになるのです。(五〇−一一三、一九七一・一一・六)

 神様も私たち人間と同じです。神様が人間を愛する心があるとするならば、孤独で苦痛な立場で愛したくないと思われるのは当然のことです。自由で平和が宿り、万有の存在がその愛を栄光と共に賛美し得る立場で愛の道を訪ねていきたいと思うのは、私たち人間の生涯から推し量ってみるときに、間違いない事実だと結論づけることができるのです。

 神様が愛することのできる人がいるとすれば、自由な環境、平和な天国の本源地において愛することを願われるのです。愛するのですが、どのような愛を成そうとされるのでしょうか。最高の愛を成したいと思われるのではないですか。その最高の愛、その愛が成し遂げられたとすれば、天地がその愛の前に頭を下げます。そのような最高の愛を成し遂げたいと思われるのではないでしょうか。(五一−三一五、一九七一

 もし、神様を占領したとしても、神様の愛を占領することができないときには、神様の愛を占領した人に神様を渡してあげなけれぱならないというのです。皆さん、平和や幸福や理想というものが、愛を抜きにしてあり得るでしょうか。神様が一つの表象として願われる最高の場であり、私たち人間が到達し得る一つの最高の場ではないかというとき、それは、一つしかない愛の場であることは言うまでもありません。(五三一一〇八、一九七二・二・一一)

 私たちが共通の標準を収拾して立てるとすれば、「一言以て之を蔽う」(注:ひと言でまとめる)ならば、愛以外にはあり得ません。それでは、その共通的内容の標準を何によって立てるのでしょうか。「神様の権能によって立てましょう!」と言って立てるならばどうなるでしょうか。そこには、共通と同時に同等権がありません。力で、「私の言うとおりにしなさい」と言えば、「はい」と言うかもしれません。しかし、お互いが喜び、相対的で平等な内容がありません。これを思うとき、なんだかんだと言っても、理想的で、共通的で、平和的な内容を提示し得る要件というものは、愛以外にはないというのです。(八三−一五七、一九七六・二・八)

 今、自由世界で最も難しい問題とは何かというと、愛の秩序問題です。男性と女性が出会うのが愛です。そのような愛は、歴史過程もなく、未来観もなく、方向もない愛です。これは、自分勝手なものだというのです。そのような愛では、自由の原則と統一の原則、平和の原則になり得ないのです。

 お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そこに自由がありますか。そこに幸福がありますか。そこに平和がありますか。そこに統一がありますか。すべてが反対です。そのような愛は、破壊ばかりを招き入れるのです。破壊の動機であり、受け入れることができない内容だというのです。その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私たちから真の平和を奪っていき、私たちから真の自由を奪っていき、私たちから真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法だ、ということを私たちは知らなければなりません。

 このような公式的な歴史観から推察してみるとき、アメリカもそのような愛を是正せず、悔い改めなければ、滅びるようになるのです。間違いなく滅びるというのです。アメリカにこのような愛の秩序が立たなければ、自由があるとは言えません。平和があるとも言えません。統一の可能性があるとも言えません。混乱と破綻と暗黒が渦巻いているという事実を私たちは知らなければなりません。(一〇四−一四〇、一九七九・四・二九)

 この地上に生きている数多くの人々は、理想世界が来ることを漠然と願っています。その理想世界は、いったいどのような所なのでしょうか。「自由と平和がある所だ。ゆえに、人類が一つになって暮らす所だ」と言うのです。このように漠然としています。ところが、私たち統一教会では漠然としていません。具体的な内容を提示しているのです。平和、自由、統一の世界だというのですが、その順序が、どれが先で、どれがあとなのかというのです。ある人は「自由だ」と言い、ある人は「平和だ」と言うのです。

 「平和がないのに統一があり得るのか」と言い、また「自由がなければ統一が展開することはできず、自由がなければ平和はあり得ない」とお互いに入れ換えて言っています。それはすべて良いというのです。しかし、私たち統一教会が提示しているのは、このようなものを備えた内容ではありますが、そこにおいて最も先になるものは何かというと愛なのです。「愛」という名詞が中心になるということを提示しているのです。この愛を中心とした自由、それは通じるということです。どこでもそれは歓迎されます。また、愛を中心とした平和は、どこに行っても歓迎されるのです。愛を中心とした統一も、いつでも歓迎を受けることができるというのです。

 それがなくては、秩序を立てることはできません。自由の観念も、民主世界の自由観念と共産世界の自由観念は異なるというのです。また、彼らが思う平和も異なるのです。彼らが思う統一も異なるのです。しかし、いくらその内容が異なるとしても、そこに愛を結べば、それが和合することができ、一つの形態として現れることができる、というのは言うまでもありません。なぜそうなのかというのです。共産世界の人が要求するのも愛であり、民主世界の人が要求するのも愛です。それが本質的に異なることはないというのです。その愛は、どのような愛でしょうか。原因と結果を連結させることができる愛です。それはどういうことかというと、昔でも今でも、永遠に変化がないということです。(一〇四−一三九、一九七九・四・二九)

 皆さんは、なぜ愛が貴いのかを知らなければなりません。ここには、連帯的な責任があり、連帯的な関係があるというのです。世界を一つにするのも、偉大な力や偉大な知識ではできないのです。愛でしなければなりません。自らを犠牲にしてでもすべての責任を完遂しよう、というところから世界平和が成し遂げられるのです。力で統一させたものは、力がなくなったときには分かれてしまいますが、犠牲によって統一されたものは、力がなくなっても分かれないというので

 サタン世界の愛は、蹂躙する愛であり、破壊する愛であり、すべてのものを無視する愛です。しかし、天の世界の愛は、建設的な愛であり、理想的な愛であり、すべての生命が躍動する平和的な愛なのです。反対だというのです。また、サタン世界の愛は瞬間の愛です。しかし、神様の愛は永遠の愛です。そのような思潮が世界的に衝突し交差する運動が展開すれば、一つは地上地獄の世界であり、一つは天上理想の世界に分かれるのです。(九一−一九九、一九七七・二・一三)

 愛の秩序、この愛の秩序を立てることができない限り、問題が大きくなるのです。いくら健康で、いくら力があり、いくら能力があるとしても、愛に対して打撃を受ければ、すべて無力な者になってしまうのです。絶望者となり、落胆者になってしまうというのです。それが無秩序では、平和はあり得ず、幸福の家庭はあり得ません。(一一八−二九五、一九八一・六・二〇)

 愛の心情の前に感化され、自然屈服しなければ、平和の基地が形成できないというのです。それゆえに、打たれて奪ってくるのです。天の作戦は、打たれて奪ってくる作戦です。涙を流し、血を流し、包帯を巻いて傷をなでながら神様の前に感謝することができる道を築いてきたのが、善なる立場に立った復帰の路程だったという事実を私たちは知っています。それが公式です。(一一四−九三、一九八一・五・一七)

 真なる平等は、愛なくしてはできません。幸福も、自由も同様であり、愛なくしてはできません。平等と平和があってこそ自由が存在します。世の中で自由であることを願うところにも、一人では絶対にできないのであり、その誰かを中心として、主体と対象の関係において自由を求めなければなりません。しかし、その主体と対象がいくら自由を誇り、踊りを踊ったとしても、彼らが悪なる圏内で動くときには、自由と幸福は求めることができないのです。それは、滅びる、破綻する自由です。

 自由を保障し得る絶対的権限内には、平和で幸福な自由があるのであり、保障し得ないところには、自由がないのです。例を挙げれば、愛する父母がいて、愛する兄弟がいるとき、公認を受けるところでは、環境からの侵犯を防いでくれるので、永遠の自由が成されるのですが、怨讐に囲まれた環境では、自由が保障されません。結局、自由は環境が問題になるのです。

 私たちは、神様が永遠不変であられる唯一の主体であることを知りました。その方に平等、平和、幸福、永遠の自由があるのです。愛がない世界では、いかなる平和も自由も保障できません。なぜならば、意識自体が変わってしまうからです。(六五―二九〇、一九七三・二)

 絶対的愛を中心とした心情、統一教会で言う固有名詞である「心情」を中心とした思想統一だけが、平和の天国と平和の王国を建設することができるのです。人間が願うユーートピア的地上天国を完成させることができるというのです。(一○九−一三三、一九八〇・一一・一)

 私たちはどこに向かつているのでしょうか。理想世界に向かつているのです。また、平和世界、統一世界に向かつています。理想や統一や平和、これらは何でしょうか。それは、一つの世界だということです。その一つの世界の中心は何でしょうか。このすべてのものに、愛が中心となつていなければならないというのです。

 共産世界が平和の世界ですか。民主世界が平和の世界ですか。いくら組織が統一されたとしても、愛がなければ、それは統一世界になることはできないというのです。愛がなければなりません。(一二四−二五、一九八三・一・六)

 皆さんが創造の偉業を相続すれば、真の愛の権限をもつのです。創造の偉業を相続することによつて、強い真の愛を相続することができる権限が生じるのです。真の愛ならば、できないことがなく、成されないことがありません。怨讐も愛することができるのです。真の愛の力は、闘いや強制ではなく、自然屈服させるのです。これ以上に強い力はないというのです。これ以上の理想的な基準はなく、これ以上の平和の基準はありません。

 それでは女性たち、澄まし屋の女性たちは、何に完全に屈服したいと思いますか。トゥルーマン(真の男性)もトゥルーラブ(真の愛)も同じです。トゥルーマン、トゥルーラブしかありません。真の愛には不可能はありません。かじりついてもすべて消化してしまうのです。すべてが歓迎します。飾りでもそのようなものを一つつくっておかなければ、仮のものでもそのようなものを一つつくっておかなければ、世界が「平和の世界だ」とは言うこともできないのではないかというのです。(一二四−九四、一九八三・一・三〇)

 平等権をどのようにして主張するのでしょうか。力で、外的に、そうでなければ情的にですか。愛です。愛をもてば、男性と対等になることができ、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になることができるのです。愛をもつたところには、すべてのものが平等になることのできる内容があるという事実を知らなければなりません。そのような意味で、愛を中心に平和の家庭を願う男性と女性に、平等となる中心の核があるという事実を私たちは知らなければなりません。

 男性は、外に出ていつていくら歩き回つても、家に帰るときには、「私は愛する妻の家に帰る。愛する妻の懐に帰る」と思うのです。また、妻は、いくら座つていても、「愛する夫よ、私の懐に入ってきてください」と思うのです。それが平和であり、それが平等です。ここで一つになるのです。夫は、妻の懐に帰ることを願うのであり、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。ここには、低いものもなく、高いものもありません。それこそ、イコールを体験するのです。他のところにイコーリティー(平等)がありますか。どこか他のところにイコーリティーがあるか調べてみなさいというのです。

 男女の平等権は、平和な家庭においてのみ形成されるということを知らなければなりません。(一二九−四九、一九八三・一〇・一)

 歴史的に人類は、平和を念願してきましたが、この地には、依然として戦争が存続しています。不幸にも、強大国や権力者たちは、時々「平和」という言葉を誤用してきました。彼らは、平和をうんぬんと言いながら、実際には、内面的にあるいは外面的に、人々を平和でないものによって苦しめてきました。特に共産主義者たちは、挑発に没頭しながら、平和という言葉を口癖のように遣ってきました。このように、平和という言葉は、ただ不義を実現する手段として利用されてきたのです。

 真なる平和は、知識や富、そして社会的地位や政治的権力のような外的な条件にかかっているのではありません。世の中では、世界的関心事を公平に判断する絶対的基準がないので、変化する世界の中で衝突する利害関係に縛られて、真なる平和が不可能なのです。真の平和は、ただ「真の愛」の基盤の上に立て得るのであり、愛の関係は、人類を一つに結ぶ神様を中心とした絶対価値を理解するときにこそ、体験し得るのです。(一三〇−一〇、一九八三・一二・一八)

 真なる愛をセンターとして主張する自由は、永道の自由であり、その真の愛を中心として始まる平和は、永遠の平和であり、幸福も、そのような幸福は永遠の幸福であり、それを中心として全体が統一されれば、それが永遠の統一になるという結論が出てくるのです。そのようになれば、永遠の平和が永遠の社会と世界にまで連結されるというのです。(一三〇−一四六、一九八四・一・八)

 黒人と白人が神様の懐で一緒にいるときは、自分たちで一つになるまいとしても一つになるのです。お互いに同化するのです。そのような人類、そのような国、そのような家庭がどれほど平和で、どれほど幸福な理想型だろうかというのです。なぜ、どうしてそうなのでしょうか。すべてが神様に似たのです。

 すべての人は、愛の中で世界の人と暮らしたいと思うのです。真の愛と共に暮らしたいと思うのです。これが正道です。これは、誰も変えることはできません。永遠です。いくら困難でも、この道を選ぶようになるのです。この道だけが平和の道であり、天国に至る道です。他の所には道がありません。唯一の道です。(一四九−三〇六、一九八六・一二・一四)

 「笑うおじいさんの顔には詩情が宿っている」、「泣くおじいさんの顔には詩情が宿っている」、どちらが正しいですか。笑いが行く道には平和の国が展開し、笑いがよく行く所には平和の天国が展開されますが、笑いが続かない日には、平和の天国が地獄に化けてしまうというのです。それはどういうことかというと、愛の正道に従っていけば、天上でも地上でも天国が展開し、愛がしっぽを振って行ってしまえば、天上世界にも地上世界にも、悲運の歴史が、悲運の天地が展開するのです。(一三九―二七、一九八六・一・二六)

 宗教は、世界的なものを指向します。人類というものを表題として、その基盤の上に平和の基礎を築いておこうというのです。しかし、世界平和は、人間だけを中心とした平和ではありません。神様がお喜びになることができるものでなければなりません。神様が願われる平和の基準と人間が願う平和の基準が一致する場です。何を中心として一致するのかということが重要です。

 人間の世の中が、愛を母体として愛の文化圏と愛の世界観をつくったのなら、その世界は、今日の弁証法を主張する共産主義者たち、彼らが言う「血を流す解放」という言葉はあり得ません。人だけを中心とした民主主義というものは、すべて怪しげなものです。

 球形は、前後を分別できない反面、中心が明確です。球形は丸いのですが、中心が明確なのです。すべての作用は、この中心を通さなければなりません。ここに関係を結ばなければなりません。これが何の中心でしょうか。絶対的な愛の中心でなければなりません。ですから、ここには、平和の起源があり、幸福の起源があり、全体の完成の起源があると思うのです。(一三九−六一、一九八六・一・二六)

 人間が最も必要とするものは何でしょうか。神様が最も必要とされるものを人間も必要とするのです。それゆえに、人間世界がそれを成し遂げることができない限り、完全な幸福の基準は見いだすことはできません。愛を抜きにして、どうして幸福があるでしょうか。平和というものが、愛を抜きにしてあり得ますか。搾取して、心が異なり体が異なって幸福を見いだすことができますか。同等な位置、平等な位置に引き上げることができる力がないのに、お互いが幸福でいることができますか。何か可能でしょうか。どこでも、どのような場でも、完全な愛と相対圏を成し遂げるときには、対等な価値圏を付与される特権があるのです。ですから、神様の愛と完全に対等な関係を結んだならば、主体がもったすべての所有権は、私のものになるのです。それは、驚くべき事実です。(一四一−一〇八、一九八六・二・一九)

 なぜ愛が必要なのでしょうか。神様の愛を迎え入れず、神様の愛と因縁を結ぶことができなければ、天国に入っていくことはできません。あの国に行くことができないのです。それで、愛が貴いので愛を立てようとするのですが、「ため」に生きる愛を行わなければなりません。創造の原則も、神様と共になしたので、「ため」に生きる愛は、与えて忘れ、また与えて忘れなさいというのです。そのようにすることができる夫婦、そのようにすることができる国、主権者とお互いに「ため」に生きることができる人、世界がお互いに「ため」に生きることができる一つの兄弟にならなければなりません。神様を中心として、過去の人、現在の人、未来の人がお互いに与えて「ため」に生きることができる愛こそが、この世界を平和の境地に導くことができるのです。(一四三−二八三、一九八六・三・二〇)

 愛して何をしようというのですか。女性も男性も、神様の愛を受けたのちには、宇宙の相続権を受け継ぐことができるということは驚くべき事実です。皆さん、それが願いでしょう? 天地の主人になるのです。レバレンド・ムーンは、悲惨な生涯を経てきましたが、そのことを知っていたのです。世界の人がレバレンド・ムーンを見て、「神様の愛を受けるな!」と懇切に願う環境が過ぎ去り、今から、「どうぞ、そのようにすることができる立場で、神様の愛を受け、宇宙の相続権を受けてください」と、万国が褒めたたえることができる日になれば、天下は平和の世界になるでしょう。(一四三−六六、一九八六・三・一五)

 真の愛が行く道は、ただいい加減に行く道でしょうか、ある一定の変わらない一つの法度を通して行く道でしょうか。それが適当に自分勝手になっているでしょうか、ある秩序と方向性と目的性をもっているでしょうか。間違いなく一つの方向性、明確な一つの方向性、過去、現在、未来において混沌とするのではなく、過去もそうであり、現在もそうであり、未来もそうでなければならないという方向性がなければなりません。ですから、その真の愛がある所では、一つの目的が成し遂げられ、喜びと平和が成し遂げられなければなりません。(一六一−二九三、一九八七・三・一)

 人間の愛が中心をつかめば、その愛を中心として万物が和動しながら、平和の世界が出発するようになるのです。アダムとエバが神様の愛を中心としてどのようになるのでしょうか。アダムとエバの心の中に神様の愛が入っていき、その夫婦が神様の愛を中心として愛し合うことによって神様の血筋になるのです。既成教会の牧師たちは、今でも神様は聖なるお方であり、私たち被造物は汚れているとばかり考えています。それは、分からないからそのように考えるのです。

 愛は一人ではできません。神様でも、一人では愛することはできません。あるおじいさんがノーベル賞をもらい、博士学位を何百個もっていたとしても、おじいさん一人では平和がありません。喜びがありません。愛らしい孫を抱いて、そこに幸福を感じるのです。ですから、男性と女性が生まれたのは愛のために生まれたのですが、なぜ男性と女性が結婚するのでしょうか。神様の愛を求めるためにするのです。神様の愛を手に入れる日には、神様と同等な立場に立つのです。(一六四−一四九、一九八七・五・一〇)

 人には欲望があるので、何を最高の希望峰としてふいごで風を起こさなければならないのか、ということを考えるようになるのです。結局、「あは! 宇宙を自分のものにすることができる同等権があるのだなあ」ということを知るようになるのです。最高の圏である神様の一つしかない愛を占領しなければならない立場にいることを知っているので、人は、世の中のことはすべておいてそのために行くのです。神様の愛まで占領する日には、平和は自動的に訪れるのです。幸福も自動的に訪れます。(一六〇−二三六、一九六九・五・一七)

 心情を激しくたたけぱ音がしますか、しませんか。いくら速く大きくたたいても音がしません。そのようになるのです。いくら怒っていた人でも、愛の中にいれば音がするでしょうか。愛の中には障壁がありません。それゆえに、愛以外には占領する秘訣はありません。愛でなければ、平和を建設することができないというのです。音がすれば平和はありません。音がする所は、再び破壊の因縁が台頭してくるのです。(一五八一一八、一九六七・一二・二七)

 絶対者神様も、絶対的な平和、絶対的な幸福を要求されるので、それをもたらすことができるものは何でしょうか。お金ですか。お金はいくらでもつくることができます。知識ですか。神様は、知識の大王です。権力ですか。神様は、全知全能です。それでは何でしょうか。愛です。真なる愛です。絶対的な神様も愛に絶対的に侍られるのです。(一九六−三一九、一九九〇・一・一二)

 自分が一番だと思っていても、他の人が見れば一番ではありません。自分を中心としては、一番悪いものを一番だと思ってしまうのです。しかし、五色人種の前に共通分母として喜ばれるものは何かというとき、もちろん食べるものも喜び、着るものも喜び、住むものを喜ぶでしょう。しかし、それは、いつも平面的であり、恒久的なものになることはできません。自分の生涯を中心として、永遠の存在性を維持させるにおいて、何のプラスにもなれないのです。それゆえに、人間自体が永遠に存在するためには、必ず男性は女性が必要であり、女性は男性が必要だというのです。そして、愛という土台を中心とする関係を通した平和の基地を準備しなければ、そこには家庭もないのであり、民族もないのであり、世界もないのです。(一九三−一三三、一九八九・一〇・三)

 万年平和の原料、麹のようなものが真の愛です。女性の口に愛のイースト(酵母)さえ入れれば、これが大きくなり、「アヘンよりも良く、お酒よりも良い。ああ良い、ああ良い!」と言うのです。(一九三−三九、一九八九・八・六)

 愛の主義は、二人の闘う音がしません。愛の音を出して、「私たちの生活は平和だ、私たちの生活は統一だ、私たちの生活は和合だ、私たちの生活は理想的愛で不変だ」と言うことができる、このような愛の理念を中心として、永存、永生を連結させて初めて幸福なのであって、愛が抜かれた場では、永生という概念も意味がないというのです。なぜ愛だけが可能なのでしょうか。愛でのみ統一することができます。愛の統一から理想的永生圏が展開するのです。そのようになってこそ、「あなたと共に永遠に暮らしたい」となるのです。(一九一−二二〇、一九八九・六・二五)

 終わりの日は、父母の時代です。カイン・アベルの兄弟時代は闘うのです。闘いの歴史です。これが父母の時代に変わるときには、闘いが終わります。今後、父母時代が連結されるのですが、それが正道令(注:神様の正しいみ言をもってこられる方という意味) の思想とも合うのです。父母時代が来るので、父母に侍る家庭にいる子女たちは、闘うことができません。そのような愛の天理を十分に知る日には、東に行っても西に行っても、闘う相手を探し出す道がありません。そこに平和の世界が来るというのです。

 おじいさんの頭の上に孫が上っていっても、愛する孫を嫌いますか、好みますか。「早く上がってきなさい。早く、早く、上がってきなさい」と言うのです。愛の場においては、愛があなたと私の主人です。真なる愛に永遠に支配されない限り、幸福にはなれません。支配されると回るのです。「ああ、私は上に上がってきた、下にいると思っていたのに。ああ、東側に来た。ああ、西側に来たなあ」と言うのです。そこに平和と幸福があることを、理論的に設定することができるという結論を下したとしても、一人として反対する者はいません。(一九一−六三、一九八九・六・二四)

 万民は統一の世界、万国は平和の世界を願います。その平和は、黄金を中心とした平和ではありません。それは、闘いが起きます。皆さん、西部劇を見たでしょう? ゴールデン・ナゲット、金塊を求めていく群れは、最後には命を懸けて決開戦を繰り広げ、二人とも川に浮かぶ死体になって毒蛇のえさになるのを見たでしょう? 同じことです。何によって統一するのですか。統一すれば、また何によってそれを防止するのですか。防止策はありません。真の愛によって統一するときには、永遠に防止することができます。「そこを離れなさい」と言っても、離れません。いくら、「こいつ、離れなさい! 国境を越えなさい!」と言っても、越えていかないのです。絶対に越えていきません。(一九〇−一二五、一九八九・六・一八)

 皆さんは、全員個性真理体でしょう? 愛は、すべて共通真理体です。この思想は、愛を抜かせば何にもなりません。統一も、平和も、自由も、愛を抜かせば何もないというのです。妻と夫の自由とは何ですか。裸になることです。裸になることが解放でしょう? また、妻と夫は、自分の一番の秘密の場所を占領してしまっても、それは自由でしょう? 愛がなければ、それは可能ですか。人間の根本を占領することはできないのです。根本の自由解放圏は愛です。(一七九−一〇一、一九八八・七・二二)

 愛は、宇宙のすべての生命の源泉であり、すべての理想的な管理の源泉であり、すべての連合の源泉です。すべてのものの源泉です。愛を抜かしては、幸福や平和というものはあり得ません。

 人間世界で真の愛を完成すれば、政治的にも、文化的にも、環境的にも、何の問題があるでしょうか。真の愛の世界では、解決できない問題がありません。真の愛の世界は、すなわち歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限であり、そして永遠に拡散する世界になるのです。今日の世界人類が抱えている難問題は、真の愛の完成によってのみ、根本的な解決が可能なのです。(二九四−六五、一九九八・六・一一)

 統一と平和は、誰もが好みます。しかし、お金で統一をすることはできません。それでは、五態とすべての細胞が一つになって一つの方向に向かうようにすることができる力とは何でしょうか。そのような力は、真の愛の力しかありません。ただ真の愛だけが統一と平和を成し遂げることができるのです。(二八八−八四、一九九七・一一・一六)

 愛を抜かせば一体理想も壊れていき、愛を抜かせば平等思想も壊れていくのです。天地が和合だ、和動だ、平和だというのは、どこにも欠如したところがなく、満遍なく和したもののことではないですか。それでは、何をもって和することができると思いますか。これを考えてみるときに、愛を抜かしては何もできないということを知ることができるのです。(二〇九−二九、一九九〇・一一・二五)

 神様は、絶対者的、独自的な理想論は立てることができますが、相対的理想論は、展開することができません。それゆえに、平和の理論基地はどこで見いだすのかというとき、神様の絶対独自的な立場では、不可能なのです。ここで神様が相対的理論版図を接ぎ木しなければならないのですが、そのようにし得るのは何かというと、愛だというのです。愛という論理から、愛に満ちた相対者の創造ということを中心として、その創造の対象者が自分よりも立派であることを願ったのです。これは、驚くべき事実です。(二二九−三一九、一九九二・四・一三)

 平和の基準、統一の基準は、他の所にあるのではありません。南北が統一され、世界が統一されたとしても、皆さんの心と体が闘っているとすれば、それと何の関体がありますか。平和の基準、南北統一の基準は、皆さんの心と体の闘いを止めるところから始まるのです。何をもってこれを止めるのですか。国力や金力ではできません。知識力でもできません。権力でもできません。唯一真の愛です! 真の愛は、すべてのものを一つにします。その愛は、「ため」に生きる愛です。生命以上に投入しなければなりません。(二一九−六六、一九九一・八・二五)

 女性のユートピア、女性の絶対的平和は、どこから見いだそうとしますか。男性のユートビアをどこで見いだすのですか。男性の幸福、男性の平和、男性の喜びをどこで見いだそうとするのですか。これは重要な問題です。

 女性のユートピアは、男性を離れてはあり得ません。女性の幸福は、男性を離れてはあり得ません。女性の平和は、男性を離れてはあり得ないというのです。女性と男性の間には愛があるのでそうなのです。愛なくしてはできません。男性がいくら優秀で、女性がいくら優秀でも、相対がいなければできません。愛というものを中心として、すべてのものが決定されます。男性に出会うことによって愛を知り、女性に出会うことによって愛を手に入れるというのです。その愛がユートピアの起源であり、幸福と平和の基地になっているのです。

 絶対的な存在である神様に、絶対的な愛があり、絶対的な平和と絶対的な幸福がそこにあると考えるのですが、変わる神様ならば、その神様が絶対的な幸福の基地になることができ、愛の理想基地になることができるのかというのです。もし神様が変わる基地ならば、不変の愛がそこにとどまることができますか。できません。不変の平和がそこにありますか。ありません。不変の喜びがそこにありますか。ありません。神様御自身は、絶対的で不変の標準です。一つの中心です。そこから不変の愛、不変の平和、不変の幸福、不変の喜びが連結されてくるのです。これは、重要な結論です。誰もこれを否定することはできません。これは、一つの公式であり標準です。(二〇五−二〇二、一九九〇・九・二)

 天理の大道を代表することができるのが愛です。宇宙の中心となる愛です。絶対的神様も、絶対的に服従して奉仕したいという思いをおもちになるでしょうか、おもちにならないでしょうか。神様が絶対的神様であるならば、そこにおいても王にならなければならないのではないですか。このような論理を否定することはできません。絶対位置にいらっしゃるので、また全知全能のお方なので、仕えなさいというだけでなく、仕えることにおいても大王にならなければなりません。その論理を否定すれば、それは独裁的絶対者です。そこには、平和もなく、論理的根拠も立てることができないのです。答えが出てきません。答えといえば、ただ神様が独裁的存在だという結論だけです。和合という結論、妥協という結論、自由という結論は、すべてなくなるのです。(二〇四−二九、一九九〇・六・二九)


四 絶対価値と平和

 人間の意識革命を通して、人間は、すべての人類の平和な共存のために、非常に創造的で生産的な方法によって、その研究結果を用いるように導かなければなりません。人間の理想は、ただ個体目的と全体目的を完全に調和させるときにおいてのみ実現することができるのです。

 人間は、その生命を意味あるものとするために、宇宙においての絶対価値の求心性を理解することができなければなりません。すべての人類が、国家や氏族を超越した兄弟姉妹であり、一つの人間家族として生きていく新しい世界秩序を確立することによって、私たちは、真なる平和と幸福の理想世界を享有することができるのです。(八一−九一、一九七五・一一・二八)

 皆さんも、既に明確に御存じのように、今日の世界は、ますますより混沌した状態に陥っていきつつあり、これに比例して、日ごとに人類は、平和をより一層渇望しているのです。それでは、平和は、どのようにして達成するのでしょうか。今日の世界は、秩序が破壊された状態にあります。したがって、平和を成し遂げるということは、破壊された秩序の回復を意味するのです。秩序を回復しようとすれば、主体と対象は、彼らの位置を知らなければならず、相互に統一された関係を確立しなければなりません。

 平和は、世界的水準においてのみ要求されるのではなく、国家、社会、そして家庭の水準においても同じように願われています。さらには、個人までも、心と体の間の平和を渇望しています。このような平和に対する多様な水準の中で、どれが最も先に成し遂げられなければならないのでしょうか。先に世界平和が成し遂げられれば、その基台の上に国家、社会、家庭、そして結局は個人の平和も成し遂げられるだろうと考えやすいのです。しかし、これは、間違った見解です。

 それは、実際に平和を成し遂げるにおいて必要な順序の反対です。先に個人的な平和が成し遂げられなければなりません。その次に、家庭の平和を成し遂げることができれば、このような基盤の上においてこそ社会と国家、そして世界の平和を期待することができるのです。これは、個人が家庭の根本単位であり、家庭は社会と国家の基本単位だからです。

 多くの指導者たちは、優れた組織と立派な思想を通して社会秩序と世界平和を回復することができると信じています。しかし、現実において、ただこのような二つの手段だけでは、人類の平和は、絶対に実現することはできません。国連のような国際機構と、共産主義や民主主義などのような思想体制は、彼らなりの方法で世界平和を実現しようとしてきました。しかし、平和は、いまだに遥遠であり、世界は、時間がたつほどますますより混沌状態に陥っていきつつあります。(一一〇−二四九、一九八〇・一一・二七)

 平和に対する追求が個人の平和から出発しなければ、それは、再び失敗せざるを得ません。それでは、個人の平和は、どのようにすれば成し遂げられるのでしょうか。それは、個人が絶対愛を所有し、それを実践することによって成し遂げることができるのです。なぜならば、愛は、すべての統一の前提条件だからです。統一は、愛の基台の上で成し遂げられ、平和は統一の基台の上においてのみ達成されるのです。

 相対的な愛によっては、決して統一を成し遂げることはできません。ただ絶対愛によってのみ統一は可能なのです。個人は、絶対愛によって心と体が一つになるとき、ここで平穏、喜悦、満足、甲斐などを体恤するようになるのです。

 一つの家庭において、父母と子女、夫と妻、兄弟姉妹などが各自の位置において絶対愛を実践するとき、その家庭の統一は成されます。このようになるとき、その家庭には、幸福と調和、そして何よりもまず平和に満ちあふれるのです。

 したがって、このような平和の家庭が集まって形成する社会は、また平和の社会になるのです。家庭がお互いに調和を成し、お互いに助け合えば、その社会は疑う余地がなく、明るく平和になるでしょう。なぜならば、秩序が確立し、統一が成し遂げられるからです。このような平和の社会が集まって統一が成される国家は、間違いなく平和の国家になるでしょう。

 国家というものは、様々な社会の単純な集合だけで成し遂げられてはいけません。それは、愛の個人と愛の家庭を基盤として成立した有機的な構成体でなければなりません。そこで完全な秩序と統一が成し遂げられなければならず、その時に国家には真なる平和が実現されるようになります。

 これを言い換えれば、国家が平和を実現して維持するためには、やはり神様の愛を必ず必要とするという意味です。いくら国家の基礎となる家庭が絶対愛の中にあるとしても、有機体としての国家は、国家的な基準で絶対愛を実践することができなければなりません。その次に、政府と国民は、内的に統一体を成さなければならず、外的に隣国と絶対愛によって一つになることによって、国家間に真の平和が立てられるようになるのです。

 世界の平和は言うまでもなく、すべての国の平和が成し遂げられるとき、これを基盤にしてこそ成就されるのです。各国が、貿易や交流の面で国家の利益だけを優先する国家利己主義を清算し、絶対愛をもって他国と世界に奉仕する国家になるとき、そして、各国がそのような国際的な風土を恒久的に継続するとき、人類の永遠の平和が保障されるのです。(一一〇−二五〇、一九八〇・一一・二七)

 世界の平和は、個人の平和から始まり、家庭的平和を経て、社会、国家の平和に拡大されたのちに初めて樹立されるということを、明確に知ることができます。このような観点から、私は、絶対愛と絶対価値に対して言及しようと思います。真・善・美などの価値は、愛を土台として形成されます。例えば、愛の実践は、善として評価されます。すなわち愛が実践されるとき善として現れます。ですから、神様の愛である絶対愛を実践するとき、そこに絶対善が現れるようになるということは自明なことです。

 平和のために、絶対愛を実践する個人の行為は、善(絶対善)です。同じように、平和のために愛を実践する家庭の行為も、やはり善です。社会や国家、世界においても同様です。言い換えれば、個人、家庭、社会、国家を問わず、真なる平和を樹立するためには、絶対価値、すなわち絶対真、絶対善、絶対美を実現しなければなりません。特に、絶対的な善の実践が切実に要求されます。そのようになれば、秩序を乱し破壊するいかなる悪の要素も介入することができないからです。

 ところが、真・善・美などの精神的価値は愛を土台として成立するので、絶対愛、すなわち神様の愛を知らなくては絶対的な真・善・美は実現することはできません。このような絶対価値が実現されていないところに真なる平和はあり得ません。ゆえに、人類の真なる平和のためには、絶対愛が実践されなければなりません。しかし、絶対愛が実践されるためには、先に絶対愛に対する理解がなければなりません。(一一〇−二五二、一九八〇・一一・二七)

 私は、先において、絶対愛は利他的であり、全体に奉仕する愛であり、永遠不変であると言いました。それでは、なぜ絶対愛が利他的であり、不変なのでしょうか。なぜ平和は、ただ愛を通してのみ成し遂げられるのだろうかという疑問を解かなければなりません。

 このような疑問を完全に解くためには、絶対者がどのようなお方であり、そのお方が宇宙と人間を創造された動機と目的が何かということが明確にされなければなりません。創造の動機と目的は、愛の実践、平和の樹立において不可欠の標準となるからです。おおよそ、いかなる計画であっても、それが実践されようとすれば、必ず一定の目的が先に立てられるようになります。目的を立てない行為は無意味なのです。

 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するようにつくられたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らかにしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そのお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。

 このように思うとき、人類の真なる平和のためには、絶対者を正しく理解することによって、そのお方の愛を実践することができるようになり、結局は、そのお方の絶対価値を実現することができなければならないという結論に到達するのです。(一一〇−二五三、一九八〇・一一・二七)


五 善と悪、そして平和

 善なるものは、宇宙が保護し育成します。自由と解放と平和が宿っています。そして、そこに精誠が共にあるので、引力が生じるということを知らなければなりません。(一六−一三二、一九六六・一・二)

 皆さん、良心が作用するようになるとき、恐ろしいですか、恐ろしくないですか。天下に恐れるものはありません。そこには、権勢があるというのです。善は、この宇宙が保護して育成し、自由と平和が宿っており、生命と権勢が共にあるのです。これを屈服させることができるものは、天地に何もないというのです。ここに異議がありますか。善になるときには、大統領も恐ろしくありません。どのような六法全書が作用したとしても関係がありません。いくら刑法がたくさんあっても、その法とは何の関係もないというのです。それゆえに、世の中の法は、良心の基準を通過することはできません。すなわち世の中の法は、善の権限を侵犯することはできない、という結論が出てくるのです。(一六−一三四、一九六六・一・二)

 道とは何でしょうか。心と体が相応することです。善とは何でしょうか。自分を中心として、隣人と共に相応することです。平和と平等は、すべての人類が願う共同目標です。すなわち世界は、何から出発するのでしょうか。相応相合することができる道と真理から出発しなければなりません。それゆえに、新しい真理とは何でしょうか。天と地が相応することができ、上下、高低、前後、左右を問わず、立体的な世界にとどまるいかなる存在とも相応することができる原動力と内容が備わった世界観と人生観と生活観をもつことができる主義だけが、人類世界の終末に残ることができる絶対的な真理なのです。歴史は、相応から出発したのではなく、相克から出発したので、この歴史は、破綻と悲哀で幕を下ろさざるを得ないというのです。(一七−一二〇、一九六六・一二・一一)

 悪は制裁を受けるのです。制裁を受ければ、どのようになるでしょうか。そのようになれば、悪はなくならなければなりません。悪には、平和とは反対に不安と恐怖があるのであり、生命の代わりに死亡の権勢があるのです。(一六−一三五、一九六六・一・二)

 善の基準は、愛の中心である神様です。今日、全人類が苦痛と混乱の現実を抜け出そうとこれほど身もだえし、自由と平和をこれほど渇望しているのは、人類の本心が善の基準を探し求め、愛の中心を探し求めていることを表しているのです。愛の中心を求めて地上に永遠の幸福の世界を成し遂げようとすることが、万民共通の願いであり方向なのです。(六五−二六〇、一九七二・一一・一六)

 数多くの人々が善を願っているにもかかわらず、いまだにこの世界は悪の世界です。この悪の世界を善の世界にすることは、今日の人類が共通に解決しなければならない重大な問題です。これを解決する前に平和が訪れることはできません。悪を除去してしまう前には、新しい天国と新しい理念の世界を建設することはできないという事実を、私たちは否定することができません。(一六−一〇五、一九六六・一・二)


六 自由と平和

 今、この世界の人類は、平和を期待しています。さらには、自由を享受する個人となり、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを、誰彼を問わず願っています。

 私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真なる幸福はあり得ません。真なる人生の道を歩んでいこうという人がいるとすれば、彼は、真なる平和の中で真なる自由を謳歌し、真なる幸福を享受することを願うでしょう。

 今日、優れた人も愚かな人も異口同音に、「この世界は平和の世界になっていない」と言っています。自由を叫んでいますが、心情からあふれ出て生きることができる自由な環境になっていないことを自認しています。それゆえに、私たち人間は、理念的に期待する幸福の自我になることができていないという事実を否定することはできません。

 そうでありながらも幸福を期待しなければならず、そうでありながらも平和と自由を期待しなければならない、私たちの心情的動きが自分を催促しており、環境を催促しているという事実を、皆さんは、生活圏内でよく感じていることでしょう。(七−一四、一九五九・七・五)

 アメリカは、自由を叫んで滅びました。自由には原理原則があります。平和というものは、一人でいるときにはあり得ません。平和というものは、相対がある形態において完全に満たされることを意味します。そうだとすれば、自分の自由だけのために「あなたは嫌いだ」と言うのは自由ですか。違います。他のために生きることが宇宙の願う自由です。(一八七−九六、一九八九・一・八)

 皆さんは平和、幸福、自由という言葉を言うのですが、自由とは何でしょうか。最近の一般の人が言う自由とは何でしょうか。「自分の思いどおりにすることが自由だ」と言うかもしれませんが、その自分の思いどおりにということがどこまで続くでしょうか。人が生きるのは百年にもならないのですが、その百年まで求めていく自由ですか。もし法がなく、思いどおりにすることが自由ならばそれは何でしょうか。

 このように思うとき、すべてのものは、起源が良いものを訪ねていくのです。また自由な所を訪ねていきます。幸福なものを訪ねていきます。それが、自由が自由で、幸福は幸福で、平和は平和で、それぞれ別々の道を行くのではありません。これが歩調を合わせて行かなければなりません。平和の中に自由がなければならないのであって、自由の中に平和がなければならないのですか。考えてみてください。自由の中に平和はあり得ません。平和は、二人がお互いに和するのです。それは、お互いが譲歩するときに可能です。主体と対象が食い違っていっているのですが、欲心をもった人間が与えたいと思い、譲歩したいと思いますか。このようなすべての素性をどのようにしなければならないでしょうか。それゆえに、自由の規定を理解しなければならない時が来ました。(一八二−一一一、ー九八八・一〇・一六)

 統一された基盤の上に立たなくては、自由はあり得ません。心と体が闘っているのに、自由のふろしきをもち、自由にしがみついて「うれしい」と言うことができますか。自由が生じるのかというのです。とんでもないというのです。また、平和がどこにありますか。平和というものは、平坦な状態ですべてのものが欠如することなく充満して自由なのです。ところが、心と体が闘っているのに平和がとどまる所がありますか。幸福も同様です。幸福、幸福、良いでしょう。心と体が闘っているのに、幸福を求めることができますか。とんでもないというのです。

 このようなすべての根本問題をおいて見るとき、心と体が完全に一つになる場においてのみ、自由を維持することができるということを知らなければなりません。心と体が一つになることができる場においてのみ、平和の基盤が生じるのです。心と体が一つになることができるところだけに幸福が展開するのです。夫の心と妻の心、夫の体と妻の体が一つになることができるところにおいてのみ、家庭の平和を中心として、世界に対する夢を見ることができるということを知らなければなりません。

 牧師と長老が闘いながら礼拝をすれば、そこに平和が訪れると言うことができますか。そのようなところには、神様は絶対に来られません。そこは、既に悪魔の巣窟となり、悪魔の網の中にいるという事実を、皆さんははっきりと知らなければなりません。(二三二−一八九、一九九二・七・六)

 サタン世界の愛を中心としては自由がありません。平和がありません。幸福がありません。希望がありません。永遠の生命がありません。それを蕩減復帰しなければなりません。物権、人権、愛権を復帰することによって、そこで自由が生じるのです。ですから、心と体が一つにならなければなりません。人権を還元しなさいというのです。心と体が一つに統一された基準においてのみ自由があります。

 おじいさんと孫嫁が一つになれば、秘密裏に扉を開いて入っていこうと、どこに行こうと関係ありません。垣根がなくなるというのです。そのように一つになってこそ、自由があるのです。自由がなければ平和がありません。今、サタン世界にある自由をすべて還元し、平和をすべて還元して天の前に転換させなければなりません。その次にこそ、幸福、希望、永遠の生命があるのです。これをすべて還元する原則から、物権、人権、愛権を天の前に接ぎ木する、そのような本然の場に入っていってこそ、自由の理想、平和の理想、幸福の理想、永生の世界が訪れるのです。(二二九−三五五、一九九二・四・一三)














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